![]() | The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dream (Three Rivers Press) (2007/11/06) Barack Obama 商品詳細を見る |
バラク・オバマの本を読みました。とても面白かったです。ところどころ笑いながら読んでました。いやー、さすがは、Everyman(スーパーヒーローではない一般人の主人公)のイメージを出してますね。以前、2004年の大統領選の時、ジョン・ケリー元民主党候補の本を読んだんですが、あれは超つまらなかった。まるでNHKスペシャルを見てるようなつまらなさでしたよ。医療保険の政策とか詳しく書いてありましたが、やっぱりちょっと頭がいいような書き方をしてました。生真面目過ぎてユーモアに欠け、人間味に欠けてました。ゴアもケリーもインテリなんですが、ブッシュのエリート意識を感じさせない人間味と、Everymanの感覚には欠けてました。ブッシュは、インテリゲンツァを
「あれは私の性質には合わない」
と言ってましたからね。ブッシュもイェール・ハーバードを出てるエリートですけどね。ハーバードを出てる人がハーバードを嫌う、なにか東大出の政治家が、政界と官僚の最大学閥である東大を批判して票を得るような感じですね。自民党総裁の小泉が自民党をブッ潰すと街宣車から叫んで、自民党を嫌悪してる大衆の支持を得るようなもんですね。で、ブッシュも小泉も、インテリの臭いを消して、人間味のあるユーモアで演説しますからね。とくに、小泉は、色々なパフォーマンスもやって、面白かったです。それに比べると、やはりジョン・ケリーはつまらなかった。
それで、オバマの本もはじめはつまらないのだろうと思ってました。なにせ政治に関する本ですから。つまらないだろうし、また難しい話と思いきや、いざ読んでみると、これが面白い。また、文体がとてもシンプルで、大学教授が使うような難解で知的な語彙もなく、文法もシンプルで、スラスラと読めました。そう、文体が口語的で、まるでオバマがパソコンを使って話しているような、文語よりも口語に近いアメリカ英語でした。そうですね、まるでブログでも読んでいるような。ブログも、文章は口語形式ですからね。あれは、会話の延長線上にあるような、独白のようなものですから。彼は文筆家というより演説家ですから、この本も演説的なのかもしれません。とてもスムーズでした。学者というのは、ついつい知識階級意識から、日常会話では耳にしない複雑な表現とか、大きな語彙を鏤めて、論文なんかを書きますから、それで読者としては結局内容がわからずに終わってしまうケースが多いのです。まるで、坊主がサンスクリット語でお経を唱えて、こっちは何を言ってるかわからないから、お経がありがたく聴こえてしまうようなものですね。オバマもハーバード大学を出ている法学博士ですし、知的エリートですが、彼の文章には、まったくそういうインテリゲンツィアな雰囲気はありません。それをあえて抑えて、シンプルにして、Everymanのイメージ作りに徹しているのでしょう。だから、彼の本は、ラテン語の聖書やアラブ語のコーランのようなありがたさはなく、とても大衆的なんですね。とてもシンプルに書いてありました。これだったら、アメリカの小学生でもなんなく理解できる文章だと思います。
まっ、逆に複雑な表現を知っているからこそ、あんだけシンプルな文章が書けるんでしょうね。ボサノバのギターの伴奏はいたってシンプルですが、本場のボサノバ・ギタリストは複雑なサンバというリズムを知っているからこそ、シンプルでもあそこまで味が出せるんでしょうね。つまり何がシンプルかを知っているのです。それで、あんな単純な伴奏でも、すっごくサウダージを感じちゃうんですよ。それと同じで、オバマも本を大衆向けといいますか、「人を見て法を説け」とでもいいますか、とてもわかりやすい文章で書いたんでしょうね。私のような思考回路が単純な大衆には、一番読みやすいのです(まっ、厳密には私は大衆にも属さず、そのもう一段下のサブのキモヲタですが…)。たぶん、政治学者が読んだら、
「あまりにも問題を単純化しすぎてる」
と批判するかもしれませんが、学者向けの本ではありませんからね。私向けに書かれてるんです。小泉の演説も、私にはもっともわかりやすかった。あそこまでわかりやすい政治家はいませんでしたから。彼も大衆の政治家だったのです。だから、彼はアメリカ型だったのでしょう。オバマも小泉も、大衆にメッセージを伝えるのはとても上手だと思います。
また、オバマの小さい頃のインドネシアの生活とか、白人のシングルマザーの子供として育てられたこととか、借金して授業料を払ったこととか、初めて選挙に出馬したときの支援団体との関係を築くのに苦戦したかとか、選挙で負けた体験とか、どうやって妻を口説いたかとか、家族として、二人の娘の父親としてのオバマとか、人間オバマとしての部分がとてもわかりましたよ。それは、みんな自分の生活と関連づけることができますからね。では、まず、一番おもしろかったものを抜粋しましょう!
yet no matter how much you tell yourself differently-no matter how convincingly you attribute the loss to bad timing or bad luck or lack of money-it's impossible not to feel at some level as if you have been personally repudiated by the entire community, that you don't quite have what it takes, and that everywhere you go the word "loser" is flashing through people's minds. They're the sorts of feelings that most people haven't experienced since high school, when the girl you'd been pining over dismissed you with a joke in front of her friends, or you missed a pair of free throws with the big game on the line-the kinds of feelings that most adults wisely organized their lives to avoid. (p107)
でも、どれだけ自分自身に違うように言い聞かせても、どれだけ自分の敗北の原因がタイミングの悪さ、運のなさ、資金のなさに帰結して納得できたとしても、ある特定のレベルで個人的にまるで自分が全コミュニティーに拒絶されたかのように感じないことは不可能であり、自分に器量が全くないという、また行くところどこでも人々の心には「負け犬」という言葉がチラついているという。それらは、ほとんどの人が高校以来経験してない類いの感情であり、自分のずっと気になってる娘に友だちの目の前でジョークとしか扱われずにあっけなくふられてしまうような、それか、大きな大会が目前にある試合でフリースローを失敗するかのような、ほとんどの大人たちがしたたかに生活をうまくオルガナイズして避けてきたこれらの感情。
そうかぁ!選挙に負けたときの心境は、学園で女の子にふられたときのショックのようなものなんですね!なるへそ〜。もちろん、1994年W杯決勝のバッジョのPK失敗のショックもわかりますが、自分にもっともピンと来たのは、やはりふられたときの衝撃。自分の好きな娘にふられたときのショックほどひどいものはない。それで、どうしても自分が全コミュニティーに、というか全世界に拒絶されたように感じちゃうこと。まるで日本全土に拒絶されるような。ああ、だから、私も日本を捨てたんですよ。キモヲタとして体育会系・DQNに洗脳された女の子たちにふられた上に、「キモイ」と言って相手にもされてなかったこと…。
「ねぇねぇ、きいてよ、きいてよ。あのキモオタ、あたしにコクってきたんだよ」
「えー、うっそー?気持ち悪ーい!最悪じゃん」
「自分の立場をわきまえろっちゅーの!」
ああ、彼女らの会話はもう十数年という歳月が経とうとも、鮮明に覚えている。この忌々しい記憶をぬぐい去ることは出来ない。オバマは、好きな娘にジョークとしてしか扱われなかったそうですけど、私なんか、ジョーク以下、そう、虫けら以下でしたからね。そんな彼女らが絶賛するのは、クラスの体育会系でした。完全に洗脳されてたんです。だから体育会系に毒されている国自体を捨てて、渡米したんです。そうですよ、やはり好きな娘にふられることは、そこまでショックなことなんですよね〜。痛いほどわかります。私も渡米しなければ、そのショックから立ち直ることは出来なかったんですから。ほんとふられたときは「世界の破滅だ!」と思い、窓から飛び降りようと思ったぐらいですからね。私も飛び降り自殺して、で、実際に飛び降りたらアメリカ行きの飛行機に乗っかって、渡米したんですけどね。選挙に負けたきの心境は、それに匹敵するぐらいショックなことなんですね。でも、オバマはよく選挙に負けてカナダに逃亡しなかったですよね。まっ、連邦下院議会の選挙に負けても、イリノイ州議員でしたからね。総選挙で負けても州議員としての立場は確保されてたんです。なにもかも失うっていうことはなかったですから。私は、なにもかも失って、それでもう失うものはないとして、思い切って渡米したんです。
"People who are hungry, people who are out of a job are the stuff of which dictatorships are made."(p155)
独裁政治というのは、失業して飢えている人民によって作られる。
これは、ルーズベルト大統領からの引用ですけど、やはりその通りですね。オバマも、失業によるフラストレーションから、人々は銃と宗教と排他主義にすがりつくと言ってますからね。まっ、私の場合は、Kimowotas who are out of love are the stuff of which Moe-ships are made.(萌えシップというのは、愛情に欠けてるキモヲタによって作られる)ですね。
Should we go with Leviticus, which suggests that slavery is all right and eating shellfish is an abomination? How about Deuteronomy, which suggest stoning your child if he strays from the faith? Or should we just stick to the Sermon on the Mount-a passage so radical that it's doubtful that our Defense Department would survive its application?(p218)
奴隷制が大丈夫で、エビ・カニ類を食べることが嫌悪であることを提案してるレビ記を適応しようか?もし自分の子供が信仰から脱落したら石打の刑に処すことを提案する申命記ならどうだろうか?それか、文節がとても過激な山上の垂訓にでも帰依しようかーはたして国防総省がその教えの応用に生き残れるかどうか?
そう、聖書をアメリカ社会に適応することは非現実的なのです。もしそのまま適応するとイスラム諸国のような人権蹂躙社会となってしまいます。また、ナザレのイエスの山上の垂訓も、戦争を完全否定するもの。国防総省がなくなったら、世界帝国アメリカは崩壊します。ということは、山上の垂訓が適応されてる憲法といえば、日本ですね。第9条です。日本国憲法第9条はキリスト教の至高の教義を体現したようなものですね。GHQ草案を書いた軍人はキリスト教徒でしたからね。しかも自分の国じゃないですから、そういう非現実的なことを適応させてしまったのです。もし自分の国に適応してるんだったら、自分は軍人にもなれないんですからね。GHQ自体が、キリスト教に抵触しますからね。だからオバマが大統領になっても、しっかりと政教分離の原則を守ってくれるので、安心です。
でも、オバマは、ラッキーですね。もちろん実力もありますが、なによりも強運ですね。連邦上院議会は、その90%以上の現職議員が選挙に勝つそうで、入れ替わりはとても少ないです。つまり現職議員に勝てる確立は皆無に等しい。でも、オバマが立候補したときは、現職議員が次の選挙に出なかったので、まぁ、いわゆる補欠選挙みたいなもので、立候補して受かったのです。つまり現職議員が次の選挙を辞退しなければ、連邦議員にはなれてなかったんです。大統領候補としての必要な知名度も獲得できなかったと思います。ほんと、アメリカの政治は硬直してます。平気で議員を20年以上やってる人とかいますからね。今にもくたばりそうなジジイとかがいますからね、最近倒れたケネディーがその最悪な例です。ほんとにそんな人に政治を任せていいのか?6年間の任期の意味がない。まるで終身じゃないですか。中曽根じゃあるまいし。それは大問題です。でも、そんな可能性の少ないところから、ここまで這い上がって来たのですから、ぜひとも、オバマには頑張って大統領になってもらいたいですね。
いやぁ、でもこの本は良かった。シンプルでわかりやすくて、さらにユーモアが入っていて面白かったというのがやはり良かったですね。そう、スムーズだったんです。
では、オレゴンの集会のときのビデオのリンクを。すごい人です。また、プエルト・リコでのオバマダンスの映像も。サルサは、NYのプエルト・リカンの作った音楽ですからね。カリブ海の音楽でダンスは、多文化のオバマにはまさにピッタリですね。ラテンはダンス文化ですから、オバマダンスは受けが良かったと思います。スペイン語で演説してましたし。また、エレン・ショーでも、ダンスしてました。とてもスムーズな動きですね。これからの大統領候補はダンスできないと駄目なんですね。鍵はスムーズさですね。いやはや、ニーチェは哲学はダンスだと言いましたが、政治もダンスになってきたんですね!

