メイドブームは、最近の日本の秋葉でのブームだと思っていました。特にIT革命によってもたらされたブームだと思っていました。しかし、メイドブーム自体は、大正時代まで遡ることができるようです。メイド萌えアニメである『鋼鉄天使くるみ』も、大正時代が設定ですし、帝国陸軍の技術者である綾小路博士(CV:鈴置洋孝)は、メイドロボットを次々と開発していくのです。日本の都市部が大衆レベルで本格的にヨーロピアナイズしてきたのは大正時代で、レストランとかカフェとかが流行出しましたし、それに乗じてメイドも登場し、太宰治なども、メイドたん目当てにカフェに通っていたそうです。また、帝国海軍でも、メイド服フェチが多かったようです。だから、日本では、すでにメイドにコスプレ要素があったわけです。それは、やはり「輸入」された斬新で新鮮なものであり、その本質的な意味は後回しにされたためでしょう。ロリータにも同じことが言えますね。だからこそ、フランス哲学者のバルドは、日本を『表徴の帝国』と呼んだのではないでしょうか。記号が自由に浮遊する社会。記号が意味から解放されているのです。メイド服という記号は、本家のヨーロッパでは、女性の抑圧という意味があるのですが、日本では、その意味が希薄であり、逆に萌えの属性として全面的に出てきます。
しかし、メイド服を生み出した本家のヨーロッパでは、すでに19世紀にメイドブームは起こっていました。まさに、貴族政治が終わって、ブルジョア階級が台頭した時です。そして農村やプロレタリアートの娘は、貨幣を求めてメイドとなりました。だから、メイド人口が爆圧的に増えました。しかし、それは当時の女性にはもっぱらメイドしか、働き口がなかったという事情があるのでしょう。女性の役割というのは、社会でもメイド的だったのです。つまり、パートタイム妻のような、そう、「レンタル奥さん」のようなものだったのです。しかし、メイドには、労働基準法もなく、女性の人権も保護されていなかったので、それをいいことに、金持ちの家がメイドを雇って、時には主人がメイドたちに性的関係を迫ったようです。今では、雇用主が従業員に性的関係を迫るのはセクハラとなりますが、あの時は、それが公然と行われていたわけです。『花右京メイド隊』の花右京財閥の当主、花右京北斎がメイドとセックスして、そのメイドは、私生児を生んでしまいます。北斎は、戦前の人なので、「浮気は男の甲斐性」と言われた時代で育ったわけですから、そういう社会風潮のなかで、そういうことをやってしまったのでしょう。だから、フェミニストたちが、マルクス主義的なルサンチマンを抱えているのも理解できるのです。だから、欧米では、メイド服は、コスプレではなく、むしろ女性の抑圧のシンボルとして見られるのです。
そして、ドイツ史でもっとも有名なメイドは、マリア・アンナ・シックルグルーバーでしょう。彼女は、ロスチャイルド財閥の当主、ソロモン・マイヤー・ヴォン・ロスチャイルドの屋敷でメイドをしていました。その時に、彼女は妊娠しました。または、金持ちユダヤ系のレオポルド・フランケンベルガーの屋敷で、メイドをしていて、その期間に私生児を出産しました。だから、この二人の御主人様が、マリアの子どもの父親である可能性が高いのです。そして、その子は、アロイス・シックルグルーバーと名付けられました。
そして、アロイスは、39歳のときに名字を継父のヒュードラーという名字にあやかって「ヒトラー」と改称します。そして、アロイスは妻と死別し、家事をする人がいなくなったので、自分の姪であるクラーラという10代のメイドに家事を担当させます。まさに、「レンタル奥さん」ですね。そして、アロイスは、
「レンタルだろうと奥さんは奥さんなんだから、もちろんセックスもいいに決まってる!」
と、とうとう我慢できなくなって、親戚でありながら、クラーラと肉体関係を結んでしまいました。近親相姦です。また、アロイスは、本当なら違法の結婚を無理にして、レンタル奥さんをパーマネント奥さんにしてしまいました。それで、クラーラは御主人様である叔父との間に子どもが出来てしまい、そして、生まれた子どもが、アドルフです。それが、アドルフ・ヒットラー、あのユダヤ人600万人を虐殺した世界最悪の独裁者です。つまり、ヒトラーもヒトラーの父も、御主人様と関係を結んでしまったメイドから生まれたのです。よって、メイドは、女性搾取の記号であるとともに、ナチズムの母という面も、ヨーロッパの人々にとっては、あるのかもしれません。
よってメイドは、御主人様の性的搾取の対象にもなりうるということです。花右京太郎にも、お側御用隊のメイド三姉妹がいました。つまり、夜のサービス専用のメイドです。それは、まるでシッダールタを誘惑した三姉妹のラーガです。というか、花右京の屋敷は、太郎以外、すべて若い女性のメイドであり、そこは、まさにハーレム、妓女だけがいる離宮であり、あたかも天空の楽園だったのです。まさにシッダールタの皇太子時代を再現したような豪華絢爛なものでした。しかし、それは、女性が、性的にも搾取されていたという苛烈な事実ということを示すものです。つまり、メイドは、性奴隷としての意味合いも込められていたということです。
アメリカ南部の奴隷制度では、男はコットンを摘みましたが、女はメイドとなりました。そして、トマス・ジェファーソンは、自分のメイドに手を出していました。しかも人種間の結婚は犯罪だったので、御主人様の子どもを身ごもったら、その子は当然、私生児となりました。だから、アメリカでは、とくに黒人社会では、メイド服は忌み嫌われるのです。メイド服は黒人女性にとっては、白人主人による搾取と抑圧の象徴です。メイド服は、その黒人の虐げられてきた歴史を思い起こさせてしまうのです。それも、アメリカでは、メイドカフェが流行らない理由でしょう。人種問題にとてもセンシティブですからね。つまり、メイド服は、「politically correct」ではないのです。ヨーロッパでは、女性に対する抑圧の記号ですが、アメリカでは、さらに白人至上主義の抑圧の記号と見られてしまうのです。
だから、そういった意味で、宮崎駿は、熱烈なフェミニストなので、メイドブームに否定的なのでしょう。特に、手塚治虫に継ぐもっとも偉大なアニメ家である彼が、萌えに対して否定的だったという事実には、ショックを隠し切れません。心から尊敬していたのに…。しかし、萌え系のメイドは、性的搾取ではありません。いわゆるメイドブームの「メイド」は、家政婦的な属性から解放されています。バルドの言う意味から解放された記号の自由、そう、抑圧的役割を象徴する記号ではないのです。そう、史実のメイドではないのです。アニメにおいて、記号は自由になったのです。私たちは、現実のメイドは必要としていません。私の望むのはいわゆるコスプレメイドです。だから、私はフェミニズムの教義には反していないのです。私個人の望むメイドは、世話係というより、心身のボディーガード的な存在です。用心棒ですね。
はっきり言いますが、守ってもらいたいのは、なにも女だけに限ったことではありません。男も守ってもらいたいのです。しかし、今の国家資本主義社会におけるジェンダーの言説では、男は女を守ってあげるものという偏見があるので、そして、残念なことに、その腐敗した偏見に当の女性も順応してしまっているので、守ってもらいたいと願う男は「女々しい、弱っちい」として、そして最悪なのは、そんな男は「キモイ」として避けられてしまうことです。そんな偏見を取り払うことこそ、フェミニズムが取り組まなければならない課題ではないでしょうか!だから、私たちは、ネオリベラル式恋愛資本主義に冒された現実の女性ではなくて、アニメの世界において、自分を守ってくれるメイドたんたちに希望を託すのです。くるみちゃんが、陰陽道の落ちこぼれでいじめられっ子の仲人に、
「御主人様を守るです!」
と言った時は、どんなに救われたことか!彼は、陰陽師家の家督を継いだ兄に比べて、魔術の能力もないし、背も低いし、ハンサムでもないし、学園ではいじめられていたし、兄に対して劣等感を持っていたはずです。とくに、大正時代では、男尊女卑が色濃く反映されていたし、男限定の天皇を頂点とした儒教的な身分社会と年功序列が徹底していたので、長兄は、絶対的な存在でした。そして男は、明日の戦士として、今以上よりも強くあることが求められました。つまり「男としては失格」というレッテルを貼られ、そんなプレッシャーに彼は押し潰されそうになっていましたが、メイドロボットのくるみちゃんが、危機一髪で彼を救うのです。
私はメイドブームが到来する前に、学園でキモオタとして迫害されてきました。当然、くるみちゃんのように、私にキスしてくれる女の子は存在しませんでした。だから、異性との皮膚感覚が完全に欠落していました。その天使のような柔らかい唇の感触をどれほどまでに求めていただろうか!よって、私はひきこもりになりました。そして、メイドブームが到来する直前、私は「透明な自分」にとうとう耐えきれなくなり、日本を捨てて、渡米しました。もし、メイドブームがもっと早く起きていれば、渡米することはなかったでしょう。そして、メイドブームの最中に、小泉という変人が現れたのですから。ああ、メイドたんたち、アメリカにはメイド喫茶がないから残念。でも、アニメで、メイドたんたちに逢えますから…。まほろちゃん、くるみちゃん、コノヱちゃん、
私を守ってー!
しかし、メイド服を生み出した本家のヨーロッパでは、すでに19世紀にメイドブームは起こっていました。まさに、貴族政治が終わって、ブルジョア階級が台頭した時です。そして農村やプロレタリアートの娘は、貨幣を求めてメイドとなりました。だから、メイド人口が爆圧的に増えました。しかし、それは当時の女性にはもっぱらメイドしか、働き口がなかったという事情があるのでしょう。女性の役割というのは、社会でもメイド的だったのです。つまり、パートタイム妻のような、そう、「レンタル奥さん」のようなものだったのです。しかし、メイドには、労働基準法もなく、女性の人権も保護されていなかったので、それをいいことに、金持ちの家がメイドを雇って、時には主人がメイドたちに性的関係を迫ったようです。今では、雇用主が従業員に性的関係を迫るのはセクハラとなりますが、あの時は、それが公然と行われていたわけです。『花右京メイド隊』の花右京財閥の当主、花右京北斎がメイドとセックスして、そのメイドは、私生児を生んでしまいます。北斎は、戦前の人なので、「浮気は男の甲斐性」と言われた時代で育ったわけですから、そういう社会風潮のなかで、そういうことをやってしまったのでしょう。だから、フェミニストたちが、マルクス主義的なルサンチマンを抱えているのも理解できるのです。だから、欧米では、メイド服は、コスプレではなく、むしろ女性の抑圧のシンボルとして見られるのです。
そして、ドイツ史でもっとも有名なメイドは、マリア・アンナ・シックルグルーバーでしょう。彼女は、ロスチャイルド財閥の当主、ソロモン・マイヤー・ヴォン・ロスチャイルドの屋敷でメイドをしていました。その時に、彼女は妊娠しました。または、金持ちユダヤ系のレオポルド・フランケンベルガーの屋敷で、メイドをしていて、その期間に私生児を出産しました。だから、この二人の御主人様が、マリアの子どもの父親である可能性が高いのです。そして、その子は、アロイス・シックルグルーバーと名付けられました。
そして、アロイスは、39歳のときに名字を継父のヒュードラーという名字にあやかって「ヒトラー」と改称します。そして、アロイスは妻と死別し、家事をする人がいなくなったので、自分の姪であるクラーラという10代のメイドに家事を担当させます。まさに、「レンタル奥さん」ですね。そして、アロイスは、
「レンタルだろうと奥さんは奥さんなんだから、もちろんセックスもいいに決まってる!」
と、とうとう我慢できなくなって、親戚でありながら、クラーラと肉体関係を結んでしまいました。近親相姦です。また、アロイスは、本当なら違法の結婚を無理にして、レンタル奥さんをパーマネント奥さんにしてしまいました。それで、クラーラは御主人様である叔父との間に子どもが出来てしまい、そして、生まれた子どもが、アドルフです。それが、アドルフ・ヒットラー、あのユダヤ人600万人を虐殺した世界最悪の独裁者です。つまり、ヒトラーもヒトラーの父も、御主人様と関係を結んでしまったメイドから生まれたのです。よって、メイドは、女性搾取の記号であるとともに、ナチズムの母という面も、ヨーロッパの人々にとっては、あるのかもしれません。
よってメイドは、御主人様の性的搾取の対象にもなりうるということです。花右京太郎にも、お側御用隊のメイド三姉妹がいました。つまり、夜のサービス専用のメイドです。それは、まるでシッダールタを誘惑した三姉妹のラーガです。というか、花右京の屋敷は、太郎以外、すべて若い女性のメイドであり、そこは、まさにハーレム、妓女だけがいる離宮であり、あたかも天空の楽園だったのです。まさにシッダールタの皇太子時代を再現したような豪華絢爛なものでした。しかし、それは、女性が、性的にも搾取されていたという苛烈な事実ということを示すものです。つまり、メイドは、性奴隷としての意味合いも込められていたということです。
アメリカ南部の奴隷制度では、男はコットンを摘みましたが、女はメイドとなりました。そして、トマス・ジェファーソンは、自分のメイドに手を出していました。しかも人種間の結婚は犯罪だったので、御主人様の子どもを身ごもったら、その子は当然、私生児となりました。だから、アメリカでは、とくに黒人社会では、メイド服は忌み嫌われるのです。メイド服は黒人女性にとっては、白人主人による搾取と抑圧の象徴です。メイド服は、その黒人の虐げられてきた歴史を思い起こさせてしまうのです。それも、アメリカでは、メイドカフェが流行らない理由でしょう。人種問題にとてもセンシティブですからね。つまり、メイド服は、「politically correct」ではないのです。ヨーロッパでは、女性に対する抑圧の記号ですが、アメリカでは、さらに白人至上主義の抑圧の記号と見られてしまうのです。
だから、そういった意味で、宮崎駿は、熱烈なフェミニストなので、メイドブームに否定的なのでしょう。特に、手塚治虫に継ぐもっとも偉大なアニメ家である彼が、萌えに対して否定的だったという事実には、ショックを隠し切れません。心から尊敬していたのに…。しかし、萌え系のメイドは、性的搾取ではありません。いわゆるメイドブームの「メイド」は、家政婦的な属性から解放されています。バルドの言う意味から解放された記号の自由、そう、抑圧的役割を象徴する記号ではないのです。そう、史実のメイドではないのです。アニメにおいて、記号は自由になったのです。私たちは、現実のメイドは必要としていません。私の望むのはいわゆるコスプレメイドです。だから、私はフェミニズムの教義には反していないのです。私個人の望むメイドは、世話係というより、心身のボディーガード的な存在です。用心棒ですね。
はっきり言いますが、守ってもらいたいのは、なにも女だけに限ったことではありません。男も守ってもらいたいのです。しかし、今の国家資本主義社会におけるジェンダーの言説では、男は女を守ってあげるものという偏見があるので、そして、残念なことに、その腐敗した偏見に当の女性も順応してしまっているので、守ってもらいたいと願う男は「女々しい、弱っちい」として、そして最悪なのは、そんな男は「キモイ」として避けられてしまうことです。そんな偏見を取り払うことこそ、フェミニズムが取り組まなければならない課題ではないでしょうか!だから、私たちは、ネオリベラル式恋愛資本主義に冒された現実の女性ではなくて、アニメの世界において、自分を守ってくれるメイドたんたちに希望を託すのです。くるみちゃんが、陰陽道の落ちこぼれでいじめられっ子の仲人に、
「御主人様を守るです!」
と言った時は、どんなに救われたことか!彼は、陰陽師家の家督を継いだ兄に比べて、魔術の能力もないし、背も低いし、ハンサムでもないし、学園ではいじめられていたし、兄に対して劣等感を持っていたはずです。とくに、大正時代では、男尊女卑が色濃く反映されていたし、男限定の天皇を頂点とした儒教的な身分社会と年功序列が徹底していたので、長兄は、絶対的な存在でした。そして男は、明日の戦士として、今以上よりも強くあることが求められました。つまり「男としては失格」というレッテルを貼られ、そんなプレッシャーに彼は押し潰されそうになっていましたが、メイドロボットのくるみちゃんが、危機一髪で彼を救うのです。
私はメイドブームが到来する前に、学園でキモオタとして迫害されてきました。当然、くるみちゃんのように、私にキスしてくれる女の子は存在しませんでした。だから、異性との皮膚感覚が完全に欠落していました。その天使のような柔らかい唇の感触をどれほどまでに求めていただろうか!よって、私はひきこもりになりました。そして、メイドブームが到来する直前、私は「透明な自分」にとうとう耐えきれなくなり、日本を捨てて、渡米しました。もし、メイドブームがもっと早く起きていれば、渡米することはなかったでしょう。そして、メイドブームの最中に、小泉という変人が現れたのですから。ああ、メイドたんたち、アメリカにはメイド喫茶がないから残念。でも、アニメで、メイドたんたちに逢えますから…。まほろちゃん、くるみちゃん、コノヱちゃん、
私を守ってー!
