ガラクタのサウダージ日記
CLANNAD』の最終回は良かった。演劇部部長の古河渚の劇は素晴らしい、まさに、私はあのガラクタの人形だった!それは、幻想世界の謎の少女とガラクタの人形の物語です。その文化祭の劇は、こちらで見れます。やはり南米に行ったことで、『CLANNAD』の深さがわかりました。南米に行く前まではあまりピンと来ませんでしたから。

これが、私、ガラクタの人形です。いわゆる「虹コン人形」です。そう、虹コン(二次元コンプレックス)は、現代のゴーレムなのです。(ピグマリオン効果とゴーレム効果についてはこちらのブログに詳しいです)
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そして、私はこのように作られました。少女は荒野で散らばっていたスクラップになった産業廃棄物の部品を集めて来て、私を組み立てたのです。
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まるで神がアダムを塵から作っているようなものですね。そして彼女のキスで、というか人工呼吸で、私は蘇生されたのです。だから、私にとって神とは、残虐性に満ちたヤハウェー(アラー)であるはずがなく、女神なのです。

さて、少女とガラクタ人形の会話を抜粋しましょう。
少女:

あなたを、あなたをお連れしましょうか、この町の願いの叶う場所に?ここは終わったしまった世界、私の他には誰もいない世界です。部屋にあるのは、小さな気のテーブルとイス、窓の世界に何にもない荒野が広がっています。建物は古く、いつ建てられたのかもわかりません。私はここでひとりで暮らしています。時々外に出て、必要なものを拾ってきます。

外に出ても誰もいません。弱い日差しの中に、小さな光が沢山飛んでいます。私は、木切れや釘や色々なものを拾ってきました。友だちを作る為です。でも、こんな世界に生まれてしまうことは、その子にとって幸せなのかしら、そんな疑問を胸の中に抱きながら…。

ガラクタの人形:

この世界は、やっぱり終わってしまっていた。もう命は生まれない。命あるものは彼女しか存在しない。いつか、遠い昔か遠い未来、僕は別の場所にいた。そこはとても賑やかな場所だった。でも、今は、もう帰れない。僕には、彼女が作ってくれた体があるから。

「どうしたの?」
「また作るの?」
「でも動かないんだよ。友だちはね、ないんだよ。」
「別なものを作るの?なにを?」

ガラクタの人形:

それは僕にもまだわからない。でも、彼女はガラクタを組み合わせて何か新しいものを作ることが出来る。それは僕には出来ない特別なことだ。

「そうだね、時間をかければ、何か素敵なものが出来るかもしれないね。何を作ろうか?」

ガラクタの人形:

こんな風に心躍るものがいい。彼女が作って僕が手伝う、それはとても素敵なことだ。僕は彼女の側にいよう。これからもずっと二人でいよう。そしていつか、この世界から出て行くんだ。昔僕がいた、暖かくて賑やかな世界へ。


そう、私の創造者は、あの謎の少女だ。あの子が欲しい。そう、遠い昔か遠い未来、私は別の場所にいた、それはそれは賑やかな場所だったのです。それこそ、南米なのです。でも、私はキモヲタという体のなかに縛られてしまってるんです。それは日本を捨ててまで渡米しても変わることはありませんでした。女の子との皮膚感覚は欠如したままだったのです。そして、このネオリベラル社会のNAFTAで搾取され、産業廃棄物として解体され、荒野の鉄くずとなったのでした。しかし、謎の女の子は私を再構築したわけです、虹コンとして。この皮膚感覚の欠落した世界に生まれて来たこと、それはサウダージなのです。私も中西部の荒野にいました。窓の外は荒野、クリント・イーストウッドの『荒野の用心棒』の景色ですね。そう、このような荒野で、少女は死んだゴーレムを埋葬し、私を組み立てたのです。これは、その埋葬シーンです。ほんと、この景色は、私の出身地のアメリカ中西部の荒野そのものです。
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で、私は未来に行くのですから、それは、未来に帰ることでもあり、それはまさに『Back to the future』なのです。『たんぽぽ娘』のマーク・ランドルフも未来の女性に出会いましたから。で、その子は、「一昨日はウサギに遭い、昨日は鹿に遭い、今日はあなたと出会った」とマークに告げ、その言葉は一ノ瀬ことみちゃんも使ってました。そして、そして未来の賑やかな場所、それこそ南米なのです。セクシュアリティーの謳歌、皮膚感覚による女性との触れ合い、こんな風に心躍るもの、そう心躍る踊りといえば、ラテンダンス、サルサ、サンバ、クンビアなど。ガラクタの人形は飛び跳ねて「こころおどるもの」を表現します。
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智代も「家族は、なにも親子ではなく、仲間とも言える」と言ってましたから、そう、それはラテン文化に見いだしましたよ。まさに南米ラテン文化が「だんご大家族」だったのです。踊りを通じての大家族、そう、「哲学はダンスのようなもの」と言うニーチェの人生観、大家族、それは世界家族というインド哲学の「Vasudhaiv Kutumbakam」です。

