NAFTAでのキモヲタのソナタ

本を読みました。『生きがいの言葉』というものですが、それは生きがいシリーズの総集編みたいなものですが、私にもっとも影響を与えた『生きがいの女性論』からの引用はありませんでした。ほとんどは前世や来世を前提としての言葉で、老病死を克服するために永遠の命を目指している者にとっては、来世などは、その夢を妨げるものですし、来世があるということは、つまり死ぬということですから。不死身に来世はないのですから。しかし、現在は不幸にも遺伝子工学が未発達なために人は必ず死んでしまいますから、そのメッセージで救われることは否定しません。私も、その夢がとうとう叶わずに息絶えてしまうなら、来世があると思いたいです。でも、私は楽観思考で生きます、
「必ず近い将来、不死身になれる!そして永遠の16歳になる!」
と科学の進歩に大いなる期待を寄せます。

『生きがいの女性論』でもそうあるように、生きがいは、やはり異性とのスキンシップです。スキンシップが欠落していては、まったく生きている気がしません。どんなに暖かい言葉をかけてもらおうとも、やはり触ってもわらなければ、愛は感じられません。ナザレのイエスも、人の病を癒すときは、スキンシップをとっていたではありませんか。南米にはそれがあります。だから、『生きがいの女性論』がもっとも素晴らしいメッセージだと思いました。スキンシップの奨励が『生きがいの言葉』からは、なかったので、この書物では、日本の潔癖文化を変えることは出来ません。私は、その日本の腐ったあまりにも礼を重んじる儒教的な皮膚感覚の拒絶が、問題の根幹であると思います。しかもその礼が年功序列と男尊女卑に基づいたもので、女の人は自ら異性に触ろうとしません。積極性に欠けるのです。男は女の子が触ってくるまでは、基本的に女性に触ることができません。じゃないと、痴漢となってしまいます。女性が触るとしても肌と肌をくっつけるものではなく、ただ背中や上腕をポンと叩くだけ、または服の裾をちょこんと引っ張ったりと、つんつんと指先で突っついたりと、まったく皮膚感覚が生じないものです。どんなに仲良くなってもそれです。あれでは、病んでしまいます。体全体で抱擁してくれなければ、どうしょうもないのです。異性との触れ合い、それがないものは、餓鬼となってしまいます。異性との皮膚感覚に飢えて死にそうになっているのです。キモヲタが大量に発生し、病んだ男たちが引きこもりとなり、虹難(二次元難民)が増えてしまいます。餓鬼界は掴んだ食べ物が炎に変わるという世界です。つまり、あまりにも飢えているために炎でさえ食べ物と勘違いしてしまうのです。
「飛んで火に入る夏の虫」
って言いますけど、まるで蛾がコンビニの紫色のランプの光に飛び込んで焼け死ぬようなものです。キモヲタはまさにそうです。スクリーンに映っている萌え系キャラの女の子にキスして、バチッ!と静電気で唇を切ってしまうようなものです。20代男性の4分の1が恋愛経験がないという、そんな悲惨なことはあるでしょうか?4分の1ですよ!そんなことがあっていいのか!それはあまりにもおかしい。彼らは出家したわけでもないのに。救いの手はそこに差し伸ばさないといけないのです。しかし、ネオリベラルの競争原理はさらに追い討ちをかけるばかり、だからスキンシップの代わりとして、麻薬の萌え系アニメにすがるのです。最後の希望は、萌え系アニメなのです。まるで、かつてのドイツ人の失業者たちがナチスにすがったように。「我ら最後の希望、ヒトラー」というポスターのように。
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そして、飛んで火に入る夏の虫となってしまったのです。

私も日本にいたときは、女性との皮膚感覚が欠落していたために、精神がおかしくなり、無意味な言葉を呟きながら、陸橋の上をぶらぶらと歩いているだけでした。そこから飛び降りようかなぁと、夢想しているうちに本当に飛び降りて、で、清水の舞台から飛び降りたら、アメリカ行きの飛行機に飛び乗ったんです。そう、崖から落ちて猛スピードで落下しているときに、箒に乗って飛んでいる魔法使いの女の子が私をキャッチしてくれるような心境でした。魔女の宅急便か、ナウシカのような。そうして、私は魔法使いの女の子の後ろに捕まり、太平洋を横断したのです。

