アメリカではシャワーとトイレがかならずセットになっている。だからトイレを米国では「バスルーム」という。いわゆる、おぞましきものを排除する場所だ。また韓国でも風呂とトイレが一つで、洗濯機も置いてあるが、漬け物まで置いてあるというのが、そこがちょっと欧米と違うところだ。
なにか日本の若い女性にとっては便秘になることが、綺麗になるための条件のようである。どうやらダイエットもしくは摂食障害と便秘はセットになっているようだ。とくにアイドルやモデルではそれが行き過ぎている。これもブルジョア(都市市民)の不潔感を裏手に取った潔癖性の一つなのかもしれない。都市ほど汚いところはない。都市宗教だった仏教も性欲を断つために女人を「大小便に満ちた女」と見るよう教えている。
「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、東京の買い倒れ」が日本三大都市の特徴である。「東京のやり倒れ」でも通じるが。江戸時代の「食う、打つ、買う」が現代では「着る、食う、買う」となったのだ。この三点セットとも言うべき消費三原則が消費社会の言説の根幹である。いわゆるブルジョア的ライフスタイルの確立である。これらは消費社会の罪とブルジョアのあいだでは認識され、そのため彼らは進んで布施を行う。罪滅ぼしのために。そして自らダイエットとエクササイズと禁欲に励むのだ。仏教はまさに「着る、食う、買う」に反旗を翻した都市宗教だった。ファッション、グルメ、恋愛を真っ向から否定したのである。都市社会では「恋愛」といえども、それはただ援助交際をより上品化させたようなものである。シッダールタの弟子たちの剃髪に糞掃衣、托鉢による少食、完全な婬欲否定、恋愛消費社会をそのまま否定しているのである。というか、それは古代インドも都市ではそのような恋愛消費社会が既に確立していたいう可能性を示唆するのだろうか。つまり都市社会が確立しなければ、仏教は起きなかった。資本主義が確立しなければ、プロレタリアート革命が起きないとマルクスが言ったように。萌えもまさに消費社会に対する反抗である。なにしろ萌えが性欲に取って替わるというのは、物質主義的なブルジョアを否定することにほかならないからである。
だが、都市社会が確立する前の日本ではトイレとセックスはどうだったのだろうか。仏教の糞尿によるセックスの否定の根拠を都市社会以前に見いだせるのだろうか。たぶん日本は日本書紀の時代から糞尿は肥料として利用されたのだろう。イザナミはアイドル女優の対極にあるわけだが、彼女は火の神を陰部から、水の女神を尿道から、そして土の女神を肛門から産んで死産した。そして土の女神と火の神が交わって穀物神が産まれた。それは焼き畑を象徴している。また女神の糞尿が農業に不可欠であったことも示している。陰部の火の神はきっと月経の血であり、マグマは赤くて炎を帯びて森林を焼き尽くので、またポリネシアの島などでは溶岩の通ったところは畑に使われるらしい。
また『古事記』では川でお通じ中の女神が弓矢でナンパされたことも記録されている。
日本神話は排泄と性行動を賛美しているようだ。つまり輪廻肯定、穢土肯定の穢土真宗といったところだろうか。だから神話時代の男に、
「女人は大小便に満ちている」
と言っても、
「それがどうした、当たり前だろ。だれだってそうなんだよ」
という反応をするだけで、厠でナンパを続けたことであろう。
仏教は身を不浄と見よと言った。しかしそれは都市の潔癖性だけに通じる概念であり、古事記にもあるように都市文化が発達していない文明では厠が恋人の出会いの場であった。つまり森と共存していた人にとっては排泄も人間の営みの一つであり、「自然」なことであったのだ。森と共存していた人は神に近かったのである。というか神とともに暮らしていたのだ。「くさい」「くさ」「くそ」はエコロジーでは当たり前なのだ。しかし都市文化では排泄はもっとも卑しいものとなって追いやられた。だからお通じ中のナンパは犯罪行為となってしまった。それに森への回帰は性への回帰でもあるのだが、シッダルータは性を都市的なものだとして退けたのだろう。在家は都市で出家が森林、それが性でも分化したことがシッダールタの特徴である。つまり彼にとってセックスは都市的だったのである。
しかし人は森でセックスを習ったのだ。自然からセックスの楽しさを学んだ。『日本書紀』にはイザナミとイザナギは鶺鴒の交尾を見て、セックスの仕方を覚えたという。ということは日本人の性体位はバックが主流だったということであろう。
