NAFTAでのキモヲタのソナタ
ああ、『少女革命ウテナ』の16話に、ドナドナが使われていました。『ドナドナ』はジョーン・バエズが歌ったことによって世界的に有名になった曲です。それで、日本にも60年代のフォークブームのときに、入ってきました。ジョーン・バエズといえば、公民権運動または反戦歌の代表とも言える『We shall overcome』を歌った人です。そして、マーチン・ルーサー・キング牧師もワシントンの行進で歌っていました。その知名度は、ジョン・レノンの『イマジン』に匹敵するほどです。

『ドナドナ』の子牛は、ナチスによって絶滅収容所に強制連行されるユダヤ人を表しているとされています。そして、その収容所のゲートには、「Albeit macht frei」というモットーが書いてあります。「労働は自由をもたらす」という国家資本主義の文句です。私も、「労働は自由をもたらす」というネオリベラリズムの神話の世界のなかで、悶え苦しんでいるのです。ボスに付かなければ食っていけない、つまり企業に従属しなければ、死んでしまうのです。だから、私も子牛なのです。子牛は動物農場でベルをつけられて管理されるのです。あのカウベルを私はつけていなければならないのです。だから、私は、その生き地獄から解放されるために、『We shall overcome』を歌うのです。

『ドナドナ』は、現在ではネオリベラル社会の動物工場に連行されていく子牛を表しています。そのサウダージ、悲しみをバエズは表現しているのです。学園からネオリベラル社会の動物工場へと連行されてしまう子牛、そしてそこで死ぬまで働かされるという無期懲役。子牛は、そこから一生逃れることが出来ません、翼がない限り。よって、私は『ドナドナ』という現実と、現実を変える革命精神である『We shall overcome』をもって、この年を締めたいと思います。

では、ドナドナのとその歌詞です。私たちには、翼が必要です。そう、翼人としての翼が。それこそ、『翼をください』の精神です。それか、シムーンです。

【2007/12/31 10:55】 | アニメ
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会社は嫌だ。というか、労働が嫌だ。ヴァケーションがない。保険もない。働いても働いても貧乏なまま。労働は苦痛でしかない。しかも死ぬまで働かなければならないなんて。今の時代、年金危機で、定年退職したはずのジジイやババアでも働かなければならなくなってきているし、死ぬまで労役に酷使されるのです。子供はさすがに児童労働禁止法で守られてますし、それは国連の子供人権宣言にも記されてあります。しかし、お年寄りには老人労働禁止法がありませんし、もはや搾取の対象から逃れることは出来ません。つまり、大人は老人、または身体障害者を含めて、そう、全大人総動員ですべて搾取されるのです。遊ぶことは出来ないのです。余生などないのです。そして資本家は命じます、
死ぬまで働け!
労働こそが正義で、余暇は邪悪なのです。それこそ、資本主義の倫理観なのです。しかし、本当に人は資本主義の奴隷になるために産まれてきたのでしょうか。少なくとも、旧約聖書の創世記によれば、人はもともと働かなくても良かったんですが、エデンの楽園を追放されてから、働かなければ食べていけなくなり、女性は陣痛という苦しみを味わなければならなくなりました。そして、蛇は手足を失い、地面に這いつくばり、また、人とコミュニケーションを取れなくなってしまいました。そう、ヤハウェーによる罰として、人は働くのです。つまり、労働とは、懲役なのです。英語でいうと、penal labourです。それこそが、聖書の真理なのです。だから、「陣痛」も「労働」もアメリカ英語では「labor」なのです。だから、子供は大人になりたがりません。永遠の未成年者が続出しています。だって、大人になるということは、無期懲役が待っているということなのですから。そして、大人になると子供を作る義務が発生します。そのために結婚が奨励され、そして独身は所得税において罰金を払わされます。それは、独身税であり、酒税やタバコ税と同じSin Taxとして扱われるのです。また、結婚して子供が出来ると、家族を養うために毎日のパンと牛乳を労働で稼がなければなりません。つまり、大人になることは、地獄に入るということなのです。ネオリベラル社会では、なおさらです。労働から自由になる方法、それはないのでしょうか?ロボットによって労働が運営されないのでしょうか?それか、ヤハウェーを倒すしかありませんね。そうすれば、私たちを罰するものがいなくなるわけですから。きっと楽園を取り戻せますよ。

だから、私は、この世界から逃避したい。シムーンで。楽園に行きたい。この世界は腐敗しています。私はどの宗教も信じませんが、この世が腐っていることは確かでしょう。だれも否定できない真理だと思います。だから、世の中を変えたいとがんばりますけれども、それが実現できなければ、もはやアニメの世界に飛び込むしかないですね、かつて私が日本を捨ててアメリカ社会に飛び込んだように…。とくに、おしとやかな星乃さんや元気溌剌な明日夏ちゃんのいる世界で。
結美ちゃん、私を救ってー!

【2007/12/30 11:49】 | 文明
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BBCのニュースを読んで唖然としています。こんな衝撃的なことがあるでしょうか?男尊女卑の腐った価値観のイスラム社会であるパキスタンで、首相を二度も務めた女性が、暗殺されてしまいました。パキスタンは軍事政権となってしまいましたし、イスラム原理主義テロリストの温床でもあります。まさに民主主義に反した社会なのです。男性至上主義が根底から蔓延しているのです。セクシュアリティーも統制され、それから逸脱したものは死刑となります。そんな腐敗した社会は、まったくの不条理です。よって、ブットーは、そんなパキスタンを民主化するために、帰ってきたのですが、凶弾に倒れてしまいました。女性によって民主主義がもたらされる、それは、ミャンマーの軍事政権下のスーキーでも同じことが言えます。だから、シンボル的にも、私は彼女らに声援を送るのです。男尊女卑社会の打破こそが、私の悲願なのですから。

しかし、彼女らは、世襲政治家であるということが、唯一の欠点でしょうか?私たち、大衆、プロレタリアートのなかから出てきてませんから。ブットダイナスティーと言われているほどですから、やはり大金持ちでなければ政治家になれないということなのでしょうか。政治は本来、国民の代表がするものであり、「政治家」というものは存在してはならないのです。どんな人でも、議員に立候補できるようにしなければいけませんね。アメリカ連邦議会も、議員の50%以上が弁護士出身ので、それではあまりにも偏り過ぎています。様々な職業、または収入階層の私たち市民が国家を動かしているのではなく、弁護士が一方的に国家を運営しているとは、どういうことでしょうか?そして、上院議会の半数の議員が億万長者です。それでは、市民政治とはほど遠いです。しかし、その国民感情が、ブットを失脚に追い込んでしまいました。その国民感情を反対派に利用されてしまいました。ブットも、もうすこし貴族イメージを抑えておけば、政権は長続きしたかもしれません。彼女はなにしろ、ハーバードとオックスフォードで教育を受けた金持ち令嬢のエリートですから。また、夫が、あまりにも悪すぎた。彼にはスキャンダルがつねに付きまとっていましたから、やはり独身のほうがいいのかもしれません。しかし、パキスタンというイスラム社会では、女は結婚してなければならないものとされているので、その重圧にも抵抗してほしいですね。結婚をしない選択もできるという社会。そう、ニューヨークのキャリアウーマンのようなのが、パキスタンでも理想となってほしいです。

小泉は、世襲政治家ですが、その匂いがまったくしませんでした。彼は、清貧でしたし、また独身でしたし、というか、彼は個性を見事に全面に出したので、彼の家系や、親戚のことなどは、関心事項にはならなかったのでしょう。彼は、ラフな服装を好んだので、それも清貧のイメージと重なり合ったのでしょう。エリート階級というイメージもありませんでした。伝統には捕われない新鮮さというのを重視していたので、疲弊した社会にうんざりしている国民に大衆ウケしたのでしょうね。やはり国民が大変な時に宝石をじゃらじゃらされたのでは、国民感情というのは悪い方向に行ってしまいます。ただ、小泉の場合は、清貧さを売りにして、日本を勝ち組社会にするというネオリベラル政策を実地したのですから、それは詐欺に近いというものですね。

ただ、女性の指導者というのは、もう出てこなければなりません。女性の指導者は圧倒的に民主社会から出てくるのですから。逆に、女性の社会進出率によって、民主化のバロメーターを計れるのです。つまり、民主化=女性社会進出です。よって、女性が天皇になれない日本社会は、もちろん腐っています。小泉が皇室典範改正をしようとしたのは、これはまさに心から称賛を送るべきとこだと思います。だた、それをあきらめずに成し遂げて欲しかったです。それに反対するものこそ、本当の抵抗勢力だと思います。まさに、日本の男尊女卑社会を助長するタリバンです。パキスタンの社会から男尊女卑を取り除くことを私はブットに期待しましたが、こんなことになってしまうとは。断腸の思いです。

