ようし、やっと歴史が変わる。参院選で、自民党が歴史的な大敗北したのは、これほどまでにスカッとしたことは、去年の連邦議会での民主党の勝利以来だ。BBCでも、それは大きく取り上げられていた。私は2000年から、ゴアが敗北してから、ずっと臥薪嘗胆で、共和党の支配するアメリカにうんざりしてきた。その間にテロが起こるし、イラク戦争も起こるし、地球環境よりもネオリベラリズム経済を優先させるという理由で京都議定書から脱退するし、また2004年の大統領選も、ケリーが敗北し、あの時は、さすがにあまりものショックで倒れてしまった。まるで、Zガンダムの最終回のカミユの状態になってしまったのだ。各州では、同性愛結婚が次々と禁止されたし、また女性の中絶権が、剥奪される危機に瀕するような、連邦最高裁判事をブッシュは選ぶし、リビーのCIAスパイの身分をリークした罪に恩赦を与えようとしているし、チェイニーとカール・ローブは捕まらないし、アメリカは完全に間違った方向に進んでしまっていた。だから、政治には、不満と憤慨ばかりであり、ひとつもいいことがなかった。日本でも、ブッシュが大統領に就任した直後に、小泉が出てきて、
「自民党をブッ潰します!」
と約束したものだから、本当にこの腐敗し切った政党を木っ端微塵に粉砕してくれるのではないのか、という期待感が彼にはあった。実際に、小泉が自民党を離党して、小泉派で新党を形成して、自民党を潰してくれるのかと思った。かつて、小沢一郎が、自民党から離党して、自民党を潰そうとしたように。だが、結局、小沢の離党は自民党を潰さなかった。だから、こんどこそ、小泉が新党を結成して、自民党を潰してくれると期待した。郵政でのあの自殺行為にも等しい解散、あの選挙のときは、自民党が大敗して、自民党支配が日本から消滅してくれると期待したのだ。だから、あの時の、小泉の解散は、大いに支持した。
「おお、本当に自民党を潰すんだ」
と思ったからだ。しかし、自民党はさらに巨大化してしまった。
「郵政民営化に賛成か、反対か」
という国民投票みたいな選挙だったので、あんな単純明快な小泉のマニフェストはなかったので、小泉の政党は大勝してしまった。事実、小泉は、支持率が下がりそうな大きな問題からは、逃げに逃げまくった。彼は勝ち逃げしたのである。しかし、安倍になって、とうとう年貢の収め時がきた。もはや逃げることはできなかった。もう国民は我慢できなかったのだ。安倍の個人的な信念である教育基本法改正、国民投票法、憲法九条改正、防衛庁の省への昇格などの政策は、国民の関心事ではなかった。国民のもっとも懸念していた問題は年金である。そして、とうとう、その年金問題が争点となり、そして、やっと、自民党が、参院選で大敗するという歴史的な快挙を成し遂げた。しかし、安倍は政権を続投させると言っている。でも、それは時間の問題だろう。参院の長の青木も辞めると言うし、中川幹事長も辞表を提出した。それでも、総辞職ができないのなら、解散までに持ち込んでもらいたいものだ。民主党は信用できるかどうかわからないが、「change」の党として期待したいと思うし、今、もっとも勢いづいているのだから、このまま、自民党を粉砕してもらいたいものだ。そして、それが、革命につながれば、と私は密かに期待しているのである。
私が日本にいたときから、ずっと、自民党は日本を支配し続けてきた。村山が首相になって、最大野党であった社会党は弱体化してしまい、自民党の脅威になる勢力は事実上滅び、日本では、90年代半ばに冷戦が終結してしまった。そして、自民党の一党支配(実際は連立であるが、それでも圧倒的な第一党であり続けた)、そんな事実上の一党独裁的な日本社会から、私は飛び出したのである。しかし、私が渡米してから十年目にして、やっと自民党支配が砕かれるというのだから、これほど嬉しいことはない。ああ、私が、このときに16歳だったらなぁ。っていうか、自民党が支配している時代なんかに生まれてきたのが不幸だった。16歳のときに、歴史的な革命が日本で起きるという、そんな偉大な時代の目撃者になりたかった。しかし、残念ながら、私の青春時代には、それは起きなかった。ああ、先日尊師が紹介してくれたアニメである『School Days』のキャラたちが羨ましい。だって、自民党が歴史的な大敗を喫した日に、彼女たちは16歳なのだから、高校生なのだから。私はこのアニメを見て、本当に憂鬱になってしまった。あまりにも素晴らしかったので、しかも、それは自民党支配が終わるという決定的な歴史的要因もあり、あのような素晴らしい学園生活を送ることが出来るのだ。しかし、私の青春時代は自民党が支配していた。そう、すべての責任は自民党にあるのだ。『School Days』のような世界が私の学園時代に実現されなかったのは、男尊女卑社会を固守してきた自民党が支配していたからだ。だから、そんな価値観が支配する学園社会で、私はいじめられて、引きこもりとなってしまった。そして、引きこもりの救いともなるべき、インターネットも携帯も普及していなかった。だから、引き蘢ったらそれで終わりである。外界との接触が完全に断たれてしまう。だから、それを打開する唯一の方法として、思い切った行動が必要だったのだ。それが、私には、渡米という形になった。そして、インターネットも携帯もない恋では、私の学園自体の恋愛体系が、まったく『School Days』のとは、異なるのである。もうそれは異次元世界なのである。私は古びた体質の時代の端くれとして青春を送ってしまった。しかし、現在、こうして自民党支配が崩れてくるのも、インターネット世代が選挙権を獲得しだしたためでもあろう。ああ、どうして早く生まれてしまったんだろうか。
それにしても、嬉しい日だった。まさに欣喜雀躍だった。思春期からあった日本に対する社会的恨みが、やっと晴らされたような気分だ。ガンダムのアムロ・レイも選挙運動を呼びかけた。それが功を奏して、歴史的転換期を作り出すことが出来たのだ。こちらの映像が、そのアムロ・レイである。
まったく、ペルーの元大統領のアルベルト・フジモリが国民新党から参院選に出馬していたとは(BBCによれば)。あれだけ、国際的に問われている人間を起用するとは、国民新党にたいして、完全に尊敬を失った。小泉から自民党を追放された人間たちが、怨念と復讐心をもって自民党を潰してくれると思ったのだが、そんな馬鹿なことをするとは、まったくなにを考えているのだろうか。そんなことが行われてしまっているとは、あれは、政界から追放されて当たり前だったのだろう。小泉の除名処分をそのまま正当化してしまったようなものだ。そんなことでは、日本国憲法前文に書かれている「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という目的を達成することはできない。逆に、不名誉のままである。しかし、今回の選挙で、日本もこれから、国際社会において、名誉ある地位を占めることができるであろう。
アメリカでは民主党が連邦議会選挙で勝利し、来年の大統領選挙で大統領の椅子を狙う。それが叶えば、もうアメリカは、正しい方向へと進む可能性を開いてくれる。現在のまま行けば、共和党に勝ち目はない。日本でも、参院選で、民主党が大勝した。そして、このままの勢いで、衆院選で、勝って欲しい。そして、完全に自民党支配を潰すのである。そして、本当の国民の問題に取り組むには、国民全体が「change」を望んでいるという土台が必要であるが、今が、物は時節ということであろう。そう、我々が望んでいることは、「change」なのである。
「自民党をブッ潰します!」
と約束したものだから、本当にこの腐敗し切った政党を木っ端微塵に粉砕してくれるのではないのか、という期待感が彼にはあった。実際に、小泉が自民党を離党して、小泉派で新党を形成して、自民党を潰してくれるのかと思った。かつて、小沢一郎が、自民党から離党して、自民党を潰そうとしたように。だが、結局、小沢の離党は自民党を潰さなかった。だから、こんどこそ、小泉が新党を結成して、自民党を潰してくれると期待した。郵政でのあの自殺行為にも等しい解散、あの選挙のときは、自民党が大敗して、自民党支配が日本から消滅してくれると期待したのだ。だから、あの時の、小泉の解散は、大いに支持した。
「おお、本当に自民党を潰すんだ」
と思ったからだ。しかし、自民党はさらに巨大化してしまった。
「郵政民営化に賛成か、反対か」
という国民投票みたいな選挙だったので、あんな単純明快な小泉のマニフェストはなかったので、小泉の政党は大勝してしまった。事実、小泉は、支持率が下がりそうな大きな問題からは、逃げに逃げまくった。彼は勝ち逃げしたのである。しかし、安倍になって、とうとう年貢の収め時がきた。もはや逃げることはできなかった。もう国民は我慢できなかったのだ。安倍の個人的な信念である教育基本法改正、国民投票法、憲法九条改正、防衛庁の省への昇格などの政策は、国民の関心事ではなかった。国民のもっとも懸念していた問題は年金である。そして、とうとう、その年金問題が争点となり、そして、やっと、自民党が、参院選で大敗するという歴史的な快挙を成し遂げた。しかし、安倍は政権を続投させると言っている。でも、それは時間の問題だろう。参院の長の青木も辞めると言うし、中川幹事長も辞表を提出した。それでも、総辞職ができないのなら、解散までに持ち込んでもらいたいものだ。民主党は信用できるかどうかわからないが、「change」の党として期待したいと思うし、今、もっとも勢いづいているのだから、このまま、自民党を粉砕してもらいたいものだ。そして、それが、革命につながれば、と私は密かに期待しているのである。
私が日本にいたときから、ずっと、自民党は日本を支配し続けてきた。村山が首相になって、最大野党であった社会党は弱体化してしまい、自民党の脅威になる勢力は事実上滅び、日本では、90年代半ばに冷戦が終結してしまった。そして、自民党の一党支配(実際は連立であるが、それでも圧倒的な第一党であり続けた)、そんな事実上の一党独裁的な日本社会から、私は飛び出したのである。しかし、私が渡米してから十年目にして、やっと自民党支配が砕かれるというのだから、これほど嬉しいことはない。ああ、私が、このときに16歳だったらなぁ。っていうか、自民党が支配している時代なんかに生まれてきたのが不幸だった。16歳のときに、歴史的な革命が日本で起きるという、そんな偉大な時代の目撃者になりたかった。しかし、残念ながら、私の青春時代には、それは起きなかった。ああ、先日尊師が紹介してくれたアニメである『School Days』のキャラたちが羨ましい。だって、自民党が歴史的な大敗を喫した日に、彼女たちは16歳なのだから、高校生なのだから。私はこのアニメを見て、本当に憂鬱になってしまった。あまりにも素晴らしかったので、しかも、それは自民党支配が終わるという決定的な歴史的要因もあり、あのような素晴らしい学園生活を送ることが出来るのだ。しかし、私の青春時代は自民党が支配していた。そう、すべての責任は自民党にあるのだ。『School Days』のような世界が私の学園時代に実現されなかったのは、男尊女卑社会を固守してきた自民党が支配していたからだ。だから、そんな価値観が支配する学園社会で、私はいじめられて、引きこもりとなってしまった。そして、引きこもりの救いともなるべき、インターネットも携帯も普及していなかった。だから、引き蘢ったらそれで終わりである。外界との接触が完全に断たれてしまう。だから、それを打開する唯一の方法として、思い切った行動が必要だったのだ。それが、私には、渡米という形になった。そして、インターネットも携帯もない恋では、私の学園自体の恋愛体系が、まったく『School Days』のとは、異なるのである。もうそれは異次元世界なのである。私は古びた体質の時代の端くれとして青春を送ってしまった。しかし、現在、こうして自民党支配が崩れてくるのも、インターネット世代が選挙権を獲得しだしたためでもあろう。ああ、どうして早く生まれてしまったんだろうか。
それにしても、嬉しい日だった。まさに欣喜雀躍だった。思春期からあった日本に対する社会的恨みが、やっと晴らされたような気分だ。ガンダムのアムロ・レイも選挙運動を呼びかけた。それが功を奏して、歴史的転換期を作り出すことが出来たのだ。こちらの映像が、そのアムロ・レイである。
まったく、ペルーの元大統領のアルベルト・フジモリが国民新党から参院選に出馬していたとは(BBCによれば)。あれだけ、国際的に問われている人間を起用するとは、国民新党にたいして、完全に尊敬を失った。小泉から自民党を追放された人間たちが、怨念と復讐心をもって自民党を潰してくれると思ったのだが、そんな馬鹿なことをするとは、まったくなにを考えているのだろうか。そんなことが行われてしまっているとは、あれは、政界から追放されて当たり前だったのだろう。小泉の除名処分をそのまま正当化してしまったようなものだ。そんなことでは、日本国憲法前文に書かれている「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という目的を達成することはできない。逆に、不名誉のままである。しかし、今回の選挙で、日本もこれから、国際社会において、名誉ある地位を占めることができるであろう。
アメリカでは民主党が連邦議会選挙で勝利し、来年の大統領選挙で大統領の椅子を狙う。それが叶えば、もうアメリカは、正しい方向へと進む可能性を開いてくれる。現在のまま行けば、共和党に勝ち目はない。日本でも、参院選で、民主党が大勝した。そして、このままの勢いで、衆院選で、勝って欲しい。そして、完全に自民党支配を潰すのである。そして、本当の国民の問題に取り組むには、国民全体が「change」を望んでいるという土台が必要であるが、今が、物は時節ということであろう。そう、我々が望んでいることは、「change」なのである。
Zガンダムか。ニュータイプの女性はスゴいね。それにしてもどうしてあそこまで色情的なのだろうか。もはや、英語で言えば、「everybody is horny」の状態である。欲情しまくりではないか。そう、まるで、アメリカのハイスクール・ガールズのようである。積極的というか、アグレッシヴというか。demanding chicksそのものである。やはり宇宙世紀にでもなれば、アメリカの清教徒倫理や、イスラム原理主義の貞操観念などは、跡形もなく消滅しているということなのだろう。男女の情事は、いたって解放されている。だからこそ、ハイスクール•ストゥーデントに再びなりたいのである。ああ、たすけて。年を取るということほど、悲劇的なことはない!十代に戻りたい。青春を謳歌したい。
ああ、なんて奴だ。ベルトーチカ、こんな性的に遊戯的なブロンド女性、しかも、あんなことされたら、男はイチコロだ。なんて、小悪魔的な。だって、初対面のアムロに、手を後ろに組んで、馴れ馴れしく、しかもしっかりと目を見ているんだから。可愛い女の子にあんなふうに見つめられたら、ぐうー。しかも、自己紹介のときに、いきなり顔を近づけて匂いを嗅いで、
「石けんの香り、いいね」
だもん。
「なんなんだ、この女は!」
と一気に頭が熱くなってしまった。クラッと来るよなぁ。しかも、異常なまでのパーソナル・スペースへの侵入、彼女はいったいなんだんだ。絶対にロシア系か、スラブ系、東欧系であろう。ブロンドで、目が青くて、しかもピンク色の口紅、さらにスタイルの良さ、
「なんなんだ、この女!」
とまで思ってしまった。しかも、彼女は、慰めるように、いきなりアムロにキスしたのだ。アムロは、
「え!」
となってしまっていたではないか。あれで、アムロは再び戦うことを決めたのだから。しかも彼女はいたって正直だ。
「女の愛撫で男を奮い立たせることが出来るのなら、女はそれをする時もあるのよ。なぜだと思う?」
私は、
「ひえー!」
となった。しかも、あの誘惑的な目つきで、ぐははーははぁ。アムロは冷静に、
「男を試しているんだろう?」
と言う。彼女は、
「そうよ。自分のふさわしい男になって欲しいからね。でも、駄目だとわかると捨てるわ。同情している暇なんてないから」
とまるでゲーム感覚で、男女の情事を楽しんでいるのである。アムロは戦争が終わったら、隠居してしまった。20代前半で隠居である。そして、ずっとパイロットをやめていたのである。そう、まるで病気にかかって寝ていたような。たぶんPTSDだったのかもしれない。つまり、「風邪ひき男」として、ベルトーチカには映ったのだろう。また、アムロには、彼女が、「目病み女」に見えたのだ。そう、彼女は戦争で親を失い、戦災孤児となったのである。お互い、戦争で傷ついたのだ。だから、ベルトーチカは、アムロを病床から起床させようとしたのだ。
だが、そんな彼らの関係を、カミユは、
「傷を舐め合う関係」
