NAFTAでのキモヲタのソナタ
ああ、『School Days』の最終回の放送がいつになることやら・・・。じぇんじぇん待てない。耐えられない。我慢できない。もう発狂しそうです!


そう、加藤乙女、か・・かわいい、髪型がいいね、というか、私の好きだった子に髪型が瓜二つ、リーダーシップがあって、積極的で、スポーツが得意で、ツンツンしていて、花魁道中のように、かわいい女の子の子分を引き連れていて、でも、好きな人の話題になると、頬が赤くなって恥ずかしがるなんて、きええぇぇぇ!そして嫉妬心から、好きな人を襲うなんて、ああぁぁうううぅぅ。あの子のせいで、私は、一気にハマってしまったんだ。嫌いなのに、嫌悪の対象なのに大好きという、私の心はすっかり矛盾で包まれてしまった。あの子は、もはや、愛染明王だ、ラーガラージャである。愛欲のカーマ、キューピッドか、その母のヴィーナスであるから。あの言葉(ことのは)ちゃんでさえ、自分を好きな男を傷つけてしまったんだから、彼女も、ラーガラージャな部分なところがあるということでしゅよ!しかも、その男は、「使い捨てポイ」されたのだ。私も、そうされたい!みんなラーガラージャになれば、どんなにこの世界は桃源郷になるだろうか!それこそ、ユートピアだ!

「乙女」という名前がいいね。それは、英語でいうと、「メイデン」であり、「メイド」という言葉が元となっている。それは、「独身女性」という意味である。キリスト教では、「乙女」は、メイドというよりは、性的なヴァージンという言葉で表現されるが、それは、未婚女性は性的経験があってはならないという言説のために発明されたものである。中世イギリスの大文豪チョーサーは、ナザレのイエスを「メイド」または「ヴァージン」と読んでいた。つまり、その言葉は、男女両方ともに適応され、いわゆる未婚、または独身という意味であった。しかし、キリスト教が完全にゲルマンヨーロッパを支配すると、それが、性的な意味を持つようになり、とくに女性の貞操が重要視されるようになった。そして、ヴァージンは、もっぱら性的体験のない女性となってしまったのだ。それは、セックスを結婚内にとどめておこうとする、腐敗したイデオロギーのためである。

だが、加藤乙女は、そのキリスト教の言説を破壊する女性だった。だから、私は、彼女がエロチシズムの女神さまであることに、間違いなーい!と思うんですよ。そう、「乙女」は、貞操な「貞子」のことではなく、セクシュアリティーを謳歌するメイドであることを、内外に知らしめた女性として、私は心から賛美し、崇拝するんです!

だから、メイド喫茶は、すばらしい。ああ、秋葉に行きたい!ここ西海岸には存在しないからなぁ。アニメオタクの人口が急増しているんだから、メイド喫茶を出店しても、いいではないか。市場は形成されてるんだから。むかしは教会が、メイド喫茶のようなものだった。なにせ、ナザレのイエスが、「メイド」と呼ばれていたんだ。だから、教会で、ワインとパンが出るではないか。イエスの血と肉としての。それは、喫茶でいえば、コーヒーとクロワッサンのようなものである。しかし、現代の教会は、メイド喫茶だ。もはや、メイドは、イエスから、乙女ちゃんに替わったのだ。イエスがメイド服を着て、十字架にかかっているシンボルは、「うーむ」という感じか。それもそれで、前衛的で、アヴァンギャルドの芸術性はあるだろうが。でも、私の求めているのは、女性のメイドだ!

乙女ちゃんは、三位一体を破壊した。メイドであるイエスに、
「あたしこそが本当のメイド(乙女)よ!」
と言わんばかりに。イエスもシッダールタも、セクシュアリティー、特に女性を否定したメイドであった。まあ、シッダールタには妻子がいたが、それでも出家して、メイド同然となった。究極のメイドは、沙門という、セックスに縁がないビクニーがそうであるという言説を作ってしまった。キリスト教でも、「砂漠の父」という僧侶が、究極のメイドとなってしまった。セックスに縁があると、輪廻(コスモス=世界)に捕われる、だから、セックスとの縁を断てば、輪廻から解脱できるという、ふざけた思想をブチ蒔いた。つまり、輪廻は女性であり、女性への愛着が、苦しみの元であり、苦しみを滅するには、女性への執着を断つことだったのだ。つまり、輪廻=世界ちゃんからの解脱だったのである。それが、仏教、キリスト教、イスラム教の女性差別の原点なのである。

しかし、私にとってメイドとは、単に「未婚」という意味しかもたない。セックスの経験で、「メイド」の定義は決まらない。そんなの、どうでもいいことだ。私は、コスモスに否定されたくない。受け入れられたい。私は、コスモスの中にいる。この肉体は、コスモスから生成された。世界に否定されたら、生きていけない。現実世界に否定されたら、つまり、モテなかったら、おしまいだ。ニヒルだ。だから、それでも生きていくために、私は「萌え」に救いを求めるのだ。しかし、「萌え」の最大の欠点は、セックスレスであること、それが、私を完全に救えない理由です!つまり、皮膚感覚の欠落なんです。

女性の承認は、世界からの承認。そして、乙女ちゃんは、私を承認してくれる!だから、彼女にすがりたい!私は日本の学園社会に拒絶された。だから、引き蘢るしかなかった。私では、とうてい日本社会を破壊することができない。無力だった。よって、渡米して、心機一転しようと思ったんです。でも、小泉が出てきたときは、それこそ、彼にその破壊を一心に託したのだが、破壊しなくてもいい福祉までも破壊してしまったから、彼は真の破壊者だった。それこそ、真のヴィジョンなきシステムの破壊者だった。私が彼に本当に望んだことは、日本のヘドロの根源である年功序列による男尊女卑社会の破壊であったというのに。

で、一方アメリカに渡米した私だが、しかし、蓋を開けてみれば、アメリカは、清教徒倫理に冒され、キリスト教エヴァンジェリカルの原理主義がセクシュアリティーを抑圧していた。私が、エヴァンジェリカル系の教会に行ったとき、そこの高校生ぐらいの女の子たちが、
「結婚するまではヴァージンじゃないといけない」
と言っていたので、はじめは、
「おいおい、冗談だろう」
と思ったが、それが本気だと知ると、私はとても困惑した。本当にショックだった。だって、私は日本で宗教の洗脳の怖さがどれほどのものかを、オウム事件で知っているから、しかも、「自由の国」アメリカに来てまで、洗脳された女の子たちが、目の前にいるという事実は、私のキリスト教に対する恐怖を決定的にさせた。いわゆる全宗教に対して、私は生理的嫌悪を覚えた。

その上、日本にいるときは、アメリカはセックス大国という印象が、ハリウッド映画からあったので、私は、無邪気にも、
「アメリカはセックス自由国だ!」
と思い込んでいた。それが目的で渡米したのだから。しかし、アメリカはユートピアではなく、リベラルへの反動として、そのようなキリスト教原理主義思想が連邦政府に浸食し始めていたのである。クリントン・ゴア政権に対する経済政策での世論の支持は絶大であったが、モラルでは、最低であった。彼らのネオリベラル政策が支持を得ているのには、正直言って驚いた。しかし、モラルの低下は、あきらかに偽善である。なぜなら、公民権運動、フェミニズム、身体障害者の権利、同性愛の権利など、モラルは低下どころか、向上しているからである。しかし、キリスト教の言説が、それに異論を唱えたのだ。それは、あきらかに、貧困ではなく、セクシュアリティーの解放に異論を唱える伝統的原理主義の言説の復興であった。そういうところで、彼らは勢力の維持を狙ったのである。キリスト教の本来の最高教義は困っている人を助ける、つまり貧困を根絶することではないのか、どうしてセクシュアリティーの統制に争点が移ってしまったのだろうか。貧困がアメリカのもっとも大きな問題だというのに。だから、宗教は堕落しており、偽善であり、阿片なのである。よって、私は世界四大宗教の破滅を望むのだ。破滅というよりも、世俗化である。宗教は性の自由には、まったく邪魔であることを、この経験をもって確信した!

また、アメリカは、世界囚人大国、囚人の数は2百万人以上、核兵器の数も2万発以上、核社会、そして、ネオリベラル消費社会による車社会、そして格差社会による極貧、貧乏人にとって、これほど生きにくい社会はあるだろうか!アメリカの拝金主義を砕けー!

私が唯一望んでいること、それは、女性の承認である。「萌え」はその代替だ!そして、私は、乙女ちゃんを崇拝する!よーし、最後にマントラを唱えてやる。それで、私にセクシュアリティーの自由があらんことを〜!!!

Om Maha-Otome Vajrosnisa Vajrasattva Jah Hum Ban Hoh!


