休憩室のニュースを見たが、共和党のアイダホ州を代表する連邦議員が猥褻疑惑で、やり玉に上げられている。ラリー・クレイグ上院議員である。彼は、空港のトイレで、警察官に対してセックスを誘うジェスチャーとして、足を相手の足にすりよせる痴漢行為をしたという。それは、ゲイ・セックスを求めるサインだという。そして、現行犯で逮捕されたそうだ。
彼は共和党の保守で、同性愛の権利や結婚の政策などに反対してきた。しかし、蓋を開けてみれば、かれは同性愛セックス嗜好者だったのだ。まさに、完全に偽善者ということだったのだ。アイダホポテトをボイコットするアメリカ人も出てくるであろう。また、アイダホ州は、モルモン教の強いところでもあるので、この事件は、アイダホ州民のプライドを傷つけるようなものだったであろう。『ナポレオン・ダイナマイト』で一時注目を浴びただけに。
そういえば、ブッシュ大統領に毎週月曜の朝に精神的アドバイスをしていた福音主義派のテッド・ハガードも、ゲイ疑惑で、福音主義教会から失脚した。彼は、同性愛を徹底的に排撃するような演説を行ってきたが、彼自身が、同性愛セックス嗜好者のために、社会的ステータスを失ってしまったのである。教会と政治、この双方から共和党はもう国民の失望を決定的にしてしまったであろう。テッド・ハガードは、イギリスの著名な進化論学者のリチャード・ダウキンズと議論したことでも知られている。そのドキュメンタリーがBBCにある。
まあ、セクシュアリティーは個人の自由であるから、どうでもいいのであるが、それを排撃してきた社会的影響のある人が実は!というのが、やはりスキャンダルであり、話題を呼ぶことなのであろう。「泥棒捕まえてみれば我が子」というより、「痴漢捕まえてみれば我が夫」と言った方が、ぴったりではないか。というか、「痴漢捕まえてみれば我が父」というのも有り得るだろう。
彼は共和党の保守で、同性愛の権利や結婚の政策などに反対してきた。しかし、蓋を開けてみれば、かれは同性愛セックス嗜好者だったのだ。まさに、完全に偽善者ということだったのだ。アイダホポテトをボイコットするアメリカ人も出てくるであろう。また、アイダホ州は、モルモン教の強いところでもあるので、この事件は、アイダホ州民のプライドを傷つけるようなものだったであろう。『ナポレオン・ダイナマイト』で一時注目を浴びただけに。
そういえば、ブッシュ大統領に毎週月曜の朝に精神的アドバイスをしていた福音主義派のテッド・ハガードも、ゲイ疑惑で、福音主義教会から失脚した。彼は、同性愛を徹底的に排撃するような演説を行ってきたが、彼自身が、同性愛セックス嗜好者のために、社会的ステータスを失ってしまったのである。教会と政治、この双方から共和党はもう国民の失望を決定的にしてしまったであろう。テッド・ハガードは、イギリスの著名な進化論学者のリチャード・ダウキンズと議論したことでも知られている。そのドキュメンタリーがBBCにある。
まあ、セクシュアリティーは個人の自由であるから、どうでもいいのであるが、それを排撃してきた社会的影響のある人が実は!というのが、やはりスキャンダルであり、話題を呼ぶことなのであろう。「泥棒捕まえてみれば我が子」というより、「痴漢捕まえてみれば我が夫」と言った方が、ぴったりではないか。というか、「痴漢捕まえてみれば我が父」というのも有り得るだろう。
新しいアメリカ人の女性像。いわゆるジェネレーションXの女性である。1962年生まれ、民主党のオバマ大統領候補とそれほど年齢がかわならい。とくに、この『Everyday is a winding road』という楽曲は素晴らしい。歌詞を抜粋すると、
私もわかる。同じ世代の女性と合う度に、彼女らには子どもがいて、自分の人生なのに自分がマルクスのいうところの「alienation」いわゆる疎外ということである。ちなみに、「異邦人」を意味するalienを、動詞化したものがalienateであり、その名詞形がalienationである。だから、自分の人生において自分が異邦人となっている状態なのである。それは、カミユの「異邦人」というべきか、そしてその不条理さに「はー」とため息をついているのである。だから、私も、
「ああ、16歳になんで戻れないんだ!」
と後悔の念に苛まされるのである。
しかし、彼女はマイケル・ジャクソンの元で修行した。マイケルの楽曲の『I just can't stop loving you』で、その相方役で、歌っているのだ。しかも、87年の日本のコンサートでも、マイケルとシェリルの共演が見られるのだ。だから、これはかなり貴重な映像である。しかも、シェリルがまだ、歌手としてデビューする前の映像なのだから。まさに80年代の表層的な感情がこもっていないケバケバしい化粧とファッションで、歌っているのは衝撃であった。
「この人も若い時は資本主義そのままだったとは!」
と驚いてしまった。シェイルと言えば、自然体の女性として有名である。綺麗でもなく、どちらかというと不細工な、いや、まあ、実に平均的なアメリカ人女性であり、それが30歳で、デビューするという、つまり30代の独身女性、あたらしい女性像となり、まさに90年代のアメリカの文化的アイコンとなったのである。それは、冷戦が終わって、アメリカが民主党のクリントンとゴアによって、インターネット革命が起き、それに続いて、30代の未婚女性が初めてカルチュラル・アイコンになるという時代の吹雪を彼女は提供してくれたのだ。だから、彼女は、もちろん、私にとって憧れの人であり、もっともカッコいいアメリカ人の中に入るであろう。
He's got a daughter he calls Easter
She was born on a Tuesday night
I'm just wondering why I feel so all alone
why am I a stranger in my own life?
私もわかる。同じ世代の女性と合う度に、彼女らには子どもがいて、自分の人生なのに自分がマルクスのいうところの「alienation」いわゆる疎外ということである。ちなみに、「異邦人」を意味するalienを、動詞化したものがalienateであり、その名詞形がalienationである。だから、自分の人生において自分が異邦人となっている状態なのである。それは、カミユの「異邦人」というべきか、そしてその不条理さに「はー」とため息をついているのである。だから、私も、
「ああ、16歳になんで戻れないんだ!」
と後悔の念に苛まされるのである。
しかし、彼女はマイケル・ジャクソンの元で修行した。マイケルの楽曲の『I just can't stop loving you』で、その相方役で、歌っているのだ。しかも、87年の日本のコンサートでも、マイケルとシェリルの共演が見られるのだ。だから、これはかなり貴重な映像である。しかも、シェリルがまだ、歌手としてデビューする前の映像なのだから。まさに80年代の表層的な感情がこもっていないケバケバしい化粧とファッションで、歌っているのは衝撃であった。
「この人も若い時は資本主義そのままだったとは!」
と驚いてしまった。シェイルと言えば、自然体の女性として有名である。綺麗でもなく、どちらかというと不細工な、いや、まあ、実に平均的なアメリカ人女性であり、それが30歳で、デビューするという、つまり30代の独身女性、あたらしい女性像となり、まさに90年代のアメリカの文化的アイコンとなったのである。それは、冷戦が終わって、アメリカが民主党のクリントンとゴアによって、インターネット革命が起き、それに続いて、30代の未婚女性が初めてカルチュラル・アイコンになるという時代の吹雪を彼女は提供してくれたのだ。だから、彼女は、もちろん、私にとって憧れの人であり、もっともカッコいいアメリカ人の中に入るであろう。
買い物に行ってきたが、そのとき、たまたま女の子の後ろを歩いていたのだが、彼女は振り返って、私をすごい形相で睨んできた。しかも、彼女の眼は、私を、
「つけてくるんじゃねー、ストーカー」
というようなものであった。しかも振り返ってきた女の子は、なんと容姿端麗だったので、さらにショックだった。私はただその場で茫然と立ち尽くすしかなかった。私がオタクに見えたためであろうか。私がベッカム様のようなイケメンだったら、絶対なあんなことはなかったはずだ。そうだ、あの白い眼、それは、私が日本の学園でいつも受けていたものだ。その忌々しい記憶を思い起こしてしまった。学園時代は女の子に避けられたので、だれとも話せなくなった。とても耐えられなくて自閉症気味になってしまった。本当は女の子たちととても話したかったのに。しかも、この世でもっとも好きだった彼女らの承認を得られなかったこと、そして避けられたことに私は打ちのめされた。それは悪循環を生み、とうとう引きこもりとなった。それは、変人を人間扱いしない文化だったからである。その文化に彼女らは洗脳されてしまったのだ。
「あの人、変」
それで、私の女の子の間での評価は決まってしまった。私はそういう日本を忌み嫌っていた、小泉が出るまでは。日本のシステムそのものを破壊する指導者が出てくるのを私は期待していた。革命が起きることを期待していたのだ。変人である指導者が、日本の膿みを除去してくれることを待望したのだ。だが、私が日本にいたころは、とうとうそれは起きなかった。
そもそも私がどうしてそこまで日本を嫌悪するようになったか。それは、『School Days』の世界を想像していただければ、一目瞭然であろう。このアニメを観ると、私の中学時代の苦難を思い起こさせる。イジメという忌々しい記憶を思い出してしまったのだ。
「つけてくるんじゃねー、ストーカー」
というようなものであった。しかも振り返ってきた女の子は、なんと容姿端麗だったので、さらにショックだった。私はただその場で茫然と立ち尽くすしかなかった。私がオタクに見えたためであろうか。私がベッカム様のようなイケメンだったら、絶対なあんなことはなかったはずだ。そうだ、あの白い眼、それは、私が日本の学園でいつも受けていたものだ。その忌々しい記憶を思い起こしてしまった。学園時代は女の子に避けられたので、だれとも話せなくなった。とても耐えられなくて自閉症気味になってしまった。本当は女の子たちととても話したかったのに。しかも、この世でもっとも好きだった彼女らの承認を得られなかったこと、そして避けられたことに私は打ちのめされた。それは悪循環を生み、とうとう引きこもりとなった。それは、変人を人間扱いしない文化だったからである。その文化に彼女らは洗脳されてしまったのだ。
「あの人、変」
それで、私の女の子の間での評価は決まってしまった。私はそういう日本を忌み嫌っていた、小泉が出るまでは。日本のシステムそのものを破壊する指導者が出てくるのを私は期待していた。革命が起きることを期待していたのだ。変人である指導者が、日本の膿みを除去してくれることを待望したのだ。だが、私が日本にいたころは、とうとうそれは起きなかった。
そもそも私がどうしてそこまで日本を嫌悪するようになったか。それは、『School Days』の世界を想像していただければ、一目瞭然であろう。このアニメを観ると、私の中学時代の苦難を思い起こさせる。イジメという忌々しい記憶を思い出してしまったのだ。
しかし、これは新しいイジメと言ってもいい。なにしろ、ゴア革命後の携帯電話による恋愛でもあるが、携帯によるイジメでもある。今まで、多くの映画は、インターネットによる恋愛を模索してきた。『ブリジット・ジョーンズの日記』でも、会社の上司と社内メールで、性的関係が成立した。そして多くのアニメも、携帯でのメールでの恋愛を取り上げてきた。しかし、携帯でのイジメというのは、そう多くはなかったのではないか。私は学園時代にいじめられていたが、このようなイジメは、私は一度も経験したことがなかった。そのことでも、結構新鮮であった。というか、現在の日本の学園でのイジメの形態がどういうものか、ということを知る上でも、この『School Days』なるアニメは、とても貴重である。アメリカでも、「インターネット・ブリング」というものがあり、つまりインターネットでのイジメである。つまり、パソコンを使ったイジメである。だが、日本でのゴア革命、まあIT革命なのだが、それはパソコンではなくて、携帯を中心にしたものなので、日本の学園では、携帯イジメが発生したのであろう。そう、アメリカでは、Internet bullying、日本では、cell phone bullyingなのである。で、とくにそのような通信技術を使ったイジメは、女の子の間で熾烈を極めるという。それは、日米双方でも同じである。男子のイジメでは、身体的なものが多いが、女子であると、コミュニケーションでのイジメとなるのだ。ポケベルもピッチも携帯も、すべて女子が中心となって普及したものである。だから、通信手段における連帯感もイジメも、女性特有とでも言うべきか?しかし、イジメの根本はかわらない、それは、社会的弱者がイジメを受けるということである。
私は桂言葉ちゃんのように孤立していた。スポーツが苦手というのが、仇となった。どの球技に参加しようとも、足手まといにしかならなかった。バスケにしろサッカーにしろ、パスもしてくれない、ただ走ってバテるだけ。だから外で遊ぶということはしなかった。体力がなかったからだ。そして、私は言葉ちゃんのように運動神経がまったく駄目で病弱だった。今でも病弱だが、あの時はもっと病弱で体育の授業はよく休んだ。というか、体育の授業のある日は、欠席することもしばしばあったし、出席はしても早退したり、保健室に行って、休んだりしていた。だから、スポーツができる女の子にとても憧れた。女性がスポーツ万能であっても、市民の人権を脅かす野獣なる心配もないし、ましてはレイピストになることは絶対にない。しかし、男子には、まったく憧れなかった。男子は野獣でしかなく、相手を打ち負かすことしか考えていない。できることなら、すべての男子を湾岸戦争に行かせたかった。男というものは、体力で優劣をつけたがる。それに中学は成長期なので、当然成長の早い奴と遅い奴の差は歴然とする。つまり、その差は、まさに大人と子どもである。そして体がまだ子どもの中学生は、イジメられる。女子の間でも、身体的なイジメはなかったにしろ、スポーツの出来ない子は、やはり見下されていた。ただ、女の子は、スポーツができなくとも、男にモテるので、スポーツ一つが人間の優劣を決めるということは、ないようである。しかし、男社会では、身体的に強くなければ、まず女にモテることはないのだ。そう、弱い者は、女の子の承認を得ることができない。セクシャルな承認は望めないのである。だから、社会的弱者は身体的なイジメを受ける。それが世の中というものだ。だから、私には厭離しか起きなかった。
スポーツというものは、本来は、連帯感を生み、スポーツの下手な人間をサポートして、一緒に練習してくれるものではないのか?ところが、私の小学、中学は違った。スポーツの下手な奴はイジメられた。スポーツマンシップのかけらもなかった。また、体育教師も、本来のスポーツを教えることから逸脱して、生徒を「しごく」という、いわゆる自民党と教育委員会の手先となって、思想統制を行おうとする野獣でしかなかった。たとえ、教育機関のバックが自民党だろうが共産党だろうが、政治的に思想が違うといえども、私にとっては、どっちがどうだろうが関係なく、どちらも、生徒虐待を容認しており、「男になるため」の教育方針を徹底させていた。それは、高圧的で、絶対服従であった。我々に発言権はなく、疑問をいだくことも許されなかった。疑問を持てば、鉄拳が飛んできた。高圧的な指導者の下では、イジメは発生しやすい。それは、教諭が生徒に対してパワーハラスメント、またはアカデミックハラスメントを行うことであり、まるでファシズム社会をそのまま学園に持ち込んだようなものだ。いわゆる命令形の彼らの口調には、反感を覚えた。そして、彼らに口答えすれば、ゲンコツやケリが飛んできた。それは、体罰の領域を越えたものだった。殴る蹴るの暴行を受けたのだ。だから、いつかは、彼らを全員死刑台に送ってやろうとさえ思った。少なくとも、彼らは教員免許を剥奪され、刑務所に行くべき奴らだと確信していた。アメリカで、そんな暴行を生徒に加えたら、絶対に刑務所行きである。保証する。奴らの教育スタイルをアメリカに来てやってほしいものだ。彼らは、犯罪者となるのは、間違いなし。しかし、日本の社会で、いくら保護者にそのような教諭の不正行為を訴えようとも、
「私の学園時代はもっとひどかったんだぞ。それにくらべれば、お前のときなど、まだ生易しい方だ」
と言って、なにもしなかった。PTAでも、体罰は問題化されなかった。つまり、今の男は昔から比べると軟弱化してきたので、そのような軟弱な男をださないためにも、男として鍛え上げなければならないと言う、いわゆるブートキャンプ的な通過儀礼として、そういう方針をとっていた古き腐敗した世代が、私らの保護者だったために、イジメや、不登校などが続出したのである。彼らはエルビスの世代なのに、ファシズム式教育に異論を唱えていなかったのは、実に不思議だ。だから、日本の古き世代の意識は腐敗し切っているのである。なにも、我々は兵士になるために学校に行ったのではない。そもそも、憲法9条が出来てからは、軍隊はなくなったのだから、その意味がない。少年院のような修正機関でもないのだから。だが、今でも丸刈りを強制する腐敗した学校があるし、まるで30年代40年代のファシズムの伝統をそのまま引き継いだ教育機関が目立った。そういう学校は、国連の裁判所で訴えるべきである。まあ、多少意識が変わってくるのが、ジェネレーションXの世代であろう。今の高校生の親の世代はだいたいがオバマ候補やシェリル・クロウと同じような世代なので、戦争中に生まれた世代ほど、腐敗してはいないはずであると信じたい。スポーツ根性、いやゆるスポ根、つまり男根の世代、いや、団塊の世代に対しては、心から憎んでいた。そういう世代の人間が、我々の教諭の中心だったためである。
体育では、スポーツの出来ない子、とくに団体競技、バスケやサッカーなどでは、「雑魚」とされる。「役立たず」とも言われる。そして女の子が注目するのは、球技の得意な男だ。そして、そのお山の大将は、そのことで得意となり、役立たずをいじめるのである。そう、足手まといはどこに行ってもいじめられるのだ。会社でもそうだ。仕事のできない人間はいじめられる。アメリカでは、イジメというよりは、ハラスメントと言った方が的確だろうか。また、社会構造的にイジメが確認されるのだ。社会的弱者は搾取し続けられ、ワーキングポアとなってしまうものである。だから、そうならないためにも、労働組合が必要なのである。いわゆるストライキを起こす権利が必要だ。アメリカでは、退役兵士たちが、適切な報酬を受けてないとして、連邦議会の前でデモを起こした。しかし、デモ隊は、連邦軍に鎮圧された。彼らは共産主義に洗脳されたとして、弾圧されたのである。第一次大戦の英雄にもかかわらずだ。そして、その鎮圧部隊の隊長が、のちのGHQ最高司令官のマッカーサーだった。そのときから、団結権に対するアメリカ政府の対応は厳しかった。修正第一条に保障されている権利にもかかわらず。なんでも、「赤」と決めつければ、権利は侵害されたのである。それに、労働組合はマフィアとつながっているというステレオタイプがあるし、マッカーシー時代に流行ったマーロン・ブランドの『On The Waterfront』という映画でも、腐敗した労働組合が暴力団同然として描かれる。つまり、共産主義とマフィアとのコネがあるというプロパガンダが全米に浸透したのだ。外からはソ連、内からはマフィアと、二つの悪と結びついているとされた。そして、レーガンはその立役者であり、最後には大統領となってネオコンサーバティズムとネオリベラリズムの双方をアメリカに植えつけ、労働組合を徹底的に排撃した。だから、アメリカでは、労働組合のイメージは悪く、世界ではメーデーが労働者の日であるというのに、アメリカとカナダでは、労働の日は9月なのである。それも、社会主義の影響力を恐れてのものであった。そして、アメリカではじつに80%の労働者は労働組合を持たないのである。よって、我々は生活もろくにできない給料で働くしかない。私は同僚にいつもストライキを起こそうと促しているが、彼らは、
