私の友人であるBが、NBCのゴールデンタイムのドラマに出演していた。私は飛び上がってしまった。『Black Donnellys』というドラマであり、ニューヨークのアイルランド系のマフィアの若者の話であるが、この中で、彼女は麻薬中毒の女の子の役を演じているのだ。私は、本当に彼女なのかと思った。なにしろ、全然雰囲気が違ったし、まったく別人であり、本当に廃人になってしまったのではないかと、心配になってしまった。注射器で麻薬を注入して、ハイになるところは、とても強烈であった。だから、本当に怖くなった。ジャンキーはどう対処したらいいかわからない。常識がまったく通じないのだから。でも、そこまで感じさせてしまう迫真の演技、それもスゴかった。まさに、これこそ俳優であろう。日本のドラマの演技とは、まったく比べ物にならないほどだ。また『Law And Order』というドラマでは、ロバート・パトリックという『ターミネータ−2』でT1000を演じた役者にレイプされる役を演じたこともあるそうだ。それは、さすがに観なかったが、いくら演技とわかっていても、そんな人道に反するものは観れない。彼女は、
「あたしはT1000にレイプされたんだよ」
と冗談を言っていたが。だが、それほどBが芸能界で活躍しているということであろう。
「あたしはT1000にレイプされたんだよ」
と冗談を言っていたが。だが、それほどBが芸能界で活躍しているということであろう。
同じ大学に通っていたのに。彼女はプロレタリアート出身でジョン・レノンを敬愛していたし、私も現在プロレタリアートなので、プロレタリアートの英雄であるジョン・レノンを敬愛し、彼女と「イマジン」の素晴らしさを語り合ったこともあったのだが。私がニューヨークに旅行に行った時、彼女はセントラル・パークにあるジョン・レノンのストロベリーフィールズに案内してくれたこともあったのだが。 まあ、私の夢は、ストロベリーフィールズという孤児院ではなく、『Strawberry Panic!』のストロベリードームズ(いちご舎)なのだが。孤児院ではなくて、レズビアン寮が、私の夢だ。そこで、ジョン・レノンの曲を替え歌して、
「Strawberry Dorms, forever」
と謳歌するのだ。しかし、私と同じくそんなジョン・レノンの音楽が好きだったBはもう全米のアメリカ人が観る全米ネットワークのドラマの出演者だ。まるで、私の住んでいる世界とは違う世界に行ってしまったような気がした。そう、手の届かない遠い存在となってしまったのだ。
そういえば、彼女が映画やテレビの仕事に出演するようになってから、音信不通になってしまった。まるで鼬の道切りのように。携帯電話にメッセージを残しても、メールを送っても、梨の礫、返事は来なかった。私を「親友」と呼んでくれた人が。「去る者は日々に疎し」というが、ニューヨークに行ったときも、一年ほど会っていなかったが、それでもメールの文通は続いていたし、やはり売れだしてからだろう、彼女に連絡がつかなくなったのは。きっと、よほど忙しいのであろう。まあ、出世街道を登っていくには、切り捨てることも必要だと聞くし。「非情」といわれた小泉も切り捨ての政治だったが、それはネオリベラル社会のアメリカでは当然であり、アメリカ好きな小泉であれば、当然のことだったのだろう。逆に田中角栄のような人情をBに期待するのは無理だったということか。どうしているのだろう。聞くところによるとロスで活動しているそうだが。 会いたい、話したい、一体、成功の階段を順風満帆に上がってゆく気持ちというのはどういうものなのかを。
ああ、私だってできれば名声を得たい。できるならテレビに出て、有名になりたい。埋もれ木に花が咲くように。女の子の注目を浴びたい。そして大衆の称賛を浴びたい。彼女は有名な女の子として、贅沢な忙しい日々を送っているのだろう。しかも、私は彼女の厳しい修業時代を知っているから、なおさらだ。かつて「loser(負け犬)」と呼び合った仲であった友人が目の前で出世して行くという事実、それはまるでもう友人として嬉しいというより、強迫観念である。あの元FEMA長官であったマイケル・ブラウンの出身校でもある州立大学のシアター・スクールに通い、彼女は本当に辛い思いをしていたし、その時の彼女はとても私に近かったというのに。「武士は相身互い」というように、プロレタリアートとしての辛さを分かち合っていたというのに。しかし出世してしまった彼女とは、もはやそういうわけにはいかない。だから、私のBに対する憧れは大和が涼風に抱いたものでは決してない。涼風は大和にとっては出会った時から既にスター的存在だった。彼の高校では高飛びの有名選手だった。つまり大和は涼風の素人時代を知らないのだ。だが、私はBがプロの俳優になる前から知っているのである。有名ではない時代、いわゆる日の当たらない一般人の生活、というか売れない修行中の俳優は一般人よりも貧乏であることが多く、極貧の生活に堪え忍ばなければならない。だから、一般人から見たら、売れない俳優は理解されないことが多い。
「ちゃんと本当の仕事を持て」