よって本当の自然回帰とは、トイレとセックスが結びつくことである。アメリカではトイレとシャワーは一緒である。またシャワーでセックスすることもある。日本も近代までは混浴が当たり前であった。当然、温泉はセックスの場となったはずである。またセックスは恋愛が独占するのではなく村人全てで共有していた。映画の『楢山節考』を見れば一目瞭然である。だから醜女だろうが美女だろうが、醜男だろうが美男であろうが、だれでもセックスできた。というか、ちゃんと順番が回ってくるので、皆平等だった。セックスの前での平等である。そして最も重要なことはトイレが出会いの場所、ナンパする社交の場であったということだ。現在の恋愛資本主義では喫茶店で合コンをしてセックスの相手を探り出す。それはニコチンとカフェインの悪臭が充満している場所である。しかし、都市文化の発達前は、川屋の悪臭であった。それが森の文化であった。川屋で匂いづけした女性が、男を惹き付けていたのだ。フェロモンはとくに糞尿に含まれているらしい。だからフランスのブルジョア女性の高級香水になると糞尿が含まれているのである。そう、女子川屋、いわゆる女性トイレが恋愛の発芽、つまり原始的「萌え」だったのである。それが「萌え」の自然回帰であろう。「萌え」を引きこもり専用の都市の個室から自然へ返そう。都市化した「萌え」を再び自然へ。
したがって、古代の萌えに憧れている環境保護家の恋愛はトイレから始まるのだ。よって、環境保護家の老若男女よ、トイレでナンパせよ。それぐらいしなければ消費社会の恋愛の言説に対抗することはできないだろう。「トイレの恋」がこれからの恋愛をリードし、新自由主義的恋愛を打破するのである。それこそが、革命である。よって、革命はトイレ(バスルーム)から始まるのだ。したがって、全世界の青少年よ、
女子トイレに乱入せよ!
*注意:
これはあくまでもシンボリズムであり、本当にやると人権侵害であり、立派な犯罪行為である。良い子の皆は絶対にやらないように、また悪い子の皆も絶対にやってはいけない。悪い子も注意の対象としなければならないのだ。それこそ悪人正機というものである。
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、2006年
坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀(1)』岩波文庫、2000年
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫、1999年




なにか日本の若い女性にとっては便秘になることが、綺麗になるための条件のようである。どうやらダイエットもしくは摂食障害と便秘はセットになっているようだ。とくにアイドルやモデルではそれが行き過ぎている。これもブルジョア(都市市民)の不潔感を裏手に取った潔癖性の一つなのかもしれない。都市ほど汚いところはない。都市宗教だった仏教も性欲を断つために女人を「大小便に満ちた女」と見るよう教えている。
糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何なのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。(スッタニパータ835)そして少食を促しているのだ。つまり、仏教はトイレも性も不浄として避けたのである。少食と性欲の制御と便秘は消費社会の罪を拭うために行き着くところの潔癖である。少食になれば排泄量も少なくなるし、よって大小便に満ちることはなくなる。また脱いでみたら骨と皮だけという激やせ女性に性欲が沸くはずもなく、また女性自身の性欲も減退し、月経までも止まってしまう。それが都市社会の潔癖の行き着くところである。