「家族がいるから、子どもを育てなければならないから」
と言い訳をして、団結してくれない。しかし、「家族がいるから、子どもを育てなければならないからこそ、賃金上昇のためにストライキを起こすべき」ではないのか?しかし、彼らは「それはそうだけど」と言っても、結局はなんだかんだ言って団結してくれない。やはり組合を作るほどの人数が集まらなければ、弁護士も雇えないのだから。
日本も、小泉と竹中によって、ネオリベラル社会になったのだから、そして派遣社員が増えているので、労働組合の力は弱くなり、賃金上昇に歯止めがかかってしまうのである。まさに自然淘汰のダーウィニズムの法則にしたがって、解雇されるような状況を作り出してしまうのだ。経済がよくても、一人一人の生活は良くならないのである。だから利益の追求よりも、労働者の賃金の上昇である、それが主眼となるべきである。それこそが福祉というものだ。しかし、小泉は福祉のシステムまでもを破壊する政策を行った。それが、彼の最大の功罪である。私は日本の膿みを除去することを望んだのであり、福祉を破壊するような政策は望んでいなかったのに。これでは、日本は資本家の社会となり、労働者の価値は暴落する。労働者である事自体が負け組となってしまうのだ。そう、利益は福祉に還元されなければならないのだ。みんながみんな仕事ができるわけではないのだから。みんな天才ということはない。技能には、かならず下手がいる。その下手を助けるのが、福祉ではないのか。もしくは、技能者がなんらかの事故で技能を失ってしまった時に援助するのが福祉ではないのか。しかし、どうも社会は、下手をいじめるという方向にしか向かっていないようである。そう、社会がイジメなのであり、教育現場でも、そのイジメの前兆が確認されるのである。日本のシステム自体が、イジメを作り出しているのである。しかし、私は、そこから逃れられなかった。義務教育は成績が悪くとも、強制的に行かされる。退学はないのである。だから、不登校か引きこもりという手段しかなかったのだ!しかし、今では働かなければ、食えない。引きこもりが許されているのは、よほどの金持ちか、坊主ぐらいだろう。だから、金のない私には、引きこもりにはなれない。そして、今でも、賃金の低さに大不満であり、あれで生活してゆけという神経が理解できない。だから、私はストライクを起こそうと思っているのだ。そうでもしなければ、資本家天国となり、労働者はさらにイジメられる。そう、根本的には、鬼教官の体育の授業となんら変わりない社会なのである。だから、革命が必要なのである。
私の中学では音楽と美術の授業が予算の都合のためにカットとなったが、私が一番カットを望んでいた授業は体育であった。だが、体育、いわゆるスポーツは、イジメを決定的にさせた授業でしかなかった。音楽と美術でイジメが起きるとは聞いたことはない。楽器が上手な人も下手な人も皆平等であった。とくに美術では、ジャクソン・ポロックの抽象画というものがあるので、そこで上手い下手は無関係となり、ただ表現となった。
「恋に上下の隔てなし」
ということわざがあるが、
「美術に上下の隔てなし」
というのが、より適しているであろう。しかし、音楽では、無調音楽となると、どうしても理解しがたくなるので、平等主義というのは、あまり徹底されない。だが、なぜ体育がそこまで重要視されるのか。普通ならば体育の授業を削って英語に割り当てる方が合理的であろう。この国際化社会においては。どうして教育委員会は、体育にそれほど執着しているのだろうか。それはぶっちゃけて言えば、戦争の名残である。ファシズムの名残なのである。ヒットラーのベルリンオリンピックの影響を受けて、日本政府はファシズム体制を築くために、体育がとくに重要視された。つまり戦争をできる体を作り上げることが、国家の目的だったのである。でなければ、体育は美術と音楽とともに不必要な学問として、予算をカットされていたであろう。そうして、戦争への準備は着々と進んできたのである。だから、憲法9条が改正されても、学生が万全の体で戦争ができるように、体育はカットの対象にはならなかったのである。部活動においても、それは反映される。そして、体育系の部活では、顧問が部員に暴行を加える、いわゆる「根性を叩き直す」ことである。実に野蛮であった。なぜ、文化系よりも、体育系の部活に入ることが奨励されるか。それは、兵士になることが、もっとも徳とされているからである。日本には、軍隊がないにもかかわらずだ。マッカーサーによって、帝国軍は解体されたにもかかわらずである。明らかに憲法9条改正のために、学生を教育してきたというしかない。つまり、教育の面でファシズムは続いていたのである。だから、私は、文科系の部活に入ることを奨励する。当時は、文科系に入るのは、オタクたちや、スポーツセンスゼロ、恋愛の敗者、童貞、処女、キモメン、おちこぼれ、または、よほどのお嬢様系といわれていた。まあ、私は引き蘢っていたので、文科系だろうと体育系だろうと、関係なかったが。ただ、帰宅部という感じで、帰宅して、引き蘢ってアニメを見ていただけである。
パリス・ヒルトンの『Nothing in This World』の中学生の少年も、成長が遅いため、悪質なイジメを受けた。私も彼と同じく、悪質なイジメを受けた。私はクラスで最も体力のある奴にいじめられた。奴には到底かなわなかった。体力の差が違い過ぎた。そして彼に続いて多くの男子がイジメに参加した。そして、女の子も、私を助けることなく、私が彼女たちに近づくと、私を見下して、避けた。そう、その時、女の子というのは、強い男性に憧れることを知った。どんなに悪くてもだ。強いものこそ正義、勝者が正義の世界、それは、ソフィストのトラシュマコスの語る事実であった。DQNがモテる世界だったのである。それは、まるでチンパンジーと同類の世界である。獣とまったく変わらない。強いオスがメスと交尾をする権利を獲得するのである。しかし、我々は文化を持った人間である。オスが身体的に強かろうが弱かろうが、セックスしてもいいはずだ。女性が弱かろうが強かろうがセックスできるではないか。もじもじしていて、内気で、おとなしそうな子、どじっ子、運動神経の駄目な子、眼鏡っ子、またスポーツが出来る子、頭脳明晰な子、背の高くて体力のある子、ボーイッシュな子、セクシーな子、おしゃれな子、媚を売る子、積極的な子、そう女の子は千差万別なタイプがいても、モテるのである。だが、男はどうだろうか。内気で、モジモジしていて、おとなしそうで、どじで、スポーツが苦手、残念ながら、そういう男はセックスの対象にならないのである。それこそが男性至上主義の洗脳による言説というものである。男は身体的、または性格的なことで、ヴァラエティーに乏しく、いや、ヴァライティーが受け入れられない社会なので、また女もその偏見を身につけてしまっているので、そういうヴァラティーに富んだ男は、
「あの人異常、キモイ」
としか思えないのである。
だが、革命はスタートしくれた。そんな私たちにも、希望の光が見えてきた。変人小泉は、あれだけの人気を集めたのだから、時代が確実に変わってきたのである。しかし、2000年代にそのような指導者の登場は、私にとっては遅すぎた。私が、思春期の頃に、出て欲しかった指導者であったのに。そう、16歳のときに。小泉はDQNタイプではなかった。石原慎太郎のような悪質なDQNではなかった。石原慎太郎は、50年代60年代のハンサムな男像を築いた男性至上主義者であった。そして、今の女性は、今でも、彼の築いた男像の男に自慰行為するのだ。石原の築いた男像は、キムタクのようなDQNにも受け継がれ、芸人にいたっては、ビートたけしなど人を平気で殴るような喧嘩ばかりしていた下町のヤンキーのDQNが、日本の芸能界の頂点である。『太陽の季節』の男どもは皆DQNである。だから、私は、彼のようなジジイはとっととくたばってしまえとさえ思っている。日本の男社会という癌の元凶である。それにくらべて小泉は歌も歌うし、踊りも踊るし、華奢で、筋肉質でもない。髪の毛もロンゲで、実に文化的であり、道理でオタクの大きな支持を取り寄せたわけである。ファッションでも、サブカルチャーたるロリータ系が増えてきたわけだし。そういう変人を受け入れる土壌が形成されてきたというわけである。それには、やはりシステムの破壊者が必要だったのだ。
ヴァライティーに富んだ男を嫌う女たち、それを私は思春期から知っていたのだ。女性の許容範囲の狭さは、男性至上主義の反映である。というか、日本には「ゆとり教育」がなかったせいである。ゆとり教育は、もっとバラエティーに富んだ自由学芸的な、人間構築に役立ったはずである。しかし、私の受けた教育は、男性至上主義的であった。だが、しかし、私は、そのセクシスト社会の教育機関において、男であることをも否定した。
「男は強くならなければ行けない」
という言説に私は反対だった。その言説を使って洗脳する学校と、洗脳を受けた生徒たちとは、かかわらないと決めた。だから、私は引き蘢った。しかし、言葉ちゃんのような読書っ子ではなかったので、そこの部分は違う。私は、読書も嫌いだった、というか読書は20分もすると、眼が疲れるので、ゲームとかテレビを観て、時間をつぶした。私には、パリス・ヒルトンはいなかった。だから、私は救われなかった。あのような先生がいてさえくれれば、私は引きこもりとなってはいなかったであろうに。ああ、パリス先生さえいてくれれば。だから中学生に戻りたい。そして、自由を謳歌したい。
女子がデートしたい男子の順位というのを、黒板に書いていたことがあったが、あれで私は最下位であった。衝撃的だった。もう一人最下位なのがいて、そいつは軍事オタクであった。あれは人権侵害であろう。そんなことで男の価値が決まってしまうのである。やはりトップだったのは、最もモテたのは、スポーツ万能な男だった。そう、強い、喧嘩の強いヤンキー的で凶暴なDQNだったのである。その性質はレイピストと大してかわらない。凶悪なレイプの常習犯からは、とてつもない異常な量のノルアドレナリンとテステストロンが検出されるという。それは、スポーツをするときに沢山分泌されるホルモンなのだ。そして、ステロイド漬けの男を想像すれば、それは明白であろう、彼らがどれだけ野獣的であるか。つねに喧嘩を求めているのだから。そして、喧嘩に勝てばセックスである。だから、彼らには、セックスと暴力が結びついているのだ。それらを分けて考える知能を持っていないのである。暴力に強ければ、セックスするチャンスがより増えると言う比例関数が、彼らの思考を支配していたのである。だから、彼らは、野獣となんら変わりがなかったのだ。タスマニアン・デビルとレベルの差がないのだ。しかし、アニメオタクは、セックスと暴力を分離している存在なのだ。ガンディーのように非暴力なのである。だから、オタクは、DQNよりも、はるかに進化しているのだ。
そう、女性がもっとも恐れなければいけないのはオタクではなく、実はスポーツ万能のレイピストなのである。ホルモンの量を考えてみれば、それは自明の理である。私は暴力は嫌いだ。スポーツは嫌いだ。スポーツと暴力は同じである。スポ根と男根は同じである。男根とは、「男性根性」の略である。つまり、根性とは、「男根性質」を略した言葉なのである。だから、「根性」という言葉は、差別用語扱いされなければいけない、いわゆるハラスメント用語に認定されなければならないのだ。日本の先輩から後輩に対するハラスメントとして、
「貴様、根性あんのか!?」
と罵声を浴びさせて金的を握るというものがある。もっとも卑しい学園文化である。そんな根性を基礎とする野球やサッカーやバスケなど見ても、必ず乱闘がある。去年のワールドカップ決勝のジダンのヘッドバットもそうだ。スポーツは暴力の代替なのである。スポーツでももっとも卑劣なのは、格闘技であろう。あれは男を野獣にするだけである。なぜエホバの証人が格闘技を禁止しているかが、理解できる。スポーツというのは、戦士を教育するために作られたものだ。それが源流である。古代ギリシャからそういう認識があった。だから、スポーツに熱中する人は、切れやすい。酒場でサッカー観戦しているファンは必ず騒ぎを起こす。フーリガンがその典型である。そして、そのほとんどが酒に強いDQN体質の人間である。
日本のとある大学のアメフト部が、カラオケ屋で、女性をギャングレイプした事件があった。逆に、アニメオタクのレイプ事件なんて、聞いたことがあるだろうか。酒井順子が言う「おたくくん」とは、優し過ぎる人たちであり、なおかつとても繊細であるため、女性にすら声をかけることにもすごく緊張してしまうタイプの人間なのである。またおたくくんは傷つきやすい。それなのに、オタクくんを見ると、ただシャイなために、ゲイと勘違いしてしまうのだ。
「ヘルメスくんってゲイ?」
とどれだけ訊かれたことか。しかし、それは、ヘトロ男性に対しては、もっとも無礼な発言である。しかし、ひとたびヘトロと知れば、女性は、足をすくませる。そう、女性が恐れるのは、DQNではなく、おたくくんである。それはなぜであろうか。答えは簡単だ。洗脳されているからである。DQNと話す時はレイプ率が格段と高くなる。しかし、女性は男にリードされ、服従したいと思っている。よって、デートのときは、女性はあまり知的な会話をしない。フランスでは、知性を求められるというのに、なにせポスト・モダンの国なのだから。そしてDQN男も、女性を服従させたいと思っている。女性が恋愛をリードしていくという発想が彼女らにはないのである。だから、女性はDQNと付き合うしかないのである。当たり前である。DQNは、暴力ですべてを解決する。また、暴力で、おたくくんを圧倒するので、勝ち目はない。女性がオタクと対面する前に、DQNによって妨害される。そして、DQNに、
「オタクには、気をつけろ」
と洗脳されるのである。この世は暴力社会だ。そのDQNの暴力は、結果的には、ヴァージニア工科大学のチョー・スンヒの事件へと発展してしまうのである。彼の受けたDQNからの仕打ちは実に冷酷なものであった。そして女の子たちからも嘲笑された。そして蓄積されたルサンチマンが大学で爆発してしまったのである。だから、それを解決するには、女性がもっと積極的になるべきである。女性の積極性が問題である。
しかし、酒井順子は、まったく逆のことをいう。
「だから、オスの負け犬がメスの負け犬に声さえかければ・・・・・。(335ページ)」
と言っているが、実はオスの負け犬はアプローチをしているのだ。しかし、声をかけたら気持ち悪がれるのである。その事実をまったく見落としている。また、女性から男性をリードしようとしないのもおかしい。なぜ、女性は黙っているのだろうか。なぜ待つのだろうか?サインを見せても、それで終わりであり、今度は男が誘ってくるのを待っているのである。私も『ガンダム0083』を観たが、あの金髪の女は、どうして面と向かって告白しなかったのだろう。それになぜ自らデートに誘わなかったのだろう。彼女は、コウが明らかにサインを出しているのに、そして自分もコウに気があるにもかかわらず、ずっと待っていて、逆切れしてしまったのだ。私は、
「なんと馬鹿な女か!」
と思った。彼女のコウに対して吐いた言葉は、
「意気地なし」
である。私は、
「お前が言うことかよ!意気地がないのはお前の方だ。どうしてお前から誘わないんだ!」
と憤激した。向こうが動かないならそっちが動け!Make a move!だろ!私は、とてもおかしいと思った。『Zガンダム』では、女性たちがあれほど積極的だったというのに、『ガンダム0083』の女は、実に男性至上主義的な行動を取る。宇宙世紀であるのに。日本書紀によれば、イザナミがイザナギを誘ってセックスしたら、奇形児が生まれたとされる。よって、正しいセックスとは、男が女を誘うものだとした。しかし、これは当時男性至上主義的宗教であった中国思想をもろに受けたものであろう。神話の言説でさえ、性愛では、男が女を誘うものとされているのだ。女は積極的ではなく、受動的のほうが正しいとされ、それが言説となり、圧力となってしまった。
不倫でもそうだ。金持ちの既婚男性は、独身女性と不倫する。しかし、金持ちの既婚女性が独身男性と不倫したという話は聞かない。そういう女性は、同じ既婚男性とセックスするのである。それを「スワッピング」とアメリカでは呼ぶ。それはどうしてか。女性は結婚経歴がなくても、恋愛できる。しかし、男性は結婚経歴がなくては、恋愛はできないのである。ブリジット・ジョーンズも結局離婚歴のある男と結ばれた。だから、あの女は、男性至上主義をいまだに引きずっているのである。そして、その類いの女は、未婚男性に対して、
「あんな年にもなって、結婚経験がないなんて、やばいんじゃない?」
と気持ち悪がってよってこないのである。そんな不条理なことはない。私が、
「小泉は独身だった!」
と叫ぼうが、彼女らは、
「でも、小泉さんは、離婚したんでしょ?子どももいるんでしょ?」
というのである。そして、彼女らにとっては、そこが重要なポイントとなること自体、理解できない。確かに彼には妻や子どもがいたが、現在は独身だ。しかし、彼女らは、「独身」という言葉を使いたがらず、「バツイチ、divorced」というのである。だから、私は、小泉を、「独身」とひたすら呼んだ。そして、私の粘りもあって、とうとう彼女らも、小泉が事実独身であることを認めた。私は英語で、「メイド」または「ヴァージン」を使った。中世英国の文豪チョーサーは、イエス・キリストを、「メイド」または「ヴァージン」と呼んでいた。そう、「メイド」も「ヴァージン」も「独身」という意味だったのだ。だから、「メイド喫茶」は独身喫茶なのである。独身女性たちが、お客様をもてなすのである。メイドは巫女でもあり、メイドはローマのヴェスタの巫女であり、ヴェスタの火を守り抜いた。また皇居の賢所にも、内嘗典という巫女が、絶えず火を守っている。それも、メイドの原型であろう。だから、小泉にも、神懸かり的なものがあった。あの陳腐な赤羽駅にあれほどの大衆が集まってきて熱狂したのも、そのメイド的、あるいは巫女的な力があったとするものもいる。つまり、独身のほうがスピリチュアルというのだ。だから、私は、独身であり、独身は結婚経験者だろうが、未経験者であろうが、独身であることにはかわらないのであり、平等なのである。結婚歴で男を判断するほど馬鹿げたことはない。だから、既婚女性だって独身男性と不倫すればいいではないか?なぜ積極的にならない。つまり、彼女らは、平均的な男性に安心するということか。アメリカの平均男性は、離婚しているか再婚しているかのどちらかなのだから。
ということは、結婚が独身男性に対する男性差別を生み出しているのであり、結婚が最高の人間関係というキリスト教の言説がまかり通っているという結論にしか結びつかないであろう。いわば結婚歴で、男性の人格の判断材料となってしまうのである。そう、なぜ性別があるか、それは結婚するためにあるという屁理屈なのである。その根拠のないイデオロギーを国民は無様にも信じ切ってしまっているのだ。だから、私はその言説を砕くために、結婚そのものを廃止しなければいけないと思う。アイスランドでは、60%以上の新生児が、結婚外で生まれてくる。そう、結婚はもはやマイノリティーなのである。また北欧のスウェーデンやノルウェーやデンマークでは、50%といったところか。フランスが30%ぐらいか。だからPACSという制度ができた。やはりリベラルで精神性が高い国ほど、不条理な結婚制度は消滅傾向にある。逆に結婚に固守するキリスト教原理主義社会、イスラム原理主義社会、日本のような腐敗した戸籍社会、それらは精神性が最低である。とくに不倫した男女を石打という死刑に処すという、それほど野蛮な社会ほど、結婚に対する執着が異常なまでに強いのである。
「結婚してなければ人に非ず」
というふざけた言説である。つまり、個人よりも、家族に属していなければ、人ではないのである。家族なくして人に非ずなのだ。しかし、私ははっきりと断言する!