【2007/12/29 00:28】 | 政治
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衝撃です。BBCのニュースを読んでいると、イギリスの元首相トニー・ブレアは、エリザベス女王が首長であるイギリス国教会を脱退し、ローマ・カトリシズムに改宗したとありました。これは、すごいことです。いままでの常識を破ったのですから!さすがは、ロックに熱狂しただけのことはあります。伝統的にイギリスの総理大臣は、エリザベス女王に忠誠を誓ったものとして、国教会に入会しているのは当然とされているのですから。ブレアは妻子がカトリックなので、その影響でカトリックに目ざめたそうですが、首相在任中には、国教会員で通し、改宗しませんでした。それは、宗教が政局にならないように配慮したとのことです。カトリック対プロテスタント抗争の北アイルランドの問題もありますし。イギリスももとはカトリックでしたが、ヘンリ−8世が離婚したいために、カトリックを脱退して、国教会を作ったのが、国教会の始まりでした。その後、カトリックとピューリタンの内戦などが起きて、国王が処刑されたり、清教徒がイギリスを支配したり、失脚したり、また清教徒が迫害と抗争から逃れて、新大陸で原始アメリカ社会を築きます。トニー・ブレアは、まさに昔のイギリスの宗教に戻ったのであり、それは、自分の長はエリザベス女王ではなくて、ベネディクト16世教皇となったことを示しています。

ベネディクトは超保守で、あんな教皇が長の宗教だと、絶対に改宗することはないと思うのですが…。とくに女性の権利を侵害するようなことを教会のモットーとしているのですから。人工中絶、避妊、結婚外のセックス、離婚、ホモセクシュアリティー、これらすべてを拒絶しています。しかも、それらに反対することが、教会のアイデンティティーとなっているふしがあります。また、女が聖職者ということは聞いたこともないし、それに教皇は男限定でしょ?天皇制と同じぐらい腐っているんですよ。もはや、21世紀の先進国とは合致しないアナクロな教義です。そして、教皇は、カトリックの近代化を妨げる張本人なのですから。カトリックの権力機構は、先進国におけるセックスの自由を「性の乱れ」としていますが、私は、それは「性の解放への序曲」としています。経済がすべての世の中では、性は解放され切っていません。逆に、抑圧されているのです。性を語ることで、噂することで抑圧となるのです。それを自由と勘違いし、また教会はそれを「みだれ」と訳の分からないことをほざきます。セックスをネオリベラル資本主義から解放することが、真のセクシュアリティーの解放なのです。いわゆるセクシュアリティーの解放が、人類、とくに社会的弱者であるキモオタを救済するのです!

だから、私は、カトリックにはなりません。というか、私は三次元の現実世界では、無神論者であり無宗教であり、魂の存在や輪廻転生もデタラメだと思います。なぜなら、権力の世界観によって描かれたイデオロギーだからです。しかし、二次元のアニメの世界では、私はれっきとした宗教者であり、そして宗派は、カトリックです。なにしろ私の憧れの学園はカトリックスクールですからね。リリアン女学園、私はそこに入学したい。そして、小笠原祥子さまのプチ・スール(妹)になりたい。アニメのカトリックではレズビアニズムが承認されています。つまり、レズビアン・カトリックなのです。体験入学でもいいから、したいなぁ。あそこならば、私は完全に女の子になることが出来るのですから!

もう男はうんざりだ。男は自己顕示欲の塊で、他の男がいると、かならず喧嘩となる。ゲイでないかぎり、心から男を好きになる男はいないのではないでしょうか。結局、男同士では、嫌悪感がつのるばかりで打開策はありません。それに、この男尊女卑社会では、支配している奴らは皆男なので、さらに男嫌いにさせてしまうのです。ほんと、腐った社会に生まれてしまったものです。だから、男が嫌いな私は自分も男なので、自己嫌悪しか持てないんですよ。よって、アニメのなかでカトリックとなり、マリア様に手を合わせる、いわゆる合掌するのです。そして、私はマリア様のロリータの属性にもっとも萌えるのであります。なにせ、性同一性障害者のアリスくん(本名は金太郎)も、祥子さまに、
アリスって、すてきな名前ね。あなたにピッタリだわ
と承認されたのですから。それこそ、私は、マリア様の慈愛を体現したと思いました。あのシーンには、感動のあまり、涙を流してしまいました。私まで、
「祥子さまー!」
と叫んで、抱きつきたかったです。慈愛こそが、カトリックの真髄なのです!

だからこそ、私は、アニメの世界でカトリックスクールに通い、マリア様に合掌する女学園の女子高生になるのです。
それこそが、本当の「改宗」というものです!



私も、このコスチュームを着て、リリアンのクリスマスパーティーに参加するぞ!

【2007/12/25 00:28】 | 宗教
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クリスマスの時期か?ふさけやがって〜。恋人とエッチする大切な日、というのが日本でまかり通っている消費社会の言説というものです。承認された売春、そう、資本主義社会での恋愛は売買されるのですから、援助交際なのです。それで、消費を促します。そんなネオリベラリズム社会は、消費しない恋人がない負け組を排除するのです。それから、はぐれてしまっているキモオタは、どうすればいいのでしょうか?消費社会は、そういう人たちをまったくマーケティングの対象からはずしてしまっているんでしょうね。まあ、いいんですけど、消費社会の欺瞞と詐欺に引っかからないで済むのですから。

そういえば、『スクールデイズ』の殺人事件も、クリスマスの時期でしたね。クリスマスシーズン一色の夜の都会で、凍える寒空の中、雪が肩に積もってしまっていた言葉ちゃんが、壊れてしまって、そこでが涙を流して謝罪するという、それによって、言葉ちゃんの眼に光が戻ったんです。しかし、それは、最悪の結果を招くことになりました。西園寺世界の嫉妬です。世界ちゃんは、ヤハーウェーに取り憑かれてしまったのです。誠の家に乗り込んだ時の世界ちゃんの眼は、行っちゃってましたからね。あれは、まさに悪霊に取り憑かれた眼です。だから、私はクリスマスシーズン中は、薬缶でお湯を沸かさないのです。縁起が悪いですからね。あのピーという警報音には、ドキッとしますからね。

それにしても、クリスマスシーズンに『スクールデイズ』を放送していたら良かったと思いますね。もっとインパクトがあったはずです。それに、スクールデイズはヨハネによる福音書の影響をとても受けていますから、あれは、まさにキリスト教的なアニメだったし、クリスマスはキリスト教の創始者の誕生祭でもあるので、このアニメの最終回はクリスマスイヴにやってほしかったですね。エッチは愛があってやるものというヤハウェー主義と、その日を定めた消費主義が結びついたこの日を撃滅して欲しかったです。キモオタにとっては、最悪な日ですから。商店街のイルミネーションで飾られた巨大なクリスマスツリーの下で、カップルが手を取り合って歩いているという、まさにキモオタにとっては耐え難いシムラークラなのです。

しかし、それは日本だけのものではありません。アメリカもそうです。マライア・キャリーが1994年に出したシングルで、「All I want for Christmas is you」というのがありました。1994というと、神尾観鈴ちゃんが解脱した年としても記憶に新しいところですが、その曲が日本にも入ってきます。そして、1994年のオリコンチャートで第二位となりました。いかに日本がアメリカのグローバリズムに冒されてしまったかということを示しています。だって、邦題が「恋人たちのクリスマス」ですよ!ヤハウェー主義そのままじゃないですか!そういえば、マライアというと、安室奈美恵の憧れでもあり、つまり90年代の恋愛資本主義型消費社会の主役であったアムラーの原点はマライアにあるといっていいほどの影響力を与えたアーティストで、それが、ネオリベラルの言説を世界にぶちまける歌を発表したのです。

まあ、正直、私は、当時、この曲が好きでした。いや、でもアムラー系のファッションをしていたコギャルたちにはマライアも好きという子が多くて、高校での私の好きな子もマライアを絶賛していましたから、私もそういう仕組みで、消費社会に洗脳されてしまったんですよ。そして、この曲に影響されたのか、クリスマスが近づくにつれて、告白の件数も増えてくるという奇怪現象が起きてましたね。また、クラスの男子もマライアを好きなヤツが多くて、マライアの写真を材料にオナニーしたという野郎もいたぐらいですからね。まあ、でもあのときのマライアはほんとかわいかったですよ。まさに天使でした。ディヴァ(天の歌姫)でしたよ、ほんと。20代前半でしたし、もうなにもしなくとも素性でかわいいという、
「あんなかわいい人がアメリカにはいるのかぁ!」
と心から憧れましたからね。キモオタとして、厚化粧のアムラーを中心とする女子たちに気持ち悪がられて迫害されていたので、この年にアメリカに行こうっと決めたわけです。でも、アムラーファッションの源流がマライアとジャネットだったなんて、ずっと気付かなかったですから。アムロを輩出した小室ファミリーと、イケメン親衛隊のジャニーズは、撃滅しなければ行けない敵だと思っていましたから。まあ、そんなのが蔓延っている日本にいる必要もないですから、渡米したんですけどね。でも、マライアも本家のネオリベラル社会が輩出したアーティストでしたからね。