さぁ、ミスマル・ユリカについて調べたら、こんなことになりました。彼女は間違いなく、未来の卑弥呼かアマテラスですね。でも、ミスマル・ユリカ、もう十数年前のキャラなんですよね。『機動戦艦ナデシコ』は90年代中盤ですからね。たしかに絵のタッチが古いですね。でも、彼女は、当時のアニヲタの女神だったわけですからね。で、ユリカをテレビで見て、072してたわけです。そう、御七瓊之五百筒御統(おなにのいほつのみすまる)なのです。七はラッキーセブンの数字ですし、埼玉の語源が「幸魂(さきたま)」なので、御七瓊は、「ラッキーな玉」、つまり「埼玉」という意味ですね。七つの赤い玉だから、ドラゴンボールみたいですね。それに埼玉の旗は、勾玉がシンボルですから、ラッキーな玉の住民、つまり御七瓊の民、よって埼玉県民は、英語に訳すと「onanian(オナニアン)」もしくは「オナニア人」ですね。サルバドール・ダリの「偉大なる御七瓊人」にも通じますね。

宗教家は、瞑想によって神と一体になる梵我一如に達しますが、キモヲタは、妄想によって女神と一体になる萌えに達するのです。妄想に手の動きも加わりますけども、女の子は、妄想だけでオーガズムに達する人もいるみたいですね。いいなぁ。男は無理ですからね、手を使わないと。手を使わずに達するのは、男では、夢精の場合だけですから。そう、だから、ミスマル・ユリカは、スキンシップが欠落してる為にオナニーしかできないキモヲタによって作り出された女神だったのです。キモヲタは、みすまるの復活を求めているのです。そして、みすまるを擬人化したのがミスマル・ユリカだったのです。沖使徒神(おきしとしん)と繋がってますよね〜。キモヲタが求めているのは、キリストの再臨ではなく、みすまる(アマテラス)の再臨なのです。そう、みすまるの復活によって、スキンシップの謳歌をもたらし、オキシトシン効果をあげて、キモヲタたちを救うのです。かつて国家が誕生する前、明治以前にあったセクシャルな共同体の復活なのです。それこそ、みすまるのリバイバルなのです!
しかし、E Pluribus Umumは公式なモットーであったことは一度もなく、第二次大戦後、別の「In God We Trust」が公式モットーとなり、国家宣誓文では、「One Nation Under God」というフレーズが挿入され、「一神教の神を信仰し、その神のもとの一つの国家」というもので、Unumばかりが強調され、
「E Pluribusはどこへ行っちゃったんだ!」
という話ですね。
I pledge allegience to the flag of the United States of America, to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
だから、アメリカの三種の神器は13星の星条旗、13のオリーブ、13の矢だったんです。ところが、それが、50星の星条旗、銃、聖書に取って代わりました。で、鷲がアンクルサムに変わったのです。そう、かつては13のオリーブと13の矢が、勾玉と剣に相当しましたが、今では銃と宗教が剣璽なのです。13という数字が消えて、全部「unum(一つ)」になってしまったんです。一つの国家、一つの軍隊、一つの宗教というように。まるで、ナチスのスローガンですね、「Ein Volk, ein Reich, ein Führer(一つの民族、一つの国家、一つの指導者)」っていう。

しかも国家宣誓文には「indivisible(分裂不可能)」という言葉が入ってますね。このindivisibleが、まさに連邦から脱退した南部の州の行動を真っ向から否定するものです。つまり、州の最終手段である脱退権が否定されたのです。その州の権利を潰したのがリンカーンです。16代合衆国大統領リンカーンは、アメリカを連邦から国家に変貌させたとされ、リンカーンが「国家の父」別の意味で「建国の父」と言われます。KKKの映画である『国家の誕生』も、その視点でアメリカが描かれてます。よってアメリカでは、南北戦争後に国家主義が生まれたといいます。南北戦争で連邦政府が奴隷制を廃絶し、州を征服し服従させ、アメリカを統一し、あそこから帝国主義に暴走し、世界を服従させたという見解が、南部の人々にはあります。それまで横の繋がりだった州の共同体としての連邦が、州は連邦政府に属するという縦の支配構造になってしまったのです。「州あっての連邦」から「連邦あっての州」になってしまったのです。つまりリンカーンが「E Pluribus」を破壊したとされてるのです。そしてE Pluribusが完全に消滅したのは、第二次大戦後とされてます。そして公民権法案はその最骨頂で、あれで州の権利が完全に剥奪されたとしています。だから、南部の人たちに言わせれば、南北戦争は南部人がE Pluribus Unumのために戦った戦争だったのです。しかし、歴史的に州の権利を叫ぶ者が奴隷制度擁護、黒人の選挙権を認めなかった人種差別主義と結びついていると見られるのは、とても悲惨です。

その州の独立精神というか、偏狭的な愛州主義が南部以上に強烈なところはもちろん、ブッシュ大統領の地元のテキサスです(テキサスも厳密に言えば南部ですね、南北戦争では、アメリカ連合国側でしたから)。JFKもそこで狙撃されましたから。テキサスはE Pluribusをとても尊重していて、テキサス主義というのを、全面的に打ち出してます。「テキサスがあってアメリカがある」という考え方です。アメリカの公立の小学校では、毎日の朝礼で全員起立して胸に手を当て、星条旗に向かって国家宣誓文を暗唱しますが、テキサスの小学校では、テキサス州旗に向かってテキサス州宣誓文までも暗唱しているのです。
Honor the Texas flag; I pledge allegiance to thee, Texas, one state under God, one and indivisible.
つまり、テキサス主義が学校教育で徹底されているのです。それだけ、子供のときから、テキサス精神というのを植えつけられます。だから、ブッシュを嫌っているディクシー・チックスも、テキサン・メンタリティーから同胞のブッシュを批判しているのです。彼女らは、紛れも無くテキサス州粋主義者たちなのです。よって、彼女らの目の前で、テキサスの悪口を言いでもしたら、
「Don't mess with Texas!」
とライフルで撃たれるでしょうね。なにしろ、バンド名が「ディクシー(南部人)」ですから、彼女らは、連邦市民というよりも、テキサス人という意識の方がはるかに強いのです。そういう州では、まだ昔ながらのE Pluribus Unumは残っているのでしょう。
しかし、日本も、「みすまる」がどうやら消滅してしまったようです。Unumばかりが強調されてるようですね。特に明治維新の強力な中央集権化で、みすまるが完全消滅したんでしょうね。宗教に関しては、それまでの神社がすべて伊勢神宮を頂点としたヒエラルキーに属するという国家神道に統合され、神社の数も統廃合されて、中央政府の管轄下になりました。それで地方の氏神信仰も大打撃を受けました。そして、靖国神社が建設され、天皇の神格化が絶対化され、それを批判することは不敬罪となりました。天皇が絶対である天皇制絶対主義による国家主義だったのです。つまり、アマテラスと天皇の一極型の支配です。それに反対した出雲派などは、独自の教団を創って、教派神道として生き残ります。言語にしても、明治政府によって人工標準語が作られ、それが普及し、現在では田舎の若者でさえ日本の共通語、いわゆる首都圏方言を使うようになって来ているようです。田舎を舞台にしたアニメでも、声優が標準語を使ってますからね。フランスでも、方言は死んで来ていて、以前南フランスのトゥルーズ出身の女の子と話しましたが、彼女の世代は、方言を使わないそうです。アメリカでは、方言というものはなく、訛りぐらいですが、南部でも都会では、アクセントが標準語化してきてるようです。最近脳腫瘍が発見されたテッド・ケネディーも、元民主党大統領候補のジョン・ケリーも若い頃はマサチューセッツ訛りでしたが、今では標準語で話してますね。ブッシュは、そこを意識して、テキサス訛りのままで話してます。それも、市民には、E Pluribus Unumを意識させ、とくに愛州心の強い州で、票を獲得したんでしょうね。
で、日本でE Pluribus Unumの弱体化で一番いけなかったのが、スキンシップの欠落を引き起こしたことです。明治政府によってみんな貴族のように名字をもたされ、家意識を叩き込まれ、社会が村単位から、家・国家単位となってしまったのです。「家族も村のうち、団子大家族」というのが、家族は国家の基盤という国家主義による戸籍制度によって覆されました。名字の採用で、家意識が強くなり、村意識が弱まりました。村という共同体は、オキシトシンによって繋がってしましたが、それが国家主義によって切り崩され、オキシトシンが欠如した社会となってしまったのです。つまり、オキシトシンを欠如させることによって、疎外感を起こし、よって、村から国家への帰属意識が強くなったのです。そう、横の繋がりが弱くなったために、縦の繋がりが強くなったのです。そして、その縦社会の頂点には天皇がおり、「天皇あっての日本」という天皇中心主義が横行し、それで主権も在民にはなく、天皇にありました。明治憲法下の政府は、「天皇の天皇による天皇のための政府」だったのです。そこでは、E Pluribusは完全に消滅し、天皇一極型のUnumが統治機構となり、在民は、天皇に支配される臣民となりました。そして天皇は皇室典範によって男系男子とされ、女性は排除されました。それに伴い、家族も、家父長を頂点として構築され、戸籍に属する者の名字は戸主のものであることが強制されました。戸主に服従し支配される制度です。そして、天皇主義による家の強化は、他の村人や近所との差別化がおこり、子供が気軽に他人の家に遊びにいって泊まってゆくとこもなくなり、そして、とくに大人が遊びにいって泊まってゆくこと、つまり大人の世界では、「夜這」がなくなってしまいます。南米でいう、
「mi casa, tu casa (あたしんちは、おまえんち)」
という共有精神が崩壊したのです。そして、西洋のキリスト教倫理観が入って来て、紳士淑女のたしなみというものが横行し、男女の触れ合いの温かさが消え、セクシュアリティーが束縛され、スキンシップが欠如してしまいました。その教育勅語のイデオロギーが完全に浸透し渡ったのが大正時代、まさにメイドブームが始まった時なのです。メイドブームはまさに近代病が作り出した現象だったのです。それは、現代の萌えブームにも通じます。そうやって、それまでのみすまる精神が、木っ端微塵に砕け散ってしまったのです。日本の潔癖文化というのは、つい最近のことなのです。近代家族の成立と国家の誕生は同時進行だったのです。明治の天皇主義は、みすまるを崩壊させたのです。さらに、その傷跡は現代まで続き、その最悪のダメージを被っているのが、現代のキモヲタたちなのです。かつてあった横の関係、そう、異性とのスキンシップの回復、よって、そのみすまる(E pluribus unum)の復活をキモヲタたちの総意によって待望したのです。そして、その「みすまる」の名を冠したアニメ・キャラが出て来たのです。それこそ、ミスマル・ユリカでした。

で、大和連合国の国一つ一つが、アメリカの州が星で表されるように、玉で表されていたんでしょう。星も基本的には玉ですからね。球体ですから。太陽は、星の一つですし、あれも球体です。そう、星も玉の一つなのです。また玉も魂も両方とも「たま」と読みます。だから、魂が球体であるという考え方ですね。人魂なんか、人玉ですし、あれも球体が燃えているわけですから、それは星なわけです。エジプト神話でもオシリスが死んで、星になったといいますし、星を人や動物の生命体や神と見立てる星座がありますし、それによって星占いをして恋愛を楽しんだりします。また、七夕の牽牛と織女の逢い引きを「星合い」と言いますし、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』でも、二人を「star-crossed lovers」と表現されています。星合いは、悲劇の恋愛の代名詞なのです。星合い、というか玉合い。「魂合う(たまあう)」は魂が結ばれる、つまり、恋愛が起こるということですね。その星合いが州レベルでもおきる。つまり、一人の人間と同じように一つの政治的共同体が魂をもったもの、生命体と見られていたのです。その基本が州だったのです。その州民の元型、集合的無意識、つまり州精神が星に象徴されてたんです。
玉は、「美しい、いたって優れてるもの」、「美人」という意味ですし、「人材」という意味ですね。で、ハリウッド・スターも、星というのが「いたって優れているもの」という意味合いなんですね。そういうところでも、星と玉の意義が一致している。また、星は、人の偉業を達するための目的であり、それは「reaching for the stars(星に届く)」という観念に通じます。やはりそれは、「いたって優れているもの」つまり理想、または崇高な目標が星に象徴されるのでしょう。そして、それは星に合うことであり、星合う、魂合うことで、アメリカの偉業が達成される、つまり13州が星合ってイギリスの支配から解放され、独立を達成したのです。ということで、大和連合国も、合衆国も、「玉の集まり」「星の集まり」だったんですね。そして、星の集まり、いわゆる星座を英語で、constellationといいます。また、constellationは、「集い、組み合わせ」という意味もあり、つまり「みすまる」なのです。事実、13の星は、constellationを表しています。また、「みすまる」の語源の「統(す)ばる」も、散開星団プレアデスの和名の「昴(スバル)」の語源ですね。そう、「みすまる」も英訳するとconstellationとなりうるのです。
また勾玉の色は赤だったそうですし、事実、八坂瓊の「瓊」は、「赤い玉」という意味ですし、カリフォルニアの州旗にある星も赤いですね。そして埼玉県章の勾玉も瓊ですね。そこでも、日本の勾玉とアメリカの星は共通するわけです。さて、赤い玉というのは、なにを象徴するか?まずは、赤い玉といえば、太陽ですね。アマテラスは太陽の女神だったので、彼女の勾玉も太陽を表しているのでしょう。それに、彼女を連合国の首長だったとすれば、その各国の王も太陽の権威を象徴していたのでしょう。それで、勾玉それぞれが各国の太陽の権威を象徴し、八つの勾玉のみすまるは、国の集まりである連合のシンボルだったのかもしれません。だから、連合時代は、太陽の権威は、大王(のちの天皇)の専売特権ではなかったのです。そうなれば、アマテラスとは別に猿田彦が太陽の権威としての王だったという説もうなづけます。それを裏付けるかのように、各地域の君主が、大王への服従(または降伏)の証として三種の神器を差し出したと記録されてます。ヨーロッパでも、降伏した者は勝者に剣を差し出しました。そうやって、国譲りが行われてきました。よって、太陽の権威は、もともと大王の独占権ではなかったのです。しかし、大王は完全に国々を征服し、
「天下に君主は二人はいらぬ」
として各国から神器を奪い、太陽の権威を独占するようになったのです。神武東征も、そのプロセスなのです。神武が征服した近畿の王は、太陽の権威または国の象徴として、天津瑞としての天璽瑞宝十種(十種神宝)、または天羽羽矢(あまのははや=蛇の呪力をもった矢)と、歩靫(かちゆき= 歩きながら弓を射る時に使う矢を入れる筒 ヤナグイ)を持っていました。ちょうど、アメリカ国章の13の矢が、それぞれの州を表しているようなものです。つまり、太陽の権威は大王だけのものではなかったのです。しかし、最終的に神武は、近畿を征圧し、近畿の王は、国譲りの印として天津瑞を神武に差し出しました。近畿王の天羽羽矢と歩靫が神武に移譲されたことは、近畿軍の統帥権が神武に移り、近畿軍は解散させられ、神武軍に吸収されたことを象徴しているのでしょう。それで神武が日本唯一の君主となります。よって、大王は日本唯一の太陽王となったのです。それで、みるまる(多数から一つ=E Pluribus Unum)は、崩壊しました。まるで、ラオウが各流派の拳法の秘伝を奪い、
「この世に伝承者は二人はいらぬ」
と伝承者を抹殺して、拳法の秘伝を独占し、拳法の王、「拳王」となるようなものですね。
また、赤い玉は太陽の他になにか象徴するものはあるのか?人間で赤い部分は唇ですが、アマテラスのみすまるだったということは、ワギナだったのではないかと思います。ワギナはなんといっても、生命の根源、魂の根源ですからね。この写真では、ワギナのネックレスが、いかにも赤い玉のように見受けられます。そして、アメリカのフェミニストアーティストのジュディー・シカゴの作品に『ディナー・テーブル』というのがあります。それは、13個のワギナが三角形のテーブルの各辺に配置されているのです。つまり、三つの13、いわゆる、13の星、13のオリーブ、13の矢を、すべてワギナに置き換えたものです。つまり赤い勾玉をワギナと解釈することも可能ということですね。また、西洋では、国を女性として譬えますから、州のシンボルをワギナに置き換えても、不思議ではないでしょうね。星条旗の赤色のストライプも、母なる大地を表しますから、女性は赤いんですね。だから、埼玉県旗の16個の瓊も、ワギナなのかもしれません。
埼玉県の旗は、勾玉16個を用いて、環状にデザインしてますが、それは方角を表してるのかもしれません。16方位です。それか、勾玉の形の特性を利用して対の勾玉を陰陽魚太極と見立てれば、それは八つとなります。八坂瓊の「八」を表すことになりますね。ちなみに日本では「八」は無限を表します。だから、埼玉県旗のデザイナーは、アマテラスの八坂瓊を8対16個の勾玉でできたネックレス(みすまる)とイメージしてたんでしょうね。つまり、埼玉県旗は、八坂瓊を表しているんです。また、陰陽魚を反対にすれば、69ですし、それは、セクシャル・エネルギーとも捕れますね。事実、日本はセックスによって創世されたのですから。八つの性エネルギー、いわゆる無限の性エネルギーです。