個人は家族より優先される。
それが真の個人主義だ。「可愛い子には旅をさせよ」という通り、子どもが16ぐらいになったら、海外に送ればいい。というか、保護者から離れて生活しないと駄目であろう。そうしなければ、子は、個人主義というものを身をもって学ぶことはできない。自分が保護者に依存してしまい、また自分が保護者になったときに、子どもを依存させてしまう。とくに男であったなら、マザコンになる危険性がある。そう、たいていのイスラム社会の男のようになってしまうのだ。だから、16で親元を離れるのが一番いい。そうしなければ、真の個人主義者にはなれないのである。アメリカでは、16で、自由の象徴である自動車免許を取得できるのだから。
まあ、話はそれたが、女性がもっと積極的になることである。男が内気なら、ドカッと前に座って気持ちを伝えるべきである。女性はどんなに内気であっても、男性から声がかけられる。しかし、男性が内気では、優しすぎては、女性からまったく声がかからない。どうして内気な男性は恋愛ができないか?答えはいたってシンプル、女性は内気な男性に声をかけないからである。だから、酒井順子が、「男が声さえかければ・・・」というため息は、まったく馬鹿げているのであり、言語道断なのである。彼女は、そういうオタクのような内気な男性が増えているのだから、「女がもっと積極的にアプローチすれば」と言わなければならなかったのだ。女が声をかけないから、萌え系アニメのキャラに走るのだ。そこに救いを求めるのだ。なぜなら、現実の女性はオタクに対して優しくないからである。萌え系オタクは結局のところは女性の優しさを求め、そこに癒しと安らぎを得ようとしているのである。しかし、彼女らは、
「現実の女性ではなくて、アニメの女なんかを想像して抜くなんて、なんてキモイ。汚らわしい」
としか思えないのである。優しい萌え系オタク男を、そういうふうな偏見でしか見れないのは、この男性至上主義の「男はタフでなければならない」という言説によって精神が冒されているからだ。女は声をかけないもの、受動的なものという男性至上主義的思想から脱却していないセクシストなのである。なにしろ日本社会に監禁されている女性だ、日本のジェンダー格差指数は、世界112カ国のうち、79位であり、柳沢の「産む機械」発言は、そのような発言をしても、職務になんの障害もでない腐り切った社会であることを、露呈している、そのような精神性の低い社会では、どうしても女性の味方といえども、男性至上主義の言説に影響を受けてしまうのである。要するに、そういう腐敗した社会は捨てて、欧米、とくに西欧、北欧に移住するべきであろう。そこには、社会をリードする積極的な女性が数多くいるのだから。私の思春期にパリス先生のような積極的な女性がいたら、また私のクラスメイトの女子たちが、積極的であれば、いじめられっ子は救われていたのだ。
そう、これからは、暴力を振るう男性は、まったくださいということを、女性はこれから言わなければならない。レイピスト気質はDQNのほうがはるかに高い。それが事実だ。しかし、彼らはレイピストと糾弾されることはない。なぜなら、彼らは正義であり、また女性も彼らの性欲が満たしてくれるからである。強い猿は、メス猿といつでも交尾できるように。「一に押し、二に金、三男」というふざけた言説があるが、それはもうお仕舞であろう。今度は、「三女」ともなるべきである。今では金を持っているCEOの女性が出てきたのだし、女性が積極的にならなければいけないのだ。「一に押し」というが、それはオタクくんがすれば、ストーカー行為となる。だが、オタクはストーカーにはなりにくいのではないか。オタクは心優しいため、セックスはあくまでも合意に基づこうとする人権意識が非常に高い。そして、一度断られたら、二度とアプローチをかけない。人権侵害となるからである。だが、それでは、「オタクは意気地がない」と決めつけられる。人権意識がDQNよりも高い人格者だというのに。しかし、それでも、ストーカーとオタクは結びつきやすく、DQNとストーカーは結びつきにくい。それは、男性至上主義の洗脳のためである。DQNは、セックスにこじつけるためには手段を選ばない。たとえ女性の人権侵害となろうともおかまいなし。ストーカー行為はどちらだろうか。それはDQNである。彼らのほうがストーカー気質があるのは明らかだ。しかし、その真実は、石原のようなDQNの支配する社会のため、覆い隠されて誤魔化されているのだ。真実というのはいつも、そうやって隠蔽されるのである。
しかし、『School Days』の主人公はDQNタイプではない。それが石原の処女作である『太陽の季節』とは、違うところである。『太陽の季節』では、アプリゲール、いわゆる戦後の若者の頽廃ぶりを描いているが、『School Days』は、冷戦後、ゴア革命が起きて、小泉政権によって日本がネオリベラル社会になってからの若者の、高校生の生活を描いているのである。伊藤誠は、DQNでもないし、不良でもないし、ヤンキーでもなければ、喧嘩もしないし、酒もタバコも博打もしないし、ドラッグもやらないし、帰宅部みたいだし、イケメンでもないし、ぼーっとしていて、リーダー気質でもなければ、競争的でもないし、積極的でもなければ、三船敏郎のような筋肉質な野獣的な男でもない、いわゆる男らしさを捨てた男である。どちらかというと、目立たないが、それでも女の子の友だちがやけに多い。ああいう優しい男がモテるようになったのは、日本もよくなってきたということか。そして、ムカつくことに、奴を好きな子がたくさんいるなんて、ゆ・・許せない。悔しい。しかし、彼には、戦後世代の若者のような頽廃ムードはまったくなかった。そういう男が恋愛の悲劇を『太陽の季節』なりに見舞われるという、まったく新しい物語なのだ。そう、おとなしくなった男が、ドロドロした人間社会に恋愛を通じて巻き込まれているのである。太陽族の男は、女を殺してまでも、ペニスを障子に突き立てて、男性至上主義をアピールするが、『School Days』は、男性原理が否定されてしまっている。女性主導で恋愛が進んでいくのだ。とはいえども、キリスト教的モラルのために、主人公たちが、そのために犠牲になっていくというところは、DQNには最初から犯罪者としての性質があって犯罪がおきたが、現代の高校生には、そのようなものはなく、社会のシステムとモラルによって、潰されたといってほうがいいであろう。それが、このアニメのテーマであろう。つまり、逃れられない恋愛システムによって、そのシステムの犠牲になってしまうのだ。それに、今では、こういう社会分析もある。
小泉人気は、最近の格差社会からではなく、もっと息苦しい根強い日本の伝統への反抗から来ている。それは、男尊女卑の儒教とキリスト教の影響のため、そのもっとも悪い部分が混じり合って築かれた明治からの伝統であり、その伝統に、私は吐き気を覚えた。私は、とにかくすべてにおいて保守的な日本が嫌いであった。イジメ社会、学校内での受験競争、タバコと酒のヘドロ社会、ルーズソックス、ポケベル、表層的な消費社会、特にその表層的な恋愛システム、それらに対する憎悪と怨念を一気に吹き飛ばしてくれる存在、それが小泉であった。やっと革命家が現れたかという感じであった。だから、こころから、この腐敗した日本社会を潰してくれることを願った。彼が、
「自民党をブッ潰します!」
と言った時は、大いに感激した。私の学園時代は、自民党に支配されており、その党の掲げる教育方針によって我々は支配されていた。恋愛の最終地点は男支配の戸籍制度による結婚というふざけたシステム、それが元となっている男性至上主義、だが、変人が指導者になり、それまでの男尊女卑の旧体制をブッ潰してくれることは、素晴らしいことであった。また、男社会の元凶である天皇制のシステムまでをも破壊してくれること、それは大いに支持した。万世一系、つまり万世男系の天皇家、それを、性別に関係なくするという、まさに、それまでの2600年間のふざけたシステムを破壊する指導者は小泉以外に他はなかったのだ。
イジメは女の子が助けることで解消されたはずである。いじめられっ子は、女の子の愛で救われたのだ。いじめっ子に対して、女の子は、
「やめなよ!みっともない」
と強さをアピールするDQNどもを叱責するべきであったのだ。だが、彼女らは、一緒になって、私を嘲笑った。そう、『Nothing In This World』のブロンド女と同じである。彼女は男子トイレで、少年が便器の水で溺れそうになっているのを見て、嘲笑していたのである。だが、彼は、パリス先生によって救われたのだ。『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』でも、大佛はずむ君は、女々しい男としていじめられていたが、来栖とまりちゃんが、体を張って彼を守った。だから、彼は自殺せずに済んだ。私には、とまりちゃんがいなかった。だから、私は引っ込み思案から引きこもりになった。そして、完全に日本から引き蘢るとして、渡米という行動に結びついた。思春期では、女性の評価が男性を左右する。そしてもっとも評価されるのはDQNである。だから、DQNは得意がる。だが、女性が暴力マンのDQNを蔑み、オタクを評価すれば、DQNは暴力を振るうことはなくなるであろう。男というものは、常に女性の承認を得ようとしているのだから。また女性が、その残酷で凶暴なレイピストの性質を軽蔑すれば、DQNは必ずショックを受けて、心を改めるであろう。
男はどんなに馬鹿にしている女でも、セックスはできる。しかし、女は馬鹿にしている男とは、絶対にセックスしない。それは、なぜか。それも男性至上主義の洗脳である。それは、いわゆる三高である。高学歴、高い身長、そして、高収入である。つまり、女性は、自分より優れている男性しか相手にしたくないのだ。一方の女性は、三低である。男よりも低学歴、低い身長、そして低収入。また、男性が、自分より高い女性を好まないからである。年齢も、女性は自分よりもちょっと老化している男性を選ぶ。男性は自分より高い女性を好まず、また女性は自分より低い男性を好まない。だが、男性の場合は、自分より高い女性でも、セックスの対象となる。アムロ・レイのマチルダ中尉への憧れがそうだ。しかし、女性が自分よりも低い男をセックスの対象にするだろうか。『ブリジット・ジョーンズ』も、上司とセックスした。しかし、上司である女性が、部下の男とセックスするだろうか。女性上司は、部下の男も「かわいい」と思って抱けるようにならなければ、相当な若い独身男性は救われないであろう。今では、女性が上司ということは珍しくなくなったし、それは、『フルメタルパニック』を観ても、わかる通りである。あれは、軍隊の女性上司が軍曹に恋をしているのだから、それは、まさに現代的な恋愛だ。社会的地位が高い女性が、自分の直属の部下に恋をする。だから、テスタロッサ大佐は素晴らしいのだ!
しかし、現実はまだまだそうは行っていない。それだから、今のオタクは救われない。オタクがいかに優れているかということを、だれもわかっていないのである。オタクは、男性至上主義の犠牲者なのである。「男らしさ」という旧態依然の思想に真っ向から反対しているのだから。だが、パリス先生は、病弱な少年を助けるのだ。弱い男を、この女性は、救ってくれるのである。そう、女性がもっと積極的になれば、この世の中は絶対に良くなる。しかし、そのためには、男性至上主義を打破することである。それには、イザナミがイザナギに声をかけるべきだ。女性上位のセックスが奇形児を生ませたという神話は、打破されなければならない。つまり、女性上位時代を実現することで、性質のおとなしい男性は救われるのだ。それこそが、福音というものだ!
参考文献:
斉藤環 酒井順子『「性愛」格差論:萌えとモテの間で』中央公論新社、2006年
酒井順子『負け犬の遠吠え』講談社、2006年
私は桂言葉ちゃんのように孤立していた。スポーツが苦手というのが、仇となった。どの球技に参加しようとも、足手まといにしかならなかった。バスケにしろサッカーにしろ、パスもしてくれない、ただ走ってバテるだけ。だから外で遊ぶということはしなかった。体力がなかったからだ。そして、私は言葉ちゃんのように運動神経がまったく駄目で病弱だった。今でも病弱だが、あの時はもっと病弱で体育の授業はよく休んだ。というか、体育の授業のある日は、欠席することもしばしばあったし、出席はしても早退したり、保健室に行って、休んだりしていた。だから、スポーツができる女の子にとても憧れた。女性がスポーツ万能であっても、市民の人権を脅かす野獣なる心配もないし、ましてはレイピストになることは絶対にない。しかし、男子には、まったく憧れなかった。男子は野獣でしかなく、相手を打ち負かすことしか考えていない。できることなら、すべての男子を湾岸戦争に行かせたかった。男というものは、体力で優劣をつけたがる。それに中学は成長期なので、当然成長の早い奴と遅い奴の差は歴然とする。つまり、その差は、まさに大人と子どもである。そして体がまだ子どもの中学生は、イジメられる。女子の間でも、身体的なイジメはなかったにしろ、スポーツの出来ない子は、やはり見下されていた。ただ、女の子は、スポーツができなくとも、男にモテるので、スポーツ一つが人間の優劣を決めるということは、ないようである。しかし、男社会では、身体的に強くなければ、まず女にモテることはないのだ。そう、弱い者は、女の子の承認を得ることができない。セクシャルな承認は望めないのである。だから、社会的弱者は身体的なイジメを受ける。それが世の中というものだ。だから、私には厭離しか起きなかった。
スポーツというものは、本来は、連帯感を生み、スポーツの下手な人間をサポートして、一緒に練習してくれるものではないのか?ところが、私の小学、中学は違った。スポーツの下手な奴はイジメられた。スポーツマンシップのかけらもなかった。また、体育教師も、本来のスポーツを教えることから逸脱して、生徒を「しごく」という、いわゆる自民党と教育委員会の手先となって、思想統制を行おうとする野獣でしかなかった。たとえ、教育機関のバックが自民党だろうが共産党だろうが、政治的に思想が違うといえども、私にとっては、どっちがどうだろうが関係なく、どちらも、生徒虐待を容認しており、「男になるため」の教育方針を徹底させていた。それは、高圧的で、絶対服従であった。我々に発言権はなく、疑問をいだくことも許されなかった。疑問を持てば、鉄拳が飛んできた。高圧的な指導者の下では、イジメは発生しやすい。それは、教諭が生徒に対してパワーハラスメント、またはアカデミックハラスメントを行うことであり、まるでファシズム社会をそのまま学園に持ち込んだようなものだ。いわゆる命令形の彼らの口調には、反感を覚えた。そして、彼らに口答えすれば、ゲンコツやケリが飛んできた。それは、体罰の領域を越えたものだった。殴る蹴るの暴行を受けたのだ。だから、いつかは、彼らを全員死刑台に送ってやろうとさえ思った。少なくとも、彼らは教員免許を剥奪され、刑務所に行くべき奴らだと確信していた。アメリカで、そんな暴行を生徒に加えたら、絶対に刑務所行きである。保証する。奴らの教育スタイルをアメリカに来てやってほしいものだ。彼らは、犯罪者となるのは、間違いなし。しかし、日本の社会で、いくら保護者にそのような教諭の不正行為を訴えようとも、
「私の学園時代はもっとひどかったんだぞ。それにくらべれば、お前のときなど、まだ生易しい方だ」
と言って、なにもしなかった。PTAでも、体罰は問題化されなかった。つまり、今の男は昔から比べると軟弱化してきたので、そのような軟弱な男をださないためにも、男として鍛え上げなければならないと言う、いわゆるブートキャンプ的な通過儀礼として、そういう方針をとっていた古き腐敗した世代が、私らの保護者だったために、イジメや、不登校などが続出したのである。彼らはエルビスの世代なのに、ファシズム式教育に異論を唱えていなかったのは、実に不思議だ。だから、日本の古き世代の意識は腐敗し切っているのである。なにも、我々は兵士になるために学校に行ったのではない。そもそも、憲法9条が出来てからは、軍隊はなくなったのだから、その意味がない。少年院のような修正機関でもないのだから。だが、今でも丸刈りを強制する腐敗した学校があるし、まるで30年代40年代のファシズムの伝統をそのまま引き継いだ教育機関が目立った。そういう学校は、国連の裁判所で訴えるべきである。まあ、多少意識が変わってくるのが、ジェネレーションXの世代であろう。今の高校生の親の世代はだいたいがオバマ候補やシェリル・クロウと同じような世代なので、戦争中に生まれた世代ほど、腐敗してはいないはずであると信じたい。スポーツ根性、いやゆるスポ根、つまり男根の世代、いや、団塊の世代に対しては、心から憎んでいた。そういう世代の人間が、我々の教諭の中心だったためである。
体育では、スポーツの出来ない子、とくに団体競技、バスケやサッカーなどでは、「雑魚」とされる。「役立たず」とも言われる。そして女の子が注目するのは、球技の得意な男だ。そして、そのお山の大将は、そのことで得意となり、役立たずをいじめるのである。そう、足手まといはどこに行ってもいじめられるのだ。会社でもそうだ。仕事のできない人間はいじめられる。アメリカでは、イジメというよりは、ハラスメントと言った方が的確だろうか。また、社会構造的にイジメが確認されるのだ。社会的弱者は搾取し続けられ、ワーキングポアとなってしまうものである。だから、そうならないためにも、労働組合が必要なのである。いわゆるストライキを起こす権利が必要だ。アメリカでは、退役兵士たちが、適切な報酬を受けてないとして、連邦議会の前でデモを起こした。しかし、デモ隊は、連邦軍に鎮圧された。彼らは共産主義に洗脳されたとして、弾圧されたのである。第一次大戦の英雄にもかかわらずだ。そして、その鎮圧部隊の隊長が、のちのGHQ最高司令官のマッカーサーだった。そのときから、団結権に対するアメリカ政府の対応は厳しかった。修正第一条に保障されている権利にもかかわらず。なんでも、「赤」と決めつければ、権利は侵害されたのである。それに、労働組合はマフィアとつながっているというステレオタイプがあるし、マッカーシー時代に流行ったマーロン・ブランドの『On The Waterfront』という映画でも、腐敗した労働組合が暴力団同然として描かれる。つまり、共産主義とマフィアとのコネがあるというプロパガンダが全米に浸透したのだ。外からはソ連、内からはマフィアと、二つの悪と結びついているとされた。そして、レーガンはその立役者であり、最後には大統領となってネオコンサーバティズムとネオリベラリズムの双方をアメリカに植えつけ、労働組合を徹底的に排撃した。だから、アメリカでは、労働組合のイメージは悪く、世界ではメーデーが労働者の日であるというのに、アメリカとカナダでは、労働の日は9月なのである。それも、社会主義の影響力を恐れてのものであった。そして、アメリカではじつに80%の労働者は労働組合を持たないのである。よって、我々は生活もろくにできない給料で働くしかない。私は同僚にいつもストライキを起こそうと促しているが、彼らは、
「家族がいるから、子どもを育てなければならないから」
と言い訳をして、団結してくれない。しかし、「家族がいるから、子どもを育てなければならないからこそ、賃金上昇のためにストライキを起こすべき」ではないのか?しかし、彼らは「それはそうだけど」と言っても、結局はなんだかんだ言って団結してくれない。やはり組合を作るほどの人数が集まらなければ、弁護士も雇えないのだから。
日本も、小泉と竹中によって、ネオリベラル社会になったのだから、そして派遣社員が増えているので、労働組合の力は弱くなり、賃金上昇に歯止めがかかってしまうのである。まさに自然淘汰のダーウィニズムの法則にしたがって、解雇されるような状況を作り出してしまうのだ。経済がよくても、一人一人の生活は良くならないのである。だから利益の追求よりも、労働者の賃金の上昇である、それが主眼となるべきである。それこそが福祉というものだ。しかし、小泉は福祉のシステムまでもを破壊する政策を行った。それが、彼の最大の功罪である。私は日本の膿みを除去することを望んだのであり、福祉を破壊するような政策は望んでいなかったのに。これでは、日本は資本家の社会となり、労働者の価値は暴落する。労働者である事自体が負け組となってしまうのだ。そう、利益は福祉に還元されなければならないのだ。みんながみんな仕事ができるわけではないのだから。みんな天才ということはない。技能には、かならず下手がいる。その下手を助けるのが、福祉ではないのか。もしくは、技能者がなんらかの事故で技能を失ってしまった時に援助するのが福祉ではないのか。しかし、どうも社会は、下手をいじめるという方向にしか向かっていないようである。そう、社会がイジメなのであり、教育現場でも、そのイジメの前兆が確認されるのである。日本のシステム自体が、イジメを作り出しているのである。しかし、私は、そこから逃れられなかった。義務教育は成績が悪くとも、強制的に行かされる。退学はないのである。だから、不登校か引きこもりという手段しかなかったのだ!しかし、今では働かなければ、食えない。引きこもりが許されているのは、よほどの金持ちか、坊主ぐらいだろう。だから、金のない私には、引きこもりにはなれない。そして、今でも、賃金の低さに大不満であり、あれで生活してゆけという神経が理解できない。だから、私はストライクを起こそうと思っているのだ。そうでもしなければ、資本家天国となり、労働者はさらにイジメられる。そう、根本的には、鬼教官の体育の授業となんら変わりない社会なのである。だから、革命が必要なのである。
私の中学では音楽と美術の授業が予算の都合のためにカットとなったが、私が一番カットを望んでいた授業は体育であった。だが、体育、いわゆるスポーツは、イジメを決定的にさせた授業でしかなかった。音楽と美術でイジメが起きるとは聞いたことはない。楽器が上手な人も下手な人も皆平等であった。とくに美術では、ジャクソン・ポロックの抽象画というものがあるので、そこで上手い下手は無関係となり、ただ表現となった。
「恋に上下の隔てなし」
ということわざがあるが、
「美術に上下の隔てなし」
というのが、より適しているであろう。しかし、音楽では、無調音楽となると、どうしても理解しがたくなるので、平等主義というのは、あまり徹底されない。だが、なぜ体育がそこまで重要視されるのか。普通ならば体育の授業を削って英語に割り当てる方が合理的であろう。この国際化社会においては。どうして教育委員会は、体育にそれほど執着しているのだろうか。それはぶっちゃけて言えば、戦争の名残である。ファシズムの名残なのである。ヒットラーのベルリンオリンピックの影響を受けて、日本政府はファシズム体制を築くために、体育がとくに重要視された。つまり戦争をできる体を作り上げることが、国家の目的だったのである。でなければ、体育は美術と音楽とともに不必要な学問として、予算をカットされていたであろう。そうして、戦争への準備は着々と進んできたのである。だから、憲法9条が改正されても、学生が万全の体で戦争ができるように、体育はカットの対象にはならなかったのである。部活動においても、それは反映される。そして、体育系の部活では、顧問が部員に暴行を加える、いわゆる「根性を叩き直す」ことである。実に野蛮であった。なぜ、文化系よりも、体育系の部活に入ることが奨励されるか。それは、兵士になることが、もっとも徳とされているからである。日本には、軍隊がないにもかかわらずだ。マッカーサーによって、帝国軍は解体されたにもかかわらずである。明らかに憲法9条改正のために、学生を教育してきたというしかない。つまり、教育の面でファシズムは続いていたのである。だから、私は、文科系の部活に入ることを奨励する。当時は、文科系に入るのは、オタクたちや、スポーツセンスゼロ、恋愛の敗者、童貞、処女、キモメン、おちこぼれ、または、よほどのお嬢様系といわれていた。まあ、私は引き蘢っていたので、文科系だろうと体育系だろうと、関係なかったが。ただ、帰宅部という感じで、帰宅して、引き蘢ってアニメを見ていただけである。
パリス・ヒルトンの『Nothing in This World』の中学生の少年も、成長が遅いため、悪質なイジメを受けた。私も彼と同じく、悪質なイジメを受けた。私はクラスで最も体力のある奴にいじめられた。奴には到底かなわなかった。体力の差が違い過ぎた。そして彼に続いて多くの男子がイジメに参加した。そして、女の子も、私を助けることなく、私が彼女たちに近づくと、私を見下して、避けた。そう、その時、女の子というのは、強い男性に憧れることを知った。どんなに悪くてもだ。強いものこそ正義、勝者が正義の世界、それは、ソフィストのトラシュマコスの語る事実であった。DQNがモテる世界だったのである。それは、まるでチンパンジーと同類の世界である。獣とまったく変わらない。強いオスがメスと交尾をする権利を獲得するのである。しかし、我々は文化を持った人間である。オスが身体的に強かろうが弱かろうが、セックスしてもいいはずだ。女性が弱かろうが強かろうがセックスできるではないか。もじもじしていて、内気で、おとなしそうな子、どじっ子、運動神経の駄目な子、眼鏡っ子、またスポーツが出来る子、頭脳明晰な子、背の高くて体力のある子、ボーイッシュな子、セクシーな子、おしゃれな子、媚を売る子、積極的な子、そう女の子は千差万別なタイプがいても、モテるのである。だが、男はどうだろうか。内気で、モジモジしていて、おとなしそうで、どじで、スポーツが苦手、残念ながら、そういう男はセックスの対象にならないのである。それこそが男性至上主義の洗脳による言説というものである。男は身体的、または性格的なことで、ヴァラエティーに乏しく、いや、ヴァライティーが受け入れられない社会なので、また女もその偏見を身につけてしまっているので、そういうヴァラティーに富んだ男は、