サンクスギヴィングか。北米先住民が、七面鳥を白人にくれてやったそうだが、それは、まったく馬鹿げています。なにしろ、白人は、そのあと、先住民を虐殺して、征服したのですから。そう、恩を仇で返すようなものでした。そして、アメリカのシンボルは鷲であり、鷲は、七面鳥を殺し、食べるのです。七面鳥は、つまり、先住民のシンボルであり、そのトーテム的なシンボルを抹殺したのです。しかし、今回は、ブッシュ大統領は、その歴史認識のためか、七面鳥に恩赦を与えました。これが、恩赦された七面鳥の写真です。


私は、ピーチガールの第14話『嵐を呼ぶ男』を観ました。まさか、岡安が、南北戦争のアメリカ連合国の旗を纏っているなんて、かなりショックです。だって、KKKが好んで使う旗ですよ。その国旗は、ナチスのハーケンクロイツの第三帝国の旗に匹敵するほどの極悪非道なものです。英国王室のハリー王子が、ナチスの腕章をパーティーに着ていくようなものです。Confederate flag、いわゆるDixie flagは、とうてい受け入れられるものではありません。奴隷制度を擁護して、戦争したわけですから。その旗は、アメリカ南部でしか見当たりません。私も、中西部に住んでいた時は、独立記念日のパレードで、その国旗を持って凱旋する右翼集団を見かけました。そして、その人種差別と白人至上主義を象徴する旗のシャツを着て、岡安は、ももちゃんに迫ったわけです。
人種差別主義者と化した岡安は、ももちゃんの腕を力ずくで掴みます。

そして、逃げられないようにして、「オレの言い分を聞いてくれ」と迫ります。

そして、ももちゃんのアッパーカットが炸裂します!

岡安は、壁に打ち付けられて、KOされます。これが、人種差別を許さないという、ももちゃんの決意の表れであります。

しかし、これは、岡安のももちゃんに対する忠誠心が揺らいだと判断されたからだと思います。岡安は、ただ一人の女性だけに忠誠を誓ったはずですが、それでも、元恋人の誘いに乗ってしまったわけです。それで、ももちゃんは、切れてしまいます。つまり、ももちゃんは、岡安にとっては、星条旗なわけです。しかし、岡安は、アメリカ合衆国(北部)に反旗を翻したアメリカ連合国(南部)の旗を纏って、ももちゃんを裏切ったのです。それは、南部がアメリカを裏切って独立戦争を起こしたようなものです。だから、ももちゃんは、グレイ・ソルジャー(南部の兵士)となった岡安をぶっ飛ばしたわけです。
そう、それは、『忠誠の宣言(Pledge of Allegiance)』の「One nation under God」の精神に反します。つまり、「一つの神の下での一つの国家」なのです。一つの神の下で、国家は二つはいらないのです。そして、岡安の着ていた南部の旗は、アメリカを二つに分断してしまったわけですから、その精神に反するのです。そう、人々は一つの神しか信仰してはいけないように、一つの異性しか愛してはいけないのです。そして、愛する国家も一つでなければなりません。
「イスラエルとアメリカの二重国籍も二股、とくに最近のメキシコとアメリカの二重国籍も、アメリカに対する背信行為だ」
と、アメリカのキリスト教系右翼は主張します。それでも、コンフェデレート(アメリカ連合国)の国旗は、アメフトの試合で、よく見かけられますし、ウィットニー・ヒューストンによる『星条旗』の斉唱も、その例ですね。それは、南部もアメリカの一部であるということをアピールするようなものでしょうか。南部の票が、大統領選挙を左右するといいますから。南部を制するものが大統領の席を制すると言いますから。奴隷制度を擁護した反逆者の旗が、公然と翻っているというこの事実、もし、これがナチスの旗だったら、どうなっていたことでしょう。しかし、南部の連邦からの独立は、もし奴隷制度を擁護するものでなければ、当然の権利だったのでしょう。まあ、これは、アメリカでは、超問題発言となってしまいますが、とにかく、南部の独立運動によって、州権が邪悪とされるようになってしまいました。さらに20世紀においても、連邦から分離した権利が、有色人種(主に黒人)を差別する人種政策を推し進めていってしまったのですから。それで、地方分権は悪のレッテルを貼られてしまいます。
まあ、逆に言えば、アメリカ国粋主義は、南北戦争をもって誕生したと言ってもいいでしょう。それで、神、国家、異性というロマン主義と国粋主義がようやくアメリカにも到来したのです。1860年代は、ナポレオン三世によってフランスが帝国となっていましたし、今までずっと分裂状態だったドイツとイタリアが統一し、日本も、明治維新によって、国家主義国家に変わってしまいました。そして、アメリカも南北戦争によって、帝国へと変貌してしまったのです。南部の死は、つまり岡安のももちゃんにぶん殴られるシーンは、独立精神が死んだことを意味します。そう、人々は「国民」となり、結婚を通じて国家の歯車となってしまったのです。だから、岡安は、ももちゃんに「非国民」と糾弾されて、アッパーカットを食らってしまったのです。そして、岡安は、遂にももちゃんに忠誠を誓うのです。
***
それにしても、ももちゃんのようなガングロ・コギャルは、私のクラスにもたくさんいました(ももちゃんは水泳部員なので、そういうふうに見えるだけですが…)。ルーズソックスに茶髪に茶色い肌に短いスカートにポケベル、ブランドバッグ、ももちゃんを見ていると、そのような子たちを思い出します。私も、実は高校の時、ももちゃんのような、茶髪でガングロ、いわゆるアムラーのような子を好きになったことがありました。だから、私の好きな人を思い出してしまったんですよ…。ももちゃんと重なっちゃって。だから『ピーチ・ガール』にハマってしまったんです。ももちゃんに、あの子の面影を見たんです。そして、その子についに意を決して告白しましたが、ほんとあっけなくふられまてしまいした。私は、ガングロに拒絶されたのです。異性に忠誠を誓うこともできず、拒絶されたので、愛郷心は跡形もなく消滅してしまいました。それからというもの、ルーズソックスには、吐き気をもようすようになりました。そう、サルトルの『嘔吐』の主人公のように。彼はマロニエの樹でしたが、私はルーズソックスでした。
そう、援助交際、それは、女子高生が資本主義システムに取り込まれてしまったということに私は気がついたのです。大人の社会は、ずばり資本主義社会です。よって、大人の恋愛は、援助交際なのです。それが、恋愛資本主義です。そして、女子高生が、それに冒されてしまったのです。そうやって、彼女らは恋愛ナチとなってしまったのです。その記号が、ブランドバッグやルーズソックスでした。16歳でありながら。ああ、でも、ももちゃんの水着姿は、本当にかわいいですね。というか、あのプールサイドの網越しに、男の子と手を触り合うというのが、超かわいい!ほんと、こういうことをしたかったんです。青春を謳歌したかったんです。学園に戻りたい。こんな子と、高校のときにデートできたなら、ひきこもりのまま廃人になっているということはなかったんです。また、渡米することは、絶対にありませんでした。しかし、私はキモメンでオタク、いわゆるキモオタとして、女の子たちに気持ち悪がられ、無視され、避けられていました。そう、私もKKK(キモい、暗い、汚い)だったんです。だからこそ、私は渡米するしかなかったんです。自由の大地を目指して!でも、残念ながら今でも、KKKのままですね。「キモイ、金ない、彼女できない」です。恋愛が皮膚感覚の快楽の条件になるなんて、そんな馬鹿な!
だからこそ、セックスを、恋愛から分離することです。それは、性と愛を分離するので、「性愛分離」です。そして、ロマン主義(恋愛至上主義=恋愛ナチズム)と国粋主義を打倒することです。それによって、自由がもたらされるんです。
自由、万歳!
人種差別主義者と化した岡安は、ももちゃんの腕を力ずくで掴みます。

そして、逃げられないようにして、「オレの言い分を聞いてくれ」と迫ります。

そして、ももちゃんのアッパーカットが炸裂します!

岡安は、壁に打ち付けられて、KOされます。これが、人種差別を許さないという、ももちゃんの決意の表れであります。

しかし、これは、岡安のももちゃんに対する忠誠心が揺らいだと判断されたからだと思います。岡安は、ただ一人の女性だけに忠誠を誓ったはずですが、それでも、元恋人の誘いに乗ってしまったわけです。それで、ももちゃんは、切れてしまいます。つまり、ももちゃんは、岡安にとっては、星条旗なわけです。しかし、岡安は、アメリカ合衆国(北部)に反旗を翻したアメリカ連合国(南部)の旗を纏って、ももちゃんを裏切ったのです。それは、南部がアメリカを裏切って独立戦争を起こしたようなものです。だから、ももちゃんは、グレイ・ソルジャー(南部の兵士)となった岡安をぶっ飛ばしたわけです。
そう、それは、『忠誠の宣言(Pledge of Allegiance)』の「One nation under God」の精神に反します。つまり、「一つの神の下での一つの国家」なのです。一つの神の下で、国家は二つはいらないのです。そして、岡安の着ていた南部の旗は、アメリカを二つに分断してしまったわけですから、その精神に反するのです。そう、人々は一つの神しか信仰してはいけないように、一つの異性しか愛してはいけないのです。そして、愛する国家も一つでなければなりません。
「イスラエルとアメリカの二重国籍も二股、とくに最近のメキシコとアメリカの二重国籍も、アメリカに対する背信行為だ」
と、アメリカのキリスト教系右翼は主張します。それでも、コンフェデレート(アメリカ連合国)の国旗は、アメフトの試合で、よく見かけられますし、ウィットニー・ヒューストンによる『星条旗』の斉唱も、その例ですね。それは、南部もアメリカの一部であるということをアピールするようなものでしょうか。南部の票が、大統領選挙を左右するといいますから。南部を制するものが大統領の席を制すると言いますから。奴隷制度を擁護した反逆者の旗が、公然と翻っているというこの事実、もし、これがナチスの旗だったら、どうなっていたことでしょう。しかし、南部の連邦からの独立は、もし奴隷制度を擁護するものでなければ、当然の権利だったのでしょう。まあ、これは、アメリカでは、超問題発言となってしまいますが、とにかく、南部の独立運動によって、州権が邪悪とされるようになってしまいました。さらに20世紀においても、連邦から分離した権利が、有色人種(主に黒人)を差別する人種政策を推し進めていってしまったのですから。それで、地方分権は悪のレッテルを貼られてしまいます。
まあ、逆に言えば、アメリカ国粋主義は、南北戦争をもって誕生したと言ってもいいでしょう。それで、神、国家、異性というロマン主義と国粋主義がようやくアメリカにも到来したのです。1860年代は、ナポレオン三世によってフランスが帝国となっていましたし、今までずっと分裂状態だったドイツとイタリアが統一し、日本も、明治維新によって、国家主義国家に変わってしまいました。そして、アメリカも南北戦争によって、帝国へと変貌してしまったのです。南部の死は、つまり岡安のももちゃんにぶん殴られるシーンは、独立精神が死んだことを意味します。そう、人々は「国民」となり、結婚を通じて国家の歯車となってしまったのです。だから、岡安は、ももちゃんに「非国民」と糾弾されて、アッパーカットを食らってしまったのです。そして、岡安は、遂にももちゃんに忠誠を誓うのです。
それにしても、ももちゃんのようなガングロ・コギャルは、私のクラスにもたくさんいました(ももちゃんは水泳部員なので、そういうふうに見えるだけですが…)。ルーズソックスに茶髪に茶色い肌に短いスカートにポケベル、ブランドバッグ、ももちゃんを見ていると、そのような子たちを思い出します。私も、実は高校の時、ももちゃんのような、茶髪でガングロ、いわゆるアムラーのような子を好きになったことがありました。だから、私の好きな人を思い出してしまったんですよ…。ももちゃんと重なっちゃって。だから『ピーチ・ガール』にハマってしまったんです。ももちゃんに、あの子の面影を見たんです。そして、その子についに意を決して告白しましたが、ほんとあっけなくふられまてしまいした。私は、ガングロに拒絶されたのです。異性に忠誠を誓うこともできず、拒絶されたので、愛郷心は跡形もなく消滅してしまいました。それからというもの、ルーズソックスには、吐き気をもようすようになりました。そう、サルトルの『嘔吐』の主人公のように。彼はマロニエの樹でしたが、私はルーズソックスでした。
そう、援助交際、それは、女子高生が資本主義システムに取り込まれてしまったということに私は気がついたのです。大人の社会は、ずばり資本主義社会です。よって、大人の恋愛は、援助交際なのです。それが、恋愛資本主義です。そして、女子高生が、それに冒されてしまったのです。そうやって、彼女らは恋愛ナチとなってしまったのです。その記号が、ブランドバッグやルーズソックスでした。16歳でありながら。ああ、でも、ももちゃんの水着姿は、本当にかわいいですね。というか、あのプールサイドの網越しに、男の子と手を触り合うというのが、超かわいい!ほんと、こういうことをしたかったんです。青春を謳歌したかったんです。学園に戻りたい。こんな子と、高校のときにデートできたなら、ひきこもりのまま廃人になっているということはなかったんです。また、渡米することは、絶対にありませんでした。しかし、私はキモメンでオタク、いわゆるキモオタとして、女の子たちに気持ち悪がられ、無視され、避けられていました。そう、私もKKK(キモい、暗い、汚い)だったんです。だからこそ、私は渡米するしかなかったんです。自由の大地を目指して!でも、残念ながら今でも、KKKのままですね。「キモイ、金ない、彼女できない」です。恋愛が皮膚感覚の快楽の条件になるなんて、そんな馬鹿な!
だからこそ、セックスを、恋愛から分離することです。それは、性と愛を分離するので、「性愛分離」です。そして、ロマン主義(恋愛至上主義=恋愛ナチズム)と国粋主義を打倒することです。それによって、自由がもたらされるんです。
自由、万歳!