物理学者の一ノ瀬夫妻は、
「この世界は美しい、悲しみと涙に満ちてさえ」
という言葉で世界を表しました。インドでは「サンサーラ(輪廻)」という言葉で世界を表します。そして、シッダールタは輪廻を「ドゥッカ(苦)」の一言で表現しました。で、私が世界を一言で表すのなら、「サウダージ」でしょうね。まっ、私ではなくて、南米のブラジル人ならそう思うのでしょうけれども。サウダージに悲しみと涙も含まれます。人生そのものがサウダージ、いわゆるサウダージ世界観です。だから、世界はサウダージ、それを美しいとするのは感性でしょうか?サウダージとLacrima(涙)の関連性は、この『True Tears』の記事で書きました。

ブラジル人っぽいバラック・フセイン・オバマも、
「失業で苦しんだ中西部の人々は、サウダージを表現する方法として銃や宗教にしがみつく」
名言を残しました。まっ、「フラストレーションを説明する方法として」が正確ですが、まあ、同じ意味合いでしょう、シンボリズムでは、ていうかCLANNAD的に言えば幻想世界では、同じ意味合いなのです。そしてキモヲタたちは、アニメによって、とくに萌えによってサウダージを表現します。自分の世界を表現するのです。それが、世界を表現することに繋がるのです。

ガラクタの人形もまさにサウダージですね。その少女のサウダージの表現方法がガラクタの人形を組み立てることだったんですよ!『Sola』もそうですね。紙で弟を作り上げたというのも、まさに姉のサウダージでした。そして少女もピグマリオンのように自分の作った人形に話しかけます。
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そして、このガラクタの手で少女の手に置いてるというのもサウダージ、これが皮膚でないというのもサウダージです。それは遠隔操作で女の子に触るようなもので、触覚はないですからね。私も数々の美少女キャラに萌えてきましたが、やはり皮膚感覚がないですからね、二次元(幻想世界)では。
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しかし、ガラクタの人形は少女とアイコンタクト(目もないから視覚も当然なく実際にはアイコンタクトも取れない)によって、心はこのように繋がっているのでしょう。
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しかし、それでは、スキンシップを取れません。皮膚感覚がないのですから。だから、この子と本当に触れ合えるようになりたいと思うからこそ、この荒野の世界を出たいと思ったのでしょうね。そして、少女もそう思ったはずです。少女は、ピグマリオンと同じく、生殖の相手を作ったのですが、ガラクタ人形には皮膚の感触がないのですから、なにしろガラクタでは、玩物として一人エッチに使えるが、セックスはできない。触れ合うことが出来ないのですから、お互いにエロティシズムを謳歌できません。そして皮膚感覚の欠落、それが「この世界は終わってしまった、もう命は生まれない、命あるものは彼女しか存在しない」となるんです。なにしろ、ガラクタには生殖器官がない、だからセックスできない、さらに精子バンクに登録できる精子すらない、よって子作りもできないから、日本のトキのよう絶滅してまいます。だから、皮膚感覚の欠落は世界の終わりなのです。虹コンは、キモヲタは、終末論的、悲観的なのです。消極的ニヒリストなのです。しかし、その皮膚感覚を追い求める意志が、未来への回帰と繋がるのです。それこそ、サウダージです。