「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、東京の買い倒れ」が日本三大都市の特徴である。「東京のやり倒れ」でも通じるが。江戸時代の「食う、打つ、買う」が現代では「着る、食う、買う」となったのだ。この三点セットとも言うべき消費三原則が消費社会の言説の根幹である。いわゆるブルジョア的ライフスタイルの確立である。これらは消費社会の罪とブルジョアのあいだでは認識され、そのため彼らは進んで布施を行う。罪滅ぼしのために。そして自らダイエットとエクササイズと禁欲に励むのだ。仏教はまさに「着る、食う、買う」に反旗を翻した都市宗教だった。ファッション、グルメ、恋愛を真っ向から否定したのである。都市社会では「恋愛」といえども、それはただ援助交際をより上品化させたようなものである。シッダールタの弟子たちの剃髪に糞掃衣、托鉢による少食、完全な婬欲否定、恋愛消費社会をそのまま否定しているのである。というか、それは古代インドも都市ではそのような恋愛消費社会が既に確立していたいう可能性を示唆するのだろうか。つまり都市社会が確立しなければ、仏教は起きなかった。資本主義が確立しなければ、プロレタリアート革命が起きないとマルクスが言ったように。萌えもまさに消費社会に対する反抗である。なにしろ萌えが性欲に取って替わるというのは、物質主義的なブルジョアを否定することにほかならないからである。
だが、都市社会が確立する前の日本ではトイレとセックスはどうだったのだろうか。仏教の糞尿によるセックスの否定の根拠を都市社会以前に見いだせるのだろうか。たぶん日本は日本書紀の時代から糞尿は肥料として利用されたのだろう。イザナミはアイドル女優の対極にあるわけだが、彼女は火の神を陰部から、水の女神を尿道から、そして土の女神を肛門から産んで死産した。そして土の女神と火の神が交わって穀物神が産まれた。それは焼き畑を象徴している。また女神の糞尿が農業に不可欠であったことも示している。陰部の火の神はきっと月経の血であり、マグマは赤くて炎を帯びて森林を焼き尽くので、またポリネシアの島などでは溶岩の通ったところは畑に使われるらしい。
また『古事記』では川でお通じ中の女神が弓矢でナンパされたことも記録されている。
故、美和の大物主神、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢に化りて、溝より流れ下りて、その美人の陰(ほと)を突きき。(87項)これも厠(川屋)の起源だろうか。まさに厠の恋愛である。ギニア出身のサンコン氏も地元では小型弓矢を使って女をナンパする風習があると言っていた。これぞ、シッダールタの言っていた「愛欲の矢」である。西欧的に言えば、「キューピッドの矢」だ。大物主神は日本のキューピッドだったのである。だが、もしアメリカで女子トイレに入ってナンパしたら、それこそセックスオフェンダーとして司法局に登録されてしまう。
日本神話は排泄と性行動を賛美しているようだ。つまり輪廻肯定、穢土肯定の穢土真宗といったところだろうか。だから神話時代の男に、
「女人は大小便に満ちている」
と言っても、
「それがどうした、当たり前だろ。だれだってそうなんだよ」
という反応をするだけで、厠でナンパを続けたことであろう。
仏教は身を不浄と見よと言った。しかしそれは都市の潔癖性だけに通じる概念であり、古事記にもあるように都市文化が発達していない文明では厠が恋人の出会いの場であった。つまり森と共存していた人にとっては排泄も人間の営みの一つであり、「自然」なことであったのだ。森と共存していた人は神に近かったのである。というか神とともに暮らしていたのだ。「くさい」「くさ」「くそ」はエコロジーでは当たり前なのだ。しかし都市文化では排泄はもっとも卑しいものとなって追いやられた。だからお通じ中のナンパは犯罪行為となってしまった。それに森への回帰は性への回帰でもあるのだが、シッダルータは性を都市的なものだとして退けたのだろう。在家は都市で出家が森林、それが性でも分化したことがシッダールタの特徴である。つまり彼にとってセックスは都市的だったのである。
しかし人は森でセックスを習ったのだ。自然からセックスの楽しさを学んだ。『日本書紀』にはイザナミとイザナギは鶺鴒の交尾を見て、セックスの仕方を覚えたという。ということは日本人の性体位はバックが主流だったということであろう。