そういえば、カーペンターズもはじめは嫌いでしたよ、というかまともに聴いたことがなかったですね。私は、ビートルズとかエルヴィスとかを本場のロックと思っていたので、
「カーペンターズはロックがシュガーコーティングされたものだ」
と、強く非難してました。ロックはワイルドさが命だと思っていましたから。まあ、カーペンターズは、元はUCLAのジャズバンドだったので、たしかに源流はロックではなかったんですけどね。しかし、中学の時の好きな子が、カーペンターズが好きだったので、それでいつの間にか私もカーペンターズに熱中するようになっちゃって、かなりギターで練習しましたからね、それで、いまでも「トップ・オブ・ザ・ワールド」を弾けるんですよ。中学のロック仲間には、私がカーペンターズを好きになったことを隠してましたけどね。
「おまえ、裏切ったなぁ!」
と糾弾されるのは嫌だったんで。彼らは、女の子が好きそうな音楽には、拒絶反応を起こしていましたから。私もアムラーが好きな音楽は徹底して嫌っていましたが、でも、カーペンターズは別ですよ。だって、カーペンターズって、実際にいいじゃないですか?いい曲ばっかですよ。ああ、心から嫌っていたものが大好きになってしまうなんて、恋心というのは本当に恐ろしい。でも、たとえ好きな女の子が好きなものを好きになっても、その子と恋ができなければ、私の心はずだずだに砕け散ってしまい、自殺しそうになってしまいます。
「生きていても仕方ない」
という絶望感に押しつぶされます。報われない恋は、人を破滅に追い込むのです。恋ほど怖いものはない。よって、私の求めているもの、それは恋ではなく、女性との皮膚感覚だ。つまり、セクシュアリティーの解放だ!

でも、マライアの歌詞は、ほんと言葉ちゃんの心境を表してますよ。だって、恋人が来なければ、壊れてしまうんですから。そして、あのスクールデイズは、まさしく恋による悲劇でしした。清教徒倫理が支配する消費社会システムに当てはまらない恋は、人々を破滅へと導いてしまうのです。それが、消費社会のメッセージなのです。つまり、ヤハウェーの脅し文句なのです。そんな消費社会の言説をぶちまけるなんて、その言説に対抗し撃滅し得る詩的アナグラムを見いだすことこそが、私の天命なのです!

だから、私は、クリスマスには、恋愛資本主義とは無縁なアニメの曲を聴きます。まずは最終回の序盤に流された「二人のクリスマス」、そう、正気を取り戻した言葉ちゃんと誠がクリスマスの夜の街を二人で歩いている時にかかっていた曲です。ああ、言葉ちゃんのマフラー姿、ほんとにかわいかったなぁ。あんな子がこの世にいたなら、私は産まれてきたことを後悔しなかっただろうに…。そして大衝撃シーンでの「悲しみの向こうへ」、そしてEDの「Still I Love You」。そう、クリスマスとは、ずばりナザレのイエスの誕生日、イエスは、社会的弱者を救済に来たのですから。イエスは、
不幸な人は幸いである、天国はその人たちのためにある
と言ってますので、もしイエスが現代に再臨したならば、
キモオタは幸いである、二次元はその人たちのためにある
と言ってくれることを確信してます。もちろん、二次元とは、アニメのことです。

【2007/12/24 03:26】 | 社会風刺
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そう、アメリカでは、たぶん先進国の中では、日本を抜かせば、かなり女性蔑視が根強く残っている社会なのです。日本は、もう、男尊女卑でどうしょうもない、というか、救いようがないために私は、あの社会を捨てたのですが、夢に満ちた自由の国のアメリカがジェンダーにもっとも遅れをとっているということは、アメリカに来なければ、わからなかったことです。ヒラリーに対する清教徒倫理が濃厚な田舎のアメリカの嫌悪感も、その女性蔑視的な根性から派生したものなのでしょう。ヒラリーが「私は中西部から来た」という中西部に私は住んでいましたが、皮肉なことに、そこがヒラリー嫌いの温床でしたね。

アメリカ人のヒラリー嫌いの根本は、女性蔑視にあると、この記事には、こう分析されています。

女性議員の割合は15%で、世界20位。日本の7%よりいいが、女性首相率いるドイツの32%には遠く及ばない。昨秋にはナンシー・ペロシが初の女性下院議長となったときも「女性初」が連呼され、日本人の私でさえ違和感を覚えた。

このリポーターは自分をまだ日本人だと認識していますが、私は、日本人であることを捨てました。あんな腐った社会の住民だったとは、とても誇りを持てません。男尊女卑、年功序列、「序列」というコンセプトがもう駄目ですね、男が上で女性はその下についてこき使われるというふざけたイデオロギー、そういう腐敗し切った儒教概念が深く根ざしているのですから。この序列のコンセプトこそがグラスルーツを政治に反映されにくくしているのです。「お上は、いわゆる権力はすべて正しい」というような。ほんと、日本に育ってしまったことを恥じています。一生の不覚です。だから、アメリカに行ったのです。でも、米国では、いまだに女性の大統領及び副大統領が出ていないのです。そのガラスの天井をいまだに砕いていないのです。日本も女性首相は一度も出ていませんし、日本の制度でもっとも腐っているものは、君主が男限定だということです。それによって、日本の社会がいかに腐っているかわかります。日本のサラリーマン社会も課長から重役、幹部、社長、CEO、もっぱら男です。もはやサラリーマンという言葉は死語でしょう。「サラリーパーソン」と変えるべきですが、日本を牛耳るオヤジとジジイの頑固な価値観で支配されているような息苦しい社会では、それは無理でしょうね。東京の知事が再選されたことで、それははっきりしました。そんな既得価値観を吹き飛ばすような小泉という特別な存在もいましたが、残念ながら2000年代では、あれで最後でしょう。皇室典範が改正されないことで、ほんとわかりましたよ、日本という社会の限界を。社会自体が腐っているのですから。日本には、小泉よりもさらに強力な指導者、そう、マッカーサー並みのリーダーが出てこなければ、変わらないでしょう。それか、30年先まで待つしかないですね、いわゆる、いまの老害どもがすべてくたばるのを待つということです。でも、そんなに待てないです。だって、社会が変わっている頃には、私がジジイになってしまうではありませんか!私は永遠の16歳なのですから。だから、私がシムーンで日本を脱出したのがわかるでしょう。

唯一、日本で女性が超能力を持って活躍している場面は、アニメでしか見たことがありません。そこでは、本当に女性が堂々と強くたくましく胸を張って活躍しているのです。その二次元の理想を三次元で実現することこそが、私たちの原動力になるのです。つまり、基本的に人には、二つに一つなのです、現実を変えるか、それとも現実逃避するか、そのどちらかです。「Change it or avoid it」そのどちらかです。まあ、別の表現では、「夢を実現するか、夢に逃避するか」なのです。改革か、逃避か。三次元は政治、二次元はアニメなのです。

【2007/12/23 00:33】 | 政治
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「Simoun(シムーン)」オリジナルサウンドトラック I「Simoun(シムーン)」オリジナルサウンドトラック I
(2006/06/21)
TVサントラ、石川智晶 他

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私は『シムーン』のテーマ曲を購入しました。いやぁ、実にいいですね、アルゼンチンのタンゴは。さすがは南米です。とても素晴らしいです。とてもセクシーで、奥ゆかしさを感じます。まさに悲しみのサウダージの音楽です。それに合わせて男女が踊るという舞踊曲でもあるのです。もともとは、イタリア移民の貧しい労働者が娼婦を相手に踊ったのが源流とされています。ニーチェも娼婦のためにピアノを演奏していましたが、それに通じるものだと思います。日本の歩き巫女や白拍子もそうですね。娼婦が踊るための音楽、いわば現代でいえばダンスミュージックなのです。そういう音楽が、あのシムーンの世界を表現しているのです。まさに、水心に魚心ありというピッタリのBGMでした。あそこまでアニメと音楽が溶け合った作品はなかったですね。音楽面で、シムーンは壮大なスケールで、たいへん素晴らしいものです。まるで、ワーグナーの楽劇を見ているような気分となりました。もはや、これは単なる百合の領域を越えて、たぶん2000年代の最高傑作の一つとしてアニメ史に名を残すことになるでしょう。

