NAFTAでのキモヲタのソナタ
これはあまり言いたくないことですが、源氏名という匿名性があるので、書きます。


私は、流言飛語に悩んでいます。肉体に関するものは、いわゆる肉欲、情欲、性欲、色情は、清教徒倫理、または仏教においても、避けるべきものであるとしています。『School Days』も、その警告というものを念頭に描かれたものだと思われます。肉欲は破滅を導くというものです。しかし、それは、肉欲の独占というものが、根本の原因でしょう。その独占欲さえ断てば、私は、肉欲がかならずしも破滅に向かうものではないと考えるのです。逆に楽しい毎日になると思います。

40歳のヴァージン』という映画を観ましたが、あれは、マジで、本当に、悲惨でした。あれほど悲しい男性はいなかったでしょう。あの映画を最後まで正視することはできませんでした。私のほうまで、憂鬱になってしまうようで…。出家して修行していたり、なにかの教義に基づいて貞操を保っているのならまだましですが、彼の場合は、したいのにできない、というもっとも悲惨で苦しく辛いものだったのです。

それほど、苦しいことはありません。だから、シッダールタには、とても腹が立ちます。あの人は、王子時代に、雨期のハーレムで数えきれない美女と淫乱に耽っていたのに、出家してからは、
「婦女を避けよ」
と言うのです。
「てめえが、そんなことしといて、言える立場かよ!こんちくしょう!」
と本当に心の底から怒りが沸いてきます。そのような男がどうして称賛されるか。それは、
いつでも望めばできるのに、しない
ということです。しかし、映画の主人公の場合は、
したくても、やらせてもらえない
なのです。だから、仏教の開祖は偽善者であり、そのような偽善者が作った教義によって、主人公のような男を救うことは絶対にできません。やれるのにやらない人、やりたくてもできない人、どちらを貴ぶか、私はブッダよりも、この主人公をもちろん貴びます。托鉢で供養するなら、もちろん40歳のヴァージンです。彼こそ、本当の聖者です。

しかも、主人公にとっては、男友達に、未体験であることがバレた瞬間、それはたまったものではありません。だから、
「女の子には、そのことはふせておいてくれ!」
と泣き寝入りするしかありません。そして、とくに女性にそれがバレたとき、または、バレなくとも、というか、経験済みであっても、最初から、
「あの男はバージンだ」
という先入観を女性たちから持たれているということを知ったとき、それは、男を自殺に追い込むには充分過ぎます。なんと残酷な…。冷酷過ぎる女の子たち。女のたったの一言で、男の生気は挫れてしまうのです。そして、資本主義に冒された女性は、そういう男を軽蔑し、付き合おうとさえしません。たとえ、一時は魅力的に見えた男性でも、ひとたびヴァージンだという先入観を持ってしまうと、その男の魅力は半減してしまいます。
「女とやったことがないのは、人格的に欠陥があるからにちがいない。だから、ヴァージンとはデートできない」
そして、それが、さらにひどくなると、
「あの年にもなって結婚歴がないのは、人格的欠陥があるからだ」
という言説になってしまうことです。それは、とくに男性に対しては厳しいものです。その言説が、さらにヴァージン状態を助長してしまいます。独身女性は恋愛はできますから。つまり、同じ独身でも、結婚歴のある男性は、恋愛対象になるのです。結婚歴のない独身男性は同じ独身であるのに。平等なはずなのに。まあ、アメリカでは離婚してはじめて、「アメリカ人」として認められるという社会ですから。

しかし、女性の場合は、貞操であることと淫靡であることが同時に求められます。そこで、結婚する女性、そして遊女に別れるのです。しかし、遊女は、「whore、slut、ho」という卑語がありますが、男には、そのような別称はありません。それは、ファロゴセントリックな言説がまかり通っているからです。ヤハウェーは男性で嫉妬の神です。女性がデートにおいて受け身なのも、その言説のせいです。つまり、積極的だと、貞操ではないと見られるので、積極的になれないのです。それが、いまだにフェミニズムを成功させていない理由です。男性の女性に対する貞操観念を捨てさせるべきです。そして、女性もそれを内在化させずに、拒否することです。しかし、貞操観念があっても、非ヴァージンでなければ、恋愛の対象にはならないという言説が女性にもあります。男も、
「この子はヴァージンか」
とひるんでしまうのです。貞操がいつの間にか男の中で神聖化されてしまい、そういう女性に手を出すことに罪悪感を感じでしまうのです。しかし、その女性の魅力が男のように半減することはありません。女性はそのままで魅力的です。ただ、男が行動に移さなくなってしまうだけのことです。普段は無宗教の男でも、その時だけは、小さい頃からのキリスト教原理主義の洗脳のサブリミナル効果が現れてしまうのです。それが、清教徒倫理の圧力というものです。