この埼玉県旗は、アメリカ建国13州当時の国旗(通称ベツィー・ロス旗)の星にも似てますね。この13個の星も環状にまとまってますし、まさに「みすまる」ですね。本当にE Pluribus Unumという感じですね。
また、埼玉県旗は、皇室の十六弁八重表菊紋の影響も受けたのではないかと思います。16の勾玉を16の花弁に対応させたのでしょうか?
とにかく、みすまる(首飾り)は勾玉を集めて作られますから、よって、日本ももともとは大和連合国という連邦だったことを象徴してたのでしょう。まっ、国家主義が明治政府によって植えつけられる前であれば、日本人にはまだ「みすまる意識」なるものはあったんでしょう。でも、E Pluribus Unumの原型が日本にあったとは…、というか、まるでアメリカが日本のもともとの精神を真似たのではないかと思うほどです。この御統精神が、まさにアメリカのモットーなのですから。八尺勾玉は、その日本の古来のモットーですね。しかし、建国当時はこの二つの国の接点はまったくないですし、真似たということはないでしょうね。だから、アメリカが大和のシンボリズムを引き継いだということは考えられないですね。
そういえばオバマ流に言えば、現在のアメリカの三種の神器は、星条旗、銃、聖書です。それは、日本の鏡、剣、勾玉とおなじです。『オバマの失言』によれば、白人労働者階級は、失業のフラストレーションから銃と宗教にすがりつくと言いましたが、銃と聖書は、まさに剣璽(剣と勾玉)なのです。それも、まるで日本の三種の神器をそのままそっくり引き継いだような気がしてなりませんが、アメリカと日本には、まったく接点がなかったのに…、それもとても不思議です。たぶん、偶然でしょうね。もしやユングのシンクロニシティー?

私の好きなアニメの『機動戦艦ナデシコ』に、ミスマル・ユリカという戦艦ナデシコの艦長がいますが、「ミスマル」とは、不慣れな日本語の名前だと思い、それを調べることにしました。
1. 日米のモットー
合衆国のモットーは、E Pluribus Unumです。ラテン語で、「多数から一つ」という意味です。それは、13州が集まって連邦を形成してることを意味してます。そして、それは、アメリカの国章に刻まれてます。また、その国章は、私のパスポートにもあります。


鷲の右足には、オリーブの葉と実が13づつあります。これは、各州の平和の象徴です。で、左足には、13本の矢があります。これは、州の武力であり、各州が州軍をもっているということです。この各州の武装の権利は、修正第二条で保証されています。最近では、その条文は銃規制問題で取り上げられますが、実質は州防軍の保証を謳ったものです。で、鷲の嘴は、オリーブの方を向いているので、アメリカは平和を第一目標としているのです。そして、鷲の胸には、盾があり、それには13のストライプがあり、ストライプ自体は太陽の光を表し、赤は母なる大地を、そして白は自由を表しています。で、上には六芒星を形った13の星があります。そう、星は州そのものを表します。テキサスが「ローン・スター・ステート(孤独な星の州)」というのも、そういうわけなのです。それだけ、テキサスの州民は、合衆国でも独立心が強いのです。もともとテキサスは連邦の州ではなく、独立していた共和国でしたから。カリフォルニアももともとは共和国でしたが、あとから連邦に州として加盟しました。だから、カリフォルニアの州旗は、クマがテキサスの星に頷いているのです。

そう、カリフォルニアの州旗には、「カリフォルニア共和国」と威風堂々と記されているのです。つまり似たような形跡をテキサスとカリフォルニアは辿っているのです。そういう意味でも、連邦というのは、州の連合体であり、州というステート(国)がアメリカの政治の基盤となっていたのです。
大和政権も、連邦政府だった可能性がありますね。国々の連合体が集まって、形成した政府ではなかったのでしょうか?実は、古代日本にも、E Pluribus Unumというモットーはあったのです。それが、まさに「みすまる」という言葉です。
八坂瓊之五百筒御統(やさかにのいほつのみすまる)、いわゆる、三種の神器(鏡、剣、勾玉)の一つである勾玉の名称です。別名が八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠(やさかまがたまのいほつのみすまるのたま)です。こちらのサイトによれば、
です。そう、「みすまる」とは、「多数から一つ」であるE Pluribus Unumとまったく同じ意味だったのです。またgoo辞書によれば、御統(みすまる)は、
「御統る」は、「集まって一つになる」という意味で、まさにE Pluribus Unumですね。Unumは英語だとone、またはunitedになるんでしょうね。そう、United states(合衆国)がまさに「みすまる」だったんです。また、「八坂(やさか)」は無限で、「五百筒(いほつ)」は無量という意味です。つまり、「沢山、多数」で、これは、pluribusですね。で、アメリカの州が星であるように、一つの政体を玉だとすれば、八つの勾玉とできますね。

これを、八つの国、五百の市町村とも言えますけども、しかし13つの国があったアメリカと違って、当時の日本にはいくつの国があったかは不明です。とにかく、魏志倭人伝によれば、邪馬台国には20数国あったそうですから、沢山あったと考えられます。まぁ、星の数ほど国があった、というより勾玉の数ほど国があったんです。で、邪馬台国の女王は卑弥呼、その連合国の璽(しるし)=象徴として八坂瓊のネックレスをしていたんでしょうかね?

アマテラスの八坂瓊が「みすまる=E Pluribus Unum」であるから、アマテラスは、きっと連合国の女王だったんでしょうね。
合衆国のモットーは、E Pluribus Unumです。ラテン語で、「多数から一つ」という意味です。それは、13州が集まって連邦を形成してることを意味してます。そして、それは、アメリカの国章に刻まれてます。また、その国章は、私のパスポートにもあります。

鷲の右足には、オリーブの葉と実が13づつあります。これは、各州の平和の象徴です。で、左足には、13本の矢があります。これは、州の武力であり、各州が州軍をもっているということです。この各州の武装の権利は、修正第二条で保証されています。最近では、その条文は銃規制問題で取り上げられますが、実質は州防軍の保証を謳ったものです。で、鷲の嘴は、オリーブの方を向いているので、アメリカは平和を第一目標としているのです。そして、鷲の胸には、盾があり、それには13のストライプがあり、ストライプ自体は太陽の光を表し、赤は母なる大地を、そして白は自由を表しています。で、上には六芒星を形った13の星があります。そう、星は州そのものを表します。テキサスが「ローン・スター・ステート(孤独な星の州)」というのも、そういうわけなのです。それだけ、テキサスの州民は、合衆国でも独立心が強いのです。もともとテキサスは連邦の州ではなく、独立していた共和国でしたから。カリフォルニアももともとは共和国でしたが、あとから連邦に州として加盟しました。だから、カリフォルニアの州旗は、クマがテキサスの星に頷いているのです。
そう、カリフォルニアの州旗には、「カリフォルニア共和国」と威風堂々と記されているのです。つまり似たような形跡をテキサスとカリフォルニアは辿っているのです。そういう意味でも、連邦というのは、州の連合体であり、州というステート(国)がアメリカの政治の基盤となっていたのです。
大和政権も、連邦政府だった可能性がありますね。国々の連合体が集まって、形成した政府ではなかったのでしょうか?実は、古代日本にも、E Pluribus Unumというモットーはあったのです。それが、まさに「みすまる」という言葉です。
八坂瓊之五百筒御統(やさかにのいほつのみすまる)、いわゆる、三種の神器(鏡、剣、勾玉)の一つである勾玉の名称です。別名が八尺勾玉之五百津之美須麻流之珠(やさかまがたまのいほつのみすまるのたま)です。こちらのサイトによれば、
美須麻流(みすまる)は、「み」は接頭語。「すまる」は「すばる(統る)・すばまる」、「すめる(統る)・すめある」、沢山のものが集まって、一つになる義。
です。そう、「みすまる」とは、「多数から一つ」であるE Pluribus Unumとまったく同じ意味だったのです。またgoo辞書によれば、御統(みすまる)は、
〔「すまる」は「すばる」の転で、集まって一つとなる意〕古代の装身具。たくさんの珠(たま)を糸に貫いて環状とし、首などにかけて飾りとしたもの。
「御統る」は、「集まって一つになる」という意味で、まさにE Pluribus Unumですね。Unumは英語だとone、またはunitedになるんでしょうね。そう、United states(合衆国)がまさに「みすまる」だったんです。また、「八坂(やさか)」は無限で、「五百筒(いほつ)」は無量という意味です。つまり、「沢山、多数」で、これは、pluribusですね。で、アメリカの州が星であるように、一つの政体を玉だとすれば、八つの勾玉とできますね。

これを、八つの国、五百の市町村とも言えますけども、しかし13つの国があったアメリカと違って、当時の日本にはいくつの国があったかは不明です。とにかく、魏志倭人伝によれば、邪馬台国には20数国あったそうですから、沢山あったと考えられます。まぁ、星の数ほど国があった、というより勾玉の数ほど国があったんです。で、邪馬台国の女王は卑弥呼、その連合国の璽(しるし)=象徴として八坂瓊のネックレスをしていたんでしょうかね?

アマテラスの八坂瓊が「みすまる=E Pluribus Unum」であるから、アマテラスは、きっと連合国の女王だったんでしょうね。
どちらにするか、沖嫉妬神と隠岐嫉妬神、どちらも仮名読みだと「おきしっとしん」ですが…。沖島(奥津島)は、琵琶湖で、隠岐は隠岐国で出雲の上ですね。まっ、源流は福岡の沖ノ島ですね。
宗像三女神の長女(次女、または三女という説も)はオキツシマヒメといい、彼女が沖の島(隠岐島)に鎮座しています。まっ、この三姉妹は、まさにケルトのブリジット三姉妹や、ゲルマンのウルド三姉妹(もちろん、私の好きなベルダンディーもその中の一人です)など、また『ココロ図書館』の三姉妹、『フエゴ・エン・ラ・サングレ』の三姉妹など、くっかかー、萌えの原型なのです。でも宗像三女は、きっと一つだったキャラを無理矢理三つに分けたんでしょうね。だから、伝承によっては、長女と次女が逆になったりしてるんです。
で、この姉妹は、出雲の祖であるスサノオの剣から生まれましたから、国津神ですね。アマテラスが剣を噛んで吹いたというのは、ブロー・ジョブ(フェラチオ)だったのでしょうか?また、スサノオもアマテラスの勾玉のみすまるを噛んで吹いて、そこから天孫降臨の神々が生まれたそうです。もし、みすまるが女性を象徴するのならば、スサノオはアマテラスに対してクンニリングスを行い、潮を吹かせたのでしょう。その勾玉は「瓊(に)」というぐらいで赤かったそうですし、女性で赤い部分と言えば、唇でしょう、でも、オーラルセックスをお互いにやるとすれば、唇はもちろんワギナのほうですね。なので、勾玉は、この写真のようなワギナネックレスなのかもしれませんね。つまり、アマテラスとスサノオの契約は、69だったのです。姉弟でそんなことしたら近親相姦ですが、結婚というものは、兄弟になるようなものです。でなければ、配偶者の兄弟を「義理の兄弟」ということはないでしょう。それにスサノオは、アマテラスの生物学的な弟ではないと思いますし、それはモーゼがファラオの生物学的な兄弟ではなかったのと同じです。よって、厳密には近親相姦ではなかったのです。そうやって、オキツシマヒメはスサノオの精液から生まれます。オキツシマヒメの別名がタギリヒメで、タキリは「霧」という意味ですから、霧も精液の泡に譬えられたんでしょう。アマテラスがスサノオの精液を口に含んで、それを霧状に吹いたんでしょうね。それが沖ノ島に流れ着いて、そこから女神が発生したのが、オキツシマヒメだったんでしょう。アフロディーテーもウラヌスの精液が泡となってキプロス島に流れ着き、そこから生まれました。アフロディーテーの「アフロス」も「泡」という意味ですから、泡の姫、または、泡の女神、そうなると、タキリヒメも霧の姫、または霧の女神、つまり両者とも、精液から発生した神だったのです。まさに『ヴィーナスの誕生』ですね。

そしてオキツシマヒメは大国主と結ばれます。大国主は別名葦原の醜男(あしはらのしこお)です。そう、キモメンなのです。葦原のキモヲタなのです。日本のキモメン第一号なのです。それにしても国津神の出雲系は、キモメンが多いんですね。で、こちらサイトによれば、琵琶湖付近には白髭神社があり、白髭の神がいて、それが猿田彦なのです。猿田彦も出雲系、国津神ですね。だから、鼻がごつくて、キモメンだったのでしょう。手塚治虫の『火の鳥』の猿田のキモさは、永劫回帰のテーマです。で、その妻は、天のウズメですね。そう、あのストリップ嬢なのです。よって、エロティシズムの神なのですよ。そしてその神社の直線上に琵琶湖の沖ノ島があるというのです。そこの祭神が、沖津島姫なのです。葦原のキモヲタと結ばれたのですから。そう、キモメンを包み込んでくれた優しい女性なんです。だから、オキツシマヒメは、キモメンをいたわる女性の代名詞なんです。たぶん、国津神は縄文系で、渡来人の弥生系統とは違う顔をしていたので、それで先住民系はキモイというステレオタイプが生まれ、人種的な美的感覚が、蔓延ったんでしょうね。
実は、アフロディーテーもキモメンと関係があります。ウラヌスは、自分のキモメンの子供たちをキモイという理由でタルタロスという奈落に幽閉しました。そう、現代のキモヲタも、そうですね。社会から排除され、洞窟に捨てられるんです。つまり、ヲタ捨て山の洞窟に幽閉されるんです。それで、ウラヌスの妻のガイアが怒って、クロノスに命じて、ウラヌスを去勢するのです。それで、精液が流れ出し、それが泡となってキプロスにたどり着き、アフロディーテーになったのです。そうなるとオキツシマヒメもアフロディーテーも、同じ類型になるのでしょうか?