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【2007/09/28 10:26】 | アニメ
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福田内閣が発足したが、その支持率が50%を越えているとは、絶望した。しかも、世襲政治の中心的な人物がである、父親がそうであったように。これでは、クロニズムの温床だ。派閥政治の温床だ。私は福田が解散に追い込まれて、自民党政治の崩壊を期待したのだが、そして、非自民党の政権が、日本を改革してくれる期待したのだが、国民はそうは思っていないのであろう。首相はどこの党であれ、仕事をしてくれる人を期待しているのだろう。

なにしろ、中国でも、福田首相は、歓迎されている。ドラえもんの「のび太」が71歳になって、首相に成ったとされ言われている。詳しくは、この記事で。しかし、のび太は、ドラえもんの道具を私利私欲に使って、最後は破滅するというのが、オチである。だから、実際にそうなって、解散になってほしい。

私が福田に望むことは、解散である。そして、総選挙で、自民党が滅びることである。そうすれば、日本は良くなる。自民党の教育体制で、私は、「男」として順応できなかったために、男女からイジメを受け、引きこもりとなった。だから、その教育機関を支配していた男社会の根本である自民党をブッ潰さなければならないのだ。まあ、始まったばかりなので何とも言えないが、私は、のび太首相に、解散を望む。

【2007/09/27 12:14】 | 政治
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コスモスである西園寺世界、彼女は、「世界」であり、「輪廻」であり、「コスモス」であり、「サンサーラ」である。そして、輪廻を決定づけるのが、セクシュアリティー、いわゆる性行為による生殖である。そして、英語でも、コスモスの快楽を「worldly pleasure」と表現し、それは、キリスト教では、罪の巣窟とされる。世界ちゃんは、伊藤誠に、そのような快楽を誘惑した。しかも、世界ちゃんが、誠が言葉ちゃんとの恋愛に成功したと知った矢先である。電車の乗り際でのキス、あの衝撃のシーンは、もう私の心を爆裂させてしまった。つまり、誠が世界とのセクシュアリティーの快楽に興じたために、破滅に向かうという筋書きなのである。


仏教でも、性的なことは、サタンであるルシファーと同じように、マーラという魔神によって表されている。マーラの別名はカーマ(愛欲)であり、英語のhorninessが「カーマ」という意味であろう。カーマースートラは、「愛欲経」という意味である。よって、色情であるカーマは輪廻の機動力であり、動力源であるため、輪廻を断つために、カーマは完全に否定された。性の否定は肉体的な人間の否定であり、「仏」という字も旧字体では「佛」であり、「人に弗(あら)ず」という意味である。つまり、セクシュアリティーを否定し切った人が、佛と呼ばれたのだ。

サタン=肉欲=世界という図式は、キリスト教ならではだが、仏教でも、カーマ=輪廻への束縛とされた。その輪廻(コスモス)から解脱するために、シッダールタは出家したといっても過言ではない。そう、世界ちゃんは輪廻という一切皆苦の世界を象徴していたのだ。だから、イエスもシッダールタも肉体を捨てること、つまり入滅によって解脱し、完成させられたのである。そして、死の王であるマーラの娘はラーガと呼ばれ、シッダールタが悟りを開く寸前に、誘惑した三姉妹がそうである。ということは、世界ちゃんは、サタンでありマーラであり、またラーガであったのだ。そのラーガ的な肉体にイエスが宿ったということ、そして、イエスの処刑は、ラーガからの解放であった。

しかし、ラーガは、密教で再び脚光を浴びる。菩提樹の下のシッダールタが完全に否定し、その智慧の光でラーガを溶かしてしまったのだが、ラーガは再び仏教徒の前に現れた。シッダールタは、イケメンだったし、また元皇太子だったので、現代で言えば、イタリアのボルゲーゼ家プリンスであり、まあ、イタリアが共和制になってから王子とかの称号は認められないので、彼は事実上王子ではないが、それでも、アメリカで番組が出来るほどだから、肩書きは消えない。だから、シッダールタが失脚して、というか出家して、王位後継者の地位を捨てて、世捨て人に成ろうとも、世間から、とくに独身女性から見れば、「プリンス・シッダールタ」のままなので、瞑想中のシッダールタに三人の若い女性が近づいていって、セックスを迫ったのも充分想像できることなのだ。それは、まさしく、『The Bachelor』そのものだったに違いない。シッダールタは、「マーラの娘、三姉妹のラーガ」として、表現したが、伊藤誠も、三人の可愛い子に、家に押し入られた。ラーガに、食べられてしまったのである。また、加藤乙女も、実にサタン的な、マーラとなって、休憩室で、誠を押し倒してしまったのである。あれで、誠は、マーラの愛欲の矢に、完全に捕われてしまったのだ。そう、マーラとは、いわばギリシャのキューピッドである。だから、乙女ちゃんは、すばらしい。私は彼女を絶賛する。こんな子が、私の高校にいたら、私は絶対に救われていたはずである。そんな子さえいれば、私はアメリカに来ることはなかったのだ。

ラーガは、ラーガラージャと呼ばれる。それを、日本語にすると、「愛染明王(あいぜんみょうおう)」となるのだ。ラーガは、欲望であり、とくに愛欲また情欲であり、ラージャは「王」である。マーハーラーガは「偉大なラーガ」であろう。だから、愛欲を成就する真言に、
Om Maharaga Vajrosnisa Vajrasattva Jah Hum Ban Hoh
というのがある。つまり、密教では、死の王の娘とされたラーガを呼び起こし、愛欲の情事を達成させるための神として、復活したのである。世界ちゃんは、愛染明王だったのである。ラーガだったのだ。だから、誠が、世界ちゃんと肉体関係を持った瞬間に、ラーガの釜が一気に開いてしまい、愛欲漬けの歓楽に耽た学園生活となった。紅灯緑酒である。そして、聖霊は完全に言葉ちゃんのことを忘れてしまったのだ。そして、同じく乙女ちゃん、彼女は、愛染明王のごとく忿怒の形相をもって、言葉ちゃんのことを睨みつけていた。自分が余裕で勝っていると見下していた相手に、自分の好きな人を取られていたという衝撃、そして怒りと妬み、そう、このビデオの3分25秒の彼女の表情がまさにそれだ!けけっけけけー!!!あああああ、乙女ちゃーんん!!!!それが、私のyozucaの『記憶の海』が好きになった理由である。この曲は、まさに、ラーガラージャの歌曲である!

だが、キリスト教も仏教も性を否定し、性は死を招くとしている。マーラも死の王であり、サタンもそうである。つまり、フロイト的には、エロスはタナトスと結びついているのである。アダムとイブは、楽園の知恵の実を食べて、性欲が沸いたが、逆に死ぬようにも成った。つまり、性は破滅なのである。だが、性は智慧ももたらした。というか、知恵がセックスをもたらしたのだ。セックスは、聖書では、「知る」という行為である。「女を知った」ということは、「女とセックスした」ということなのだ。だから、「あの人知らない」と女の子が言えば、「あの人とはセックスしてない」という意味なのだ。そして、生命の実を手に入れれば、すべては解決するのだ。つまり、セックスは死ではなく、不死への通り道だったのだ。一時的な死、そして、再生と復活なのである。それが、性行為だ!

しかし、セックスができないで、破滅する人間が多いというのが現状であろう。チョン・スンヒを見れば一目瞭然だ。彼は、マーラにまったく相手にされなかったために、死滅した。しかも、罪なき学生を巻き添えにして。セクシュアリティーの承認がない男は、発狂して、死んでしまうのだ。ニーチェやゴッホがそうであった。だから、私は、アフロディーテ、ビーナス、エロス、キューピッド、カーマ、ラーガーを推薦するのである。これらは、仏教やキリスト教によって、悪魔とされた神々である。ワーグナーの『タンホイザー』でも、教会からヴィーナスは敵視された。それらの神々の解放が我々の天命である。そうして、ネクスト・チョ・スンヒを救うのだ。だから、愛欲が必要なのである。愛欲を謳歌すること、それこそがエロティシズムというものだ。

いわゆるセクシュアリティーの解放が、それである。


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【2007/09/24 12:32】 | 政治
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ああ、久しぶりに、ギリシャ語の原文で書かれている新約聖書を開いた。私が以前住んでいたオクラホマは、バイブルベルトだったので、進化論を否定するような、また妊娠中絶の権利の否定、同性愛者を迫害するような社会的風潮の地域、その原理主義的な社会的圧迫からキリスト教を嫌でも学ばなければいけない状況に追い詰められていた時期があったので、まあ、そういう経緯で、原文の新約聖書を持っているのである。本当に久々だったので、ギリシャ語の煩瑣な文法を忘れてしまった。だから、単語単語でしか読めなくなっていた。また学び直さなければ、だから、一番読みやすいとされるヨハネによる福音書を軽く眼を通すだけにとどめた。しかし、その福音書は、私に『School Days』のことを思い起こさせた。それで、ちょっと独断と偏見で、興味本位で、このアニメを分析してみようかなぁと思った。


School Days』の二人の主人公たる桂言葉ちゃんと西園寺世界、これは、キリスト教のヨハネによる福音書をそのままキャラクターにしたようなものである。言葉(ことのは)ちゃんは、いやゆる「言葉」であり、最初の女性である。そして、万物が出来上がった。いやゆる、「世界」が出来上がったのだ。ギリシャ語では、「言葉」は「λογοςロゴス」とされる。また、「世界」は「κοσμοςコスモス」とされる。つまり、言葉ちゃんと世界ちゃんは、ロゴスとコスモスなのである。

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネによる福音書 第一章1−3)

言葉は世界にあった。しかし、世界は言葉によって成ったが世界は言葉を認めなかった。(ヨハネによる福音書 第一章10節)

つまり、コスモスはロゴスを否定したのだ。それは、『School Days』でも、世界ちゃんが言葉ちゃんを裏切って伊藤誠に肉体関係を求めたのである。誠は英語に訳せば「truth(真理)」とか「faith(信仰、誠意)」とかになるので、ギリシャ語では、「αληθειαアレーテイヤ」と「πιστιςピスティス」になるであろう。

律法(νομοςノモス)はモーセを通して与えられたが、恵み(χαριςハリス)と真理(アレーテーヤ)はイエス・キリストを通して現れたからである。(ヨハネによる福音書 第一章17節)

しかし、『School Days』には、「恵」という名前を持つキャラクターは登場しない。まあ、言葉ちゃん自体が恵みみたいなものであるから。だから、言葉ちゃんは、「イエスは言葉である」という言説に基づけば、女性版のイエスということになる。そして、誠も、言葉ちゃんを通して存在したのだから、言葉ちゃんを通して誠は現れたのである。それは、言葉ちゃんの愛によって、誠は存在可能となったのだ。それは、紛れも無く、誠のセクシュアリティーの承認であった。誠の告白によって、言葉ちゃんは、誠を承認し、誠は自分の存在意義を見いだしたのだ。告白までは、言葉ちゃんと誠は、会話らしい言葉を交わした言葉まったくなかった。つまり、誠は存在していなかったのだ。ただ、通勤電車、というか帰りの電車で、面識があったくらいである。それに、もし、誠の告白が、「ごめんなさい」と断られていたら、『School Days』は、そのまま放送終了となっていたであろう。だから、彼は、言葉ちゃんの承認によって、存在することができたのである。お互いに気になっていたというのは、本当に羨ましい限りである!「磯の鮑の片思い」ほど、辛いものはない!女性の承認なしでは、私の存在価値がない。女性の承認なしでは、セックスできない!16歳に戻って、学園の恋愛を謳歌したい。さもなければ、私の人生は失学園でしかない。