日本は、まったく皮膚感覚が欠落しています。皮膚感覚がないというのは、どんなに苦しいことか?その苦しみは言葉では表現不可能です。ヴィトゲンシュタインもそう言ってたし、ジョン・レノンは、
「神は人の苦しみの尺度だ!」
と無神論を宣言した「God」という曲で、叫んでました。まぁ、私の場合はキモヲタですから、「神」ではなく「萌え」ですけどね。
Moe is a concept by which we Kimowotas measure our pain.(萌えはキモヲタの苦しみを量る概念だ!)
と私は叫びます。

私の思春期、青春期、学園時代、異性との皮膚感覚はまったくありませんでした。私は小さいときからアニメが好きで、おとなしい子でした。スポーツは苦手で、どちらかというと部屋でお絵描きしたり、アニメを見たりするのが私にとってはもっとも楽しい時間でした。学校は嫌いで、とくに体育の授業がもっとも嫌いで、体育の授業があるときは、いつも保健室に行ってサボってました。でも、体育の授業のある日はお腹が痛くなったので、具合が悪かったのは本当です。仮病ではなかったのです。美術と音楽は予算カットになったのに、体育がなくならなかったのは、私にとってはもっとも不条理でした。しかし、もっとも学園で嫌悪感をもったのは、体育会系の先公と体育会系の同級生でした。そう、DQNです。それが最大の登校拒否の原因ですね。体育に嫌悪感を持ったのは、スポーツが不得意だからでなく、彼らのカバの糞のようにまき散らす言説が原因です。彼らはとても暴力的で野蛮で凶暴で、見るからに卑しい存在でした。なにかにつけて、彼らは私をぶん殴る機会をうかがっていました。私がアニメ好きで、彼らとはまったく違ったためです。でも、彼らの言説が支配していたのですから、それに私は当てはまらなかったのです。彼らが口を揃えて中傷した言葉は、
「女々しい、タマキンついてるのか?」
ということでした。そして暴力を振るわれるのです。だから、思春期の皮膚感覚の記憶というのは、激痛を伴うもの、そうパンチとキックによって埋め込まれたものなのです。

それに成長期では、ちょっと成長が遅れている子と圧倒的な体力の差が出来ますから、私は学年では身体が平均より低いほうだったので、とてもその暴力に太刀打ちできませんでした。まぁ、アメリカの憲法のように銃所持が認められていたら、正当防衛もできたんですが、日本は憲法で武装は禁止されているので、弱者はどうしょうもありません。だから、私はただ逃げまわるしかなかったですね。かならず迂回して教室を移動していましたが、やはり狭い学園では、どうしてもブチ当たってしまいます。しかし、どうして放っとかないんでしょうかね。彼らの権利を私が侵害したでしょうか?それで暴力を受けなければいけないとは、正義はどこにあったのでしょうか?

でも、そんな煉獄のような学園でも、完全に登校拒否にならなかったのは、やはり女の子たちの存在でした。女の子が唯一の希望だったのです。だから、私は好きな子たちに一心に希望を託したのです。しかし、女の子たちは、私に振り向いてくれませんでした。なによりも憤激したのは、体育会系の奴らに女の子が集っているということでした。どうしてあんな野蛮な連中に性欲が沸くのか、まったく理解できませんでした。DQNは、残忍で、凶暴で、野蛮で、残酷で、冷酷で、残虐で、好戦的で、サディストで、セクシストで、レイピストで、血に飢えた野獣なのです。それに比べて、ヲタクは奴らのように暴力を振るったりしませんし、とてもセンシティブで優しいんです。しかし、そんなヲタクをなぜか女の子は避けてました。告白した子は、悉く拒絶しましたし、当時のヲタクに対する偏見も助長して、私は変質者のように認識されていました。私がもっともすがっていたもの、それは女の子の優しさだったんです。しかし、私にそれはとうとう訪れませんでした。彼女たちにどんなに抱きつきたかったことか…。その抱擁とキスで私をいたわって欲しかった…。その柔らかい胸に顔をうずめて泣きつきたかった…。そしてその膝枕の上でお寝んねしたかった…。しかし、DQNに洗脳された彼女らは、私たちを「キモイ」といって、まったく相手にしてくれませんでした。そして、私は絶望し、引きこもりとなり、また外に出ては、陸橋をぶらぶらして飛び降りようと夢想してましたが、そんな状況に耐えきれず、とうとう日本を捨てて、NAFTA(北米自由貿易協定圏)に移住するにいたったのです。