と酷評した。憧れだったアムロが、あの様である。もはや、時代はアムロからカミユに移ったのである。アムロも地に落ちてしまったのだ。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」と言うではないか。現役に復帰するのには、あまりにもブランクが大きすぎたのではないのか。だが、私はアムロのように、ヒーローから凡人になったことはない。しかも、アムロは戦争の英雄だ、セレブリティーだ。有名人だ。そして若い独身男性だ。だから、あんな美しいベルトーチカにアタックを受けたのである。私のような無名な詩人に、女の子が寄ってくるだろうか。その甘い唇をすり寄せてくれる女の子は。いや、ヒーローではなく、ずっと日の当たらない凡人だった。プロレタリアートの英雄として生まれてきたはずなのに。それが、天の摂理ではなかったのか。しかし、現実にはそうは行かなかった。プロレタリアンとして、ネオリベラル社会の底辺で苦しんでいただけである。ゴミ箱行きの食料をあさりながら生活していたという経験はアムロにはないであろう。ずっと英雄として、世間では祭り立てられている。まあ、軟禁のようなものであったが、それでも、彼はだれもが認める英雄だったのだ。私は英雄ではない。ああ、それにしても、革命は起きないものだろうか。そうすれば、私は英雄になるチャンスに恵まれるのに。だが、多国籍企業が富を独占するアメリカでは、私はプロレタリアンとして、底辺に這いつくばったままである。しかも、最近のロスの港で港湾労働者たちの起こしたストライキは、交渉が成立しちゃって、革命までにはいたらなかったし。私がニュータイプとして覚醒するせっかくのチャンスが台無しになってしまったのだ。それが現実というものなのか?そんな不条理なことはない。なんのために生きているんだ。苦しいだけではないか。だれにも承認されることもないこのやるせなさ。だからこそ、この苦しみをいわたってほしい。だから、私こそ、ベルトーチカに救われるべきなのに!私の心の傷を舐めて。いたわってちょうだい。ナターシャ・デムキナのように。
「くっそー、ああ、この女が欲しい!私をそのお色気で癒してー!」
と思ってしまった。私こそが、ベルトーチカを欲しているということを、この世の人間はだれもわかっていないのか!しかし、そんなお色気お嬢も、クワトロ大尉を嫌いと言っていた。はやり、クワトロ大尉は、アムロとは違い、野望をもっているからであろう。戦争が終わって自分を見失ったアムロとは、質が違うように見えた。
それに、カミユの香港での恋、ニュータイプのフォー・ムラサメ、なんという積極的な女性なのだろうか。しかも、あんな大人の女性の雰囲気で16歳の少年が迫られたら、それこそ終わりだ。彼女は、リストバンドをしているというのが、もう超80年代だったし、彼女のショートカットで、紫の髪の色、そして紫色の口紅、
「本当に宇宙世紀なのか?」
と思ってしまった。夜のビルの屋上のベンチでカミユとフォーが坐り、フォーは、カミユに寄り添うのだ。しかも、顔を近づけて、どうみてもキスを誘っているような、しかも、カミユの顔を舐めるように目を配るという、そんなエロチックな、色情的な目で見られたら、男は終わりだ。「目は心の鏡」という言葉そのものだ。それに、彼女は優しい声で、
「ね、頼める?」
「なにを?」
「キスして」
そんなぁ、馬鹿な!しかも、カミユとフォーがドライブしているときでも、フォーは、すごい女の色気を発揮していた。
「ごめん」
と言って、カミユの肩に頭を置いたのである。私は、
「なんなんだ、この女は!」
と叫んでしまった。しかし、軍人のときのフォーはすごい自尊心が高い人で、厳格で、完璧主義者で、まったく色情的な要素は見られなかったのだが、私服になって、カミユと会ったとたんに、色が爆発したような。やはり軍隊生活では、規制と統制がとても厳しいので、押さえ付けられているために、私生活になったとたんに、押さえ付けられていた分、発散されるのだろう。ハメをはずすとでも言うべきか。しかも、フォーはニュータイプだし、カミユと同じで。だから、同調性もあったのだろう。しかもニュータイプは人口的にも少ないわけだし、それほどお目にかかることもない。異性愛の人が同性愛者に比べてそれほど積極的ではないのは、異性愛者が溢れているからである。同性愛者が積極的すぎるのは、やはり希少性の問題であろう。あまりにも少ないからだ。アメリカの人口でも4%ぐらいしかいないのだから、それはパートナーを探すのはとても大変であろう。だから、私がゲイ・バーに行ったとき、男ならだれもがウットリしてしまうほどの、背が高くてスタイルの良いブロンドの女性が私の女友達に三回もアグレッシブに口説こうとした事件も理解できるのである。ウィンク一つで男三人を一度に気絶させてしまうほどの、あんな美しいセクシーダイナマイトな女性でも、レズビアンのパートナーを探すとなると、必死にならざるを得ないのだ。だから、ニュータイプの女性も、同じニュータイプの男を見ると、必死になって色情を求めるのであろう。ということは、ニュータイプの女性は、非ニュータイプの男を相手にしないということか。それは残念だ。やはり階級なのだろうか、恋というのは。いや、ニュータイプのミライ・ヤシマはブライト艦長と結ばれたではないか。まあ、でも、それは、例外なのであろう。ニュータイプの女はニュータイプの男としかセックスしたくないと思っているのだろう。だから、私は、ニュータイプになりたい・・・。
カツか。あれほど馬鹿な男も珍しい。たぶん、Zガンダムの登場人物のなかで、もっとも馬鹿な男だろう。まあ、カツはドイツ語の名前の「Katz」なので、正確には「キャッツ」という発音なのだが。ニューヨークの有名なアーティストでアレックス・キャッツというのがいたが、それと同じ名前である。そのカツが、敵のサラ・ザビアロフの誘惑にハマってしまうのだ。サラがスパイ容疑で捕まって、独房に監禁されるときに、カツが
「あの可愛い女の子はだれだろう?」
と興味津々についていったのだ。サラは、そんなカツを見るのである。そのときに目が合ってしまうんだなぁ。そして、サラは、独房に監禁されるときに、外から好奇心で見ているカツに、笑顔で手を振ったのである。私は、
「な・・・なんて小娘なんだ!」
とびっくりしてしまった。だって、ティターンズでは、サイバー・ニュータイプとして、とても純粋無垢な、それにカツとそれほど年も変わらないのだろうに、しかし、純粋無垢と思われた少女が、カツをセクシャル・ルーアで惑わすなんて。私は、あれで、カツは落ちてしまったなぁと思った。しかもカツは、スパイ容疑のかけられているサラに、宇宙服を持ってきたのである。そして、サラは、
「なんで独房に入ってこないの?あたしが怖いの?」
とからかうように
「あたしは丸腰よ。怖いの?」
と言うのだ。当たり前じゃないか、カツはまだ思春期真っただ中の少年だ。しかも、はじめて大人の社会に混じって戦争に参加したばっかだというのに。そこで、自分と同じ年代の女の子が敵方の兵士として、しかもスパイ容疑で独房に監禁されているという。また、カツは、サラを女の子として意識しまくっているから、独房に入って来れないんだよ。それを、彼女は揚げ足を取るように、なんて頭のいい女なんだ。くー。したたかだ。しかも、カツは「あたしが怖いの?」と訊かれて、完全に動揺してしまい、
「空手かなんかやってるんじゃないのかぁ」
とへんてこな答えをした。そしたら、彼女は、かわいい女の子を演じて、
「あんな野蛮な・・・」
と、いかにもか弱い、ずうずうしいんだよ、バカヤロウ。私は、
「馬鹿、カツ、騙されんなよ!」
と忠告したが、彼は、いとも簡単に騙されてしまった。彼の警戒心は一瞬にして消え失せてしまった。心のバリアが完全に取り除かれてしまったのだ。
「オレは、少し空手やってるんだ」
と言って。ああ、女に対して優越感を持った時点で、コントロールされていることに気付かないのかぁ、カツは。ガードを下げさせるためのテクニックなんだよ。
「ああ、カツよ、お前はなんてバカなんだ!」
と叫んでしまった。しかも、カツは入念にサラのサイズまでチェックして、宇宙服を届けたことを言ってしまったのだ。
「馬鹿、なんてこと言うんだ、お前!」
と私はテレビに向かって言った。操られているのが丸出しじゃないか。宇宙服を受け取ったサラは、
「大きくないの?」
と訊く。カツは、
「君の身上所のサイズが間違ってなければ、大丈夫さ」
と言ってしまった。そう、彼は、サラの3サイズを知っているのだ。それで、サラは、もう、カツが彼女の魅力の前に降参してしまったことを確信したであろう。私は、
「くそー、ニュータイプの雌ギツネめ!こんな年で、すでにセクシュアル・ルアーが使えるなんて、やはりあいつはニュータイプだ。ませていやがる!」
と叫んだ。そして、彼女は、カツの自尊心に関わる質問をした。
「あなた、こんなところにいていいの?」
カツは、プライドに触ることを言われたため、ムキになって
「どういうこと?」
と言った。サラは、
「あなたパイロットなのでしょ?出撃しなくちゃいけないんでしょ?」
とプライドを刺激する。
「ぼくはそのつもりでも、モビルスーツがないんだ」
と、自分の実力のなさによって出撃させてもらえないのではなく、状況的に出撃できないことによって、自尊心を守ろうとした。まあ、つまりいいわけである。まったく、この雌ギツネは上手いと思ったよ。
「あたしのハイジャックがあるじゃない?」
とサラは、自分のモビルスーツをオファーしたのである。それで、カツは
「ありゃ駄目だ」
と、自分はそんなモビルスーツに乗るほど、落ちぶれてはいない、それに、女の子に助けられるほど、自分は惨めではないということを、主張した。本当は、乗りたいのによー。しかも、皆が活躍しているときに、自分だけ空母で待機していなければならないという屈辱感があるのにもかかわらず。しかし、そんなことは、この女には筒抜けなんだねー。そして、宇宙服を着た彼女は、カツを悪魔的な目つきで、しかも、じっとカツの目を見つめながら微笑で、
「ありがとう、これで少しは生き延びられるわ、カツ」
となんと、名前を呼んだのである。なんて女だ。最初は、自尊心を傷つけるようなことを言って、そこでカツが「なにをー!」と思ったときに、一気に逆を突いて褒める。そして、肝心なのは、褒めた後に、名前を呼ぶことである。しかも、可愛いと思っている女の子には、そのテクニックは超有効だ。
「カツ、罠にはまるな!」
と言ったが、カツは、
「うっ!」
と瞬きをしてしまい、
「艦長命令だから」
と照れてしまった。褒められることに慣れていないのだろう。それはそうだ。軍隊では一番若いし、しかもまだ駆け出しのパイロットだし、活躍の場も与えられていない。叱られることのほうが遥かに多いのだ。だから、あのようなお世辞でさえ、彼は惑わされてしまった。
「いやー、上の命令でやったまでのことですよ」
とやけに謙遜的になっているとは、さっきまでは、
「お前のモビルスーツごときに乗れるかよ」
という不遜な態度だったのに。とても動揺している証拠だ。それに、サラは、その視線攻撃でカツの目をジッと見て、一気にカツとのパーソナル・スペースを縮めて、
「持ってきてくれたのは、あなたよ」
とカツをさらにおだてた。そこで、彼の自尊心は一気に高まったし、もう彼は言葉を失ってしまった。
「ええ・・・」
と、そこでサラはとどめを刺した。彼女は、なんと、キスもできるほど距離を縮めて、頭を彼の首下につけて、
「ありがとう
」と囁くように言ったのだ。あのときに、きっと、髪からのシャンプーの香りも嗅いでしまったことであろう。
「ああ・・・」
となってしまったに違いない。あんなことをされたら、どんな剛毅果断な男もイチコロだろう。もう、あっぱれだ!私は、
「駄目だ、カツ、あいつを近づけさせるな。パーソナル・スペースに入れては駄目だ!」
と忠告したが、彼は完全にのぼせてしまい、サラを近づけさせてしまった。ああ、でも、あんな視線攻撃を食らったら、一気にガードがさがってしまうのも無理はないか。しかも、なんてったって、サラの、カツの目を見つめてからの、頭をカツの首もとに寄せての、
「ありがとう
」の一言、私は完全に、
「ぎぎぎががぎあがーがいがーいああー!!!!」
となってしまった。
「この女ー!」
と思ってしまった。カツは、これで、もう駄目だったね。ふぬけとなってしまった。彼はただ、
「う・・うん・・・」
としか言えなかった。完全に、サラのペースにハマってしまったのだ。カミユがあれほど、
「あの女は危険だ」
と忠告していたのに。ブライト・ノアも、
「ニュータイプには年齢は関係ない」
と言って、サラを警戒していたほどだ。でも、私も人のことを言えないね。多分、私もこんなことされたら、心臓発作を起こしてしまっていただろう。
私は、はじめはサラにとても同情的であった。なぜなら、かつてのドイツでアーリア人のニュータイプを育成するために全国のドイツ人の少年が強制的に集められたのように、彼女も思春期間もないというのに、すでに国家によって、ニュータイプとして試験的に戦場に駆り出されたのである。。ヒットラー・ユーゲンドの優等生がアドルフ・ヒットラー・シューレに集められたようなものだ。つまり、ティターンズのニュータイプ養成機関で、過去の記憶を抹消されたり、サラもニュータイプとして英才教育を受け、少女のときからパイロットとして戦場で戦わされていたのである。だからサラはとても悲惨だと思っていた。だが、そんな子が、戦争の犠牲者で、純粋無垢な少女兵が、あんなセクシュアル・ルアーを使う術を知っているなんて。そして、カツはまんまと騙されてしまった。そして、カツは初めて、あんな綺麗な可愛い女性にあんなことをされたのだろう。それで、もう彼は思考回路が停止してしまった。
「あたしならハイザックの操縦を教えてあげられるわ」
とサラは切り出した。
「サラが?」
「あたしを連行するふりをして、モビルスーツデッキに出られるでしょ?」
そら来た。それが、彼女の目的だったのだ。はじめからわかってたんだよ。駄目だ、カツ、甘過ぎる。あんな可愛い、しかも同い年の女の子に褒められたのは初めてなのだろう。しかも、戦争に駆り出されて、大人の世界に入って間もなくのことである。カツは、もはや考えることも出来ず、
「そうか!」
と納得してしまった。
「あなた、ニュータイプでしょ?あたし、あなたの活躍、見たいなぁ
」これはもう、死んだ馬をバットで殴り続けているようなものだ。そうそう、カツは、自分の活躍の場がないことに歯がゆさを感じていた。とても悔しい思いをしていたのだ。
「オレこそ、ニュータイプだというのに!」
という怒り、悔しさ、それが、この美しい少女、しかも自分と同じニュータイプの、しかも可愛い同い年の女に認知され、しかも、自分に活躍の場を与えてくれる、
「オレのことをわかってくれる!その通りだ!」
となってしまい、
「そうだなぁ、じゃさあ、ヘルメットして、ぼくの前に」
とやる気満々になってしまった。サラは、微笑を浮かべて、うわー、あの目の配り方、
「馬鹿な男ね」
というのが、本当に伝わってきた。私は、
「あああ、なんてこそを。カツ、たのむよー!」
と匙を投げた。そして、ハイザックに到着したときに、サラは
「あなた優しいのね」
と言って、カツを振り落として、モビルスーツで脱出してしまった。カツは、「女めー!」と泣いて拳銃を撃ちまくったが、時はすでに遅し、サラは脱走してしまった。あの時の、カツのショック、そして、「あの女!」という怒り、英語で言えば、「bitch!」である。ちくしょう、それにしても、あんな小悪魔的な表情を見せるなんて。ピンク色の髪の、ショートカットの、たぶん名字からしてスラブ系の、イノセントな少女が、小悪魔だったなんて!そのギャップがもう駄目だった。いけないよ。心理作戦の達人、まるで、ソ連の美人スパイがFBIの捜査官を口説いて、スパイさせてしまったような、そんな事件であった。
そして、サラは再び捕まってしまうのだが、そこでも、カツは、
「人間不信に陥ったよ」
と言いながら、ちゃっかり独房に監禁されているサラを頭上にある監視カメラのモニターで覗き見しているのである。馬鹿な男だ。まあ、思春期だから仕方ないのだろう。はじめて、自分を性的誘惑してきた女性なのだから、しかも同い年の子が。それに、サラが頭上のカメラに首を振り向けるという仕草、それがモニターに映し出されると、カツはギクッとなった。まったく、馬鹿な少年だ。自分はモニターで見ているからこちらのことは絶対に気付かれないだろうと安心していたのだが、サラは完全に、そのことを見通しているのである。そう、カツの行動はすべてお見通しなわけだ。しかも、サラは体育座りをベッドの上でしていて、そして、上を振り向くのである。その仕草が、また憎らしい。あれでは、
「オレって、ひどいことしてるのかなぁ?」
ってためらいと迷いが出てしまうではないか。まるで、女の子をいじめているような。くっそー、「女の子」という特性をフルに利用しやがってー。ほんと、
「こいつは、スパイ養成所でかなりスゴいトレーニングを受けたなぁ」
と思ってしまった。モニターでサラを見ていたカツは、ギクッとしてしまっただろう。私だって、ギクッとしたぐらいだ。しかも、彼女の髪って、ピンク色で、しかも女の子らしくショートヘアでも結んでいるっていうのが、また心にひっかかるんだよね。あのピンクのショートカット、あれでもう無条件降伏だね。そして、頭上からのカメラだと、後頭部で髪が二つに別れている分け目がもろに見えるじゃん。その頭上からの後ろ姿にさえ、
「ああ、サラじゃん」
と完全に彼女であると認識しちゃうし、しかもいじけているような体育座りをして、それで、いきなり、くるっと振り向いてカメラを見るわけだから。監視しているほうは、絶対にギクっとなるに決まっているではないか!