と失礼極まれないことを愚民から言われるのである。Bも絶対にそのような言説に耐えてきたはずだ。我慢して貧困にあえでいるから、端から見たら理解できないのであろう。だから、これはもう自分との戦いである。着るものもスリフト・ストアのものでとても質素だったし、そこまで貧乏だったのである。まさに「赤貧洗うが如し」であった。売れるまでは、まさに自分を制する修行僧のように生活しなければならない。だが、今では行き大名の帰り乞食のように、世界旅行に行っては、金を使い果たすが、また仕事が来て、がっぷりと金が入るという生活を享受しているそうである。アメリカでは、台詞を言うだけで、もはやエクストラではなく、クレディット出演となるので、倍近くもギャラが違うといわれているが、クレジット出演でも、主要出演者は、ギャラが桁違い、月とスッポンだという。彼女は本当にスーパーウーマンになってしまったかのようだ。もう、私の世界には帰属していないのだ。同じ人間だというのに。いくら「法の前の平等」と憲法は謳っていても、人はやっぱり平等ではないのか。
テレビに出たいと強く願うようになったのは、Bに近づきたいからではない。だから大和が涼風に近づくために陸上部に入部するとうい不純な動機とはわけが違う。彼女の修業時代、私はテレビなどに全く興味はなく、自分には自分の道があると思っていた。それに今やインターネットの時代、ホリエモンの放送局の買収が象徴したように、テレビはいずれネットによって絶滅するだろうと思っていた。だから私はテレビに興味はなく、ネットを拠点にして、頑張って行こうと思っていた。一方、彼女は常にテレビや映画に出たいと思って、日々努力してきたが。だが、彼女の活躍をまざまざとテレビで見せつけられ、それからというもの、私は強迫観念に悩まされ、私もテレビに出て、超人として女の子たちに、そして大衆に認められたいという願望に一気に火がついた。女の子と遊びまくる青春が私の唯一の望みであったが、名声もこの事件のせいで渇望するようになってしまった。
ああ、名声と金か、なんて羨ましい。私と同じプロレタリアートの同志だったBが。ジョン・レノンを労働者階級の英雄として共に絶賛していた彼女が、今では名声と金を手に入れたのか。私はいまだに低賃金労働に苛まされているというのに。同志の出世は私に強迫観念を悉く植え付けた。富、名声、地位、権力、自家用ジェット、豪邸、そして絶世の美女、それが「男の七つの宝」である。私は絶世の美女だけでいい、他の六つの宝などどうでもよかったのだ、美女とさえ遊戯できれば、巫山で巫山戯(ふざけ)合うことができるのなら。そのために私は我慢して辛いことに耐えて、雨にも負けず風にも負けず、スモッグにも負けず、地球温暖化にも負けず、生き抜いてきた。美女との享楽を実現するために。青春を回復するために。だが、「千石持てば、万石羨む」というわけでもないが、有名にもなりたいという渇望が一気に爆発した。それでは「欲の熊鷹、又裂くる」と批判されそうだが、シッダールタにしてみれば、頭が七つ裂けてしまうのだろうが、男は「七つの宝」を望んでいるので、欲の熊鷹の頭ではなく又が七つに裂けてしまうのだろう。しかし、そんなことを心配していては、何も始まらない。
「だれだお前?」
と言われるのはもう御免だ。だれも私のことを知らないなんて。だれにも認識されないなんて。偉大になりたい。そうすれば、今まで私をウジ虫かゴミ貯めかヘドロのようにドン引きして、無視してきた女の子を後悔させることができるんだ。見返してやる。私も全米の人が注目する存在になりたい。なにしろアメリカではたとえ視聴率が4%といえども、既に1000万人以上が観ていることになるのだから。だから、ケーブルテレビのチャンネルが乱立しているのだろう。つまり、アンディー・ウォーホールの「15分間だけでスターになれる」ではないけど、たとえ15秒の短いコマーシャルか、もしくは『American idol』のようなテレビ番組に出れば、アメリカ社会の脚光を浴びることになるのである。それだけの巨大市場がアメリカでは形成されていることだ。さすがは、アメリカ一国で世界経済が成り立っているだけのことはある。1929年のように、アメリカが倒れれば、世界はたちまち大恐慌となるのだから。だから、どんなビジネスでも、まずテレビに出て、宣伝することに熱を注ぐのである。全国ネットワークのコマーシャルに出たら、世間に知られていない俳優でも半年間なにもせずに遊んで暮らして行けるというし。それだけアメリカのテレビの影響力は絶大なのだ。テレビに出ることは、とてつもない露出になるのである。だから、私はテレビに出て、スーパーマンになりたい。私の芸はなにかわからないが、とにかくテレビに出たい、テレビに出ることが先決だ、そして有名になりたい。そして女の子と遊んで、過ぎてしまった青春を取り戻すのだ。ゲーテだって言っているではないか、
「永遠の女性なるもの、われらを導く」
と。
I don't want to remain nobody no more, I want to be somebody!


