NAFTAでのキモヲタのソナタ
前文


バレンタイン・デーの屈辱。それは、私の心を粉々に打ち砕きました。そこで、私は、マニフェストを書くことを決意しました。どうしたら今の不幸から抜け出し、幸福になれるか、という基本問題を綴ることにしたのです。それが、私の人生の基本網領となるからです。そして、それが、私の幸福を手にする運動となるのです。アメリカ合衆国の独立宣言には、人には幸福を追求する権利があると記されているのですから。


虹コン・マニフェスト


私は、二次元しかありません。虹コンは、「二次元コンプレックス」の略です。私は二次元での恋愛感情を真如と受け止め、三次元、つまりこの浮き世、現実の世界では、恋愛感情を起こすことが出来ない、というか、起こす前に女性に相手にされていません。私が二次元、まあ、二次元と言っても、私の場合は、小説や実写映画や漫画やオペラやミュージカルではなく、アニメなのです。アニメの女性キャラに法悦を求めるんです。

思えば、私の苦しみは、思春期から始まりました。女性への性的興味が沸いてきた時に、女性が一気に遠い存在となってしまったのです。そして、マッチョ社会が横行する日本で、男たちによって、女たちから隔離され、私は男として矯正されましたが、私はそれに抵抗したため、イジメに遭い、学業に無関心となり、引きこもりとなりました。しかし、私が求めていたものは、競争社会での戦士としての男らしさではなく、私が求めていた唯一のもの、それは女性の優しさでした。そして高校では、女性との距離はさらに離れてしまいました。キルケゴールは
永遠に神に近づけない
として絶望し、サルトルは
永遠に他者に近づけない
とし、私は、
女の子に近づけないこと
で絶望しました。それは、ネオリベラル資本主義を動力として消費主義社会に動員されて、彼女らは、高校生でありながら、すでに資本主義女となってしまったからです。アムロが彼女らのモデルとなり、ポケベル、ミニスカ、ルーズソックスにブランドバッグ、そして援助交際、しかも金持ちとだけ、ルックスではジャニーズのような、そう、あの時はキムタクが最もハンサムと言われていたときでした。そして、そのような男を崇拝していた彼女らは、私たちを
「キモオタ、近寄るな、飯がまずくなる、チョベリバ」
と言って、迫害したのです。ジャニーズを頂点とする恋愛ナチズムの世界、そして恋愛ナチによる容赦ない迫害。なので、私は、青春を経験できませんでした。よって、この絶望の土地を去り、渡米を決意したのです。それが、私の失学園でした。学園生活は、アニメのように青春を謳歌して、人生でもっとも幸せで楽しいものであるはずです。しかし、私はそれを経験できなかった、謳歌できなかった後悔。だから、アメリカという「自由の国」で、失われた自由学園の生活を取り戻そうとしたのです。つまり、自分の青春をリセットできる唯一の希望がアメリカに渡ることだったのです!

しかし、アメリカはいわば人種社会、そして男尊女卑社会、まあ日本ほどではありませんが…、21世紀になって、やっとオバマとヒラリーが勝負できるような時代になったばっかりなのですから、アメリカは、日本を抜かせば、先進国の間では、かなり遅れているでしょうね。東洋人に対するステレオタイプが未だに横行し、とくに東洋人男性に対しては、セックスの対象になってしません。ハリウッド映画を観ても、東洋人は、医者か弁護士のような知的な役か、エグゾチックな犯罪集団のメンバーの役か、それぐらいしかありません。シリアスなロマンス映画の主人公には抜擢されないのです。それが、ハリウッドの人種主義なのです。つまり銀幕では、人種社会がまだ根強く残っているのです。ハリウッド映画関係者は、
「ハリウッドの俳優は国際的だ、いろいろな国の出身者の寄せ集めで多文化的だ」
と主張しますが、たとえそうであっても、人種はもっぱら白人ではありませんか?文化は違っても人種は白人です。ヨーロッパ系なのです。ヨーロッパ系の人がアメリカ人並みの英語力と演技力があれば、チャンスが回ってきます。しかし、アジア系だと、ステレオタイプに適している役しかなく、たとえアジア系アメリカ人であっても、わざと外国語訛りの英語を話すように監督の支持を受けるのです。そのハリウッド映画、いわゆるメジャーストゥーディオのイメージ作りによって、アジア系の男は、他の人種に比べて異人種間セックスから遠のいてしまうのです。そして、そのために苦しみ抜いたチョ・スンヒのヴァージニア工科大学乱射事件の悲劇は、その人種主義の最悪の結果でした。ヴェルテルよりも苦悩したと思いますよ。だから、私はハリウッドに、東洋人のセクシュアリティーにおける市民権を要求するのです。つまり、人種問題は、ハリウッドという二次元世界から解決しなければならないのです。アニメの二次元は理想ですが、ハリウッドの二次元は理想から程遠い、だから、ハリウッドの改革が必要なのです。二次元という意識と精神の世界である上層構造の改革が、現実という物質世界の下層構造の改革へと導くのです。