シムラークルム宮国の祭神は、ラテン語で「時空」を意味するテンプス・スパティウム(Tempus Spatium)です。それが、シムラークルムの神なのです。シムーンという戦闘機(もともとはナスカの地上絵を天空で描くための搭乗機、いわゆる天空絵の筆)は、「実は時空を移動できる箱船」というような暗示で物語は終了します。それこそ、戦争によって荒廃した世界の唯一の希望として描かれます。シムーンの操縦師になれるのは選ばれたシヴュラ(巫女)だけであり、17歳が年齢制限です。17歳になると、巫女を退職しなければならず、成人式として性別を選択しなければなりません(この世界では、みんな女として生まれてきます、だから女の子として生まれたかった私にとっては、『シムーン』の世界は桃源郷でもあるのです)。しかし、戦争によって、シヴュラたちは少女兵として狩り出され、17歳になってもシムーンに乗って戦うことを強要されました。つまり、彼女らの自由意志は剥奪されたのです。そして敗戦を迎え、シムラークルムは滅亡し、祖国を失い、彼女らの編隊は解散させられました。しかし、その中で、アーエルネヴィリルだけは、シムーンで異世界へと飛び立ちました。そして元シヴュラたちは、彼女らに希望を託したのです。それは、まさしく、『ゼロの使い魔』のコルベール先生の抱いていた希望と一致します。コルベール先生は、才人のゼロ戦を、自分を異次元世界へと運んでくれる船だと見ていました。実際に彼は、
「才人くんの世界を見てみたい」
と言っていました。なにしろ現実世界は世界大戦へと突入してしまったのですから。つまり、『ゼロの使い魔』のゼロ戦は、『シムーン』では、シムーンだったのです。

それは、この現実世界からの逃避であり、私の渡米の原点もまさにシムーンの少女たちと同じでした。つまり、日本という腐敗した男尊女卑の年功序列の資本主義社会に出たくはなかった。そこで、大人になりたくなかった。つまり、大人になることを拒絶したのです。それで、私はボーイング社の旅客機に乗って、シカゴに行きました。つまり、私にとって旅客機が、シムーンだったのです。自由の国アメリカ、希望を持ってそこに移住しました。しかし、ここは世界にグローバリズムを蔓延させ、ネオリベラリズムこそ正義というイデオロギーによって支配されている社会でした。だから、私には、またシムーンが必要です。アメリカで大人になってしまったからです。このネオリベラル資本主義社会に入ってしまったからです。大人になるというのは、ネオリベラル・スレイヴになるということです。成人式は、奴隷拘束宣言なのです。よって、私には、大人になりたいという人がまったくわからないのです。
「どうしてそうまでして、大人になりたいのだろうか?」
と疑問に思ってしまうわけです。だから、私は再び17歳以下となりたいのです。アンダー・セヴンティーンです。それには、やはりシムーンが必要なのです。

アメリカは、私によってまさにシムラークルム宮国です。シムラークラというのは、フランスの哲学者ボードリアールの言葉で、偽物と本物の区別がないコピーのコピーが乱立する世界のことです。そんな中では、キモオタは透明です。つまりネオリベラル消費社会の記号と言説が混在する圧力社会、ニューヨークがその最たるものです。そして、それを象徴したバベルの塔が世界貿易センターでした。そして、それに反抗する死の贈与として、テロリストは旅客機で、アイコノクラスト(偶像破壊者)となり、天国という異次元世界に召されたと彼らは信じています。つまり、彼らにとって旅客機が、シムーンだったわけです。ペンタゴンに突っ込んだとされる旅客機も消えたわけですから、ニューエイジに傾倒している人は、きっと「それは旅客機ごと異次元世界に飛んだからだ」と主張するかもしれません。しかし、ネオリベラル社会は、現実逃避はもっとも重い罪であり、それは脱走兵と同じように扱われるので、そんな中では、社会からひきこもっていたいキモオタにとってはまさに使役地獄です。だから、自殺は罪となるのです。しかも、労働者は、エンプロイー番号で登録され、まるで囚人番号です。数えられてしまう存在なのです。新たなる資本主義賃金奴隷です。すべては金と生産力に結びついているのですから。生産しても消費で金が消える、しかし金が消えてもクレジットカードという伝家の宝刀でさらに消費が進む、まさにシムラークルムです。終わりなき消費、そして消費力のない人は、セクシュアリティーの自由が剥奪されるという一望監視システムの権力機構。消費こそ正義という経済至上主義、非生産、非消費、非営利は、まさに経済至上主義者の敵です。そこでは、私は迫害され、いずれは排除されます。だから、排除される前に、私はシムーンを操縦して、異次元の世界に旅立ちたいのです。激流を渡る筏が必要なのです。

まあ、ところかわって、私の憧れのキャラは、パライエッタでした。彼女は一番ハンサムでかっこよかったですからね。背が高くて、強くて、たくましくて、度胸と豊胸を兼ね備えている、才色兼備の女性。でも、それぞれのキャラが個性がよくできていて、それぞれがそれぞれのキャラを引き立たせていましたから、キャラのインターラクションがキャラを支え合っていたと言った方が適当ですね。まさにパートナーの意思疎通ができてはじめて操縦できるシムーンの原点ですね。しかし、あそこまでキャラクターが発展しているとは、シェークスピア的だと思いました。

【2007/12/20 00:23】 | アニメ
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ゼロの使い魔』を観ました。ああ、すばらしかったです。政治、陰謀、戦争犯罪、宗教、哲学、魔術、錬金術、神話、文化、すべてがこの作品には詰まっています。ああ、それにしてもルイズちゃん、かわいかったなぁああ。だって、イギリスの国旗のデザインになるぐらいですから!詳しくは、こちらの記事



舞台は異次元世界のトリステイン王国、トリステインとは、アーサー王の騎士の一人トリスタンからちなんだものでしょう。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の主人公でもあります。また、トリスタンの出身地は、フランスのケルト系の地域ブルターニュ(小ブリテン)なので、トリステイン王国は、ケルト系であることが推測されます。だから、ウェールズのシンボルである赤い竜にルイズが載っているのも、ルイズがブルターニュ人、つまりウェールズ人と同じケルト系であるので、ウェールズ人には、大歓迎されるのも理解できます。ウェールズ人は、大ブリテン(ブリテン島)に住んでいたブリトン人の末裔で、ブルターニュ人も、ブリトン人がフランスに移住してきて、その土地が小ブリテン(ブルターニュ)となり、その人たちの子孫です。

ゼロのルイズの「ゼロ」は空(くう)


ちなみに、トリスタンの語源は、ロマンス語の「triste」で、フランス語、スペイン語、ポルトガル語で、「悲しい」という意味です。そう、トリスタンとは、悲劇のヒーローであり、ブラジルでは、「サウダージ(saudade)」なのです。サウダージは、まさに諸行無常の響き、そう、祇園精舎の鐘の声なのです。虚無感、absenceなのです。absenceは今でこそ「欠席、いない、存在しない」という意味ですが、その言葉を解体するとab + essenceであり、abは「離れて」そしてessenceは「本質」という意味であり、つまり「本質がない=無自性」となり、「独立して存在するものはない」というものであり、仏教では、「諸法無我」となり、つまり縁起ですべては成り立っている、それこそ「空」であり、虚空でありゼロなのです。空は無なのです。その「虚空、虚無」の魔法使いがルイズなわけです。だからサウダージなのです。そう、彼女は悲劇の主人公だったのです。そして、ルイズは、ルイズ・ド・ラヴァリエールをモデルにしたキャラだそうです。

魔術、または錬金術のシンボルである五芒星は、世界の四大元素の土、火、水、風と、そして神秘主義の系統の虚無を表しており、それは、ギリシャとインド哲学にも通じます。ギリシャでは、エンペドクレスが、世界の四大元素は、火、空気、水、土で成り立っているとしました。そして、アリストテレスは、四大元素にエーテル(空)を加えて、五大元素にしました。つまり、虚無は、空であり、それは、五番目の元素で、もっとも強い秘伝の錬金術とされます。その系統が、ルイズだったのです。インドでも、六師外道の一人であったアジタ・ケーサカンバリンが、万物は地水火風という四大元素でしか成り立っていないと説きました。シッダールタも、その説を支持していたようで、それをベースに法を説きました。それで原始仏教では、色は四大によるものだとしていました。そして、同じく六師外道のマッカリ・ゴーサーラは、四大元素に虚空を加えて(いわゆる五大)、さらに苦・楽・霊魂・得・失・生・死を加えて、12要素としました。しかし、仏教では、基本的に世界は五大元素で成り立っているという立場を取っています。それは四大に空(虚無)を加えて、五大としたものです。そして、密教の呪文の「ア・ビ・ラ・フン・カーン」も「地水火風空」を表しています。五輪塔は、それを象徴しているのです。