独身は肩身の狭い思いをします。とくに独身男性ですね。しかも、その独身男性に、恋愛歴、結婚歴がないと、「まとも」ではなくなってしまいますので、異性から相手にされません。しかも、日本では20代男性の恋愛経験なし率が、20%を越えるという。先進国では、ずば抜けています。その率は、女子の約2倍以上です。それは、やはり男社会の重圧によって、モテない男が多発してしまうということでしょう。経済の格差社会、そして、男性は女性の収入より多いですし、社会的地位が高いです。男女格差が最大の原因でしょう。国会の女性の占める割合は惨めなものです。まあ、小泉の郵政選挙で割合は高くなったんですが、それでも北欧に比べたら…。だから、金のない男は、金のある男にすべて女性を取られてしまうのです。また、女性も男社会に洗脳されているため、若くて金のない男とはデートしたがりません。そして、年功序列社会では、男の金は年齢によって蓄えられていきます。つまり格差は年齢と直結しているのです。だから、だいたい女に取り囲まれる男は、死に損ないのオヤジかジジイです。それは、先進国でも、突出しているのです。なぜなら、日本は年功序列の男尊女卑社会だからです。先進国のなかで男尊女卑がもっともひどい社会、それは日本です。国連の調査で、日本のジェンダー指数は、先進国では最低で、世界全体では、70位以下でした。なにしろ女は天皇になれない。それは、国恥です。だから、日本の若い男は、20%の恋愛無経験率という驚異的数字を出してしまうのです。男社会が、若い男を苦しめてしまっているのです。そう、男は、「3高」ではなくて、「4高」なのです。
「自分より学歴、身長(イケメン)、収入(ステータス)、そして、年齢が高い男」
そう、女性は、自分より年齢が高い男を選んでいるのです。だから、年功序列に基づく男性至上主義の資本主義社会では、オヤジとジジイがモテるのです。つまり、同世代は、恋愛・結婚の対象にならないということです。ようするに、女性が求める男とは、家父長制度を象徴するようなファルス的な、兄か、父か、教会で言えば、イエスとヤハウェーのような男に嫁ぐのです。それが、キモオタという人種を作り出してしまっている土壌なのです。キモオタは20代に圧倒的に多いのですから。その原因は、年功序列の男性社会にあるのです。そして、「萌え」が活性化されます。それは、社会的貧困が招いた「阿片」なのです。そして、恋愛ナチズム国家の日本において、秋葉は阿片中毒者のゲットーと化してしまいます。士農工商で言えば、穢多非人か、カースト制度で言えば、ハリジャンのような、恋愛レジームで言えば、キモオタですね。もし、イケメン、普通メン、ブス・ブサイク、ドブス・キモメン、の階級があるのなら、キモオタはもうその階級制度自体にも入ってないですからね。完全なアウトキャストです。もう、秋葉は、恋愛レジームの同和地区と言ったところでしょうか。
まあ、アメリカでも、CEOのオヤジとジジイが女性たちを囲ませて快楽に耽っていますから、アメリカも男尊女卑社会です。日本ほどひどくはありませんが。ヒラリーも夫の名字で大統領になろうとしているし、あれはちょっとやめたほうがいいですね。
さらに、独身には追い打ちがあります。政府です。アメリカでは、それは過酷を極めます。連邦政府は愛するものがいない独身を罰します。アメリカでは、愛の最高形態が結婚とされていますので。連邦所得税における独身税です。結婚のカップルは所得税で優遇されます。ということは、独身は連邦政府から差別待遇を受けるということです。結婚は国家の歯車であり、国家に忠誠を誓わせる道具なのです。逆に結婚していない人は、国家に忠誠を誓っていないと見なされるのです。だから、所得税における独身税という罰金を払わなければならないのです。それが、本当の国家のからくりなのです。よって、アメリカでは、96%の人が結婚します。つまり、国家が人々を結婚するように誘導しているのです。
そもそも所得税自体は、憲法違反でしたが、国家総動員の戦争に向けて、憲法修正第16条が可決され、所得税がすべての国民に課されるようになりました。そして、独身税というのができました。だから、私は連邦所得税を撤廃してほしいのです。税金の面からも、キリスト教原理主義と国家主義とロマン主義を砕いて欲しいですね。だから、私は、ロン・ポールの連邦所得税廃止論に賛成なのです。
ようするにアメリカでは、神と国家と異性、その三段階のヒエラルキーが資本主義とともに支配しているのです。税金はそのイデオロギーを実行する一つの道具です。そして、金は連邦準備と財務省が発行します。つまり、金は国家のものですが、ドル札には「In God We Trust」とありますので、それは、神のものでもあるのです。イエスは、コインを見て、
「シーザーのものはシーザーのもとへ」
と言いましたが、アメリカでは、お金まで、神のものとなってしまいました。そう、資本主義の拝金主義を煽るものは、神であり、金儲けを否定する共産主義は、無神論です。エヴァンジェリカル系教会の論説によると、マタイによる福音書第25章の「タラントンのたとえ」が、神ヤハウェーが資本主義者であることを裏付けていると主張してします。そう、財産のない男は、生殖機能までとりあげられて、断種されてしまうのです。まさに、生産力のないキモオタの運命です。天の国は、資本主義社会なのです。つまり、神はめきめきの資本主義者なのです。だから、レーガンはソ連を「悪の帝国」と名指しで呼びました。そして、国家への宣誓で「one nation under God(一つの神の下の一つの国家)」と唱えますので、国家は一神教の神の下に属するということです。それがこの図式です。

ところが私は、このヒエラルキーのどの部分にも属していません。だから、私は、愛国心もありませんし、神に対する信仰心もありません。「萌え」は、国家反逆罪なのです。独身税は、国家反逆罪の罰なのです。
しかし、小泉は、戦後初の独身総理でした。そして、あの破壊のエネルギーはすごいものでした。彼が独身であったことは、どんなに私の励みになったことか!腐敗した年功序列と男性至上主義のシステムを破壊する指導者だったのですから。とくに、男尊女卑の元凶である天皇家の改革を実行しようとしたのですから!
そして、やはりセックスと恋愛を分離することです。ブッシュが「abstinence」を奨励するのは、まさにジョージ・オーウェルの『1984』のような国家によるセックスの統制と同じことです。真に人々が解放されて自由になるには、結婚を廃止し、セクシュアリティーを解放することでしょう。それこそ、自由というものです。そして、その手始めが、独身税、そして連邦所得税の廃止なのです。
自由、万歳!
「自分より学歴、身長(イケメン)、収入(ステータス)、そして、年齢が高い男」
そう、女性は、自分より年齢が高い男を選んでいるのです。だから、年功序列に基づく男性至上主義の資本主義社会では、オヤジとジジイがモテるのです。つまり、同世代は、恋愛・結婚の対象にならないということです。ようするに、女性が求める男とは、家父長制度を象徴するようなファルス的な、兄か、父か、教会で言えば、イエスとヤハウェーのような男に嫁ぐのです。それが、キモオタという人種を作り出してしまっている土壌なのです。キモオタは20代に圧倒的に多いのですから。その原因は、年功序列の男性社会にあるのです。そして、「萌え」が活性化されます。それは、社会的貧困が招いた「阿片」なのです。そして、恋愛ナチズム国家の日本において、秋葉は阿片中毒者のゲットーと化してしまいます。士農工商で言えば、穢多非人か、カースト制度で言えば、ハリジャンのような、恋愛レジームで言えば、キモオタですね。もし、イケメン、普通メン、ブス・ブサイク、ドブス・キモメン、の階級があるのなら、キモオタはもうその階級制度自体にも入ってないですからね。完全なアウトキャストです。もう、秋葉は、恋愛レジームの同和地区と言ったところでしょうか。
まあ、アメリカでも、CEOのオヤジとジジイが女性たちを囲ませて快楽に耽っていますから、アメリカも男尊女卑社会です。日本ほどひどくはありませんが。ヒラリーも夫の名字で大統領になろうとしているし、あれはちょっとやめたほうがいいですね。
さらに、独身には追い打ちがあります。政府です。アメリカでは、それは過酷を極めます。連邦政府は愛するものがいない独身を罰します。アメリカでは、愛の最高形態が結婚とされていますので。連邦所得税における独身税です。結婚のカップルは所得税で優遇されます。ということは、独身は連邦政府から差別待遇を受けるということです。結婚は国家の歯車であり、国家に忠誠を誓わせる道具なのです。逆に結婚していない人は、国家に忠誠を誓っていないと見なされるのです。だから、所得税における独身税という罰金を払わなければならないのです。それが、本当の国家のからくりなのです。よって、アメリカでは、96%の人が結婚します。つまり、国家が人々を結婚するように誘導しているのです。
そもそも所得税自体は、憲法違反でしたが、国家総動員の戦争に向けて、憲法修正第16条が可決され、所得税がすべての国民に課されるようになりました。そして、独身税というのができました。だから、私は連邦所得税を撤廃してほしいのです。税金の面からも、キリスト教原理主義と国家主義とロマン主義を砕いて欲しいですね。だから、私は、ロン・ポールの連邦所得税廃止論に賛成なのです。
ようするにアメリカでは、神と国家と異性、その三段階のヒエラルキーが資本主義とともに支配しているのです。税金はそのイデオロギーを実行する一つの道具です。そして、金は連邦準備と財務省が発行します。つまり、金は国家のものですが、ドル札には「In God We Trust」とありますので、それは、神のものでもあるのです。イエスは、コインを見て、
「シーザーのものはシーザーのもとへ」
と言いましたが、アメリカでは、お金まで、神のものとなってしまいました。そう、資本主義の拝金主義を煽るものは、神であり、金儲けを否定する共産主義は、無神論です。エヴァンジェリカル系教会の論説によると、マタイによる福音書第25章の「タラントンのたとえ」が、神ヤハウェーが資本主義者であることを裏付けていると主張してします。そう、財産のない男は、生殖機能までとりあげられて、断種されてしまうのです。まさに、生産力のないキモオタの運命です。天の国は、資本主義社会なのです。つまり、神はめきめきの資本主義者なのです。だから、レーガンはソ連を「悪の帝国」と名指しで呼びました。そして、国家への宣誓で「one nation under God(一つの神の下の一つの国家)」と唱えますので、国家は一神教の神の下に属するということです。それがこの図式です。

ところが私は、このヒエラルキーのどの部分にも属していません。だから、私は、愛国心もありませんし、神に対する信仰心もありません。「萌え」は、国家反逆罪なのです。独身税は、国家反逆罪の罰なのです。
しかし、小泉は、戦後初の独身総理でした。そして、あの破壊のエネルギーはすごいものでした。彼が独身であったことは、どんなに私の励みになったことか!腐敗した年功序列と男性至上主義のシステムを破壊する指導者だったのですから。とくに、男尊女卑の元凶である天皇家の改革を実行しようとしたのですから!
そして、やはりセックスと恋愛を分離することです。ブッシュが「abstinence」を奨励するのは、まさにジョージ・オーウェルの『1984』のような国家によるセックスの統制と同じことです。真に人々が解放されて自由になるには、結婚を廃止し、セクシュアリティーを解放することでしょう。それこそ、自由というものです。そして、その手始めが、独身税、そして連邦所得税の廃止なのです。
自由、万歳!
キミキス第6話、観ましたー!ああ、やっぱ星乃結美ちゃん、ニーチェを読んでいるんだー。話したら、絶対に気が合うだろうなぁ。なんで、こんな子と高校のときに出会えなかったんだろうか!残酷です、実に現実世界の浮き世は残酷で冷酷です!
ニーチェは、私に影響を与えました。キモメン哲学者ニーチェ、彼はピアノの名手でしたが、そのピアノのメロディーで恋に落ちた女性はいませんでした。そして結婚もできませんでした。どんなにピアノが上手くとも、キモメンだと、その美しいメロディーとは釣り合わないのでしょうね、女性の目には。実に切ない。だから、自暴自棄になった彼は、売春宿に行って、娼婦のためにピアノを弾く始末です。そして、梅毒に感染し、発狂してしまったと伝えられます。彼の発狂の原因は謎ですが、梅毒の可能性が高いようです。そして、ワーグナーの妻にも、ラブレターを送るほどまでに精神が病んでしまいました。そして、孤独のうちに死んでしまいます。まさに、キモメンの終末でした。「キモメンの独り暮らしは、孤独死確定ね」なのです。
カール・マルクスは階級闘争を唱えました。いわゆる物質的世界観です。それは、ブルジョワジーとプロレタリアートという階級闘争です。しかし、ニーチェの場合は、美学的世界観です。いわゆる、美と醜による闘争です。そう、現代でいえば、イケメンとキモメンの闘争ですね。美による判断基準を採用した哲学者は、きっと彼がはじめてか、彼が一番有名でしょう。彼のソクラテス批判も、まったく荒唐無稽です。
「ソクラテス、彼がどれほどキモかったか!」
と批判しています。ソクラテスがキモメンだったということは、ニーチェによって有名になったといってもいいでしょう。でも、ニーチェはプロレタリアートの怨念とキモメンの怨念を批判しています。だから、私は、どちらかというと、マルクスのほうですね。美学的世界観を共有しながらの階級闘争的史観です。
だから、結美ちゃんは、私を理解したはずです。私のキモメンとしての辛さをわかってくれたと思います。私がキモメンなために、アニメに詳しいと、ただのオタクではなくて、キモオタになってしまうのですから。Gacktだって、ガンダムオタクなのに、彼はイケメンなので、ただのオタクで済んでしまいます。あるいは、イケオタとなります。しかし、キモメンでオタクだと、キモオタとなってしまうのです。そして、私は学園でクラスメイトの女子に避けられ、無視され、気持ち悪がられ、それで、ひきこもりとなって、とうとう耐えきれなくなって、渡米してしまいました。キモオタとして、ゲロとヘドロとヤニに満ちた日本社会に対して怨念だけが残ったのです。だけど、もし、結美ちゃんが学園にいたなら、きっと私は救われていたでしょう。日本を捨てようとなんて絶対に考えなかったと思います。
結美ちゃん、私をいたわって〜!
ニーチェは、私に影響を与えました。キモメン哲学者ニーチェ、彼はピアノの名手でしたが、そのピアノのメロディーで恋に落ちた女性はいませんでした。そして結婚もできませんでした。どんなにピアノが上手くとも、キモメンだと、その美しいメロディーとは釣り合わないのでしょうね、女性の目には。実に切ない。だから、自暴自棄になった彼は、売春宿に行って、娼婦のためにピアノを弾く始末です。そして、梅毒に感染し、発狂してしまったと伝えられます。彼の発狂の原因は謎ですが、梅毒の可能性が高いようです。そして、ワーグナーの妻にも、ラブレターを送るほどまでに精神が病んでしまいました。そして、孤独のうちに死んでしまいます。まさに、キモメンの終末でした。「キモメンの独り暮らしは、孤独死確定ね」なのです。
カール・マルクスは階級闘争を唱えました。いわゆる物質的世界観です。それは、ブルジョワジーとプロレタリアートという階級闘争です。しかし、ニーチェの場合は、美学的世界観です。いわゆる、美と醜による闘争です。そう、現代でいえば、イケメンとキモメンの闘争ですね。美による判断基準を採用した哲学者は、きっと彼がはじめてか、彼が一番有名でしょう。彼のソクラテス批判も、まったく荒唐無稽です。
「ソクラテス、彼がどれほどキモかったか!」
と批判しています。ソクラテスがキモメンだったということは、ニーチェによって有名になったといってもいいでしょう。でも、ニーチェはプロレタリアートの怨念とキモメンの怨念を批判しています。だから、私は、どちらかというと、マルクスのほうですね。美学的世界観を共有しながらの階級闘争的史観です。
だから、結美ちゃんは、私を理解したはずです。私のキモメンとしての辛さをわかってくれたと思います。私がキモメンなために、アニメに詳しいと、ただのオタクではなくて、キモオタになってしまうのですから。Gacktだって、ガンダムオタクなのに、彼はイケメンなので、ただのオタクで済んでしまいます。あるいは、イケオタとなります。しかし、キモメンでオタクだと、キモオタとなってしまうのです。そして、私は学園でクラスメイトの女子に避けられ、無視され、気持ち悪がられ、それで、ひきこもりとなって、とうとう耐えきれなくなって、渡米してしまいました。キモオタとして、ゲロとヘドロとヤニに満ちた日本社会に対して怨念だけが残ったのです。だけど、もし、結美ちゃんが学園にいたなら、きっと私は救われていたでしょう。日本を捨てようとなんて絶対に考えなかったと思います。
結美ちゃん、私をいたわって〜!