「やべー、この女、知っているよー」
とヒヤヒヤし、冷汗三斗となった。こちらが監視しているはずのに、監視されているという心理状態にさせられるんだよ。サラからは、というか独房からは、絶対に自分の顔は見えないはずなのに。覗きは匿名性で成り立っているんだ。しかし、サラの見返りは、その匿名性を一気に破壊してしまうのだから、まるでピーピング・トムがゴダイヴァ夫人を覗き見して失明してしまったような。つまり、バレてしまうということだ。暴き出されるというショック。そういえば、私も会社で、同僚の若い女の子のお尻を後ろからじっと凝視していたことがあった。コピー室で、彼女は書類をコピーしていたから、そして私に向かって後ろを向いていたから、気付かれないだろうと高をくくっていたのである。しかし、彼女は、いきなりクルリと後ろを振り向き、私のデレデレした表情をもろに見た。私は、
「しまったー!見られた!」
となり、しかし、もう時は既に遅し、
「Oh, fuck it.」
と自暴自棄になってしまった。そう、『Nothing In This World』の2分20秒目の中学生の主人公がパリス・ヒルトンの着替えを覗き見して、クルリと振り向かれて手を振られるという、そのような事件。私はそれを『2分20秒の奇跡』と名付けよう。しかも、例のコピー機の彼女は私をからかうように、ニヤリと笑ったのである。
「あああああああ!!!お仕舞だー!」
と私の自己評価が完全に砕け散った。その後、私は、その子に挨拶することさえも、一苦労するような状態に陥ってしまった。私は、本当に、登校拒否のような、出勤拒否に陥りそうになってしまった。そこまでに深刻な心理ダメージを受けたのだ。自業自得と言ったら、それまでなのだが・・・。そう、サラが監視カメラに向かって、クルリと上に振り向いた行動も、カツにそのような心理的ダメージを与えるためだったのだろうか?。
くそー、この女め。なんてしたたかな奴だ。だから、私はサラのことが嫌いだった。「女の子」の特性を利用して、男を罠にかけるんだもん、最悪だと思ったよ。
「なんて最低な女なんだ!」
ってね。だけど、
「カツ、あなたが好きよ。でも、パプティマス様と先に出会ってしまったから」
という台詞にはがっかりした。なんと、彼女も、カツに惹かれていたのである!私は、ハッと我に帰り、
「あっ、なに、がっかりしてるんだ。オレは、サラのことが嫌いなはずなのに!」
と思ってしまった。私も「ふざけた女め!」と思いながら、カツのように、「お前のせいで人間不信になったんだよ」と言いながらも、ちゃっかりサラのことが好きという、矛盾した感情に陥ってしまったこと、つまり、私までサラの術中にハマってしまったことに、私の自尊心は砕け散った。私は視聴者として、いわゆる傍観者として、この状況を楽しんでいたつもりであったが、私まで、彼女の雌ギツネ的な妖術に、つまりKGBのスパイ技術に、まんまとひっかかってしまったという、とても耐えられない真実を突きつけられてしまった。
そして、レコア少尉、あの人は毅然とした厳格な軍人のように思えたが、なにかクワトロ大尉のことは、変な目で見ていたので、私は、
「なんだよ、この女まで・・・」
と思った矢先に、クワトロ大尉の股の間に入ってきて、キスを迫ったのである。
「なんて女だ!」
と私の頭は一気に熱くなった。そして、クワトロ大尉は、彼女をキスしたのである。いやー、坐っているときに、女性があそこまで迫ってきたら、しかも股の間に入ってくるというほどのパーソナルスペースへの侵入、さすがのクワトロ大尉でさえ、あの積極さには負けてしまった。赤い彗星と呼ばれた人が、あのような猛烈なアタックの前では、cave inするしかなかったのである。ガンダムに登場する女性は、ちょっとスゴ過ぎる、あまりにも色が強い。しかも、レコアは、クワトロ大尉とキスしたあとに、なんと自分の唇を舐めたのである。しかも、クワトロ大尉を見る目は、もうそれこそ欲情的で!何なんだ、この女は!これは、もう
「うぎょー!!!」
となってしまった。なんで、Zガンダムの女性って、ここまで色が強いのだろうか!
そして、ついに、これが出てしまったか!なんとロザミー・バダンという狂人である。これも、強化人間なのだが、それが、なんとカミユに対して、
「お兄ちゃん!」
である。どう見ても、カミユからしては、年上の女性のはずなのだが、しかもかなり大人で熟女っぽいし、どうみても成人女性だろう。しかも、80年代のパーマのかかった紫色のヘアスタイルだし。でも、美人であることにはかわりない。しかも、かなり知恵遅れなところがあり、もしかしたら、キヨシ様に匹敵するほどである。
「お兄ちゃん、オムスビくださーい」
なんて感じだ。しかし、カミユも、十代後半ということもあり、カミユは戦士でありながら、とうとう、「妹萌え」に陥ってしまったのである。だから、ロザミーが
「お前はだれだ!」
と素性を明かしたとき、カミユは完全に妹萌えに冒されてしまい、
「そんな馬鹿なことをやめて、お兄ちゃんのもとへ帰ろう」
と、完全に逝ってしまっていた。ガンダムで、すでに妹萌えがあったとは、これはすごいことだ。私は「妹萌え」は2000年代にブームとなったと思っていた。『シスタープリンセス』というアニメが革命を起こし、その主人公も高校一年の16歳で、一気に12人の妹の世話をするハメになるというものであった。だが、その原型が『Zガンダム』に存在していたとは。しかも、ロザミーのおどけてみせるそぶり、そして宇宙船の幼い子どもたちと、まるで、自分も幼稚園児のように、戯れていると言うその光景。だって、子どもたちとボールを取り合っているんだよ。あまりのも異様な光景だったので、
「メチャクチャだ!」
と私のほうがパニックってしまったではないか。そんな彼女の行動に、やはり、カミユは完全に逝ってしまった。自分より年下であるなら、わかる面もあるが、ロザミーはどうみても年上だ。しかも、宇宙船アーガマの診察室で、ロザミーは、子どもに
「お姉ちゃん、あたしも診察受けるから、お姉ちゃんも受けようよ」
というと、ロザミーは、
「そっかー!」
と納得して、なんとその場で服を脱いでしまったのだ。そして、カミユが診察室に入ってきたときに、乳房が丸裸のまま、
「お兄ちゃん!」
と言って、抱きついたのである。カミユのガールフレンドのファは怒って、
「行くわよ、カミユ!」
とカミユの首をぐいと掴んだ。くわーはっはっはー。面白い。面白過ぎる。妹萌えさえも、ファは許してくれないのだ。まあ、血のつながってない女が、「お兄ちゃん」というのだから、仕方ないか・・・。しかし、ガンダムも地に落ちたものだ。まさか、妹萌えが出て来るとはね。しかも、カミユが妹萌えだったなんて。いやー、でも、カミユはロザミーに自分がお姉さん萌えだったことも告白した。彼は死んだ恋人のフォーを、
「そう、ボクのお姉さん」
と告白したのである。そういえば、フォーはどう見ても、カミユよりも年上だったし、たしかに、香港でのドライブでも、フォーはお姉さん口調だったからね。しかし、ロザミーは、徹底した「お兄ちゃん
」攻撃、これには、カミユはどうしょうもなかっただろう。しかし幸いなことに、私に、妹萌えはない。だから、ロザミーが私の前に現れても平気だ。なにせ私の心は、石月こよりに対してさえ、1ミリも動揺しなかったほどだ。それだけ、私は、妹萌えではないのである。しかし、そんな私にも欠点がある。それは、私が、姉萌えであるということだ。だから、私はフォーの方が好みだ。というか、「お姉ちゃん」と言って甘えたい。膝元でお寝んねしたい。フォーはお姉さんなりに、カミユをリードしたが、ロザミーの場合は、「お兄ちゃん、あたしをリードして」
だもんなぁ。これは、妹コンプレックスの人間には刺激的すぎで、
「はい、お兄ちゃんはここにいるよー」
となってしまうだろう。まさかカミユが妹萌えだったとは。カミユは駄目だと思ったね。だって、最後は、
「ロザミー、お兄ちゃんのところにおいで」
だもんなぁ。本当ならば、ロザミーは撃たなければいけない敵なのに・・・。妹萌えで、彼は正しい判断ができなくなってしまったのだから。カツもバカだと思ったが、カミユもそうとうの・・・。しかもカミユも妹萌えで発狂だもんなぁ。
ああ、私もニュータイプになりたい。超人になりたい。凡人として社会の底辺に這いつくばってる屈辱的な生活なんてもうこりごりだ。スーパーマンになりたい。シロッコが羨ましい。あいつはイケメンだし、ニュータイプだし。それにしても、ガンダムを見て、わかったことは、ニュータイプの女性はすべて魅力的なおかつ性的に積極的だということだ。それにしても、もっとも驚いたことは、ガンダムですでに妹萌えが取り上げられていたことである。しかし、その社会的認知には、20年かからなければならなかったということだ。しかし、ガンダムは萌えアニメとしも、前衛的であったということだ。かつて、アンディー・ウォホールのVelvet Undergroundがそうであったように。そして、サラのような、ロリータも登場していたことである。ニンフェット、ロリータ、ニュータイプのロリータ、強化人間のロリータか。しかもゴシックロリータやパンクロリータではなく、軍服ロリータなのである。そういえば、アニメエキスポでは、軍服ロリータはいなかったね。どれも、『ローゼンメイデン』のゴスロリばかりだった。または、ミサミサのようなパンクロリータだけであった。これからは、軍服ロリータだ。サラ・ザビアロフのような、マリア・シャラポバのようなロシア人女性が、もっとも似合うであろう。サラと、シャラポバは、同じ民族なのだから!私も、カツやカミユぐらいの年齢になりたい。そうすれば、軍服ロリータと!
軍服ロリータ万歳!
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まったく、ふざけやがって。私は『Zガンダム』を見て、愕然とした。なんと、私のフラウ・ボウが結婚して、しかも、名字が、「ボウ」から「コバヤシ」に変わっていたのだ。妊娠しているというのも、さらに追い討ちをかけて、私を徹底的に打ちのめしてくれた。聖母マリアの受胎告知としての原型は、彼女には不似合いだったのに。私は聖母マリアよりも、聖女マリアである16歳のロリータを彼女に求めていたというのに。これほどショッキングなことはなかった。まったく、ガンダムの原作者は、いったい何を考えているのだ。まさか、宇宙世紀に男性至上主義的な結婚形態が残っているとは。そんな馬鹿なことをする女性だとは思わなかった。男の名字を引き継ぐなんて。男の所有物になるという、maiden nameというものを作ってしまうのである。それは、あたかも女性だけのものであるように。だから、フラウ・ボウは決してNew Typeではないと思った。彼女は、旧態依然のOld Typeだったのである。実に保守的な女で、ハヤトも保守的な男だったのだ。まったく、馬鹿な男と結婚したものだ。しかし、ミライ・ヤシマはそのまま名字を残していたので、ミライもブライトはさすがだと思った。やはり、ジェントルマンは違う。
アメリカの女性は、どいつもこいつもOld Typeばかりだ。ヒラリーも、「クリントン」という名字を持っているので、Old Typeである。彼女は、決してニュータイプではない。よって、彼女がニュータイプであることを証明するためには、離婚して名字を戻すしかない。コンディー・ライス国務長官は完全にNewtypeであろう。なにしろ、IQは200以上といわれている。それに、彼女は独身だ。すばらしいことだ。シャアもアムロもライスも小泉も一人なのである。それこそ、本当の個人主義者だ。それに、米国では、腐った日本社会とは違って、夫婦は名字を選択できるという、つまり、夫婦が同姓でなくてもかまわないのである。しかし、そんな選択権が与えられているにもかかわらず、あろうことにも90%のアメリカ人女性既婚者は、夫の名字に変えているのである。40%ぐらいなら、まだわかるが、90%である。どうみても、異常としか思えない。夫の家族の名前にしてどうするつもりなのだ。それでは、男の家に嫁いでいるというものではないか。父親の名字にすべての家族員が合わせるなんて、そんな時代遅れなものはない。だから、ソーシャル・セキュリティーも、税申告でも、パスポートも、運転免許書も、選挙登録証明書も、すべて結婚のときに改めなければならない。つまり、身分証明書がすべて変わるのだ。そんなレッドテープな役所プロセスを、女性は皆通りたがるのだ。つまり、女性は、結婚することによってIDを変えるのである。まるで、CIAのスパイのように。しかし、それはもちろん、洗脳というものが大いに関係しているのだが、問題はもっと構造的のようなものに思われる。まあ、私は構造主義者でもなければ、ポストモダニストでもないが。私は、ヒキコモリズムを信奉するヒキコモリストである。
ところが、アメリカでは、夫婦別姓の選択があるのだが、妻が結婚申請書に夫の名前を書くだけで、名字を変更できるというのに、夫が妻の名前に変える時は、結婚申請書に欄がないのである。ということは、どういう手続きをとるか。カリフォルニア州の例を挙げれば、州の上級裁判所の官吏と一緒に請願書を提出せねばならず、それだけでも$375の料金を裁判所に払わなければならず、また、裁判の日の前まで、法的通告を発行して、新聞社を通して宣伝し、世論を味方につけねばならず、それだけでも、$400はかかり、また、出廷して、判事の最終判断を仰がなければならない。つまり、夫が名字をカリフォルニアで変えるとなると、煩瑣なレッドテープを経験するのである。一方、妻は、結婚申請書に夫の名字を書くだけで、受理されるというのに。それは、多くても80ドルぐらいしかかからないのに。あきらかに、性差別である。(詳しくはこちらの記事)だから、夫は名字を変えたくとも、構造的に女性に比べるととても煩瑣な手続きが必要であり、それも女性の方が圧倒的に夫の名字に変更する率を高くさせているのである。その構造に清教徒倫理的な男性至上主義のからくりがあるのである。
現在のロサンゼルス市長であるアントニオ・ヴァヤライゴサ(Villaraigosa)も、そのような手続きをとった。彼の元の名字はVillarであり、妻の名字はraigosaであった。そして、彼らが結婚したときに、お互いの名字を組み合わせてVillaraigosaにしたのである。そして、素晴らしいことは、我らの市長に、旧姓があることである。そう、maiden nameがあるのだ。つまり、男もmaidenなのである。というか、bachelor nameだろうか。まあ、maidは、中世イギリスでは、イエスのことを指していたし。中世英国の文豪チョーサーはそうイエスを呼んだ。つまり、maidとは、独身という意味なのである。世界でもっとも偉大な独身、それはキリストであった。そういう認識があったのだ。また、小泉は独身であった。だから、彼はメイドだったのだ。だから、メイド喫茶は、素晴らしいのだ。ニュータイプのための喫茶なのである。ロス市長の場合は、夫婦そろってmaiden nameがあるのだ。「あたし名前かわったから」という女の自慢が、こんどは男の自慢にもなるという時代がきたのである。しかし、ロス市長であろうとも、お互いの名字を組み合わせるのには、夫が名字を変えるのとおなじ煩瑣な手続きが必要だった。
だが、州法案AB102が、その性差別を解消してくれるだろう。この法案は、フィオナ・マー法案といってもいいであろう。なぜなら、結婚申請書に、夫が妻の名字を記入することができるようになるからだ。そして、夫と妻のお互いの名字を組み合わせて新しい名字を作ることも、結婚申請書上でできるようになるのだ。カリフォルニアの下院議会で、その法案は可決した。あとは、上院議会の採決を待つだけである。そして、上院議会で法案が通過すれば、最後はシュワルツネッガー知事の署名で、性差別がなくなるのである。
あとは、ドメスチック・パートナー制度でも、名字の変更が可能になるということである。以前は、同性愛カップルがドメスチック・パートナーになって、名字を変更することができたが、最近、DMV(運転免許書発行所)の独断で、その手続きを拒否する事件が起きた。DMVは、新しい名字で運転免許書を発行するのを拒否したのである。つまり、一官僚組織が、名前の変更を採決するということが起きてしまったのだ。(詳しくはこちらの記事)だから、この法案を通すことが必要なのである。
現在のアメリカでは、たった6州しか、夫が結婚申請書で名字を変えることができない。つまり、夫の妻との同等の権利は、アメリカではたった6州なのである。ハワイ、ニューヨーク、マサチューセッツ、ジョージア、アイオワ、ノース・ダコタ、ルイジアナだけである。残念ながら、もっともリベラルな州のカリフォルニアが入っていないのが、非常に残念だ。もし、AB102が通過すれば、カリフォルニアは名字変更において、男女同権の七番めの州となるであろう。そうなることを心から願う。
ガンダムでも、夫の名字に変える妻があまりにも多すぎた。それが、私には、ガンダムの限界に思えた。宇宙世紀でも、セクシズムが蔓延していたのである。私は、宇宙世紀には、結婚は廃止されているだろうと思っていた。結婚というふざけた宗教倫理がまとわりつく守旧の制度から、完全にドメスチック・パートナー制度に移行するのではないか、と思ったのである。結婚とはOld Typeのものであり、ドメスチック・パートナー制度はNewtypeのものである。今後は、結婚が廃止されることを望むだけである。社会の最小単位は家族だという18世紀からの国家主義はもう消滅するべきだろう。結婚は20世紀後半まで民族主義を反映していたし、今でも宗教を反映している。完全な世俗化は、結婚を廃止し、個人を尊重する。今までは、社会が個人を優先してきた。大切なのは個人よりも家族であった。それが、イデオロギーであり、結婚制度は教会から国家の一望監視システムに移り、個人は国家の統制を受けた。しかし、これからは、個人が社会を先行する。個人を守ることが、軍人の仕事となるであろう。小泉というニュータイプの独身が首相になったのだし、ファーストレディーのような、君主制の家族制度を臭わせるような旧態制度の悪臭はなかった。だから、清貧だったのである。クロニー・キャピタリズムから、脱却した存在だったのだ。日本の「家」を根底から覆すような指導者だったのだ。
しかし、女性が男の名字をとるという腐った伝統がガンダムの時代にもみられたのいうのは、残念で仕方ない。宇宙世紀には、そんなくだらないものは、とっくに消滅していたと思っていたのに。フラウ・ボウには絶望した。ハヤトにも絶望した。彼は、やはりOldtypeだったのである。まあ、ハヤトは、モテないキャラとして、自分を見ているようで嫌だったが、それでも、彼の結婚観には、絶望させられた。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。私はハヤトに対して、尊敬を失った。私も、好きだった女性が次々と結婚し、妊娠して子どもを産んでいくのには、とても切ない気持ちになった。だから、日本には帰れない。私の思春期時代の女性たちが、妻となり母親になっているんじゃないかと思うと、夜も眠れない。だから、年を取りたくない。それに大学の親友たちも次々と結婚し、母親、または父親となった。私の最も近かったオクラホマの友人も、テキサスに移り住んで、そこで婚約を発表した。彼は、もともとは結婚廃止論を唱えるリバータリアン党員であったが、結婚してから、民主党員となってしまった。民主党も共和党も結婚保護法を支持している政党だったからである。つまり、同性愛結婚を認めない政党の党員になってしまったのである。その周りの人間の変わりようには、私をひどく不安にさせた。若さが失われていくからである。だから、それも原因で、私はオクラホマから逃亡した。カリフォルニアはアメリカで、最も恋愛に自由が与えられている土地と聞いていたので、私はロサンゼルスに引っ越したのである。なにせ、ロングビーチはガルマ大佐の殉死の地である。恋のために殉死したという、疾風怒濤の精神を、ロングビーチは祭り立てているのである。だから、そこは聖地のはずであった。しかし、宇宙世紀が来るまでは、ロングビーチは、ただの軍産複合体の町であり、またパリス・ヒルトンが、『Nothing In This World』を撮影した高校があるというだけである。また、ロッキード事件ともかかわった町でもある。よって、現実は、違った。だから、私は、フランスか、カナダに行こうと思う。サンフランシスコもいいであろう。フランスでは、ニュータイプがぞくぞくと出現している。「アニメオタク」というニュータイプが!