しかし、世界ちゃん、つまり肉体的な世界ちゃんは精神的な言葉ちゃんに比べれば、誠の肉欲を刺激しまくった。光の国がキリストの王国、つまり言葉の国であり、ロゴスの国であり、コスモスは、浮き世であり、現世であり、そこは、堕天使のサタンが支配する場所なのである。暗闇なのである。イエスは、光の王子であるが、サタンであるルシファーは、暗闇の王子である。しかし、もともとルシファーとは「Lux+fer」であり、ラテン語で、「光を運ぶもの」という意味なのが、実に皮肉である。それは、ルシファーが、もともとは、神の使いであったことを示しているのである。だから、性欲は、ルシファーのものであり、性欲を司る肉体は、コスモス、精神性を司る魂は、ロゴス、よって、肉体の救済ではなく、魂の救済がキリスト教の主眼となった。


だから、三位一体説に異論を唱える学派も存在した。神、人間、聖霊が三つ合わさったものがイエス・キリストとなっているが、つまり、言葉である神、世界である人間、そして信仰(誠)である聖霊が合わさって一つという説が、カトリックの教義となった。つまり、神がナザレのイエスという肉体を持ってしまった矛盾に、性欲と肉欲に縛られてしまっている動物になってしまったというのが、 初期のキリスト教徒を悩ませたのである。それは、彼らにとっては、矛盾でしかなかった。だから、彼らの一部は悩み抜いて、グノーシス主義を作った。グノーシス主義は、イエスが十字架にかかったのは、世界からの、コスモスからの、肉体からの解放だとしている。つまり、肉体はデミウルゴスという偽物の神に作られたものであり、それから、人々を解放することが、キリストの役目だったというのだ。ユダヤ教の伝統であった肉体と精神の一元論は完全に否定された。まさに究極の二元論である。

つまり、イエスは肉体を捨てた時に完璧になったとされるのだ。誠は、言葉ちゃんだけでなく、肉欲の世界ちゃんを手に入れたことで、三位一体となったわけであるが、それは、関係の破壊をもたらした。そのとき、誠(faith)は、unfaithfulとなった。いわゆる「不義」である。またunfaithfulのシノニムが「infidel」なのであり、「infidelity」は、アメリカでは、裁判所で離婚をするのに正当な理由として扱われる。そして、オザマ・ビン・ラディンも、敬虔なイスラム教徒以外の人間はすべて「infidel」としており、テロの対象である。だから、神に対する信仰心、つまり言葉ちゃんに対する信仰心がなくなった誠は、誠でなくなってしまったので、存在意義が消滅してしまったのである。彼は、infidelになってしまったのだから。つまり、「非誠」となってしまったのだ。

ああ、そういえば、キューバの独裁者のフィデル・カストロも、伊藤誠と同じ名前ではないか。なにせ、フィデルとは、「誠」という意味だ。すると、「フィデル・カストロ」を日本語的にすれば、「カストロ誠」となるのだ。

話は戻して、つまり、ロゴスのイエス・キリストか、それともコスモスのナザレのイエスか、いわゆる多神教的な教義が三位一体なのであり、三位一体は三角関係として暴かれたのである。しかし、三位一体説では、誠は両方いなければ、成り立たない。しかし、それは、唯一の対象に忠義を尽くすという一神教的道徳に反しているのである。だから、彼は破滅する。

つまり、「fidel」とは、たった一人の恋人に対する忠義であり、信仰であり、それは、一神教の神に対する信仰なのである。だから、神は、偶像崇拝を禁じた。ヤハウェーは嫉妬の神だからである。愛するが故に、嫉妬してしまうのである。つまり、独占欲の神なのだ。だからこそ、三位一体はなりたたないのである。事実、アメリカで過激なプロテスタント原理主義者のなかには、三位一体説は多神教的だとして、批判するものもいた。彼らは、カトリックを徹底的に嫌っていた。まるで、共和党の母体となったノーナッシング党の再来のようだった。三位一体では、誠は存在できないのである。だから、言葉ちゃんは、肉体を滅ぼそうとした。サタンを滅しようとした。つまり、世界ちゃんと、また裏切った誠を、罰しようとしたのである。だから、言葉ちゃんは、第11話で、ナイフを布に包んでいたのであろう。だから、十字架上の処刑されているイエスは、肉体のイエスが罰を受けていると解釈されるのである。そして、ついでに、聖霊も罰を受けているのだ。さもなければ、イエスが、処刑時に、
Eli, Eli, lema sabacthani? My God my God, why hast thou forsaken me? 神(言葉)よ、なぜ私を見捨てたのか!
と叫ぶはずがない。彼自身が、神なのだから。パウロは、「イエスは人々の罪をかぶって処刑された」と解釈したが、あれは、言葉と肉体が、聖霊に二股をかけられたから、言葉が肉体を罰したのである。つまり、神が人間を罰したのだ。なにしろ、イエスは、我々と同じ肉体の産物なのだから。彼だって、コスモスである女性の陰部から産まれてきたのだから、言葉(ロゴス)に処刑される運命は逃れられなかったのだ。いくら、マリアの性を否定しようとも、マリアのヴァジーナから産まれてきたのであれば、それだけで、人間は、ナザレのイエスを含めて、性的な生物なのである。シッダールタが、マーヤの腋から産まれてきたというが、あれは生物学的に不可能だ。もしかしたら、帝王切開をして、サイドから産まれてきたため、母親は出産後七日目で死亡したのだろうか。まあ、それはともかく、人間は、性なしには、存在し得ないのだから。

だが、仏教でも、性的なことは、完全に否定された。セクシュアリティーは輪廻の機動力であり、動力源であるため、輪廻を断つために、セックスは完全に否定された。性の否定は肉体的な人間の否定であり、「仏」という字も旧字体では「佛」であり、「人に弗(あら)ず」という意味である。サタン=肉欲=世界という図式は、キリスト教ならではだが、仏教でも、マーラ=肉欲=輪廻への束縛とされた。また、輪廻を意味するサンスクリット語の「samsara」は、「世界」という意味でもある。つまり、輪廻とは、コスモスなのである。そのコスモスから解脱するために、シッダールタは出家したといっても過言ではない。そう、世界ちゃんは輪廻という一切皆苦の世界を象徴していたのだ。だから、イエスもシッダールタも肉体を捨てること、つまり入滅によって解脱し、完成させられたである。肉体への執着、それは、女性への執着と同じとされた。それが肉欲とされたのだ。そして、死の王であるマーラの娘はラーガと呼ばれ、シッダールタが悟りを開く寸前に、誘惑した三姉妹がそうである。ということは、世界ちゃんは、肉欲を司るサタンでありマーラであり、またラーガであったのだ。そのラーガ的な肉体にイエスが宿ったということ、そして、イエスの処刑は、三位一体の崩壊そのものだったのである。肉欲を断つために肉を断ったのである。人は病の器とされたと同時に、罪の器でもあったのだ。その器を砕くことは、究極の自傷行為であり、それは、いわゆる、イエスの人格崩壊であった。誰でも、死刑囚ならば、処刑当日は、人格破壊がおきるであろう。なにせ、死んでしまうのだから。そして、イエスは、最終的に肉欲が支配する肉の世界から解放された。別の言い方をすれば、世界から殺された、または、言葉からも殺された、誠からも殺された、まさに三つ巴の浄化、まるで、フランク王国の分裂のように、つまり、イエスは、どっちに転んでも殺されるしかなかったのだ。だから、彼は、取り憑かれたように弟子たちに、「自分は殺される」と呟き続けたのである。

そう、言葉ちゃんは、ヤハウェーという罰する神だったのだ。なにせ、言葉ちゃんが、正当なガールフレンドなのだから。「正室」といったら、一夫多妻になるので、これも言葉であるキリストが、戒め、結婚制度を一夫一妻制に改革した根拠である。つまり、正統な関係を排他的にしたのである。だから、ヤハウェーは男性だけのものであったが、イエスは女性もヤハウェー化したのである。よって言葉ちゃんは、排他主義者なのだ。それを、誠に強要しようとし、白い鳩である聖霊を独り占めにしようとしたのだ。『School Days』では、特にオープニングでは、聖霊は、「蒼い天使」とされている。つまり、聖霊は蒼い鳩なのである。それは、青い羽根が水たまりの上に落ちている情景で表現されている。あの洗礼専用服のような純白な服を着ている二人の女の子、それがキリスト教式に手を組んでヨルダン川の上で祈っているのである。そして、二人とも、蒼い羽根を手にしており、それを飛ばすのである。そこで、肉欲の世界ちゃんも、洗礼のヨハネの役割を演じ、言葉の肩に鳩をとまらせたが、彼女は、その鳩を奪おうとした。彼女には、共有という意識があったのかもしれないが、当然、言葉にとっては、それは、ユダのような裏切り行為であった。つまり、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた瞬間に、彼の精神と肉体の乖離が起きてしまったのではなかろうか。精神と肉体の両方に聖霊がついたのだから。なにしろ、二人とも蒼い羽根を持っていたのだから。それによって、イエスが血に染まる運命が決定づけられてしまったのだ。だから、どのキャラが血に染まっても、それは、イエスが死ぬことに変わりはないのだ。その三人のキャラは、イエスの属性なのだから。つまり、水によって聖霊が降り、そして血によって完成されるという、聖霊と水と血の原理が働いたのである。また、三位一体説は、イエスが多重人格者、いわゆる三人の人格を持っていた、三つの属性を持っていたということであろう。その葛藤が、このアニメの三人の登場人物に表現されたのだろう。だから『School Days』のオープニングでは、三人がたぶん校舎の桜の並木街道で、空を見上げているのである。