そういえば、三島由紀夫の小説で『仮面の告白』というのがありましたが、あれは主人公が自分がバイセクシュアルであることを告白するものですね。ということは、『キモメンの告白』の場合は、主人公が自分が本当はアンセクシュアル(Unsexual)、つまり隠れチェリーであることを告白するものになるのでしょう。
キモメンはキモイ面なので、英語に直訳すると、「Repulsive Mask」となります。つまり、セクシャルアピールがまったくないためにアンセクシャルとなり、不快感を起こすような容姿なので、キモメンなのです。「キモイ顔」がキモメンです。そう、日本書紀や古事記でも、国津神の葦原醜男(あしはらしこお)というキャラが出てきます。それは、大国主の別名というか通称というか、ヒップホップでいうAKAみたいなものです。それは、「葦原中国の醜い男」という意味です。でも、醜いことは、勇猛なこととされていたらしいです、少なくとも古代では。古代の価値観を復活させたいですね!つまり大国主は、キモメンだったのです。そして、大国主は、アマテラスが統治する高天原の遠征軍の天孫降臨によって、国を奪われてしまいます。つまり、キモメンの長は、悪玉として、ヒールとして、イケメンでベビーフェイスのアマテラス軍に成敗されてしまったのです。
そして、醜女(しこめ)というのが、女ヴァージョンのキモメンですね。古事記にイワナガヒメというキモメンキャラが登場します。アマテラスの子孫のニニギは姉妹を娶りますが(一夫多妻制)、その姉がイワナガヒメでした。妹はかわいかったのですが、姉の容姿は眼をつぶってもキモイほどて、とてもセックスできなかったそうです。だから、姉は初夜のときに、ニニギに部屋から追い出されてしまいました。プライドをズダズダにされた姉は、
「ムキー!ニニギめ。呪ってやる!」
とニニギと妹とその子々孫々に呪いをかけました。もちろん、その子孫となったのが、今の天皇家です。だから、天皇は代々に渡って寿命が短くなってしまったそうです。
つまり、もともと男のキモメンは勇猛なシンボルで、女のキモメンは長寿のシンボルだったのです。しかし、イケメン系のアマテラスの子孫は、醜男を追放して、さらに醜女に子どもを作らせませんでした。醜人は美人に断種されてしまったのです。そう、国津神を断種する計画が、葦原中国平定、または国譲りだったのです。国津神族絶滅計画、まさにユーゴスラビアの民族浄化さながらですね。
ということは、すでに日本の神話の時代から、キモメンは滅びる運命にあるということが記されているということです。辛い事実です。美=善、醜=悪という公式です。
さて、所変わって、世界のほうに眼を向けることにしましょう。西アフリカのバンバラ族の言い伝えでも、モーソ・コロニという女神がキモメンだったために男ができず、そのためにすべての男子に呪いをかけたそうです。その呪いをかけられた場所が包皮なので、すべての男子は割礼儀式を通過しなければいけなくなったそうです。それが、バンバラ族の割礼の起源です。
また、ワーグナーのオペラの『ニーベルンゲンの指輪』でもアルベリッヒというドワーフ(小人)がライン川の金髪の美女たちにまったく相手にされず、世界に対して呪いをかけるというものです。そして、鍛冶屋だったアルベリッヒはラインの黄金から呪いの指輪をつくり、それがラグナロークを誘発します。私もライン川の美女目当てにドイツに行ったのですが、ライン川はヨーロッパでもっとも汚染されている川の一つで、美女はどこにも見当たりませんでした。それがきっかけで、私は、環境保護を掲げる緑の党を支持するようになりました。当のアルベリッヒは英語でいうとオーベロンですが、シェークスピアの『真夏の夜の夢』で登場するオーベロンはひょうきんな妖精で、決してキモチビという陰鬱なキャラではありません。イギリスではコミカルなキャラが、ドイツでは悲劇のキャラになってしまうのも興味深いです。そこが、文化の違いでしょうか?
ニーチェは、ソクラテスの論理哲学のきっかけは、彼がキモメンだったからだとしています。それによって世界を論理という呪いにかけ、キリスト教という奴隷道徳の宗教が発生する土台を作ったとしています。しかし、それは古今東西、キモメンは迫害されてきたことを意味します。それは、美=善、醜=悪という公式を示唆しています。まるで、それが普遍的価値観であるように。
どころがどっこい、キモメンは、なんと古代日本では、きっとまだ古事記の神話の時代以前なのでしょうが、社会的に尊敬されていたようです。驚くべきことです。九州の遺跡のトンカラリンからは、変形した女性頭蓋骨が発掘されています。それを復元したら、キモメンとなりました。その女性は、付随していた装飾品から共同体の地位の高い巫女、またはシャーマンだったと推測されます。その女性は、きっと「葦原醜女」だったのでしょう。またペルーの遺跡でも、おなじく変形した頭蓋骨が発見されています。その人たちは、神事を司っていたとされています。つまりわざとキモメンにしたのでしょう。そこで推測されることは、古代では、醜いことは、なにか特別の力の現れだったとされていたということです。こちらの世界とあちらの世界を結ぶ架け橋のような存在だったのでしょう。それに、障害児や奇形児は、神の子と思われたようです。つまり、神から選ばれたので、その印として奇形になったというのです。醜男は、勇猛な男ですし、醜女は長寿の女です。それも、やはり神性なために、醜くなったという解釈によるものでしょう。現在でも、イタコは盲目の方がいますし、社会的弱者の障害者が神事に携わったという、つまり古代の社会福祉だったのかもしれません。というか、フーコーの言う「阿呆船」のような時代だったのかもしれません。現代で言えば、「キモ船」でしょう。その船には当然、キモメンも含まれてました。キモメンが真実を伝える、つまり神の言葉を伝えていたわけです。よって、葦原中国のリーダーはキモメンの葦原醜男だったのです。
しかし、今では、障害者やキモメンは、フリークショーという見せ物になりますし、おぞましきものを嘲笑するというコメディーという大衆娯楽になってしまい、それによって『オペラ座の怪人』の悲劇が生まれてしまいました。あのミュージカルはまさに「キモメンの告白」でした。キモ面の上に面をかぶっているのですから、つまり、仮面の上に仮面、ダブル・ペルソナとでもいいましょうか。そしてオペラ座の屋根裏または地下にひきこもってオペラに熱中するという、ひきこもりだったのです。キモオタもひきこもって、アニメに萌えますね。
そういえば、劇場型プロレスの『ハッスル』で、高田モンスター軍のニューリン様も、生まれた時から顔に怪我があったため、オペラ座の怪人のように仮面をかぶっています。そう、本来は母親のインリン様のような美人に生まれてくるはずだったのが、キモメンとなってしまったのです。だから、ニューリン様は、あそこまで凶暴な性格となったのでしょう。触れるものすべてを破壊し尽くさなければ気が済まないという。しかし、自分をキモメンにした張本人が高田総統だと知ったため、ニューリン様は総統を裏切って、小川直也の率いるハッスル軍に鞍替えします。そして高田帝国を破滅させることを誓います。
閑話休題、かつてのキモメンが社会的尊敬を得るという価値観は、たぶん天孫降臨の際に崩壊してしまったのでしょう。そのときからは、イケメンが葦原中国(日本)を君臨し統治し支配する世の中を作ってしまったのです。もし、キモ船の時代のままであったなら、イエスもシッダールタも出てこなかったのではないでしょうか。事実、出家する前のシッダールタはイケメンプリンスで、王宮のハーレムで美女とやりまくっていたのですから、キモメンとは対極の存在だったのであり、イケメンとキモメンの格差社会の象徴的な存在だったのです。その記号社会の頂点にいたわけですから。
高天原の軍団が築いた社会、それは今で言えばジャニーズのようなものでしょうか。それが行き過ぎれば、きっとナチスのような社会となってしまいます。理想のアーリア人にそぐわない人間は「汚物に息がつまる」くらい醜いとされ、断種の対象となってしまいます。事実、ナチスドイツでは、7万人の障害者が抹殺されました。現代日本では、ジェニーズがかつてのナチスのSS(親衛隊)のようなものでしょうか。そのようなジャニーズを頂点とした芸能人崇拝社会では、キモメンはおぞましきものとして、相手にされず、迫害されるだけなので、そのような過酷な現実から逃れるため、萌え系アニメに走るのです。それで、アニメオタクが誕生します。そして、キモメンとオタクがドッキングして、「キモオタ」となります。アニメは、まさにあちらの世界、つまり、古代のキモメンが担ってきた架け橋のように、現実と二次元世界の架け橋となっているのです。そう、萌え系アニメのキモオタは、国譲り以前の、真の古代日本の神事を引き継ぐシャーマンなのです!
現代の真のシャーマンはキモオタだー!
キモメンはキモイ面なので、英語に直訳すると、「Repulsive Mask」となります。つまり、セクシャルアピールがまったくないためにアンセクシャルとなり、不快感を起こすような容姿なので、キモメンなのです。「キモイ顔」がキモメンです。そう、日本書紀や古事記でも、国津神の葦原醜男(あしはらしこお)というキャラが出てきます。それは、大国主の別名というか通称というか、ヒップホップでいうAKAみたいなものです。それは、「葦原中国の醜い男」という意味です。でも、醜いことは、勇猛なこととされていたらしいです、少なくとも古代では。古代の価値観を復活させたいですね!つまり大国主は、キモメンだったのです。そして、大国主は、アマテラスが統治する高天原の遠征軍の天孫降臨によって、国を奪われてしまいます。つまり、キモメンの長は、悪玉として、ヒールとして、イケメンでベビーフェイスのアマテラス軍に成敗されてしまったのです。
そして、醜女(しこめ)というのが、女ヴァージョンのキモメンですね。古事記にイワナガヒメというキモメンキャラが登場します。アマテラスの子孫のニニギは姉妹を娶りますが(一夫多妻制)、その姉がイワナガヒメでした。妹はかわいかったのですが、姉の容姿は眼をつぶってもキモイほどて、とてもセックスできなかったそうです。だから、姉は初夜のときに、ニニギに部屋から追い出されてしまいました。プライドをズダズダにされた姉は、
「ムキー!ニニギめ。呪ってやる!」
とニニギと妹とその子々孫々に呪いをかけました。もちろん、その子孫となったのが、今の天皇家です。だから、天皇は代々に渡って寿命が短くなってしまったそうです。
つまり、もともと男のキモメンは勇猛なシンボルで、女のキモメンは長寿のシンボルだったのです。しかし、イケメン系のアマテラスの子孫は、醜男を追放して、さらに醜女に子どもを作らせませんでした。醜人は美人に断種されてしまったのです。そう、国津神を断種する計画が、葦原中国平定、または国譲りだったのです。国津神族絶滅計画、まさにユーゴスラビアの民族浄化さながらですね。
ということは、すでに日本の神話の時代から、キモメンは滅びる運命にあるということが記されているということです。辛い事実です。美=善、醜=悪という公式です。
さて、所変わって、世界のほうに眼を向けることにしましょう。西アフリカのバンバラ族の言い伝えでも、モーソ・コロニという女神がキモメンだったために男ができず、そのためにすべての男子に呪いをかけたそうです。その呪いをかけられた場所が包皮なので、すべての男子は割礼儀式を通過しなければいけなくなったそうです。それが、バンバラ族の割礼の起源です。
また、ワーグナーのオペラの『ニーベルンゲンの指輪』でもアルベリッヒというドワーフ(小人)がライン川の金髪の美女たちにまったく相手にされず、世界に対して呪いをかけるというものです。そして、鍛冶屋だったアルベリッヒはラインの黄金から呪いの指輪をつくり、それがラグナロークを誘発します。私もライン川の美女目当てにドイツに行ったのですが、ライン川はヨーロッパでもっとも汚染されている川の一つで、美女はどこにも見当たりませんでした。それがきっかけで、私は、環境保護を掲げる緑の党を支持するようになりました。当のアルベリッヒは英語でいうとオーベロンですが、シェークスピアの『真夏の夜の夢』で登場するオーベロンはひょうきんな妖精で、決してキモチビという陰鬱なキャラではありません。イギリスではコミカルなキャラが、ドイツでは悲劇のキャラになってしまうのも興味深いです。そこが、文化の違いでしょうか?