ようするに、貞潔観念がすべての元凶です。だから、性的に活発な女性には、多くの卑語があります。それが男にはないということは、男に貞操は期待されていないということです。女性だけがそれに縛られていては、いけません。貞操観念は根底から破壊するしかありません。セクシュアリティー解放のためにも。

しかし、貞操観念というのは、独占欲から出てきています。そう、貞操というのは、実は、とてもセクシャルなのです。セクシュアリティーを否定することによって、思いっきり認知しているのです。いわゆる否定による認知です。考えてみてください、シスターはキリストの妻です、「妻」といったら、夫とはセクシャルな関係です、だからシスターは貞操なのです。それは、キリストとだけエッチができるということです。それは、キリストが独占しているからです。つまり、男は結婚することによって、初夜権を神である領主から買い取るわけです。だから、いわゆる結婚していないすべての女性はヤハウェーのものです。だから、彼女らは貞潔でなければならないのです。
「Nothing but Yahweh. No God before Yahweh.」
それがユダヤ、キリスト、イスラムの言説です。そう、そして貞操観念を正統化している制度といえば、結婚しかありません。結婚内における肉欲だけが認められるというふざけた制度です。それを侵害したら不倫です。それが、世俗化されて、いわゆる恋愛内での肉欲となり、それを侵害したら、浮気となります。だからこそ、結婚制度を廃止することを願うのです。それによって、ホモセクシュアル差別の原因となっているのですから。すべては、ヤハウェーチックな結婚制度が悪の根源なのです。いわゆる、貞操観念、結婚制度、そしてヤハウェーは、悪の枢軸です。そうです、男性は、男尊女卑社会によって、ヤハウェー宗教観念によって抑圧されているのです。

男性は、ヴァージンだと人格欠陥者だと思われてしまいます。というか、女性から見たら、生理的に駄目という判断を下してしまうのです。それでは、あまりにも不公平です。女性は、ヴァージンであろうと、人格に欠陥があるとか、魅力が半減するということはありません。だから、女性がちょっと強く押せば、男のためらいも簡単に吹っ飛ばしてしまうでしょう。だから、女性が貞操観念を破って、積極的にさえなれば、それは解決します。そういう意味では、女性の魅力は男よりも安定していて確かなものです。ちょっとやそっとの情報操作で、魅力が半減することはまずありません。女性は、「女」というだけで、男に称賛されますから。

しかし、男性の魅力というものは、女性のと比べると、とても脆いです。なにせ、ひとたびヴァージンと見なされると、それはそれは、もう苦しみに苦しみを重ねなければなりませんから。はっきり言って、生き地獄ですね。毎日悶え苦しむだけです。そんな男が積極的になったら、よけいに気持ち悪がられ、ストーカーとして警察に捕まってしまいます。また、裁判所から、「restrain order」を受けてしまいます。だから、ヴァージンであることは、まるで、スターティングラインで銃声を聞き逃したようなものです。女性からセクシュアリティーの承認を得ること、それがヴァージンにとって、どれほど大変なことか。男として、魅力を失ってしまうのですから。それは、女性が判断することですから、いくら
「オレには魅力があるんだ」
と開き直って叫んでも、女性の意識が変わらない限り、承認は得られません。無意味です。なぜなら、すべては、女性の判断によってしまうからです。つまり、女性が魅力的と思わない限り、魅力的ではないのです。そう、男の魅力は、女性が決めるのです。
女性とできないからヴァージン、ヴァージンだから女性とできない。
いわゆるキャッチ22になってしまうのです。袋小路です。その悪循環です。それに、事実、女性のヴァージンより男性のヴァージンのほうが多いですし。セクシュアリティーでは、男性のほうが謳歌できていません。だから、セクシュアリティーの問題は、男性のほうが多いのです。はっきり言いましょう、
未体験の男の苦しみを救うのは、セックスです!

そして、その最も大きなステレオタイプの被害を受けているのは、萌え系アニメオタクです。彼らは、「ヴァージン集団」としか見られていないのでしょう。フィギュアを使ってオナニーしてるとか思っているのでしょう。そういうわけで、彼らは、なにかというと、女性からは、避けられてしまいます。かつては男のヴァージニティーは、「神聖なもの」として、女性は近づきませんでしたが、今では、ヴァージニティーは「おぞましきもの」として、女性は近づいてきません。
「ええ、こわい、キモイ、なにをされるかわからない」
と、すでに彼女らのかわいい顔が、恐怖と侮蔑で引きつってしまっています。どれほどアニメオタクたちが傷ついたことでしょう。どこまで彼らを傷つければ、気が済むんんでしょうか…。まるで、男のヴァージンは犯罪の温床みたいな根拠のない決めつけです。だからこそ、そのステレオタイプを打破することが、これからの革命家の使命なのです!