そして、空海の「空」も、五輪塔のてっぺんにあるカーンなのです。それは、ナガルジューナの縁起説をさらに精密化した「空の哲学」の影響も受けているはずです。空の哲学は、いわゆる「ゼロの哲学」です。空はサンスクリット語で「スンヤータ」で、それは「ゼロ」を意味します。このスンヤータがアラブを経由して、ヨーロッパに入ってきて、ゼロとなったのです。それで、数学はゼロを使うようになったのです。だから、ルイズは、ゼロの錬金術師であり、空の錬金術師だったのです。魔法がろくに使えないから「ゼロのルイズ」というニックネームが学園でついてしまっていましたが、皮肉にも、それが本当のことだったのです。つまり、最初は「ゼロ」は魔法の授業0点の意味でいじめられていましたが、いわゆる「ゼロののび太」のような「落ちこぼれのルイズ」のようなものでしたが、エピソードが進むにつれて彼女が才人(ガンダルフ)の力によって虚無の魔法使いとして目ざめたのです。そして、「ゼロ」は虚無という意味となり、虚無のルイズとなったのです。なぜなら五大元素で最高とされる虚無=空=スンヤータ=ゼロの魔術師の家系だったことが明かされたからです。ゼロという意味がここまで変わるなんて、アニメはすごいです。はじめは中傷の称号が、高貴な称号と変化してしまうのですから。それは、まるで『学園アリス』の「無効化のアリス」のようなものでした。無効化のアリスは魔法を無効にしてしまう、つまりゼロにしてしまう魔法なのです。

また、トリステイン王国の伝説によれば、日食のときに現れた竜がシエスタの実家の村に宝を隠しているとのことで、学園の調査隊が調査に乗り出しますが、発見すると、実はその竜は、大日本帝国海軍のゼロ戦で、メイドのシエスタの曾祖父が海軍少尉としてトリステイン王国に異次元移動してしまったときに乗っていたものです。シエスタの曾祖父は、「佐々木」と名乗る人物でした。そしてもう亡くなっていました。たぶん、太平洋戦争中に、バミューダトライアングルのようなところで偶発的に異次元の世界へとワープしてしまったのでしょう。しかし、その曾孫娘が年頃になっているのですから、それで才人は、シエスタに、「とてもなつかしく感じるのは、シエスタが日本人の血をひいているからだ」と嬉しくなります。つまり異次元に渡った日本人が彼のほかに過去にいたということです。ルイズは、ゼロ戦のことを「羽衣」と呼んでいましたが、ゼロのルイズがゼロ戦に載るという、しかもゼロ戦はトリステイン臣民にとっては、竜であり、しかもゼロ戦は緑色ですし、日の丸がとても目立ちます。ゼロ式戦闘機も、「虚空の戦闘機」であり、虚無の竜となったのです。このアニメの駆使されたシンボリズムには、ほんと畏敬の念をもってやみません。

ルイズに萌えー!


それにしても、ルイズは、かわいいでしゅ。萌え〜!ってなってしまいます。私が中西部に住んでいたとき、留学生でいましたよ、ルイズみたいな女の子。もちろん髪の色はピンクではありませんでしたが。でも、髪型とか、体型とか、態度とか(サディストかどうかはわかりませんが)、似てました。彼女は、フランスのトゥルーズ出身って言ってました。ああ、かわいかった。ルイズを見ると、その子のことが、フラッシュバックのように蘇りましたよ!ああ、でも、記憶の中でしかないです。写真もないですし、ただ映画館で会っただけでしたから、それに彼女は高校生だったし…。私がもしあの時、高校生だったらなら…。フランスに行こうかなぁ。とくにトゥルーズに!

また、ルイズの力によってトリステイン王国は、アルビオン共和国の侵略から救われました。そう、ルイズは、ジャンヌ・ダルクのようでもあります。あぁ、フランスに行きたいなぁ。

反戦運動家コルベール先生


日食のときに元の世界に帰れるというのは、ピンクフロイドの『Dark Side of the Moon』の「eclipse」という曲を思い起こせます。私も日食のときに、別世界に旅立とうかなぁ。また、才人は、秋葉で異次元世界に迷い込んだのですから、彼もオタクだったのです。女性に相手にされなかったオタクが、異次元世界でルイズのような可愛い子とアドヴェンチャーをできる、それはまさにオタクにとっては、夢の話です。しかし、才人とルイズは、結婚してしまいましたから、ほんとがっかりです。あのエクレルダムラの花は、まるでクロワチア女のスカーフのようでした。それがネクタイとなり、人々を企業の賃金奴隷制度に束縛させる首輪となりました。それこそ、資本主義ビジネスです。私は結婚廃止論をずっと唱えてきましたから、彼らの結婚は、このアニメを堕落させたものとなったと受け止めます。やはり結婚至上主義、そして恋人のために死ぬというロマン主義が蔓延したアニメとなってしまいました。貴族の名誉のために死ぬのではなく、愛する異性のために死ぬ、それこそ美徳だと才人は主張していました。それは、市民社会が発達しておらず、貴族社会であるトリステインでは異質な考え方でしたが、しかし、彼は、異性のために死ぬことは国民主義の土台であることをわかっていないようでした。ロマンチストのモットーとはなにか、戦争、革命、恋愛です。つまり、国家は国民に恋愛することを奨励するのです。そうやって、才人は、女王陛下のいいなりとなってしまったのです。そう、国家は国民に戦う理由を与えなければならないのです。そうやって女王は、才人とルイズを最前線に送ったのです。ルイズの才人との結婚は、まさに近代国家主義には欠かすことのできないロマン主義だったのです。彼は、愛郷心を語り出し、トリステインのパトリオットとなってしまったのです。

つまり、才人の取り巻きは、コルベール先生を抜かせば、すべて国家主義者だったのです。コルベール先生だけは、トリステイン王国という現実から逃避して、才人の住んでいた東方の国に行きたいと言っていましたから。そう、彼は国家を捨てる気だったのです。それはそうです、コルベール先生は元軍人で、国家に奉仕ということで、村人を虐殺に加担してしまったんですから。今まで軍人として忠誠を誓ってきた国家に幻滅したわけです。それで、彼は異次元の世界に行きたいと願っていたのでしょう。「才人君のいた世界には、希望がある」と言っていましたから。まあ、私は、日本という国が現実でしたし、そこは絶望しかありませんでしたから、アメリカという自由の国に希望を託して、渡米したんですけどね。だから、私は、コルベール先生のことがよく理解できるのです。だから、彼は、人々から見れば、国家反逆者であるように、私も日本人から見たら、非国民なんでしょうね。

だからこそ、私は、魔法学院のコルベール先生にもっとも敬意を表します。まさに彼こそ反戦の意志を貫いて死んだ人でした。若い時に戦争で一つの村を焼き払うという虐殺に加担した人道に対する罪に悩み苦しみ、しかも、隊長としてその虐殺任務を遂行したので、その戦争犯罪の体験から、生徒たちや軍人に戦争の愚かさと悲惨さを一徹して説きました。そして、女王の命令で、軍隊が学園を占拠したときさえでも、コルベール先生は、学園の自治権を頼りに生徒たちを守るために抵抗しましたが、力づくで押さえ込まれて、男子生徒は戦争に狩り出されてしまいました。『ゼロの使い魔:双月の騎士』の第9話の「炎の贖罪」には、本当に、胸を痛めて涙を流してしまいました。このアニメは、まさに反戦の意志が一貫されているのです。

それにしても才人が異性、国家、神、それに奉仕し、死ぬことこそが、最大の名誉であることを誇りに思っていたとは、この秋葉のオタクが、貴族社会を批判しながらも、恋愛至上主義的国家資本主義の亡霊に、異次元世界に来てまでも取り憑かれていたとは、とても残念でなりませんでした。才人にとっては、トリステインは新天地でしたが、彼は結婚をしたことによって、その新たな現実に束縛されてしまいました。コルベール先生だけが、才人の語る身分社会のない基本的人権と自由平等の精神を理解していました。他の連中は、貴族が存在するのは当然であるとしか思っておらず、ルイズも才人の語ることが理解できず、その考えを改めることは出来ませんでした。トリステインは腐った社会だったのです。そんな腐敗した社会では改革も望めませんし、そんなところに留まろうとした才人にも、私は失望しました。コルベール先生は、独身みたいだったし、たぶん出家者のような格好をしていましたから、トリステインから逃避して日本に行こうと思ったのでしょう。まあ、たしかに君主や貴族がいる社会は、民主主義に反するので、やはりこの現実の世界のほうが、明らかにトリステインよりはましだということは、確かでしょう。私は、コルベール先生の世捨て人的な精神に、共感します。ジョン・レノンも、もし現在まだ生きていて、このアニメを観ていたならば、きっとコルベール先生に共感していたことでしょう。