ニーチェは、ソクラテスの論理哲学のきっかけは、彼がキモメンだったからだとしています。それによって世界を論理という呪いにかけ、キリスト教という奴隷道徳の宗教が発生する土台を作ったとしています。しかし、それは古今東西、キモメンは迫害されてきたことを意味します。それは、美=善、醜=悪という公式を示唆しています。まるで、それが普遍的価値観であるように。
どころがどっこい、キモメンは、なんと古代日本では、きっとまだ古事記の神話の時代以前なのでしょうが、社会的に尊敬されていたようです。驚くべきことです。九州の遺跡のトンカラリンからは、変形した女性頭蓋骨が発掘されています。それを復元したら、キモメンとなりました。その女性は、付随していた装飾品から共同体の地位の高い巫女、またはシャーマンだったと推測されます。その女性は、きっと「葦原醜女」だったのでしょう。またペルーの遺跡でも、おなじく変形した頭蓋骨が発見されています。その人たちは、神事を司っていたとされています。つまりわざとキモメンにしたのでしょう。そこで推測されることは、古代では、醜いことは、なにか特別の力の現れだったとされていたということです。こちらの世界とあちらの世界を結ぶ架け橋のような存在だったのでしょう。それに、障害児や奇形児は、神の子と思われたようです。つまり、神から選ばれたので、その印として奇形になったというのです。醜男は、勇猛な男ですし、醜女は長寿の女です。それも、やはり神性なために、醜くなったという解釈によるものでしょう。現在でも、イタコは盲目の方がいますし、社会的弱者の障害者が神事に携わったという、つまり古代の社会福祉だったのかもしれません。というか、フーコーの言う「阿呆船」のような時代だったのかもしれません。現代で言えば、「キモ船」でしょう。その船には当然、キモメンも含まれてました。キモメンが真実を伝える、つまり神の言葉を伝えていたわけです。よって、葦原中国のリーダーはキモメンの葦原醜男だったのです。
しかし、今では、障害者やキモメンは、フリークショーという見せ物になりますし、おぞましきものを嘲笑するというコメディーという大衆娯楽になってしまい、それによって『オペラ座の怪人』の悲劇が生まれてしまいました。あのミュージカルはまさに「キモメンの告白」でした。キモ面の上に面をかぶっているのですから、つまり、仮面の上に仮面、ダブル・ペルソナとでもいいましょうか。そしてオペラ座の屋根裏または地下にひきこもってオペラに熱中するという、ひきこもりだったのです。キモオタもひきこもって、アニメに萌えますね。
そういえば、劇場型プロレスの『ハッスル』で、高田モンスター軍のニューリン様も、生まれた時から顔に怪我があったため、オペラ座の怪人のように仮面をかぶっています。そう、本来は母親のインリン様のような美人に生まれてくるはずだったのが、キモメンとなってしまったのです。だから、ニューリン様は、あそこまで凶暴な性格となったのでしょう。触れるものすべてを破壊し尽くさなければ気が済まないという。しかし、自分をキモメンにした張本人が高田総統だと知ったため、ニューリン様は総統を裏切って、小川直也の率いるハッスル軍に鞍替えします。そして高田帝国を破滅させることを誓います。
閑話休題、かつてのキモメンが社会的尊敬を得るという価値観は、たぶん天孫降臨の際に崩壊してしまったのでしょう。そのときからは、イケメンが葦原中国(日本)を君臨し統治し支配する世の中を作ってしまったのです。もし、キモ船の時代のままであったなら、イエスもシッダールタも出てこなかったのではないでしょうか。事実、出家する前のシッダールタはイケメンプリンスで、王宮のハーレムで美女とやりまくっていたのですから、キモメンとは対極の存在だったのであり、イケメンとキモメンの格差社会の象徴的な存在だったのです。その記号社会の頂点にいたわけですから。
高天原の軍団が築いた社会、それは今で言えばジャニーズのようなものでしょうか。それが行き過ぎれば、きっとナチスのような社会となってしまいます。理想のアーリア人にそぐわない人間は「汚物に息がつまる」くらい醜いとされ、断種の対象となってしまいます。事実、ナチスドイツでは、7万人の障害者が抹殺されました。現代日本では、ジェニーズがかつてのナチスのSS(親衛隊)のようなものでしょうか。そのようなジャニーズを頂点とした芸能人崇拝社会では、キモメンはおぞましきものとして、相手にされず、迫害されるだけなので、そのような過酷な現実から逃れるため、萌え系アニメに走るのです。それで、アニメオタクが誕生します。そして、キモメンとオタクがドッキングして、「キモオタ」となります。アニメは、まさにあちらの世界、つまり、古代のキモメンが担ってきた架け橋のように、現実と二次元世界の架け橋となっているのです。そう、萌え系アニメのキモオタは、国譲り以前の、真の古代日本の神事を引き継ぐシャーマンなのです!
現代の真のシャーマンはキモオタだー!
私はグリーンカードを取りそこねました。片思いは、なにも生み出しません。それが、現実ですね。だから、私は「萌え萌え」というドラッグに走るのです、カール・マルクス的に言えば。両思いになってはじめてグリーンカードが取得できる資格があると認められるわけです。つまり、アメリカ人の配偶者への愛は、国家への愛と同じなのです。しかし、こう反論する人がいます。
「国家は愛すれば、自由を与えてくれる。つまりこちらが愛すれば、自由を保障してくれる。だから愛国心は、恋愛とは違う」
と。しかし、それははじめから生まれながら市民という特権を持った人たちだけに当てはまるのです。そういう人たちは生まれながらに許嫁がいるようなものです。その許嫁とは、もちろんアメリカです。そして、アメリカに生まれ育った人は、18歳になって、国家と自動的に結婚するのです。しかし、恋愛だと、女はこちらが片思いだと、ただ残酷に「死ね」と拒絶するだけなのです。つまり、国家に対する愛情でも片思いでは、自由の保障はないのです。それは、立場が市民ではなくて、移民であればよくわかると思います。
移民はどんなにアメリカを愛そうとも、大概はいずれは追放される身です。だから、愛する人をつくること、いわゆるアメリカ人の異性を愛することによって、そしてその最高の証が結婚なので、結婚によって愛国心を証明しなければならないのです。そう、グリーンカードは愛国心が鍵を握るのです。グリーンカード目当てだけの愛のない結婚をしたら、国家安全保障省はグリーンカードを与えないし、それは結婚詐欺となり、アメリカ国家を欺いたこととなってしまうのです。当然、グリーンカードの資格はありません。愛国心こそが資格なのです。
ということは、国家は、愛という個人的なことまでも干渉し、「永住権」という自由を与えるか判断するということです。そう、それによって、この移民は「まとも」かどうかを判断します。移民にアメリカを嫌うという思想の自由はないのです。そう、アメリカ国家は、移民にとっては、恋人そのものなのです。配偶者なのです。異性への愛、それが国家への愛なのであり、神への愛なのです。自由=セックスという仮定をふまえると、
「愛国心なくして自由なし、結婚なくしてセックスなし、恋愛なくしてセックスなし」
という方程式が、国家主義の、パトリオティズムの原理なのです。結婚によって配偶者への絶対的な愛が証明されて、はじめて国家への愛が証明され、永住権が与えられるのです。つまり、愛は、国家によって支配されているということです。だから、国家はグリーンカード取得にもっとも手っ取り早い方法として結婚を選択させるように意図的に誘導しているのです。そして、最終的には、グリーンカードから市民権へ。つまり、移民にとってアメリカ人との結婚は、アメリカの国家と結婚することなのです。だから、「忠誠の宣誓」でも「One Nation Under God(神のもと一つの国家)」というフレーズがある宣誓文を帰化の儀式の時に宣誓させられるのです。そう、ヤハウェーは、結婚と市民権獲得に関与するのです。つまり、恋愛至上主義と国粋主義は表裏一体なのです。それを合わせて、私は、「恋愛ナチズム」と命名します。そして、その信奉者を「恋愛ナチ」と呼びます。そして、連邦政府は、恋愛ナチに乗っ取られているのです。
そして、連邦レベルで認められている結婚はヘテロだけです。マサチューセッツでの同性愛結婚では、グリーンカード取得の資格は出てきませんし、連邦税に申請するときも、結婚カップルとしては認められません。そう、グリーンカードを管理しているのは、連邦政府なのです。州政府ではありません。そして、連邦政府が唯一認めている結婚制度はヘテロで一夫一妻制です。それは、キリスト教の結婚制度なのです。「神のもとの一つの国家」というぐらいですから、キリスト教の神に背くような結婚制度に国家主義を証明させることはできないのです。そう、アメリカへの愛国心は神への愛、そしてもっとも重要なのが、異性への愛、ということです。異性、国家、神という三点セット、それが、移民に課せられ、国家の歯車となるのです。同性愛では、愛国心とは認められないのです。だから、同性愛を認めるドメスチックパートナー制度やシヴィル・ユニオンではグリーンカードは認められないのです。それは、異端邪説であり、「まとも」ではないからです。そこで、セクシュアリティーは、連邦政府に統制を受けているのです。だから、ロン・ポールは、連邦政府による結婚の規制を撤廃すると言っているのです。つまり、連邦政府による結婚制度の廃止なのです。
キモオタの移民はどうしたらいいのでしょうか。キモメンでオタク、異性に、
「キモイ、吐き気がする」
と言われて避けられていたのですから、どうやって異性を愛することができたでしょうか。それでは、国家を愛せませんし、神への愛など起きません。神に近づけません。最初の段階で躓いているのですから。国家も愛せなければ、社会に対しても嫌悪感だけが残り、ひきこもるしかありません。そして、唯一出掛ける場所といえば、隠れチェリーの捨て場として悪名高い秋葉ぐらいです。だから、日本社会を捨てて、海外に出るしかないんですね。それか、二次元の萌え系アニメの世界で現実逃避するか。でも、海外でも、キモオタですから、結婚に辿り着くのは至難の業です。そう、現実の世界では、キモオタはどこにいってもキモオタなんです。私はアプローチする度に、
「That guy is weird」
と生理的嫌悪を持たれました。渡米すれば、なにかが変わるかと思っていましたが、拒絶されるだけでした。だから、反アメリカとはいかなくとも、このネオリベラル資本主義社会に対してまったく愛着が沸いてきません。だからこそ、その異性、国家、神というヒエラルキーを破壊したいのですが、一人では無力です。不可抗力です。ああ、もう、いっそのこと、逃げ出したいです。もし、駆け落ちが許されるのなら、星乃結美ちゃんと…。
「国家は愛すれば、自由を与えてくれる。つまりこちらが愛すれば、自由を保障してくれる。だから愛国心は、恋愛とは違う」
と。しかし、それははじめから生まれながら市民という特権を持った人たちだけに当てはまるのです。そういう人たちは生まれながらに許嫁がいるようなものです。その許嫁とは、もちろんアメリカです。そして、アメリカに生まれ育った人は、18歳になって、国家と自動的に結婚するのです。しかし、恋愛だと、女はこちらが片思いだと、ただ残酷に「死ね」と拒絶するだけなのです。つまり、国家に対する愛情でも片思いでは、自由の保障はないのです。それは、立場が市民ではなくて、移民であればよくわかると思います。
移民はどんなにアメリカを愛そうとも、大概はいずれは追放される身です。だから、愛する人をつくること、いわゆるアメリカ人の異性を愛することによって、そしてその最高の証が結婚なので、結婚によって愛国心を証明しなければならないのです。そう、グリーンカードは愛国心が鍵を握るのです。グリーンカード目当てだけの愛のない結婚をしたら、国家安全保障省はグリーンカードを与えないし、それは結婚詐欺となり、アメリカ国家を欺いたこととなってしまうのです。当然、グリーンカードの資格はありません。愛国心こそが資格なのです。
ということは、国家は、愛という個人的なことまでも干渉し、「永住権」という自由を与えるか判断するということです。そう、それによって、この移民は「まとも」かどうかを判断します。移民にアメリカを嫌うという思想の自由はないのです。そう、アメリカ国家は、移民にとっては、恋人そのものなのです。配偶者なのです。異性への愛、それが国家への愛なのであり、神への愛なのです。自由=セックスという仮定をふまえると、
「愛国心なくして自由なし、結婚なくしてセックスなし、恋愛なくしてセックスなし」
という方程式が、国家主義の、パトリオティズムの原理なのです。結婚によって配偶者への絶対的な愛が証明されて、はじめて国家への愛が証明され、永住権が与えられるのです。つまり、愛は、国家によって支配されているということです。だから、国家はグリーンカード取得にもっとも手っ取り早い方法として結婚を選択させるように意図的に誘導しているのです。そして、最終的には、グリーンカードから市民権へ。つまり、移民にとってアメリカ人との結婚は、アメリカの国家と結婚することなのです。だから、「忠誠の宣誓」でも「One Nation Under God(神のもと一つの国家)」というフレーズがある宣誓文を帰化の儀式の時に宣誓させられるのです。そう、ヤハウェーは、結婚と市民権獲得に関与するのです。つまり、恋愛至上主義と国粋主義は表裏一体なのです。それを合わせて、私は、「恋愛ナチズム」と命名します。そして、その信奉者を「恋愛ナチ」と呼びます。そして、連邦政府は、恋愛ナチに乗っ取られているのです。
そして、連邦レベルで認められている結婚はヘテロだけです。マサチューセッツでの同性愛結婚では、グリーンカード取得の資格は出てきませんし、連邦税に申請するときも、結婚カップルとしては認められません。そう、グリーンカードを管理しているのは、連邦政府なのです。州政府ではありません。そして、連邦政府が唯一認めている結婚制度はヘテロで一夫一妻制です。それは、キリスト教の結婚制度なのです。「神のもとの一つの国家」というぐらいですから、キリスト教の神に背くような結婚制度に国家主義を証明させることはできないのです。そう、アメリカへの愛国心は神への愛、そしてもっとも重要なのが、異性への愛、ということです。異性、国家、神という三点セット、それが、移民に課せられ、国家の歯車となるのです。同性愛では、愛国心とは認められないのです。だから、同性愛を認めるドメスチックパートナー制度やシヴィル・ユニオンではグリーンカードは認められないのです。それは、異端邪説であり、「まとも」ではないからです。そこで、セクシュアリティーは、連邦政府に統制を受けているのです。だから、ロン・ポールは、連邦政府による結婚の規制を撤廃すると言っているのです。つまり、連邦政府による結婚制度の廃止なのです。
キモオタの移民はどうしたらいいのでしょうか。キモメンでオタク、異性に、
「キモイ、吐き気がする」
と言われて避けられていたのですから、どうやって異性を愛することができたでしょうか。それでは、国家を愛せませんし、神への愛など起きません。神に近づけません。最初の段階で躓いているのですから。国家も愛せなければ、社会に対しても嫌悪感だけが残り、ひきこもるしかありません。そして、唯一出掛ける場所といえば、隠れチェリーの捨て場として悪名高い秋葉ぐらいです。だから、日本社会を捨てて、海外に出るしかないんですね。それか、二次元の萌え系アニメの世界で現実逃避するか。でも、海外でも、キモオタですから、結婚に辿り着くのは至難の業です。そう、現実の世界では、キモオタはどこにいってもキモオタなんです。私はアプローチする度に、
「That guy is weird」
と生理的嫌悪を持たれました。渡米すれば、なにかが変わるかと思っていましたが、拒絶されるだけでした。だから、反アメリカとはいかなくとも、このネオリベラル資本主義社会に対してまったく愛着が沸いてきません。だからこそ、その異性、国家、神というヒエラルキーを破壊したいのですが、一人では無力です。不可抗力です。ああ、もう、いっそのこと、逃げ出したいです。もし、駆け落ちが許されるのなら、星乃結美ちゃんと…。
クロワチアの女性が戦争にいく男にスカーフをまいたのがネクタイの始まりとされています。だから、スペイン語では、ネクタイは「corbata」となり、フランス語では、「cravate」となったのです。つまり、ネクタイは国家主義、国粋主義、国民主義のシンボルなのであり、戦争にいく男たちの愛国心の象徴なのです。そう、パトリオットの証なのです。そして、その最悪の結果が突撃隊のネクタイです。
ネクタイをすることによって、いや、つまり、女を作ることによって、ネクタイをしてくれる女性を作ることによって、はじめて守る人ができる、つまり、はじめて戦士として認められるのです。そうやって、国民の愛国心が刺激されてきたのです。だから、恋愛経験のない男は、戦士として認められない、闘うことが出来ない、命を捧げる覚悟をしたことがない、戦士として不適格、という身体検査の判断を下されてしまうのです。つまり、ネクタイをしていない男は、「非国民」と糾弾されるのです。そう、資本主義社会では、それは企業戦士となり、そこで男は戦士として適格かという判断を受けるのです。それで、結婚している人のほうが有利となるのです。隠れチェリーと恋愛経験ゼロのキモオタは、「非国民」なのです。
ネクタイは戦士の証、ナショナリズムの証、いや、ナショナリズムそのものです。愛する人を守るため、そのスカーフの持ち主を守るために、男は命を捧げるのです。犠牲精神こそが至高の愛なのです。だから、ロマンスと愛国心はセットとなっているのです。
だから、私はクールビズを絶賛するのです。あれは、国家主義を否定するものなのですから。事実、小泉は独身であり、ネクタイをしてくれる人は、存在しませんでした。よって、彼は腐敗した年功序列の日本社会をなんの未練もなく非情となって破壊することができました。彼には愛する女性がいなかったので、なにかを守る義務もなく、破壊に専念することができたのです。だから、彼はシステムの破壊者となり得たのです。私にもネクタイをする根拠がなく、その根拠となり得るものがだれもいない、だからこそ、私はネクタイをひどく毛嫌いするのです!ネクタイは国家への束縛への象徴、ネオリベラル資本主義社会の企業アメリカ、いわゆるコーポレート・アメリカへの束縛なのです。だからこそ、ネクタイを解くことこそが、自由の証であると私は主張するのであります!そのためには、結婚してなくても、恋愛してなくても人々がセックスの自由を謳歌できるように、人々の意識改革が求められるのです。つまり、ロマンスとセックスを分離することなのです!それこそ、国家主義の解体につながり、ネクタイという抑圧的な象徴から人々を解放することができるのです!