まあ、最終回が放送中止となったので、まだ何とも言えないのが事実なのだが、早とちりはいけない。判断と批評は、最終回を見てからにしよう、それまでは、保留だ。


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【2007/09/23 03:36】 | アニメ
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私はパニックアタックを引き起こした。夜中に、急に起きてしまい、暗闇のなかで、淋しさが私を追い詰めた。いつもなら、ぐっすり眠れるのだが、今回はそうではなかった。秋寸前になって、急に冷え込んできたせいもあるのだろうか。「食欲の秋」というが、「性欲の秋」とも言われるし。私は「萌え」で、精神はなんとか埋め合わせができると思ってきたが、さすがに、「萌え」だけでは、皮膚感覚の欠如はどうしょうもできないということか。私は肉体と神経を持っているため、というか、それが私自身であるため、やはり肉体的な面での淋しさは、積もり積もって、それは、発作となって、夜中に現れてしまったのだろう。だから、iPodで、Yuriaの『Look at me』を聴いて、発作を乗りこえた。


あの、恋を切望するような現代的な優しい声、そしてエレキギターのカッティングの間奏は、本当に、私の淋しさを表しており、それをカタルシスにして、私の脳にシータ波を呼び起こし、瞑想状態となり、切ない余韻に浸った。ああいう歌い方は、日本にいたときは、聴いたことがなかったので、とても新鮮である。フェミニンならではの、空想的な声、最近のJポップはレベルがとても高くなってきたし、アニソンもそうである。これは、世界に誇れる日本の独自の文化と言ってもいいであろう。また、歌詞が本当に、素晴らしい、
だめね あなたの言葉が 胸を締め付ける
「気付いて…」心の中で ただ繰り返すだけ
そばにいて
見つめる視線が 熱くなる
いけない どうすればいいの?
教えてよ 神様

と、本当に、言葉(ことのは)ちゃんの心理状態をそのまま体現したかのようだ!「神様」というのが、いい。私は無神論者だ、「神」は人のセクシュアリティーを抑圧するために発明されたものだということに、私は賛成だ。だが、やはり、恋をすると、「神様・・・」ってなっちゃうんだ。それは、私もわかる。私の知り合いに元ギャングスターがいるが、あんな凶暴な人間でも、恋をすると、「I prayed to God to stop my heart from throbbing」という詩を書くぐらいであるから、それが、女の子となると、やはり、かわいい、かわいすぎる、ああ、もう萌え炸裂だ!

しかし、あれは、かなりまずかった。あのパニックはなんだったのだろうか。それは、ブリジット・ジョーンズの比ではない。彼女はセリーヌ・ディオンの『All by myself』の曲に合わせて、パジャマ姿で踊り、一人の寂しさの苦しみに耐えていたが、私には、アニメの「萌え」があるので、あそこまでの神経衰弱になることはないと思っていた。「萌え」で私は救われていると思ったのだが・・・。皮膚感覚、やはり、肉体あっての魂なのであろう。肉体あっての精神なのだろう。プラトニックというのは、ありえない。プラトンの影響を受けたキリスト教の二元論は空論である。肉体があってこそ、我々は存在するのである。だから、セックスは絶対なのである。ほとんどの宗教は肉体性を否定してきたが、その否定は有り得ないと思う。肉体がなければ、我々は無なのである。そう、精神性も肉体に属するのだ。しかし、女の子はどうなのだろうか。肉体のマグワイ、つまりセックスが絶対ではないのか?人それぞれか、でも、私はセックスがなければ、ニヒルだ。マグワイはお互いの肉体の承認なのだから。デカルトは「Cogito Ergo Sum(我考える故に我有り)」と言ったが、私は「Coqueto Ergo Sum(我色情する故に我有り)」であろう。それが、私の実存である。その実存をどこにもぶつけることができないために、パニックに陥ったのだろう。このパニックも女性との皮膚感覚の欠落からであろう。いくら真言(マントラ)を唱えても、その不安は消えなかった。それが、私の精神運動制止の原因だと思われる。

安倍晋三も、精神運動制止にかかったとされる。だから、ポッキリ折れた。また、安倍は自己愛性パーソナリティーの傾向にあるのだという。しかし、私はそのような人格障害はない。私が目指しているものはただ一つ、女性の承認である。しかし、私も、あれだけ、女性に拒絶されたら、もうどうでもいいや、と思ってしまい、自暴自棄になって、すべてを投げ出してしまおうとさえ思った。なにもかもが嫌になり、人に会うのが嫌になり、引きこもりたいとさえ思った。だから私も、ポッキリと逝きかけた。

そんなとき、このアルバムが来た。まさに、地獄で仏に会ったような、それだけ感激した。ぼくは、桂言葉ちゃんの大ファンで、というか、ぼくほど、彼女を理解している人間はいないので、この悲壮感溢れるエンディングソングを聴くと、それこそ、言葉ちゃんの苦痛が眼に浮かんできて、悲劇的な情景が、私を煩わる。全般にこのアルバムの曲はいいが、私のお気に入りの曲は、yozucaの『記憶の海』だ。あとは、Yuriaの『look at me』である。

あの、言葉ちゃんの、通学電車での恋は、本当に日本の学園文化ならではで、もう、二度とあの青春時代に戻れないと思うと、本当に、すべてが悲観的に思えてくる。まさに、失学園だ。そう、『School Days』のオープニングでの、44秒目での、言葉ちゃんの「背中腰に声かけたの、今は心の中で」という、あの歌と同時に、言葉ちゃんがうつむいてから「上を向いて歩こう」みたいな、顔を笑顔で上げるという、ああ、なんてかわいいんだ!しかも、彼女は、髪の毛も長くて美しく、ほんと大和撫子的な、おっとりとした、丁寧で、思いやりのある、やさしい女の子で、もし、あんな子が、私に「好きです」と告白してきたなら、もう私は、その場に崩れ落ちで、彼女の手を取って、
本当に、どうもありがとー!
と涙を流して感動していたことであろう。

私は、日本の学園で、彼女のような子に一度も会ったことはなかった。だから、アニメなのだろう。現実には存在しない女性。それは、まるでドストエフスキーの『罪と罰』でのソーニャのごとくである。ソーニャは、いわゆる「素人処女」であった。それは、『タクシードライバー』のジョディーフォスターにも当てはまる。だから、彼女には神聖さがあった。しかし、それは、キリスト教原理に基づく古びた解釈であり、私は「処女・乙女」の定義をデコンストラクトする。私にとっては、結婚をベースにした関係でなければ、いわゆる資本主義国家体制に毒されていない情事は、処女と童貞ということであり、いや、日本語では響きが悪い、というか、英語では「ヴァージン」か「メイド」である。それならば、性差別はない。それは、もともとは「独身」という意味である。つまり、ヴァージンの邦訳を「処女」ではなくて、「独身」にすればいいのである。イエスも「メイド」と呼ばれていた。だから、独身である私はメイドなのである。メイド喫茶は独身のための喫茶なのだ。だから、独身女性は、すべて神聖なのである。それは、性体験があるか否かで、処女性が決まるのではなく、結婚しているか否かで、処女か既婚かという二項対立概念こそが、真如なのである。小泉は離婚して独身となったので、彼はメイドでありヴァージンである。性体験によって処女性が決まるようになったのは、キリスト教が、性を敵視したからである。というか、最大の原因は、キリスト教が、セックスは結婚内にとどめるものだという言説をブチ蒔いたからである。だから、ヴァージンは未婚と同時に、性体験のない人のことを意味し、初夜によって初体験するというマニュアルができてしまったのだ。そのPSTDが、未だに欧米社会では、引きずられているのである。しかし、少なくとも、もともと、日本では、女性シャーマン、巫女(現代ではメイド喫茶のメイドたんか?)になるには、性体験の有無ではなく、結婚してないことが条件であった。性は問題ではなかったのだ。日本で少なくとも庶民の間で、性体験が問題視されるようになったのは、明治時代からである。だから、再び、ヴァージンが性体験の有無で、評価されるのではなく、結婚していないことでヴァージニティーが評価されるようにしなければならない。

そのためには、セクシュアリティーの解放が必至である。しかし、キリスト教原理主義の右翼は、セクシュアリティーは解放され過ぎ、いわゆる、彼らは、それを「解放」とは呼ばず、「乱れ」と蔑むのである。彼らはそうやって言葉をすり替え、言説によって弾圧する。ちょうど、彼らが女性の中絶の権利に反対するときに、「pro-life」と使ったように。その彼らの言説の才能には驚かされるが、そのディスクール、エクリチュールに惑わされないためにも、我々は独自の言葉を発明しなければならないのだ。たとえば、中絶の権利擁護派は、「pro-choice」というように。しかし、キリスト教原理主義者たちは、クリントン政権のときから、
「アメリカの性が乱れている、モラリティーが低下している」
と嘆いてきた。そして、ブッシュに強くロビーして、「結婚までの貞潔」を大統領が発言するにいたった。それは、アメリカの根本である個人の自由、セクシュアリティーの自由に反する発言であろう。それに、本当に彼らが主張するように性が解放されているのならば、私だって、とっくにそれに肖っているはずである。だが、どうして私のセクシュアリティーの解放が実現しないか、それは、男性至上主義的清教徒倫理的資本主義に人々が抑圧されているからである。性が「乱れ」ているのは、実際は資本主義の勝ち組だけである。メルセデスやベンベを所有している金持ちの男である。だから、勝ち組のテッド・ハガードのように、「ホモセクシャルは地獄に堕ちる」と言いながら、彼自身の性が「乱れ」ていたのである。つまり一番乱せることができるのは、金持ちであるが、その金持ちが、今度は庶民にセクシュアリティーの抑圧を強制するのである。それに、プロレタリアートは、一生かかっても「乱れ」は経験できない。ビルを払うのに精一杯だからだ。そして、その資本主義の勝ち組の言説は、「乱れ」は特権階級にしか享受できない、という差別化を計ろうとする魂胆である。シッダールタが王子時代に王子専用の雨期のハーレムで「乱れ」を享受しておきながら、五戒の一つであるbrahmacaryaを説くようなものである。つまり、ネオリベラル資本主義社会では、男が「乱れ」または「解放」を、金で買い取る社会なのである。それは、「解放」ではない。それこそが本当のイエスのいうところの偽善である。キリスト教原理主義者はパリサイ派なのである。実際は、性は「乱れ」ていないのである。それは、彼らが、クリストファシズムの政策を実現しようとする手段でしかない。しかし、セクシュアリティーの解放には、なにが先行されるか。それは、女性の解放である。男根至上主義の打破である。ファロゴセントリズムの打破である。彼女らを解放しなければならないのだ。