しかし、名字をなくせば、すべては解決されるであろう。つまり、公的に名字は認知されないようにするのである。名字があるから、夫婦別姓の問題が出てくる。だったら、名字をなくしてしまえば、このような問題はない。それこそ、シッダールタの縁起説による解決法である。日本でも、明治維新までは、庶民の間では、そんな問題はなかった。公的には一つの名前だけでよかったのである。インドネシアのようにパスポートに名前一つで充分にすればいいのだ。だから、インドネシア人がアメリカに入国するとき、かならず関税でひっかかるのである。つまり、アメリカは名字を強制する社会なのである。だから、彼らがアメリカの市民権を取る時、名前と名字が同じであることが多いのだ。アメリカのパストートには、「スカルノ・スカルノ」となるのだ。ロミオとジュリエットは、名字に縛られていたために悲劇の死をとげた。だからこそ、彼らは、名字を捨てたがっていた。つまり、名字を捨てるということは、「家」を捨てるということである。それこそ、本当の個人となれるのである。名字は個人主義とは相反するのだ。だから、私は名字を捨てよう。そして名前も私なりに替えよう。どうして私が自分の名前を決定できないのだろうか。私のことは私が決定するのだ。だから16歳になれば、自分で名前を決める制度にすればいいのだ。それか、選挙権が出てくる18歳で幼名を捨て、個人としての名前をつければいいのではないのだろうか。そう、クワトロ大尉のように、名前を変えられるのであれば、それに越したことはない。だからこそ、彼は、ニュータイプだったのである。
ところが、アメリカでは、夫婦別姓の選択があるのだが、妻が結婚申請書に夫の名前を書くだけで、名字を変更できるというのに、夫が妻の名前に変える時は、結婚申請書に欄がないのである。ということは、どういう手続きをとるか。カリフォルニア州の例を挙げれば、州の上級裁判所の官吏と一緒に請願書を提出せねばならず、それだけでも$375の料金を裁判所に払わなければならず、また、裁判の日の前まで、法的通告を発行して、新聞社を通して宣伝し、世論を味方につけねばならず、それだけでも、$400はかかり、また、出廷して、判事の最終判断を仰がなければならない。つまり、夫が名字をカリフォルニアで変えるとなると、煩瑣なレッドテープを経験するのである。一方、妻は、結婚申請書に夫の名字を書くだけで、受理されるというのに。それは、多くても80ドルぐらいしかかからないのに。あきらかに、性差別である。(詳しくはこちらの記事)だから、夫は名字を変えたくとも、構造的に女性に比べるととても煩瑣な手続きが必要であり、それも女性の方が圧倒的に夫の名字に変更する率を高くさせているのである。その構造に清教徒倫理的な男性至上主義のからくりがあるのである。
現在のロサンゼルス市長であるアントニオ・ヴァヤライゴサ(Villaraigosa)も、そのような手続きをとった。彼の元の名字はVillarであり、妻の名字はraigosaであった。そして、彼らが結婚したときに、お互いの名字を組み合わせてVillaraigosaにしたのである。そして、素晴らしいことは、我らの市長に、旧姓があることである。そう、maiden nameがあるのだ。つまり、男もmaidenなのである。というか、bachelor nameだろうか。まあ、maidは、中世イギリスでは、イエスのことを指していたし。中世英国の文豪チョーサーはそうイエスを呼んだ。つまり、maidとは、独身という意味なのである。世界でもっとも偉大な独身、それはキリストであった。そういう認識があったのだ。また、小泉は独身であった。だから、彼はメイドだったのだ。だから、メイド喫茶は、素晴らしいのだ。ニュータイプのための喫茶なのである。ロス市長の場合は、夫婦そろってmaiden nameがあるのだ。「あたし名前かわったから」という女の自慢が、こんどは男の自慢にもなるという時代がきたのである。しかし、ロス市長であろうとも、お互いの名字を組み合わせるのには、夫が名字を変えるのとおなじ煩瑣な手続きが必要だった。
だが、州法案AB102が、その性差別を解消してくれるだろう。この法案は、フィオナ・マー法案といってもいいであろう。なぜなら、結婚申請書に、夫が妻の名字を記入することができるようになるからだ。そして、夫と妻のお互いの名字を組み合わせて新しい名字を作ることも、結婚申請書上でできるようになるのだ。カリフォルニアの下院議会で、その法案は可決した。あとは、上院議会の採決を待つだけである。そして、上院議会で法案が通過すれば、最後はシュワルツネッガー知事の署名で、性差別がなくなるのである。
あとは、ドメスチック・パートナー制度でも、名字の変更が可能になるということである。以前は、同性愛カップルがドメスチック・パートナーになって、名字を変更することができたが、最近、DMV(運転免許書発行所)の独断で、その手続きを拒否する事件が起きた。DMVは、新しい名字で運転免許書を発行するのを拒否したのである。つまり、一官僚組織が、名前の変更を採決するということが起きてしまったのだ。(詳しくはこちらの記事)だから、この法案を通すことが必要なのである。
現在のアメリカでは、たった6州しか、夫が結婚申請書で名字を変えることができない。つまり、夫の妻との同等の権利は、アメリカではたった6州なのである。ハワイ、ニューヨーク、マサチューセッツ、ジョージア、アイオワ、ノース・ダコタ、ルイジアナだけである。残念ながら、もっともリベラルな州のカリフォルニアが入っていないのが、非常に残念だ。もし、AB102が通過すれば、カリフォルニアは名字変更において、男女同権の七番めの州となるであろう。そうなることを心から願う。
ガンダムでも、夫の名字に変える妻があまりにも多すぎた。それが、私には、ガンダムの限界に思えた。宇宙世紀でも、セクシズムが蔓延していたのである。私は、宇宙世紀には、結婚は廃止されているだろうと思っていた。結婚というふざけた宗教倫理がまとわりつく守旧の制度から、完全にドメスチック・パートナー制度に移行するのではないか、と思ったのである。結婚とはOld Typeのものであり、ドメスチック・パートナー制度はNewtypeのものである。今後は、結婚が廃止されることを望むだけである。社会の最小単位は家族だという18世紀からの国家主義はもう消滅するべきだろう。結婚は20世紀後半まで民族主義を反映していたし、今でも宗教を反映している。完全な世俗化は、結婚を廃止し、個人を尊重する。今までは、社会が個人を優先してきた。大切なのは個人よりも家族であった。それが、イデオロギーであり、結婚制度は教会から国家の一望監視システムに移り、個人は国家の統制を受けた。しかし、これからは、個人が社会を先行する。個人を守ることが、軍人の仕事となるであろう。小泉というニュータイプの独身が首相になったのだし、ファーストレディーのような、君主制の家族制度を臭わせるような旧態制度の悪臭はなかった。だから、清貧だったのである。クロニー・キャピタリズムから、脱却した存在だったのだ。日本の「家」を根底から覆すような指導者だったのだ。
しかし、女性が男の名字をとるという腐った伝統がガンダムの時代にもみられたのいうのは、残念で仕方ない。宇宙世紀には、そんなくだらないものは、とっくに消滅していたと思っていたのに。フラウ・ボウには絶望した。ハヤトにも絶望した。彼は、やはりOldtypeだったのである。まあ、ハヤトは、モテないキャラとして、自分を見ているようで嫌だったが、それでも、彼の結婚観には、絶望させられた。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。私はハヤトに対して、尊敬を失った。私も、好きだった女性が次々と結婚し、妊娠して子どもを産んでいくのには、とても切ない気持ちになった。だから、日本には帰れない。私の思春期時代の女性たちが、妻となり母親になっているんじゃないかと思うと、夜も眠れない。だから、年を取りたくない。それに大学の親友たちも次々と結婚し、母親、または父親となった。私の最も近かったオクラホマの友人も、テキサスに移り住んで、そこで婚約を発表した。彼は、もともとは結婚廃止論を唱えるリバータリアン党員であったが、結婚してから、民主党員となってしまった。民主党も共和党も結婚保護法を支持している政党だったからである。つまり、同性愛結婚を認めない政党の党員になってしまったのである。その周りの人間の変わりようには、私をひどく不安にさせた。若さが失われていくからである。だから、それも原因で、私はオクラホマから逃亡した。カリフォルニアはアメリカで、最も恋愛に自由が与えられている土地と聞いていたので、私はロサンゼルスに引っ越したのである。なにせ、ロングビーチはガルマ大佐の殉死の地である。恋のために殉死したという、疾風怒濤の精神を、ロングビーチは祭り立てているのである。だから、そこは聖地のはずであった。しかし、宇宙世紀が来るまでは、ロングビーチは、ただの軍産複合体の町であり、またパリス・ヒルトンが、『Nothing In This World』を撮影した高校があるというだけである。また、ロッキード事件ともかかわった町でもある。よって、現実は、違った。だから、私は、フランスか、カナダに行こうと思う。サンフランシスコもいいであろう。フランスでは、ニュータイプがぞくぞくと出現している。「アニメオタク」というニュータイプが!
しかし、名字をなくせば、すべては解決されるであろう。つまり、公的に名字は認知されないようにするのである。名字があるから、夫婦別姓の問題が出てくる。だったら、名字をなくしてしまえば、このような問題はない。それこそ、シッダールタの縁起説による解決法である。日本でも、明治維新までは、庶民の間では、そんな問題はなかった。公的には一つの名前だけでよかったのである。インドネシアのようにパスポートに名前一つで充分にすればいいのだ。だから、インドネシア人がアメリカに入国するとき、かならず関税でひっかかるのである。つまり、アメリカは名字を強制する社会なのである。だから、彼らがアメリカの市民権を取る時、名前と名字が同じであることが多いのだ。アメリカのパストートには、「スカルノ・スカルノ」となるのだ。ロミオとジュリエットは、名字に縛られていたために悲劇の死をとげた。だからこそ、彼らは、名字を捨てたがっていた。つまり、名字を捨てるということは、「家」を捨てるということである。それこそ、本当の個人となれるのである。名字は個人主義とは相反するのだ。だから、私は名字を捨てよう。そして名前も私なりに替えよう。どうして私が自分の名前を決定できないのだろうか。私のことは私が決定するのだ。だから16歳になれば、自分で名前を決める制度にすればいいのだ。それか、選挙権が出てくる18歳で幼名を捨て、個人としての名前をつければいいのではないのだろうか。そう、クワトロ大尉のように、名前を変えられるのであれば、それに越したことはない。だからこそ、彼は、ニュータイプだったのである。
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尊師は、偉大なり。いやー、私の強い希望でGデビューさせていただいた。Gは、決してグラッフェンベルグの頭文字のことではない。まあ、私は電話で一方的に話してしまった。会話はキャッチボールと同じで、受け答えで成り立つが、私はあまりにも熱中しすぎて、一方的に話して満足したら電話を切ってしまった。いわゆるボールを投げ続けて終わってしまった。とても失礼なことをした。師匠に対して一方的に話す弟子はいるだろうか。これは弟子の反抗とでもいうべきか。まるで、ユダのようだ。シッダールタに対してだったら、デーヴァダッタに匹敵する行為だ。この場をもって、謝罪する。それは私の悪い癖である。直さなければ!
あれでは、独り言と同じだ。だったらこういう感想は、ブログに書いたほうがよい。そのためのブログなのだから。まあ、私のYさんに対する行為をブログで告白しようと思ったが、尊師にその行動は「駄目」と評されたので、そのことはブログには書かないだろう。それほど深刻だということか?というか、永遠にYさんのことは封印するつもりだ。よって、ここでは、Gについて告白する。
あれでは、独り言と同じだ。だったらこういう感想は、ブログに書いたほうがよい。そのためのブログなのだから。まあ、私のYさんに対する行為をブログで告白しようと思ったが、尊師にその行動は「駄目」と評されたので、そのことはブログには書かないだろう。それほど深刻だということか?というか、永遠にYさんのことは封印するつもりだ。よって、ここでは、Gについて告白する。
ガルマ・ザビか。私は彼が嫌いだった。
「くっそー、金持ちのイケメンめー、ふざけんじゃねぇ」
という憎しみと妬みが私にはあった。なにせ、公国の王子様だ。いつの時代も、イケメン王子が、すべての女性の心を掴むのである。そして、貴族の女と恋に落ちるのである。まあ、ガルマの場合は、市長の娘であったが。シッダールタもそうだ。彼は、『ラーマーヤナ』で有名なコーサラ王国に従属するシャカ王国の皇太子であった。そして、経典の伝えるところによると、シッダールタが馬車で町中を凱旋すると、若い女の子たちがシッダールタに対して花を投げたという。そう、英国で、イギリスのティーン・ガールズがウィリアム王子に向かって花を投げるようなものだ。女の子の熱狂が常に彼の周りにあったのである。そして、シッダールタは、貴族の娘のヤショーダラと結婚した。また、ガルマも、イセリナ・エーシェンバッハと結婚することを約束した。また、イセリナの登場の仕方も、いかにも貴族の令嬢のごとくであった。カメラアングルが下からイセリナを映し出し、しかも豪華絢爛な屋敷の階段の上から登場するという、よりによって、彼女の心はザビ家という名門中の名門の王子に奪われているという、まったく王家の独占だ!不公平だ!不条理だ!君主制反対!我々プロレタリアート階級では、絶対に、どんなに、一生頑張っても、決して届くことのない女性、それをいとも簡単に手に入れているとは、どんなに私は憤慨したことか!
だが、私の彼に対する嫌悪感は、彼の「神風」の犠牲精神によって、跡形もなく消え去った。なんと、自分の運命を悟ったガルマ大佐は、ホワイトベースに突撃していったのである。しかも、最後の言葉、
「ジオン公国に栄光あれ!」
である。しかも、その時の、ラストシーンは、愛の誓いを交わし合った愛しいイセリナの容姿が浮かんだものであった。そして、ガルマは散ったのだ。私は感動してしまった。
「あれこそが、美しい死に方だ!」
と一瞬にして感化されてしまったのだ。もし、イセリナがいなければ、ガルマが死ぬとき、
「ざまー見ろー」
としか思わなかっただろう。しかし、恋人を最後に思って散るという、あれは本当に圧倒されてしまった。ガルマの戦死は私に強い印象を与えた。あれこそ、疾風怒濤の精神だ。まるで、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』の青年のようなロマンチックな死に方である。それは、もうパンクの精神に通じる。国葬に参列したいと思ったぐらいだからね。それにしてもガルマ・ザビは靖国神社に祀られていないのかなぁ。もし、祀られてるんだったら、小泉が靖国に参拝したのは正解だと思ったし、これからも、安倍総理が言うように、どの総理大臣も靖国に参拝するべきだね。そして、最終的には天皇も参拝することだ。なにしろ、ガルマ大佐は東条英機よりもはるかに偉大な人物だからね。まあ、どちらにしろ、私のガルマに対する評価は、非難から、絶賛へと変貌した。これぞ、君子豹変というものだ。また、そんなみっともないところを私の尊敬する方に目撃されてしまったのが恥ずかしい。しかも、あまりにも感動してしまって、人様の家で泣いてしまったし。だから、あわてて涙を拭いたが。泣いているところを見られなかっただけでも、まだましだ。しかし、きっと、私の脳は単細胞で出来ていると思われてしまったであろう。そう、ある方は、「脳まで筋肉」と自己評価するが、私は自分の脳を、「脳まで精液」と評するのである。アリストテレスは脳は冷却水でできていると考えていた。だから、鼻水が出るのだと。しかし、キヨシ様は脳は精液でできているとした。だから、キヨシ様の鼻水は精液なのである。つまり、鼻からも夢精しているのだ。それが、キヨシ流であり、夢精宗の悟りの境地なのだ。無我の境地は、夢精の境地。
ああ、マチルダ中尉。あの、満月を、まあ、正確には月ではないのだが、あの満月のようなライトをバックにしたマチルダ中尉のちょっと斜めになっているシルエットで、アムロに送る眼差し、しかも、「エスパー」としてアムロを見込み、それに、
「あなたに期待しているわ」
という、なんという!そんなことを憧れの女性に言われたら、もう至高の幸福感でいっぱいになって、『聖テレジアの法悦』状態だね。しかも、彼女は、あろうことに、アムロのことを気に入っているのだ。こんな、素晴らしいキャリア−・ウーマンでスタイルが抜群で凛としていて、ああ、私は、
「なんでオレはニュータイプじゃねんだ!」
と拳で床を思いっきり叩いてしまった。私は妄想の世界ではニュータイプのはずだ。しかし、現実は辛過ぎる。どうみても、私はハヤトではないか。あのチビで、重要な局面で怪我して前線から離脱してしまうと言う、まあ、私は会社でも、主流ではないし、まあ、自然淘汰の原則が働くネオリベラリズムのアメリカ社会では、窓際族という存在はないが、そんなものは、存在できないが、それに近いようなポジションだし、「役立たず」「足手まとい」と思われながら働いているほど辛いことはないし、女の子にはモテないし、だから、会社から、いわゆる資本主義社会から逃げ出したいし、どうせならいっそのことカナダに亡命したいし、アニメの世界に現実逃避したいし。それに、中学のときから、いや小学校の時からスポーツは苦手であったが、とくに思春期になると、スポーツの出来る子と出来ない子との差別化が一気に拡大し、それがモテるかモテないかという差別を生み出し、私は完全にモテない派として辛い涙を飲むことになってしまった。かけっこもクラスで一番遅かったし、球技も駄目、喧嘩も弱い、勉強も苦手、それらがいじめの原因となり、仕舞には登校拒否がちとなり、私の引きこもりの性格がそのときに決定づけられた。とてもマチルダ中尉のような女性には手が届かない。私の立場は戦争に少年兵としてかり出される前のハヤトだったんだから、私は。ああ、アムロが本当に羨ましい。16歳だ!あんな素晴らしい女性に気に入られてしまうなんて。だが、マチルダ中尉がアムロを気に入ったのは、もちろんアムロがニュータイプだったからである。特別な才能を発揮する少年だったからだ。しかも、彼女のアムロに対するしっかりとした眼差し、
「ああ、本当にアムロのことを気に入ってるんだなぁ」
と羨ましくなってしまった。だから、ニュータイプではないカイがマチルダ中尉に、
「一緒に写真とってください」
とたのんだ時点で、
「ああ、軟弱者である上に、負け犬なんだなぁ」
と思ってしまった。まるで自分を見ているようで、とても嫌だった。セイラのピンタは本当に効いたよ。まるで、自分が叩かれているようで・・・。しかし、それでも、マチルダ中尉は、とても寛大で、サービス精神旺盛で、一緒に写真を撮ってあげた。さすがはマチルダさんだったね。素晴らしい。それにしても、アチルダ中尉と写真を撮るとなると、一気にゾロゾロと、どこからもなく野郎どもが集まってきたのが、とても爆笑してしまった。しかも、アムロは写真でも端のほうであったし。マチルダ中尉は、紛れも無く少年兵たちの憧れだったのである。だから少女兵のフラウ・ボウに嫉妬されてしまったのだ。アムロがマチルダにうつつを抜かすのを見て、彼女はベロを出して、
「なによ、ベー!」
という仕草をしたのだ。私は、
「キャーカッカッカカー!!!」
とドン腹笑いしてしまった。
「うわー、フラウ・ボウ、まじでかわいいー!