ネクタイをすることによって、いや、つまり、女を作ることによって、ネクタイをしてくれる女性を作ることによって、はじめて守る人ができる、つまり、はじめて戦士として認められるのです。そうやって、国民の愛国心が刺激されてきたのです。だから、恋愛経験のない男は、戦士として認められない、闘うことが出来ない、命を捧げる覚悟をしたことがない、戦士として不適格、という身体検査の判断を下されてしまうのです。つまり、ネクタイをしていない男は、「非国民」と糾弾されるのです。そう、資本主義社会では、それは企業戦士となり、そこで男は戦士として適格かという判断を受けるのです。それで、結婚している人のほうが有利となるのです。隠れチェリーと恋愛経験ゼロのキモオタは、「非国民」なのです。
ネクタイは戦士の証、ナショナリズムの証、いや、ナショナリズムそのものです。愛する人を守るため、そのスカーフの持ち主を守るために、男は命を捧げるのです。犠牲精神こそが至高の愛なのです。だから、ロマンスと愛国心はセットとなっているのです。
だから、私はクールビズを絶賛するのです。あれは、国家主義を否定するものなのですから。事実、小泉は独身であり、ネクタイをしてくれる人は、存在しませんでした。よって、彼は腐敗した年功序列の日本社会をなんの未練もなく非情となって破壊することができました。彼には愛する女性がいなかったので、なにかを守る義務もなく、破壊に専念することができたのです。だから、彼はシステムの破壊者となり得たのです。私にもネクタイをする根拠がなく、その根拠となり得るものがだれもいない、だからこそ、私はネクタイをひどく毛嫌いするのです!ネクタイは国家への束縛への象徴、ネオリベラル資本主義社会の企業アメリカ、いわゆるコーポレート・アメリカへの束縛なのです。だからこそ、ネクタイを解くことこそが、自由の証であると私は主張するのであります!そのためには、結婚してなくても、恋愛してなくても人々がセックスの自由を謳歌できるように、人々の意識改革が求められるのです。つまり、ロマンスとセックスを分離することなのです!それこそ、国家主義の解体につながり、ネクタイという抑圧的な象徴から人々を解放することができるのです!
星乃結美ちゃんは、やっぱり、かわいい
。髪型がいいね。髪はナチュラルなブラウンで、柔らかそうだし、長くもなく短くもなく。笑顔もめちゃくちゃかわいい。内気で素直な読書っ子ですからねー。おとなしくて、やさしくて、おだやかで、恋する人を見ると、うつむいてほっぺが赤くなるという、あああああ!!!こんな子がいるのなら、私はこれまでのすべての苦しかったこと、辛いことを忘れて、泣き崩れてしまうでしょう。でも光一と両思いだったなんて、なんて羨ましい。両思いだったならば、どんなに私の青春はスムースにいったことでしょうか!青春を謳歌できなかったこの苦しみ、後悔の念、大人は、
「そんなことを後悔しても仕方ない」
とあきらめるしかないと言い張ります。それは、まさに捨て台詞。しかし、私はあきらめない。ネバー・ギブ・アップです。あきらめは、去勢と同じです。絶対に再び16歳になってみせます!そして失学園の苦しみから脱却し、青春学園を謳歌するのです。それこそが、私の求める「自由」です!
くっそー、光一の野郎、きっと彼はルサンチマンを溜めることはないでしょうね。恋愛の挫折、恋愛の敗者、恋愛の負け犬、しかも、資本主義社会からはある意味隔離されている青春学園での女と男の情事、まさに巫山での歌垣、いわゆる女男の巫山戯、しかし、そこでの敗北、キモオタとして避けられ、気持ち悪がれ、ひきこもりとなり、それにとうとう耐えられなくなり、そして挙げ句の果てに渡米、私の青春はいずこ!
光一は、映画研究部で脚本を担当していて、それで、文学少女の結美ちゃんに、
「脚本の参考になる小説ないかなぁ?」
とヘルプを頼んだのです。上手い口実を作りやがって…、くそったれ。そして、光一は図書委員である結美ちゃんと図書館で会って、結美ちゃんは、小説を紹介しました。でも、結美ちゃんの読む本は、『若きウェルテルの悩み』とか、『心』とか『リンゴの木』とか、どれも悲しい恋の結末の小説が多かったですね。私は高校の時『心』を読みました。しかし、あれは恋する女性が奪われたら自殺するという、まさに恋愛至上主義の小説でした。そして、明治天皇の崩御に伴う乃木希典将軍の殉死、まさに国家主義とロマンスがセットになったイデオロギーによって書かれた小説でした。ロマン主義が日本に入ってきた象徴とでもいいましょうか。
とくにゲーテの『若きウェルテルの悩み』、これは、まさに私の中西部での人生そのものです。Sturm Und Drang(疾風怒濤)でした。現代でいえば、パンクの精神に通じると思います。アメリカに対する愛、そして女性に対する愛、愛国心とロマンスが根底から砕け散りました。バイブルベルトを脱出した時点で、アメリカに対する忠誠は失われていたのかもしれません。私は、アメリカの右翼にさえ、「アメリカを愛しているパトリオット」と評価されてたんですから。彼は州議会にも立候補して、違法移民排斥を唱えていましたが、私は、
「ぼくも移民だけど…」
と言うと、彼は、
「君はアメリカを心から愛しているではないか」
と言ってくれたほどです。あの時は、嬉しかったですが、でも、それももう過去のことです。私のアメリカ国粋主義は消滅してしまいました。キリスト教を否定したときに、私の中で神は死にましたが、ついでにアメリカも死にました。つまり、国家は死んだのです。ウェルテルは苦悩の末、ピストルで他界しましたが、私は中西部から他界して、カリフォルニアの大地へ逃げてきました。心身共に疲労困憊していました。まるで、『怒りの葡萄』でのダストボールに追われたオクラホマの民のように。だから、たぶん、私のことを一番理解できる女の子は、星乃結美ちゃんだと思うのです。彼女なら、キモオタであるありのままの私を包み込んでくれると思います。彼女しかいない。だから…
結美ちゃん、私をいたわって〜!
。髪型がいいね。髪はナチュラルなブラウンで、柔らかそうだし、長くもなく短くもなく。笑顔もめちゃくちゃかわいい。内気で素直な読書っ子ですからねー。おとなしくて、やさしくて、おだやかで、恋する人を見ると、うつむいてほっぺが赤くなるという、あああああ!!!こんな子がいるのなら、私はこれまでのすべての苦しかったこと、辛いことを忘れて、泣き崩れてしまうでしょう。でも光一と両思いだったなんて、なんて羨ましい。両思いだったならば、どんなに私の青春はスムースにいったことでしょうか!青春を謳歌できなかったこの苦しみ、後悔の念、大人は、「そんなことを後悔しても仕方ない」
とあきらめるしかないと言い張ります。それは、まさに捨て台詞。しかし、私はあきらめない。ネバー・ギブ・アップです。あきらめは、去勢と同じです。絶対に再び16歳になってみせます!そして失学園の苦しみから脱却し、青春学園を謳歌するのです。それこそが、私の求める「自由」です!
くっそー、光一の野郎、きっと彼はルサンチマンを溜めることはないでしょうね。恋愛の挫折、恋愛の敗者、恋愛の負け犬、しかも、資本主義社会からはある意味隔離されている青春学園での女と男の情事、まさに巫山での歌垣、いわゆる女男の巫山戯、しかし、そこでの敗北、キモオタとして避けられ、気持ち悪がれ、ひきこもりとなり、それにとうとう耐えられなくなり、そして挙げ句の果てに渡米、私の青春はいずこ!
光一は、映画研究部で脚本を担当していて、それで、文学少女の結美ちゃんに、
「脚本の参考になる小説ないかなぁ?」
とヘルプを頼んだのです。上手い口実を作りやがって…、くそったれ。そして、光一は図書委員である結美ちゃんと図書館で会って、結美ちゃんは、小説を紹介しました。でも、結美ちゃんの読む本は、『若きウェルテルの悩み』とか、『心』とか『リンゴの木』とか、どれも悲しい恋の結末の小説が多かったですね。私は高校の時『心』を読みました。しかし、あれは恋する女性が奪われたら自殺するという、まさに恋愛至上主義の小説でした。そして、明治天皇の崩御に伴う乃木希典将軍の殉死、まさに国家主義とロマンスがセットになったイデオロギーによって書かれた小説でした。ロマン主義が日本に入ってきた象徴とでもいいましょうか。
とくにゲーテの『若きウェルテルの悩み』、これは、まさに私の中西部での人生そのものです。Sturm Und Drang(疾風怒濤)でした。現代でいえば、パンクの精神に通じると思います。アメリカに対する愛、そして女性に対する愛、愛国心とロマンスが根底から砕け散りました。バイブルベルトを脱出した時点で、アメリカに対する忠誠は失われていたのかもしれません。私は、アメリカの右翼にさえ、「アメリカを愛しているパトリオット」と評価されてたんですから。彼は州議会にも立候補して、違法移民排斥を唱えていましたが、私は、
「ぼくも移民だけど…」
と言うと、彼は、
「君はアメリカを心から愛しているではないか」
と言ってくれたほどです。あの時は、嬉しかったですが、でも、それももう過去のことです。私のアメリカ国粋主義は消滅してしまいました。キリスト教を否定したときに、私の中で神は死にましたが、ついでにアメリカも死にました。つまり、国家は死んだのです。ウェルテルは苦悩の末、ピストルで他界しましたが、私は中西部から他界して、カリフォルニアの大地へ逃げてきました。心身共に疲労困憊していました。まるで、『怒りの葡萄』でのダストボールに追われたオクラホマの民のように。だから、たぶん、私のことを一番理解できる女の子は、星乃結美ちゃんだと思うのです。彼女なら、キモオタであるありのままの私を包み込んでくれると思います。彼女しかいない。だから…
結美ちゃん、私をいたわって〜!

キミキス第五話を観ました。くそったれでしたね。摩央姉ちゃんが、ジャズミュージシャンを目指しているクラスメイトの栄二とデートとはなぁ。ちなみに栄二はサックス奏者。女性にとっては、セクシーな楽器なのだろう。しかも、さすがは、摩央姉ちゃんはフランスに留学していただけあって、猛烈なアプローチをかけているんだから。やっぱり女の子は、ミュージシャンが好きだということなんでしょうか?私だって、高校でギターを弾いていたんです。そして、栄二のように孤独だったんです。しかし、彼とは決定的な違いがあります。彼は、背が高くてイケメンだということです!背の高いイケメンが学校の裏で孤独にサックスを吹いているという姿、それは女の子のハートをドキンとさせてしまったのでしょう、まるで、アンパンマンのドキンちゃんの魔法にかかったように。しかも、摩央姉ちゃんと栄二の野郎は話題が一致しているし。ふざけんじゃねー!摩央姉ちゃんは、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』でが好きだとはねー。70年代の名曲じゃん。そして、栄二は、その楽曲でサックスを吹いている人が、 フィル・ウッズという有名なジャズミュージシャンなんだと言って、話題が盛り上がっているし。
そう、彼はジャズオタクなのだ。「オタク」の仲間なのだ。しかし、オタクが、こんなかわいい子にモテるなんて。私はモテなくて「オタク」になるしかなかったというのに!二十一世紀の学園は本当によくなった。私だって、現在、16歳になりたーい!悔しい。実に悔しい。私だって、『素顔のままで』は、ギターで弾けるんだ。歌も歌えるんだぞ。でも、あの曲は、やっぱりサックスソロが見所だからねー、栄二の真骨頂の曲だと思います。それにピアノ・オリエンテッドの曲だし、ギターじゃ、そんなに雰囲気がでないかぁ。そして、摩央姉ちゃんは、
「ええ、あの曲のソロのサックスできるんだ〜
」
と瞳を輝かせて、さらに関心しちゃって、栄二に思いを寄せてってしまうなんて〜!いやだ、私のお姉ちゃんが…。でも、オタクでも、イケメンだと、「イケオタ」になるのかなぁ。ということは、「オタク」という言葉そのものがキモさを表す表現ではなくたったということで、それはそれでいいんですけど。実際、Gacktなんかはガンダムオタクですけど、女性の絶大的な人気がありますから。しかし、キモメンでオタクだと、「キモオタ」になるんでしょうか!つまり、キモメンとオタクが結びつくと、「オタク」が癌細胞扱いされるのです。オタクのなかでも、格差社会が出来てしまっているなんて、そんな不条理なことはありません!
ニーチェだってミュージシャンになりたかったそうではありませんか。彼は、ワグナーが認めたほどのピアノの名手だったそうです。しかし、彼のピアノの演奏を聴いて上げる女性たちといえば、娼婦だけでした。現代では、慰安婦ではなくて、萌え系キャラですからね。そして、ニーチェ的な哲学者の彼らは秋葉に集います。そして、秋葉は、日本でもっとも童貞率が高いと言われている場所でもあります。実際に、秋葉には、類い稀な楽器演奏の才能を持っている人が集っています。しかし、キモオタでは、いくら才能があっても、キモイままなのでしょうか?イケメンの孤独は魅力的に見えて、キモメンの孤独はキモく見えるということ?そうさ、私は休み時間にいつも視聴覚室にいって、そこのギターを借りて孤独に弾いたんだけど、だれも声をかけてくれなかった…。女の子が私の目の前を素通りしてゆく現実…、栄二とこんなに違うなんて、私は一体どうしたらいいのか、わかりませんでした。だから、それも日本が嫌いになる、つまり厭離穢土を生じる原因となりました。ちくしょう、ふざけんじゃねー、こんちくしょう!