そもそも、聖女マリアの神聖さが、貞操から由来しているというのが、すべての元凶です。神のproperty(所有物)として、イエスを産んだのですから。しかし、性体験の有無ではなく、未婚が神聖であるということにすればいいのです。だから、婚外の子どもは、皆イエスのように神聖なはずです。そして、独身は皆神聖なのです。そして、結婚制度がなくなれば、すべての人々が神聖となります。そうすれば、ニーチェが言った通り、神は死ぬでしょう。貞操観念に基づく結婚制度を廃止すれば、神の権威は失墜します。そうすれば、人は、とくに女性は、神の所有から解放されるのです。すべての人間に自然権、基本的人権があるという啓蒙が起きた時から、実は、すべての人は神聖だと認識されたはずなのです。

とにかく、「ヴァージン」の定義を替えることです。ヴァージンを、「結婚していない人」とすればいいのです。結婚している人は結婚していない人の上には立たず、ということわざを作ればいいのです。というか、メイドを褒め讃えることを奨励すつべきです。いわゆる「メイド(独身)」です。だから、メイドカフェは素晴らしいのです。人を、とくに男をヴァージンか否かで、性格を判断するような言説をブッ潰して欲しいです。そうすれば、真如で、デートしてくれるでしょう。あの小泉だって「ヴァージン」だったんですから。ファーストレディーもなく、エルビスの館で、踊っていたのですから。あれこそ、ヴァージンパワーというものでしょう。まさにメイドパワーなのです!

アルベリッヒはごめんです。チョ・スンヒもアルベリッヒ型でしたね。ヴェルダンディーは運命の神なのだから、アルベリッヒを助けてくれたら、ラグナロークは起こらなかったはずです。だから、アルベリッヒを二度と出さないように、あのような悲劇を繰り返さないためにも、ヴァージンと結びついている貞操観念を破壊することを願います。それが、最優先事項です!


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私は、流言飛語に悩んでいます。肉体に関するものは、いわゆる肉欲、情欲、性欲、色情は、清教徒倫理、または仏教においても、避けるべきものであるとしています。『School Days』も、その警告というものを念頭に描かれたものだと思われます。肉欲は破滅を導くというものです。しかし、それは、肉欲の独占というものが、根本の原因でしょう。その独占欲さえ断てば、私は、肉欲がかならずしも破滅に向かうものではないと考えるのです。逆に楽しい毎日になると思います。

40歳のヴァージン』という映画を観ましたが、あれは、マジで、本当に、悲惨でした。あれほど悲しい男性はいなかったでしょう。あの映画を最後まで正視することはできませんでした。私のほうまで、憂鬱になってしまうようで…。出家して修行していたり、なにかの教義に基づいて貞操を保っているのならまだましですが、彼の場合は、したいのにできない、というもっとも悲惨で苦しく辛いものだったのです。

それほど、苦しいことはありません。だから、シッダールタには、とても腹が立ちます。あの人は、王子時代に、雨期のハーレムで数えきれない美女と淫乱に耽っていたのに、出家してからは、
「婦女を避けよ」
と言うのです。
「てめえが、そんなことしといて、言える立場かよ!こんちくしょう!」
と本当に心の底から怒りが沸いてきます。そのような男がどうして称賛されるか。それは、
いつでも望めばできるのに、しない
ということです。しかし、映画の主人公の場合は、
したくても、やらせてもらえない
なのです。だから、仏教の開祖は偽善者であり、そのような偽善者が作った教義によって、主人公のような男を救うことは絶対にできません。やれるのにやらない人、やりたくてもできない人、どちらを貴ぶか、私はブッダよりも、この主人公をもちろん貴びます。托鉢で供養するなら、もちろん40歳のヴァージンです。彼こそ、本当の聖者です。