***
さて、噂によるとオキツシマヒメは、とても嫉妬深い女神だそうです。だから、福岡の沖ノ島では、女人禁制が敷かれているのという話です。つまり、彼女は、三次元の女をメチャクチャ嫌っているのです。しかし、はたしてそうでしょうか?
オキツシマヒメ(沖津島姫)は沖ノ島姫で、いわゆる現代で言えば、二次元のキャラクターですから、つまり沖ノ島は、もともとはキモヲタの捨て場だった可能性があるのです。そう、女にモテないキモヲタが島流しにされ、沖ノ島で、オキツシマヒメに萌えて、一人エッチしていたのです。社会で使い物にならずお荷物だったキモヲタの亡命先が沖ノ島だったのです。というか、亡命というより、捨てられたんですけどね、廃棄処分として。本土から離れた遠い島に。沖は「岸から遠く離れた」という意味ですからね。それはプラトンの洞窟で女の人の影を見てオナニーするようなものですね。まっ、この場合は洞窟というより離れ小島ですが。孤島です。たぶん始めは、女人禁制を敷いていたというより、だれも女が寄り付かなかったんでしょう。
「沖ノ島?うわっ、キモイ!」
とヲタ捨て山っていうか、ヲタ捨て島の代名詞として「沖ノ島」は有名であり、それで女の子はだれもその島に近づかなかったんです。『蝿の王』の孤島じゃないけれどもセント・ヘレナのような、とにかくキモヲタの巣窟だったんです。女の子がキモヲタに話しかけられたときに、
「近寄んじゃねぇ、キモヲタ!地獄に行け!」
と言う代わりに、
「沖ノ島に行け!」
とドン引きして罵倒してたんでしょうね。だから、スキンシップを拒絶された哀れなキモヲタたちが沖ノ島に集まり、自らの祭神を作り出し、その子に萌えるために妄想に耽ってオナニーしまくったんです。っていうか、そのキモヲタたちの精液によって、祭神が作り出されたのです。だから、沖ノ島姫が嫉妬して女人禁制になったのではなく、はじめから女の子はそこにキモくて近づけなかったので、「女性が近づかない島」だったのです。しかし、時間が経つに連れて、いつの間にか、それがキモイ場所から神聖な場所となり、女人禁制となったのです。そう、「女性が近づいてはいけない島」となってしまったんです。「一人」って書いて「独り」となりますね。そう、独ぼっちの、孤独な男の島、一人エッチ島、独島、孤島なのです。独島(竹島)も隠岐島の一部ですから、そこもオナニー島だったんでしょう。沖ノ島は「オナニー島」だったのです。だから、女性ははじめから近づく気にはなれなかったのです。女の子が入ると、とたんにキモヲタたちは、
「僕を助けに来てくれたんですね!」
と手を合わせて泣きついてきたはずです。だから女人禁制なんて、古代の女の子たちが、キモヲタを迫害しなければ、できなかったんです。だって、現実の女の子に求めても拒絶されたことを、二次元のキャラに求めるわけですから。で、沖ノ島の姫を萌えの対象としていたキモヲタたちが、今では、ちゃんと宗教家の先駆者として認知されたのです。『虹コンと宗教家の絶望的な差異』の記事で、その違いを書きましたが、キモヲタも宗教家になれる、いや、キモヲタこそが宗教家の開祖たりえることを示すのが、この宗像信仰ではないでしょうか?
そう、キモヲタたちに欠落しているのは、スキンシップ、だから、スキンシップの女神として、沖ノ島姫が作り出されたのです。それはキモヲタ・オナニスト(略してキモオナ)の集合的無意識でしょう。沖嫉妬神、それは沖ノ島姫ですが、実は嫉妬神ではないんですね。嫉妬神はヤハウェだけで結構です。沖ノ島姫はキモヲタの女神ですよ。優しさの塊じゃありませんか?だって、スサノオも、
「私の娘はとても優しい子だから、それで私の真心と潔白は証明できたはずです」
とアマテラスに言っているのですから。
「子供がいい子に育ったのは、親がいい人だったからだ」
という理屈ですね。しかし、スサノオがなにか企んでいるという疑いを晴らすのに、オーラルセックスするというのは、いいですね。フランス女性も、
「まず男を見極めるには、最初のデートでセックスしなきゃ」
と言っているそうですし、つまりセックスで、相手のキャラを判断するのです。あぁ、フランスに行きたい…。アマテラスもとてもフランス的だったと言えますね。まっ、とにかく、沖ノ島姫の天使のような優しいキャラが、スサノオの潔白を証明したんですから、それが、嫉妬心に燃えて現実の女を排除するなんてありえますか?女人禁制の理由はそんなところにはないのです。沖ノ島は、キモヲタの自縛霊の巣窟になってるんです。女に拒絶された苦しみをもったまま息絶えたのです。その無念と怨念なのです。きっと心霊写真では、オナニーをしてる自縛霊の姿が写っていることでしょう。だから、そんなところに女が入ると彼らが一斉に襲いかかってくるので、女性の安全の為に女人禁制になってるんです。しかしそれは間違ってます。野郎しか入れないのであれば、その迷える霊たちは永遠に浮かばれないんです。彼らを救うことにはならないんです。彼らが本当に求めていたのは、三次元の女の子だったんですから。拒絶されて虹コン(二次元コンプレックス)になっただけのことです。だから彼らが求めてるのは、女性なんですし。女性が来たら襲うどころか、成仏されますよ、ちゃんと優しさをもって、
「つらかったんだね、でもお姉ちゃんがいるからもう大丈夫
」
と言ってくれたら、それだけで天昇しますよ。女人禁制なんて馬鹿げてます。そんなんではキモヲタの亡霊はいつまでたっても救われません。だから、沖ノ島なんて、どんどん女の子が入っていきゃいいですよ。メイド服やお巫女さんの服なんかでコスプレしていきゃいいんです。そうすれば、かつて女性との皮膚感覚を経験できずに無惨に死んでいったキモヲタたちの怨念が解消され、それが本当の供養になると思います。そうすれば、彼らは、成仏できるのです。
よって、アフロディーテーも沖ノ島姫も、キモヲタの消極的去勢から生まれたんです。キモヲタはセックスしたくてたまらない、しかし、女はみんな彼らを「キモッ!」と拒絶します。スキンシップさえ取ってくれません。だから、金玉があってもじぇんじぇん役に立ってないので、去勢されてるのと同じなんです。キモヲタはヲタ捨て山の洞窟に捨てられて、幽閉されてるんです。現実の女の子に拒絶される、それは去勢です。で、去勢によって、女神が作り出されるのです。それは、まさに萌え系キャラです。だから、洞窟で萌え系キャラを妄想してオナニーしてるんです。それで、象徴的にクロノスが去勢されて、精液から女神が出来上がったのです。そう、卵子に辿り着けない精子がキモヲタのようなもの、つまり使い物にならなかった廃棄物の精子が、島に流れ着いて、二次元に卵子を妄想するようなもの。ウラヌスの精液も泡となってそこから泡の姫が生まれ、スサノオの精液も霧となってそこからタキリヒメが生まれました。精子の目的はつねに卵子にあるわけです、それと同じで、射精の目的は、つねに女性の膣にあるわけです。しかし、一人エッチでは、女性が欠落してるため、精液は廃棄されるだけです。だから、二次元に女神を作り出し、廃棄物にも目的を持たせるのです。つまり、人生に目的を持たせる、いわゆる意義を持たせることこそ、宗教なのです。キモヲタの女神崇拝は、そこから来ています。キモヲタも女神や萌え系キャラを作り出し、それにすがることによって、社会では廃棄物でしかない自分たちに、価値を見いだすのです。そうやって粉々に砕け散った尊厳を、再構築させようとするのです。よって、彼女らは、キモヲタの一人エッチから出来た女神なのです。一人エッチの一人エッチによる一人エッチのための女神。オナニストの神なんです。

だから沖ノ島姫も当然アフロディーテーのようにエロチックだと思うのです。それに、「優しい女の子」とスサノオが評価してますし、それはキモヲタに対して現実の女の子たちがあまりにも冷たかったからです。だから、
「こんな娘がいたらなぁ…」
という願望が、沖ノ島姫に体現されてるんです。まさに、
「こんな娘がいたら、僕はもう・・・!!」
の心境なんです。そう、この世にはいない理想の女の子、それが沖ノ島姫、そしてアフロディーテーもあれだけエロチックということは、キモヲタに対して、現実の女の子がまったくエロチックでなかったためでしょう。キモかったために、だれもエッチなことをしてくれなかったんです。だからこそ、女の子の優しさ、そしてエロさを二次元キャラに求めたのです。
***
だから、沖ノ島姫は、沖嫉妬神ではなく、沖使徒神なんです。で、彼女の心は、沖嫉妬心ではなく、沖使徒心(おきしとしん)なんです。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒を英語でangelと言いますから、沖のエンジェル・ハートなんです。そう、『エンジェル・ハート』で、ハート・トランスプラントを受けた冷酷な女スナイパアーに心境の変化があったように。そう、優しい心。優しさの玉なのです。優しさの魂なんです。優しさのエンジェルであり、神なんです。そうでなきゃ、キモヲタの神になれるはずがありません。そう、そして隠岐使徒神はオキシトシンであり、それは、スキンシップのホルモンなんです。オキシトシンは皮膚感覚が発生するとき、そうスキンシップを取るとき、触れ合うとき、抱き合うとき、そしてセックスのときに分泌されるんです。異性とのスキンシップの渇望が沖ノ島姫、沖使徒神を作ったのですから、オキシトシンなんです。それは女神です。キモヲタにとっての女神なのです。萌え系キャラがそうなのです。そう、そして、そのオキシトシンを分泌させる有効な方法は、タクティールケアですね。gooペットによると、
そう、タクティールとは、英語のtactile(触覚)、つまり皮膚感覚のことであり、タクティールケアというのは、スキンシップ療法なのです。そう、ペットというのも英語でpetであり、「撫でる」という意味があります。ペッティングといいますね。異性に柔らかく撫でられること、私もお尻をペッティングしてもらいたい!エロチジズムもスキンシップが根本ですからね。しかし、私どもキモヲタは皮膚感覚が欠落しているので、オキシトシンも欠落しています。その欠落から、隠岐使徒神という萌えキャラを作り出しました。ギリシャ語の「ヒステリー(子宮)」の語源も、「欠如」という意味だそうです。そして、この記事によれば、阿片で陶酔してるときに活性している神経回路は、恋愛中毒をもたらすといいます。それは、まさに二次元恋愛、いわゆる萌えですね。そう、オキシトシンの欠如のために、阿片に走るのです。オキシトシンの埋め合わせなんです。「宗教は阿片」とマルクスは言いましたが、キモヲタにとって萌えが阿片なのです。だから、萌えはヒステリーであり、キモヲタはヒステリーを起こしてるんです。つまり、異性とのスキンシップの欠如、オキシトシンの欠如から生まれたのが、沖ノ島姫、またはアフロディーテーだったんです。そう、優しさは、まさにオキシトシンからくるものであり、またエロスもオキシトシンと深く関わってます。そのオキシトシンの優しさを体現したのが、沖ノ島姫とアフロディーテーなのです。三次元という現実のオキシトシンの欠乏から、二次元でオキシトシンの女神を生み出したのです。それも、まさにサウダージ(切ない)。
だからこそ、スキンシップの謳歌を求めてるのです。オキシトシンはどこにあるか?それは南米にあります!南米で人生初めて体全体がオキシトシンで満たされたのです。南米ではサウダージを感じたら、異性にペッティングしてもらえる、よって、タクティールケアのクリニックは南米だー!
宗像三女神の長女(次女、または三女という説も)はオキツシマヒメといい、彼女が沖の島(隠岐島)に鎮座しています。まっ、この三姉妹は、まさにケルトのブリジット三姉妹や、ゲルマンのウルド三姉妹(もちろん、私の好きなベルダンディーもその中の一人です)など、また『ココロ図書館』の三姉妹、『フエゴ・エン・ラ・サングレ』の三姉妹など、くっかかー、萌えの原型なのです。でも宗像三女は、きっと一つだったキャラを無理矢理三つに分けたんでしょうね。だから、伝承によっては、長女と次女が逆になったりしてるんです。
で、この姉妹は、出雲の祖であるスサノオの剣から生まれましたから、国津神ですね。アマテラスが剣を噛んで吹いたというのは、ブロー・ジョブ(フェラチオ)だったのでしょうか?また、スサノオもアマテラスの勾玉のみすまるを噛んで吹いて、そこから天孫降臨の神々が生まれたそうです。もし、みすまるが女性を象徴するのならば、スサノオはアマテラスに対してクンニリングスを行い、潮を吹かせたのでしょう。その勾玉は「瓊(に)」というぐらいで赤かったそうですし、女性で赤い部分と言えば、唇でしょう、でも、オーラルセックスをお互いにやるとすれば、唇はもちろんワギナのほうですね。なので、勾玉は、この写真のようなワギナネックレスなのかもしれませんね。つまり、アマテラスとスサノオの契約は、69だったのです。姉弟でそんなことしたら近親相姦ですが、結婚というものは、兄弟になるようなものです。でなければ、配偶者の兄弟を「義理の兄弟」ということはないでしょう。それにスサノオは、アマテラスの生物学的な弟ではないと思いますし、それはモーゼがファラオの生物学的な兄弟ではなかったのと同じです。よって、厳密には近親相姦ではなかったのです。そうやって、オキツシマヒメはスサノオの精液から生まれます。オキツシマヒメの別名がタギリヒメで、タキリは「霧」という意味ですから、霧も精液の泡に譬えられたんでしょう。アマテラスがスサノオの精液を口に含んで、それを霧状に吹いたんでしょうね。それが沖ノ島に流れ着いて、そこから女神が発生したのが、オキツシマヒメだったんでしょう。アフロディーテーもウラヌスの精液が泡となってキプロス島に流れ着き、そこから生まれました。アフロディーテーの「アフロス」も「泡」という意味ですから、泡の姫、または、泡の女神、そうなると、タキリヒメも霧の姫、または霧の女神、つまり両者とも、精液から発生した神だったのです。まさに『ヴィーナスの誕生』ですね。