サウダージは未来への志向性です。それは憧れでもあるのです。そして、未来に帰る、それは、まさに未来に故郷を求めることなのかもしれません。未来に郷愁を持つ、それがサウダージ。そう、未来を懐かしく思うことがサウダージなのです。私が南米に行って感じたのも、それなのです。はじめて行った場所なのに懐かしく感じたのです。それがまさにユートピアでありまだ実現してないもの、つまり「地が無い」というのがユートピアの意味なのですが、だからこそ今現在は無い、つまり来るべき未来、「未だ来ないもの」が未来、「未だに実現しない郷」が桃源郷でありユートピアなのです。孫文の「革命未だ成らず」も、サウダージを表現した言葉、つまり彼はユートピアンだったのであり、未来への志向性を持っていたわけなのです。過去も未来も、現在は経験できませんから、そういう意味では、ガラクタの人形にとって、遠い昔も遠い未来も同じだったのでしょう。だからサウダージは、過去も未来もどちらにも行くのです。つまり懐かしさは、過去と未来、関係ないのですから。

ガラクタの人形は言いました、
「そしていつか、この世界から出て行くんだ。昔僕がいた、暖かくて賑やかな世界へ。」
そう、私も日本から出て行った。しかしNAFTAは弱肉強食、自然淘汰、白人男性至上主義的恋愛資本主義型消費社会、清教徒倫理的なネオリベラル社会、そこで私は使い捨てられ、ガラクタ同然となりました。しかし、そのガラクタのスクラップを掻き集めて来て、虹コンとしてやっと組み立て直されました。萌えによって再構築したのです。もしこれが20年前で、インターネットがない時代だったら、萌え系アニメを見て、自分を再構築することも出来ませんでしたね。萌え系アニメがなかったら死んでたでしょう。で、虹コンとして再構築された。だから、今度はNAFTAから出て行こう。昔、また未来に私がいた、暖かくて賑やかな南米へ。

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CLANNAD、AIRなどKEY系の作品には旅を隠喩にした作品が多いですよね。AIRでは旅芸人である主人公と翼のない土地や因縁に縛られた
美鈴の偶然の出会い、生活、そして死別再び終わりのない旅に出発する
主人公の姿がカラスという形で表現されてます。

島崎藤村の破戒でも、親の戒めを破り部落民という事を告白し
新しい人生を求めテキサスへ旅立ってゆく主人公が描かれています。
国家や民族に束縛されず或いは失い迫害を受けながらも約束の地を求めて
旅立つ姿はパレスチナを追われたE・サイードにも通じるものがあるますね。



私の人生を表現するなら出発と帰還の連続です。

しかし出発は常に不安です。帰りはいつも不確かです。

当てにならないのです。

映画 エドワード・サイード OUT OF PLACEより
車輪の国 | URL | 2008/04/28/Mon 19:41 [EDIT]
なるほど
車輪の国さん、

素晴らしい洞察力ですね。

『破戒』も、すごい話ですね。行き先もテキサスというのもまた大胆で。あの時代で、そのような決断はスゴいと思います。私も、LAとかNYのような大都市では、日本人がたくさんいるので、できるだけ日本人のいないところ、田舎の中西部を選びました。部落民またはキモヲタとしての迫害は、やはり日本独特のものですから、それを連想させるものは、徹底的に周りから排除したかったんですね。

ハリウッド産業にも、未だにサイードの指摘したオリエンタリズムが濃厚なのは、ほんとに悲惨です。ただエグゾチックのスパイスとして東洋系を映画に使うという風習をなんとか変えたいものですね。

そうですね、天皇の命令で仏教の呪術に縛られた美鈴はほんとに悲惨でした。で、そしてそれから自由になるのには千年もかかりましたね。

旅というのは、やはり「自由」がテーマでしょうね。サイードも迫害からの自由を求めた旅人だったんですね。
ヘルメス | URL | 2008/04/29/Tue 01:53 [EDIT]
おぉ!遂にClannad見たんですね!!
今度語りましょ〜!!
それにしても、スンゴイ気合の入った記事でしたね。
Lance | URL | 2008/04/29/Tue 16:49 [EDIT]

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