アメリカの女性も、フェミニスト的でありながら、彼女らは実際にフェミではなく、パリサイ派的なフェミなのです。女性は、経済力をつけておきながら、未だに若い男と付き合おうとしません。つまり、経済的に自立したにもかかわらず、経済力のない男とはセックスしないのです。なぜなら、年輩主義によって若者は金がなく年寄りが金を持っているからです。だから年齢が若い男とは付き合わない。つまり男の経済力がすべてを決定してしまうのです。それを、また女性は助長します。つまり、女性は社会進出しようがしまいが、セックスする男は変わらないのです。金持ちの男、そして年輩社会では、年がいっているほど金がある、だから女のデートする相手、もしくは結婚する相手は常に年上なのです。オヤジ、クソジジイなのです。男権至上主義で理想とされた男性が、未だにフェミ社会になっても理想なのです。それこそネオリベラル型消費社会の女というものです。今は、格差社会で、貧困に転落する男が増えています。そして、永遠の未成年者となってしまいます。つまり金がないと成人したとはみなされない。よって、女はショータコンでないかぎり、「子供とはセックスできない」として、経済力に乏しい男とはセックスしません。経済力のある男は、そうでない女とセックスするというのに。また経済的援助の可能性だってあるというのに。しかし、金持ちの女性が貧乏な若い男性に援助をしたなど聴いたことがない。『Sex & The City』のサマンサ・ジョーンズぐらいです。そして、女は、デートでは、かならず男が女に支払うものだと期待しているのです。割り勘ではないのです。これでは、経済力のない男は、リングにも上がれません。「眼中にない」と無視されて、冷や飯を食うだけです。

また、いまだに女性は、たとえバリバリのフェミであっても、デートに誘うのは、男性から、つまり、かならず男性がリードするべきだと考えています。日本書紀のイザナギ誘導型を未だに信じて疑わないのです。日本書紀が古代中国の男尊女卑思想によって書かれたのは明らかです。どうして、女性から誘ったら、奇形児が生まれてしまうのでしょう?まったく、理解できません。

それに、もし女性が男性に気があるのなら、好きだったら、気になったら、どうして自分からデートに誘わないのでしょうか?で、向こうが誘ってこなかったら、
あたしがこんだけサインを出してるのに、どうして誘ってこないのかしら。きっと意気地がないのね。男らしくないわね。なんて弱っちい。駄目ね、あんな男じゃ…
と勝手に可能性を切り捨ててしまうのです。
好きだったら、サインを出して待っているんじゃなくて、夕食でも映画でも誘えばいいじゃないか!
と憤りを感じます。その態度こそ、男性優越主義を蔓延させている原因ではありませんか!だから、女性はもっと積極的になるべきです。よほどのことではないかぎり、女性はストーカーにはならないのですから。私をデートに誘った女は、かつていただろうか!だから、積極的な本当のフェミニスト女性は、残念ながら、現段階では、アニメでしか見当たりません。彼女ら萌えキャラは、積極的に自分のお気に入りの男の子とスキンシップを試み、チャンスがあれば彼の唇を奪おうとします。
それこそ、私が望んでいるセクシュアリティーの解放だー!
と絶叫してしまいました。もはや男がリードすることが称賛されなくなった時代、逆に女性がどんどん積極的に攻めていくことが賛美される時代となったはずです。「女は度胸!」の時代になったのです。小泉も、小池百合子を刺客として東京に送り込んだ時に、
「小池さんは、度胸があります」
と絶賛していたではありませんか!

アニメの女性キャラは、性格、容姿、スタイル、超能力、すべてにおいて完璧です。そして声優の日本語は完璧で美しいです。よって、私の思春期、青春期における女子の理想の姿、こうあるべきであった姿が描かれているのです。あんな子たちが日本に実際に存在したならば、渡米することはなかったでしょう。超能力を持っていて、力強くて、たくましくて、度胸があって、積極的で、恋愛をリードして、セクシュアリティーも解放されているのですから。しかも、男を守ってくれる強い女性。

しかし、実際の日本社会は男社会です。女性は、フェミニン(弱い)であることを求められます。だから、積極的な女性はなかなか出て来れない。国会議員、CEOなど、社会でリーダーになっている女性は日本では少なすぎます。年功序列のオヤジ臭い男社会の抑圧のために、ロールモデルになる女性があまりにも少ないために、日本女性の大半は、アニメの女の子よりも劣ってしまうのです。アメリカでさえ、21世紀にやっとヒラリーが出てきたのですから。日本では、まだ女性の総理候補がいませんし、ましてや天皇が男性限定というのが、いかに日本社会が腐敗しているかということです。つまり、男社会が、キモオタを作り出してしまったのです。実際に先進国で、女性の解放が進んでいる国ほど、キモオタが少ないのですから。そこでは、「フェミニン」という言葉も脱構築されていますし。フランスやスウェーデン、ドイツ、女性が解放されている所はセクシュアリティーも解放されている、しかし先進国で唯一男尊女卑社会である日本では、20代男性の恋愛未経験者が20%もあるということではありませんか。セクシュアリティーが抑圧されているのです。だから、日本では、その負け組の男たちのために、萌えキャラが主流のアニメが、流行ってしまうのです。それこそ、宗教は阿片、アニメは阿片なのであり、その男尊女卑を打破しないかぎりアニメは自由選択によってホビーとして楽しむものではなく、ドラッグにすがるものとして消費されてしまうのです。萌えキャラとは、阿片ガールなのです。