「あの人異常、キモイ」
としか思えないのである。
だが、革命はスタートしくれた。そんな私たちにも、希望の光が見えてきた。変人小泉は、あれだけの人気を集めたのだから、時代が確実に変わってきたのである。しかし、2000年代にそのような指導者の登場は、私にとっては遅すぎた。私が、思春期の頃に、出て欲しかった指導者であったのに。そう、16歳のときに。小泉はDQNタイプではなかった。石原慎太郎のような悪質なDQNではなかった。石原慎太郎は、50年代60年代のハンサムな男像を築いた男性至上主義者であった。そして、今の女性は、今でも、彼の築いた男像の男に自慰行為するのだ。石原の築いた男像は、キムタクのようなDQNにも受け継がれ、芸人にいたっては、ビートたけしなど人を平気で殴るような喧嘩ばかりしていた下町のヤンキーのDQNが、日本の芸能界の頂点である。『太陽の季節』の男どもは皆DQNである。だから、私は、彼のようなジジイはとっととくたばってしまえとさえ思っている。日本の男社会という癌の元凶である。それにくらべて小泉は歌も歌うし、踊りも踊るし、華奢で、筋肉質でもない。髪の毛もロンゲで、実に文化的であり、道理でオタクの大きな支持を取り寄せたわけである。ファッションでも、サブカルチャーたるロリータ系が増えてきたわけだし。そういう変人を受け入れる土壌が形成されてきたというわけである。それには、やはりシステムの破壊者が必要だったのだ。
ヴァライティーに富んだ男を嫌う女たち、それを私は思春期から知っていたのだ。女性の許容範囲の狭さは、男性至上主義の反映である。というか、日本には「ゆとり教育」がなかったせいである。ゆとり教育は、もっとバラエティーに富んだ自由学芸的な、人間構築に役立ったはずである。しかし、私の受けた教育は、男性至上主義的であった。だが、しかし、私は、そのセクシスト社会の教育機関において、男であることをも否定した。
「男は強くならなければ行けない」
という言説に私は反対だった。その言説を使って洗脳する学校と、洗脳を受けた生徒たちとは、かかわらないと決めた。だから、私は引き蘢った。しかし、言葉ちゃんのような読書っ子ではなかったので、そこの部分は違う。私は、読書も嫌いだった、というか読書は20分もすると、眼が疲れるので、ゲームとかテレビを観て、時間をつぶした。私には、パリス・ヒルトンはいなかった。だから、私は救われなかった。あのような先生がいてさえくれれば、私は引きこもりとなってはいなかったであろうに。ああ、パリス先生さえいてくれれば。だから中学生に戻りたい。そして、自由を謳歌したい。
女子がデートしたい男子の順位というのを、黒板に書いていたことがあったが、あれで私は最下位であった。衝撃的だった。もう一人最下位なのがいて、そいつは軍事オタクであった。あれは人権侵害であろう。そんなことで男の価値が決まってしまうのである。やはりトップだったのは、最もモテたのは、スポーツ万能な男だった。そう、強い、喧嘩の強いヤンキー的で凶暴なDQNだったのである。その性質はレイピストと大してかわらない。凶悪なレイプの常習犯からは、とてつもない異常な量のノルアドレナリンとテステストロンが検出されるという。それは、スポーツをするときに沢山分泌されるホルモンなのだ。そして、ステロイド漬けの男を想像すれば、それは明白であろう、彼らがどれだけ野獣的であるか。つねに喧嘩を求めているのだから。そして、喧嘩に勝てばセックスである。だから、彼らには、セックスと暴力が結びついているのだ。それらを分けて考える知能を持っていないのである。暴力に強ければ、セックスするチャンスがより増えると言う比例関数が、彼らの思考を支配していたのである。だから、彼らは、野獣となんら変わりがなかったのだ。タスマニアン・デビルとレベルの差がないのだ。しかし、アニメオタクは、セックスと暴力を分離している存在なのだ。ガンディーのように非暴力なのである。だから、オタクは、DQNよりも、はるかに進化しているのだ。
そう、女性がもっとも恐れなければいけないのはオタクではなく、実はスポーツ万能のレイピストなのである。ホルモンの量を考えてみれば、それは自明の理である。私は暴力は嫌いだ。スポーツは嫌いだ。スポーツと暴力は同じである。スポ根と男根は同じである。男根とは、「男性根性」の略である。つまり、根性とは、「男根性質」を略した言葉なのである。だから、「根性」という言葉は、差別用語扱いされなければいけない、いわゆるハラスメント用語に認定されなければならないのだ。日本の先輩から後輩に対するハラスメントとして、
「貴様、根性あんのか!?」
と罵声を浴びさせて金的を握るというものがある。もっとも卑しい学園文化である。そんな根性を基礎とする野球やサッカーやバスケなど見ても、必ず乱闘がある。去年のワールドカップ決勝のジダンのヘッドバットもそうだ。スポーツは暴力の代替なのである。スポーツでももっとも卑劣なのは、格闘技であろう。あれは男を野獣にするだけである。なぜエホバの証人が格闘技を禁止しているかが、理解できる。スポーツというのは、戦士を教育するために作られたものだ。それが源流である。古代ギリシャからそういう認識があった。だから、スポーツに熱中する人は、切れやすい。酒場でサッカー観戦しているファンは必ず騒ぎを起こす。フーリガンがその典型である。そして、そのほとんどが酒に強いDQN体質の人間である。
日本のとある大学のアメフト部が、カラオケ屋で、女性をギャングレイプした事件があった。逆に、アニメオタクのレイプ事件なんて、聞いたことがあるだろうか。酒井順子が言う「おたくくん」とは、優し過ぎる人たちであり、なおかつとても繊細であるため、女性にすら声をかけることにもすごく緊張してしまうタイプの人間なのである。またおたくくんは傷つきやすい。それなのに、オタクくんを見ると、ただシャイなために、ゲイと勘違いしてしまうのだ。
「ヘルメスくんってゲイ?」
とどれだけ訊かれたことか。しかし、それは、ヘトロ男性に対しては、もっとも無礼な発言である。しかし、ひとたびヘトロと知れば、女性は、足をすくませる。そう、女性が恐れるのは、DQNではなく、おたくくんである。それはなぜであろうか。答えは簡単だ。洗脳されているからである。DQNと話す時はレイプ率が格段と高くなる。しかし、女性は男にリードされ、服従したいと思っている。よって、デートのときは、女性はあまり知的な会話をしない。フランスでは、知性を求められるというのに、なにせポスト・モダンの国なのだから。そしてDQN男も、女性を服従させたいと思っている。女性が恋愛をリードしていくという発想が彼女らにはないのである。だから、女性はDQNと付き合うしかないのである。当たり前である。DQNは、暴力ですべてを解決する。また、暴力で、おたくくんを圧倒するので、勝ち目はない。女性がオタクと対面する前に、DQNによって妨害される。そして、DQNに、
「オタクには、気をつけろ」
と洗脳されるのである。この世は暴力社会だ。そのDQNの暴力は、結果的には、ヴァージニア工科大学のチョー・スンヒの事件へと発展してしまうのである。彼の受けたDQNからの仕打ちは実に冷酷なものであった。そして女の子たちからも嘲笑された。そして蓄積されたルサンチマンが大学で爆発してしまったのである。だから、それを解決するには、女性がもっと積極的になるべきである。女性の積極性が問題である。
しかし、酒井順子は、まったく逆のことをいう。
「だから、オスの負け犬がメスの負け犬に声さえかければ・・・・・。(335ページ)」
と言っているが、実はオスの負け犬はアプローチをしているのだ。しかし、声をかけたら気持ち悪がれるのである。その事実をまったく見落としている。また、女性から男性をリードしようとしないのもおかしい。なぜ、女性は黙っているのだろうか。なぜ待つのだろうか?サインを見せても、それで終わりであり、今度は男が誘ってくるのを待っているのである。私も『ガンダム0083』を観たが、あの金髪の女は、どうして面と向かって告白しなかったのだろう。それになぜ自らデートに誘わなかったのだろう。彼女は、コウが明らかにサインを出しているのに、そして自分もコウに気があるにもかかわらず、ずっと待っていて、逆切れしてしまったのだ。私は、
「なんと馬鹿な女か!」
と思った。彼女のコウに対して吐いた言葉は、
「意気地なし」
である。私は、
「お前が言うことかよ!意気地がないのはお前の方だ。どうしてお前から誘わないんだ!」
と憤激した。向こうが動かないならそっちが動け!Make a move!だろ!私は、とてもおかしいと思った。『Zガンダム』では、女性たちがあれほど積極的だったというのに、『ガンダム0083』の女は、実に男性至上主義的な行動を取る。宇宙世紀であるのに。日本書紀によれば、イザナミがイザナギを誘ってセックスしたら、奇形児が生まれたとされる。よって、正しいセックスとは、男が女を誘うものだとした。しかし、これは当時男性至上主義的宗教であった中国思想をもろに受けたものであろう。神話の言説でさえ、性愛では、男が女を誘うものとされているのだ。女は積極的ではなく、受動的のほうが正しいとされ、それが言説となり、圧力となってしまった。
不倫でもそうだ。金持ちの既婚男性は、独身女性と不倫する。しかし、金持ちの既婚女性が独身男性と不倫したという話は聞かない。そういう女性は、同じ既婚男性とセックスするのである。それを「スワッピング」とアメリカでは呼ぶ。それはどうしてか。女性は結婚経歴がなくても、恋愛できる。しかし、男性は結婚経歴がなくては、恋愛はできないのである。ブリジット・ジョーンズも結局離婚歴のある男と結ばれた。だから、あの女は、男性至上主義をいまだに引きずっているのである。そして、その類いの女は、未婚男性に対して、
「あんな年にもなって、結婚経験がないなんて、やばいんじゃない?」
と気持ち悪がってよってこないのである。そんな不条理なことはない。私が、
「小泉は独身だった!」
と叫ぼうが、彼女らは、
「でも、小泉さんは、離婚したんでしょ?子どももいるんでしょ?」
というのである。そして、彼女らにとっては、そこが重要なポイントとなること自体、理解できない。確かに彼には妻や子どもがいたが、現在は独身だ。しかし、彼女らは、「独身」という言葉を使いたがらず、「バツイチ、divorced」というのである。だから、私は、小泉を、「独身」とひたすら呼んだ。そして、私の粘りもあって、とうとう彼女らも、小泉が事実独身であることを認めた。私は英語で、「メイド」または「ヴァージン」を使った。中世英国の文豪チョーサーは、イエス・キリストを、「メイド」または「ヴァージン」と呼んでいた。そう、「メイド」も「ヴァージン」も「独身」という意味だったのだ。だから、「メイド喫茶」は独身喫茶なのである。独身女性たちが、お客様をもてなすのである。メイドは巫女でもあり、メイドはローマのヴェスタの巫女であり、ヴェスタの火を守り抜いた。また皇居の賢所にも、内嘗典という巫女が、絶えず火を守っている。それも、メイドの原型であろう。だから、小泉にも、神懸かり的なものがあった。あの陳腐な赤羽駅にあれほどの大衆が集まってきて熱狂したのも、そのメイド的、あるいは巫女的な力があったとするものもいる。つまり、独身のほうがスピリチュアルというのだ。だから、私は、独身であり、独身は結婚経験者だろうが、未経験者であろうが、独身であることにはかわらないのであり、平等なのである。結婚歴で男を判断するほど馬鹿げたことはない。だから、既婚女性だって独身男性と不倫すればいいではないか?なぜ積極的にならない。つまり、彼女らは、平均的な男性に安心するということか。アメリカの平均男性は、離婚しているか再婚しているかのどちらかなのだから。
ということは、結婚が独身男性に対する男性差別を生み出しているのであり、結婚が最高の人間関係というキリスト教の言説がまかり通っているという結論にしか結びつかないであろう。いわば結婚歴で、男性の人格の判断材料となってしまうのである。そう、なぜ性別があるか、それは結婚するためにあるという屁理屈なのである。その根拠のないイデオロギーを国民は無様にも信じ切ってしまっているのだ。だから、私はその言説を砕くために、結婚そのものを廃止しなければいけないと思う。アイスランドでは、60%以上の新生児が、結婚外で生まれてくる。そう、結婚はもはやマイノリティーなのである。また北欧のスウェーデンやノルウェーやデンマークでは、50%といったところか。フランスが30%ぐらいか。だからPACSという制度ができた。やはりリベラルで精神性が高い国ほど、不条理な結婚制度は消滅傾向にある。逆に結婚に固守するキリスト教原理主義社会、イスラム原理主義社会、日本のような腐敗した戸籍社会、それらは精神性が最低である。とくに不倫した男女を石打という死刑に処すという、それほど野蛮な社会ほど、結婚に対する執着が異常なまでに強いのである。
「結婚してなければ人に非ず」
というふざけた言説である。つまり、個人よりも、家族に属していなければ、人ではないのである。家族なくして人に非ずなのだ。しかし、私ははっきりと断言する!
個人は家族より優先される。
それが真の個人主義だ。「可愛い子には旅をさせよ」という通り、子どもが16ぐらいになったら、海外に送ればいい。というか、保護者から離れて生活しないと駄目であろう。そうしなければ、子は、個人主義というものを身をもって学ぶことはできない。自分が保護者に依存してしまい、また自分が保護者になったときに、子どもを依存させてしまう。とくに男であったなら、マザコンになる危険性がある。そう、たいていのイスラム社会の男のようになってしまうのだ。だから、16で親元を離れるのが一番いい。そうしなければ、真の個人主義者にはなれないのである。アメリカでは、16で、自由の象徴である自動車免許を取得できるのだから。
まあ、話はそれたが、女性がもっと積極的になることである。男が内気なら、ドカッと前に座って気持ちを伝えるべきである。女性はどんなに内気であっても、男性から声がかけられる。しかし、男性が内気では、優しすぎては、女性からまったく声がかからない。どうして内気な男性は恋愛ができないか?答えはいたってシンプル、女性は内気な男性に声をかけないからである。だから、酒井順子が、「男が声さえかければ・・・」というため息は、まったく馬鹿げているのであり、言語道断なのである。彼女は、そういうオタクのような内気な男性が増えているのだから、「女がもっと積極的にアプローチすれば」と言わなければならなかったのだ。女が声をかけないから、萌え系アニメのキャラに走るのだ。そこに救いを求めるのだ。なぜなら、現実の女性はオタクに対して優しくないからである。萌え系オタクは結局のところは女性の優しさを求め、そこに癒しと安らぎを得ようとしているのである。しかし、彼女らは、
「現実の女性ではなくて、アニメの女なんかを想像して抜くなんて、なんてキモイ。汚らわしい」
としか思えないのである。優しい萌え系オタク男を、そういうふうな偏見でしか見れないのは、この男性至上主義の「男はタフでなければならない」という言説によって精神が冒されているからだ。女は声をかけないもの、受動的なものという男性至上主義的思想から脱却していないセクシストなのである。なにしろ日本社会に監禁されている女性だ、日本のジェンダー格差指数は、世界112カ国のうち、79位であり、柳沢の「産む機械」発言は、そのような発言をしても、職務になんの障害もでない腐り切った社会であることを、露呈している、そのような精神性の低い社会では、どうしても女性の味方といえども、男性至上主義の言説に影響を受けてしまうのである。要するに、そういう腐敗した社会は捨てて、欧米、とくに西欧、北欧に移住するべきであろう。そこには、社会をリードする積極的な女性が数多くいるのだから。私の思春期にパリス先生のような積極的な女性がいたら、また私のクラスメイトの女子たちが、積極的であれば、いじめられっ子は救われていたのだ。
そう、これからは、暴力を振るう男性は、まったくださいということを、女性はこれから言わなければならない。レイピスト気質はDQNのほうがはるかに高い。それが事実だ。しかし、彼らはレイピストと糾弾されることはない。なぜなら、彼らは正義であり、また女性も彼らの性欲が満たしてくれるからである。強い猿は、メス猿といつでも交尾できるように。「一に押し、二に金、三男」というふざけた言説があるが、それはもうお仕舞であろう。今度は、「三女」ともなるべきである。今では金を持っているCEOの女性が出てきたのだし、女性が積極的にならなければいけないのだ。「一に押し」というが、それはオタクくんがすれば、ストーカー行為となる。だが、オタクはストーカーにはなりにくいのではないか。オタクは心優しいため、セックスはあくまでも合意に基づこうとする人権意識が非常に高い。そして、一度断られたら、二度とアプローチをかけない。人権侵害となるからである。だが、それでは、「オタクは意気地がない」と決めつけられる。人権意識がDQNよりも高い人格者だというのに。しかし、それでも、ストーカーとオタクは結びつきやすく、DQNとストーカーは結びつきにくい。それは、男性至上主義の洗脳のためである。DQNは、セックスにこじつけるためには手段を選ばない。たとえ女性の人権侵害となろうともおかまいなし。ストーカー行為はどちらだろうか。それはDQNである。彼らのほうがストーカー気質があるのは明らかだ。しかし、その真実は、石原のようなDQNの支配する社会のため、覆い隠されて誤魔化されているのだ。真実というのはいつも、そうやって隠蔽されるのである。
しかし、『School Days』の主人公はDQNタイプではない。それが石原の処女作である『太陽の季節』とは、違うところである。『太陽の季節』では、アプリゲール、いわゆる戦後の若者の頽廃ぶりを描いているが、『School Days』は、冷戦後、ゴア革命が起きて、小泉政権によって日本がネオリベラル社会になってからの若者の、高校生の生活を描いているのである。伊藤誠は、DQNでもないし、不良でもないし、ヤンキーでもなければ、喧嘩もしないし、酒もタバコも博打もしないし、ドラッグもやらないし、帰宅部みたいだし、イケメンでもないし、ぼーっとしていて、リーダー気質でもなければ、競争的でもないし、積極的でもなければ、三船敏郎のような筋肉質な野獣的な男でもない、いわゆる男らしさを捨てた男である。どちらかというと、目立たないが、それでも女の子の友だちがやけに多い。ああいう優しい男がモテるようになったのは、日本もよくなってきたということか。そして、ムカつくことに、奴を好きな子がたくさんいるなんて、ゆ・・許せない。悔しい。しかし、彼には、戦後世代の若者のような頽廃ムードはまったくなかった。そういう男が恋愛の悲劇を『太陽の季節』なりに見舞われるという、まったく新しい物語なのだ。そう、おとなしくなった男が、ドロドロした人間社会に恋愛を通じて巻き込まれているのである。太陽族の男は、女を殺してまでも、ペニスを障子に突き立てて、男性至上主義をアピールするが、『School Days』は、男性原理が否定されてしまっている。女性主導で恋愛が進んでいくのだ。とはいえども、キリスト教的モラルのために、主人公たちが、そのために犠牲になっていくというところは、DQNには最初から犯罪者としての性質があって犯罪がおきたが、現代の高校生には、そのようなものはなく、社会のシステムとモラルによって、潰されたといってほうがいいであろう。それが、このアニメのテーマであろう。つまり、逃れられない恋愛システムによって、そのシステムの犠牲になってしまうのだ。それに、今では、こういう社会分析もある。
「格差社会」という言い方は、逃れられないシステムの中で、どんどん自動的に差が開いていくというイメージですよね。僕はこれもまた幻想だと思うんですが、誰もがこの幻想に基づいてテンションを上げたり鬱に入ったりしている。また、そういう時代だからこそ、小泉首相やホリエモンなどの、ヴィジョンなきシステムの壊し屋が無条件に人気を集める。(190)
小泉人気は、最近の格差社会からではなく、もっと息苦しい根強い日本の伝統への反抗から来ている。それは、男尊女卑の儒教とキリスト教の影響のため、そのもっとも悪い部分が混じり合って築かれた明治からの伝統であり、その伝統に、私は吐き気を覚えた。私は、とにかくすべてにおいて保守的な日本が嫌いであった。イジメ社会、学校内での受験競争、タバコと酒のヘドロ社会、ルーズソックス、ポケベル、表層的な消費社会、特にその表層的な恋愛システム、それらに対する憎悪と怨念を一気に吹き飛ばしてくれる存在、それが小泉であった。やっと革命家が現れたかという感じであった。だから、こころから、この腐敗した日本社会を潰してくれることを願った。彼が、
「自民党をブッ潰します!」
と言った時は、大いに感激した。私の学園時代は、自民党に支配されており、その党の掲げる教育方針によって我々は支配されていた。恋愛の最終地点は男支配の戸籍制度による結婚というふざけたシステム、それが元となっている男性至上主義、だが、変人が指導者になり、それまでの男尊女卑の旧体制をブッ潰してくれることは、素晴らしいことであった。また、男社会の元凶である天皇制のシステムまでをも破壊してくれること、それは大いに支持した。万世一系、つまり万世男系の天皇家、それを、性別に関係なくするという、まさに、それまでの2600年間のふざけたシステムを破壊する指導者は小泉以外に他はなかったのだ。
イジメは女の子が助けることで解消されたはずである。いじめられっ子は、女の子の愛で救われたのだ。いじめっ子に対して、女の子は、
「やめなよ!みっともない」
と強さをアピールするDQNどもを叱責するべきであったのだ。だが、彼女らは、一緒になって、私を嘲笑った。そう、『Nothing In This World』のブロンド女と同じである。彼女は男子トイレで、少年が便器の水で溺れそうになっているのを見て、嘲笑していたのである。だが、彼は、パリス先生によって救われたのだ。『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』でも、大佛はずむ君は、女々しい男としていじめられていたが、来栖とまりちゃんが、体を張って彼を守った。だから、彼は自殺せずに済んだ。私には、とまりちゃんがいなかった。だから、私は引っ込み思案から引きこもりになった。そして、完全に日本から引き蘢るとして、渡米という行動に結びついた。思春期では、女性の評価が男性を左右する。そしてもっとも評価されるのはDQNである。だから、DQNは得意がる。だが、女性が暴力マンのDQNを蔑み、オタクを評価すれば、DQNは暴力を振るうことはなくなるであろう。男というものは、常に女性の承認を得ようとしているのだから。また女性が、その残酷で凶暴なレイピストの性質を軽蔑すれば、DQNは必ずショックを受けて、心を改めるであろう。
男はどんなに馬鹿にしている女でも、セックスはできる。しかし、女は馬鹿にしている男とは、絶対にセックスしない。それは、なぜか。それも男性至上主義の洗脳である。それは、いわゆる三高である。高学歴、高い身長、そして、高収入である。つまり、女性は、自分より優れている男性しか相手にしたくないのだ。一方の女性は、三低である。男よりも低学歴、低い身長、そして低収入。また、男性が、自分より高い女性を好まないからである。年齢も、女性は自分よりもちょっと老化している男性を選ぶ。男性は自分より高い女性を好まず、また女性は自分より低い男性を好まない。だが、男性の場合は、自分より高い女性でも、セックスの対象となる。アムロ・レイのマチルダ中尉への憧れがそうだ。しかし、女性が自分よりも低い男をセックスの対象にするだろうか。『ブリジット・ジョーンズ』も、上司とセックスした。しかし、上司である女性が、部下の男とセックスするだろうか。女性上司は、部下の男も「かわいい」と思って抱けるようにならなければ、相当な若い独身男性は救われないであろう。今では、女性が上司ということは珍しくなくなったし、それは、『フルメタルパニック』を観ても、わかる通りである。あれは、軍隊の女性上司が軍曹に恋をしているのだから、それは、まさに現代的な恋愛だ。社会的地位が高い女性が、自分の直属の部下に恋をする。だから、テスタロッサ大佐は素晴らしいのだ!