馬鹿なことに、ほとんどの女性は年上の男性を選ぶ。なぜ、年下と恋愛をしないのだろうか。それは、資本主義が男性至上主義を元にしているからである。駆け出しの男性は金がない。ホリエモンのようなよほどの金持ちでないかぎり、ほとんどの若い男はベンツに手は出ないだろう。だから、若い男は、同世代の女性に相手にされないのだ。特に結婚市場では同年齢の男はまったくだめである。資本主義に出たとたんに、女性は同世代の男性に対して冷たくなる。そして、年下の男性にたいしてはなおさらである。だから、男はある程度経済力がついたときには、すでにクソジジイであり、彼らは、若い女性を誑かすのである。だが、女性は、経済力が自立する前に、結婚してしまうのだ。つまり、女性に経済力がそれほどともわなくても、デートできるのである。なぜなら、デートでは、すべて男が負担するからである。そして、金持ちの男が、というか、その女性よりも経済力のある男性が、その女を魅了するのである。だから、ジジイが有利であるに決まっているのだ。そう、我々若者にとっては、ジジイとオヤジが、打破しなければいけない最大の敵なのである。しかし、経済力のない男はデートできない。若い男は大抵経済力がないのがオチだ。一回のデートで、ブロークになってしまうのでは、まったく光は見えてこない。

そもそも、なぜ女性はデートで、奢らないのであろうか。すべて、男性に奢らせるのか?なぜダッチになろうとしないのか。年齢、学歴が自分よりも低い男に興味を示さないのはなぜか。サマンサ・ジョーンズやミランダ・ホッブスのような、経済力が自分よりも低い若い男に興味を示す女性はいないのだろうか。あれは、最先端のニューヨークだから起こったようなもので、あのような男は、中西部では「pussy」と言って、蔑まれてしまうのである。女性にリードされる男は、マッチョ社会のアメリカでは、「pussy」となってしまうのだ。また、女性も、そんな男は、「へなちょこ、弱っちい」だと言って、相手にもしない。そう、彼女らも、男権至上主義に洗脳されているために、そういう考え方になってしまっているのである。それは、男性差別である。つまり、ジェンダーの役割がキリスト教によって固定化されてしまっているのだ。パウロの「男は家族の長であるべき」という言説に抑圧されてしまっているのである。セックスでも、イザナミからイザナギに声をかけてはいけないのである。新約聖書だけでなく、日本書紀まで男権至上主義の言説で書かれてしまっているのである。社会的地位の高い女性が、年齢の低い男性とはデートしたがらないのは、そういうマニュアルができてしまっているからである。それは、男権至上主義的資本主義の洗脳である。だから、その洗脳を解くには、男権至上主義的資本主義の消費社会の言説の打破である。宗教は阿片なのだ。そう、阿片で女性の脳を薬漬けにして、ヘッドギアをつけて洗脳するのである。オウムのように。そうやって、女性の性行動を決定づけるのである。つまり、セクシュアリティーのコントロールなのである。それが宗教である。だから、私は宗教を打破すれば、セクシュアリティーは解放されると訴えるのだ。

だから、高校の恋愛はいい、資本主義に冒されていないというのがいい。金銭も、ダッチだし、経済力を見せつけることもない。大人の社会は消費型表層社会であり、すべては、マニュアルという言説に従って恋愛も進むだけである。そして、どんな服を着ているか、流行の最先端にいるか、どんなブランドもののバッグを持っているか、どんな車に乗っているかで、大抵は判断されてしまう。どんな高級なレストランに連れて行ってもらえるか。マリリン・モンロー的に言えば、男がヨットを持っているか?ケネディーと不倫したように。そう、学園の恋愛は金銭では判断されないので、それは、共産主義的恋愛に近いのだ。車社会のアメリカでは、あんな恋は、ない。車が、すでに記号となってしまうのである。少なくとも日本の学園は、電車での恋が基本であり、それは地球環境にも優しく、排気ガスは出ない。とくに、ロスでは、スモッグがダウンタウンを覆い尽くしている。だから、16歳に戻って、電車での恋をしたい。『School Days』の女子高生は、ブランドバッグも、ルーズソックスも、持っていないし、茶髪でもないし、ポケベルも持っていないし、援助交際もしていないし、当時の資本主義によって開拓され搾取されてしまった女子高生の面影はない。あのときは、女子高生が、資本主義のシステムに組み込まれてしまったのが、とても耐えられなかった。資本主義の恋愛システムそのものが、巨大な援助交際なのだから。だから、私の学園での純粋な恋愛は胡蝶の夢となってしまった。たった16歳で女子は資本主義に冒されてしまったのである。私は、その世代なのだ。だから、それが消滅し、ゴア革命による携帯による恋愛、それを私は望んである。それをシクスティーン・フォーエヴァー。その願望というか、後悔が私を苛ます。そして、この「記憶の海」を聴いて、センチメンタル、いわゆる感傷に浸るのだ!そして、資本主義から脱却した女性は、私を見てくれるだろう。そうすれば、私は再び青春を回復できるのだ!

そう、女性の承認である。女性に見てもらいたい。『School days』は恋愛が女性主導だった。それが、素晴らしい。

あああ、16歳に戻りたい!Look at me!


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【2007/09/22 10:59】 | 文化
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School Days Ending Theme+ - School Days エンディング主題歌集 School Days Ending Theme+ - School Days エンディング主題歌集
アニメ、栗林みな実 他 (2007/08/22)
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かかっかーあかかっかかかっけけけけけーえっけけかかかけけけー!!!!!!!!!
久しぶりに法悦状態となった。オルガズムが全身を包んでしまった。とうとう、『School Days』のエンディングテーマ集が、配達されたのだ!長かった。やはり、アメリカからの注文だと最低二週間はかかる。長かった。本当に長かったではないか!もう感慨無量って感じなんでーす、言葉(ことのは)ちゃーん!

ああ、ここんところ、私は女性たちに拒絶されまくりだったんです。私が求めているのは女性の承認だというのに!あそこまで、拒絶されてしまっては、もう自暴自棄になるしかない、こんな世の中なんかクソ食らえでする。セクシュアリティーは、私にとっては、死活問題であり、それが拒絶されてしまっては、一体なにを頼りにして生きていけばいいんでしょうか?あなたには、わかりますかー?私はセクシュアリティーの解放のためにアメリカに来た。それが、第一の動機と理由である。そのためだけに私は生きていると言っても過言ではない。セクシュアリティーの解放が、私の天命なのだ。

天の摂理は、セクシュアリティー解放を求めている。それが、真理だ!
私は、言葉ちゃんが、彼女こそが、私のセクシュアリティー解放の鍵を握っていると思う。もし、あんな子に、告白されたら、それこそ、感慨無量になって、感激のあまりに泣き崩れるだろう。そして、彼女の前に跪いて、彼女の手を取って、
ほんとうに、ありがとー!
って。今までの嫌なこと、屈辱に満ちた人生、すべて帳消しにできるくらい。男尊女卑社会の日本での男権至上主義によるセクシュアリティーの弾圧、アメリカ社会の表層的な大衆消費社会、ネオリベラル資本主義原理に清教徒倫理に福音原理主義、いたるところでセクシュアリティーを抑圧されているので、私は自滅しかけた。私が親密だと思っていた女性たちに、否定され、拒絶され、私はなすすべもなく生きる目的を失い、自分の存在自体がニヒルに感じるようになった。辛すぎた。この苦しみは限度を越えていた。そうとう、やばかった。これは、実存をかけた闘争、そう、セクシュアリティーの解放は、私自身の闘いでもあり、セクシュアリティーの解放は、私のリベレーションでもあり、奴隷解放宣言でもある。それは、この腐敗した資本主義の奴隷制度からの解放である。

言葉ちゃん、私を救ってー!

て、なんで、最終回、放送中止になってるんだ。ふざけんじゃねー、バカヤロウ!!!!