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同じ大学に通っていたのに。彼女はプロレタリアート出身でジョン・レノンを敬愛していたし、私も現在プロレタリアートなので、プロレタリアートの英雄であるジョン・レノンを敬愛し、彼女と「イマジン」の素晴らしさを語り合ったこともあったのだが。私がニューヨークに旅行に行った時、彼女はセントラル・パークにあるジョン・レノンのストロベリーフィールズに案内してくれたこともあったのだが。 まあ、私の夢は、ストロベリーフィールズという孤児院ではなく、『Strawberry Panic!』のストロベリードームズ(いちご舎)なのだが。孤児院ではなくて、レズビアン寮が、私の夢だ。そこで、ジョン・レノンの曲を替え歌して、
「Strawberry Dorms, forever」
と謳歌するのだ。しかし、私と同じくそんなジョン・レノンの音楽が好きだったBはもう全米のアメリカ人が観る全米ネットワークのドラマの出演者だ。まるで、私の住んでいる世界とは違う世界に行ってしまったような気がした。そう、手の届かない遠い存在となってしまったのだ。
そういえば、彼女が映画やテレビの仕事に出演するようになってから、音信不通になってしまった。まるで鼬の道切りのように。携帯電話にメッセージを残しても、メールを送っても、梨の礫、返事は来なかった。私を「親友」と呼んでくれた人が。「去る者は日々に疎し」というが、ニューヨークに行ったときも、一年ほど会っていなかったが、それでもメールの文通は続いていたし、やはり売れだしてからだろう、彼女に連絡がつかなくなったのは。きっと、よほど忙しいのであろう。まあ、出世街道を登っていくには、切り捨てることも必要だと聞くし。「非情」といわれた小泉も切り捨ての政治だったが、それはネオリベラル社会のアメリカでは当然であり、アメリカ好きな小泉であれば、当然のことだったのだろう。逆に田中角栄のような人情をBに期待するのは無理だったということか。どうしているのだろう。聞くところによるとロスで活動しているそうだが。 会いたい、話したい、一体、成功の階段を順風満帆に上がってゆく気持ちというのはどういうものなのかを。
ああ、私だってできれば名声を得たい。できるならテレビに出て、有名になりたい。埋もれ木に花が咲くように。女の子の注目を浴びたい。そして大衆の称賛を浴びたい。彼女は有名な女の子として、贅沢な忙しい日々を送っているのだろう。しかも、私は彼女の厳しい修業時代を知っているから、なおさらだ。かつて「loser(負け犬)」と呼び合った仲であった友人が目の前で出世して行くという事実、それはまるでもう友人として嬉しいというより、強迫観念である。あの元FEMA長官であったマイケル・ブラウンの出身校でもある州立大学のシアター・スクールに通い、彼女は本当に辛い思いをしていたし、その時の彼女はとても私に近かったというのに。「武士は相身互い」というように、プロレタリアートとしての辛さを分かち合っていたというのに。しかし出世してしまった彼女とは、もはやそういうわけにはいかない。だから、私のBに対する憧れは大和が涼風に抱いたものでは決してない。涼風は大和にとっては出会った時から既にスター的存在だった。彼の高校では高飛びの有名選手だった。つまり大和は涼風の素人時代を知らないのだ。だが、私はBがプロの俳優になる前から知っているのである。有名ではない時代、いわゆる日の当たらない一般人の生活、というか売れない修行中の俳優は一般人よりも貧乏であることが多く、極貧の生活に堪え忍ばなければならない。だから、一般人から見たら、売れない俳優は理解されないことが多い。
「ちゃんと本当の仕事を持て」
と失礼極まれないことを愚民から言われるのである。Bも絶対にそのような言説に耐えてきたはずだ。我慢して貧困にあえでいるから、端から見たら理解できないのであろう。だから、これはもう自分との戦いである。着るものもスリフト・ストアのものでとても質素だったし、そこまで貧乏だったのである。まさに「赤貧洗うが如し」であった。売れるまでは、まさに自分を制する修行僧のように生活しなければならない。だが、今では行き大名の帰り乞食のように、世界旅行に行っては、金を使い果たすが、また仕事が来て、がっぷりと金が入るという生活を享受しているそうである。アメリカでは、台詞を言うだけで、もはやエクストラではなく、クレディット出演となるので、倍近くもギャラが違うといわれているが、クレジット出演でも、主要出演者は、ギャラが桁違い、月とスッポンだという。彼女は本当にスーパーウーマンになってしまったかのようだ。もう、私の世界には帰属していないのだ。同じ人間だというのに。いくら「法の前の平等」と憲法は謳っていても、人はやっぱり平等ではないのか。