しかし、現実はまだまだそうは行っていない。それだから、今のオタクは救われない。オタクがいかに優れているかということを、だれもわかっていないのである。オタクは、男性至上主義の犠牲者なのである。「男らしさ」という旧態依然の思想に真っ向から反対しているのだから。だが、パリス先生は、病弱な少年を助けるのだ。弱い男を、この女性は、救ってくれるのである。そう、女性がもっと積極的になれば、この世の中は絶対に良くなる。しかし、そのためには、男性至上主義を打破することである。それには、イザナミがイザナギに声をかけるべきだ。女性上位のセックスが奇形児を生ませたという神話は、打破されなければならない。つまり、女性上位時代を実現することで、性質のおとなしい男性は救われるのだ。それこそが、福音というものだ!
参考文献:
斉藤環 酒井順子『「性愛」格差論:萌えとモテの間で』中央公論新社、2006年
酒井順子『負け犬の遠吠え』講談社、2006年
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『ブリジット・ジョーンズの日記』のこのオープニング。ああ、これはまさに私だ。私は、いつも一人っきりの部屋で、私の好きな音楽に合わせて、踊り、手を振り、また、ドラムを叩く仕草をして、熱狂の余韻に浸るのである。最近では、酒はまったくやめてしまったが、以前までは、私はビールやワインを飲みながら、夜一人で、自分の部屋にこもって、寝る前に、パジャマ姿で、このようなことをしていた。
「All by myself!」
と歌い上げるあの声、熱唱に心を同化させて、様々なストレス、いや、人生そのものの苦痛を昇華させるという、私は、今でもそういうことをしているのだ。私はワーグナーをかつて崇拝していたので、ワーグナーの楽曲を大音量にして、指揮者気分で、手を振って体を振っていた。そして、首と縦に降って、髪を乱れさせ、メガロマニア状態となった。
現代の指導者でも、このような人がいた。それが、小泉純一郎だ。私は、あのエルビスの聖地、メッカのグレースランドでの、小泉のパフォーマンスがとても強烈で、今でも鮮明に覚えている。彼も、また独身であり、独身はやはり自己陶酔に陥りやすいのかもしれない。しかも、ブッシュ夫妻の前で、そしてプレスリーの妻と娘の前でである。まあ、娘のリサ・プレスリーは、あの80年代のポップ王、マイケル・ジャクソンの元妻である。つまり、ロック王の娘と、ポップ王が結婚したのである。キング・オブ・ロックの娘と、キング・オブ・ポップの結婚、それは、アメリカ中の話題をさらった。それは、『You are not alone』のビデオクリックで確認できる。マイケルとリサの夫婦が、ヌードで、出演している。しかし、これは人種ジョークでちょっといけないのだが、マイケルは黒人なのに、白人のリサよりも色が白いとは、いったいどういうことなのだろうか?リサが茶色がかって見えるのは、気のせいだろうか。あまりにもマイケルが白いためであろうか?不可思議だ。
しかし、そういう独身が日本の指導者となったことは、注目されるべきことである。最近では、独身が増えた。晩婚化で少子化、それに30代になっても未婚女性と男性が増えている。それは、結婚に対する信念が弱まったことと、女性の社会進出のためである。そう、これからは、独身の時代なのである。メイドの時代、ヴァージンの時代なのだ。そういう人間が、日本の社会システムの根本を叩き潰してくれることに大きく熱狂した。いずれ、彼らは結婚制度そのものを破壊してくれるであろう。
私にとって、日本はとても息苦しかった。中学でのDQNによるイジメ、女子に「変態」または「キモオタ」扱いされ、教諭の理不尽さ、親の干渉、それが原点となり、高校では引きこもりとなり、そして旧態依然の自民党の腐敗政治に対する怒り、年功序列というゲロ同然の制度を採用する企業、オウムなどのカルト、ヤクザ、右翼などのテロリスト集団、そんな憲法の原理に反するような暴力団が野放し状態になっているという腐敗した社会、財官政の癒着、不平等な言葉遣い、お辞儀という馬鹿げた習慣、夫婦別姓が認められない戸籍制度をベースにした結婚、私生児への差別、坊主の葬式詐欺、日本は言語、文化、宗教、政治、経済の随所において腐敗していた。しかし私はこの社会に対する復讐よりも、渡米を選んだ。でなければ、革命家といえども、一人で革命を起こしたならば、それは犯罪となり、犯罪者となっていたであろう。だから、小泉が出てきたときは、その腐敗したシステムそのものを破壊してくれるビシュヌ神のような人物が現れたのだ、と思った。その勢いで、自民党を粉砕してくれるとさえ思った。都会の独身者たちのルサンチマンが生んだアーキタイプが小泉だったのかもしれない。
だから、彼が、グレースランドでパフォーマンスをしたときは、
「ああ、オレと一緒だ!」
と叫んでしまった。ブリジット・ジョーンズ、小泉はともに2000年代初期に出現した文化的アイコンである。いやゆる女性も男性も「一匹狼」的な人間が、これからの主流になってきたのである。彼らが、登場してきたということは、文化的にそういう土壌が形成されたという証でもあろう。また『セックス・アンド・ザ・シティー』のニューヨークの30代と40代のスーパーキャリアガールズの独身女性の活躍は、著しいものであった。それは、西ヨーロッパ、北欧、アメリカで、とくにトレンドとなっており、日本でも、そうであろう。なにせ、30代の女性向けに、ファッションが発信されるというところは、世界でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨーク、東京ぐらいであろうか。そして、その一つの都市から、小泉が出てきたということは、まさしく時代の寵児ともいうべき存在であった。
そして、『All by myself』と『You are not alone』は完璧な対をなしているはずである。それを聴いて、独身は、自慰するのである。本当はrefugeeがいいにもかかわらず。しかし、やはり、独身の心の支えとなるものは、「萌え」であろう。
「All by myself!」
と歌い上げるあの声、熱唱に心を同化させて、様々なストレス、いや、人生そのものの苦痛を昇華させるという、私は、今でもそういうことをしているのだ。私はワーグナーをかつて崇拝していたので、ワーグナーの楽曲を大音量にして、指揮者気分で、手を振って体を振っていた。そして、首と縦に降って、髪を乱れさせ、メガロマニア状態となった。
現代の指導者でも、このような人がいた。それが、小泉純一郎だ。私は、あのエルビスの聖地、メッカのグレースランドでの、小泉のパフォーマンスがとても強烈で、今でも鮮明に覚えている。彼も、また独身であり、独身はやはり自己陶酔に陥りやすいのかもしれない。しかも、ブッシュ夫妻の前で、そしてプレスリーの妻と娘の前でである。まあ、娘のリサ・プレスリーは、あの80年代のポップ王、マイケル・ジャクソンの元妻である。つまり、ロック王の娘と、ポップ王が結婚したのである。キング・オブ・ロックの娘と、キング・オブ・ポップの結婚、それは、アメリカ中の話題をさらった。それは、『You are not alone』のビデオクリックで確認できる。マイケルとリサの夫婦が、ヌードで、出演している。しかし、これは人種ジョークでちょっといけないのだが、マイケルは黒人なのに、白人のリサよりも色が白いとは、いったいどういうことなのだろうか?リサが茶色がかって見えるのは、気のせいだろうか。あまりにもマイケルが白いためであろうか?不可思議だ。
しかし、そういう独身が日本の指導者となったことは、注目されるべきことである。最近では、独身が増えた。晩婚化で少子化、それに30代になっても未婚女性と男性が増えている。それは、結婚に対する信念が弱まったことと、女性の社会進出のためである。そう、これからは、独身の時代なのである。メイドの時代、ヴァージンの時代なのだ。そういう人間が、日本の社会システムの根本を叩き潰してくれることに大きく熱狂した。いずれ、彼らは結婚制度そのものを破壊してくれるであろう。
私にとって、日本はとても息苦しかった。中学でのDQNによるイジメ、女子に「変態」または「キモオタ」扱いされ、教諭の理不尽さ、親の干渉、それが原点となり、高校では引きこもりとなり、そして旧態依然の自民党の腐敗政治に対する怒り、年功序列というゲロ同然の制度を採用する企業、オウムなどのカルト、ヤクザ、右翼などのテロリスト集団、そんな憲法の原理に反するような暴力団が野放し状態になっているという腐敗した社会、財官政の癒着、不平等な言葉遣い、お辞儀という馬鹿げた習慣、夫婦別姓が認められない戸籍制度をベースにした結婚、私生児への差別、坊主の葬式詐欺、日本は言語、文化、宗教、政治、経済の随所において腐敗していた。しかし私はこの社会に対する復讐よりも、渡米を選んだ。でなければ、革命家といえども、一人で革命を起こしたならば、それは犯罪となり、犯罪者となっていたであろう。だから、小泉が出てきたときは、その腐敗したシステムそのものを破壊してくれるビシュヌ神のような人物が現れたのだ、と思った。その勢いで、自民党を粉砕してくれるとさえ思った。都会の独身者たちのルサンチマンが生んだアーキタイプが小泉だったのかもしれない。
だから、彼が、グレースランドでパフォーマンスをしたときは、
「ああ、オレと一緒だ!」
と叫んでしまった。ブリジット・ジョーンズ、小泉はともに2000年代初期に出現した文化的アイコンである。いやゆる女性も男性も「一匹狼」的な人間が、これからの主流になってきたのである。彼らが、登場してきたということは、文化的にそういう土壌が形成されたという証でもあろう。また『セックス・アンド・ザ・シティー』のニューヨークの30代と40代のスーパーキャリアガールズの独身女性の活躍は、著しいものであった。それは、西ヨーロッパ、北欧、アメリカで、とくにトレンドとなっており、日本でも、そうであろう。なにせ、30代の女性向けに、ファッションが発信されるというところは、世界でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨーク、東京ぐらいであろうか。そして、その一つの都市から、小泉が出てきたということは、まさしく時代の寵児ともいうべき存在であった。
そして、『All by myself』と『You are not alone』は完璧な対をなしているはずである。それを聴いて、独身は、自慰するのである。本当はrefugeeがいいにもかかわらず。しかし、やはり、独身の心の支えとなるものは、「萌え」であろう。
私は『School Days』の第6話を見たが、とても衝撃的だった。いやー、このアニメはドロドロしていて、まるで現実のようであり、嫌悪感が湧き出てくる、だからこのアニメは嫌いだが、ずるずると私までもが蟻地獄にハマってしまったかのように、抜け出すことが出来ない。というか、アニメだからこそ、これはカタルシスとなるが、本当にあるんだったら、大変なことであり、しかし、もっとも嫌悪するようなことが行われていようとも、それを観てしまう私もまた矛盾している。つまり、このアニメは大嫌いで大好きなのである。そう、人間の心というのは矛盾しているのだ。その矛盾を解決できないのが、このアニメの悪いところであり、いつの間にかハマってしまうところなのである、とても悔しいことなのだが。「ああ、卑しい、卑しい」と言いながら、観てしまうんだ。この心理、わかるだろう?
登場人物はこちら参照:
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加藤乙女ちゃん、「wonderful!」の一言に集約されるね。私も高校のときは、学祭実行委員だったこともあって、このエピソードにとてもこだわっている。だから私は、完全に、このアニメの学園と同化させていた。実行委員として、クラスを束ねるのはとても骨の折れる仕事だ。私もそれを経験したし、オタクっぽかった私に、リーダシップを認めるクラスではなかったし、オタクは文芸系という信念のもとに、ここでこそ活躍してクラスのみんなを見返してやるという動機のために、普段は引っ込み思案な私が思い切って学祭委員に入ったのに、現実はやはり冷酷であった。そして、同じように、電車の片隅でいつも一人で読書してそうな、文芸系の読書好きな桂言葉ちゃんは、学祭実行委員として、クラスをまとめようとして、乙女ちゃんのグループに注意するのだ。乙女ちゃんは、いわゆるアメリカ英語でいえば、高校のQueen Beeみたいな女子高生で、彼女のまわりは、かならず、あやかろうとする女の子たちが集まる。いわゆる、子分である。舎弟とでも言ってもいいだろうか。そのカメラの構図もすばらしい。だって、乙女ちゃんだけ座っていて、あとの子は、みんな乙女ちゃんを囲むように立っているのだから。しかも、リーダーは手を組んでいるし。いかにも偉そうで突っ張っているのだ。ツンツンしたその性格、憎たらしいね
。へへへ。それに、あの髪型も、栗色で、前髪がシャギのかかった、そして後ろに結んでいるという、あの独特なstuck-upとbitchnessを、よくぞキャラクターデザイナーは体現したと思う。そんな彼女に、舎弟たちは、
「いい加減教えてよー、乙女の狙ってる相手!」
と質問攻めにするが、乙女ちゃんは、一向に口を開かない。
「ヒントだけでも!」
という頼みに、彼女は、
「お・・同じ中学出身・・・」
と顔が赤くなりながら、言った。さすがの女王蜂も、恋愛の話になると、たじたじになるってところが、もう、「きょーえー!キター!」となってしまう。
「乙女ってハラミ中だよね、あそこ出身の男子って、そんないないよねー」
と盛り上がったところで、乙女ちゃんは、
「なによ!」
と突然は怒る。その時の構図も実にすばらしい。他の女の子は立っていて、顔はフレームから出てしまっているが、中心人物の顔さえ映ればいいわけだ。そして、他の女子たちが、一斉に乙女ちゃんが「なによ!」と言った相手に振り向いたのだ。そこで、VOで、言葉ちゃんの「いいえ・・」という声が聴こえるのだ。
「なんか実行委員さんが、こっちを見てたみたい」
と鼻を高くして、見下ろすように、そして見下すように、言葉ちゃんに言うのだ。そして、そこで、カットが切り替わり、黒板を後ろにした言葉ちゃんのフレームになるのだ。そして、乙女派の女の子が、
「なに、桂、なんか文句あるの?」
と威圧的に言うのだ。すると言葉ちゃんは、肩をすくめて、
「いいえ・・・ただホームルームだから、話し合いを・・」
と小声で言う。
「しゃっべてんの、あたしらだけじゃないじゃん!みんなに言いなよ!」
とクラスのまとめ役の言葉ちゃんが、突き上げを食らってしまった。圧力に負けた言葉ちゃんはうつむいてしまい、
「ごめんなさい」
と謝ってしまった。
「なに謝ってんの、こいつ?」
とされに追い打ちを女子たちはかけ、言葉ちゃんはさらにうつむいて、
「ごめんなさい」
と謝った。私は、
「うがー、こわぇー!くわばらくわばら!ちちちちゃー!」
となった。 ある子は、
「あああ、なんかやる気なくした。あたしたちだけ、ケチつけられてさぁ」
と職務放棄を示唆した。言葉ちゃんは、胸に握りこぶしを当てて、必死に、
「そんなつもりじゃ・・・」
と訴えた。しかし、カットは、今度は、乙女ちゃんの横顔に移動した。そのときの乙女ちゃんの表情、まさに、圧力で相手に勝ち誇ったようないきり立ったものだった。
「だいたい、お化け屋敷なんて、今時流行んないし。桂一人でやったら?」
「そんなー、無理ですよ」
「でも、みんな、ちょっと手伝えそうにないよねー」
そして乙女ちゃんの表情はクワッとなり、
「ただでさえ、あっちこっちの男に色目使ってるような奴に、仕切られたくないし」
と糾弾し出した。ここに、乙女ちゃんの真の憤慨がまさに噴出した。
「色目なんて・・・」
「昨日だって三組の伊藤にまとわりついてたじゃん」
「あれは!」
「伊藤、迷惑してんじゃない?やめてよね、ああいうの!」
そしたら、乙女ちゃんの隣にいた舎弟の一人が目をぱっちり開いて、
「あれっ?伊藤ってハラミ中じゃなかったけ?」
とつっこみを入れられてしまった。その時の、あの乙女ちゃんの表情の変わり様、
「はっ!」
と一気に息を吸い込んで、「しまった!」となったと同時に、ホッペタが一気に赤くなったのだ。自分から墓穴を掘って、みんなにバレてしまったのだ!その瞬間、私は悟った、力関係がまったく逆転してしまったことを。
「ああ、乙女ちゃん、今まで完全にゲームを支配していたのに、今度は完全に形勢不利となり、一気に言葉ちゃんと立場が逆転してしまった!ギャアハハッハッハー!!!」
「ああ、ひょっとして、乙女ちゃんの好きな相手ってー!」
ともう一人の子が、乙女ちゃんに指をさしたのである。乙女ちゃんは、「バカ!余計なこと言うな」とも考えることも出来ず、もはや声を発することすらできなかった。
「それ、本当ですか?加藤さん、誠君のことが、好きなんですか?」
「あんたには関係な・・」
「関係あります!」
と言葉ちゃんは、強引に乙女ちゃんがしゃべり終わる前に断定した。もはや、乙女ちゃんにとっては、これは負け戦でしかなかった。破滅へのロンドは、確実に彼女を捕らえるのは、時間の問題だった。そして、カットが切り替わって、言葉ちゃんの口元がドアップとなり、言葉ちゃんは、今までない腹式呼吸を使った強い声で、
「わたし、誠君の彼女ですから!」
と宣言した。そこで、またカットが切り替わり、乙女ちゃんは、「ウッ!」となるしかなかった。 私は、
「やったー、言葉ちゃん!」
となった。
「誠君から告白されて、おつきあいしてるんです。色目とか、まとわりつくとか、そんなことはしていません」
乙女ちゃんは、「そんな・・・」というショックのあまり、
「うそ・・」
と呟いたが、言葉ちゃんは、Coup de grace(とどめ)をさすように
「うそじゃありません。本当です!」
と言い切った。ああ、乙女ちゃん、完全にノックアウトされてしまった。ボスの敗北するのを目の当たりにした子分たちは、
「乙女・・」
と無力で、ボスを擁護することもできなかった。さらに、言葉ちゃんは、
「加藤さんが誠君のことを好きだからって、私に当たっても、どうにもならないですよ」
と、きっぱり。「悪あがきはよせ!」ということを伝え、乙女ちゃんは、完全に敗北した上に、プライドがズタズタとなり、さらにみんなの前で、恥を掻いてしまった。そして、言葉ちゃんのような内気でスポーツも苦手で、完全に見下していた相手に、自分の好きな相手を取られていたという衝撃、しかも自分はそれをちっとも察知できていなかったという屈辱、また、もっとも重要なことは、言葉ちゃんから誠に告白したのではなく、誠から言葉ちゃんに告白したという事実、それは、もう既に、はじめっからゲームオーバーだったという避けがたい事実を、彼女に突きつけられたのである。しかも、みんなの前で、それが明らかになってしまったのだ。完全な敗北者、ルーザーとなってしまったのである。私は、
「キョキョクオキョコカカーアカカー!!!」
と雄叫びをあげてしまった。全身の毛穴が一気に開いてしまったような、また、全身が落雷にあったような、全身が痺れてしまい、もうすこしで気絶するかと思ってしまった。そして、乙女ちゃんの自尊心はどんなに傷ついたことか。想像を絶する。そこで、あの伝説のボサノバ的なほのぼのとした切ないサントラの音量が大きくなるのだ。その絶妙なタイミングは、ワーグナーのオベラのセンス以上だ。ああ、このサウンドトラックが欲しい! それから、乙女ちゃんの、目がドアップとなり、彼女は柳眉を逆立てた。その怒りと怨念は、ひしひしと伝わってきて、私でさえ、背中がゾクッとなり、恐怖を感じた。
「言葉ちゃん、大丈夫かなぁ。普段から孤立しちゃっているからなぁ」
と私はとてつもない不安に駆り立てられた。とにかく、乙女ちゃんはプライドを傷つけた相手に復讐しようという一心である。女性としてのプライドを傷つけられた女ほど、恐ろしいものはない。ギロリと言葉ちゃんを睨みつけるあの殺気立った眼、しかも彼女の舎弟たちまで、一緒に言葉ちゃんを睨みつける。
「こわぇー!」
となった。だって、言葉ちゃんって孤立しているから、唯一の味方である誠がしっかりかばってあげないと駄目なんだけど、当の誠は西園寺世界にうつつを抜かしているし。西園寺も言葉ちゃんの味方のはずなのに、すでに裏切っているし。ああ、言葉ちゃんは、結局は一人ぼっちなんだということを、あの毛糸のボールを階段で落とすシーン、うわー、私は本当に可哀想になってしまった。哀れだ。「ものはあわれ」という平安時代の文学美をそのまま表しているかのようだ。それは、紫式部の『源氏物語』のようなドロドロさ、これは、日本美学の伝統なんだろうね。『失楽園』というか、まあ、私にとっては『失学園』だが。あのままじゃ言葉ちゃん、本当に四面楚歌になっちゃうよ。万事休すだよ。だって、もうほとんどの女子は、乙女ちゃんの復讐計画に参加するようだし。
しかも、このビデオの4分26秒目からの、女子たちが言葉ちゃんを憎しみを込めて見ているアングル、右から左へと移るそのシーンは、線路を使った移動撮影そのものであり、女の子たちが、言葉ちゃんの方向に向かって一斉に睨みつけるいう方向にカメラが線路の上を動いていくという演出は実に素晴らしい。この線路を使った移動撮影は、レニ・リーフェンシュタールというドイツの女性映画監督が考案した技術であり、『オリンピア・民族の祭典』というナチスのプロパガンダ映画で初めて使われた技術であった。まあ、言葉ちゃんの場合は『学園の祭典』であるが、まあ、とにかく、それが、現在では、世界の映画の撮影技術の基本中の基本となっているのだ。そして、極端なクローズアップもレニによる発明である。それが、乙女ちゃんの眼のクローズアップに使われ、言葉ちゃんに敵意を持つ女性集団のシーンも、移動撮影の技術であり、それが『School Days』に使われて、その技術の使い方のセンスというのは、もはや黒澤明以上であろう。黒沢も、線路の移動撮影を、『七人の侍』や『用心棒』などの侍映画に多用したと言われるが、この乙女ちゃんの言葉ちゃんに対する復讐宣言ほど、移動撮影がもっとも効力を発揮したものはないであろう。レニ監督の技術が、こういうところで遺憾なく発揮されるなんて、なんと素晴らしいことなのだ!