そしてオキツシマヒメは大国主と結ばれます。大国主は別名葦原の醜男(あしはらのしこお)です。そう、キモメンなのです。葦原のキモヲタなのです。日本のキモメン第一号なのです。それにしても国津神の出雲系は、キモメンが多いんですね。で、こちらサイトによれば、琵琶湖付近には白髭神社があり、白髭の神がいて、それが猿田彦なのです。猿田彦も出雲系、国津神ですね。だから、鼻がごつくて、キモメンだったのでしょう。手塚治虫の『火の鳥』の猿田のキモさは、永劫回帰のテーマです。で、その妻は、天のウズメですね。そう、あのストリップ嬢なのです。よって、エロティシズムの神なのですよ。そしてその神社の直線上に琵琶湖の沖ノ島があるというのです。そこの祭神が、沖津島姫なのです。葦原のキモヲタと結ばれたのですから。そう、キモメンを包み込んでくれた優しい女性なんです。だから、オキツシマヒメは、キモメンをいたわる女性の代名詞なんです。たぶん、国津神は縄文系で、渡来人の弥生系統とは違う顔をしていたので、それで先住民系はキモイというステレオタイプが生まれ、人種的な美的感覚が、蔓延ったんでしょうね。
実は、アフロディーテーもキモメンと関係があります。ウラヌスは、自分のキモメンの子供たちをキモイという理由でタルタロスという奈落に幽閉しました。そう、現代のキモヲタも、そうですね。社会から排除され、洞窟に捨てられるんです。つまり、ヲタ捨て山の洞窟に幽閉されるんです。それで、ウラヌスの妻のガイアが怒って、クロノスに命じて、ウラヌスを去勢するのです。それで、精液が流れ出し、それが泡となってキプロスにたどり着き、アフロディーテーになったのです。そうなるとオキツシマヒメもアフロディーテーも、同じ類型になるのでしょうか?

さて、噂によるとオキツシマヒメは、とても嫉妬深い女神だそうです。だから、福岡の沖ノ島では、女人禁制が敷かれているのという話です。つまり、彼女は、三次元の女をメチャクチャ嫌っているのです。しかし、はたしてそうでしょうか?
オキツシマヒメ(沖津島姫)は沖ノ島姫で、いわゆる現代で言えば、二次元のキャラクターですから、つまり沖ノ島は、もともとはキモヲタの捨て場だった可能性があるのです。そう、女にモテないキモヲタが島流しにされ、沖ノ島で、オキツシマヒメに萌えて、一人エッチしていたのです。社会で使い物にならずお荷物だったキモヲタの亡命先が沖ノ島だったのです。というか、亡命というより、捨てられたんですけどね、廃棄処分として。本土から離れた遠い島に。沖は「岸から遠く離れた」という意味ですからね。それはプラトンの洞窟で女の人の影を見てオナニーするようなものですね。まっ、この場合は洞窟というより離れ小島ですが。孤島です。たぶん始めは、女人禁制を敷いていたというより、だれも女が寄り付かなかったんでしょう。
「沖ノ島?うわっ、キモイ!」
とヲタ捨て山っていうか、ヲタ捨て島の代名詞として「沖ノ島」は有名であり、それで女の子はだれもその島に近づかなかったんです。『蝿の王』の孤島じゃないけれどもセント・ヘレナのような、とにかくキモヲタの巣窟だったんです。女の子がキモヲタに話しかけられたときに、
「近寄んじゃねぇ、キモヲタ!地獄に行け!」
と言う代わりに、
「沖ノ島に行け!」
とドン引きして罵倒してたんでしょうね。だから、スキンシップを拒絶された哀れなキモヲタたちが沖ノ島に集まり、自らの祭神を作り出し、その子に萌えるために妄想に耽ってオナニーしまくったんです。っていうか、そのキモヲタたちの精液によって、祭神が作り出されたのです。だから、沖ノ島姫が嫉妬して女人禁制になったのではなく、はじめから女の子はそこにキモくて近づけなかったので、「女性が近づかない島」だったのです。しかし、時間が経つに連れて、いつの間にか、それがキモイ場所から神聖な場所となり、女人禁制となったのです。そう、「女性が近づいてはいけない島」となってしまったんです。「一人」って書いて「独り」となりますね。そう、独ぼっちの、孤独な男の島、一人エッチ島、独島、孤島なのです。独島(竹島)も隠岐島の一部ですから、そこもオナニー島だったんでしょう。沖ノ島は「オナニー島」だったのです。だから、女性ははじめから近づく気にはなれなかったのです。女の子が入ると、とたんにキモヲタたちは、
「僕を助けに来てくれたんですね!」
と手を合わせて泣きついてきたはずです。だから女人禁制なんて、古代の女の子たちが、キモヲタを迫害しなければ、できなかったんです。だって、現実の女の子に求めても拒絶されたことを、二次元のキャラに求めるわけですから。で、沖ノ島の姫を萌えの対象としていたキモヲタたちが、今では、ちゃんと宗教家の先駆者として認知されたのです。『虹コンと宗教家の絶望的な差異』の記事で、その違いを書きましたが、キモヲタも宗教家になれる、いや、キモヲタこそが宗教家の開祖たりえることを示すのが、この宗像信仰ではないでしょうか?
そう、キモヲタたちに欠落しているのは、スキンシップ、だから、スキンシップの女神として、沖ノ島姫が作り出されたのです。それはキモヲタ・オナニスト(略してキモオナ)の集合的無意識でしょう。沖嫉妬神、それは沖ノ島姫ですが、実は嫉妬神ではないんですね。嫉妬神はヤハウェだけで結構です。沖ノ島姫はキモヲタの女神ですよ。優しさの塊じゃありませんか?だって、スサノオも、
「私の娘はとても優しい子だから、それで私の真心と潔白は証明できたはずです」
とアマテラスに言っているのですから。
「子供がいい子に育ったのは、親がいい人だったからだ」
という理屈ですね。しかし、スサノオがなにか企んでいるという疑いを晴らすのに、オーラルセックスするというのは、いいですね。フランス女性も、
「まず男を見極めるには、最初のデートでセックスしなきゃ」
と言っているそうですし、つまりセックスで、相手のキャラを判断するのです。あぁ、フランスに行きたい…。アマテラスもとてもフランス的だったと言えますね。まっ、とにかく、沖ノ島姫の天使のような優しいキャラが、スサノオの潔白を証明したんですから、それが、嫉妬心に燃えて現実の女を排除するなんてありえますか?女人禁制の理由はそんなところにはないのです。沖ノ島は、キモヲタの自縛霊の巣窟になってるんです。女に拒絶された苦しみをもったまま息絶えたのです。その無念と怨念なのです。きっと心霊写真では、オナニーをしてる自縛霊の姿が写っていることでしょう。だから、そんなところに女が入ると彼らが一斉に襲いかかってくるので、女性の安全の為に女人禁制になってるんです。しかしそれは間違ってます。野郎しか入れないのであれば、その迷える霊たちは永遠に浮かばれないんです。彼らを救うことにはならないんです。彼らが本当に求めていたのは、三次元の女の子だったんですから。拒絶されて虹コン(二次元コンプレックス)になっただけのことです。だから彼らが求めてるのは、女性なんですし。女性が来たら襲うどころか、成仏されますよ、ちゃんと優しさをもって、
「つらかったんだね、でもお姉ちゃんがいるからもう大丈夫
」と言ってくれたら、それだけで天昇しますよ。女人禁制なんて馬鹿げてます。そんなんではキモヲタの亡霊はいつまでたっても救われません。だから、沖ノ島なんて、どんどん女の子が入っていきゃいいですよ。メイド服やお巫女さんの服なんかでコスプレしていきゃいいんです。そうすれば、かつて女性との皮膚感覚を経験できずに無惨に死んでいったキモヲタたちの怨念が解消され、それが本当の供養になると思います。そうすれば、彼らは、成仏できるのです。
よって、アフロディーテーも沖ノ島姫も、キモヲタの消極的去勢から生まれたんです。キモヲタはセックスしたくてたまらない、しかし、女はみんな彼らを「キモッ!」と拒絶します。スキンシップさえ取ってくれません。だから、金玉があってもじぇんじぇん役に立ってないので、去勢されてるのと同じなんです。キモヲタはヲタ捨て山の洞窟に捨てられて、幽閉されてるんです。現実の女の子に拒絶される、それは去勢です。で、去勢によって、女神が作り出されるのです。それは、まさに萌え系キャラです。だから、洞窟で萌え系キャラを妄想してオナニーしてるんです。それで、象徴的にクロノスが去勢されて、精液から女神が出来上がったのです。そう、卵子に辿り着けない精子がキモヲタのようなもの、つまり使い物にならなかった廃棄物の精子が、島に流れ着いて、二次元に卵子を妄想するようなもの。ウラヌスの精液も泡となってそこから泡の姫が生まれ、スサノオの精液も霧となってそこからタキリヒメが生まれました。精子の目的はつねに卵子にあるわけです、それと同じで、射精の目的は、つねに女性の膣にあるわけです。しかし、一人エッチでは、女性が欠落してるため、精液は廃棄されるだけです。だから、二次元に女神を作り出し、廃棄物にも目的を持たせるのです。つまり、人生に目的を持たせる、いわゆる意義を持たせることこそ、宗教なのです。キモヲタの女神崇拝は、そこから来ています。キモヲタも女神や萌え系キャラを作り出し、それにすがることによって、社会では廃棄物でしかない自分たちに、価値を見いだすのです。そうやって粉々に砕け散った尊厳を、再構築させようとするのです。よって、彼女らは、キモヲタの一人エッチから出来た女神なのです。一人エッチの一人エッチによる一人エッチのための女神。オナニストの神なんです。