しかも、主人公にとっては、男友達に、未体験であることがバレた瞬間、それはたまったものではありません。だから、
「女の子には、そのことはふせておいてくれ!」
と泣き寝入りするしかありません。そして、とくに女性にそれがバレたとき、または、バレなくとも、というか、経験済みであっても、最初から、
「あの男はバージンだ」
という先入観を女性たちから持たれているということを知ったとき、それは、男を自殺に追い込むには充分過ぎます。なんと残酷な…。冷酷過ぎる女の子たち。女のたったの一言で、男の生気は挫れてしまうのです。そして、資本主義に冒された女性は、そういう男を軽蔑し、付き合おうとさえしません。たとえ、一時は魅力的に見えた男性でも、ひとたびヴァージンだという先入観を持ってしまうと、その男の魅力は半減してしまいます。
「女とやったことがないのは、人格的に欠陥があるからにちがいない。だから、ヴァージンとはデートできない」
そして、それが、さらにひどくなると、
「あの年にもなって結婚歴がないのは、人格的欠陥があるからだ」
という言説になってしまうことです。それは、とくに男性に対しては厳しいものです。その言説が、さらにヴァージン状態を助長してしまいます。独身女性は恋愛はできますから。つまり、同じ独身でも、結婚歴のある男性は、恋愛対象になるのです。結婚歴のない独身男性は同じ独身であるのに。平等なはずなのに。まあ、アメリカでは離婚してはじめて、「アメリカ人」として認められるという社会ですから。

しかし、女性の場合は、貞操であることと淫靡であることが同時に求められます。そこで、結婚する女性、そして遊女に別れるのです。しかし、遊女は、「whore、slut、ho」という卑語がありますが、男には、そのような別称はありません。それは、ファロゴセントリックな言説がまかり通っているからです。ヤハウェーは男性で嫉妬の神です。女性がデートにおいて受け身なのも、その言説のせいです。つまり、積極的だと、貞操ではないと見られるので、積極的になれないのです。それが、いまだにフェミニズムを成功させていない理由です。男性の女性に対する貞操観念を捨てさせるべきです。そして、女性もそれを内在化させずに、拒否することです。しかし、貞操観念があっても、非ヴァージンでなければ、恋愛の対象にはならないという言説が女性にもあります。男も、
「この子はヴァージンか」
とひるんでしまうのです。貞操がいつの間にか男の中で神聖化されてしまい、そういう女性に手を出すことに罪悪感を感じでしまうのです。しかし、その女性の魅力が男のように半減することはありません。女性はそのままで魅力的です。ただ、男が行動に移さなくなってしまうだけのことです。普段は無宗教の男でも、その時だけは、小さい頃からのキリスト教原理主義の洗脳のサブリミナル効果が現れてしまうのです。それが、清教徒倫理の圧力というものです。

ようするに、貞潔観念がすべての元凶です。だから、性的に活発な女性には、多くの卑語があります。それが男にはないということは、男に貞操は期待されていないということです。女性だけがそれに縛られていては、いけません。貞操観念は根底から破壊するしかありません。セクシュアリティー解放のためにも。

しかし、貞操観念というのは、独占欲から出てきています。そう、貞操というのは、実は、とてもセクシャルなのです。セクシュアリティーを否定することによって、思いっきり認知しているのです。いわゆる否定による認知です。考えてみてください、シスターはキリストの妻です、「妻」といったら、夫とはセクシャルな関係です、だからシスターは貞操なのです。それは、キリストとだけエッチができるということです。それは、キリストが独占しているからです。つまり、男は結婚することによって、初夜権を神である領主から買い取るわけです。だから、いわゆる結婚していないすべての女性はヤハウェーのものです。だから、彼女らは貞潔でなければならないのです。
「Nothing but Yahweh. No God before Yahweh.」
それがユダヤ、キリスト、イスラムの言説です。そう、そして貞操観念を正統化している制度といえば、結婚しかありません。結婚内における肉欲だけが認められるというふざけた制度です。それを侵害したら不倫です。それが、世俗化されて、いわゆる恋愛内での肉欲となり、それを侵害したら、浮気となります。だからこそ、結婚制度を廃止することを願うのです。それによって、ホモセクシュアル差別の原因となっているのですから。すべては、ヤハウェーチックな結婚制度が悪の根源なのです。いわゆる、貞操観念、結婚制度、そしてヤハウェーは、悪の枢軸です。そうです、男性は、男尊女卑社会によって、ヤハウェー宗教観念によって抑圧されているのです。

男性は、ヴァージンだと人格欠陥者だと思われてしまいます。というか、女性から見たら、生理的に駄目という判断を下してしまうのです。それでは、あまりにも不公平です。女性は、ヴァージンであろうと、人格に欠陥があるとか、魅力が半減するということはありません。だから、女性がちょっと強く押せば、男のためらいも簡単に吹っ飛ばしてしまうでしょう。だから、女性が貞操観念を破って、積極的にさえなれば、それは解決します。そういう意味では、女性の魅力は男よりも安定していて確かなものです。ちょっとやそっとの情報操作で、魅力が半減することはまずありません。女性は、「女」というだけで、男に称賛されますから。