でも、まさか『Serial Experiments Lain』のような、あの自殺願望のシンボルだった陸橋が小泉劇場の観客席になるなんて…。女子高生が陸橋を埋め尽くして、情熱的に演説する小泉を携帯でパチパチ撮ってましたからね。あんな群衆の重さによく陸橋も耐えられたなぁと思いました。信じられない光景でした。今でも小泉が総理大臣だったということが信じられません。まぁ、小泉政権時には、私は日本にいないので、実感が沸かないというのは、当然かもしれませんが。でも、ほんと、手品を見ているようでした。小泉はアメリカ型なので、日本ではリーダーになれないだろうと思ってましたから。しかし、彼の皇室典範改正案が頓挫したことからも、やはり日本のオヤジとクソジジイどもの腐り切った救いようのない精神性が伺えます。DQNの言説は、変人一人では、どうしょうもできないのです。つまり、私が去った時から、日本の本質はまったく変わっていないのです。
「ああ、やっぱり欧米と違って日本だからなぁ」
と納得してしまうんです。

日本は、体育会系が支配する社会で、そこで私は、キモヲタとして迫害され、とくに女の子の態度は冷酷そのものでした。儒教的男尊女卑年功序列という腐った道徳が蔓延してる為に、体育会系のDQNが政府、官僚、自衛隊、警察、企業、労組、学校に蔓延り、日本社会の腐敗のもととなっています。戦後、マッカーサーによって、DQNの集まりによる軍部の支配と横暴から日本と東アジアは解放されましたが、しかし、その頂点にあった裕仁の責任は放置され、軍国主義のシンボルであった靖国は解体されることなく、GHQはさっさと占領を終えて、ファシズムの根幹であったDQN根性が野放しとなってしまいました。憲法9条はたしかに日本を武装解除しましたが、人民レベルでは、それは達成されず、そのままずるずると60年経ってしまったのです。あの時、ちゃんと改革していれば、こんなことにはなっていなかったんです。改革が不十分だったのです。彼らにとっては、日本が二度とアメリカに逆らうことなく、共産圏に対する防波堤になりさえすれば、それでよかったんです。で、
「陛下の上にはアメリカがいらっしゃる」
というメンタリティーを植えつけられ、復員兵のDQN国粋主義者は今度はフィクサーとしてCIAに使われることになったのです。DQN根性がそのまま解体されることなく逆にアメリカに利用されたんです。だから、いたるところに体育会系が存在したのです。政治団体だろうが、労働組合だろうが宗教団体だろうが、大企業、中小企業、零細企業、体育会系が仕切っている社会です。つまり日本社会それ自体が腐っているのです。当然、日本の教育を高校まで受けた私も、体育会系方式で教育を受けました。しかし、いまだに丸刈りを強制する体育会系軍国主義学校が日本に存在するとのことです。まるで戦時の男子は丸刈り、女子はおかっぱのような。それはただちに排除されなければなりません。軍部主導の戦争の反省がまったくなっていないのです。ジェンダー指数では世界の先進国で最低であり、女性を蔑むイスラム国家と順位を競うほど遅れています。体育会系が撲滅されない限り、日本社会は良くならないのです。改革は進みません。