しかし、そんな完璧な萌えキャラにも、欠点があります。それは、虹コンの恋愛は、皮膚感覚が伴わないということです。つまり、女性との皮膚感覚が欠如しているのです。そう、キスができない、抱擁ができない、ましてはセックスもできない。エロティシズムの根源である皮膚感覚に置ける恍惚を経験することが出来ないのです。肌と肌が触れ合わないのです。たしか、オーディンも自分の眼と引き換えに智慧を得たと言います。東北のイタコも、盲目がいますし、モンゴルのシャーマンも、体になんらかの障害を持っているといいます。その障害が、またシャーマンの証でもあるのです。オーディンのアイ・パッチがそうであるように。つまり何かを犠牲にしなければ行けないということです。だから、虹コンである私は、皮膚感覚を犠牲にして、アニメでの恋愛の悦びに浸るのです。それは心身ではなく、心だけです。まるで、明恵ですね。

私は醜男です。葦原醜男です。つまりキモメンです。そして虹コン、つまりキモオタなのです。二次元の世界と交信するシャーマンの証として、私はキモメンなのです。つまり皮膚感覚と引き換えに二次元の悦びに興じる証が、キモオタとしてのキモサなのです。ロバート・ジョンソンも、魂を悪魔に売って、ブルースギターの技術を手に入れました。私も、皮膚感覚を売って、アニメの萌えを手に入れたのです。だから、肉体的には、苦しいのです。障害なのです。スキンシップの欠落した世界、それこそ私の現実、そこから逃避するためには、さらにアニメに没頭しなければなりません。よって、私のすべての苦しみは、セクシュアリティーに直結するのです

しかし、これ以上の犠牲を出したくない、というか犠牲にして何かを手に入れなければ行けないというトレードオフの経済原理による恋は、キモオタでは、やっていけません。労働によって、つまり自由時間の犠牲を払って賃金を稼ぎ、毎日のパンを獲得する、そして余った賃金が多い者だけ、恋をする権利を買えるという。しかし、低所得者では、それすら叶いません。だからこそ、社会の改革が必要なのです。キモオタに残っているものといえば、皮膚感覚を犠牲にした恋、つまり付き合うけど、キスも抱擁もセックスも駄目という条件の恋、いわゆる萌えだけなのです。だが、萌えでは、エロティシズムは謳歌できません。そしてエロティシズムをもっとも謳歌できる時間、そう、余暇(非労働)という青春、余暇=スコレー=学園、そして恋こそが青春の最骨頂、しかしネオリベラル資本主義社会に出てしまった今、スコレーは「怠け」として糾弾されます。つまり、スコレーが犠牲となってしまっているのです。失学園の苦しみ、その苦を滅すること、アニメはスコレーの希望を提供してくれます。そして失われた学園生活、いわゆる青春を取り戻すことこそ、革命の原動力なのです。

「この現実を変えたい!」と願うこと、それは革命の意志と力です。アメリカのすべての元凶はネオリベラル資本主義による格差社会です。所得の格差があまりにも大きすぎるために、貧乏人はデートすらできません。ましてやセックスなど手が届きません。だから、アメリカでは、『The 40 Year Old Virgin』という映画がヒットしてしまうのです。また、『童貞・処女は負け組のものだ』というTシャツが売れてしまうのです。そして、そんな貧乏人につけ込んだサブプライム・ローンは格差の是正になるどころか、さらなる地獄を貧困層に押し付ける結果となりました。その格差を縮めるためにも、私は、その格差を是正する政治家に投票するのです。それが、私の目指す変革です。そしてハリウッドをもっと多人種にすることです。それか、ハリウッドをすべて日本のアニメ産業が乗っ取るかですね。それも、変革の一つです。つまりアメリカでもっとも影響のある二次元の世界を変革すれば、三次元も変わるのです。イデア界と政界を二極一対で変革していくのです。つまり、意識改革と政治改革です。また、オバマ候補も、「change!」を連呼しています。皮膚感覚の欠落した世界からエロティシズム溢れるセクシュアリティーの解放された世界への革命、社会変革、チェンジ、そのために私はグラスルーツの運動に加担し、選挙で投票するのです。しかし、それが叶わなければ、革命が成功しなければ、私は逃避するしかありません。モンタナかカナダのどこかで、ひっそりと小屋のなかで、アニメに浸るのです。

よって道は二つに一つなのです。現実を変えるか、現実から逃避するか。つまり二次元の世界を三次元で実現するか、三次元の世界を捨てて二次元に没頭するか。その二つしかないのです。革命か逃避か。

Revolution or runnaway?

そのどちらかなのです。それが虹コン・マニフェストです。

【2008/02/17 02:41】 | アニメ
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