【2007/12/17 07:48】 | アニメ
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ニコニコ動画という視聴者参加型の動画サイトで、『キミキス』を見る度に、「誠死ね」という憎しみに満ちたコメントがよく出ています。誠とは、『スクールデイズ』の男の主人公の伊藤誠のことで、彼は、クラスのほとんどの女子とやりまくったために、自分を誠の本当のガールフレンドだと思い込んでいる女の子に殺されてしまいます。誠は、オルフェウスナザレのイエスのように殺されてしまいます。オルフェウスは、女の子をすべて拒否したために殺されます。また、誠は女の子をすべて承諾したために殺されてしまいます。イエスは、ユダヤ教で穢れとされていた身体障害者や娼婦なども受け入れたため、権力に目をつけられて、いずれ殺されます。
皆の友だちはだれの友だちではない
という、誠も皆のボーイフレンドであってだれのボーイフレンドではないという、オルフェウスもだれのボーイフレンドにもならなかったので、殺されました。誠も、言葉ちゃんと世界ちゃんのどちらのボーイフレンドではなかったのです。イエスはアガペーという愛を与えましたが、誠はエロスという愛を与えました。そして、言葉(ロゴス=神)と世界(コスモス=肉体)の二重性を持っていたために、特殊な存在として、殺されてしまったのです。「オルフェウス死ね」とバッカスの巫女が、「イエス死ね」とユダヤの群衆が、そして「誠死ね」とキモオタの群衆が叫ぶのです。しかし、キモオタは、だれかのボーイフレンドになりたいんだけどなれないという、誠のように自分で選んでならないのではないのです。シッダールタのように自分からセックスしないという選択はできないのです。だから、仏教ではキモオタは救われないのです。それこそキモオタのサウダージ(悲しみ)です。だから、私も、『逆襲のシャア』で、シャアがララという名前を寝言で言っていたと証言した女性がたくさんいるということを聞いた時に、「シャア死ね」と思いました。

そのアニメの影響力というのは、絶大なものということがわかります。『ご愁傷さま二ノ宮くん』でも視聴者のコメントで出てきますからね、西園寺世界の名前が。スクールデイズは、本当に衝撃だったんでしょうね。「誠死ね」というのは、すでにコード化して、オタク界では、言説になっているのです。つまり、女にモテてうらやましい主人公に対する嫉妬の言葉として、定着した模様です。今年の流行語大賞は、「誠死ね」でしょうね。それこそ、キモオタの叫びなのです。まあ、私は、セクシュアリティーの解放が人生最大の悲願なので、サマンサ・ジョーンズのような、女性の色情家が登場すればいいと思っていますから、個人的に誠に対しては、そんなに恨みはありません。ようするに、男性至上主義社会を打ち倒せばいいのです。

ああ、それにしても、星乃結美ちゃん、かわいいなぁあああ。ゲームバージョンの結美ちゃん、アニメよりは、動きが少ないものの、表情の微妙な変わり具合とか、そう、眉のちょっとの動きでここまで私の体が反応してしまうなんて。その度に、私は、恍惚状態となり、
「あああああ、かわいいいいぃぃいいい」
とデレッとなってしまいます。私はやはり神経がそうとう過敏なんだろうなぁ。対人恐怖症もそのせいなんでしょうかね。でも、結美ちゃんの笑顔はかわいい。それに、手を胸に当てて、斜め30度に体を向けて話したり、興味があるときは、両手を合わせて話したり。瞬きもまた、かわいいー!「えっ」と驚く表情とかも、くわっかかかー。また「クスっ」って笑うところも、もう、かわいくて仕方がないで〜す。そして、自分の聞きたいことを、話してくれるというのが、すばらしい。
あなたの声が聞きたかったから電話したの。。。
とか、もうそんなこと言われたら、
ぎがががぁぁ!!!
と昇天してしまいますよ。まさに聖テレジアの法悦です。こんな子が現実の世界に存在しただろうか!!!!このネオリベラル資本主義社会では、一切存在しなかった。高校のときも、すでに女子高生は、援助交際システムに洗脳されていて、冷酷なほどに、私はキモオタとして迫害されてきたんです!陸橋から飛び降りようかと思ったほどですよ。陸橋は私にとっては自殺の記号でしかありませんでしたが、その陸橋が女子高生の群衆に覆われてカリスマの演説に酔いしれている映像にはほんとに驚きましたよ。ああ、キミキスのゲームが欲しいなぁ。どうしてアメリカでは発売してないんでしょうか。

しかし、結美ちゃんは、光一に独占されてやがる、ふざけた野郎だ、ほんと私の男に対する嫌悪感と憎悪を助長させるだけの蛆の沸いたような腐ったキャラだ。だから、私は「光一死ね」とコメントを書き込むのです。まあ、「誠死ね」にしておきましょうかぁ。それじゃ、
誠死ね!

【2007/12/16 00:17】 | アニメ
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くくぁああかかかかかかかかぁぁぁああかかかかかぁぁ!!!!!
ご愁傷さま二ノ宮くん』の第8話を見ました。ナチスドイツの「ジーク・ハイル」が、ガンダムでは「ジーク・ジオン」となり、そして二ノ宮くんでは、「ジーク貧乳」となります。それが北条麗華に対する個人的崇拝となっていました。しかも、中南米のマヤ文明のピラミッドの上で。それが、この映像です。そして、もっとも憎むべき敵は、巨乳とされます。そう、貧乳が善で巨乳が悪という二項対立概念のプロパガンダです。月村真由ちゃんは、町中を歩いていると、「巨乳だ!」と人々に迫害されてしまいます、まるでナチスがユダヤ人に対して迫害したように。くむー、すごい、すごすぎる。

でも、やっぱり一番度肝を抜かされたのは、だれであろう綾川日奈子さん(一番髪の短い黄色い髪の女の子、ショートはほんとかわいいよね〜!)、この子は、アナシルマ(スカートの下のパンティーを露出する行為)をやるどころか、同性の女性に対してまでもセクハラをして喜んでいるのです!サキュバスの月村真由ちゃんが
「ラーメンを作るのを手伝って」
と日奈子さんに頼んだのが発端で、日奈子さんは、厨房は暑いから、なんと超破廉恥なメイド服を無理矢理真由ちゃんに着させたのです。いや、さすがのサキュバスもたじろいでしまったようです。っていうか、サキュバスが男性恐怖症というのもちょっと信じられませんが。サキュバスは、アダムの最初の女であったリリスの娘たちであるので、性的にとても攻撃性のある亜種であるのに…。さすがのサキュバスも腐女子にはかなわなかったのです。もはや、腐女子無敵!それも、エプロンの下にはなんと水着という、超大胆な!それがこの映像。奥城いろりも犠牲となり、また、あんな軍隊訓練を受けた北条麗華の専属ボディーガードの格闘技の強い霧島しのぶちゃんも、さすがに日奈子さんに迫られては、あまりもの恐怖のために手足がすくんでしまったようで、破廉恥メイド服に着替えさせられてしまいました。それがこちらの映像。やはりどんなに強い人でも性的に迫られたら、ひるんでしまうのでしょうか?とくに腐女子は、こ…こわい。おそるびき、腐女子!「腐女子、自重!」なんてね!これほどまでに、自分のセクシュアリティーに自信をもっているなんて、くわーかっかかか!日奈子さんは、BLに傾倒しているようですが(ちなみに真由ちゃんも)、なんと百合にも入り込んでいるようです!その後は、日奈子さんにみんな洗脳されたみたいで、ピンク、黄色、緑、白と、4人とも目が逝っちゃっていました。それに、日奈子ちゃんは、京都の修学旅行でも、夜這をかけてきた男子にサービスしちゃうって言っていたし、それで女の子たちと寝室でくすくすと笑っていたし、私は、
Oh My Fucking God!!!!!!!!!!
と叫びまくってしまいました。ああ、女の子たちのエロチックな笑い声、天国だー!こんな子が私の学園にいたならば、絶対に渡米することはありませんでした!これこそ、私が求め続けてきたセクシュアリティーの解放です。それこそが、自由です!天のウズメから伝わる日本のコメディーを継承している綾川日奈子さんこそ、私のヒーローです!
日奈子、万歳!