しかし、男性の魅力というものは、女性のと比べると、とても脆いです。なにせ、ひとたびヴァージンと見なされると、それはそれは、もう苦しみに苦しみを重ねなければなりませんから。はっきり言って、生き地獄ですね。毎日悶え苦しむだけです。そんな男が積極的になったら、よけいに気持ち悪がられ、ストーカーとして警察に捕まってしまいます。また、裁判所から、「restrain order」を受けてしまいます。だから、ヴァージンであることは、まるで、スターティングラインで銃声を聞き逃したようなものです。女性からセクシュアリティーの承認を得ること、それがヴァージンにとって、どれほど大変なことか。男として、魅力を失ってしまうのですから。それは、女性が判断することですから、いくら
「オレには魅力があるんだ」
と開き直って叫んでも、女性の意識が変わらない限り、承認は得られません。無意味です。なぜなら、すべては、女性の判断によってしまうからです。つまり、女性が魅力的と思わない限り、魅力的ではないのです。そう、男の魅力は、女性が決めるのです。
女性とできないからヴァージン、ヴァージンだから女性とできない。
いわゆるキャッチ22になってしまうのです。袋小路です。その悪循環です。それに、事実、女性のヴァージンより男性のヴァージンのほうが多いですし。セクシュアリティーでは、男性のほうが謳歌できていません。だから、セクシュアリティーの問題は、男性のほうが多いのです。はっきり言いましょう、
未体験の男の苦しみを救うのは、セックスです!

そして、その最も大きなステレオタイプの被害を受けているのは、萌え系アニメオタクです。彼らは、「ヴァージン集団」としか見られていないのでしょう。フィギュアを使ってオナニーしてるとか思っているのでしょう。そういうわけで、彼らは、なにかというと、女性からは、避けられてしまいます。かつては男のヴァージニティーは、「神聖なもの」として、女性は近づきませんでしたが、今では、ヴァージニティーは「おぞましきもの」として、女性は近づいてきません。
「ええ、こわい、キモイ、なにをされるかわからない」
と、すでに彼女らのかわいい顔が、恐怖と侮蔑で引きつってしまっています。どれほどアニメオタクたちが傷ついたことでしょう。どこまで彼らを傷つければ、気が済むんんでしょうか…。まるで、男のヴァージンは犯罪の温床みたいな根拠のない決めつけです。だからこそ、そのステレオタイプを打破することが、これからの革命家の使命なのです!

そもそも、聖女マリアの神聖さが、貞操から由来しているというのが、すべての元凶です。神のproperty(所有物)として、イエスを産んだのですから。しかし、性体験の有無ではなく、未婚が神聖であるということにすればいいのです。だから、婚外の子どもは、皆イエスのように神聖なはずです。そして、独身は皆神聖なのです。そして、結婚制度がなくなれば、すべての人々が神聖となります。そうすれば、ニーチェが言った通り、神は死ぬでしょう。貞操観念に基づく結婚制度を廃止すれば、神の権威は失墜します。そうすれば、人は、とくに女性は、神の所有から解放されるのです。すべての人間に自然権、基本的人権があるという啓蒙が起きた時から、実は、すべての人は神聖だと認識されたはずなのです。

とにかく、「ヴァージン」の定義を替えることです。ヴァージンを、「結婚していない人」とすればいいのです。結婚している人は結婚していない人の上には立たず、ということわざを作ればいいのです。というか、メイドを褒め讃えることを奨励すつべきです。いわゆる「メイド(独身)」です。だから、メイドカフェは素晴らしいのです。人を、とくに男をヴァージンか否かで、性格を判断するような言説をブッ潰して欲しいです。そうすれば、真如で、デートしてくれるでしょう。あの小泉だって「ヴァージン」だったんですから。ファーストレディーもなく、エルビスの館で、踊っていたのですから。あれこそ、ヴァージンパワーというものでしょう。まさにメイドパワーなのです!

アルベリッヒはごめんです。チョ・スンヒもアルベリッヒ型でしたね。ヴェルダンディーは運命の神なのだから、アルベリッヒを助けてくれたら、ラグナロークは起こらなかったはずです。だから、アルベリッヒを二度と出さないように、あのような悲劇を繰り返さないためにも、ヴァージンと結びついている貞操観念を破壊することを願います。それが、最優先事項です!

【2007/10/07 01:59】 | 映画
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