だから沖ノ島姫も当然アフロディーテーのようにエロチックだと思うのです。それに、「優しい女の子」とスサノオが評価してますし、それはキモヲタに対して現実の女の子たちがあまりにも冷たかったからです。だから、
「こんな娘がいたらなぁ…」
という願望が、沖ノ島姫に体現されてるんです。まさに、
「こんな娘がいたら、僕はもう・・・!!」
の心境なんです。そう、この世にはいない理想の女の子、それが沖ノ島姫、そしてアフロディーテーもあれだけエロチックということは、キモヲタに対して、現実の女の子がまったくエロチックでなかったためでしょう。キモかったために、だれもエッチなことをしてくれなかったんです。だからこそ、女の子の優しさ、そしてエロさを二次元キャラに求めたのです。
だから、沖ノ島姫は、沖嫉妬神ではなく、沖使徒神なんです。で、彼女の心は、沖嫉妬心ではなく、沖使徒心(おきしとしん)なんです。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒を英語でangelと言いますから、沖のエンジェル・ハートなんです。そう、『エンジェル・ハート』で、ハート・トランスプラントを受けた冷酷な女スナイパアーに心境の変化があったように。そう、優しい心。優しさの玉なのです。優しさの魂なんです。優しさのエンジェルであり、神なんです。そうでなきゃ、キモヲタの神になれるはずがありません。そう、そして隠岐使徒神はオキシトシンであり、それは、スキンシップのホルモンなんです。オキシトシンは皮膚感覚が発生するとき、そうスキンシップを取るとき、触れ合うとき、抱き合うとき、そしてセックスのときに分泌されるんです。異性とのスキンシップの渇望が沖ノ島姫、沖使徒神を作ったのですから、オキシトシンなんです。それは女神です。キモヲタにとっての女神なのです。萌え系キャラがそうなのです。そう、そして、そのオキシトシンを分泌させる有効な方法は、タクティールケアですね。gooペットによると、
タクティールケアという療法(セラピー)においても「オキシトシン」が効果を示します。一般的な療法であるアロマセラピーとは香りを嗅ぐことで心の健康を促し、内分泌系を刺激してホルモンの分泌を促進させる療法(セラピー)です。タクティールケアとは、柔らかく撫でるように触れる療法(セラピー)で、皮膚の接触受容体を刺激することにより、知覚神経を介して脳に信号を送り、脳からの「オキシトシン」分泌を促し、この「オキシトシン」は血管内に放出され、リラクゼーション効果や安心と信頼の感情が引き起こされるのです。
そう、タクティールとは、英語のtactile(触覚)、つまり皮膚感覚のことであり、タクティールケアというのは、スキンシップ療法なのです。そう、ペットというのも英語でpetであり、「撫でる」という意味があります。ペッティングといいますね。異性に柔らかく撫でられること、私もお尻をペッティングしてもらいたい!エロチジズムもスキンシップが根本ですからね。しかし、私どもキモヲタは皮膚感覚が欠落しているので、オキシトシンも欠落しています。その欠落から、隠岐使徒神という萌えキャラを作り出しました。ギリシャ語の「ヒステリー(子宮)」の語源も、「欠如」という意味だそうです。そして、この記事によれば、阿片で陶酔してるときに活性している神経回路は、恋愛中毒をもたらすといいます。それは、まさに二次元恋愛、いわゆる萌えですね。そう、オキシトシンの欠如のために、阿片に走るのです。オキシトシンの埋め合わせなんです。「宗教は阿片」とマルクスは言いましたが、キモヲタにとって萌えが阿片なのです。だから、萌えはヒステリーであり、キモヲタはヒステリーを起こしてるんです。つまり、異性とのスキンシップの欠如、オキシトシンの欠如から生まれたのが、沖ノ島姫、またはアフロディーテーだったんです。そう、優しさは、まさにオキシトシンからくるものであり、またエロスもオキシトシンと深く関わってます。そのオキシトシンの優しさを体現したのが、沖ノ島姫とアフロディーテーなのです。三次元という現実のオキシトシンの欠乏から、二次元でオキシトシンの女神を生み出したのです。それも、まさにサウダージ(切ない)。
だからこそ、スキンシップの謳歌を求めてるのです。オキシトシンはどこにあるか?それは南米にあります!南米で人生初めて体全体がオキシトシンで満たされたのです。南米ではサウダージを感じたら、異性にペッティングしてもらえる、よって、タクティールケアのクリニックは南米だー!
私は、ヘルメス。二次元コンプレックス、略して二次コン、いわゆるアニヲタの虹コンでございまする。この世はサウダージです。オバマ大統領候補は、
「サウダージを表現する方法として、銃と聖書にすがりつく」
と中西部の白人労働者階級を描写しましたが、私は、
「サウダージを表現する方法として、萌え系アニメにすがりつく」
と自分を揶揄します。
さて。どうして、虹コンになったか?それは、異性との皮膚感覚の欠落です。そして文化的後進国日本のスキンシップを嫌う潔癖性社会に育ったというのが最悪の結果となったのです。まるで、無菌状態を目指してるような、みんな防毒マスクをつけているかのように振る舞っていたのです。だから、世界でもっとも大好きだった女の子とスキンシップがとれなかった。女の子とのスキンシップの欠落ほど苦しいことはありません。ほんとに悶え苦しんで、陸橋から飛び降りようと思ったほどです。
日本と言う腐った環境で、私は育ってしまいました。それは一生の不覚です。しかし、生まれる場所は選ぶことが出来ません。私の性質に日本の腐敗した精神道徳はまったく合っていませんでした。儒教による徹底した年功序列、そして男尊女卑。日本はなんでも集団です。不良グループでさえ個人よりも集団です。だから不良にもなれませんでした。そう、服従が要求されるのです。宴会で酒もタバコも拒否するとぶん殴られるのです。そして国民体育精神という馬鹿げた富国強兵時代の根性が引き継がれているのです。だから、社会全体が体育会系、そんなところでは市民生活を脅かす暴走族やチーマーやカルトやヤクザや極右テロリストが蔓延るのも当然ですし、そんなところで将来サラリーマンになったって仕方ありませんでした。
体育会系のもっとも悪しきもの、それはDQNです。体育会系が獰猛犬だとしたら、DQNは、狼ですね。それが、中学からどんどん発生していきました。小学校では女の先生が大多数だったのに、中高となると一気に先公どもが野郎どもとなり、職員室は男社会となり、そして体育会系が横行したのです。で、部活動によって、体育会系根性が生徒たちに叩き込まれてゆきます。それが、根本原因です。それでDQNメンタリティーが形成され、それにもっとも秀でたイケメンDQN野郎どもが女の子を独占し、洗脳し、服従させてたんです。で、私たちキモヲタは迫害の対象となりました。つねにDQNの暴力に怯えなければなりませんでした。で、あの子たちはDQNを称賛し、同時にキモヲタを迫害する、典型的な服従パターンです。その服従の構造にはめ込まれていない女の子といえばは、やはりアニメの世界だけでしたね。ヒューマニティーのかけらもない野蛮なDQNが
「○○先輩、これ受け取ってください」
と死んだ羊の目をした女の子たちからバレンタインチョコを貰っているのは、本当に理解不能でした。DQNの暴力が横行する修羅の世界で唯一の光は、女の子の優しさだったんです。それを私はすがるように最も求めていたんですが、彼女らはあまりにも冷酷過ぎました。だから、アニメの女の子にすがるしかなかったのです。で、思春期のときに流行ったアニメといえば『ああ女神さまっ!』、で、私はベルダンディーに憧れました。一目惚れでした。まさに私の求めていた優しい女性でした。それで、彼女の素性を色々調べた結果、彼女はドイツ出身であることを突止めたのです!
それで、決意してドイツ旅行に行きました。まさにベルダンディーに会うため。ペルダンディーは喜久子教祖が声優の『ああ女神さまっ!』のヒロインですし、リヒャルト・ワーグナーのオペラの『ニーベルンゲンの指輪』にも糸紡ぎとして登場しますし、私がワーグナーの楽劇にハマったのも、『ああ女神さまっ』がきっかけですからね。しかし、三週間もドイツに滞在しましたが、結局会うことは出来ませんでした、結局あれは、二次元のキャラクターだったんです。現実を突きつけられたんです。そう、ベルダンディーとはスキンシップがとれなかったのです。それは、彼女は二次元のキャラだったからです。二次元では、女の子との皮膚感覚はありえない、私の二次元女性に対する信仰は砕け散りました。私の宗教心はそうやって打ち砕かれたのです。あの時から、真の無神論者になったような気がします。よって、ドイツ旅行は絶望の旅となってしまいました。それで次のことを悟ったのです、
「やっぱり現実の女の子がいい、なにしろ皮膚感覚がある。女の子とはコネクトしたい」
アニメの子では、スキンシップが取れません。それがアニメの子の限界です。
そして、私はとうとう耐えられなくなり、自殺覚悟で陸橋から飛び降りました、で、飛び乗ったのが下に走っている車ではなくて、アメリカ行きの飛行機だったのです。清水の舞台から飛び降りたら、アメリカ行きの飛行機に乗っかったのです。それで日本を捨てて渡米しました。女性の皮膚感覚を求めて、NAFTAに渡ったのです。やはり一番リベラルなのは欧米ですから。中東のように結婚まで皮膚感覚が発生しないというふざけた文化圏に移住しても、意味ないですからね。処女が皮膚感覚を発生させたら死刑になっちゃうんですから、どうしてあんな腐敗した宗教を信じてるのかまったく理解できません。よって、行き先はもう決まってました、性的にリベラルな地域、それは、EUかNAFTAか南米だったのです。
しかし、なんでNAFTAに逃亡先を決めたかと言うと、EUは、移民制限が厳しいし、あと狭い、限られた面積に対して人が多過ぎ、またEUの国々はすべて日本よりも小さいです。欧州で日本より大きな国はロシアぐらいですが、ロシアはEUではないし、眼中にはありませんでした。とにかく日本のような人ごみを極力避けたかったのです。息苦しいですからね。だから広大な大地であるアメリカ大陸がよかったのです。だから、言葉を英語とスペイン語に絞りました。またJリーグの開幕で南米文化が入って来て、その影響でスペイン語を習いましたが、英語とスペイン語、英語の方がはるかに出来たので、それで、NAFTAでもメキシコではなくアメリカに行くことにしたのです。スペイン語は、文法がとても複雑で、英語のほうがはるかにシンプルだったからです。たぶん、英語は、ヨーロッパ語族で一番簡単な言語でしょうね。少なくとも、文法的にはそうですね。ただ英語は、スペイン語に比べて、発音がシンプルでないと言うのが弱点ですが、それ以外だったら、ヨーロッパ言語のなかでは、一番簡単でしょう。まっ、とにかく日本のような腐った社会から脱出したかった、だから渡米したのです。
でも、最近の南米旅行で、皮膚感覚が発生しました。これが私の長く求めていたものだったのです。人生16年、やっと女の子の肉体の柔らかさを知るにいたったのです。だから、
「NAFTAではなく、はじめっから南米に渡米していればよかったのに…」
ととても後悔しています。英語のほうがよく出来たという理由で、アメリカ行きを決めたのは、ちょっとうかつでした。まぁ、世界の超大国ではありますけどね。
「自由の国アメリカはセックスも自由」
というのもありましたけど、実は大間違いで、そこはプロテスタントではもっとも時代錯誤の清教徒倫理が横行していたのです。とても保守的で、やけに宗教心が強く、国粋主義が蔓延り、欧米では、セックスに対してもっとも厳しい社会だという実態にショックを受けたのです。あの日本で見たハリウッド映画の女優たちの性的解放は、インチキだったのです。噂に騙されてしまったのです。
だから、私の行き先は南米ですね。あそこは女性が積極的にキスして抱きつきますからね、しかも挨拶でですよ!あれは、実に驚嘆しました。素晴らしいとしか言いようがない。体全体で、抱擁するという、あれに勝るものはない。最高の快楽。しかも、ラテンは体がダイナマイトですからね、なんと言っても、あのくびれと腰とお尻、あれはもう犯罪に近い!危険だー!
そして、進歩した遺伝子工学により私は不死身となり、女の子とのスキンシップの幸福を実現することは、私の夢です。そして、永遠の16歳を手に入れます。なぜなら、私は、学園の恋というのを取り戻したい為です。それを経験できなかったことは、どんだけ苦しいことか。DQNが蔓延していた、そして女の子との恋の予感がまったく欠如していた学園では、どうしょうもありませんでした。そんなところは学園ではなく、地獄でした。だからその時から、すでに私にとって学園は失われていたのです。ああ、DQNのいない学園、そして女の子との恋、それこそが、あるべき学園の姿でした。しかし、それは、アニメで、二次元で、体現されているのです。もし学園がああいうふうだったら、日本をここまで腹の底から憎むことはなかったでしょうね。なにせ、私は日本の学園で日本語で日本人の女の子と恋愛がしたかったんですから。『こんな娘がいたら僕はもう・・・!!』というエロゲーそのままの心境ですね。
「こんな娘がいたら、絶対に渡米することはなかったんだ!!」
しかし、現実は、日本は腐ったリンゴにハエが集っていて、そこからウジ虫が湧いているようなところでした。そして、年齢は残酷にも増えていくので、自動的に学園時代は失われてしまいました。だから、失学園なのです。それを取り戻すために、私は16歳になるのです。
そう、私の人生の二つの目標、南米に移住して女の子と巫山戯(ふざけ)に興じること、そして不老不死の永遠の16歳です。
アメリカ合衆国の独立宣言には、人は生まれもって幸福を追求する権利があると記されているのですから。
「サウダージを表現する方法として、銃と聖書にすがりつく」
と中西部の白人労働者階級を描写しましたが、私は、
「サウダージを表現する方法として、萌え系アニメにすがりつく」
と自分を揶揄します。
さて。どうして、虹コンになったか?それは、異性との皮膚感覚の欠落です。そして文化的後進国日本のスキンシップを嫌う潔癖性社会に育ったというのが最悪の結果となったのです。まるで、無菌状態を目指してるような、みんな防毒マスクをつけているかのように振る舞っていたのです。だから、世界でもっとも大好きだった女の子とスキンシップがとれなかった。女の子とのスキンシップの欠落ほど苦しいことはありません。ほんとに悶え苦しんで、陸橋から飛び降りようと思ったほどです。
日本と言う腐った環境で、私は育ってしまいました。それは一生の不覚です。しかし、生まれる場所は選ぶことが出来ません。私の性質に日本の腐敗した精神道徳はまったく合っていませんでした。儒教による徹底した年功序列、そして男尊女卑。日本はなんでも集団です。不良グループでさえ個人よりも集団です。だから不良にもなれませんでした。そう、服従が要求されるのです。宴会で酒もタバコも拒否するとぶん殴られるのです。そして国民体育精神という馬鹿げた富国強兵時代の根性が引き継がれているのです。だから、社会全体が体育会系、そんなところでは市民生活を脅かす暴走族やチーマーやカルトやヤクザや極右テロリストが蔓延るのも当然ですし、そんなところで将来サラリーマンになったって仕方ありませんでした。
体育会系のもっとも悪しきもの、それはDQNです。体育会系が獰猛犬だとしたら、DQNは、狼ですね。それが、中学からどんどん発生していきました。小学校では女の先生が大多数だったのに、中高となると一気に先公どもが野郎どもとなり、職員室は男社会となり、そして体育会系が横行したのです。で、部活動によって、体育会系根性が生徒たちに叩き込まれてゆきます。それが、根本原因です。それでDQNメンタリティーが形成され、それにもっとも秀でたイケメンDQN野郎どもが女の子を独占し、洗脳し、服従させてたんです。で、私たちキモヲタは迫害の対象となりました。つねにDQNの暴力に怯えなければなりませんでした。で、あの子たちはDQNを称賛し、同時にキモヲタを迫害する、典型的な服従パターンです。その服従の構造にはめ込まれていない女の子といえばは、やはりアニメの世界だけでしたね。ヒューマニティーのかけらもない野蛮なDQNが