【2007/09/20 11:25】 | アニメ
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BBCのニュースを見たところ、安倍が辞任表明したことにより、福田と麻生の一騎打ちとなったが、福田がどうやら次の首相になるようである。そして、中国では、もちろん麻生よりは、福田に期待しているのは一目瞭然である。なにせ福田は靖国神社参拝を否定したのだから。しかし、秋葉では、アニメへの理解が深い麻生のほうが、支持されている。私も好感度で言えば、麻生だ。なにしろ、麻生は『ローゼンメイデン』が好きなのだから。私もゴシックロリータのファッションは大好きだ。しかし、自民党政治そのものの破壊を望んでいる私にとっては、総裁選など関係ないことだが、どっちらしかないと言われれば、麻生だ。

そして、辞めてしまう安倍の評価だが、それは、米国と英国では大きく別れた。この記事によれば、アメリカでは安倍は高い評価を受けている。抜粋すれば、

ドーク教授はまず安倍首相の約1年に及ぶ在任の総括として「安倍氏は比較的、短い在任期間に日本の他の多くの首相よりもずっと多くの業績を残したが、その点がほとんど評価されないのは公正を欠く」と述べ、その業績として(1)教育基本法の改正(2)改憲をにらんでの国民投票法成立(3)防衛庁の省への昇格 −の3点をあげた。

となる。私は、安倍が個人的にやりたかったことは達成されたので、つまり個人的信条による政策は実現したので、彼自身は本望ではなかったのではないかと推測する。ただ、政治家というのは、国民が望んでいる政策を実行しなければならない国民の代表であり、国民の第一の下僕なので、まあ、下僕と言う言い方はまずいから「公僕」と呼んだほうがいいのだが、だから、政治家としては、彼は、まったく駄目だった。だから、辞任するのも当然と言ったら当然である。一方で、日本国民にはまったく評価されなくても、アメリカの国益に沿う政策を実現したので、当然、アメリカ政府から見れば、評価されて当然である。しかし、ほとんどのアメリカ人は、日本で何が起きているかさえも知らない。というか、日本がアメリカのいいなりの政治を行っていることさえ知らない。

私は国民投票法成立自体には賛成だが、安倍政権が通過した投票法には、反対だった。なぜなら、憲法そのものを賛否するかという選択しかなく、その条項ごとに賛否をする選択が国民に与えられていないからである。カリフォルニア州の憲法改正の州民投票では、条項ごと選択が与えられているというのに。

私は憲法9条の改正には反対だが、憲法24条の改正には賛成である。なぜなら、そこに結婚の定義が記されているからであり、その条項によって、同性愛者の婚姻は、自動的に禁止されてしまっているからである。合衆国憲法にも、結婚を定義する条項はどこにも見当たらない。憲法によって、セクシュアリティーの規範が定義されているというのは、それは人権擁護を掲げる日本国憲法の精神に反する矛盾である。したがって、私は、その条項を憲法から削除しなければならないと思っているのである。だからこそ、私は、条項ごとの賛否の国民投票法でなければ、賛成はしなかったのだ。よって、国民投票法の改正を、私は日本政府に望むのだ。間違った国民投票法を可決させてしまったため、私は安倍を評価しないのだ。

閑話休題、さて、イギリスでの安倍の評価はどうか。それは、もうズダズダであった。この記事によれば、安倍が辞めて、また派閥の回転式総裁選出体制に逆戻りするのではないか、という懸念が記されていた。そう、小泉が砕いた派閥論理を、また復活させてしまうのである。そして、次期政権を担うかであろう民主党にも、期待していないようである。抜粋すれば、

同紙は「日本は小泉氏のようにカリスマ性と政治的手腕を兼ね備えた政治家を必要としている。しかし、悲しいことに候補者は見当たらない」と締めくくった。

とある。つまり、日本には国際社会で充分に張り合える強力な指導者がいないということであった。それが、イギリスでは、もっとも日本の政治に対する批判と嘆きであった。それは、小泉がいかに国際社会で評価されていたか、ということであった。イギリスでは、サッチャーやトニー・ブレアが出た国なので、やはり、そういう指導者を歓迎するのだろう。

小泉は国連の常任理事国入りにも積極的に活動してアピールしていたし、また、サミットでも、G8の首脳の記念写真のときは、日本の首相はヨーロッパ人と比べると背も低いし、いつも端になるのだが、あれで私は、
「ああ、日本って、やっぱ世界のなかでは小国としてしか見られてないんだなぁ・・・」
といつも憂鬱になったが、小泉は、ホスト国のリーダーでもないのに、まったく動じず、まさに不退転の決意で、ブッシュやブレアまでを退けて、真ん中に立ってサミットの記念撮影した。普通は、ホスト国の元首が真ん中のスポットなのだが、小泉はそのスポットも取ってしまったのである。そういうイメージ的な部分においても、小泉のカリスマ性というのは発揮されたのだ。

つまり、アメリカの求めているものは、ポチであり、ポチであるなら、だれが指導者になろうが、傀儡的であれば、どうでもいいのであり、イギリスの求めているものは、二本足でどしっと立っているカリスマ性のある強力な指導者である。アメリカとイギリスでは立場が明らかにアメリカの方が上であるが、それでも、サッチャーは「鉄の女」として、超大国の世界最高権力者のブッシュ前大統領の背中をボンと叩くほどの、度胸のある指導者だった。「pat on the back」をやってみせたのであり、それはイギリス人のイメージに強く残り、サッチャーは、いいも悪いも、イギリスの歴史に名を刻むほどの偉大な指導者として、評価されているのである。残念ながら、安倍には、その度胸さえなかった。

そこが、このアングロサクソン系の二つの国での安倍の評価を別れさせた原因である。

【2007/09/17 01:32】 | 政治
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ああ、カードキャプターと握手しちゃいました。あ・・あんなに嬉しいことは、ひ・・久しぶりなんだなぁ。けっこうかわいかったなぁあああ。ねぇっ、あんなハキハキと話すなんて、とても好印象じゃないですか?自分の携帯の番号、差し上げようと思ったくらい、いや、口座番号でもいい!でも、財産がないのが、バレちゃうから、駄目でしょうね。あぁあ、駄目だよ、どうせ。ああ、社会がマルクス的であったなら、財産なんて恋愛に関係ないんだけどなぁ。


それにしても、私は憤慨している。『School Days』を観て、とても憤慨している。それは、伊藤誠が、不特定多数の女性とやりまくっているからである。しかも、女の子が妊娠だなんて。また、伊藤は、コンドームの着用をまともにしていなかったことを認識していたのだが、それでも、責任を回避しようとした。中絶は選択しないのだろうか。というか、日本では法的には選択はできないのだろう。母子保護法では、なんの障害の兆候もない母体に危険を及ぼさない胎児をおろすのは、犯罪になる。それは、堕胎罪となる。しかし、それでも、日本では、だいたいのケースでは、おろしても大丈夫であるのが、また事実なのだが。しかし、日本では、中絶は、原則として犯罪なのである。アメリカのような、中絶は女性の選択の権利というフェミニスト的な認識は低いのである。そしてそんなアメリカでも、保守的な男尊女卑を正当化するようなキリスト教原理主義派閥が、中絶の権利を女性から剥奪しようとするのだ。しかし、日本では、母体の保護以外では、中絶は犯罪なのである。それを見ても、日本がいかに男尊女卑社会だということがわかる。産むも産まむも女性の選択だ。男性が決定することではない。本当に女性が自分一人で選択できるのは、やはりシングルマザーであることだろう。雲南省のナーシー族は、すべての女性がシングルマザーだ。決定権がすべて女性にある、政治、祭司、家事、教育、仕事、男性は、ただ一日中ぶらぶらと酒を飲んで麻雀をして、遊んでいるだけである。それこそが、女性社会である。そんな社会ならば、私は引き蘢っていても大丈夫だろう。他の男が酒とギャンブルをしているときに、私は部屋に閉じこもってアニメを観ていることだろうに。そして、女性のお呼びがあるときに相手をするという、そんな天国のような生活はない!

たしか、石原慎太郎の『太陽の季節』が出た1955年も、中絶がピークの年でもあった。その年の中絶件数は100万を突破したのだ。つまり、100万の女性が中絶をした、譬えるなら、東京の人口の約10分の1が、中絶をしたことに匹敵するのである。そして、その小説の中でも、女性が妊娠させられて、中絶手術を受けるというものがある。だから、『太陽の季節』は当時の社会状況を反映しているのである。

『School Days』の場合は、現代版の太陽の季節であるが、違いは、主人公の男がDQNではなく、男らしさを否定した、ニュータイプの男性ということである。そして、彼は、不特定多数の女性とセックスをする輩なのだ。だが、実際に現実ではそうなのであろうか。このアニメは現代の社会状況を反映しているのだろうか。

結論から言えば、そうである。まずは、高校生の性体験率であるが、女性のほうが上回っている。しかも、田舎のほうが、性体験率は高いという結果が出ている。それは、田舎でも、とくに東北地方が性体験率は高く、女子の性体験率は、二人に一人という結果が出ている。やはり、寒くては、体温、ぬくもりを求めて、抱き締め合うのだろうか。そして、男子の高校生の初性交率は、女子に比べると少ないというのだ。そんな不公平なことがあるだろうか!

それは、どういうことか。それは、男子のほうが、不特定多数の女子と性交しているということである。つまり、ハーレム気取りの好色一代男が沢山いるということだ。そして、それが、必ずしも、DQNということはなくなったということだ。だから、伊藤誠というキャラは、現在の男子高生そのままを代表しているようなものなのだ。

また、セックスの確率でも、携帯のメール派と、パソコンのメール派のどちらが高いか、というアンケートがあったが、それでも、メール派のほうが圧倒していた。つまり、携帯のほうが、はるかに性交率が高かったのである。詳しくはこちらの記事で。そして、このアニメの写真も、二人の可愛い女の子たちが携帯を持っている。携帯のメールで恋愛もすれば、セックスもする。そして、恋愛よりも、セックス三昧となった。つまり、携帯はセクシュアリティー解放への鍵なのである。そう、ゴア革命によって、インターネットが大衆化されて、そのおかげで、日本の高校生の性行動のパターンを完全に変えてしまったのである。つまり、人間の性生活を変えてしまった責任は、ゴアにあるのである。当のアメリカでは、パソコン派なため、セックスの体験率は減少傾向にある。これが、携帯によるIT革命であったならば、キリスト教原理主義はそこまで勢力を伸ばさなかったであろうに。アメリカは道を誤った。携帯によって革命を起こすべきだった。だから、私は、16歳のときに、学園で携帯によって、恋愛したかったのだ!携帯はセクシュアリティーを解放してくれたはずだったのに!ああ、失学園、ここまできて私を苦しめるのか!