イケメンで孤独のミュージシャン、イケメンで一匹狼は、どうしてここまでモテるんでしょうか?小泉人気も、独身である彼の孤独さがその一つの要因でしょう。そういえば、ニューヨークで、女の子の友だちのアパートに泊まったときも(そのとき初めてアメリカの女の子の部屋に入ったんだけど…)、壁に貼ってあるポスターは、イケメンのバンドの、いかにも孤独を漂わせるミュージシャンたちのものでした。彼女が言うには、
「孤独さはセクシー
」
とのことでした。やはり、それは過疎化が進んだ大都会のニューヨークならではの女の子の感覚なのでしょうか?そういえば、摩央姉ちゃんも、ポストモダンのフランスにいたんですから、そこでは、新生児の4割が結婚外で生まれてくるそうですから、孤独というか個人主義の習慣が身に付いたのでしょう、それで、栄二のような孤独なミュージシャンに惹かれたんでしょうね。彼はジャズオタクですから、「オタクで孤独」というのが筋なんですけど、やはり、「イケメンで孤独」というのが、魅力的だったんでしょうね。世捨て人的な、厭世詩家といいますか。ジェームズ・ディーンみたいな。そう、プリンス・シッダールタのように自らの意志で、世の中と、また女性とかかわらなくなったということが、魅力的なのかもしれません。逆に、キモオタは、女性とメチャクチャかかわりたいんだけど、だれも相手にしてくれない、逆にキモイと言われてストーカーとして警察に通報されてしまう身、だから、仕方なく世捨て人的なオタクになるしかなかったという辛い事情があるため、つまり「負け犬」として、まったく魅力がないんでしょうね。女性にとって、キモオタは死のうが生きようが眼中にないわけです。その事実は、私のハートをえぐり出し、焼きただれるような思いにしました。だから、私は、「萌え」という逃避しかないのです。キモオタにとって、現実世界はサウダージでしかないんですから。
ああ、『素顔のままで』か。男が女性にこれを歌うのはカッコいいとされてるんですね。でも、私の場合は、女性が男性にこれを歌って欲しいですね。今や、ポストフェミニズムなんですから。キモオタである私の素顔はキモオタなんですから。だから、
「キモオタのままでの、あなたが好き」
なんて言ってくれたら…。でも、残念ながら、そんなことは一度もなかったですよ。だから私は、遺伝子工学で遺伝子を修正して、ハンサムで魅力的になって、そして16歳に戻りたいんです。でも、現在の遺伝子工学では、その技術進歩までに達していません。現実では、去勢と断種の対象となってしまいます、キリスト教と国粋主義に基づいた恋愛至上主義を打破しないかぎり。そうすると、私に残された唯一のドラッグは、やっぱりアニメしかないですね。特に、萌え系アニメで。
そう、彼はジャズオタクなのだ。「オタク」の仲間なのだ。しかし、オタクが、こんなかわいい子にモテるなんて。私はモテなくて「オタク」になるしかなかったというのに!二十一世紀の学園は本当によくなった。私だって、現在、16歳になりたーい!悔しい。実に悔しい。私だって、『素顔のままで』は、ギターで弾けるんだ。歌も歌えるんだぞ。でも、あの曲は、やっぱりサックスソロが見所だからねー、栄二の真骨頂の曲だと思います。それにピアノ・オリエンテッドの曲だし、ギターじゃ、そんなに雰囲気がでないかぁ。そして、摩央姉ちゃんは、
「ええ、あの曲のソロのサックスできるんだ〜
」と瞳を輝かせて、さらに関心しちゃって、栄二に思いを寄せてってしまうなんて〜!いやだ、私のお姉ちゃんが…。でも、オタクでも、イケメンだと、「イケオタ」になるのかなぁ。ということは、「オタク」という言葉そのものがキモさを表す表現ではなくたったということで、それはそれでいいんですけど。実際、Gacktなんかはガンダムオタクですけど、女性の絶大的な人気がありますから。しかし、キモメンでオタクだと、「キモオタ」になるんでしょうか!つまり、キモメンとオタクが結びつくと、「オタク」が癌細胞扱いされるのです。オタクのなかでも、格差社会が出来てしまっているなんて、そんな不条理なことはありません!
ニーチェだってミュージシャンになりたかったそうではありませんか。彼は、ワグナーが認めたほどのピアノの名手だったそうです。しかし、彼のピアノの演奏を聴いて上げる女性たちといえば、娼婦だけでした。現代では、慰安婦ではなくて、萌え系キャラですからね。そして、ニーチェ的な哲学者の彼らは秋葉に集います。そして、秋葉は、日本でもっとも童貞率が高いと言われている場所でもあります。実際に、秋葉には、類い稀な楽器演奏の才能を持っている人が集っています。しかし、キモオタでは、いくら才能があっても、キモイままなのでしょうか?イケメンの孤独は魅力的に見えて、キモメンの孤独はキモく見えるということ?そうさ、私は休み時間にいつも視聴覚室にいって、そこのギターを借りて孤独に弾いたんだけど、だれも声をかけてくれなかった…。女の子が私の目の前を素通りしてゆく現実…、栄二とこんなに違うなんて、私は一体どうしたらいいのか、わかりませんでした。だから、それも日本が嫌いになる、つまり厭離穢土を生じる原因となりました。ちくしょう、ふざけんじゃねー、こんちくしょう!
イケメンで孤独のミュージシャン、イケメンで一匹狼は、どうしてここまでモテるんでしょうか?小泉人気も、独身である彼の孤独さがその一つの要因でしょう。そういえば、ニューヨークで、女の子の友だちのアパートに泊まったときも(そのとき初めてアメリカの女の子の部屋に入ったんだけど…)、壁に貼ってあるポスターは、イケメンのバンドの、いかにも孤独を漂わせるミュージシャンたちのものでした。彼女が言うには、
「孤独さはセクシー
」とのことでした。やはり、それは過疎化が進んだ大都会のニューヨークならではの女の子の感覚なのでしょうか?そういえば、摩央姉ちゃんも、ポストモダンのフランスにいたんですから、そこでは、新生児の4割が結婚外で生まれてくるそうですから、孤独というか個人主義の習慣が身に付いたのでしょう、それで、栄二のような孤独なミュージシャンに惹かれたんでしょうね。彼はジャズオタクですから、「オタクで孤独」というのが筋なんですけど、やはり、「イケメンで孤独」というのが、魅力的だったんでしょうね。世捨て人的な、厭世詩家といいますか。ジェームズ・ディーンみたいな。そう、プリンス・シッダールタのように自らの意志で、世の中と、また女性とかかわらなくなったということが、魅力的なのかもしれません。逆に、キモオタは、女性とメチャクチャかかわりたいんだけど、だれも相手にしてくれない、逆にキモイと言われてストーカーとして警察に通報されてしまう身、だから、仕方なく世捨て人的なオタクになるしかなかったという辛い事情があるため、つまり「負け犬」として、まったく魅力がないんでしょうね。女性にとって、キモオタは死のうが生きようが眼中にないわけです。その事実は、私のハートをえぐり出し、焼きただれるような思いにしました。だから、私は、「萌え」という逃避しかないのです。キモオタにとって、現実世界はサウダージでしかないんですから。
ああ、『素顔のままで』か。男が女性にこれを歌うのはカッコいいとされてるんですね。でも、私の場合は、女性が男性にこれを歌って欲しいですね。今や、ポストフェミニズムなんですから。キモオタである私の素顔はキモオタなんですから。だから、
「キモオタのままでの、あなたが好き」
なんて言ってくれたら…。でも、残念ながら、そんなことは一度もなかったですよ。だから私は、遺伝子工学で遺伝子を修正して、ハンサムで魅力的になって、そして16歳に戻りたいんです。でも、現在の遺伝子工学では、その技術進歩までに達していません。現実では、去勢と断種の対象となってしまいます、キリスト教と国粋主義に基づいた恋愛至上主義を打破しないかぎり。そうすると、私に残された唯一のドラッグは、やっぱりアニメしかないですね。特に、萌え系アニメで。
ああ、キミキスというアニメは、私を「萌え」という薬物中毒にさせてます。カール・マルクス的に言えば、「阿片中毒」ですね。それで、せっかく元同僚が開いてくれたパーティーに数時間も遅れてしまいました。でも、やはり楽器はいいですね、酒と楽器で、まるでキャンプファイヤーのように人が集まって歌を唄っていました。ディオニソスの讃歌とでも言いましょうか。ドイツ語の創造者であるマルチン・ルターでさえ、
「Weib, wein, gesang(女、ワイン、歌)を楽しまないものは馬鹿を見る」
と言っていますから。萌え系アニメ以外の世界で嬉しい気持ちになったのは、久しぶりでした。それから、私は家に帰り、その次の日、日本語の本を読みました。日本女性のキャリアと恋に関する書物です。読書が大嫌いな、ましてや漫画さえも読書と考えてしまうような活字アレルギーの私がどうしてそこまでして本を読もうとしたのか。私は、『君が望む永遠』というアニメを見た時に、日本の大人の社会、いわゆる資本主義社会のミクロ単位での社会事情という経験がないため、ちょっと理解するのに苦しみました。まあ、面白いことは面白かったんですが、そのアニメをより深く理解するために、日本の若いキャリア志向の女性がどんなことを思っているのかを、学びたかったのです。そうすれば、主人公の女性の気持ちを理解できると思いました。だから、本を買って読書してたんですが、その本のなかでのこの一言は、まったく私のルサンチマンを爆発させてしまいました…。
まともなオトナの男性なら、過去に恋愛経験のいくつかは、あって当たり前です。(178ページ)
「Weib, wein, gesang(女、ワイン、歌)を楽しまないものは馬鹿を見る」
と言っていますから。萌え系アニメ以外の世界で嬉しい気持ちになったのは、久しぶりでした。それから、私は家に帰り、その次の日、日本語の本を読みました。日本女性のキャリアと恋に関する書物です。読書が大嫌いな、ましてや漫画さえも読書と考えてしまうような活字アレルギーの私がどうしてそこまでして本を読もうとしたのか。私は、『君が望む永遠』というアニメを見た時に、日本の大人の社会、いわゆる資本主義社会のミクロ単位での社会事情という経験がないため、ちょっと理解するのに苦しみました。まあ、面白いことは面白かったんですが、そのアニメをより深く理解するために、日本の若いキャリア志向の女性がどんなことを思っているのかを、学びたかったのです。そうすれば、主人公の女性の気持ちを理解できると思いました。だから、本を買って読書してたんですが、その本のなかでのこの一言は、まったく私のルサンチマンを爆発させてしまいました…。
まともなオトナの男性なら、過去に恋愛経験のいくつかは、あって当たり前です。(178ページ)
これほどまでに、私を激怒させたものはなかった。もう、あまりもの憤激のために、気が狂いそう。では、「まとも」でない大人の男だと、恋愛経験がないとうことなのだろうか!まったく、恋愛経験がない男はまともではない、つまり男として最低最悪という意味なのだろうか!つまり恋愛経験のない男は相手にするなということか?この差別的発言がオタクたちを苦しめているのだ!こういう差別意識がキモオタたちをコーナーに追い込むのだ。恋愛ができて、はじめて「まともな男」になるとでもいうのか!許せない。この発言は断じて許せない。まるで、ヒットラーの『我が闘争』にも通じるステレオタイプと偏見と差別に満ちた血塗られた世界観に基づいて書かれた書物である。このようなハエが集って蛆を沸かせるようなダイオキシンに満ちたヘドロとゲロとヤニが合わさった馬糞のような忌々しい不快感を起こさせる言説をぶちまけるとは!この発言は、石原の「三国人」発言よりもはるかに卑しいものである。それは、私には、「恋愛ナチ」としか思えないのだ。恋愛至上主義者は恋愛ナチであり、恋愛資本主義の手先である。この発言は、すべてのキモオタに中指を立てるようなものである。もちろん、言論の自由は認めるが、しかし、私は徹底的にこの発言を大批判する!
それはキモオタたちをキャッチ22に追い込む。恋愛経験がないから、女に相手にされない。また女に相手にされないから永遠に恋愛経験ができない、性体験がないから女に相手にされない、また女に相手にされないから永遠に性体験ができない、そういう悪循環に陥ってしまうのだ!それこそが、キリスト教の「Eternal Damnation(永遠の地獄の苦しみ)」というものだ。
ヒットラーはドイツ人にユダヤ人と結婚してはいけないと説いてきた。さらに、ユダヤ人男とセックスするドイツ人女を、
「売女に成り下がってしまった!」
と糾弾した。彼にとっては、ユダヤ人は「まとも」な人種ではなく、劣等人種であり、ヨーロッパから排除されなければならない存在であった。だから、彼らは断種の対象となってしまったのだ。そう、性機能を除去されてしまったのである。そして、ニュルンベルグ法は、そのもっとも最悪な形で現れ、仕舞には「最終解決」として、絶滅収容所でユダヤ系は虐殺されたのだ。それと同じで、「まとも」でない男は、恋愛はおろかセックスはできないし、性機能がありながら、すでに断種されてしまっているのだ。いわゆる、「象徴」的断種である。
キモオタたちは、そういう言説があるため、どれだけ焦って女の子を積極的に口説いてきたのだろうか。そのたびに、
「キモイ」
と言われて、ストーカー扱いを受けてきた。彼らは、ただ純粋に恋愛をしたかったというだけなのに!彼らを「まとも」にしなかったのは、女の子の拒絶だ。そのイニシエーションさえ通過できないのだ。つまり「まとも」な男になるためには、恋愛をしなければならないのだ。その圧力にキモオタは屈しなければならない。「まとも」な男という評価など、男からだったら、どうだっていい。しかし、女の子からの評価は、死活問題だ。だから彼らは逃避するしかないのである。よって、秋葉は、断種された男たちの捨て場だと揶揄されるのだ。
「まとも」な男はセックスしていなければならないのだ。だから、彼らは、女の子に認められるために、必死になって性体験を果たそうとする、しかしだ、東京では、風俗かなんかで、いわゆる違法売春でセックスを経験したとしても、恋愛でのセックスがなければ、「童貞」と言われて見下されてしまうのである。彼らは、「素人童貞」として、社会から迫害されるのだ。そう、そのセックスは「まとも」ではないとして、正統ではないとして、チェリーなのである。娼婦とのセックスではチェリーをポップ(卒業)することができないのだ。また、娼婦とではなくとも、恋愛外のセックスでも、女の子は認めてくれない。恋愛の成り行きでの性体験こそ、男を「まとも」と認めさせるのである。どんなに仕事ができようが、チェリーだと、「異性」としては、「まとも」でないのである。だから、彼らは、チェリーであることを隠し通さなければならない。まるで隠れキリシタンのように。隠れチェリーとして。恋愛ナチのゲシュタポに捕まらないように、隠れ家で、ひっそりと暮らさなければならない。隠れ家にひきこもって、ネットで萌え系アニメを観ながら。
もし、チェリーであることがバレたら、彼は間違いなく自殺に追い込まれるであろう。それか、自殺までは行かなくとも、立ち直れないほど、ひどく傷ついてしまうだろう。それこそが、恋愛至上主義の陰謀であり、恋愛は結婚に準するセクシュアリティーの制度なのである。つまり、恋愛でのセックスのみが正統なのであり、「まとも」なのであり、それで男性を「まとも」にさせるのである。その他の男性は、異常なのである。もしくは、性的に不能と思われるのである。いわゆる、断種の対象となるのであり、優生学的社会なのである。だから、ニーチェもゴッホも、「素人童貞」であった。つまり、彼らはセックスの経験は娼婦とはあるものの、チェリーのままだったのだ。そして、二人とも発狂して、死んでしまった。発狂の原因は梅毒の可能性が高いと言われている。
なんと哀れな男たち、消極的断種が彼らを襲う。積極的断種は、出家しているものたちであるが、それは別問題だ。彼らはそのカテゴリーに数えられない。事実、シッダールタは出家して、自分の王家を断種に追い込んだが、彼はもちろん、出家前は、妻子がいたし、またインドの雨期は三ヶ月も続くので、夏休みのハーレムで美女たちとやりまくる生活を謳歌していた。「まとも」というより、もう現代でいえば、プリンス・ロレンツォ・ボルゲーゼ、もしくはウィリアム王子のような存在だったのだから。「超まとも」というか、動物の世界ではオスがメスを取り合うのだが、それがまったく逆になっているのだ。アメリカでは、独身女性たちの王子争奪戦のテレビ番組が成り立ってしまうのだから。自然にハーレムが形成されてしまうのだ。事実、シッダールタは出家しても、女性たちのアプローチを受けた。しかも修行中にである。よって、彼は「婦女は聖者を誘惑する」と言い残した。だから、その誘惑に打ち勝てという。しかし、私にアプローチした女の子はいただろうか!私には、婦女の誘惑すらないのである!それは、社会的ステータスを持ったイケメンだけの特権だ!キモメンの私にはなかった!皆無だった。だからこそ、私は仏教を受け入れることが出来ないのだ。なぜなら、仏教の開祖は、「いつでもできるのに、あえてしなかった」ということで尊敬されるからである。「したいのにできなかった」と「できるのにしなかった」というのでは、どちらのほうが苦であるか、一目瞭然だ!