そして、乙女ちゃんは、復讐のために、携帯でネットワークを使って、女子たちに協力を求める。これは、まさに21世紀の戦争だ。テロリストがインターネットで情報交換してネットワークを築くように、それが、日本のとある高校でも、女子の間で行われているのだ。まさに、乙女ちゃんは、学園のオザマ・ビン・ラデンだ。そう、彼女は邪悪なテロリストだ。ブッシュが悪の枢軸国と認定した国の指導者なのだ。だから、彼女に萌えるはずがない。私は悪女には萌えない。あの子は、言葉ちゃんという正義によって破れたのであり、その正義に立ち向かうとするなんて、まさに凶悪な極悪非道のサタンのやることだ。ゴア革命は、インターネットと携帯を生み出したが、それは、乙女ちゃんのような怪物を作り出すという副作用も生んでしまった。モンスターを作り上げてしまうのだ。それは、ニーチェの「自分に満足していないものは、この世に復讐しようとする」というテーマそのものである。それは、まるで西アフリカのマリ共和国のバンバラ族の女神ムッソ・コロニであるように。
しかし、携帯での恋愛は、私をさらに憂鬱にさせた。こんなの、なかったもん、私が高校のとき。返してくれ、私の青春。だって、携帯で、浮気もしてしまえるんだから。私の学園のときなんか、ノートの切れ端にメッセイージを書いてそれを丸めて、それを好きな女の子にまわすか、または紙飛行機にして投げるかという原始時代の意思疎通をしていたのだから。今では、それが、すべて携帯でできてしまうのだから、なんという時代になったのだろうか。ああ、戻りたい。高校をやり直したい。私自身は、永遠の16歳だと思っているのに、当の女子高生たちは、そう思ってはくらない。どんなに悲しいことか!ああ、世の中は悲惨すぎる。過ぎてしまったものは、永遠に取り戻すことはできないのか!それは失学園でしかない。
ああ、このサントラは、ないのか!このサイトで調べたが、サントラのCDの発売が今月の22日だってよ。ふざけるな。それまで待てるか!@ その前に、私は禁断症状となって、窓から飛び降りるかもしれない。絶対待てない!
「恋をすれば千里も一里」
ということわざがあるが、
「萌えると、一里も千里」
が正しい。それだけ、時間が長く感じ、待ち遠しくなってしまうのだ。Yozucaの『記憶の海』というのだが、まだ発売されていないとは。くっそー、こんだけ感動した楽曲を独り占めできないなんて!苦しい。辛い。胃がちぎれそうだ!
ところで、そうそう、男は、地位と名誉、または、財産がどれだけあるか、仕事がどれだけできるか、パフォーマンスがどれだけよいか、というのが喧嘩のきっかけとなる。しかし、女性の場合は、まあ、特に女子高生の場合は、セクシュアリティーなのであろう。恋愛によって戦争が勃発するのだ。まあ、トロイ戦争は、ヘレンがパリスと駆け落ちしたために、戦争となったが、王族がなくなった今、それはもうないであろう。私のオクラホマの女優の友だちも、女性の関係はとても嫌悪していた。そして理由は『School Days』とまったく同じである。彼女は、女の子の親友がいたが、自分のボーイフレンドをその親友に奪い取られてしまって、大きな溝が入ってしまった。そして、それはボーイフレンドにも裏切られ、親友に同時に裏切られるという、相当なものであった。つまり、彼女は桂言葉と同じ経験を大学でしたのである。だから、彼女は女性でありながら、女性嫌いになった。よって、彼女は、私にいつも、
「All girls are bitches」
と言っていた。女性不信になったのだろう。しかし、私は、彼女を裏切った男こそが、
「asshole、stupid jerk」
と思うのだが、やはり女性は同性に対して特に厳しいということか。そして、私は、その後、彼女の元彼と親友はどうなったのかと尋ねたが、ロスに二人で住んでいるとのことである。やはり女性の敵は女性なのだろうか。私は、女性の真の敵は男性だと思うのだが、少なくともそうフェミニストは訴え続けてきたが、まあ、社会構造的には、男性至上主義社会では、男性が敵であるが、セクシュアリティー的には女性が敵なのだろう。というか、ヘトロ女性というのは自分の好きな相手が、他の女性に魅了されるときに、とても好戦的になるのだ。だから、乙女ちゃんも、言葉ちゃんを、「色目を使って自分の好きな人をたぶらかす不潔な女」としか考えられなかったのだ。言葉ちゃんはあばずれでもなんでもないのに。つまり、自分の好きな男に近づいてくる女はすべて「不潔」で「あばずれ」いやゆる英語で言うところの「slut」なのである。
でも、女の子って、本当に集団だよね。女子集団の噂って、人の一生さえ左右してしまうほどの破壊力があるからねー。ああ、こわー。言葉ちゃんて、読書っ子だし、集団行動しないから、女の子の世界では、かなり不利だよね。たぶん、彼女の巨乳も嫉妬の対象なのだろう。女の子は、身体的なことで同性に対してライバル心を燃やすみたいだし。女の子の女の子に対する憎悪というのは相当なものだが、私は男子であっても、その恐ろしさは知っているぞ。なぜなら私は、女の子の心理的集団リンチを受けたことがあるからだ。私も、高校のときに、
「キモイ」
と避けられていたし、しかも、一人や二人ではなく、クラス全員の女子からだったので、それはそれは、とても耐えられるものではなかった。しかも、クラスの女性だけではなくて、隣のクラス、さらには学年を飛び越えて、どうやら、私のキモさは、広く伝わってしまったらしい。たとえ違う県や地方自治体にいても、伝わってしまうような。その女子の伝達能力の威力はとても怖い。だから、アメリカに渡るしかなかったのだ。そして、携帯がない時代でも、それである。コミュニケーション能力が非常に高く、男子のは、ちょっと比べ物にならない。男はそこまで「stab in the back」的なことはしないし。しかし、女の子たちの噂は、たった一日で全校に浸透してしまうのだから。だから、女子からそういう評価を受けた私は、死にたいと本気で思った。学校に行けなくなった。登校拒否にもなった。私は彼女らの肌に一回も触ったことがなかったし、痴漢行為をしたわけでもない。なにもしていないのに、避けられたのだ。しかも、私に対する陰口は悪質を極めた。
「歩いてるのを見てるだけで吐き気がするよね。ねえねえ、見た見た?ヘルメスのお弁当にハエが集ってたよー。ええ!?やだー、キモーイ!」
という事実無根な噂が広まっていた。先輩がそういえば、後輩もそう洗脳される。それは、私の自尊心をぼろぼろにするのには充分すぎた。女の子たちの仕打ち、彼女らの冷酷さが私の現実だった。だから、私は厭離を生じ、渡米するにいたったのだ。そう、乙女ちゃんを見ると、そのような忌々しい記憶を思い出してしまうのだ・・・。
ところが、地元の大型スーパーのバイト先にも乙女ちゃんのようなキャラがいた。そこのレジの子だったんだけど、彼女もクールでタカビーで、私とは絶対に話さないだろうと、あきらめていたし、見向きもしなかった。どうせ学園のと同じ仕打ちを受けるのだろうとさえ思っていた。だから、ただ、レジの子の短いスカートの脚線美を見て、満足していただけである。そして帰宅していた毎日であった。それに彼女もレジの女の子を引き連れていたし、まるでレジの子のリーダーという感じで、結構怖かった。まあ、とても可愛かったのだが、まあ、可愛いというより、クール系だったね。そう、髪型が乙女ちゃんにそっくりで、だけど、彼女のは黒髪だったけど。背も私と同じぐらいだったし。あと、胸がでかかったし、セクシーでもあったんだよ。しかし、私は、もう渡米を決めていたので、まったく迷いはなかった。
しかーし、
である。彼女はある日突然、私に話しかけてきたのである。しかも休憩室でだ。私は何事かと思った。
「いったい何なんだろう」
と思った。しかも、集団で、その子がリーダーとなって。私はその時、
「こんなオレになぜ?」
と思ってしまった。そして、バカにされるのではないかと怖くなり、私はすぐに席を立って休憩室を後にした。しかし、彼女らはそんな私を見て、
「ああ、逃げた!キャハハ!」
と笑っていた。
「なんなんだよ、ひやかすつもりか?」
と思ったが、ところが、その時だけでなく、あのリーダーは、私を見かける度に話しかけてきてくれた。今度は集団ではなくて、彼女個人が私に話しかけてきたので、私は驚くばかりであった。
「なんなんだろう、この子!でも、かわいいっからいいか」
とあまり深く考えないようにした。まあ、話題と言えば、普通の世間話で、バイトのこと、学校のこと、芸能人のこと、それぐらいの平凡なものであったが、私にこんな可愛い子が話しかけてきてくれているという事実が、私を嬉しくさせていた。しかも、話すときは、やけにパーソナル・スペースを縮めてくるので、
「うー、やめて、近寄らないで、このままじゃ、好きになっちゃう」
とポリスの『Don't stand so close to me』の高校教師のように警戒したが、時既に遅く、す・・好きになってしまった・・・。だから、私は学校ではそのまま引き蘢み続けていたが、バイトは積極的に行くようになったし、バイトの時間がとても楽しみになった。そして、自転車をこぐスピードも上がってきた。
「こんなオレでも、話してくれる」
彼女は私にとって『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダだった。私は初めて女性の優しさというものに触れたのだ。彼女と会う度に、彼女の周りには、『ZZガンダム』のハマーン様のように薔薇が咲き乱れていた。私は、すでにあの時渡米を決心していたが、なんとその強固な決心が揺らいでしまったのだ。いわゆる、「迷い」が生じてしまったのだ。それに、バイトの帰り、彼女は、なぜか一人で、自転車置き場で待っていたのだ。私は
「おつかれさまです!」
と言って、急いで帰ったが、次の日、彼女は、また待っていて、
「丁度いいから、一緒に帰ろう」
と誘ってきた。
「ええ!!!?どうしてだろう?」
ととても不思議になった。しかし、それでも、
「でも、オレのようなキモイ奴を好きになるわけないしなぁ」
と相変わらず自信が持てなかった。しかし、と同時に、自転車で女子と一緒に帰ったことが一度もなかったので、私の胸の高まりは最高潮に達した。とても緊張した。口から心臓が飛び出るかと思った。
「もしかして、これは恋の予感?」
と浮き浮きした。だから、彼女との出会いから、私はプレステをしなくなったし、当時アニメオタクの間で流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』を見るのさえ辞めてしまった。私は自転車の風で髪が靡く彼女の顔を見て、
「ああ、こうして見ると、やっぱかわいいよなぁ」
とウットリしてしまった。そう恍惚状態になっている時に、彼女が自転車の帰り道で持ちかけてきた相談とは、
「最近、彼氏と上手くいってなくて・・」
というものだった。
「なんだよ、それかよ・・・」
私の心は「彼氏」という言葉によって、木っ端微塵に砕け散った
。それまで積み上げてきた期待が一気に裏切られてしまったのだ。もはやペダルをこいでいる足に感覚はなかった。その瞬間、私は日本に希望の光はないと悟った。よって、彼女が話していることをまったく聞き取れず、私はただ茫然として、交差点の信号で彼女と別れた。そして、私の渡米への決心は強固なものとなった。
「未練は断ち切られた、アメリカに行こう」
そうして、私はアメリカに来た。そう、乙女ちゃんは、その女の子、いわゆる私の日本で好きだった最後の女の子を思い出させてしまったのである。だから、この『School Days』のエピソードは、とても強い印象を私に与えたのであった。
それにしても、『School Days』でのこのドロドロした関係、シッダールタが言うように、争闘は愛から生じるのか?
シッダルータは確かに真理を言っているが、それは極端だし、男女が集まれば、恋は生じるものだ。だから、出家は、人と基本的に会わないのである。それも、「愛」を避けてである。愛を避ける宗教が仏教なのだ。つまり厭世家は恋愛を否定するのだ。つまり、現代的に言えば、それは引きこもりであろう。そしてアニメオタクは、人に執着することはない。アニメキャラは人ではない。生身の人間ではない。実体がない。だからこそ争闘は起きないのだ。しかし、シッダールタの時代にはアニメはなかった。だから、萌えが、人間に安らぎを与える真理をシッダールタは発見できなかったのだ。まあ、仕方ないといえば、しょうがないが。だから、萌えという「愛」から争闘が生じることはないのだ。萌えキャラという愛し好むものによって、妬みや憎しみは起きないし、逆にそれは救いとなる。「萌え」を発見できなかったシッダールタは実に気の毒である。もし彼が現代に生まれていれば、仏教は「萌え教」になっていただろうし、悟りの内実は、十二縁起ではなくて「萌え」になっていただろうし。また狂王ルートヴィヒ2世が、アニメを知っていれば、バイエルンの国家財政を破綻させることはなかったのだ。ワーグナーのオペラしかなかったというのが、残念極まりない。まあ、19世紀だったから仕方ないことか。テレビもPCもないのだから。そんな国王は引きこもりで、同性愛者で、また唯一の理解者が姉的な存在であった従姉妹のエリザベート・オーストリア皇妃であった。そう、彼は私と同じで、姉萌えだったのだ!