「○○先輩、これ受け取ってください」
と死んだ羊の目をした女の子たちからバレンタインチョコを貰っているのは、本当に理解不能でした。DQNの暴力が横行する修羅の世界で唯一の光は、女の子の優しさだったんです。それを私はすがるように最も求めていたんですが、彼女らはあまりにも冷酷過ぎました。だから、アニメの女の子にすがるしかなかったのです。で、思春期のときに流行ったアニメといえば『ああ女神さまっ!』、で、私はベルダンディーに憧れました。一目惚れでした。まさに私の求めていた優しい女性でした。それで、彼女の素性を色々調べた結果、彼女はドイツ出身であることを突止めたのです!
それで、決意してドイツ旅行に行きました。まさにベルダンディーに会うため。ペルダンディーは喜久子教祖が声優の『ああ女神さまっ!』のヒロインですし、リヒャルト・ワーグナーのオペラの『ニーベルンゲンの指輪』にも糸紡ぎとして登場しますし、私がワーグナーの楽劇にハマったのも、『ああ女神さまっ』がきっかけですからね。しかし、三週間もドイツに滞在しましたが、結局会うことは出来ませんでした、結局あれは、二次元のキャラクターだったんです。現実を突きつけられたんです。そう、ベルダンディーとはスキンシップがとれなかったのです。それは、彼女は二次元のキャラだったからです。二次元では、女の子との皮膚感覚はありえない、私の二次元女性に対する信仰は砕け散りました。私の宗教心はそうやって打ち砕かれたのです。あの時から、真の無神論者になったような気がします。よって、ドイツ旅行は絶望の旅となってしまいました。それで次のことを悟ったのです、
「やっぱり現実の女の子がいい、なにしろ皮膚感覚がある。女の子とはコネクトしたい」
アニメの子では、スキンシップが取れません。それがアニメの子の限界です。
そして、私はとうとう耐えられなくなり、自殺覚悟で陸橋から飛び降りました、で、飛び乗ったのが下に走っている車ではなくて、アメリカ行きの飛行機だったのです。清水の舞台から飛び降りたら、アメリカ行きの飛行機に乗っかったのです。それで日本を捨てて渡米しました。女性の皮膚感覚を求めて、NAFTAに渡ったのです。やはり一番リベラルなのは欧米ですから。中東のように結婚まで皮膚感覚が発生しないというふざけた文化圏に移住しても、意味ないですからね。処女が皮膚感覚を発生させたら死刑になっちゃうんですから、どうしてあんな腐敗した宗教を信じてるのかまったく理解できません。よって、行き先はもう決まってました、性的にリベラルな地域、それは、EUかNAFTAか南米だったのです。
しかし、なんでNAFTAに逃亡先を決めたかと言うと、EUは、移民制限が厳しいし、あと狭い、限られた面積に対して人が多過ぎ、またEUの国々はすべて日本よりも小さいです。欧州で日本より大きな国はロシアぐらいですが、ロシアはEUではないし、眼中にはありませんでした。とにかく日本のような人ごみを極力避けたかったのです。息苦しいですからね。だから広大な大地であるアメリカ大陸がよかったのです。だから、言葉を英語とスペイン語に絞りました。またJリーグの開幕で南米文化が入って来て、その影響でスペイン語を習いましたが、英語とスペイン語、英語の方がはるかに出来たので、それで、NAFTAでもメキシコではなくアメリカに行くことにしたのです。スペイン語は、文法がとても複雑で、英語のほうがはるかにシンプルだったからです。たぶん、英語は、ヨーロッパ語族で一番簡単な言語でしょうね。少なくとも、文法的にはそうですね。ただ英語は、スペイン語に比べて、発音がシンプルでないと言うのが弱点ですが、それ以外だったら、ヨーロッパ言語のなかでは、一番簡単でしょう。まっ、とにかく日本のような腐った社会から脱出したかった、だから渡米したのです。
でも、最近の南米旅行で、皮膚感覚が発生しました。これが私の長く求めていたものだったのです。人生16年、やっと女の子の肉体の柔らかさを知るにいたったのです。だから、
「NAFTAではなく、はじめっから南米に渡米していればよかったのに…」
ととても後悔しています。英語のほうがよく出来たという理由で、アメリカ行きを決めたのは、ちょっとうかつでした。まぁ、世界の超大国ではありますけどね。
「自由の国アメリカはセックスも自由」
というのもありましたけど、実は大間違いで、そこはプロテスタントではもっとも時代錯誤の清教徒倫理が横行していたのです。とても保守的で、やけに宗教心が強く、国粋主義が蔓延り、欧米では、セックスに対してもっとも厳しい社会だという実態にショックを受けたのです。あの日本で見たハリウッド映画の女優たちの性的解放は、インチキだったのです。噂に騙されてしまったのです。
だから、私の行き先は南米ですね。あそこは女性が積極的にキスして抱きつきますからね、しかも挨拶でですよ!あれは、実に驚嘆しました。素晴らしいとしか言いようがない。体全体で、抱擁するという、あれに勝るものはない。最高の快楽。しかも、ラテンは体がダイナマイトですからね、なんと言っても、あのくびれと腰とお尻、あれはもう犯罪に近い!危険だー!
そして、進歩した遺伝子工学により私は不死身となり、女の子とのスキンシップの幸福を実現することは、私の夢です。そして、永遠の16歳を手に入れます。なぜなら、私は、学園の恋というのを取り戻したい為です。それを経験できなかったことは、どんだけ苦しいことか。DQNが蔓延していた、そして女の子との恋の予感がまったく欠如していた学園では、どうしょうもありませんでした。そんなところは学園ではなく、地獄でした。だからその時から、すでに私にとって学園は失われていたのです。ああ、DQNのいない学園、そして女の子との恋、それこそが、あるべき学園の姿でした。しかし、それは、アニメで、二次元で、体現されているのです。もし学園がああいうふうだったら、日本をここまで腹の底から憎むことはなかったでしょうね。なにせ、私は日本の学園で日本語で日本人の女の子と恋愛がしたかったんですから。『こんな娘がいたら僕はもう・・・!!』というエロゲーそのままの心境ですね。
「こんな娘がいたら、絶対に渡米することはなかったんだ!!」
しかし、現実は、日本は腐ったリンゴにハエが集っていて、そこからウジ虫が湧いているようなところでした。そして、年齢は残酷にも増えていくので、自動的に学園時代は失われてしまいました。だから、失学園なのです。それを取り戻すために、私は16歳になるのです。
そう、私の人生の二つの目標、南米に移住して女の子と巫山戯(ふざけ)に興じること、そして不老不死の永遠の16歳です。
アメリカ合衆国の独立宣言には、人は生まれもって幸福を追求する権利があると記されているのですから。
虹コン(二次元コンプレックス)は、マイノリティーです、そしてセクシュアル・マイノリティーです。虹コンは、二次元コンプレックスですし、恋愛対象が二次元のキャラなのですから。とくに、萌え系アニメのキャラに萌えることは、非典型的でしょう。性的少数者は、このようにウィッキペディアでは定義されます。
性的少数者(せいてきしょうすうしゃ)とは、何らかの意味で「性」のあり方が非典型的な人のこと。
そう、虹コンも、性のあり方が非典型的な人なのです。そして、その人たちの掲げるシンボルが虹です。レインボー・フラッグです。虹の旗は、かつてのインカ帝国の帝国国旗でもありました。だから、虹コンも虹色なのです。
セクシュアリティーの苦しみ、それは日本の20代の男性の4分の1が恋愛経験無しという悲劇的な状況がそれです。それは、長年の不況と、小泉竹中政策によるネオリベラル格差社会が進んだことです。それで、経済力の有無によって、さらに貧民男はスキンシップの欠如を強いられることとなりました。とくに日本は、南米とは違い、恋人レベルまでいかないと異性とはまったくスキンシップがとれません。潔癖文化なのです。だから、男は病んでしまうのです。それがキモヲタを作り出し、異次元世界にセクシュアリティーを求めてしまうのです。そう、現代社会のネオリベラル資本主義消費システムの餓鬼なのです。
餓鬼界は、食べ物が炎に変わるという世界ですが、それは、あまりにも飢えているために、炎でさえ食べ物に見えてしまう状態にまで追い詰められてるということです。
「飛んで火に入る夏の虫」
です。コンビニの紫色のランプに、蛾が飛んでいって焼け死ぬようなものです。麻薬は炎です。阿片は、実は炎ですが、食べ物と勘違いしてしまうんです。毒を薬と勘違いしてしまうのです。毒を食らわば皿まで。で、どんどん摂取して、いつのまにかオーバードーズ(過剰摂取)で廃人となり、死んでしまいます。阿片に焼き尽くされてしまうのです。麻薬中毒、アルコール中毒とおなじです。キモヲタも、その蛾と同じです。夏の虫なのです。本物の女性とのスキンシップに飢えているために、萌え系のキャラに萌えるのです、で、自分が燃えてしまうのです。スクリーンに映ってるアニメやゲームのキャラの女の子にキスしたら、バチッと唇を静電気で切ってしまうようなものです。それで一時正気を取り戻しますが、また餓鬼のように炎を食べ物だと思って掴んで、身を焦がしてしまうのです。蛍は発光しすぎて、自らを焦がしてしまいます。そう、
「鳴かぬ蛍が身を焦がす」
と言いますが、それは鳴いても女の子がスキンシップを取ってくれないからです。蛍は配偶行動の交信のために発光します。しかし、キモヲタはセックスできないので、オナニーするしかないのです。で、オナニーのし過ぎで体力が衰退してゆき、死んでしまうのです。オナニーによる過労死、というか過シコ死?身を焦がしてしまうのです。女の子に慰めてもらうことができないのです。そう、他慰本願では駄目なのです、だから自慰本願しかないのです。しかしオーバードーズとなり、廃人となってしまうのです。
よって、本物の女性ではなく、二次元の萌え系キャラの女の子に萌えることは、非典型的なセクシュアリティーなので、虹コンはセクシュアル・マイノリティーなのです。だから、彼らの権利が認められることを願います。そう、フィギュアと結婚できるようになればいいですね。裁判所が結婚許可書を発行し、教会の牧師が祝福してくれたらいいですね。それで同性婚カップルと同等の税金の優遇を受ければ、虹コンの勝利となるのです。まずは、アメリカでもっとも進んでいるカリフォルニア州で、それを実現させるのです。最近はカリフォルニアで同性愛結婚が認められましたから、それに便乗して、萌え系キャラとの結婚も認めてもらいましょう。
しかし、現実に日本で4分の1の20代男性が恋愛経験がないといいます。彼らこそ、救わなければならないのです。4分の1というのは、本当に異常です。4人に1人がまったく女性と恋愛できないということですから。それは、やはり格差社会の是正、あとは、女性の積極性の奨励、そう南米のようなスキンシップを謳歌する文化に改革することです。それには、男尊女卑価値観を破壊することです。
ああ、メキシコのテレノベラの『Fuego En La Sangre(フエゴ・エン・ラ・サングレ)』を見て、傷つきました。パン屋さんの三兄弟の一人が、クラブの人気歌手(ニネル・コンデ)のいる楽屋に会いにいきますが、
「por favor, muchachito. mírate, mírate y mírame. Soy mucha mujer para ti. A ver¿qué me puedes ofrecer? ¡Eh¡ A mi me gustan los lujos, la buena vida. Jamás podrías dármelas trabajando de albañil y de panadero. El día que tengas mucho dinero, búscame, y a lo mejor, y te hago caso. ¡Ahora lárgate y déjame en paz!
(ちょっとー、坊や、あたしを見なよ、で、自分をよく見てみなよ。あたしはあなたにとっては手の届かない女性なのよ。じゃ、なにをオファーしてくれるっていうの?え!あたしは贅沢、いい暮らしが好き。あなたのような大工でパン職人じゃそんなのは絶対に無理ね。ある日、お金持ちになったら、会いにくればいいじゃない、そうすればたぶん考えるわ。さあ、さっさと出ておゆき!)」
と撥ね除けられしまいました。つまり、
「成功するまで(勝ち組になるまで)、あたしを欲しては駄目よ」
と言ってるのです。ああ、メキシコでも、こんな言説がまかり通ってしまったとは…。やはりNAFTAへの加盟は、メキシコ女性を冷酷にしてしまったんです。ああ、こんなことを自分が言われたら、まるでピニャータになって袋叩きに遭うような心境ですね。自尊心が木っ端微塵に破壊され、窓から飛び降りてしまうでしょう。第三者として番組を見ていた私でさえ、グサッと心臓に刺さりましたから。
「欲しがりません、勝つまでは!」
という大東亜戦争のスローガンがありましたが、それこそメキシコの言説なのです。それはネオリベラル社会の言説そのままなんです。ネオリベラル式にそれを解釈すると、
「女性との皮膚感覚を欲しがりません、ネオリベラル競争社会で勝つまでは!」
となります。ああ、素晴らしきラテン文化のメキシコ、しかし、アメリカとカナダのアングロサクソン型資本主義、そしてネオリベラルシステムのNAFTAになってしまったことで、こんなことになってしまったんでしょうね。
そう、負け組にとって贅沢は敵、というか金がないから贅沢はできないのです。だから、
「欲しがっても手に入りません、勝つまでは!」
がもっと正確な表現なのです。でも、為政者はそうやって財政赤字を解消しようとします。アメリカでも、貧困ラインなのに社会福祉を拒絶する人がいるくらいですからね。福祉を受けることは、恥だと思ってるのです。
「欲しがりません、勝つまでは!」
の大和魂を持っているんでしょう。まっ、ネオリベラル・スピリットでしょうけどね、でも、それは、本当は、
「生活していけません、勝つまでは!」
ですから、福祉は当然の権利なはずです。福祉は、どう考えても贅沢のうちには入らないでしょう。しかし、戦国時代の下克上のような競争原理のネオリベラル社会では、そうなってしまうのです。贅沢とまではいかなくとも、福祉は怠けとなってしまうのです。
「怠けません、勝つまでは!」
なのです。とくに女との恋愛、スキンシップの謳歌、エッチは贅沢なのです。というか、貨幣経済になってから、そうなってしまったのです。つまり勝者、勝ち組の特権なのです。勝ち組が愛の快楽を独占しているのです。勝ち組が贅沢をしても、だれも「怠けてる」とは言いませんからね。「怠けてる」と批判されるのは、いつも負け組なのです。それが、ネオリベラル消費社会なのです。だから負け組、とくにキモヲタは恋愛することを許されないのです。それで、皮膚感覚が欠如してしまい、萌え系アニメに亡命してしまうんです。で、最終的には、本当に海外に亡命してしまうんです、実際に私がそうであったように。
しかし、その言説を否定するのがキモヲタなのです。つまり、ネオリベラル言説の否定なのです。だって、その根本が間違っている。昔の日本の農村では、だれも贅沢できませんでしたから、異性とのスキンシップは贅沢なわけがありませんでした。スキンシップに媒体は必要なかったんです。だから、村社会はいたって共産的なフリーセックスで、夜這いも盛んに行われていたのです。そう、ポットラッチ(蕩尽)によるエロティシズムだったんです。

