NAFTAでのキモヲタのソナタ
アニメの『Bleach』という題名は、シアトルのグランジ・グループのニルヴァーナのアルバムの題名から来ている。そのニルヴァーナとは仏教の最高境地だ。ニルヴァーナを目指すために仏教徒は存在していると言っていい。その原点はやはりシッダールタである。

シッダールタ尊師はコスト面でも何不自由なく美女と毎日セックス三昧であったが、あるとき出家して丸刈りにしてニルヴァーナ(ニッバーナ=涅槃)というところに渡った。つまり出家する前のオルガズム三昧が彼の悟りの条件であったのだ。「萌え」世界は二次元(ピグマリオンの彫刻、『マイ・フェア・レディー』のエリザ、『ローゼン・メイデン』のアリスドール、あるいは『ブラックジャック』のピノコなら三次元)だが、ニルヴァーナは四次元という感じがする。まあ、ニルヴァーナ自体がよく定義されていないから解釈は千差万別だが、意味としては「炎が吹き消えた」程度であろう。それは萌え世界ではなさそうだ。だから「ニルヴァーナ」のリーダーであったカート・コバーンがショットガンで入滅したとき、彼の渡った世界は『好色一代男』の竜宮城さながらの萌えワールドではなかったのか。本当のところ、彼がどこに行ったかはだれもわからない。神々も悪魔でさえもわからないのだ。かつてシッダールタの時代にゴーディカという修行者がいて、当時はショットガンがなかったので、彼は刀を取って入滅した。そこで悪魔はシッダールタに、
「かのゴーディカはどこへ行ったのか?」
と訊くと、彼は、
「ゴーディカは完全に消え失せた。(『悪魔との対話』52項)」
と答えた。しかし、それは「萌え」世界ではなかろう。

だが、密教をさらに進化させたタントラ仏教では悟りの手段としてセックスを取り入れた。ショットガンや刀を自分の性器と取り替えれば良いのだ。そして打つ対象も自分ではなく、愛欲の対象にすればいいだけのことだ。煩悩の矢を萌えの対象に対して抜くのだ。また萌え自体も矢となって自分を貫く。つまり愛欲の矢を射るのである。シッダールタも『神々との対話』で愛欲を矢と比喩した。
「世の人々は死によって圧迫され、老いの矢に囲まれ、愛欲の矢に刺され、(91項)」
と言っている。愛欲の矢はエロスの矢だ。キューピッドの矢だ。その矢に刺され、抜かれたときのオルガズムはそれこそ、相当なものである。まるで『聖テレジアの法悦』のように。

聖テレジアはキューピッドの矢に射抜かれて、オルガズムに達成して、ガックンとなっている状態だ。見よ、彼女の恍惚の表情を!これこそ、ニルヴァーナではないか!まさに寂滅ではないか!破顔顕正というべきか。つまり、オルガズムによって神の国を経験するのである。愛欲の煩悩によって涅槃を体験するのである。なにせ煩悩即涅槃なのだから。『理趣経』では男女の恍惚が菩薩の境地という表現しかできていないが、あれはもっと的確に言えば、萌えの精神。まったく古代人は21世紀の人間にくらべると表現力が乏しい限りだ。「萌え」とはっきり書けば良いものを。まあ、仕方ないだろう。彼はアニメすら知らない未開人だったのだから。現代に空海が生きていれば、
「萌えこそ、理趣経の究極奥義だ!」
と叫んでいただろうに。悟りとはそれこそ萌えなのだ!法悦とは「キター!」なのである。ベルニーニは萌えながらこの彫刻を彫ったことであろう。つまり彫刻家はゴッドコンプレックスを持った萌え家なのである。ということは、萌えを悟りへの門とすればいいのだ。孤独を条件にしているのは萌えもニルヴァーナも同じである。その傾向が強まれば、結婚という制度自体が崩壊するだろう。なにしろ既存価値の崩壊は「危機」であり、新たな価値の構築のチャンスであるのだから。だから結婚崩壊を私は大いに歓迎する。そうなれば人は涅槃のために愛欲に燃え、萌えるのである。だれもが、愛欲のために、涅槃のために巫山戯るのである。巫山の夢こそが萌えワールドであり、それが涅槃への道である。