」
と叫んでしまい、欣喜雀躍となり、スキップしてしまった。でもこれは、「萌え」なのかぁ。いや、そんなはずはない。たとえ万人が「それは萌えじゃねえか!」と指摘しようとも、断じて認めんぞー。私のプライドを守るためにも。なにせ、私はプライドの動物だ。決して認めるわけにはいかない。認めたら、それこそ自尊心がボロボロになるであろう。それだけはなんとしてでも避けたい。それに萌えない正当な理由がある。なぜ、フラウ・ボウに萌えないか、それは、なぜなら、絵が萌え系ではないからだ。絵が70年代で相当古いし、なにしろガンダムはベトナム戦争が終わって間もなく作られた作品だし、アメリカではカーター大統領がホメイニ革命やイランでのアメリカ人の人質事件とか、ソ連のアフガン侵攻に苛まされていたときである。そう、ソ連がまだ存在した古い時代のアニメなのである。それにガンダムはあまりにもストーリーが重過ぎるからね。
それにしても、運命とは過酷なものだ。戦争がなければ、フラウ・ボウとアムロはくっついていたのに、しかし戦争によって、アムロはさまざまな大人の女性に会ってしまい、フラウ・ボウから離れてしまった。それを悔しがるフラウ・ボウ、切ないねー。その上での、あのベーである。脳梁がちぎれるかと思ったよ。私は、そこの部分を何回も巻き戻して再生した。まるで麻薬中毒患者のように。ランナーズ・ハイからプレイヤーズ・ハイ(再生者のハイ)である。ああ、いい時代になったものだ。DVDは素晴らしい。何回再生しても、DVDは傷つくことはない。これが、VHSだったら、とっくにそこの部分はすり切れてしまっていたであろう。とくにマチルダ中尉のシーンの画像の粒子が荒くなっていたであろう。だが、DVDはそれがバレない。だから、私は、マチルダ中尉なんかファンではないと言っても、深層心理がバレないのだ。そう、誤魔化すことが出来るのだ。また、マチルダ中尉はアムロが口答えするのを、
「生意気ね」
と言ってデコピンするのだ。その時も、私は、
「うわー、マチルダさん、オレにもデコピンしてくださーい!
」
と叫んでしまった。
「デコピンだけで、オレは救われるんです!」
と跪いて懇願しようかと思ったよ。ああ、それにしても、なんと羨ましい。くそー、アムロめ、一人で独占しやがって。なんて野郎だ。一番許せなかったのが、アムロがガンダムに載って出陣するときの、マチルダ中尉の投げキス
、私は、
「ぐぐがうがぐあがががー!@#$!!!」
と雄叫びを上げてしまった。そして、自分をアムロに同化させて、そこの部分も何回もリプレイしてしまった。ああ、16歳のときに、こんな女性がいたならば!『おねティー』では、宇宙から来た理想の先生、私も高校一年生のときに芸大卒業仕立てのピチピチの新任の音楽の先生に恋をしてしまったが、元の先生が産休が終わって帰ってきてしまったのがとても残念であった。そう、それは、パリス・ヒルトンが『Nothing In This World』で演じている官能的なヴィーナスのような先生でもある。あれで、
「中学生に戻りてぇ!」
と思ったくらいだ。でも、マチルダ中尉の場合は、それとはまた違う高校生の青春時代の憧れの女性の原型が、このマチルダ中尉なのである。大人の雰囲気を持った女性、くーくく。想像するだけで、ニタニタしてしまい、のぼせてしまう。ケピ(軍帽)があそこまで似合う女性は、いないであろう。オレンジ色の髪の毛はまるでオランダ女性を彷彿させるようである。ワーグナーの『さまよえるオランダ人』とでも言うべきか。そういえば、オランダ人女性はヨーロッパの中では平均身長が一番高いというし。ああ、マチルダ中尉のような素晴らしいスタイルの女性がいっぱいいるんだろうな。私もオランダに旅行に行ったことがあるし、やはり、
「うっきょー!」
となるばかりであった。輝かしい女性ばかりが歩いていたのだ。とても、アンネ・フランクや、オードリー・ヘップバーンが出てきた国とは思えなかった。ああ、そういえば、オードリーも173センチだったんだっけ?やはりオランダ人女性は背が高い。ああ、「梅に鶯、松に鶴、紅葉に鹿、竹に虎、牡丹に唐獅子、波に千鳥、柳に燕」と言うように、「月にマチルダ」とでも言おうか?そうさ、それがマチルダ中尉なんだから。
それにアムロはジオン軍のクローリー・ハモンにも気に入られいてしまう。ハモンの内縁の夫のランバラルも、
「あんな子が欲しいのか?」
と驚いていたぐらいだ!She wants himなのである!くわー、たまらねぇ。wantだよ、want!うぐー、ちくしょう、羨ましい!ハモンはブロンドでとても上品な女性であり、闘将ランバ・ラルよりも背が高く、しかもスタイルはスーターモデル並みであり、とても美しい。それがアムロを欲っするなんて。しかも、これはもう少年愛のような、ショータコン的な、いわゆるペドフィリア的な危険な香りのするものであり、しかも内縁の夫のランバラルも、そのハモンのアムロに対する気に入りを、承認しているのだ!ペドフィリアは私の敵であったが、私もこの場合なら例外的に特別にオッケーということに考えを改めなければならなかった。そんなハモンのペドフィリア的な好意を見て、なんとランバラルはアムロに対して、
「ようし、坊主、私にも奢らせてくれ」
と言ったのだ。ああ、なんてことだ。それに、ハモンの部下たちからも、
「おお、坊主、男冥利に尽きるぜ。オレたちも肖りたいくらいだよ」
と羨ましがられていた。しかも、ハモンという人物は、部下にとても信頼されている。その信頼は絶大だ。なにさ、砂漠の中のレストランで、部下たちに奢るという太っ腹の気前の良さ、部下と混じって一緒に食事をするという、とても上官として面倒見が良い人間であった。また、ハモンはランバラルの仇として、最後の出陣の時も、自分の部下と一人ずつ握手して敬礼し、部下たちも、
「ハモン様とともに運命を共にし、闘って死にます」
という信頼を寄せていたのである。私は、なにかとても感動してしまった。理想の軍人の美徳というのを、ハモンとその配下たちを通じて知ったような気がした。ハモンはまさに軍人の鏡だったね。しかし、そんな女性がアムロを一目で気に入ってしまったのだから、アムロが憎くなった。ハモンは、アムロのガンダムを破壊する寸前でも、
「坊や、あなたが本当に好きだったわ・・・」
と女が出てしまった。まあ、それが彼女の命取りとなり、リュウの特攻攻撃の前に散ってしまったが。結局ランバラルもハモンも軍人の鏡でありながら、「戦いの中で戦いを忘れた」ために、敗れ去ってしまったのである。しかし、そんな才色兼備で人格者でもある素晴らしい女性に、アムロが砂漠の店で、カウンターで一人でいるところを気に入られてしまうのだから。そして、そこでも、勇気あるフラウ・ボウがアムロを迎えにいく。そう、そういうあまりにも完成された女性たちのコントラストとして、フラウ・ボウが登場するのである。そうすることで、さらにハモンの魅力がいかにすごいか、ということを、これでもかというほど視聴者に見せつけるのである。そして、ハモンは、フラウ・ボウを、からかうように、アムロの「ガールフレンド」と呼ぶのである。女の嫌がらせほど、見てて愉快なものはない。けけけ。これほど楽しいことはあるだろうか!しかも、アムロがフラウ・ボウと店を後にするときも、ハモンは、大人の女性のセクシーな微笑を浮かべて、手を振るのである。もし、私がこんなことされたら、フラウ・ボウを捨ててまで、ハモンのハイヒールにキスしたであろう。やっぱ不良だよなぁ、アムロは。わざとまったく動じないふりをしているのだ。しかし、アムロは、ちゃっかり、フラウ・ボウと手をつなぐのを拒んでしまった。見え見えなんだよ、バカめ!フラウ・ボウは、アムロに、
「あの女の人が見てたから、あたしと手をつなぐのをやめたんでしょう?」
と尋問したのである。しかも、あのムッとした表情で。私は、
「へーへっへへへっへー!」
とまたしても笑いこらえられなかった。そして、思わず笑ってしまった。
「そんなんじゃねえよ!」
とアムロはアメリカ英語で言う「play dumb」をした。まったく、バレバレだというのに。もっと正直になったらどうなんだ。私は、
「ああ、アムロ、やはり不良だなぁ、くっくくー!」
と思った。それにフラウ・ボウの、
「もう、アムロったら、どんどんあたしから離れていっちゃうのね・・・」
私は、この台詞に、
「ぎがががががー!!!!」
となった。
でも、決してこれは萌えではない。ガンダムに萌えることはない。ガンダムは戦争をテーマとした物語であり、悲劇である。萌えるにはあまりのも重すぎるのだ。それにしても、フラウ・ボウもさぞかし、辛かったであろう。あまりにも魅力的でスゴい女性ばかりがアムロの周りに現れたので、『Sola』での、真名ちゃんの「依人にはあたししかいないんだから」というような、「アムロにはあたししかいないんだから」という自負が粉々に砕け散るというその悲しみと嫉妬、やるせなさ、ああ、悲しい人よ。戦争さえなければ、間違いなく、フラウ・ボウは、学園で男子生徒みんなが憧れる可愛い出来の良い女子高生、いわゆる学園のプリンセスとなったはずだったのに。もしくは、「サイド7の花」だったかもしれないのだ。しかし、戦争によって、一般の平凡な高校生には決して経験することのない事態に陥り、アムロは少年兵として軍隊に駆り立てられる悲惨な生活と同時に、もっとも完成された女性たちに、しかも社会の頂点にいる女性たちに気に入られるという、思春期の男子には童貞を水爆によって卒業するような、それほど強烈なものであっただろう。フラウ・ボウのやるせなさが伝わってくるのだ。また、もとジオン公国のトーマス・ジェファーソンというべきダイクンの娘、セイラの存在も、フラウ・ボウの居場所を追い詰めていった。だから、彼女は、最後まで育児担当だった。まあ、最後は通信網を担当するようになったが、それでも、やはりニュータイプのララやセイラ、また軍人のマチルダ中尉やハモン、アムロの周りにはあまりにもスゴい女性が多すぎたので、フラウ・ボウの存在は薄くなってしまった。かつて、アムロは部屋に閉じこもってずっと機械いじりをしている機械オタクだった。アメリカでは、家にはガラージがついているので、もしアムロの家にガラージがついていたなら、ガラージで研究に熱中していたであろう。だから、彼は社会性がない引きこもりだったのだ。郊外サバーバンによく見かける典型的なアメリカ人の少年である。そして、そんな孤独なアムロの唯一の理解者としてのフラウ・ボウ、それは、まるで依人に真名が唯一の理解者であるような自負だっただろう。そんな機械の瓦礫に埋もれた少年が、戦争によって、一気にヒーローになったり、アチルダ中尉には、はじめてニュータイプとして認知されたりと、しかも憧れの女性に自分を認めてもらえるという、そんな嬉しいことはないであろう。事実、あれでアムロはかなり成長してしまった。もはや、16歳の少年ではなくなってしまったのだ。あまりにも悟りすぎた。だから、フラウ・ボウを孤独にさせてしまったのだ。やはり、戦争はいけないと思ったね。ガンダムは日本国憲法第九条の精神に真っ向から反しているからね。
まあ、私も16歳のときの暮らしは、平和国家ではあったにしろ、倦怠感が私を包み込んでいた。しかも、私は引きこもりで、teenager angstを抱え込む少年だったのだから。それに、男尊女卑、年功序列、汚職、集団主義、タバコとゲロの蔓延する腐り切った日本社会、そんな社会には絶望感しかなかった。とても、そんな大人社会には入っていく気にはなれなかった。だから、アムロのように、なにか革命が起きることを期待した。戦争とまではいかなくとも、偉大な時代に生きているという実感が欲しかったのは確かである。この行き場のないteen angstを発散させる歴史的イベントが欲しかったのだ。そう、革命のようななにか大きな歴史的なイベントによって、引きこもりの高校生から英雄になるチャンスが来るのを夢見ていたのかもしれない。だから、革命願望があったのだ。結果的には、私の場合は、渡米という行動に結びついたが。だから、ガンダムは見事にその16歳の心理をついていると言えるだろう。まさに正鵠を射るアニメであった。それは、一人の引きこもりが戦争で一気にヒーローになり、だれもが恐怖する赤い彗星のシャーと互角の立場になるという、男に取っての夢物語でもある。しかし、それは、同い年の学園のクウィーン・ビー(女王蜂)を地に落とす。ハヤトが怪我をして、みっともない自分にやるせない気持ちになって、フラウ・ボウに当たってしまうシーンでも、フラウ・ボウは、「あなたの心境は理解できるわ」というように、
「アムロは、あたしたちと違って特別なのよ」
と捨て台詞というような言葉を吐いたのである。私は、
「ああ・・・」
となった。あのハヤトに対する慰めというか、まあ、フラウ・ボウにとっては、自分に対する慰めでもあったのだが、あれで、完全にアムロをあきらめてしまったという、give up宣言そのものであったことを、私は悟った。あの一言で、すべてを悟ってしまった。それで、ハヤトとフラウ・ボウは同じ土俵に立ってしまった。アムロだけ抜き出てしまったために。とても切なかった。
「あたしこそがアムロにとっての唯一のプリンセスだったのに」
そんな実に悲しいものであった。お気の毒に。彼女こそ、悲劇のプリンセスではなかったのだろうか。
しかし、ハヤトにとっては、憧れの女性が自分の近くに存在するという確証を得た。だから、彼は、カジモドではなかった。そう、ハヤトにとってフラウ・ボウがエスメラルダであった。ビクトル・ユーゴーの『ノートルダムの鐘』のキモメンの主人公のカジモドが初めてジプシー女性のエスメラルダの優しさに触れるのだが、そこで、人間の優しさを初めて知るのだが、それでもエスメラルダは決してカジモドとは結ばれないのだ。エスメラルダは王子と恋をしてしまい、カジモドの恋は報われなかったのである。デズニーアニメは、キモメンが決して可愛い女性と結ばれないという言説を小さい頃からアメリカ人に刷り込ませるのである。だが、ガンダムでは、エスメラルダは、カジモドと同じ階級という意識によって、カジモドが救われる可能性を作り出したのである。それは、エスメラルダの王子へのあきらめによるものだったが・・・。しかし、それと同時に、恋愛は階級による、という不都合な真実も、我々に突きつけてくるのである。「恋に上下の隔てなし」とは、いかなかったのである。
まあ、キヨシ様の場合は、エスメラルダさえいなかったのだから、夢精するしかなかった。だから、彼はオムツをいつも穿いていた。もし、キヨシ様が宇宙世紀に生きていたならば、フラウ・ボウは、キヨシ様のエスメラルダになっていたはずである。なにせフラウ・ボウはホワイト・ベースで育児担当だ。三人の子どもと一緒に裸でお風呂に入ってくれるのだから。だから、私も幼稚園生になりたいという願望が出てきた。そう、フラウ・ボウにオムツを取り替えてもらえるのである。だから、フラウ・ボウに、キヨシ様的には、
「お・・オムツを、と・・取り替えてほしいんだなぁ」
というのが、愛の表現となっていたであろう。キヨシ様は三人の子どもにまぎれてもまったく違和感がないであろう。それに、キヨシ様こそ、我々のニュータイプだし。最近では、日本の政界では、小泉がニュータイプと思われるような政治を行ったが、やはり芸術的な面では、キヨシ様こそがニュータイプであると思われるのだ。そして、それをtake careするのが、いわゆるオムツを取り替えるのが、フラウ・ボウなのだ。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。
しかし、戦争がすべてを変えてしまったのである。フラウ・ボウもアムロも普通の高校生として青春を送っていたはずであったが、戦争が彼らをまったく変えてしまったのだ。そういえば、ヒットラーも、売れないアーティストとしてウィーンで貧乏生活をしていたが、戦争が起きたために、兵士となり、戦争が終われば、ドイツ復興のために政治家になることを決意したという。ヒットラーも戦争がなければ、貧乏画家として、平凡な生活を送っていたはずであった。政治家になることもなく、ナチスもできなかったのだ。そう、戦争はモンスターを作り出してしまったのである。ニュータイプ思想も、戦争があったために発生し、それはナチスの優生学を根拠にした最も優れた人種であるアーリア人の国家を建設するための戦争を生み出した。ガンダムで、シリーズがあるのも、戦争は繰り返される、歴史は繰り返すという事実を突きつけたものであろう。でなければ、ガンダムはシリーズ化されることはない。まあ、BANDAIのビジネス戦略もあるのだろうが。だから、私は反戦の精神を貫くのだ。小泉が不戦の誓いのもとに靖国に参拝したように。だから、私は、マチルダ中尉、リュウ、ランバラル、クローリー・ハモン、ミハル、そして、もちろんガルマ大佐、これらの英霊を靖国に祀るべきだと思うのだ。
アムロは負け犬からヒーローへ、そしてフラウ・ボウは、プリンセスから負け犬へ。やはり、男の野望と女性というのは、セットなのである。それは、女性の野望と男性がセットと同じであるように。階級を越えての恋愛は、ガンダムでは実現しなかった。そういう意味では、ガンダムはとても現実的である。それは、まるでナポレオン・ボナパルトがアムロのような一軍人から皇帝に出世するにつれて、離婚してまでハプスブルグ家のご令嬢と結婚したのと同じようなものである。それが階級社会での恋愛関係というものである。恋愛は階級を越えられないのだ。それは人種でも同じである。それがガンダムの恋愛形態だ。ニュータイプを否定しておきながら、ニュータイプの行動をとる。それは、いくら白人が異人種結婚に賛成でも、結婚する相手は白人という、そういう欺瞞である。フラウ・ボウも、その階級の壁を越えられず、諦めてしまった。彼女は自分のなかで、階級の壁を作ってしまい、それに押しつぶされてしまったのである。私は失望した。それは、このアニメが階級的であり、なおかつ男性向けであることを切実に語っている。ガンダムも、現実だったのである。だから、私は、このアニメで救われることはなかったのだ。しかし萌えは階級を越える。だから、私は萌え系アニメに救いを求めるのだ!