時に、鶺鴒有りて、飛び来りて其の首尾を揺す。二の神、見して学びて、即ち交の道を得つ。(30−32項)だが、その時代は人類の人口は少なかったのだろう。しかも、そもそも人口が増え過ぎたから資源を枯渇させて森林を破壊してきたのだから。シッダールタは人間性の根源であるセックスを断って、生態系を守ろうとしたのだろう。つまり縁起の法則によって森を営みを知り、その最大の破壊者が人間であることに気付き、人間を減らそうとして、セックスを断ったのだろう。十二縁起はまさに無明のためにセックスして子を作ると説明しているようなものだ。だから智慧があれば子孫は発生しないこととなる。少子化は智慧ある現象なのだ。また生態系のバランスを崩すことはない。森はバランスが取れたところなのだから。ところがどっこい、森とセックス、仏教はそれらを切り離したが、もともとは森とセックスは共存していた。森への回帰はセックスへの回帰であったはずなのだが、セックスを都市的とした仏教は完全に禁欲を貫いた。なにもセックスそのものまで禁止することはなかった、子作りに結びつきさえしなければ。ローマ帝国もキリスト教を採用したのは人口増加のためだと言われている。それまでのフリーセックスではローマ社会は少子化し国家が弱体していたが、セックスを結婚だけに束縛するキリスト教を国教にすることにより人口は再び増加し、ヨーロッパの森林は破壊されるに至った。つまり自然に近い自由なセックスのほうが森林に優しい、いわゆる「フォーレスト・フレンドリー」なのである。つまり、仏教は自然にありながら、自然に反していたのである。セックスが開放されている社会ほど少子化が進んでいるのというのに。だから人口抑制は自由なセックス、いわゆるフリーラヴが鍵となるのだ。かつてヒッピーがウッドストック69で大自然を謳歌しながら池で乳繰り合っていたように。よって、仏教は密教の登場まで、都市宗教の自縛から解かれることはなかったのである。それが仏教の限界であった。また「萌え」も都市社会の限界を超えられず、DVDもテレビもパソコンもない森では無用の長物である。また携帯もアラスカやロッキー山脈の森では圏外である。「萌え」は都市の制約を受けるのである。なにしろ「萌え革命」を生み出した秋葉は東京のど真ん中にあり、大山倍達の修行した山森とは全くの無縁なのだから。
よって本当の自然回帰とは、トイレとセックスが結びつくことである。アメリカではトイレとシャワーは一緒である。またシャワーでセックスすることもある。日本も近代までは混浴が当たり前であった。当然、温泉はセックスの場となったはずである。またセックスは恋愛が独占するのではなく村人全てで共有していた。映画の『楢山節考』を見れば一目瞭然である。だから醜女だろうが美女だろうが、醜男だろうが美男であろうが、だれでもセックスできた。というか、ちゃんと順番が回ってくるので、皆平等だった。セックスの前での平等である。そして最も重要なことはトイレが出会いの場所、ナンパする社交の場であったということだ。現在の恋愛資本主義では喫茶店で合コンをしてセックスの相手を探り出す。それはニコチンとカフェインの悪臭が充満している場所である。しかし、都市文化の発達前は、川屋の悪臭であった。それが森の文化であった。川屋で匂いづけした女性が、男を惹き付けていたのだ。フェロモンはとくに糞尿に含まれているらしい。だからフランスのブルジョア女性の高級香水になると糞尿が含まれているのである。そう、女子川屋、いわゆる女性トイレが恋愛の発芽、つまり原始的「萌え」だったのである。それが「萌え」の自然回帰であろう。「萌え」を引きこもり専用の都市の個室から自然へ返そう。都市化した「萌え」を再び自然へ。
したがって、古代の萌えに憧れている環境保護家の恋愛はトイレから始まるのだ。よって、環境保護家の老若男女よ、トイレでナンパせよ。それぐらいしなければ消費社会の恋愛の言説に対抗することはできないだろう。「トイレの恋」がこれからの恋愛をリードし、新自由主義的恋愛を打破するのである。それこそが、革命である。よって、革命はトイレ(バスルーム)から始まるのだ。したがって、全世界の青少年よ、
女子トイレに乱入せよ!
*注意:
これはあくまでもシンボリズムであり、本当にやると人権侵害であり、立派な犯罪行為である。良い子の皆は絶対にやらないように、また悪い子の皆も絶対にやってはいけない。悪い子も注意の対象としなければならないのだ。それこそ悪人正機というものである。
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、2006年
坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀(1)』岩波文庫、2000年
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫、1999年



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