テレビに出たいと強く願うようになったのは、Bに近づきたいからではない。だから大和が涼風に近づくために陸上部に入部するとうい不純な動機とはわけが違う。彼女の修業時代、私はテレビなどに全く興味はなく、自分には自分の道があると思っていた。それに今やインターネットの時代、ホリエモンの放送局の買収が象徴したように、テレビはいずれネットによって絶滅するだろうと思っていた。だから私はテレビに興味はなく、ネットを拠点にして、頑張って行こうと思っていた。一方、彼女は常にテレビや映画に出たいと思って、日々努力してきたが。だが、彼女の活躍をまざまざとテレビで見せつけられ、それからというもの、私は強迫観念に悩まされ、私もテレビに出て、超人として女の子たちに、そして大衆に認められたいという願望に一気に火がついた。女の子と遊びまくる青春が私の唯一の望みであったが、名声もこの事件のせいで渇望するようになってしまった。
ああ、名声と金か、なんて羨ましい。私と同じプロレタリアートの同志だったBが。ジョン・レノンを労働者階級の英雄として共に絶賛していた彼女が、今では名声と金を手に入れたのか。私はいまだに低賃金労働に苛まされているというのに。同志の出世は私に強迫観念を悉く植え付けた。富、名声、地位、権力、自家用ジェット、豪邸、そして絶世の美女、それが「男の七つの宝」である。私は絶世の美女だけでいい、他の六つの宝などどうでもよかったのだ、美女とさえ遊戯できれば、巫山で巫山戯(ふざけ)合うことができるのなら。そのために私は我慢して辛いことに耐えて、雨にも負けず風にも負けず、スモッグにも負けず、地球温暖化にも負けず、生き抜いてきた。美女との享楽を実現するために。青春を回復するために。だが、「千石持てば、万石羨む」というわけでもないが、有名にもなりたいという渇望が一気に爆発した。それでは「欲の熊鷹、又裂くる」と批判されそうだが、シッダールタにしてみれば、頭が七つ裂けてしまうのだろうが、男は「七つの宝」を望んでいるので、欲の熊鷹の頭ではなく又が七つに裂けてしまうのだろう。しかし、そんなことを心配していては、何も始まらない。
「だれだお前?」
と言われるのはもう御免だ。だれも私のことを知らないなんて。だれにも認識されないなんて。偉大になりたい。そうすれば、今まで私をウジ虫かゴミ貯めかヘドロのようにドン引きして、無視してきた女の子を後悔させることができるんだ。見返してやる。私も全米の人が注目する存在になりたい。なにしろアメリカではたとえ視聴率が4%といえども、既に1000万人以上が観ていることになるのだから。だから、ケーブルテレビのチャンネルが乱立しているのだろう。つまり、アンディー・ウォーホールの「15分間だけでスターになれる」ではないけど、たとえ15秒の短いコマーシャルか、もしくは『American idol』のようなテレビ番組に出れば、アメリカ社会の脚光を浴びることになるのである。それだけの巨大市場がアメリカでは形成されていることだ。さすがは、アメリカ一国で世界経済が成り立っているだけのことはある。1929年のように、アメリカが倒れれば、世界はたちまち大恐慌となるのだから。だから、どんなビジネスでも、まずテレビに出て、宣伝することに熱を注ぐのである。全国ネットワークのコマーシャルに出たら、世間に知られていない俳優でも半年間なにもせずに遊んで暮らして行けるというし。それだけアメリカのテレビの影響力は絶大なのだ。テレビに出ることは、とてつもない露出になるのである。だから、私はテレビに出て、スーパーマンになりたい。私の芸はなにかわからないが、とにかくテレビに出たい、テレビに出ることが先決だ、そして有名になりたい。そして女の子と遊んで、過ぎてしまった青春を取り戻すのだ。ゲーテだって言っているではないか、
「永遠の女性なるもの、われらを導く」
と。
I don't want to remain nobody no more, I want to be somebody!



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