「くっそー、金持ちのイケメンめー、ふざけんじゃねぇ」
という憎しみと妬みが私にはあった。なにせ、公国の王子様だ。いつの時代も、イケメン王子が、すべての女性の心を掴むのである。そして、貴族の女と恋に落ちるのである。まあ、ガルマの場合は、市長の娘であったが。シッダールタもそうだ。彼は、『ラーマーヤナ』で有名なコーサラ王国に従属するシャカ王国の皇太子であった。そして、経典の伝えるところによると、シッダールタが馬車で町中を凱旋すると、若い女の子たちがシッダールタに対して花を投げたという。そう、英国で、イギリスのティーン・ガールズがウィリアム王子に向かって花を投げるようなものだ。女の子の熱狂が常に彼の周りにあったのである。そして、シッダールタは、貴族の娘のヤショーダラと結婚した。また、ガルマも、イセリナ・エーシェンバッハと結婚することを約束した。また、イセリナの登場の仕方も、いかにも貴族の令嬢のごとくであった。カメラアングルが下からイセリナを映し出し、しかも豪華絢爛な屋敷の階段の上から登場するという、よりによって、彼女の心はザビ家という名門中の名門の王子に奪われているという、まったく王家の独占だ!不公平だ!不条理だ!君主制反対!我々プロレタリアート階級では、絶対に、どんなに、一生頑張っても、決して届くことのない女性、それをいとも簡単に手に入れているとは、どんなに私は憤慨したことか!
だが、私の彼に対する嫌悪感は、彼の「神風」の犠牲精神によって、跡形もなく消え去った。なんと、自分の運命を悟ったガルマ大佐は、ホワイトベースに突撃していったのである。しかも、最後の言葉、
「ジオン公国に栄光あれ!」
である。しかも、その時の、ラストシーンは、愛の誓いを交わし合った愛しいイセリナの容姿が浮かんだものであった。そして、ガルマは散ったのだ。私は感動してしまった。
「あれこそが、美しい死に方だ!」
と一瞬にして感化されてしまったのだ。もし、イセリナがいなければ、ガルマが死ぬとき、
「ざまー見ろー」
としか思わなかっただろう。しかし、恋人を最後に思って散るという、あれは本当に圧倒されてしまった。ガルマの戦死は私に強い印象を与えた。あれこそ、疾風怒濤の精神だ。まるで、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』の青年のようなロマンチックな死に方である。それは、もうパンクの精神に通じる。国葬に参列したいと思ったぐらいだからね。それにしてもガルマ・ザビは靖国神社に祀られていないのかなぁ。もし、祀られてるんだったら、小泉が靖国に参拝したのは正解だと思ったし、これからも、安倍総理が言うように、どの総理大臣も靖国に参拝するべきだね。そして、最終的には天皇も参拝することだ。なにしろ、ガルマ大佐は東条英機よりもはるかに偉大な人物だからね。まあ、どちらにしろ、私のガルマに対する評価は、非難から、絶賛へと変貌した。これぞ、君子豹変というものだ。また、そんなみっともないところを私の尊敬する方に目撃されてしまったのが恥ずかしい。しかも、あまりにも感動してしまって、人様の家で泣いてしまったし。だから、あわてて涙を拭いたが。泣いているところを見られなかっただけでも、まだましだ。しかし、きっと、私の脳は単細胞で出来ていると思われてしまったであろう。そう、ある方は、「脳まで筋肉」と自己評価するが、私は自分の脳を、「脳まで
ああ、マチルダ中尉。あの、満月を、まあ、正確には月ではないのだが、あの満月のようなライトをバックにしたマチルダ中尉のちょっと斜めになっているシルエットで、アムロに送る眼差し、しかも、「エスパー」としてアムロを見込み、それに、
「あなたに期待しているわ」
という、なんという!そんなことを憧れの女性に言われたら、もう至高の幸福感でいっぱいになって、『聖テレジアの法悦』状態だね。しかも、彼女は、あろうことに、アムロのことを気に入っているのだ。こんな、素晴らしいキャリア−・ウーマンでスタイルが抜群で凛としていて、ああ、私は、
「なんでオレはニュータイプじゃねんだ!」
と拳で床を思いっきり叩いてしまった。私は妄想の世界ではニュータイプのはずだ。しかし、現実は辛過ぎる。どうみても、私はハヤトではないか。あのチビで、重要な局面で怪我して前線から離脱してしまうと言う、まあ、私は会社でも、主流ではないし、まあ、自然淘汰の原則が働くネオリベラリズムのアメリカ社会では、窓際族という存在はないが、そんなものは、存在できないが、それに近いようなポジションだし、「役立たず」「足手まとい」と思われながら働いているほど辛いことはないし、女の子にはモテないし、だから、会社から、いわゆる資本主義社会から逃げ出したいし、どうせならいっそのことカナダに亡命したいし、アニメの世界に現実逃避したいし。それに、中学のときから、いや小学校の時からスポーツは苦手であったが、とくに思春期になると、スポーツの出来る子と出来ない子との差別化が一気に拡大し、それがモテるかモテないかという差別を生み出し、私は完全にモテない派として辛い涙を飲むことになってしまった。かけっこもクラスで一番遅かったし、球技も駄目、喧嘩も弱い、勉強も苦手、それらがいじめの原因となり、仕舞には登校拒否がちとなり、私の引きこもりの性格がそのときに決定づけられた。とてもマチルダ中尉のような女性には手が届かない。私の立場は戦争に少年兵としてかり出される前のハヤトだったんだから、私は。ああ、アムロが本当に羨ましい。16歳だ!あんな素晴らしい女性に気に入られてしまうなんて。だが、マチルダ中尉がアムロを気に入ったのは、もちろんアムロがニュータイプだったからである。特別な才能を発揮する少年だったからだ。しかも、彼女のアムロに対するしっかりとした眼差し、
「ああ、本当にアムロのことを気に入ってるんだなぁ」
と羨ましくなってしまった。だから、ニュータイプではないカイがマチルダ中尉に、
「一緒に写真とってください」
とたのんだ時点で、
「ああ、軟弱者である上に、負け犬なんだなぁ」
と思ってしまった。まるで自分を見ているようで、とても嫌だった。セイラのピンタは本当に効いたよ。まるで、自分が叩かれているようで・・・。しかし、それでも、マチルダ中尉は、とても寛大で、サービス精神旺盛で、一緒に写真を撮ってあげた。さすがはマチルダさんだったね。素晴らしい。それにしても、アチルダ中尉と写真を撮るとなると、一気にゾロゾロと、どこからもなく野郎どもが集まってきたのが、とても爆笑してしまった。しかも、アムロは写真でも端のほうであったし。マチルダ中尉は、紛れも無く少年兵たちの憧れだったのである。だから少女兵のフラウ・ボウに嫉妬されてしまったのだ。アムロがマチルダにうつつを抜かすのを見て、彼女はベロを出して、
「なによ、ベー!」
という仕草をしたのだ。私は、
「キャーカッカッカカー!!!」
とドン腹笑いしてしまった。
「うわー、フラウ・ボウ、まじでかわいいー!
」と叫んでしまい、欣喜雀躍となり、スキップしてしまった。でもこれは、「萌え」なのかぁ。いや、そんなはずはない。たとえ万人が「それは萌えじゃねえか!」と指摘しようとも、断じて認めんぞー。私のプライドを守るためにも。なにせ、私はプライドの動物だ。決して認めるわけにはいかない。認めたら、それこそ自尊心がボロボロになるであろう。それだけはなんとしてでも避けたい。それに萌えない正当な理由がある。なぜ、フラウ・ボウに萌えないか、それは、なぜなら、絵が萌え系ではないからだ。絵が70年代で相当古いし、なにしろガンダムはベトナム戦争が終わって間もなく作られた作品だし、アメリカではカーター大統領がホメイニ革命やイランでのアメリカ人の人質事件とか、ソ連のアフガン侵攻に苛まされていたときである。そう、ソ連がまだ存在した古い時代のアニメなのである。それにガンダムはあまりにもストーリーが重過ぎるからね。
それにしても、運命とは過酷なものだ。戦争がなければ、フラウ・ボウとアムロはくっついていたのに、しかし戦争によって、アムロはさまざまな大人の女性に会ってしまい、フラウ・ボウから離れてしまった。それを悔しがるフラウ・ボウ、切ないねー。その上での、あのベーである。脳梁がちぎれるかと思ったよ。私は、そこの部分を何回も巻き戻して再生した。まるで麻薬中毒患者のように。ランナーズ・ハイからプレイヤーズ・ハイ(再生者のハイ)である。ああ、いい時代になったものだ。DVDは素晴らしい。何回再生しても、DVDは傷つくことはない。これが、VHSだったら、とっくにそこの部分はすり切れてしまっていたであろう。とくにマチルダ中尉のシーンの画像の粒子が荒くなっていたであろう。だが、DVDはそれがバレない。だから、私は、マチルダ中尉なんかファンではないと言っても、深層心理がバレないのだ。そう、誤魔化すことが出来るのだ。また、マチルダ中尉はアムロが口答えするのを、
「生意気ね」
と言ってデコピンするのだ。その時も、私は、
「うわー、マチルダさん、オレにもデコピンしてくださーい!
」と叫んでしまった。
「デコピンだけで、オレは救われるんです!」
と跪いて懇願しようかと思ったよ。ああ、それにしても、なんと羨ましい。くそー、アムロめ、一人で独占しやがって。なんて野郎だ。一番許せなかったのが、アムロがガンダムに載って出陣するときの、マチルダ中尉の投げキス
、私は、「ぐぐがうがぐあがががー!@#$!!!」
と雄叫びを上げてしまった。そして、自分をアムロに同化させて、そこの部分も何回もリプレイしてしまった。ああ、16歳のときに、こんな女性がいたならば!『おねティー』では、宇宙から来た理想の先生、私も高校一年生のときに芸大卒業仕立てのピチピチの新任の音楽の先生に恋をしてしまったが、元の先生が産休が終わって帰ってきてしまったのがとても残念であった。そう、それは、パリス・ヒルトンが『Nothing In This World』で演じている官能的なヴィーナスのような先生でもある。あれで、
「中学生に戻りてぇ!」
と思ったくらいだ。でも、マチルダ中尉の場合は、それとはまた違う高校生の青春時代の憧れの女性の原型が、このマチルダ中尉なのである。大人の雰囲気を持った女性、くーくく。想像するだけで、ニタニタしてしまい、のぼせてしまう。ケピ(軍帽)があそこまで似合う女性は、いないであろう。オレンジ色の髪の毛はまるでオランダ女性を彷彿させるようである。ワーグナーの『さまよえるオランダ人』とでも言うべきか。そういえば、オランダ人女性はヨーロッパの中では平均身長が一番高いというし。ああ、マチルダ中尉のような素晴らしいスタイルの女性がいっぱいいるんだろうな。私もオランダに旅行に行ったことがあるし、やはり、
「うっきょー!」
となるばかりであった。輝かしい女性ばかりが歩いていたのだ。とても、アンネ・フランクや、オードリー・ヘップバーンが出てきた国とは思えなかった。ああ、そういえば、オードリーも173センチだったんだっけ?やはりオランダ人女性は背が高い。ああ、「梅に鶯、松に鶴、紅葉に鹿、竹に虎、牡丹に唐獅子、波に千鳥、柳に燕」と言うように、「月にマチルダ」とでも言おうか?そうさ、それがマチルダ中尉なんだから。
それにアムロはジオン軍のクローリー・ハモンにも気に入られいてしまう。ハモンの内縁の夫のランバラルも、
「あんな子が欲しいのか?」
と驚いていたぐらいだ!She wants himなのである!くわー、たまらねぇ。wantだよ、want!うぐー、ちくしょう、羨ましい!ハモンはブロンドでとても上品な女性であり、闘将ランバ・ラルよりも背が高く、しかもスタイルはスーターモデル並みであり、とても美しい。それがアムロを欲っするなんて。しかも、これはもう少年愛のような、ショータコン的な、いわゆるペドフィリア的な危険な香りのするものであり、しかも内縁の夫のランバラルも、そのハモンのアムロに対する気に入りを、承認しているのだ!ペドフィリアは私の敵であったが、私もこの場合なら例外的に特別にオッケーということに考えを改めなければならなかった。そんなハモンのペドフィリア的な好意を見て、なんとランバラルはアムロに対して、
「ようし、坊主、私にも奢らせてくれ」
と言ったのだ。ああ、なんてことだ。それに、ハモンの部下たちからも、
「おお、坊主、男冥利に尽きるぜ。オレたちも肖りたいくらいだよ」
と羨ましがられていた。しかも、ハモンという人物は、部下にとても信頼されている。その信頼は絶大だ。なにさ、砂漠の中のレストランで、部下たちに奢るという太っ腹の気前の良さ、部下と混じって一緒に食事をするという、とても上官として面倒見が良い人間であった。また、ハモンはランバラルの仇として、最後の出陣の時も、自分の部下と一人ずつ握手して敬礼し、部下たちも、
「ハモン様とともに運命を共にし、闘って死にます」
という信頼を寄せていたのである。私は、なにかとても感動してしまった。理想の軍人の美徳というのを、ハモンとその配下たちを通じて知ったような気がした。ハモンはまさに軍人の鏡だったね。しかし、そんな女性がアムロを一目で気に入ってしまったのだから、アムロが憎くなった。ハモンは、アムロのガンダムを破壊する寸前でも、
「坊や、あなたが本当に好きだったわ・・・」
と女が出てしまった。まあ、それが彼女の命取りとなり、リュウの特攻攻撃の前に散ってしまったが。結局ランバラルもハモンも軍人の鏡でありながら、「戦いの中で戦いを忘れた」ために、敗れ去ってしまったのである。しかし、そんな才色兼備で人格者でもある素晴らしい女性に、アムロが砂漠の店で、カウンターで一人でいるところを気に入られてしまうのだから。そして、そこでも、勇気あるフラウ・ボウがアムロを迎えにいく。そう、そういうあまりにも完成された女性たちのコントラストとして、フラウ・ボウが登場するのである。そうすることで、さらにハモンの魅力がいかにすごいか、ということを、これでもかというほど視聴者に見せつけるのである。そして、ハモンは、フラウ・ボウを、からかうように、アムロの「ガールフレンド」と呼ぶのである。女の嫌がらせほど、見てて愉快なものはない。けけけ。これほど楽しいことはあるだろうか!しかも、アムロがフラウ・ボウと店を後にするときも、ハモンは、大人の女性のセクシーな微笑を浮かべて、手を振るのである。もし、私がこんなことされたら、フラウ・ボウを捨ててまで、ハモンのハイヒールにキスしたであろう。やっぱ不良だよなぁ、アムロは。わざとまったく動じないふりをしているのだ。しかし、アムロは、ちゃっかり、フラウ・ボウと手をつなぐのを拒んでしまった。見え見えなんだよ、バカめ!フラウ・ボウは、アムロに、
「あの女の人が見てたから、あたしと手をつなぐのをやめたんでしょう?」
と尋問したのである。しかも、あのムッとした表情で。私は、
「へーへっへへへっへー!」
とまたしても笑いこらえられなかった。そして、思わず笑ってしまった。
「そんなんじゃねえよ!」
とアムロはアメリカ英語で言う「play dumb」をした。まったく、バレバレだというのに。もっと正直になったらどうなんだ。私は、
「ああ、アムロ、やはり不良だなぁ、くっくくー!」
と思った。それにフラウ・ボウの、
「もう、アムロったら、どんどんあたしから離れていっちゃうのね・・・」
私は、この台詞に、
「ぎがががががー!!!!」
となった。
でも、決してこれは萌えではない。ガンダムに萌えることはない。ガンダムは戦争をテーマとした物語であり、悲劇である。萌えるにはあまりのも重すぎるのだ。それにしても、フラウ・ボウもさぞかし、辛かったであろう。あまりにも魅力的でスゴい女性ばかりがアムロの周りに現れたので、『Sola』での、真名ちゃんの「依人にはあたししかいないんだから」というような、「アムロにはあたししかいないんだから」という自負が粉々に砕け散るというその悲しみと嫉妬、やるせなさ、ああ、悲しい人よ。戦争さえなければ、間違いなく、フラウ・ボウは、学園で男子生徒みんなが憧れる可愛い出来の良い女子高生、いわゆる学園のプリンセスとなったはずだったのに。もしくは、「サイド7の花」だったかもしれないのだ。しかし、戦争によって、一般の平凡な高校生には決して経験することのない事態に陥り、アムロは少年兵として軍隊に駆り立てられる悲惨な生活と同時に、もっとも完成された女性たちに、しかも社会の頂点にいる女性たちに気に入られるという、思春期の男子には童貞を水爆によって卒業するような、それほど強烈なものであっただろう。フラウ・ボウのやるせなさが伝わってくるのだ。また、もとジオン公国のトーマス・ジェファーソンというべきダイクンの娘、セイラの存在も、フラウ・ボウの居場所を追い詰めていった。だから、彼女は、最後まで育児担当だった。まあ、最後は通信網を担当するようになったが、それでも、やはりニュータイプのララやセイラ、また軍人のマチルダ中尉やハモン、アムロの周りにはあまりにもスゴい女性が多すぎたので、フラウ・ボウの存在は薄くなってしまった。かつて、アムロは部屋に閉じこもってずっと機械いじりをしている機械オタクだった。アメリカでは、家にはガラージがついているので、もしアムロの家にガラージがついていたなら、ガラージで研究に熱中していたであろう。だから、彼は社会性がない引きこもりだったのだ。郊外サバーバンによく見かける典型的なアメリカ人の少年である。そして、そんな孤独なアムロの唯一の理解者としてのフラウ・ボウ、それは、まるで依人に真名が唯一の理解者であるような自負だっただろう。そんな機械の瓦礫に埋もれた少年が、戦争によって、一気にヒーローになったり、アチルダ中尉には、はじめてニュータイプとして認知されたりと、しかも憧れの女性に自分を認めてもらえるという、そんな嬉しいことはないであろう。事実、あれでアムロはかなり成長してしまった。もはや、16歳の少年ではなくなってしまったのだ。あまりにも悟りすぎた。だから、フラウ・ボウを孤独にさせてしまったのだ。やはり、戦争はいけないと思ったね。ガンダムは日本国憲法第九条の精神に真っ向から反しているからね。
まあ、私も16歳のときの暮らしは、平和国家ではあったにしろ、倦怠感が私を包み込んでいた。しかも、私は引きこもりで、teenager angstを抱え込む少年だったのだから。それに、男尊女卑、年功序列、汚職、集団主義、タバコとゲロの蔓延する腐り切った日本社会、そんな社会には絶望感しかなかった。とても、そんな大人社会には入っていく気にはなれなかった。だから、アムロのように、なにか革命が起きることを期待した。戦争とまではいかなくとも、偉大な時代に生きているという実感が欲しかったのは確かである。この行き場のないteen angstを発散させる歴史的イベントが欲しかったのだ。そう、革命のようななにか大きな歴史的なイベントによって、引きこもりの高校生から英雄になるチャンスが来るのを夢見ていたのかもしれない。だから、革命願望があったのだ。結果的には、私の場合は、渡米という行動に結びついたが。だから、ガンダムは見事にその16歳の心理をついていると言えるだろう。まさに正鵠を射るアニメであった。それは、一人の引きこもりが戦争で一気にヒーローになり、だれもが恐怖する赤い彗星のシャーと互角の立場になるという、男に取っての夢物語でもある。しかし、それは、同い年の学園のクウィーン・ビー(女王蜂)を地に落とす。ハヤトが怪我をして、みっともない自分にやるせない気持ちになって、フラウ・ボウに当たってしまうシーンでも、フラウ・ボウは、「あなたの心境は理解できるわ」というように、
「アムロは、あたしたちと違って特別なのよ」
と捨て台詞というような言葉を吐いたのである。私は、
「ああ・・・」
となった。あのハヤトに対する慰めというか、まあ、フラウ・ボウにとっては、自分に対する慰めでもあったのだが、あれで、完全にアムロをあきらめてしまったという、give up宣言そのものであったことを、私は悟った。あの一言で、すべてを悟ってしまった。それで、ハヤトとフラウ・ボウは同じ土俵に立ってしまった。アムロだけ抜き出てしまったために。とても切なかった。