携帯革命は日本の政治をも変えた。小泉が登場したときは、女の子たちが、携帯で写真をパチパチと撮っていたのが、とても印象的であった。ファシズムのヒトラーやムッソリーニの周りには、絶えずカメラマンたちが群がっていたが、それが、現在では、すべての携帯所持者がプロパガンダのマスコミとなったのであり、それが、日本の小泉ポピュリズムに貢献したのである。それを、友人に転送したり、ブログにアップロードすれば、ネット上で、政治ワイドショーとなるのだから。また、小泉は、写真に撮られやすそうな、写真を撮りたい人物であり、かつてのケネディーのようなフォトジェニックな人物であったことも、人気の要因の一つである。

だから、伊藤誠のような男は、携帯のメールによって、性交しまくり、好色一代男として、快楽の中に心酔していくという、まさにハーレム、出家する前のシッダールタのような贅沢三昧だ。

私はシッダールタが非常に憎い。あいつは、ゲロ以下だ!夏の雨期の離宮では、そこは妓女たちだけがエンターテーメントサービスをシッダールタ王子のためだけに行っていたと言う。つまり、現代でいえば、金持ちの権力者が、夏のヴァカンスにどっかの避暑地の別荘に行って、そこで絶世の美女たちとパーティーを開いて、ランチ騒ぎしているようなものである。それでいて、すべての贅沢をやり尽くして、出家して、今度は、
「女性への執着を捨てろ」
と説くのである。そんな不公平なことはない。

しかし、そのようなハーレムが未だに続いているのが、この男性至上主義社会である。なぜ、女性は、もっと多くの男性とセックスしないのだ。女子高生の初体験率が50%なのに、男子高生のは、30%台だなんて、そんなふざけたことがあるだろうか。それは、
「女は淫蕩であることは、良くない、倫理に反している」
という、男性至上主義の洗脳のためである。明治時代以前の農村の女性は、不特定多数の男とやっていた。そう、女性も好色であることが当たり前だったのである。だから、性体験率は、イコールだったことであろう。また、「助兵衛」という言葉は、男女両方ともにも適応されたのだ。

しかし、明治時代になって、それは、もっぱら男性だけのものとなった。それは、儒教にキリスト教倫理が付加されて、男尊女卑思想が徹底化されたためである。また戸籍制度による家制度も徹底された。それが、「貞子」という女性像を作り出してしまったのだ。だから、女性が好色であることは、下品と見なされるようになったのだ。そして、それが、現代の高校生にも、こうして受け継がれてしまっているのだ。だから、男性のセックス率は、女性に比べて少ないのである。もっと、女性も、積極的に、そして、どんどん男性に声をかければいいのではないか。それでこそ、男女平等というものだ。

伊藤のような不特定多数の女性とする男がいるのなら、女性にもいてもいいはずだ。そう、サマリア女のように。今度はサマリア女の時代だ。ジゴローの時代は終わりだ。『Sex and the city』のような、淫蕩な女性を、私は心から望む。そのためには、男尊女卑のキリスト教的清教徒倫理観を打破することである!セクシュアリティーの解放は女性解放、または同性愛解放へとつながる。


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【2007/09/16 12:41】 | ジェンダー
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わたしはレンタルお姉さん。 わたしはレンタルお姉さん。
川上 佳美 (2007/01)
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くーくくくっくくく。レンタルお姉さんか?産經新聞でもそれは紹介されていた。レンタルお姉さん専用のブログもあるそうだし。そんなサービスが日本にあったとは、これには健康保険が適応されるのだろうか。引きこもりを救う女神だという。そうだ、私には、レンタルお姉さんはいなかった。中学でイジメに遭い、不登校になり、高校の時にはキモオタとして女の子たちに避けられたため、引き蘢った。そして、それまで娯楽でしかなかったアニメが、唯一の現実逃避の神器となったのだ。



私は、お姉さんが欲しかった、小中高とお姉さんが欲しかった。実は、今でも、欲しい、とても欲しい。しかし条件がある。それは、私が16歳になることである。だから、遺伝子工学の発達が不可欠なのである。そして、17歳のテッサ大佐、または、小笠原祥子さまなどが、お姉さまになってほしいのだ。ああ、レンタルお姉さんか。アメリカでは、このサービスはないもんなぁ。そういう面では、アメリカより日本のほうが進んでいる、というか、日本のほうが引きこもりやすい環境なのであろう。とくに、都市部の日本ではそうであろう。アメリカでは、なにせ、18歳になると、親は子どもを家から追い出す。というか、子どもが自ら親を捨てて家出をする。また、アメリカでは18歳で選挙権を獲得できるので、18歳は立派に政治参加できる成人である。だから、子どもはアパートで一人暮らしをして、大学に行くか、働くかするのである。つまり、自立させられるのである。だから、ニートは、発生しにくい社会なのだ。日本の教育の最大の問題点は、子どもに自主性を持たせないことである。それが、ニート社会を作ってしまうのである。いわゆる男社会と年功序列の腐った制度が、自立できない若い人々を作り出してしまうのだ。だから、私はゆとり教育に賛成なのだ。

私も中学のときの唯一の救いが、『ああ女神さまっ!』であった。家で、そのOVAを見て、このような女性が出現することを絶えず願った。それは、クリスチャンがキリストの降臨を願うかのようなものであった。ヴェルダンディが私を救ってくれるはずであった。彼女こそ、私のお姉さんになるはずだったんだ!だから、私はドイツに行く夢を捨てきれず、ドイツに旅行に行ったのだ。ヴェルダンディに会うために。だから、ヴェルダンディの三姉妹のノルン三姉妹は、もともとはリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』に登場するのだが、そのアニメがきっかけで、私はワーグナーに熱狂し、ワーグナーの崇拝者となった。だから、私は元バイエルン王国の首都であったミュンヘンにも行ったのだ。だが、憧れのドイツに行ったものの、結果は無惨なものだった。蓋を開けてみれば、ライン川は、ヨーロッパでもっとも汚染の進んだ川の一つであった。だから、女神と妖精たちは、跡形もなく姿を消してしまっていた。だから、私は緑の党を熱烈に支持するようになった。それが、私の環境保護支持の原点である。そして、私は緑の党から立候補したラルフ・ネーダーをかつてのアメリカ大統領選で、支持した。つまり、お姉さんの実現である。環境美化は、それを実現するための政策なのだ。環境を美化すれば、お姉さんが戻ってくるはずなのである。その信念のもとに、私は彼を支持したのだ。

まあ、だから、結局は、私は自分探しとともに、お姉さん探ししているのである。それが、私の旅なのであろう。私は引きこもりが極端となって、渡米という行動に結びついた。まるで、圧縮したエネルギーがビッグバンによって一気に放出するように。それが、引きこもりの究極奥義であった。そして、私は現在でも、お姉さん萌えに奔走する。テッサ大佐、小笠原祥子さま、それらのお姉さまたちを私は探しているのである。中学のときのお姉さんは、パリス先生であろう。そうすれば、私はイジメから救われた。私の厭世家としての、対人恐怖、人間不信の原点は、すべては学園のイジメなのだ。男性至上主義をベースとした男尊女卑の社会、それは皇室典範にも反映されている、そんな社会の学園、つまり男言説によって、私はいじめられた。男になることを拒否したのだから。しかし、アニメでは、男になることを拒否した主人公が、女性のアプローチを受けるという、まさにフェミニズムが完成された世界が広がっているのである。だから、現実の人間ではなく、アニメのキャラに私は陶酔するのである。特に、お姉さんキャラ、または、セクシュアリティーの解放されたロリータに。現実の世界は、駄目。現実の世界では、小泉というニュータイプの指導者が腐り切った男社会の根源である万世男系の天皇家の伝統を破壊してくれると思ったが、それは頓挫したため、私は、もう二度と日本には戻らないであろう。

しかし、私は、『わたしはレンタルお姉さん』という本を読んで、それには愕然とさせられた。なんと、無理矢理にも寮に入居させられ、まあ、寮に入居させられるのは、反対ではないが、それは逆に支持するが、だが、そこでは、テレビもPCもなく、アニメが観れない地獄なのだという。それは、まるで、アニメオタクにとっては、刑務所にぶち込むようなものである。そう、テレビとPCは、オタクにとっては、かかせないものだ。絶対不可欠なものである。だから、その彼らにとっては救いであるアニメキャラの女性に萌えることを奪うということは、人権侵害の何ものでもない。社会復帰には、そんな手段が必要なのであろうか。それは、ショック療法としかいいようがなく、ロシア経済は、ショック療法によって、ズダズダとなり、今でも、共産主義の懐かしさに人々はうつつを抜かしてしまうのである。ショック療法は、引きこもりの精神を崩壊させるかもしれないのだ。それは、自殺を招くかもしれない。アニメがあったからこそ、私はこうして今でも生きているのだ。二次元の完全否定には、とうてい賛成できない。そもそも、三次元のお姉さんが二次元のアニメキャラに取って代われることは断じてない。なぜ社会復帰にアニメを否定しなければならないのか。それは、ビッグブラザーが、人民に対してセックスを統制するようなものである。そう、シッダールタが悟りを開くためには、セクシュアリティーを否定しなければならない、つまり女性に対する欲情を否定しなければならないと、思想統制するようなものである。まるで、レンタルお姉さんは、どこかの原理主義教団の「勧誘お姉さん」そのものだ。または、どこかの過激なシスターや尼僧となんら変わりがない。

私は、引きこもり自体には反対ではない。というか、独立している成人が、引きこもりを選択するのであれば、それはそれでいい。ただ、成人が親に依存して、引き蘢っているのは、問題である。いわゆるニートがそれに当たる。それは、親を苦しめることになるし、迷惑をかけてしまっている。独立した成人が山に引き蘢ったり森に引き蘢って修行したりと、シッダールタも、そのようなことをして、悟りを開いたわけであるし、社会から引き蘢ることは、真理を見据える上でも大切なことである。問題なのは、独立もせずに引き蘢っている人である。また、親が他界していないというのも、原因であろう。親がいなければ、引き蘢るところはない。よって、独立して、社会生活をして、給料を稼いで、引き蘢るか、または、投資して、莫大な財産を築いて引き蘢るか、それか、坊主のように世捨て人となって、引き蘢るか、それらならば、引きこもりは他人に迷惑をかけることはない。また、レンタルお姉さんは、そういう人たちは対象にしていない。他人に依存してしまっている引きこもりが問題なのであろう。

私は、労働忌避者ではあるが、労働をしなければ、生活してはいけないし、また労働がなければ、経済は成長しない。だから、労働は社会奉仕の面もあることを否定できない。しかし、それらの類いの社会奉仕のすべてをコンピューターかロボットに任せられる時代が到来するのは、まだまだ先のようである。きっと、人々が労働から解放されないかぎり、ニートは、罪となってしまうのである。

私は、引きこもりではなくても、お姉さんは欲しい。レンタルお姉さんは、引きこもりしか対象にしていないのだろうか?私のような一般人も相手にしてくれないのだろうか。ああ、お姉さん、私をいたわって〜。でも、サービスだから、サービス費用は取られるし。やはり、私の望んでいるお姉さんは、資本主義に基づく「レンタル」という費用がかかるサービスではなく、ポットラック、いわゆる北米先住民のような「蕩尽」のようなものであり、それこそ真のエロティシズムというべきものであろう。そもそも、「姉」というのは、身内か、親密な関係の年上の女性のことであり、このようなビジネスのような金銭フェテシズムに基づいた冷めた関係に、「お姉さん」と名付けるのは、少し抵抗を感じた。つまり、「レンタル」と「お姉さん」の言葉の組み合わせは、オクシモーロンなのである。もちろん、その言葉を発明した文化的人物のセンスは称賛するが。

私の望んでいるのは、真如のお姉さんだ。それこそが、「姉萌え」だ!