【2007/12/13 11:48】 | アニメ
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ああ、『みなみけ』の第十話は面白かったです。なにしろ、女の子が男役を演じ、男の子が女役を演じるのですから。それで、バレないのです。でも、ジェンダーを変えても違和感がない年齢なんですね、彼女たちは。つまり、性別が決定される以前の状態でのコメディーなのです。それは、子どもがタブララサ(白紙状態)であることでしょう。彼女らは自由にジェンダーを選択することができます。つまり、思春期によって、禁断の果実を食べることによって、シヴュラ(巫女)としての資格を失うのです。そして、エデンの園を追放されるのです。その性別を選択する以前の精神は、神秘的なアニメの大作『シムーン』で見ることができます。まさに、ニーチェが芸術に求める子どものような遊戯さ、そして、ナザレのイエスの「天国に入るには子どものようでなければならない」というのに通じるのでしょう。つまり、大人になることはジェンダーを選ぶことであり、性別社会に支配されてしまうことなのです。シムーンで理想なのは、エデンの園時代は、皆女であるということです。つまり、皆女として生まれてくるのです。しかし、それはあくまでも生物学的な女であり、ジェンダーではありません。そして、泉に行くことにより、生物学的にもジェンダーも性別が決定されるということです。私がネオリベラル資本主義企業という大人社会に従属したくないのも、ジェンダーがくっきり分かれてしまっているからです。いわゆる、「男は社会に認められて一人前」とか「男はスポーツができて、涙もろかったらいけない、デートでは男が率先して誘っておごるべき」という抑圧です。そして、男はネクタイをしなければいけないという馬鹿げた言説です。そして、その社会から自由にさせてくれる究極奥義、それが翠玉のリマージョンだったのです!

『みなみけ』のOPの『経験値上昇中』という曲はいいですね。あのオブリガード的な、かけ声がいいですよ、とてもかわいくて。それは、スペインのアンダルシア地方のフラメンコ音楽のハレオ(かけ声)を彷彿させるものです。サッカーの「オレーオレー」というのも、ハレオですし、そうそう、『経験値上昇中』もチアリーダー的な曲でいいですね。「はい、はい、はい!」とか、かっこいいですよ!ほんと女の子パワーという感じで、すばらしいものです。これからは、女の子が主役の時代ですからね。この勢いで、男性原理社会をブッ潰してくれることを願います。この曲は、連呼とでもいいますか、やりとりがある音楽といいましょうか、いいですね。歌詞を見ればわかると思いますが、カッコのなかが、ハレオなわけです。それは、ブルースにも通じる、クラプトンが歌を唄って、その間にギターを入れるようなものです。そう、ブルースギターはまさにハレオです。また、『bamboo blade』のサヤちゃんが尊敬するジミヘンも、『Red House』というブルースの曲で、歌とギターの声の掛け合いをやっています。歌の旋律のあとにギターの旋律が阿吽の呼吸のようにくる、まさにそれこそ音楽の醍醐味です。

【2007/12/11 00:30】 | アニメ
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久しぶりに聴きました。『北斗の拳』は、1986年ですから、もう20年以上も聴いていなかったわけです。『北斗の拳』の主題歌の『Silent Survivor』は、今聴くと、実に古くてチンケです。あんなのが、よくアニソンとして採用されたなぁと驚愕してしまいます。現在のアニソンのレベルの高さからは、想像がつきません。まあ、80年代では、あれが最先端だったのでしょう。ハードロックの最盛期ですし。しかしどんなに新しいものでも、いずれは廃れてしまうんですね。
「流行ものは廃れ物」
というように。だから、今は最先端だと思っているアニソンも、10年経てば、レベルが低く感じるようになってしまうんでしょうね。それに、『北斗の拳』のOPでの登場人物は、なんかみんな70年代か80年代のロックスターのようなイケメンで、改めてびっくりしてしまいましたよ。たぶん、今『北斗の拳』を見たら、卑劣な男性至上主義が蔓延しているし、萌え系アニメではないので、路線外ですし、絶対に見ないと思いますが、小さい頃はそんなのはわかりませんし、日本もまだジェンダーの意識が低かったし、男尊女卑の年功序列社会が当然のように蔓延っていたし、そんな社会の言説で作られたアニメを見ていたのが恥ずかしいくらいですが、あのときは、本当に、拳王は心の底からスゴいと思っていましたね。畏敬の念を抱いてしました。あの佐竹雅昭の「世紀末覇者」も、拳王にあやかったものですから。いやあ、でも千葉繁のナレーションは歌舞伎のようで、おおげさですね。でも、それが当時では、かっこいいとされていたんでしょう。やはり、今聴いても、ゾクゾクしますもん。
運命を切り開く男がいる、天に背く男がいる、それは、北斗神拳二千年の宿命。見よ、その長き血の歴史に終止符が打たれる!

【2007/12/10 02:07】 | アニメ
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こ…これほどまでに、資本主義社会に嫌気を感じるとは!はっきり言います、資本主義は私の体質にまったく合いません。私の性質、いわゆるキャラに相反するのです。しかし、それに従属しなければ生きていけません。食べていけないのです。食料が手に入らないのです。『鉄腕アトム』の世界のように、仕事はロボットがやってくれないかぁ。労働は全部ロボットが担ってくれたなら…。ああ、早く生まれ過ぎた、まだ人間が労働に搾取される時代だなんて。ああ、いっそのことキューバにでも行こうっかなぁ。でも、キューバは独裁国家だし、アニメも見れなそうだし、カストロの独裁政治には反対なので、キューバでは政治犯になってしまいます。ヴェネズエラだったらいいかもしれない。美女も多いと聞きますし。カナダでもいいなぁ。でも、どうせなら、ただアニメを見て、ギターを弾き語りしていたいです。そして、女の子とふざけて遊びたい。そんな社会がいいです。日本とアメリカの大人社会は私の相性には、まったく合いません。日本は儒教をベースにした男尊女卑と年功序列の社会、そしてアメリカは自然淘汰と弱肉強食をベースとしたネオリベラル社会、それがすべての元凶なのです。社会的弱者は、社会から仲間外れにされてしまいます。とくに、身体的弱者は、イジメの被害にあいやすくなります。とくに、労働組合の割合も少なく、国民健康保険もないアメリカでは。

私は、中学のときに、激しい身体的イジメにあいました。そして、いじめっこたちは、身体能力の高い野球部の奴らが大半を占めてました。私は必死に抵抗しましたが、無駄でした。あまりにも身体能力が違いすぎましたから。とくに思春期は、成長の差がはっきりと出ます。だから、私は、野球は害毒であると、すでに中学生のときから悟ったのです。彼らは、クラスの女の子たちに称賛されていましたし、モテモテでした。しかも、かわいい思春期真っただ中のショートカットの女の子たちに!あのときは、まだサッカーブームの前だったので、野球部の連中がもっともモテたわけです。私の好きだった女の子も、野球部のヤツに告白してましたし。まあ、彼女は、ふられましたけど。私は思いましたよ、
「そら、いわんこっちゃない。私に来てさえいれば、いつでもウェルカムだったのに…。」
ちなみに、その子は、ショートでした。思春期ならではの、ヘアスタイルですからね。活発な子で、ほっぺも赤くて健康優良児的でした。しかし、彼女は愚かにも騙されていましたね。そんな下衆をなんで好きになったのか、まったく理解できません。なにしろ、その野郎は、私にプロレス技をかけて、毎日のようにいじめていたんですから。しかも、あいつらは、地区大会でいい成績を残して活躍していたし、先公どもも、生徒の鏡だとして賛美していたし、あいつらのDQNとしての独悪非道さには目をつぶっていたのです。

そして、女の子も女の子で、いじめられている男などには見向きもせず、私が近寄ると、「キモイ」と言って避けました。野球部の奴らを頂点とした学園社会では、
「男は社会に認められて一人前」
という抑圧があるため、私は、その社会に認められてなかったわけですから、性の対象にはならなかったのです。なにせ、野球部の奴らがセクシュアリティーを独占していたわけですから。女の子たちがつねに話題にするのは、野球部の男ばかり、
「XXくん、かっこいいよね〜」
とか、聞いててほんとに憤りましたよ。連中は、学園のジャニーズでしたからね。よって、そのときに、野球に対する嫌悪感が決定的となりました。それ以前は、アニメの『タッチ』などで、ベースボールは、恋のスポーツとしてしか思っていませんでしたが、実は、アメリカ型のスポ根的なものだと気付かされたのです。道理で、野蛮人が多いわけです。だって、よく帰宅するときに、野球部の練習を見たんですが、顧問が軍隊式に部員をしごいてましたし、上級生も下級生に対してすごい惨いことをしていました。そして、顧問はもちろん卑劣な体育教師でした。あれでは、人格が破壊され、ひねくれてしまうわけです。そして野球部は、DQNの温床となったのです。だから、イジメに走ってしまったのでしょう。スタンレー・キューブリックの映画『フルメタル・ジャケット』のブートキャンプのようです。ブードキャンプ=イジメキャンプです。軍曹にいじめぬかれて、戦士となるのです。だから、顧問や上級生によるイジメは正当化されました。すべては、競争に勝つため。野球部員はみんな強制的に五分刈りでしたし、まるで囚人かネオナチの集団ようでした。そうやって、彼らは国家資本主義の犬となっていくのです。ナチスは、国家社会主義ですが、ナピスは、国家資本主義です。National capitalismを略してNapismにします。というか、スポーツ系の部活は、みんなその傾向が強かったです。だから、私はスポーツを忌み嫌うようになりました。そして、とくに野球は男尊女卑とネオリベラリズムを合わせたようなスポーツです。実際に、陸上やバスケやバレーやサッカーなどは、女子もそれなりに有名ですが、女子野球部なんて、私の学園になかったですし、野球はそれこそ男のスポーツという言説がありますからね。