やはりアメリカ占領時に日本の民主化が徹底しなかったのが大きいのです。あの時こそ、日本を根底から改革するチャンスだったのに。それは、やはり儒教的家父長的制度の家父長的存在であった裕仁を退位させるか処刑したなったことが、もっとも大きいです。まるでアフガニスタンでタリバンを崩壊させたのに、タリバンの腐敗した道徳は排除されずにそのまま残っているようなものです。その服従構造の道徳の頂点に裕仁が君臨してたんですから、裕仁に責任を取らせて排除しなかったことは、タリバンの膿みが残留する結果となってしまいました。それで、日本ももっとも醜い部分、そう、軍国主義が形を変え、抑圧的な体育会系DQNが横行する社会となってしまったんです。で、子供は体育会系の部活動でDQNメンタリティーを叩き込まれていくのです。だから、彼らはスポーツを楽しんでいるのではなく、体育によって体育会系根性を叩き込まれ、いつの間にか凶悪犯のような凶暴性を身につけているのです。それは、まさにアイヒマン心理そのものなのです。南京集団レイプ事件も、あのような凶暴性を植えつけられた皇軍ならやりかねないと世界に納得されても、不思議ではないのです。下の図表は、その服従の構造です。
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日本では、スポーツマンと体育会系は混同されてますが、それは大間違いです。はっきりと断言しますが、DQNと体育会系は、スポーツマンではありません。スポーツマンは、日本では住みにくいはずです。なにせ、日本にはスポーツ教育というのがない、それにかわって「体育」という豚の下痢のような悪臭とギョウ虫にまみれた毒素の器が学校を汚染しているのですから。生徒に排泄物を無理矢理食わせるようなものです。かつてナチスの強制収容所でSS将校がシマシマの囚人服を着たユダヤ人にそうしたように。体育着は、まさに囚人服です。あれで、女の子はブルマを穿かされ、辱めを受けるのです。で、体育教師は一望管理システムの所長のように笛で服従の合図を出すのです。あれが、スポーツ教育と言えるでしょうか?いや、絶対に違います、それは「体育」です。ダイオキシンによる環境汚染という以前に、体育による学園汚染ですね。地球温暖化という以前に、日本DQN化ですね。それこそ、日本版の『不都合な真実』です。

そもそもスポーツは英語で「sports」ですが、「sport」は、ずばり「楽しむ」という意味です。フランス語の「disporter」が語源であり、des(離れて)+ porter(運ぶ)で、英語でいえば「carried away」ですね。で、disportのdiが省略されて、sportとなったのです。もちろんスペイン語でもスポーツは「deporte」と言います。つまり、スポーツとは遊ぶことなのです。欧米の人々はその概念を言葉で理解しているのです。この「遊び」の要素、それこそがスポーツの真髄なのですが、DQNはそれをすべて「体育」にしてしまったのです。だから、私は体育の授業はいらないと思ったし、参加することもないので、サボったのです。あれは楽しめない、つまり「スポーツできない」となりますから。スポーツするを「楽しむ」と訳せば、日本でスポーツがここまで歪曲されることはなかったでしょうね。日本の学校の部活動はスポーツではありませんから。あそこは、社会の害毒を生産しているダイオキシン工場ですから。試合に負けて部員すべてが丸刈りになるとか、ああいうのは、どう考えても人権侵害でしょう。しかし、根っこが腐敗している日本では、それが通じてしまうのです。それが問題にならないこと自体おかしい。そこでも、「先進国」と日本を位置づけるのが間違っています。経済力のみが発展していて、あとは髄まで腐り切っています。生理学に譬えると、癌が骨髄までに転移してしまったような状態です。

つまり、日本には何が必要か?それは、DQNメンタリティーを助長する儒教道徳の撤廃でしょう。そうすれば体育系部活動で子供が人格崩壊を起こし、DQNとして組み立てられるようなことはありません。なにしろ、学園で体育会系の野郎の先公どもが仕切っている為に、男の子たちはそういう卑劣な人間に育ってしまい、それで社会自体が腐敗してしまうのですから。あんなところにいたら、嫌でも健康を損ねます。精神性の低い国で精神性を高めるのは無理です。人を救うにはまず社会から改革しなければなりません。そうすれば、女性の地位は向上し、積極的にもなるし、男性に服従しなくてもよくなるし、独立したかわいさと美しさを手に入れることが出来ます。そして、そうなれば積極性も出てきますし、虹コン(二次元コンプレックス)やキモヲタにも皮膚感覚が生じることとなるでしょう。そう、『生きがいの女性論』で展開されたスキンシップ理論が日本でも実現するのです。まぁ、私は日本では、それは無理だと思ったので、日本を捨てたんですけどね。日本=絶望、アメリカ=希望という図式が私の頭の中にありました。絶望か希望か、もちろん希望に決まってます。しかし、いざアメリカに行くと、そこもDQN言説が蔓延しているネオリベラル社会でした。でも、そんな言説に対抗するリベラルな雰囲気の人々も多くいるのが、アメリカの救いです。それは、まさに希望です。で、アメリカはオバマが希望の土地に変えてくれそうです。それが「チェンジ」です。でも、オバマが大統領になれなかったら、私は、南米に行きますね。『生きがいの女性論』では、南米のスキンシップの素晴らしさを語り、そしてそれを私は実際に体験して来た生き証人ですから。

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【2008/05/14 02:04】 | 読書
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