それにしても、どうしてそんな言説が蔓延るようになったのか?それは、ずばり、清教徒倫理を司るキリスト教のせいである。キリスト教がセックスは愛がなければならないと定めたからである。だから、性欲だけのセックスは統制を受けることとなってしまったのだ。故に、結婚でのセックス、または恋愛でのセックスだけが「まとも」なのであり、それ以外のセックスは、制裁を受けることとなってしまったからだ。愛のないセックスはヤハウェーへの反逆なのである。
セックスはずばり「自由」である。しかし、その自由には絶対的条件が課されるのだ。それが、愛である。結婚、または恋愛だ。それは、ぶっちゃけて言えば、国家に対する愛なのだ。事実、愛国心がなければ、「自由」は与えられないのである。愛なくして自由なし、つまり恋愛なくしてセックスなしなのである。愛国心によって、国家のために命を捧げる義務感が生じる。だから、二重国籍は、不倫、または浮気となるのである。よって、1967年まで、アメリカでは、他の国の選挙に投票したり、軍役に就くと、市民権を剥奪された。事実、アメリカに帰化する移民は、
「I absolutely and entirely renounce and abjure all allegiance and fidelity to any foreign prince, potentate, state, or sovereignty, of whom or which I have heretofore been a subject or citizen(抜粋)
私は、絶対に、全体的に、私がこれまで臣民または市民であったすべての外国の君主、権力者、国家、もしくは主権に対する忠義と忠誠を否定し放棄する。」
と宣誓しなければならない。愛する国家は常に一つでなければならないのだ。だから、移民にとって帰化とは、離婚と結婚を同時に行うようなものだ。多重婚は許されないのだ。
聖書でも、「人は同時に二人の主人に使えることはできない」とあるが、主人、または国家は一つでなければならないのだ。それは、一人の配偶者、恋人であり、また神である。一神教なのである。アメリカの結婚制度は、一神教に基づくものなのだ。つまり、国家は実にヤハウェー的なのである。それは、「pledge of allegiance」の「One nation under God」に集約されている。それを、アメリカの小学生は毎日の朝礼で、宣誓させられるのだ。まさにファシズムである。それに、第二次大戦以前までは、それは、星条旗に向かって「ナチ式敬礼」によるものであった。
そう、セックスは国家主義によって統制されているのだ。それは、ロマン主義と関係がある。というか、ロマン主義が、起源となっているのだ。ロマン主義は、戦争と革命と恋愛であったが、彼ら男たちが誰のために闘うかと言えば、恋人か妻であった。それは、過去の騎士道精神に通じる。騎士は、貴婦人のために命を捧げるのだ。その恋愛形態が、国民主義、国家主義、そしてナショナリズムへと発展したのである。そう、愛するもののために闘うこと、それがイコール愛国心であった。教育基本法の改正は、そのイデオロギーを再び復活させるためのものだったのだ。それは、たった一人の女性のためである。つまり、たった一つの国家のためである。クロワチアの女性が戦争にいく男にスカーフをまいたのがネクタイの始まりとなった。だから、スペイン語では、ネクタイは「corbata」となり、フランス語では、「cravate」となった。つまり、ネクタイは国家主義のシンボルなのである。戦争にいく男たちの愛国心の象徴なのである。だから、私はクールビズを信奉するのだ。あれは、国家主義を否定するものなのだから。事実、小泉は独身であり、ネクタイをしてくれる人は、存在しなかった。よって、彼は腐敗した年功序列の日本社会をなんの未練もなく非情となって破壊することができた。彼には愛する女がいなかったので、なにかを守る義務もなく、破壊に専念することができたのだ。だから、彼はシステムの破壊者となり得たのだ。私にもネクタイをする根拠がなく、その根拠となり得るものがだれもいない、だからこそ、私はネクタイをひどく毛嫌いするのである!ネクタイは国家への束縛への象徴、ネオリベラル資本主義社会の企業アメリカ、いわゆるコーポレート・アメリカへの束縛なのだ。だからこそ、ネクタイを解くことこそが、自由の証である。
ネクタイをすることによって、いや、つまり、女を作ることによって、はじめて守る人ができる、つまり、はじめて戦士として認められるのである。そうやって、国民の愛国心が刺激されてきたのだ。だから、恋愛経験のない男は、戦士として認められない、闘うことが出来ない、命を捧げる覚悟をしたことがない、戦士として不適格、という身体調査の判断を下されてしまうのである。つまり、「非国民」なのである。そう、資本主義社会では、それは企業戦士となり、そこで男は戦士として適格かという判断を受けるのだ。それで、結婚している人のほうが有利となるのである。
ネクタイは戦士の証、ナショナリズムの証、いや、ナショナリズムそのものだ。愛する人を守るため、そのスカーフの持ち主を守るために、男は命を捧げるのだ。犠牲精神こそが至高の愛なのだ。それは、キリストの殉教の死と同類である。よって、移民は「fast track citizenship」 を選択するときには、至高の愛を証明する必要がある。それは、国家に対する愛、つまりアメリカ軍に従軍して、市民権を得ることができるのだ。スサノオの神話もそうだ。クシナダヒメは国家である。というか、彼女の父親が国家だったのだが、クシナダヒメを八岐大蛇から守ったこと、それによって、スサノオは市民権を得たのだ。クシナダヒメを娶ることを許された、つまり、市民権を得て、永住権と政治参加する権利を認められたのである。つまり国家を守る義務と自由はセットなのである。恋人ができたのなら、恋人を守る義務が生じるように、愛国心から国家を守る義務が生じる。移民はその方法によって、自由を獲得するのである。そうやって、移民は国家の歯車となるのである。
だから、私はナショナリズムを否定する。ロマンスを否定するのだ。ロマンスは、ずばり愛国心のことであるので、ロマンスを拒否するのだ。国家主義は、セックスを統制するからだ。セックス、いわゆる自由を国家主義から解放するためには、ヤハウェーの言説を砕くことである。恋愛をあえてしない人は、ナショナリズムを否定する人なのである。しかし、私は恋をしようとしたが、ネーションに拒絶された。とても愛していたのに…。大好きだったというのに。私から一切の愛郷心は消え失せてしまい、最終的に日本を捨てることとなった。そして渡米を決行したのである。
しかし、アメリカでは、私はアメリカを心から愛していたが、あるアメリカ人女性にグリーンカードを取ることを断られて、私のナショナリズムは跡形もなく消滅してしまった。片思いは、なにも生み出さない。国家は愛すれば、自由を与えてくれる。つまりこちらが愛すれば、自由を保障してくれる。しかし、それははじめから生まれながら市民という特権を持った人たちだけである。生まれながらに許嫁がいるようなものだ。だが、女はこちらが片思いだと、ただ残酷に「死ね」と拒絶するだけなのである。つまり、自由の保障はないのだ。それは、立場が市民ではなく、移民であればよくわかる。移民はどんなにアメリカを愛しようと、いずれは追放される身だ。だから、愛する人、いわゆるアメリカ人を愛することによって、そしてその最高の証が結婚なので、結婚によって愛国心を証明しなければならないのだ。そう、グリーンカードは愛国心が鍵を握るのである。グリーンカード目当てだけの愛のない結婚をしたら、国家安全保障省はグリーンカードを与えないし、それは結婚詐欺となり、アメリカ国家を欺いたこととなってしまうのだ。国家は、愛という個人的なことまでも干渉し、「永住権」という自由を与えるか判断するのである。そう、それによって、この移民は「まとも」かどうかを判断するのだ。思想の自由はないのである。そう、アメリカ国家は移民にとっては、恋人そのものなのである。配偶者なのだ。女への愛、男への愛、それが国家への愛なのであり、神への愛なのだ。「愛国心なくして自由なし、結婚なくしてセックスなし、恋愛なくしてセックスなし」という方程式が、国家主義の、パトリオティズムの原理なのである。
そう、たった一人の愛する女を通じてヤハウェーに男は従属するのである。それが西洋キリスト教恋愛の言説だった。だが、実存主義哲学の創始者であるキルケゴールは、「永遠に神に近づけない」とした。なぜなら、彼は、婚約を破棄したからである。よって、彼は、レギーネを失い、神に近づく糧を失ってしまったのである。そして愛のない自由では、永遠に国家に届かないのである。そして、それは、サルトルの「他者に近づけない」というのに発展した。事実、彼はボーヴォアールとは結婚しなかった。それで、国家主義の無意味さが、あからさまになったのだ。だから、ポストモダンは、セックスが緩くなるライフスタイルだったのである。自由は愛国心によってもたらされるものではないことを証明してくれたのだ!愛があるから自由があるのではなく、愛がなくても自由はあるのだ。
よって、日本にいるとき、私にまったく国家主義がなかったのもそのせいだ。私は高校のとき、女子に「キモオタ」として迫害された。キモメンでオタクという彼女らにとっては最悪のコンビネーションだったのだろう。だから私は登校拒否となった。国家のシステムを拒否したのである。国家が現実だったのである。そして、国家は女性を通じてあるのである。だから、国家は女性形であることが多いのだ。それは、戦士は男だからである。それを根底から崩すには、女性兵士がもっと登場することである。『機動戦艦ナデシコ』のように。しかし、私はキモオタとして、女子に拒絶された。だから、私は国家に否定されたのだ。私を戦士にしなかった。徴兵検査を不合格になったのだ。そして闘えない男は、男らしくなかった。よって、国家は私を「まとも」にしてくれなかったのだ。だから、私は遂に耐えきれなくなって日本という国家を捨てたのだ。国民主義は実に無意味だったのだのである。
キモオタが断種にならない方法、それは、なにが残っているか。それは、唯一、精子バンクだけであろう。子孫を残してくれる女性がいなければ、また自分の遺伝子と共に子孫を残したいと思う女性がいなければ、消極的断種となる。だから、精子ドナーとして、遺伝子を残すしかないのだ。しかし、その方法では、永遠に他者に辿り着くことが出来ない。しかし、精子バンクも、資本主義経済システムに取り込まれてしまっているのだ。精子は30ドルにしかならないが、卵子だと、三千ドルである。つまり、女性は男性の百倍の価値があるのだ。男が女と同じ価値の報酬を得るには、百回しないといけないが、百回に達する前に、過労死してしまうではないか!そして、履歴書も大きく値段を左右する。人種的にはイケメンのアングロサクソン系、そして、IQが140以上、ハーバード卒業、年収に二十万ドル以上という履歴のある精子や卵子が逼迫を起こすのである。とくに、ハーバードの女子学生のドナーは一万ドル以上も報酬が沸騰すると言う。そこで、もう市場が形成されてしまっているのだ。そのようなバンクが、もっとも優生主義を反映するものとなり、人工授精による生殖が主流となった時、キモオタは滅びてしまうのである。だれも子どもがキモメンになってほしいとは望まないであろう。それこそ、恋愛ナチが夢見る社会となってしまうのだ。そして、妊娠出産するのは女性なので、シングルマザーが主流となれば、女性は男と巡り会えなくとも、金さえあれば、子孫を残すことができるのである。だから、キモオタにとって、精子バンクは遺伝子を約束するどころか、買い手もいないので、いずれ廃棄物として忘却されてしまうのである。つまり、断種の道は避けられないのだ。
『まぶらほ』でも、主人公の遺伝子が有名な魔術師の家系であることが発覚したため、彼は、いきなり女性たちの生殖の対象となってしまったのだ。男性の価値は精子のみになってしまうのだ。彼自身は、生産力がまったくない(このアニメでは、魔法の力が資本主義社会の生産力に取って代わっている)、つまり仕事ができないので、将来の収入が見込めない、イケメンでもないし、背も低くて、体力もない、また男らしさに欠けるのだ。ただ、家系である。生まれによって、女性にモテるようになったのだ。貴族の子孫とか知っただけで、やはり女の子はどうしてもその人の子孫を残したいと思うのだろうか、しかし、要するにそれは、彼が目的ではなく、彼の精子だけでもいい話だったのだ。そう、彼が死のうが、精子だけバンクに冷凍保存してあればいいだけの残酷な話だったのだ。それに、近未来の話なのだし、当然人工授精の技術は発展しているのであり、そこまでセックスにこだわることもないはずであろう。しかし、そこは、女性からすれば、やはり「ついでに」セックスしちゃおうということなのだろう。もちろん表面上は、キモオタの一発逆転の話ではあるが、それは生殖のセックスであって、快楽追求の自由形のセックスではないため、そこに「自由」はないのである。「種の保存」という法則はどうしても優生学的となり、キモオタはそこからはじかれてしまうのである。だから、このアニメは、陰鬱な将来を示唆するものであった。
また資本主義社会では、消費こそが優先される。そこでは消費にまさるものはない。それこそ消費社会なのである。消費者コンフィデンスがすべてを左右するネオリベラル経済なのである。つまり、恋愛と消費はセットなのだ。恋愛中の人と、恋愛していない人との差は、消費において圧倒的になるという。だから、社会は恋愛を奨励し、恋愛できない人を、断種の対象とするのである。恋愛できなければ、消費社会に貢献してないこととなり、消費できない男は、女性からも認められないのだ。事実、低賃金労働者の男の結婚率はもっとも低いし、金欠のためデートすらできない。そして、もっとも不幸で悲惨なことに、セックスができない。それが、資本主義社会である。セックスとデートと恋愛と結婚、これらはすべて資本主義国家の統制下にあるのだ。だから、私は資本主義から離れた学園で、16歳になって恋をしたいのだ。そうすれば、資本主義によって自由を弾圧されることはないのだから。
一番いいのは、セックスを恋愛から解放することである。そのためには、一神教から人々を解放することである。自由を国家主義から解放することである。深入りしない恋、それこそが理想である。萌えは、もちろん深入りはないし、純粋にプラトニックだが、やはり皮膚感覚の欠落という限界がある。それでは、自由を謳歌できない。できるなら、萌えよりも粋である。日本の明治以前の恋は、「粋」であった。現代のような、情熱が冷めても、安定期を期待するような結婚的な恋ではなかった。アメリカでいう「so-called relationship」ではなかったのだ。それは、深入りしない恋であったのだ。短期間の情熱が冷めれば、また男女は別れて新しいエロスに奔走した。ヤハウェーに反逆的な恋だったのである。というか、日本にはヤハウェーが存在しなかったため、真に自由な恋があったのだ。明治以前の日本は、国家主義に冒されていなかったのである。オープンなセクシュアリティーが人々を解放する。蕩尽のエロティシズムが人々を解放するのだ。それこそが、真の自由というものである!自由、万歳!
参考文献:
柏木理佳『がんばりすぎずに幸せになる方法』KKベストセラーズ、2007年
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