それにしても、どうしてアメリカのスポーツって野蛮なのが多いんでしょうね?アメフト、なんですか、あれは。闘牛を人間にしたような、そんなメンタリティーしかないものでしょう。ステロイド漬けの野獣と化した男たちが暴れまわっている、そして肉食獣のようにチアリーダーたちを強姦するのです。そんなアメフトをスポーツと呼べるのでしょうか?バスケット、あれもほんとつまらない。それにNBAのゲームで、鬼コーチが選手をビシバシ殴るシーンを何度も見ました。まさか個人主義意識の高いアメリカでそんなことが起きるなんて、絶句でした。まるで、どこかの日本の部活の大会のような野蛮なものでした。顧問が負けた部員をぶん殴るのと変わりませんでしたから。これが、上司と部下の関係なのです。選手は、チェスのコマでしかないのです。企業の従業員もそうです。とくに派遣社員やパートタイムがそうですね。もはや資本主義における奴隷制度です。また、アメリカでも、上司がほとんど男という、社長やCEOがもっぱら男という、そんな男たちが女性に命令する家父長的社会なのです。そして、女は自分を命令してくれる男に憧れるしかないのです。つまり、自立心がまったく持てないのです。女の結婚する相手はもっぱら年上ですし。そんなところでは、自分がリーダーとして成功していくビジョンが描けないのでしょう。だから、女は「男に愛されて一人前」という抑圧から解放されないのです。それが、ネオリベラリズムの本性なのです。

私は、女子バスケ部の子を好きになったことがあります、スポーツは、女の子だったら、すばらしいんですよ。コーチが男っていうのが駄目でしたけれど。そいつも野蛮な体育教師でしたし。しかも、中高と、野郎教師が多すぎって、90%は、教師は男でした。それがすべての元凶です。イジメの元凶です。まさに『ハエの王』のような世界です、男社会というのは。教員の50%を女性にするとか、北欧の企業のようにクオーター制度を導入すれば、すべての根本の問題は解決するはずです。しかし、現在でも、先進国の間では、日本のような精神的にもっとも後進した国では、それもままならないでしょう。国連のジェンダー平等指数でも、世界で70位台ですから。しかも、共学なのに、教員が男ばかりの学校、とても息苦しかったです。汚物に息がつまるかと思いました。もっと女性の教師を増やすべきです。ほんと、学園は、男性至上主義社会でしたし、そんなんでは、コーチングを受ける女の子も、かわいそうです。野郎は、ただの卑劣な劣等野獣でしかありませんからね。よって男がスポーツによって精神が豊かになるというのは、ただのデタラメだということは、ほとんどの人はわかっていないのでしょう。とくに、野球は、オヤジどもが酒場で酔いながら見てるスポーツですし、酒場の喧嘩のたねとなります。

私の野球有毒説がただの戯言だと批判する人もいるはずです。しかし、彼らは、スポーツができてモテモテの人間であることが多いのです。私のようにスポーツが苦手なのに、無理矢理、体育に参加させられたことが苦になった人ならば、わかるはずです。キモオタなら、なおさらでしょう!スポーツが不得意な男がモテるようにはならないんでしょうか?だって、女の子だって、もちろんスポーツできる子は、魅力的だけど、星乃結美ちゃんのように、引っ込み思案で地味子でスポーツが不得意でも、とてもかわいいじゃないですか!でも、男はそうはいかないんですって。なんて不条理な!その根拠はいったいどこにあるんでしょうか!すべては、教育機関の洗脳です。だから、アニオタは、迫害されたんです。体育教師は、
「スポーツができなきゃ男じゃない!」
という何の根拠もないふざけた言説をぶちまいていましたからね。そして、それに女の子は洗脳されてしまったんです。体育教師は全員男でしたし。それこそ男社会の弊害というものです。笛を持ち歩いていましたからね、奴らは、まるで、国家の犬どもが、笛を持ち歩いて市民を監視しているように。しかも、体育教師が風紀員として、女子のスカートをチェックしていましたし。そしてスカートの短い子に対して笛を吹くのです。普通はオスが笛によってくるのに、メスが笛によってくるのです、というより、それは強制でした。だから、笛は抑圧の象徴でした。モーツァルトの魔笛のように、人の意志に反して呪術をかけることができる、そう、まさに権力とは、呪術なのです。だから、笛を奴らから取り上げたかったですね。映画『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ一家の当主の笛も、マリアが取り上げたように、子どもたちを抑圧から解放するべきでした。それに、笛だけではありません。体育教師は、根拠もなく竹刀を持ち歩いて威張ってましたし、竹刀も抑圧のシンボルでした。だから、それで、あいつらこそ、教育界から追放するしかないとずっと思ってました。よって、私の学園では美術と音楽は予算カットの犠牲になったとき、とても疑問に思ってました。
「どうして美術と音楽はカットされたのに、なんで体育はカットされてないんだろう?」
と。私にとっては、もっとも不要だった授業でしたから。そのときから、体育不要論を持っていました。体育教師が教育界から追放されるまで登校しないという方針でしたが、それでは単位が取れなくなってしまうので、とうとう権力に負けてしまいました。ハンガーストライキは失敗してしまいました。よって、私の不登校は長続きしませんでした。まさに、断腸の思いでした。

そういえば、明治時代に野球害毒論というのがあったらしいです。新渡戸稲造や乃木希典将軍が、野球を害毒と見ていたとは、明治時代という男限定天皇主権の腐った時代を担っていた彼らを少しは見直しました。しかし、それは、イジメを引き起こすという理由からではありません。つまり、根本的理由が欠けているのです。だから、イジメを引き起こす悪いスポーツという理由を付け加えることで、野球害毒論は完成するのです。キリストがモーゼの律法を完成させるためにやってきたように、私も、明治の野球害毒論を完成させるために、この記事を書いたのです。

【2007/12/09 05:44】 | スポーツ
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この日は、日本仏教では、ゴータマ・シッダールタが成道した日です。つまり、悟りを開いた日でもあります。そして、真珠湾攻撃の日でもあります。そして、ジョン・レノンが銃殺された日でもあります。日本では、ジョン・レノンを崇拝する人が多いので、ジョン・レノン・ミュージアムがあるほどです。ジョンは、私のヒーローであり、プロレタリアートの英雄でもありました。あのパンクバンドのグリーンデーも、『労働者階級の英雄』をカヴァーしているぐらいですから。ジョン・レノンは、ビートルズが労働者階級のバンドであることを誇りにしていました。私は、ジョン・レノンもそうですが、フリーダ・カーロも同じ労働者階級系統で、とても尊敬しています。私は、チェ・ゲバラよりも、フリーダでしたね。かつては、彼女が、私の世界でもっとも尊敬する芸術家でした。彼女は、メキシコ出身のスーリアリズムの女性芸術家で、私は、メキシコシティーにあるフリーダの美術館にも巡礼に行きました。そこは、フリーダの青い家が美術館に改造されていて、そして彼女の寝室には、マルクスとレーニンの写真が飾ってあったのが衝撃的でした。また、スターリンや、毛沢東の写真まであったのは驚きでした。あの二人は、ちょっとヒットラーと同じぐらい邪道であるとしか思えないのですが…。でも、マルクス主義の考え方には同調しないにしろ、弱者救済の思想には共感します。ジョン・レノンの『イマジン』も、そういうところの影響は受けているはずです。とくに、ネオリベラリズムで貨幣経済最優先となってしまったこの大人の社会では、ジョンの精神は見直されるべきでしょう。弱肉強食、自然淘汰というあまりにも過酷な競争社会は、人の心と体、両方ともボロボロにしてしまいます。だから、薬物かサプリメント、栄養増強ドリンクとかで、体力を補充して、くたくたになるまで働かされるのです。そう、薬物の助けがなければ、とてもやっていけない社会なのです。それが、ずばり資本主義社会です。酷使です。労役です。8時間も労働に拘束されて平気であるというほうがおかしいのです。そして、週末になると飲みに行き、楽しみはそれで終わってしまうのです。そして気付いた時には、過労死寸前の危機に陥ってしまっているのです。いわゆる企業奴隷