セックスが経済力によって左右されるというのは、おかしいですよ。セックス自体がコミュニケーションだったのに、その間に財力という媒体が入ってしまってるんですから。それだと、セックスをお金で交換するので、援助交際、売買春と基本的に変わらないのです。直接的なスキンシップを取れなくなったんです。お金によって、男女は遮断されたんです。それこそ異性からの疎外なのです。で、財力が少ないものは、そのメディア(媒体)も小さいわけですから、財力のサイズはあそこのサイズと絡んで、ペニス神話さえ強化してしまいます。で、男が女を買う側ですから、男のサイズがものをいうんです。それも男尊女卑構造を強化しているのです。だから、拝金主義となり、つまりお金のフェティッシュとペニスのフェチが結びついて、物質的フェティシズムが横行してしまったんです。

で、最近は、女性も社会進出してますから、女の方も買ってもらおうと思って、自分に投資して、ブーブ・ジョブ(豊胸手術)するのです。石のように固い胸は、外見上は良いですが、柔らかくないし、セックスのときは形が崩れないので、気持ち悪いです。私が話した男は、すべて豊胸手術は必要ないとしてました。しかし、女の子は、経済力がつくとやるみたいですね。ブーブ神話なのです。キャリアウーマンが増えて、ペニス神話と同じく、ブーブ神話が出て来たのです。そう、女も経済力となったんです。つまり、女の経済力のサイズはブーブのサイズとなるのです。それは、もうセックスではなくて、ペニスをブーブで挟むホットドック・サンドウィッチですよ。それこそが、勝ち組の男女の至高の合体形態なんです。チンコの受け皿がマンコでもオーラルでもなく、ブーブズになってしまったんです。Mammal Sexママル・セックスとでもいいましょうか?男女ともフェチになってしまったんです。だから、アメリカのポルノは、勝ち組の男女のセックスを描写してるんです。ブルボン朝のフランスの貴族は男女とも髪の毛を暴発させたような巨大なサイズのカツラをかぶってましたが、今では、それはペニスとブーブズに移行したのでしょうね。

そして、その疎外化のもっとも悲惨な犠牲者は、キモヲタなのです。虹コンなのです。それは、20代男性の4分の1が恋愛経験無しという過酷な事実によっても明らかなのです。女性は経済力はなくても、恋愛ができなくなるということはないようです。それは、アメリカでも変わりません。清教徒倫理とネオリベラル資本主義が結びつき、皮膚感覚が欠落しているのです。なにせ、フリーハッグをやっても、警官に逮捕されてしまうのですから、フリーセックスはなおさらでしょう。
財力が関係なく、異性とのスキンシップが謳歌されているのはどこか?それは、まさに南米なのです。ラテン文化です。メキシコがグローバリゼーションとネオリベラリゼーションによって失ってしまったもの。それは、南米にあるんです。あそこは、本当にフリーハッグの世界です。だから、アメリカ人があそこでフリーハッグ運動を起こすことはありません。もうすでにそういう風習なんですから。そう、お金というものをスキンシップから取り払わなければならないのです。そうすることにより、スキンシップが回復し、キモヲタは救済されるのです。それこそ、キモヲタのサルベーションなのです。で、格言はこういうふうになります。
「欲しがります、いつまでも!」
「por favor, muchachito. mírate, mírate y mírame. Soy mucha mujer para ti. A ver¿qué me puedes ofrecer? ¡Eh¡ A mi me gustan los lujos, la buena vida. Jamás podrías dármelas trabajando de albañil y de panadero. El día que tengas mucho dinero, búscame, y a lo mejor, y te hago caso. ¡Ahora lárgate y déjame en paz!
(ちょっとー、坊や、あたしを見なよ、で、自分をよく見てみなよ。あたしはあなたにとっては手の届かない女性なのよ。じゃ、なにをオファーしてくれるっていうの?え!あたしは贅沢、いい暮らしが好き。あなたのような大工でパン職人じゃそんなのは絶対に無理ね。ある日、お金持ちになったら、会いにくればいいじゃない、そうすればたぶん考えるわ。さあ、さっさと出ておゆき!)」
と撥ね除けられしまいました。つまり、
「成功するまで(勝ち組になるまで)、あたしを欲しては駄目よ」
と言ってるのです。ああ、メキシコでも、こんな言説がまかり通ってしまったとは…。やはりNAFTAへの加盟は、メキシコ女性を冷酷にしてしまったんです。ああ、こんなことを自分が言われたら、まるでピニャータになって袋叩きに遭うような心境ですね。自尊心が木っ端微塵に破壊され、窓から飛び降りてしまうでしょう。第三者として番組を見ていた私でさえ、グサッと心臓に刺さりましたから。
「欲しがりません、勝つまでは!」
という大東亜戦争のスローガンがありましたが、それこそメキシコの言説なのです。それはネオリベラル社会の言説そのままなんです。ネオリベラル式にそれを解釈すると、
「女性との皮膚感覚を欲しがりません、ネオリベラル競争社会で勝つまでは!」
となります。ああ、素晴らしきラテン文化のメキシコ、しかし、アメリカとカナダのアングロサクソン型資本主義、そしてネオリベラルシステムのNAFTAになってしまったことで、こんなことになってしまったんでしょうね。
そう、負け組にとって贅沢は敵、というか金がないから贅沢はできないのです。だから、
「欲しがっても手に入りません、勝つまでは!」
がもっと正確な表現なのです。でも、為政者はそうやって財政赤字を解消しようとします。アメリカでも、貧困ラインなのに社会福祉を拒絶する人がいるくらいですからね。福祉を受けることは、恥だと思ってるのです。
「欲しがりません、勝つまでは!」
の大和魂を持っているんでしょう。まっ、ネオリベラル・スピリットでしょうけどね、でも、それは、本当は、
「生活していけません、勝つまでは!」
ですから、福祉は当然の権利なはずです。福祉は、どう考えても贅沢のうちには入らないでしょう。しかし、戦国時代の下克上のような競争原理のネオリベラル社会では、そうなってしまうのです。贅沢とまではいかなくとも、福祉は怠けとなってしまうのです。
「怠けません、勝つまでは!」
なのです。とくに女との恋愛、スキンシップの謳歌、エッチは贅沢なのです。というか、貨幣経済になってから、そうなってしまったのです。つまり勝者、勝ち組の特権なのです。勝ち組が愛の快楽を独占しているのです。勝ち組が贅沢をしても、だれも「怠けてる」とは言いませんからね。「怠けてる」と批判されるのは、いつも負け組なのです。それが、ネオリベラル消費社会なのです。だから負け組、とくにキモヲタは恋愛することを許されないのです。それで、皮膚感覚が欠如してしまい、萌え系アニメに亡命してしまうんです。で、最終的には、本当に海外に亡命してしまうんです、実際に私がそうであったように。
しかし、その言説を否定するのがキモヲタなのです。つまり、ネオリベラル言説の否定なのです。だって、その根本が間違っている。昔の日本の農村では、だれも贅沢できませんでしたから、異性とのスキンシップは贅沢なわけがありませんでした。スキンシップに媒体は必要なかったんです。だから、村社会はいたって共産的なフリーセックスで、夜這いも盛んに行われていたのです。そう、ポットラッチ(蕩尽)によるエロティシズムだったんです。

セックスが経済力によって左右されるというのは、おかしいですよ。セックス自体がコミュニケーションだったのに、その間に財力という媒体が入ってしまってるんですから。それだと、セックスをお金で交換するので、援助交際、売買春と基本的に変わらないのです。直接的なスキンシップを取れなくなったんです。お金によって、男女は遮断されたんです。それこそ異性からの疎外なのです。で、財力が少ないものは、そのメディア(媒体)も小さいわけですから、財力のサイズはあそこのサイズと絡んで、ペニス神話さえ強化してしまいます。で、男が女を買う側ですから、男のサイズがものをいうんです。それも男尊女卑構造を強化しているのです。だから、拝金主義となり、つまりお金のフェティッシュとペニスのフェチが結びついて、物質的フェティシズムが横行してしまったんです。

で、最近は、女性も社会進出してますから、女の方も買ってもらおうと思って、自分に投資して、ブーブ・ジョブ(豊胸手術)するのです。石のように固い胸は、外見上は良いですが、柔らかくないし、セックスのときは形が崩れないので、気持ち悪いです。私が話した男は、すべて豊胸手術は必要ないとしてました。しかし、女の子は、経済力がつくとやるみたいですね。ブーブ神話なのです。キャリアウーマンが増えて、ペニス神話と同じく、ブーブ神話が出て来たのです。そう、女も経済力となったんです。つまり、女の経済力のサイズはブーブのサイズとなるのです。それは、もうセックスではなくて、ペニスをブーブで挟むホットドック・サンドウィッチですよ。それこそが、勝ち組の男女の至高の合体形態なんです。チンコの受け皿がマンコでもオーラルでもなく、ブーブズになってしまったんです。Mammal Sexママル・セックスとでもいいましょうか?男女ともフェチになってしまったんです。だから、アメリカのポルノは、勝ち組の男女のセックスを描写してるんです。ブルボン朝のフランスの貴族は男女とも髪の毛を暴発させたような巨大なサイズのカツラをかぶってましたが、今では、それはペニスとブーブズに移行したのでしょうね。

そして、その疎外化のもっとも悲惨な犠牲者は、キモヲタなのです。虹コンなのです。それは、20代男性の4分の1が恋愛経験無しという過酷な事実によっても明らかなのです。女性は経済力はなくても、恋愛ができなくなるということはないようです。それは、アメリカでも変わりません。清教徒倫理とネオリベラル資本主義が結びつき、皮膚感覚が欠落しているのです。なにせ、フリーハッグをやっても、警官に逮捕されてしまうのですから、フリーセックスはなおさらでしょう。
財力が関係なく、異性とのスキンシップが謳歌されているのはどこか?それは、まさに南米なのです。ラテン文化です。メキシコがグローバリゼーションとネオリベラリゼーションによって失ってしまったもの。それは、南米にあるんです。あそこは、本当にフリーハッグの世界です。だから、アメリカ人があそこでフリーハッグ運動を起こすことはありません。もうすでにそういう風習なんですから。そう、お金というものをスキンシップから取り払わなければならないのです。そうすることにより、スキンシップが回復し、キモヲタは救済されるのです。それこそ、キモヲタのサルベーションなのです。で、格言はこういうふうになります。
「欲しがります、いつまでも!」
さて、太古の洞窟人と言えば、例を挙げればロッコソルシェ遺跡の洞窟レリーフを残した人々などは、尊敬の対象でした。しかし、今では、そんなことはありません。少なくとも、自ら洞窟人になった人ではなく、そうならざるを得なかった人に限っては。それこそ、宗教家と虹コンの違いなのです。
虹コン(二次元コンプレックス=二次コン)というのは、ほんとプラトンの『国家』における洞窟人ですね。こちらにその図解がありますが、洞窟人は、影を見て、欲情するんです。つまり美術も洞窟の影なんです。とくに、プロジェクターがまさにその原理、映写機がその原理です。だから、映画館は、まさに洞窟そのものです。暗いところでフィルムの影を映し出すわけですから。それこそ、二次元の世界、キモヲタにとっての二次元世界なのです。それが、アニメなのです。それを作り出すアーティスト、映画監督はまさに影師、操り人形師なのです。キモヲタは萌え系キャラの女の子を見て、欲情するのです。萌えるのです。それは、洞窟人が洞窟で女の人の影を見て、オナニーするようなものです。影とは、皮膚感覚が欠落してますし、スキンシップは不可能ですから、セックスできませんし、オナニーしかないのです。一人エッチなのです。これが、現代のプラトンの洞窟の住民です。

セックスは、自分が世界と繋がっていることを認識できる体験です。世界と自分がコネクトして、コスモスとの一体感を得られます。しかし、萌えは、実に一人エッチ的で、世界と断絶してしまっているのです。洞窟に一人で住んでいるようなものです。つまり、女と
虹コン(二次元コンプレックス=二次コン)というのは、ほんとプラトンの『国家』における洞窟人ですね。こちらにその図解がありますが、洞窟人は、影を見て、欲情するんです。つまり美術も洞窟の影なんです。とくに、プロジェクターがまさにその原理、映写機がその原理です。だから、映画館は、まさに洞窟そのものです。暗いところでフィルムの影を映し出すわけですから。それこそ、二次元の世界、キモヲタにとっての二次元世界なのです。それが、アニメなのです。それを作り出すアーティスト、映画監督はまさに影師、操り人形師なのです。キモヲタは萌え系キャラの女の子を見て、欲情するのです。萌えるのです。それは、洞窟人が洞窟で女の人の影を見て、オナニーするようなものです。影とは、皮膚感覚が欠落してますし、スキンシップは不可能ですから、セックスできませんし、オナニーしかないのです。一人エッチなのです。これが、現代のプラトンの洞窟の住民です。

セックスは、自分が世界と繋がっていることを認識できる体験です。世界と自分がコネクトして、コスモスとの一体感を得られます。しかし、萌えは、実に一人エッチ的で、世界と断絶してしまっているのです。洞窟に一人で住んでいるようなものです。つまり、女と