しかし、大元を辿れば、「一人としか付き合っては行けない」というルールがすべての悪の元凶だ。それは、キリストが作った「一人の異性としか結婚しては行けないし、離婚してはいけない」という言説そのもののために、人は苦しむのだ。誠は、言葉ちゃんも世界ちゃんも両方好きだったのだし、そして、その二人も誠のことが好きだったのだし、だったら二人の女の子と同時に付き合えばいいのだが、それは社会が許さないし、彼のモラルも許さないし、女の子もそれを許さない。そう、みんなイエスの呪縛にかかってしまっているのだ。それが悲劇の大元である。日本では、明治維新の以前では、「不倫」や「浮気」という概念がなかった。少なくとも庶民の間では、結婚は開かれており、恋はいたって自由であった。妻が男を寝室に連れ込んできた時は、夫は外で淋しく待っていなければならなかった。それが可能だったのは、子育ては現代のような家族単位の責任ではなく、村全体の責任だったからである。そう、「家」という概念は明治維新前にはなく、「村」という緩い概念しかなかったからだ。だから不倫というのは有り得なかった。そんなのがあったのは、貴族や武家社会だけであった。しかし武家社会は武家社会で男は妻がありながら、男色にふけた。そう、彼ら武士はバイセクシャルであったわけである。新撰組などは、まさにホモ軍団そのものであった。大島渚監督の『御法度』で私はそれを知った。だが、明治維新によってキリスト教倫理観が輸入されると、ホモは糾弾され、地下に潜るしかなかった。そして、21世紀になっても、誠、言葉ちゃん、世界ちゃん、乙女ちゃんは、キリスト教原理主義の犠牲となるしかないのである。
だから、キリスト教原理から脱却し、結婚を廃止すれば、このような苦しみは少なくとも軽減されるであろう。セクシュアリティーの独占が一番いけないことなのだから。つまり、独占欲の神であるヤハウェーを除霊することである。そうなれば、シッダールタの真理に従うこともないのである。まあ、私の場合は、好きな人がたくさんいたが、私を好きになった人がだれもいなかったということが、私の苦しみの原因なので、キリスト教的な恋愛とセックスのセットを分離させるべきである。そう、セクシュアリティーの解放によって、どんなに私は救われるだろうか?それを求めて渡米したのだが、いざ渡米してみると、そこは清教徒倫理に毒された不健全な社会であった。こんちくしょう!私は渡米したが、結局どの人種の女からもモテなかった、だから自暴自棄になってダラスのゲイ・バーにさえいったが、ゲイにもモテなかった。私は、性別を問わず、人種を問わず、モテなかったのだ。これぞ、真の負け組の平等主義というものであろう。だったら、「萌え」があるではないか!でも、萌えでなんとか生き延びることはできるとしても、しかし、やはり、正直なところ、生身の女が欲しい・・・。皮膚感覚の欠如は、あんまりだ・・・。このまんまじゃ・・・。
参考文献:
中村元訳『ブッダの真理のことば:感興のことば』岩波文庫、2006年
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年
。へへへ。それに、あの髪型も、栗色で、前髪がシャギのかかった、そして後ろに結んでいるという、あの独特なstuck-upとbitchnessを、よくぞキャラクターデザイナーは体現したと思う。そんな彼女に、舎弟たちは、 「いい加減教えてよー、乙女の狙ってる相手!」
と質問攻めにするが、乙女ちゃんは、一向に口を開かない。
「ヒントだけでも!」
という頼みに、彼女は、
「お・・同じ中学出身・・・」
と顔が赤くなりながら、言った。さすがの女王蜂も、恋愛の話になると、たじたじになるってところが、もう、「きょーえー!キター!」となってしまう。
「乙女ってハラミ中だよね、あそこ出身の男子って、そんないないよねー」
と盛り上がったところで、乙女ちゃんは、
「なによ!」
と突然は怒る。その時の構図も実にすばらしい。他の女の子は立っていて、顔はフレームから出てしまっているが、中心人物の顔さえ映ればいいわけだ。そして、他の女子たちが、一斉に乙女ちゃんが「なによ!」と言った相手に振り向いたのだ。そこで、VOで、言葉ちゃんの「いいえ・・」という声が聴こえるのだ。
「なんか実行委員さんが、こっちを見てたみたい」
と鼻を高くして、見下ろすように、そして見下すように、言葉ちゃんに言うのだ。そして、そこで、カットが切り替わり、黒板を後ろにした言葉ちゃんのフレームになるのだ。そして、乙女派の女の子が、
「なに、桂、なんか文句あるの?」
と威圧的に言うのだ。すると言葉ちゃんは、肩をすくめて、
「いいえ・・・ただホームルームだから、話し合いを・・」
と小声で言う。
「しゃっべてんの、あたしらだけじゃないじゃん!みんなに言いなよ!」
とクラスのまとめ役の言葉ちゃんが、突き上げを食らってしまった。圧力に負けた言葉ちゃんはうつむいてしまい、
「ごめんなさい」
と謝ってしまった。
「なに謝ってんの、こいつ?」
とされに追い打ちを女子たちはかけ、言葉ちゃんはさらにうつむいて、
「ごめんなさい」
と謝った。私は、
「うがー、こわぇー!くわばらくわばら!ちちちちゃー!」
となった。 ある子は、
「あああ、なんかやる気なくした。あたしたちだけ、ケチつけられてさぁ」
と職務放棄を示唆した。言葉ちゃんは、胸に握りこぶしを当てて、必死に、
「そんなつもりじゃ・・・」
と訴えた。しかし、カットは、今度は、乙女ちゃんの横顔に移動した。そのときの乙女ちゃんの表情、まさに、圧力で相手に勝ち誇ったようないきり立ったものだった。
「だいたい、お化け屋敷なんて、今時流行んないし。桂一人でやったら?」
「そんなー、無理ですよ」
「でも、みんな、ちょっと手伝えそうにないよねー」
そして乙女ちゃんの表情はクワッとなり、
「ただでさえ、あっちこっちの男に色目使ってるような奴に、仕切られたくないし」
と糾弾し出した。ここに、乙女ちゃんの真の憤慨がまさに噴出した。
「色目なんて・・・」
「昨日だって三組の伊藤にまとわりついてたじゃん」
「あれは!」
「伊藤、迷惑してんじゃない?やめてよね、ああいうの!」
そしたら、乙女ちゃんの隣にいた舎弟の一人が目をぱっちり開いて、
「あれっ?伊藤ってハラミ中じゃなかったけ?」
とつっこみを入れられてしまった。その時の、あの乙女ちゃんの表情の変わり様、
「はっ!」
と一気に息を吸い込んで、「しまった!」となったと同時に、ホッペタが一気に赤くなったのだ。自分から墓穴を掘って、みんなにバレてしまったのだ!その瞬間、私は悟った、力関係がまったく逆転してしまったことを。
「ああ、乙女ちゃん、今まで完全にゲームを支配していたのに、今度は完全に形勢不利となり、一気に言葉ちゃんと立場が逆転してしまった!ギャアハハッハッハー!!!」
「ああ、ひょっとして、乙女ちゃんの好きな相手ってー!」
ともう一人の子が、乙女ちゃんに指をさしたのである。乙女ちゃんは、「バカ!余計なこと言うな」とも考えることも出来ず、もはや声を発することすらできなかった。
「それ、本当ですか?加藤さん、誠君のことが、好きなんですか?」
「あんたには関係な・・」
「関係あります!」
と言葉ちゃんは、強引に乙女ちゃんがしゃべり終わる前に断定した。もはや、乙女ちゃんにとっては、これは負け戦でしかなかった。破滅へのロンドは、確実に彼女を捕らえるのは、時間の問題だった。そして、カットが切り替わって、言葉ちゃんの口元がドアップとなり、言葉ちゃんは、今までない腹式呼吸を使った強い声で、
「わたし、誠君の彼女ですから!」
と宣言した。そこで、またカットが切り替わり、乙女ちゃんは、「ウッ!」となるしかなかった。 私は、
「やったー、言葉ちゃん!」
となった。
「誠君から告白されて、おつきあいしてるんです。色目とか、まとわりつくとか、そんなことはしていません」
乙女ちゃんは、「そんな・・・」というショックのあまり、
「うそ・・」
と呟いたが、言葉ちゃんは、Coup de grace(とどめ)をさすように
「うそじゃありません。本当です!」
と言い切った。ああ、乙女ちゃん、完全にノックアウトされてしまった。ボスの敗北するのを目の当たりにした子分たちは、
「乙女・・」
と無力で、ボスを擁護することもできなかった。さらに、言葉ちゃんは、
「加藤さんが誠君のことを好きだからって、私に当たっても、どうにもならないですよ」
と、きっぱり。「悪あがきはよせ!」ということを伝え、乙女ちゃんは、完全に敗北した上に、プライドがズタズタとなり、さらにみんなの前で、恥を掻いてしまった。そして、言葉ちゃんのような内気でスポーツも苦手で、完全に見下していた相手に、自分の好きな相手を取られていたという衝撃、しかも自分はそれをちっとも察知できていなかったという屈辱、また、もっとも重要なことは、言葉ちゃんから誠に告白したのではなく、誠から言葉ちゃんに告白したという事実、それは、もう既に、はじめっからゲームオーバーだったという避けがたい事実を、彼女に突きつけられたのである。しかも、みんなの前で、それが明らかになってしまったのだ。完全な敗北者、ルーザーとなってしまったのである。私は、
「キョキョクオキョコカカーアカカー!!!」
と雄叫びをあげてしまった。全身の毛穴が一気に開いてしまったような、また、全身が落雷にあったような、全身が痺れてしまい、もうすこしで気絶するかと思ってしまった。そして、乙女ちゃんの自尊心はどんなに傷ついたことか。想像を絶する。そこで、あの伝説のボサノバ的なほのぼのとした切ないサントラの音量が大きくなるのだ。その絶妙なタイミングは、ワーグナーのオベラのセンス以上だ。ああ、このサウンドトラックが欲しい! それから、乙女ちゃんの、目がドアップとなり、彼女は柳眉を逆立てた。その怒りと怨念は、ひしひしと伝わってきて、私でさえ、背中がゾクッとなり、恐怖を感じた。
「言葉ちゃん、大丈夫かなぁ。普段から孤立しちゃっているからなぁ」
と私はとてつもない不安に駆り立てられた。とにかく、乙女ちゃんはプライドを傷つけた相手に復讐しようという一心である。女性としてのプライドを傷つけられた女ほど、恐ろしいものはない。ギロリと言葉ちゃんを睨みつけるあの殺気立った眼、しかも彼女の舎弟たちまで、一緒に言葉ちゃんを睨みつける。
「こわぇー!」
となった。だって、言葉ちゃんって孤立しているから、唯一の味方である誠がしっかりかばってあげないと駄目なんだけど、当の誠は西園寺世界にうつつを抜かしているし。西園寺も言葉ちゃんの味方のはずなのに、すでに裏切っているし。ああ、言葉ちゃんは、結局は一人ぼっちなんだということを、あの毛糸のボールを階段で落とすシーン、うわー、私は本当に可哀想になってしまった。哀れだ。「ものはあわれ」という平安時代の文学美をそのまま表しているかのようだ。それは、紫式部の『源氏物語』のようなドロドロさ、これは、日本美学の伝統なんだろうね。『失楽園』というか、まあ、私にとっては『失学園』だが。あのままじゃ言葉ちゃん、本当に四面楚歌になっちゃうよ。万事休すだよ。だって、もうほとんどの女子は、乙女ちゃんの復讐計画に参加するようだし。
しかも、このビデオの4分26秒目からの、女子たちが言葉ちゃんを憎しみを込めて見ているアングル、右から左へと移るそのシーンは、線路を使った移動撮影そのものであり、女の子たちが、言葉ちゃんの方向に向かって一斉に睨みつけるいう方向にカメラが線路の上を動いていくという演出は実に素晴らしい。この線路を使った移動撮影は、レニ・リーフェンシュタールというドイツの女性映画監督が考案した技術であり、『オリンピア・民族の祭典』というナチスのプロパガンダ映画で初めて使われた技術であった。まあ、言葉ちゃんの場合は『学園の祭典』であるが、まあ、とにかく、それが、現在では、世界の映画の撮影技術の基本中の基本となっているのだ。そして、極端なクローズアップもレニによる発明である。それが、乙女ちゃんの眼のクローズアップに使われ、言葉ちゃんに敵意を持つ女性集団のシーンも、移動撮影の技術であり、それが『School Days』に使われて、その技術の使い方のセンスというのは、もはや黒澤明以上であろう。黒沢も、線路の移動撮影を、『七人の侍』や『用心棒』などの侍映画に多用したと言われるが、この乙女ちゃんの言葉ちゃんに対する復讐宣言ほど、移動撮影がもっとも効力を発揮したものはないであろう。レニ監督の技術が、こういうところで遺憾なく発揮されるなんて、なんと素晴らしいことなのだ!
そして、乙女ちゃんは、復讐のために、携帯でネットワークを使って、女子たちに協力を求める。これは、まさに21世紀の戦争だ。テロリストがインターネットで情報交換してネットワークを築くように、それが、日本のとある高校でも、女子の間で行われているのだ。まさに、乙女ちゃんは、学園のオザマ・ビン・ラデンだ。そう、彼女は邪悪なテロリストだ。ブッシュが悪の枢軸国と認定した国の指導者なのだ。だから、彼女に萌えるはずがない。私は悪女には萌えない。あの子は、言葉ちゃんという正義によって破れたのであり、その正義に立ち向かうとするなんて、まさに凶悪な極悪非道のサタンのやることだ。ゴア革命は、インターネットと携帯を生み出したが、それは、乙女ちゃんのような怪物を作り出すという副作用も生んでしまった。モンスターを作り上げてしまうのだ。それは、ニーチェの「自分に満足していないものは、この世に復讐しようとする」というテーマそのものである。それは、まるで西アフリカのマリ共和国のバンバラ族の女神ムッソ・コロニであるように。
しかし、携帯での恋愛は、私をさらに憂鬱にさせた。こんなの、なかったもん、私が高校のとき。返してくれ、私の青春。だって、携帯で、浮気もしてしまえるんだから。私の学園のときなんか、ノートの切れ端にメッセイージを書いてそれを丸めて、それを好きな女の子にまわすか、または紙飛行機にして投げるかという原始時代の意思疎通をしていたのだから。今では、それが、すべて携帯でできてしまうのだから、なんという時代になったのだろうか。ああ、戻りたい。高校をやり直したい。私自身は、永遠の16歳だと思っているのに、当の女子高生たちは、そう思ってはくらない。どんなに悲しいことか!ああ、世の中は悲惨すぎる。過ぎてしまったものは、永遠に取り戻すことはできないのか!それは失学園でしかない。
ああ、このサントラは、ないのか!このサイトで調べたが、サントラのCDの発売が今月の22日だってよ。ふざけるな。それまで待てるか!@ その前に、私は禁断症状となって、窓から飛び降りるかもしれない。絶対待てない!
「恋をすれば千里も一里」
ということわざがあるが、
「萌えると、一里も千里」
が正しい。それだけ、時間が長く感じ、待ち遠しくなってしまうのだ。Yozucaの『記憶の海』というのだが、まだ発売されていないとは。くっそー、こんだけ感動した楽曲を独り占めできないなんて!苦しい。辛い。胃がちぎれそうだ!
ところで、そうそう、男は、地位と名誉、または、財産がどれだけあるか、仕事がどれだけできるか、パフォーマンスがどれだけよいか、というのが喧嘩のきっかけとなる。しかし、女性の場合は、まあ、特に女子高生の場合は、セクシュアリティーなのであろう。恋愛によって戦争が勃発するのだ。まあ、トロイ戦争は、ヘレンがパリスと駆け落ちしたために、戦争となったが、王族がなくなった今、それはもうないであろう。私のオクラホマの女優の友だちも、女性の関係はとても嫌悪していた。そして理由は『School Days』とまったく同じである。彼女は、女の子の親友がいたが、自分のボーイフレンドをその親友に奪い取られてしまって、大きな溝が入ってしまった。そして、それはボーイフレンドにも裏切られ、親友に同時に裏切られるという、相当なものであった。つまり、彼女は桂言葉と同じ経験を大学でしたのである。だから、彼女は女性でありながら、女性嫌いになった。よって、彼女は、私にいつも、
「All girls are bitches」
と言っていた。女性不信になったのだろう。しかし、私は、彼女を裏切った男こそが、
「asshole、stupid jerk」
と思うのだが、やはり女性は同性に対して特に厳しいということか。そして、私は、その後、彼女の元彼と親友はどうなったのかと尋ねたが、ロスに二人で住んでいるとのことである。やはり女性の敵は女性なのだろうか。私は、女性の真の敵は男性だと思うのだが、少なくともそうフェミニストは訴え続けてきたが、まあ、社会構造的には、男性至上主義社会では、男性が敵であるが、セクシュアリティー的には女性が敵なのだろう。というか、ヘトロ女性というのは自分の好きな相手が、他の女性に魅了されるときに、とても好戦的になるのだ。だから、乙女ちゃんも、言葉ちゃんを、「色目を使って自分の好きな人をたぶらかす不潔な女」としか考えられなかったのだ。言葉ちゃんはあばずれでもなんでもないのに。つまり、自分の好きな男に近づいてくる女はすべて「不潔」で「あばずれ」いやゆる英語で言うところの「slut」なのである。
でも、女の子って、本当に集団だよね。女子集団の噂って、人の一生さえ左右してしまうほどの破壊力があるからねー。ああ、こわー。言葉ちゃんて、読書っ子だし、集団行動しないから、女の子の世界では、かなり不利だよね。たぶん、彼女の巨乳も嫉妬の対象なのだろう。女の子は、身体的なことで同性に対してライバル心を燃やすみたいだし。女の子の女の子に対する憎悪というのは相当なものだが、私は男子であっても、その恐ろしさは知っているぞ。なぜなら私は、女の子の心理的集団リンチを受けたことがあるからだ。私も、高校のときに、
「キモイ」
と避けられていたし、しかも、一人や二人ではなく、クラス全員の女子からだったので、それはそれは、とても耐えられるものではなかった。しかも、クラスの女性だけではなくて、隣のクラス、さらには学年を飛び越えて、どうやら、私のキモさは、広く伝わってしまったらしい。たとえ違う県や地方自治体にいても、伝わってしまうような。その女子の伝達能力の威力はとても怖い。だから、アメリカに渡るしかなかったのだ。そして、携帯がない時代でも、それである。コミュニケーション能力が非常に高く、男子のは、ちょっと比べ物にならない。男はそこまで「stab in the back」的なことはしないし。しかし、女の子たちの噂は、たった一日で全校に浸透してしまうのだから。だから、女子からそういう評価を受けた私は、死にたいと本気で思った。学校に行けなくなった。登校拒否にもなった。私は彼女らの肌に一回も触ったことがなかったし、痴漢行為をしたわけでもない。なにもしていないのに、避けられたのだ。しかも、私に対する陰口は悪質を極めた。
「歩いてるのを見てるだけで吐き気がするよね。ねえねえ、見た見た?ヘルメスのお弁当にハエが集ってたよー。ええ!?やだー、キモーイ!」
という事実無根な噂が広まっていた。先輩がそういえば、後輩もそう洗脳される。それは、私の自尊心をぼろぼろにするのには充分すぎた。女の子たちの仕打ち、彼女らの冷酷さが私の現実だった。だから、私は厭離を生じ、渡米するにいたったのだ。そう、乙女ちゃんを見ると、そのような忌々しい記憶を思い出してしまうのだ・・・。
ところが、地元の大型スーパーのバイト先にも乙女ちゃんのようなキャラがいた。そこのレジの子だったんだけど、彼女もクールでタカビーで、私とは絶対に話さないだろうと、あきらめていたし、見向きもしなかった。どうせ学園のと同じ仕打ちを受けるのだろうとさえ思っていた。だから、ただ、レジの子の短いスカートの脚線美を見て、満足していただけである。そして帰宅していた毎日であった。それに彼女もレジの女の子を引き連れていたし、まるでレジの子のリーダーという感じで、結構怖かった。まあ、とても可愛かったのだが、まあ、可愛いというより、クール系だったね。そう、髪型が乙女ちゃんにそっくりで、だけど、彼女のは黒髪だったけど。背も私と同じぐらいだったし。あと、胸がでかかったし、セクシーでもあったんだよ。しかし、私は、もう渡米を決めていたので、まったく迷いはなかった。
しかーし、
である。彼女はある日突然、私に話しかけてきたのである。しかも休憩室でだ。私は何事かと思った。
「いったい何なんだろう」
と思った。しかも、集団で、その子がリーダーとなって。私はその時、
「こんなオレになぜ?」
と思ってしまった。そして、バカにされるのではないかと怖くなり、私はすぐに席を立って休憩室を後にした。しかし、彼女らはそんな私を見て、
「ああ、逃げた!キャハハ!」
と笑っていた。
「なんなんだよ、ひやかすつもりか?」
と思ったが、ところが、その時だけでなく、あのリーダーは、私を見かける度に話しかけてきてくれた。今度は集団ではなくて、彼女個人が私に話しかけてきたので、私は驚くばかりであった。
「なんなんだろう、この子!でも、かわいいっからいいか」
とあまり深く考えないようにした。まあ、話題と言えば、普通の世間話で、バイトのこと、学校のこと、芸能人のこと、それぐらいの平凡なものであったが、私にこんな可愛い子が話しかけてきてくれているという事実が、私を嬉しくさせていた。しかも、話すときは、やけにパーソナル・スペースを縮めてくるので、
「うー、やめて、近寄らないで、このままじゃ、好きになっちゃう」
とポリスの『Don't stand so close to me』の高校教師のように警戒したが、時既に遅く、す・・好きになってしまった・・・。だから、私は学校ではそのまま引き蘢み続けていたが、バイトは積極的に行くようになったし、バイトの時間がとても楽しみになった。そして、自転車をこぐスピードも上がってきた。
「こんなオレでも、話してくれる」
彼女は私にとって『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダだった。私は初めて女性の優しさというものに触れたのだ。彼女と会う度に、彼女の周りには、『ZZガンダム』のハマーン様のように薔薇が咲き乱れていた。私は、すでにあの時渡米を決心していたが、なんとその強固な決心が揺らいでしまったのだ。いわゆる、「迷い」が生じてしまったのだ。それに、バイトの帰り、彼女は、なぜか一人で、自転車置き場で待っていたのだ。私は
「おつかれさまです!」
と言って、急いで帰ったが、次の日、彼女は、また待っていて、
「丁度いいから、一緒に帰ろう」
と誘ってきた。
「ええ!!!?どうしてだろう?」
ととても不思議になった。しかし、それでも、
「でも、オレのようなキモイ奴を好きになるわけないしなぁ」
と相変わらず自信が持てなかった。しかし、と同時に、自転車で女子と一緒に帰ったことが一度もなかったので、私の胸の高まりは最高潮に達した。とても緊張した。口から心臓が飛び出るかと思った。
「もしかして、これは恋の予感?」
と浮き浮きした。だから、彼女との出会いから、私はプレステをしなくなったし、当時アニメオタクの間で流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』を見るのさえ辞めてしまった。私は自転車の風で髪が靡く彼女の顔を見て、
「ああ、こうして見ると、やっぱかわいいよなぁ」
とウットリしてしまった。そう恍惚状態になっている時に、彼女が自転車の帰り道で持ちかけてきた相談とは、
「最近、彼氏と上手くいってなくて・・」
というものだった。
「なんだよ、それかよ・・・」
私の心は「彼氏」という言葉によって、木っ端微塵に砕け散った
。それまで積み上げてきた期待が一気に裏切られてしまったのだ。もはやペダルをこいでいる足に感覚はなかった。その瞬間、私は日本に希望の光はないと悟った。よって、彼女が話していることをまったく聞き取れず、私はただ茫然として、交差点の信号で彼女と別れた。そして、私の渡米への決心は強固なものとなった。「未練は断ち切られた、アメリカに行こう」
そうして、私はアメリカに来た。そう、乙女ちゃんは、その女の子、いわゆる私の日本で好きだった最後の女の子を思い出させてしまったのである。だから、この『School Days』のエピソードは、とても強い印象を私に与えたのであった。
それにしても、『School Days』でのこのドロドロした関係、シッダールタが言うように、争闘は愛から生じるのか?