「あたしこそがアムロにとっての唯一のプリンセスだったのに」
そんな実に悲しいものであった。お気の毒に。彼女こそ、悲劇のプリンセスではなかったのだろうか。
しかし、ハヤトにとっては、憧れの女性が自分の近くに存在するという確証を得た。だから、彼は、カジモドではなかった。そう、ハヤトにとってフラウ・ボウがエスメラルダであった。ビクトル・ユーゴーの『ノートルダムの鐘』のキモメンの主人公のカジモドが初めてジプシー女性のエスメラルダの優しさに触れるのだが、そこで、人間の優しさを初めて知るのだが、それでもエスメラルダは決してカジモドとは結ばれないのだ。エスメラルダは王子と恋をしてしまい、カジモドの恋は報われなかったのである。デズニーアニメは、キモメンが決して可愛い女性と結ばれないという言説を小さい頃からアメリカ人に刷り込ませるのである。だが、ガンダムでは、エスメラルダは、カジモドと同じ階級という意識によって、カジモドが救われる可能性を作り出したのである。それは、エスメラルダの王子へのあきらめによるものだったが・・・。しかし、それと同時に、恋愛は階級による、という不都合な真実も、我々に突きつけてくるのである。「恋に上下の隔てなし」とは、いかなかったのである。
まあ、キヨシ様の場合は、エスメラルダさえいなかったのだから、夢精するしかなかった。だから、彼はオムツをいつも穿いていた。もし、キヨシ様が宇宙世紀に生きていたならば、フラウ・ボウは、キヨシ様のエスメラルダになっていたはずである。なにせフラウ・ボウはホワイト・ベースで育児担当だ。三人の子どもと一緒に裸でお風呂に入ってくれるのだから。だから、私も幼稚園生になりたいという願望が出てきた。そう、フラウ・ボウにオムツを取り替えてもらえるのである。だから、フラウ・ボウに、キヨシ様的には、
「お・・オムツを、と・・取り替えてほしいんだなぁ」
というのが、愛の表現となっていたであろう。キヨシ様は三人の子どもにまぎれてもまったく違和感がないであろう。それに、キヨシ様こそ、我々のニュータイプだし。最近では、日本の政界では、小泉がニュータイプと思われるような政治を行ったが、やはり芸術的な面では、キヨシ様こそがニュータイプであると思われるのだ。そして、それをtake careするのが、いわゆるオムツを取り替えるのが、フラウ・ボウなのだ。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。
しかし、戦争がすべてを変えてしまったのである。フラウ・ボウもアムロも普通の高校生として青春を送っていたはずであったが、戦争が彼らをまったく変えてしまったのだ。そういえば、ヒットラーも、売れないアーティストとしてウィーンで貧乏生活をしていたが、戦争が起きたために、兵士となり、戦争が終われば、ドイツ復興のために政治家になることを決意したという。ヒットラーも戦争がなければ、貧乏画家として、平凡な生活を送っていたはずであった。政治家になることもなく、ナチスもできなかったのだ。そう、戦争はモンスターを作り出してしまったのである。ニュータイプ思想も、戦争があったために発生し、それはナチスの優生学を根拠にした最も優れた人種であるアーリア人の国家を建設するための戦争を生み出した。ガンダムで、シリーズがあるのも、戦争は繰り返される、歴史は繰り返すという事実を突きつけたものであろう。でなければ、ガンダムはシリーズ化されることはない。まあ、BANDAIのビジネス戦略もあるのだろうが。だから、私は反戦の精神を貫くのだ。小泉が不戦の誓いのもとに靖国に参拝したように。だから、私は、マチルダ中尉、リュウ、ランバラル、クローリー・ハモン、ミハル、そして、もちろんガルマ大佐、これらの英霊を靖国に祀るべきだと思うのだ。
アムロは負け犬からヒーローへ、そしてフラウ・ボウは、プリンセスから負け犬へ。やはり、男の野望と女性というのは、セットなのである。それは、女性の野望と男性がセットと同じであるように。階級を越えての恋愛は、ガンダムでは実現しなかった。そういう意味では、ガンダムはとても現実的である。それは、まるでナポレオン・ボナパルトがアムロのような一軍人から皇帝に出世するにつれて、離婚してまでハプスブルグ家のご令嬢と結婚したのと同じようなものである。それが階級社会での恋愛関係というものである。恋愛は階級を越えられないのだ。それは人種でも同じである。それがガンダムの恋愛形態だ。ニュータイプを否定しておきながら、ニュータイプの行動をとる。それは、いくら白人が異人種結婚に賛成でも、結婚する相手は白人という、そういう欺瞞である。フラウ・ボウも、その階級の壁を越えられず、諦めてしまった。彼女は自分のなかで、階級の壁を作ってしまい、それに押しつぶされてしまったのである。私は失望した。それは、このアニメが階級的であり、なおかつ男性向けであることを切実に語っている。ガンダムも、現実だったのである。だから、私は、このアニメで救われることはなかったのだ。しかし萌えは階級を越える。だから、私は萌え系アニメに救いを求めるのだ!
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Gラップというジャンルのラップに多くの人々は嫌悪感を持つ。Gとは、「ギャングスター」または、「ゲットー」の頭文字である。ある意味、「頭文字G」となる。それは、貧困層の悲惨な生活を描いたものであり、犯罪、麻薬、セックス、暴力、それらが渦巻いているのだ。しかし、私はセックスと暴力は分離して考えたいと思う。かつて、シッダールタが、naparupa(名色)を、名と色に分離したように。なにしろ、プロテスタント倫理によって発生した資本主義に洗脳された人々は、セックスと暴力をセットで考えるため、国家が警察を使って暴力を統制するように、然りセックスも統制しなければいけないと決めつけるのである。暴力とセックスは違うものだというのに。それはまるでパンにバター、コーヒーにクリームのようなものであるが、本来は別である。フランスのカフェは、タバコとコヒーがセットなのだが、本来はまったく別なものだ。タバコは暴力であり、コーヒーはセックスと譬えたらわかりやすい。だから、彼らがギャングスター・ラップを批判するとき、暴力とセックスをセットで批判するのだ。それは、セックスが暴力に取り組まれているためである。つまり、Gラップも、プロテスタント倫理が敵とするものを煽ろうとして、書かれているのだ。だが、私は、Gラップの行った暴力の下に置かれているセックスを独立させたいと思うのである。そう、コーヒーからタバコを排除するのだ。カフェからタバコを排除するのである。それが、これからの新しいラップである。
猥男(わいだん)とは、なにか?それは、セックス・オフェンダーのことであろうか。いや、違う。暴力と結びついたセックスがセックス・オフェンスとなるのだ。しかし、私はこの暴力、いわゆる強制力を抜き去り、合意に基づく自由なセックスであれば、人権侵害にはならないし、そのようなセックスを願う男を「猥男」と名付ける。そしてそのような女は、「猥女」である。もしジェンダーフリーにするのなら「猥人」であろう。
さあ、私の新たなラップは、「Hラップ」と名付けよう。ここで勘違いが起きては行けない。頭文字Hは、「変態」のHではなく、「引きこもり」のHである。そう引きこもりラップが、私の詩の形式なのだ。私の同僚はストリートから、いわゆるゲットーから来ている方々がいる。しかし、私は引きこもりから来た。彼らは、ゲットーというアメリカでも最悪な環境から来た。私も、引きこもりという日本の都市社会の辛い環境から来た。だから、我々は境遇が違うと言えども、
「How much we went through」
という共通理解があるのだ。彼らは、ゲットーの悲惨さを詩にする。私は、引きこもりの悲惨さを詩にする。そして、そうやって芸術的なコミュニケーションを取るのである。これぞ、GラップとHラップの共演である。また、私はエロティシズムをとことん強調する。すると、私のは、Eラップともなる。頭文字Eは「エロティカル・ラップ」を表現する。
まさか、私が、ギャングスター出身の人と詩で交流するなんて。それは、まるで、『Kamikaze Girls』(邦題は『下妻物語』)の桃子とイチゴがまったく違うタイプなのに、get alongするようなものである。彼女らは、まったく違うファッションなのだが、刺繍を通して交流を深めた。私も、詩のスタイルは、ゲットーと、引きこもりとまったく違うのだが、それでも交流を深めている。これぞ、Gラップと、Hラップの交流なのである。
猥男(わいだん)とは、なにか?それは、セックス・オフェンダーのことであろうか。いや、違う。暴力と結びついたセックスがセックス・オフェンスとなるのだ。しかし、私はこの暴力、いわゆる強制力を抜き去り、合意に基づく自由なセックスであれば、人権侵害にはならないし、そのようなセックスを願う男を「猥男」と名付ける。そしてそのような女は、「猥女」である。もしジェンダーフリーにするのなら「猥人」であろう。
さあ、私の新たなラップは、「Hラップ」と名付けよう。ここで勘違いが起きては行けない。頭文字Hは、「変態」のHではなく、「引きこもり」のHである。そう引きこもりラップが、私の詩の形式なのだ。私の同僚はストリートから、いわゆるゲットーから来ている方々がいる。しかし、私は引きこもりから来た。彼らは、ゲットーというアメリカでも最悪な環境から来た。私も、引きこもりという日本の都市社会の辛い環境から来た。だから、我々は境遇が違うと言えども、
「How much we went through」
という共通理解があるのだ。彼らは、ゲットーの悲惨さを詩にする。私は、引きこもりの悲惨さを詩にする。そして、そうやって芸術的なコミュニケーションを取るのである。これぞ、GラップとHラップの共演である。また、私はエロティシズムをとことん強調する。すると、私のは、Eラップともなる。頭文字Eは「エロティカル・ラップ」を表現する。
まさか、私が、ギャングスター出身の人と詩で交流するなんて。それは、まるで、『Kamikaze Girls』(邦題は『下妻物語』)の桃子とイチゴがまったく違うタイプなのに、get alongするようなものである。彼女らは、まったく違うファッションなのだが、刺繍を通して交流を深めた。私も、詩のスタイルは、ゲットーと、引きこもりとまったく違うのだが、それでも交流を深めている。これぞ、Gラップと、Hラップの交流なのである。
私がどんなに16歳に戻りたいか。だれもわからない。人々は
「そんなのは胡蝶の夢だ」
といい、
「過ぎ去ったことは後悔しても仕方ないよ」
という。まったく、大人はそういう考えかたしか出来ないから、駄目だ。マイケル・ジャクソンだけであろう、私の心境を理解できるのは。彼はアダルト・チャイルドだ。そして、私もアダルト・ティーンだ。マイケルは子どもにしか経験できない楽しさを経験できず、自分の屋敷をネヴァーランドとし、邸宅を萌えフギュアづくしにし、個人専用の巨大遊園地を建造した。私も萌え系妄想族だからこそ、彼の気持ちがとてもわかる。しかし、世間のネオリベラル資本主義に犯されてしまった大人たちは、それをまったく理解せず、気持ち悪がり、自分の子どもに、
「あのような大人になっては駄目よ」
と警告するのだ。その集合的無意識が、いわゆるヤハウェーが、あのマイケル裁判を引き起こした。魔女裁判が、毒男裁判となってしまったのである。
私も、16歳のときにしか経験できない青春を経験できず、そのために私は苦悩し続けてきた。この苦しみを解消するためにアメリカに渡って、今まで日本で受けてきた屈辱を忘れ、新たな人生をスタートさせ、アメリカに住む人間として生まれ変わった私の人生をスタートさせようとして、渡米したのである。日本にいては、ただ受験勉強して大学に行って、そしてサラリーマンになって、年功序列と終身雇用という二大悪の不自由な個人主義に真っ向から反するシステムに取り込まれて、終わりであった。それは男社会の固定化というオヤジ言説を生み出し、会社の幹部と重役はすべて男だ。男尊女卑の社会だ。だから、サラリーマンだけにはなりたくなかった。そんなつまらない人生はない。そして、そんな言説の大元を砕く小泉・竹中が日本に登場するとは予想もしていなかったから、日本はサラリーマン国家として未来永劫に続くだろうと思っていた。だから、アメリカに来て、色々なことを経験したかった。異国の女性との接触がしたかったのだ。日本の女性、まあ女子高生は私に青春を経験させてくれなかった。どんなに、私がもがき苦しもうとも、彼女らは無視したし、私がアプローチすると、「キモイ」と言って、私を避けた。女の子は自分の意志で私を判断せず、DQNの言いなりとなっていた。男尊女卑社会が高校までに浸透していたのである。男社会でなければ、女性は自分の意志で考えて行動したはずだ。よって、私を助けてくれたはずだ、『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』で、とまりちゃんが、いじめられているはずむ君を助けたように。しかし、そのような子はいなかった。どんなに傷ついたことか。だから茶髪、ルーズソックス、ポケベル、アムラー、キムタク、それらすべての女子高生を象徴するシンボルに嫌悪感を持った。あれは、男尊女卑社会の最後の象徴であろう。
だから、私は、アメリカの女性に賭けた。アメリカ人の女性は、日本人の女性よりは、活躍している。まあ、ヨーロッパに比べたらまだまだであるが。だか、アメリカ人の女性は、高校で、すでに野性的になるという事実を知らなかった。それに、ゴア革命で、インターネットが登場したことによって、女子は中学生でも、野性的になることが可能となった。つまり、セクシュアリティーの発見に依って、男を隷属化できる手段を身につけるのだ。そして、マイスペースなどのサイトで、自分のヌードを掲載し、百以上ものコメントが来るのを見て、自分の影響力を知り、床に転げ回って爆笑するのである。「キャーハハハハ!!!」と。それよりも、肝心なことは、アメリカの中学高校は、私服だということだ。つまり、女の子は超セクシーな格好で登校してくるのである!なんという天国。こんな学校ならば、私は登校拒否に絶対に陥らなかった。しかも、アメリカの女の子は13歳からすでに化粧をしているし、とてもませているのである。つまり思春期と同時にセクシュアリティーも開花するのである。だから、あれだけセクシーになれるのだ。私もはじめてアメリカの大学の授業に出た時は驚愕してしまった。あまりものアメリカ人女子のセクシーさに。
「これが、アメリカの女子大生かー!」
と天を仰いだ。だから、成績ははじめのころは、Cだらけであった。いや、D+というのもあった。Fもあったかなぁ。私もブッシュと同じで、大学ではCストゥーデントだった。だか、アメリカ人女性は高校のときこそが、もっともワイルドな時期というし、まあティーン後期は、性欲がもっともスゴいというし。だから私はアメリカの高校に入学したかった。日本でニートとして引き蘢るんじゃなくて、アメリカに行けば良かったものを。
しかし、女子高生の彼女らはまだ純粋にそれを楽しんでいるのであり、資本主義には汚染されていない。だが、大学に入ったとたん、彼女らは資本主義に汚染されるのだ。ロサンゼルスの高校では、異人種間のデートがとても盛んなのだが、大学に入ったとたんに、人種主義に犯されてしまうと言う。それは、やはり自分の文化と肌の色にもっとも安心感を得るからであろう。というか、社会が、異人種間の結婚を奨励していない。やはり結婚となると、異なる文化、宗教であることが問題となるからだ。だから、私は差別の根源である結婚を廃止することを説くのである。結婚はイデオロギーであり宗教だからだ。だから、ドメスチック・パートナー制度に移行してしまえばいいのだ。そう、資本主義に洗脳された女性は先に結婚を見据えているのであり、だから、人種主義に陥ってしまうのだ。よって、結婚を廃止することである。そうすれば、人種主義は消える。また結婚はヤハウェーのシステムであり、結婚を廃止することは、その集合的無意識であるヤハウェーを解体することにつながるのだ。
ああ・・・。それにしても、16歳になりたい。というか、それは、もしアニメの世界のような日本の高校で実現できるものであればの話である。だが、アメリカでは青春は早ければ中学から始まる。それを、私はパリス・ヒルトンの『Nothing In This World』というビデオクリップで再確信した。だから、私はアメリカの中学生にもなりたいと強く思うようになった。そして、
「なんでアメリカで中学生をやっていなかったんだ!」
ととても後悔した。現在のアメリカの思春期真っただ中の中学生男子の女神は、やはりパリスであろう。
しかし、パリスに対しては、私は個人的に悪い感情を持っている。飲酒運転の罪で、あんな短い刑期で済んだのは、ヒルトンという名字を持っていたからだろう。そして、パリスは、シュワルズネッガー知事に恩赦を請願したのである。しかし、もちろん、そんなことはシュワルツネッガーはしなかった。それに、私の知り合いは同じ罪で、3ヶ月も刑務所に入り、刑期を満たした。刑期より早く釈放されるということはなかった。それに、一日目の精神的ブレークダウンが起きても、自宅軟禁に切り替えられることはなかった。普通は、それはだれもが初日に経験する精神的苦痛である。しかし、パリスはブレークダウンから回復するまで、自宅軟禁に切り替わった。しかし、彼女の自宅は、超高級マンションか豪邸である。それでは、刑を受けていることにはならない。まるで、パブロ・エスコバル気取りだ。どう考えても、刑務所専属の病院に搬送されて、安静にしておく対処をとるであろう。私の知り合いは、病院にも搬送されず、ただそのまま牢屋に入ったままだった。郡保安局が一般の囚人にブレークダウンが起きたからと言って、自宅軟禁に切り替えることがあるだろうか。だったら、初日のブレークダウンを起こしたすべての飲酒運転の罪状の囚人を自宅軟禁に切り替えるべきであろう。でなけば、不公平だ。それは、「ヒルトン」だから、待遇を受けたのだ。まったく、ヒルトンの金の力というのは、政治システムまで腐敗させてしまう。ネオリベラル社会の頂点に君臨する一族だからね。それが、アメリカならではなのクロニー資本主義なのだろう。郡保安局は市民の側ではないのか。公平さを正義とするモットーはどこへ行ったのか。これでは、市民の保安局に対する不信はつのるばかりだ。ただでさえ、市民はLAPDに不信を抱いているというのに。もし、パリスが刑期を済ませずに釈放されたら、それこそロドニー・キング事件以来の暴動に発展したことであろう。
まあ、現実のパリスの問題は別として、彼女の演じた中学の先生のビデオクリップでは、まさに私の
「アメリカの中学生になっていれば!」
という後悔をそのまま絵にしたような正確なものである。これまでアメリカの犯罪史では、様々な若い美人教師が、生徒を誘惑して、逮捕されたという事件があったが、それは、中学生にとっては、まさに夢である。私が大塩平八郎だったら、無罪放免するであろう。これは、フォード大統領がニクソンの共謀罪に恩赦を与えるより、はるかにましなはずだ。ニクソンのは国家犯罪だった。許されるべきではない。しかし、美人教師のは、犯罪というより、チャリティーである。まあ法的には犯罪だが、実質的には、チャリティーだ。私だって、アメリカ人の中学生になりたかった。アメリカ人として生まれ育ちたかった!そのチャリティーを私に!Give me chocolate!ではなくて、Give me Paris!