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【2007/09/10 02:20】 | 生活
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USATODAYによれば、アメリカでは、約15万人の男性が専業主夫と言われている。日本でも、その増加傾向にある。しかし、社会では、まだそんな男は、女々しいとさえ言われている。とくに南部のアメリカでは、そのような男は迫害されるであろう。ジェンダーロールというのが、キリスト教原理主義によって、固守されているのだ。たしか、パウロのバカヤロウだと思ったが、彼が、キリストが教会の長であるように、父親が家族の長となるべきである、と言ったのだ。それによって、ふざけた言説をこの2000年間、ばらまいてきたのである。それこそ、キリスト教的男性至上主義の原点であったのだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はすべて男性至上主義であり、その腐った倫理観が世界を覆い尽くしてしまい、また仏教と儒教も日本に浸食し、そして、さらに明治時代になってキリスト教の倫理観が輸入され、結婚に「不倫」というものが持ち込まれてしまった。そして、高度成長期に女性は家にいるべきものとされ、男は外で稼ぎ、家に帰っては酒を飲んで暴れ回り、ちゃぶ台をひっくり返すと言う、そう、まるで星一徹のような、ふざけたクソジジイが、家庭を支配していたのである。星一徹こそが、男性至上主義社会の集大成といえる存在であろう。スポ根の隆盛期のときである。

だが、今では、男性は解放されつつある。女性が働いて、男性が家で、家事をするというライススタイルが珍しくなくなった。それは、アメリカでは、西海岸や東海岸など、リベラルなところで、見られるのである。アメリカのABCの『Wife Swap』という番組でも、保守系の家族と革新系の家族が妻を交換して、どういうことが起きるかという、いわゆる「Reality Show」と呼ばれるヤツで、その衝突がとても面白かった。キリスト教的な古い価値と不可知論的な、新しい価値、それがまさに父親像であったのだ。また、母親像でもある。母親がバリバリのキャリアウーマンで、その子どもたちは、自由奔放で、また色々な文化にも触れているので、とてもオープンである。

しかし、いくらリバラルな家族に生まれようが、子どもにとっては、親というのは、どう考えても重圧でしかなく、片方が家で家事をするのは子どもの心理に良くない。親は、両方外で働いていたほうが望ましい。そうすれば、親の干渉は起こらないし、子どもは自分で考え、決断することができる。とくに16歳になれば、親が共働きで外にいるのがいいし、また、親の片方が家にいるのであれば、子どもは外に出て、アルバイトをして、アパートか寮で暮らすか、それか最善なのは、異国に留学することであろう。この時期になると、子どもは親とまったく顔を合わせたくない。せいぜい一年に一回ぐらいが限度であろう。あと2年で18歳になるのだし、そのときに選挙権が出て来るので、もう立派に政治参加できていないといけない年齢なのである。だから、16歳のときから、2年間、一人で考える力、いわゆる自主性を身につけなければならないのだ。


だから、親の保護下にあるのは、せいぜい15歳までであり、あとは、自分の考えで生きていくことである。それに、この時期の子どもは、親の存在をとてもうっとうしく感じるときであり、自我が形成されるので、そのときに親は手を引くべきである。「獅子の子落とし」という諺があるが、この時の子どもは自ら崖から突き落とされたいと望んでいるのだから、また自ら飛び降りたいと思っているのだから、だっこしたままでは、自主性はまったく育たないのである。しかし、日本という精神的発展途上国では、その意識がとても薄いため、また年功序列のシステムもあって、年輩者の指導が生活の面まで口うるさくアドバイスする。それは、あきらかに個人に対するハラスメントだ。そして、日本国憲法で保証されている個人の自由に対する冒涜である。だから、子どもは自主性を持てない。アメリカ人のように、生活面では、自分で考えて行動しているということは難しいのである。ジジイが余計なこと、細かなことまでに口出しするという、そういうジジイを排除してくれるのが、ホリエモンや小泉であったはずであった。自民党でも、口うるさい中曽根や宮沢は議会から排除された。その双方とも総理大臣経験者だったため、頭が上がるものはいなかった。だから、小泉は強硬手段に出て、彼らを衆議院から排除したのである。その勇気ある行動は、どれだけ、私に爽快感を与えてくれたことだろうか!

「獅子の子落とし」とか、「可愛い子には旅をさせよ」という素晴らしい格言があるにもかかわらず、それらが、日本の社会では、まったく適応されていないのだ。年功序列の腐り切った社会、アメリカでは、仕事での恩師はいるが、たとえ恩師であっても、基本的には競争相手だ。それがボトムラインである。それに、プライベートな部分では、こちらがその意志がない限り、口出しはしない。いたって個人主義である。だから、ジジイも若い人も、お互いに人として尊重しているのである。

話はそれたが、専業主夫が出てきたことは、今までの男性至上主義社会の言説がメルトダウンしてきた兆候であり、とても高い評価を与えるが、やはり青春時代に突入した子どもにとっては、親は親であり、自分の青春から親を排除したいというのは、彼らの欲するところである。かつては、母親の干渉が、子どもの自主性を潰してしまったが、今度はオヤジの干渉が子どもの自主性を潰してしまうことになると、どちらも子どもにとっては、受け入れがたいことである。家族というのは、モラトリアムに過ぎないのだ。「親がなくとも子どもは育つ」というのだから。ジジイ言説を砕くことが、個人の自由の尊重を促すことになるのである。そうすれば、子どもは自主性を発展させることができるのである。

【2007/09/09 01:44】 | 政治
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今まで、音信不通であったが、久々に私のニューヨークの親友からコンタクトがきて、そして彼のブログによれば、最近テキサス州で、強制的に公立小学校の生徒に毎朝朝礼として、テキサス州に対する忠誠の宣誓を義務づけられる法案が可決されたそうだ。しかも、宣誓文の中には、「One state under God」という、いわゆるキリスト教的な教義が挿入されているのである。「One nation under God」という国家に対する忠誠の宣誓は全国の小学校で毎朝生徒が右手を胸に手を当てて、宣誓文を暗唱することは知っていたが、まさか、州に対しても子どもたちが忠誠を誓わなければいけないとは。まったく、馬鹿げている。憲法修正第一条に、政教分離の原則が掲げられているではないか。その部分においては、日本のほうがいい。日本の公立学校では、始業式や終業式、または卒業式、入学式などでしか、国家斉唱はしなければいけないが、それは、あくまでも年に一度が二度であり、特別の式典でしか強制されないし、しかも、それで「軍国主義」として裁判になったりするほどである。しかし、アメリカでは、小学校では、毎朝である。それはもうファシスト教育としか、洗脳教育としかいいようがないであろう。そういえば、『Jesus Camp』という映画を見たが、あれも、子どもを福音主義のキリスト教原理主義者たちが、洗脳していくという、とても恐ろしいものであった。そして、その映画にテッド・ハガードも出ている。彼は、のちに、ホモセクシュアル疑惑で、失脚することになるが。やはり、性欲を清教徒倫理で押さえ付けまくっていると、いけないとうことだ。セクシュアリティーは解放したほうがよい。

アメリカでは、未だに小学校では宣誓が毎日のように行われている。一刻もはやく、このようなことは、廃絶されなければならない。そもそも、政府と国家に忠誠を誓うことは、おかしい。市民が結成して築いた政府なのだから、市民の自由をもし侵害するようなことになれば、市民は革命権を有するし、または、他の国家に亡命する権利を有するのが当然である。私だって、日本を捨てて、アメリカに渡ったのだし、それは、当然に生まれながらに持っている自然権なのである。国家に忠誠を誓ってしまうことは、他の国の市民になれないということである。国籍選択の自由は、基本的人権である。しかし、それに背信するようなことが、毎日アメリカの学校で行われているのである。

まあ、もともとは私のテキサスの親友であったが、彼は、新しくニューヨークで自分のコンピューター技術を試すために、移動したのである。アメリカ人というのは、なにか仕事を覚えると、それをトップの世界で試してみたいというチャレンジャー精神が旺盛なので、そこの部分は、やはり世界に誇れる素晴らしい気質であろう。それで、忙しくなって、彼はしばらくの間、私にコンタクトしてこなかったのである。だから、そんな彼がコンタクトを取ってきたということは、だいぶニューヨークで落ち着いたということなのであろう。

彼は大学時代の私のアメリカ政治情勢の師匠みたいな人で、彼自身は当時はリバータリアン党員であった。また彼の周りの人間は20代で州の議会に立候補する人がたくさんいた。だから、彼のサークルはとても政治的だった。だから、それで、私は、結婚廃止を政策に掲げる政党の存在を初めて知ったのである。よって、私は、彼から教わったその信念を引き継いでいるのである。彼自身は、そこまで結婚廃止にこだわらなくなってしまったが・・・。

【2007/09/02 12:25】 | 政治
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