ゴーディカは即身仏の元祖であろう。そしてカート・コバーンは90年代の即身仏である。矢をもって自分を貫いた。しかし、ゴーディカは刀、コヴァーンはショットガンで自らを貫いた。しかし、それらは萌えの矢ではない。萌えの矢こそが至高の寂滅だというのに。それぞ、まさにジョン・レノンの『インスタント・カルマ』ではなくて、インスタント・ニルヴァーナであろう。インスタント・カルマは麻薬で作曲されたが、インスタント・ニルヴァーナは愛欲によって起きる。セックスの恍惚が即涅槃を経験させる。それは擬死体験である。エロティシズムは蕩尽だ。つまり擬自殺である。だから「イクー!」に漢字を当てると、「行く」ではなくて「逝く」である。オルガズム即涅槃、英語で言えば、オルガズム・インスタント・ニルヴァーナである。「オルガズム・イズ・ニルヴァーナ」なのである。日本語でもオルガズムは「イクー!」という言葉で表される。如来のサンスクリット語は「タサガータ」であり、「逝った者」という意味である。また「来た者」という意味もある。オタクは法悦状態になると、「キター!」と叫ぶ。それは萌え即涅槃であろう。つまり、彼岸を渡ったもの、彼岸に来たもの、オルガズムを達成することが涅槃の境地なのである。最高のオルガズムに達成するためにいろいろな体位を工夫して努め励むことこそが、涅槃の境地なのである。それが即身成仏の極意であり、それこそが本当の自己の消滅(無我の境地)であり、だからこそオルガズムは至高の自殺なのである。究極の自滅である。それこそが寂滅為楽の真の理だ! 

神々も悪魔もオルガズムに達した人間を知覚できない。かつて彼らがゴーディカを見つけられなかったように。自己消滅している人をどうやって見つけ出せようか。だからオルガズムの時こそ、神々の束縛から解放されるときなのである。いわゆる瞬間解脱、インスタント・モクシャである。『カーマ・スートラ』、いわゆる『愛欲経』は、その極意を示したインドが世界に誇る経典である。あの経典が世界に出ただけでも、インドは偉大な国であったということだ。釈尊やガンジーが出たことよりも遥かに上を行くすごいことなのである。

日本も歴史的に即身仏を多く排出してきた。彼らの行ったことは自殺である。そもそも自殺は悪いことなのだろうか。人間はだれだって自殺の衝動に駆られる。どんなに幸せであっても。ただし喜びから来る自殺、代表的なものは愛欲と婬欲によるもの、また萌えによるものであろう。ゴーディカの説話の通り、シッダールタは明らかに自分を殺すことを認めていた。彼は『悪魔との対話』の中で、
「その<怒り>を殺すことを、立派な人々は称め讃える。それを断ったならば、悲しむことがない。バラモンよ。(126項)」
と言っている。そう、仏教の自殺とは、怒っている自分を殺すことなのだ。愛欲の矢によって怒りを殺すのである。つまりエロスこそが人を怒りから救い、世界を一つにすることができる。よって萌えワールドに消滅するのだ。そこで子どもの頃のエロス教育が最重要課題になってくる。エロスは萌えである。それかエロス(ローマ神話ではキューピッド)が萌えか。その萌えの精神に子どもたちが目ざめ、思春期を過ぎても保っていれば、世界は愛と平和に満ちるであろう。カート・コバーンも『Smells like teen spirit』を歌い、思春期で大人の社会によって萌えが踏みにじられる苦しみを書きなぐり、大人の資本主義社会に反抗した。これから思春期に突入する子どもたちが新自由主義の消費社会の言説に呑込まれて洗脳されないようにするのが、我々の課題だ。マイケル・ジャクソンのような、いつまでも萌えの精神を忘れないアーティストを見習って。それは天の摂理であろう。そう、ジョン・レノンの『All you need is love』を『All you need is Moe』に換骨奪胎させるのだ。また、ロスで活躍される私の尊師であるLance殿の記事に、子どもたちの萌えが世界を救うという啓示が現れているのだ。

よって少年少女よ、エロス(愛欲)を抱け!

参考文献:
中村元訳『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤI』岩波文庫、2005年
中村元訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤII』岩波文庫、2006年



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【2007/02/08 11:35】 | 音楽
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