争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる(863)
『スッタニパータ』
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい(210)
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない(211)
『ダンマパダ』
シッダルータは確かに真理を言っているが、それは極端だし、男女が集まれば、恋は生じるものだ。だから、出家は、人と基本的に会わないのである。それも、「愛」を避けてである。愛を避ける宗教が仏教なのだ。つまり厭世家は恋愛を否定するのだ。つまり、現代的に言えば、それは引きこもりであろう。そしてアニメオタクは、人に執着することはない。アニメキャラは人ではない。生身の人間ではない。実体がない。だからこそ争闘は起きないのだ。しかし、シッダールタの時代にはアニメはなかった。だから、萌えが、人間に安らぎを与える真理をシッダールタは発見できなかったのだ。まあ、仕方ないといえば、しょうがないが。だから、萌えという「愛」から争闘が生じることはないのだ。萌えキャラという愛し好むものによって、妬みや憎しみは起きないし、逆にそれは救いとなる。「萌え」を発見できなかったシッダールタは実に気の毒である。もし彼が現代に生まれていれば、仏教は「萌え教」になっていただろうし、悟りの内実は、十二縁起ではなくて「萌え」になっていただろうし。また狂王ルートヴィヒ2世が、アニメを知っていれば、バイエルンの国家財政を破綻させることはなかったのだ。ワーグナーのオペラしかなかったというのが、残念極まりない。まあ、19世紀だったから仕方ないことか。テレビもPCもないのだから。そんな国王は引きこもりで、同性愛者で、また唯一の理解者が姉的な存在であった従姉妹のエリザベート・オーストリア皇妃であった。そう、彼は私と同じで、姉萌えだったのだ!
しかし、大元を辿れば、「一人としか付き合っては行けない」というルールがすべての悪の元凶だ。それは、キリストが作った「一人の異性としか結婚しては行けないし、離婚してはいけない」という言説そのもののために、人は苦しむのだ。誠は、言葉ちゃんも世界ちゃんも両方好きだったのだし、そして、その二人も誠のことが好きだったのだし、だったら二人の女の子と同時に付き合えばいいのだが、それは社会が許さないし、彼のモラルも許さないし、女の子もそれを許さない。そう、みんなイエスの呪縛にかかってしまっているのだ。それが悲劇の大元である。日本では、明治維新の以前では、「不倫」や「浮気」という概念がなかった。少なくとも庶民の間では、結婚は開かれており、恋はいたって自由であった。妻が男を寝室に連れ込んできた時は、夫は外で淋しく待っていなければならなかった。それが可能だったのは、子育ては現代のような家族単位の責任ではなく、村全体の責任だったからである。そう、「家」という概念は明治維新前にはなく、「村」という緩い概念しかなかったからだ。だから不倫というのは有り得なかった。そんなのがあったのは、貴族や武家社会だけであった。しかし武家社会は武家社会で男は妻がありながら、男色にふけた。そう、彼ら武士はバイセクシャルであったわけである。新撰組などは、まさにホモ軍団そのものであった。大島渚監督の『御法度』で私はそれを知った。だが、明治維新によってキリスト教倫理観が輸入されると、ホモは糾弾され、地下に潜るしかなかった。そして、21世紀になっても、誠、言葉ちゃん、世界ちゃん、乙女ちゃんは、キリスト教原理主義の犠牲となるしかないのである。
だから、キリスト教原理から脱却し、結婚を廃止すれば、このような苦しみは少なくとも軽減されるであろう。セクシュアリティーの独占が一番いけないことなのだから。つまり、独占欲の神であるヤハウェーを除霊することである。そうなれば、シッダールタの真理に従うこともないのである。まあ、私の場合は、好きな人がたくさんいたが、私を好きになった人がだれもいなかったということが、私の苦しみの原因なので、キリスト教的な恋愛とセックスのセットを分離させるべきである。そう、セクシュアリティーの解放によって、どんなに私は救われるだろうか?それを求めて渡米したのだが、いざ渡米してみると、そこは清教徒倫理に毒された不健全な社会であった。こんちくしょう!私は渡米したが、結局どの人種の女からもモテなかった、だから自暴自棄になってダラスのゲイ・バーにさえいったが、ゲイにもモテなかった。私は、性別を問わず、人種を問わず、モテなかったのだ。これぞ、真の負け組の平等主義というものであろう。だったら、「萌え」があるではないか!でも、萌えでなんとか生き延びることはできるとしても、しかし、やはり、正直なところ、生身の女が欲しい・・・。皮膚感覚の欠如は、あんまりだ・・・。このまんまじゃ・・・。
参考文献:
中村元訳『ブッダの真理のことば:感興のことば』岩波文庫、2006年
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年
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私の無比の親友であり、師でもある尊師のレジデンスで、久々に静養を取った。社会人として、会社のいざこざやストレスなど、現実世界にはすっかり疲れてしまったので、ここ2週間はまともに睡眠を取ることもできず、疲労困憊していた。だから、正直に言えば、尊師との会合、またはアニメだけでなく、休養を取ることも、目的の一つであった。レジデンスに来てからは、安心したのか、一気にどっと溜まってた疲れが出てきて、朝も昼も夜も定期的に意識を失って、寝てしまった。ガンダムを見ていたのだが、あれはとても集中力を要するものなので、たとえコメディーであっても、そうとう内容が濃いので、エネルギーを消費する。だから、観ている途中でも、眠ってしまった。しかし、私の精神は回復することができた。私もあの世界にいたら、ハマーン萌えに興じていたことだろう。あんな総帥をもったマシマーはとても羨ましかった。あの気持ち、本当に理解できる。私も、こんどからスーツのときは、薔薇をポケットに刺そうと思う。しかも、コーティング加工は必須条件だ。さもないとハマーン様に対する不敬罪だ。
静養地のようなこの静かなレジデンスは、とても良好なセラピーになった。それに、尊師のおかげでPeach Wellに可愛さを見いだしたし、ああ、秋葉にいきたい。イザナミの子どもたちである、糞尿と月経の血の神々が祀られているのだから。ドイツ人のサブカルチャー系のスカトロジストの巡礼地となりそうでもあるが・・・。まあ、そんなものは置いといて、とにかく、我々の聖地は、スカト系ではなく、スケディア系として認識してるのだから。まあ、スケディア系でも、sexualかemotionalかに別れるが、「萌え」はemotionalの部類に属するであろう。まあ、そこまでのこだわりはないし、どちらでもかまわないが、私の嗜好は、どちらかといえば「萌え」である。sexualは、現実の女性に求めるほうが強いと言えるだろう。
心の静養を提供していただいた尊師には、心から感謝する。
静養地のようなこの静かなレジデンスは、とても良好なセラピーになった。それに、尊師のおかげでPeach Wellに可愛さを見いだしたし、ああ、秋葉にいきたい。イザナミの子どもたちである、糞尿と月経の血の神々が祀られているのだから。ドイツ人のサブカルチャー系のスカトロジストの巡礼地となりそうでもあるが・・・。まあ、そんなものは置いといて、とにかく、我々の聖地は、スカト系ではなく、スケディア系として認識してるのだから。まあ、スケディア系でも、sexualかemotionalかに別れるが、「萌え」はemotionalの部類に属するであろう。まあ、そこまでのこだわりはないし、どちらでもかまわないが、私の嗜好は、どちらかといえば「萌え」である。sexualは、現実の女性に求めるほうが強いと言えるだろう。
心の静養を提供していただいた尊師には、心から感謝する。
この記事を読んで関心したことだが、さすがはアメリカの企業だ。肥満率と喫煙率の高い従業員に対して罰金を科すとは。しかし、このデータを見れば、それは緊急対策であることは間違いない。苦肉の策といったほうが、的確であろうか。よくそこまで、太らせたものである。じつに、アメリカ全人口の10人に7人が体重オーバーなのである。そして、三割が肥満だ。ところが、これは先進国の問題だと思ったら、なんと発展途上国のメキシコが、世界第二位の肥満大国であるのが、意外であった。あれだけ、財政難なのに。私は、実際にヴァンで、メキシコの山岳の村々を転々としたが、あれはもう悲惨な物であり、子どもたちはまともなTシャツもなく、裸足で舗装されていない道路を駆け回っていたし、それにとても痩せていた。あれは、ゲットーというものではなく、本当に極貧であったし、あんなのは、見たことがなかった。まるで、難民であり、シカゴのゴーストタウンよりもひどいものだった。だから、私は、アメリカの強硬な移民排撃政策には、反対するようになったし、メキシコにそんなに太るだけの食べ物があるとは、信じられないのだ。きっと都市の病気なのであろう。食べ物が都市に集中しているのだ。だから、そんな国が、アメリカの次に肥満率が高いとは、とても信じられないのである。
OECD諸国のなかで、もちろん、日本が一番肥満率が低いのだが、それでも、オーバーウェイトが24%もいるとは。だったら、10人に2人は、ブス・ブサイク確定ということであろう。しかし、肥満率が3%というのは、あっている。実際、私が日本にいたとき、肥満体質の人間に会ったことは一度しかないし、テレビでしか見たことがなかった。そう、関取のように、曙などの。まあ、あれは特殊だが。だから、人口比で見れば、アメリカよりも、日本のほうが、可愛い子が多いのである。アメリカの女性は、7割がオーバーウェイトだから、美人は10人中3人に絞られてしまうのだから。まあ、
「太ってさえいなければ、絶対に超美人になるはずだ」
という顔立ちの人は、かなりいたが、それでも、肥満がせっかくの彼女らの天から授かった彫刻を台無しにしてしまっているのが、とても遺憾である。アメリカでは、我々にLipophilia(肥満愛)を強制しようとでもいうのか?
しかし、日本は肥満率の低さを誇るべきだし、その食生活は、世界の模範となるが、だが、最大の欠点は喫煙率である。それは、6割りであるからだ。日本の企業も、アメリカ企業を見習って、喫煙者を罰するべきであろう。アメリカの企業は、喫煙と肥満両方を罰する。アメリカでは、喫煙率は20%ぐらいしかないにもかかわらず。つまり、喫煙は、健康的に間違っているということが、社会に浸透しているのだ。しかし、女性の喫煙率が上昇しているのが、とても気がかりだ。社会的に独立した女は、男みたいにタバコを吸うことでキャリアウーマン気取りになるのであろうか。男性至上主義のシンボルであったタバコを、多くのアメリカ人の男性は吸わなくなってきているというのに。女性は、まったく逆のことをしているのだ。フェミニズムの悪い結果である。
だが、日本は、残念ながら精神レベルがとても低い。タバコを吸う男をいまだに日本人女性は、
「かっこいい、しぶい、ヤンキー的で、ダンディー」
と思うのだ。だから、日本はいまだに男性至上主義社会なのだ。マスキュリンの男根崇拝をそのままシンボル化したフェティシズムである。タバコ社会の日本は、『パワーかフォースか』の指数を用いれば、マイナス1000であろう。あんな腐敗した社会が600なわけがない。それは、絶対に間違っている。保証する。裁判所で宣誓してもいい。タバコ社会の精神レベルは0である。タバコは副流煙という「死の灰」をまき散らすので、あれは明らかに犯罪であろう。そして、その悪臭はすべてを台無しにする。レストランでの料理も台無しだし、とくにベッドでも、キスするときに、一気にテンションが下がるだろう(まあ、私は、美女が吸っている葉巻を「吸わせて?」とお願いして、間接キスしたことがあったが、あれはほんの気まぐれだ)。私は、タバコが嫌で、渡米したようなものだ。DQN的な薬物だ、タバコは、ヤンキー的な、不良的な、暴力を示唆するような、そんなものは、萌え系のアニメオタクとは相反する。私は、様々なアニメオタクと会ってきたが、みんな健康にとても敏感であった。下戸も多かったし、タバコを吸う人はめったにいなかった。しかし、アニメオタクが酒とタバコから距離を置くために恋愛で迫害されてきたのは、現在の男性至上主義的な消費社会の言説では、酒とタバコにセックスが結びついてしまっているからだ。だから、セックスと薬物を分離するべきである。そうすれば、アニメオタクにも、そのようなネオリベラル消費社会の言説から惑わされることがなくなるので、女の子も、アニメオタクを理解し、ベッドをともにするようになる。だからこそ、日本で、企業がタバコを罰することを望む。とにかく、社内、室内タバコは絶対に禁止しなければならない。あらゆる建物の中でのタバコは犯罪としなければならないのだ。
OECD諸国のなかで、もちろん、日本が一番肥満率が低いのだが、それでも、オーバーウェイトが24%もいるとは。だったら、10人に2人は、ブス・ブサイク確定ということであろう。しかし、肥満率が3%というのは、あっている。実際、私が日本にいたとき、肥満体質の人間に会ったことは一度しかないし、テレビでしか見たことがなかった。そう、関取のように、曙などの。まあ、あれは特殊だが。だから、人口比で見れば、アメリカよりも、日本のほうが、可愛い子が多いのである。アメリカの女性は、7割がオーバーウェイトだから、美人は10人中3人に絞られてしまうのだから。まあ、
「太ってさえいなければ、絶対に超美人になるはずだ」
という顔立ちの人は、かなりいたが、それでも、肥満がせっかくの彼女らの天から授かった彫刻を台無しにしてしまっているのが、とても遺憾である。アメリカでは、我々にLipophilia(肥満愛)を強制しようとでもいうのか?
しかし、日本は肥満率の低さを誇るべきだし、その食生活は、世界の模範となるが、だが、最大の欠点は喫煙率である。それは、6割りであるからだ。日本の企業も、アメリカ企業を見習って、喫煙者を罰するべきであろう。アメリカの企業は、喫煙と肥満両方を罰する。アメリカでは、喫煙率は20%ぐらいしかないにもかかわらず。つまり、喫煙は、健康的に間違っているということが、社会に浸透しているのだ。しかし、女性の喫煙率が上昇しているのが、とても気がかりだ。社会的に独立した女は、男みたいにタバコを吸うことでキャリアウーマン気取りになるのであろうか。男性至上主義のシンボルであったタバコを、多くのアメリカ人の男性は吸わなくなってきているというのに。女性は、まったく逆のことをしているのだ。フェミニズムの悪い結果である。
だが、日本は、残念ながら精神レベルがとても低い。タバコを吸う男をいまだに日本人女性は、
「かっこいい、しぶい、ヤンキー的で、ダンディー」
と思うのだ。だから、日本はいまだに男性至上主義社会なのだ。マスキュリンの男根崇拝をそのままシンボル化したフェティシズムである。タバコ社会の日本は、『パワーかフォースか』の指数を用いれば、マイナス1000であろう。あんな腐敗した社会が600なわけがない。それは、絶対に間違っている。保証する。裁判所で宣誓してもいい。タバコ社会の精神レベルは0である。タバコは副流煙という「死の灰」をまき散らすので、あれは明らかに犯罪であろう。そして、その悪臭はすべてを台無しにする。レストランでの料理も台無しだし、とくにベッドでも、キスするときに、一気にテンションが下がるだろう(まあ、私は、美女が吸っている葉巻を「吸わせて?」とお願いして、間接キスしたことがあったが、あれはほんの気まぐれだ)。私は、タバコが嫌で、渡米したようなものだ。DQN的な薬物だ、タバコは、ヤンキー的な、不良的な、暴力を示唆するような、そんなものは、萌え系のアニメオタクとは相反する。私は、様々なアニメオタクと会ってきたが、みんな健康にとても敏感であった。下戸も多かったし、タバコを吸う人はめったにいなかった。しかし、アニメオタクが酒とタバコから距離を置くために恋愛で迫害されてきたのは、現在の男性至上主義的な消費社会の言説では、酒とタバコにセックスが結びついてしまっているからだ。だから、セックスと薬物を分離するべきである。そうすれば、アニメオタクにも、そのようなネオリベラル消費社会の言説から惑わされることがなくなるので、女の子も、アニメオタクを理解し、ベッドをともにするようになる。だからこそ、日本で、企業がタバコを罰することを望む。とにかく、社内、室内タバコは絶対に禁止しなければならない。あらゆる建物の中でのタバコは犯罪としなければならないのだ。
私はアニメ『R.O.D.The TV』を観た。素晴らしかった。ああ、なんという素晴らしさ。私は、同年代の大人の日本人女性を知らない。というか、その前に渡米した。だから、私が知っているのは、アメリカ人の大人の女性だけである。高校までである、日本人の同年代の女性を知っているのは。私は日本では、大学生もやっていないし、社会人もやっていない。よって、若い日本人の独身の女性社会人のことは、まったくわからないのだ。だから、このアニメは、20代の独身女性の社会人の生活を描いたものだったので、とても興味があった。というか、一気にハマってしまった。日本の独身女性が上京して、アパートで一人暮らししているという、私には、まったくわからない世界なので、このアニメに全意識を集中させていた。まあ、日本人の大人の女性を知らないことは、これっぽちも後悔はしていないのだが、やはり興味津々であることは隠せない。
ここからは、ネタバレになるので注意。
ここからは、ネタバレになるので注意。
この独身女性はペンネーム「菫川ねねね」で、作家デビューしたのだが、スランプに陥っており、しかも、作家にはストーカーが付きものだから、彼女の出版社が、香港の三姉妹を、ボディーガードとして、雇わせたことから、物語は始まるのである。その、香港の三姉妹と、ねねねの心の交流を描いたものであり、また、彼女がレズビアンであるということも、このアニメを素晴らしいものにした。それにしても、この三姉妹、わたしは、三姉妹原型というのがあるのではないかと思う。『ココロ図書館』にしてもそうだし、『ああ、女神さまっ!』でもそうだし、ケルト神話にも、ブリジット三姉妹というのがいるし、古代中東にも、アシューラ、アシュタル、アシュトレロという三姉妹がいた。『ああ、女神さまっ!』の三姉妹は、リヒャルト・ワーグナーのオペラからパクったものであり、ウルド、ヴェルダンディ、スカルドというノルン三姉妹をそのまま取ったものである。というか、私は、『ああ、女神さまっ!』のおかげで、ワーグナーを崇拝するようになったのだが。ああ、そういえば、シッダールタが悟りの直前に誘惑してきたという三人の絶世の美女も、三姉妹だ。そう、悟りには、三姉妹が必要なのだ!
しかし、この香港三姉妹、長女ミシェール・チャン、次女マギー・ムイ、末妹アニータ・キングという、理想的な三姉妹である。ミシェールはセクシーで天真爛漫で天然ボケであり、マギーはノッポで、ボーイッシュで、それでも内気で、ボーっとしていて、おっとりしていて、おとなしく、一方、アニータはうるさくて生意気なエネルギー溢れるガキである。しかも、中学生なのだが、髪の色は、サラ・ザビアロフみたいにピンク色である。そして、サウンド・トラックも素晴らしい。だって、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』のようであり、いかにも香港らしい、いや、かっこいい三姉妹だった。
そう、ねねねは、読子リードマンに恋をしたが、リードマンは突然姿を眩ましてしまい、こっそりとナンシーという恋人を作っていた。そのレズビアニズムも、私は、
「レズビアン万歳!」
と叫んでしまった。ナンシーは、私の好みだ。あの、包み込んでくれる、そう、お姉さん的な優しさがたまらない。でも、ナンシーは、子どもがいるのだから、男にも恋をするということだ。ということは、ナンシーはバイセクシャルであるのだ。アメリカのスラングでは、「AC/DC」というが、まさにそれだ。実に素晴らしい。でも、レズビアニズムがこの話のテーマではなかった。もっと政治的な陰謀じみたものだったので、それもそれでとてもよかった。まあ、私はどちらかというと、『マリア様がみてる』とか、『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』とか、『乙女はお姉さまに恋してる』とか、『神無月の巫女』のような、レズビアニズムを中心に据えた物語のアニメが好きなのだが。まあ、『R.O.D.The TV』も、それなりに、とても良かった。日本の若い社会人女性の生活を知ることができて、とても良かった。
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