である。
ああ、アメリカでは、中学と高校は一つというところもある。7学年から12学年は一つの学校である。なにしろ、アメリカではK−12(幼稚園から高校三年まで)が義務教育なのだから。それに、いつも中退となるのが、男子生徒ばかりだ。だったら、このような先生がいたら、私は絶対に赤点を取ることはなかった。しかし、このビデオクリップの中学生も、D+の生徒か。ルーザーとしての生活は大変であっただろう。私も成績が悪かったからね。そして、私は中学に進級すると、いじめにあった。勉強もスポーツもできなかったし。成長も遅かったし。クラスのほとんどの男子にいじめられた。だから、私は登校拒否した。そしてポルノ雑誌で、または、水着美女のグラビア雑誌で、現実逃避した。この頃は、まだアニメの女性キャラには、高校になるまでは、ハマらなかった。というより、アニメが私の救いではなかった。思春期は現実の女の子しか頭にない。しかし、女の子も、暴力は使わなかったが、私を心理的にいじめた。私の男のなかでの評価を彼女らは内在化して、言葉の暴力を私に対して発したのだ。だから男が嫌いになった。また男だけにはなりたくなかった。こんな野獣的な生物だけにはなりたくなかったのだ。いまでも、男と本当に打ち解けるまでは、友だちにはなれない。というか、よほどのことがない限り、男とは友だちにならない。男は生理的に嫌いだ。
このアメリカの中学生の少年も、ひどいいじめにあっている。便器に顔を突っ込まされるという、残酷無比なものである。私は上履きの裏を舐めさせられたり、女子トイレに投げ込まれたりと、ひどい仕打ちにあったが、便器に顔を無理矢理突っ込まされて溺れさせられるといういじめは受けたことはない。さすがに、そこまではひどくなかった。アメリカのいじめは、本当に残酷だから。しかも、女の子も一緒になって少年をいじめているのだ。というか、このブロンドの可愛い子が、DQNに命令して、少年を便器に溺れさせるのである。DQNは、
「You like that, don't you!」
と訊くのだ。少年は、ゲホゲホと咳き込みながらも、
「If I say "yes," please stop doing it.」
と訴える。しかし、女の子は、非情にも、
「Do it again.」
とDQNに命令する。そして、彼らは少年を嘲笑するのである。これほどの屈辱はあるだろうか。しかも女の子がいじめに加わるなんて。これが、私だったら、登校拒否どころか、自殺していたであろう。可愛い子に自分がいじめられるところを見られるほど屈辱的なことはない。しかも、その可愛いブロンドの子が、一緒になっていじめるのである。そんなことをされたら、私だったら耐えられなくて自殺していたはずだ。そう、私をもっとも傷つけたのは、女の子たちの嘲笑だったのだ。どれほど彼女らに助けを求めていただろうか。
「やめなよ!」
この一言が欲しかったのに。こんな過酷な状況のなかでも、女の子たちだけは私の味方だという希望があった。彼女たちが唯一の希望だった。しかし、実際のところ、彼女らは嘲笑うだけであった。私の希望はズダズダに砕かれ、絶望が私を包んだ。この少年も、給食を台無しにされて、ケチャップまみれという惨めな姿になって、それを見ている女の子たちに笑われるのである。まったく悲惨であった。
この少年は、体がまだ小さいので、喧嘩しても、到底DQNには歯が立たない。だから、無力なのである。まったく抵抗ができなかった。
「本当に強い人はいじめないよ」
とよく大人はほざく。まったく欺瞞に満ちた馬鹿としか思えない発言だ。ここでは「強い」という言葉の定義を誤魔化しているのだ。大人の詐欺である。「本当に」という時点でもううさん臭い。子どもには、「本当に」という意味がさっぱりわからない。我々には、それは最も強い人のことを指していると捉えられるのだ。もし、そうであるならば、私はいじめられていたから、本当に強い人がいじめることを知っている。というか、それが集団のボスなので、それがすべてのいじめの元凶だ。そしてある程度強い子は、ボスに従い、いじめを遂行する身分なのだ。士農工商の身分にもない非人がいじめられるのだ。だから、私は「強い」という言葉を訂正する。強い人はいじめる。そして弱い人はいじめられる。それが真理だ。そして他の弱い奴は自分がいじめられないように強い奴のいいなりになる。その典型がファシスト国家だ。市民がスパイと化す、『ロミオとジュリエット』のネオヴェローナの市民のように。また男社会では女性はいじめられる。だから弱くてもいじめられない方法を探すのが一番だ。最善な方法は、弱い者同士団結して、立ち向かって相手を撃破するまでだ。そう、本当に強い人を転覆するのである。それが革命だ。
そのためには、まず弱者は妄想することだ。だからルーザーにはドリーマーが多いのである。そう、夢を持つ人は、ルーザーが圧倒的に多いのである。妄想族はルーザーの集まりだ。社会で追いやられた人々、社会的窓際族にこそ、夢想家が多いのである。そういう人々を救いにきたのがイエスであり、70年代ではジョン・レノンだった。なにせ、ジョン・レノンは「労働者階級の英雄」である。ネオリベラル社会に虐げられている労働者たちのヒーローなのだ。『Nothing in this world』に挿入されているキャッチフレーズの、
「Somtimes a dreamer is a loser」
という言葉、これは本当に真意を突いている。要するにいじめられっ子は、ルーザー(負け犬)なのだ。負け犬は夢想家になりやすいのだ。いじめられるから、モテないから、社会的抑圧を受けているから、夢想するのだ。だから夢を抱くのだ、イマジン(妄想)するのだ。ジョン・レノンの『イマジン』の歌詞にも、
「You may say I'm a dreamer」
という箇所がある。しかし、『イマジン』は、紛れも無く弱者救済の歌である。そこで、「dreamer」を「loser」と取り替えてみる。するとどうだ。
「You may say I'm a loser, but I'm not the only one. I hope some day you'll join us, and the world will be one」
そう、それこそ社会的ルーザーを救うための歌なのだ。つまり、弱者が団結すれば、それは革命の力となるのである。
または、その不条理ないじめ社会そのものを捨てて、他の土地に移り住むこと、ユダヤ人のように。私のようにダイアスポラか、アウトサイダーになること、そして私は完璧なアウトサイダーになるため、アメリカに渡った。社会を改革しようとする預言者は故郷には受け入れられない。レーニンだってスイスに亡命していたし、チェ・ゲバラも母国のアルゼンチンではなく、キューバ人として革命を成功させた。
中学生では、成長期が人によってとても早い子と遅い子がいる。私は遅い方だった。背の順も前の方だったし。だから、喧嘩しても、大人と子どもが争っているような実力差だったので、一瞬で勝負がついてしまった。いじめっ子にまったく歯が立たなかった。だから、自分では解決できない。やっと彼ら並みの体格になったのは、中三のときであった。そのときに、私がいじめられることはなくなった。というか、その頃は、ニルヴァーナなどに関心が出てきて、ベースギターを弾くようになって不良グループの仲間になったので、私に手を出す人間は消え失せた。アウトサイダーになると、さすがに手は出せないということなのだろう。いじめるのは同じ組織の構成員である雑魚である。まあ、私の場合は、不良グループも暴力の蔓延る世界だったので、溶け込むことは出来なかったが。男の集団に入ることを拒否した。しかし、日本は男社会だし、副流煙の蔓延する社会だし、男の集団に入らなければやっていけない、だからこそ、日本を捨てたのだ。
だが、このアメリカの中学生には、奇跡が起きた。なんとパリス・ヒルトンが学校の教師として現れたのである。そして、彼は救われたのだ。それこそ、妄想の世界への現実逃避だ。パリスという女神に救われるのだ。現実世界では、私もアメリカの大学時代は、jerkとかloserと言われていた。女の子にデートを申し込んでは、
「stupid jerk」
と陰口を叩かれた。陰口というのは、かならず本人に伝わるのだ。だから精神的ダメージが大きい。しかも、ある背が高くて脚線美の素晴らしいアメリカの女の子に、目の前で、
「アジア人の男って、ペニスが小さいんだよね」
と言われたのだ。しかも、セクシーな美女に。どんなに生気をくじかれただろうか。その時はさすがに生きる精力を失ってしまった。私は資本主義によって作られたペニス神話など信じないが、あの時はさすがに二週間はずっとへこんだままであった。それにしても、この少年の受けたいじめ、私は自分の過去と照らし合わせてしまった。あまりにも関連づけられてしまったからだ。私の中学のときにいじめられっ子としての忌々しい記憶が蘇ったのである。だから、彼と自分を完全に重ね合わせていたのである。しかし、私にもパリスがいたら、どんなに救われただろうか。ゲーテにとっての救いはグレートヒェンだったが、私にとっては、いや、この少年にとっては、紛れも無くパリスである。彼は、もはやトイレの水を飲まされることはないのである。パリス万歳!!!(現実のパリスは別にして)
もし私がアダルトチャイルドなら、マイケルのようにピンク色の天使に救われた。ダンテも、ベアトリーチェという幼年時代の初恋の相手に救われた。そして、『Sola』では、剛史は、繭子に救われた。ダンテも、剛史も、アダルトチャイルドだったのである。そう、プレティーンは、そのような永遠の女性である。しかし、アダルトティーンなら、それも思春期が始まったばかりの中学生なら、パリスに救われた。それかショータとして(いわゆるロリータの男版、ロリートとして)の救済である。ショータコンとしてのパリス、それが私をどんなに救ったことだろうか!ショータ、いわゆる、アダルト・アーリー・ティーンには、パリスである。そして、ティーン後期の16歳から18歳ならば、いわゆるアダルト・レイト・ティーンならば、沢近愛理に救われるのだ。また、お姉さまの蒼乃、小笠原祥子さま、または、姫宮千歌音、私は姫子になりたかった。相沢裕巳でもいい。『
「そんなのは胡蝶の夢だ」
といい、
「過ぎ去ったことは後悔しても仕方ないよ」
という。まったく、大人はそういう考えかたしか出来ないから、駄目だ。マイケル・ジャクソンだけであろう、私の心境を理解できるのは。彼はアダルト・チャイルドだ。そして、私もアダルト・ティーンだ。マイケルは子どもにしか経験できない楽しさを経験できず、自分の屋敷をネヴァーランドとし、邸宅を萌えフギュアづくしにし、個人専用の巨大遊園地を建造した。私も萌え系妄想族だからこそ、彼の気持ちがとてもわかる。しかし、世間のネオリベラル資本主義に犯されてしまった大人たちは、それをまったく理解せず、気持ち悪がり、自分の子どもに、
「あのような大人になっては駄目よ」
と警告するのだ。その集合的無意識が、いわゆるヤハウェーが、あのマイケル裁判を引き起こした。魔女裁判が、毒男裁判となってしまったのである。
私も、16歳のときにしか経験できない青春を経験できず、そのために私は苦悩し続けてきた。この苦しみを解消するためにアメリカに渡って、今まで日本で受けてきた屈辱を忘れ、新たな人生をスタートさせ、アメリカに住む人間として生まれ変わった私の人生をスタートさせようとして、渡米したのである。日本にいては、ただ受験勉強して大学に行って、そしてサラリーマンになって、年功序列と終身雇用という二大悪の不自由な個人主義に真っ向から反するシステムに取り込まれて、終わりであった。それは男社会の固定化というオヤジ言説を生み出し、会社の幹部と重役はすべて男だ。男尊女卑の社会だ。だから、サラリーマンだけにはなりたくなかった。そんなつまらない人生はない。そして、そんな言説の大元を砕く小泉・竹中が日本に登場するとは予想もしていなかったから、日本はサラリーマン国家として未来永劫に続くだろうと思っていた。だから、アメリカに来て、色々なことを経験したかった。異国の女性との接触がしたかったのだ。日本の女性、まあ女子高生は私に青春を経験させてくれなかった。どんなに、私がもがき苦しもうとも、彼女らは無視したし、私がアプローチすると、「キモイ」と言って、私を避けた。女の子は自分の意志で私を判断せず、DQNの言いなりとなっていた。男尊女卑社会が高校までに浸透していたのである。男社会でなければ、女性は自分の意志で考えて行動したはずだ。よって、私を助けてくれたはずだ、『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』で、とまりちゃんが、いじめられているはずむ君を助けたように。しかし、そのような子はいなかった。どんなに傷ついたことか。だから茶髪、ルーズソックス、ポケベル、アムラー、キムタク、それらすべての女子高生を象徴するシンボルに嫌悪感を持った。あれは、男尊女卑社会の最後の象徴であろう。
だから、私は、アメリカの女性に賭けた。アメリカ人の女性は、日本人の女性よりは、活躍している。まあ、ヨーロッパに比べたらまだまだであるが。だか、アメリカ人の女性は、高校で、すでに野性的になるという事実を知らなかった。それに、ゴア革命で、インターネットが登場したことによって、女子は中学生でも、野性的になることが可能となった。つまり、セクシュアリティーの発見に依って、男を隷属化できる手段を身につけるのだ。そして、マイスペースなどのサイトで、自分のヌードを掲載し、百以上ものコメントが来るのを見て、自分の影響力を知り、床に転げ回って爆笑するのである。「キャーハハハハ!!!」と。それよりも、肝心なことは、アメリカの中学高校は、私服だということだ。つまり、女の子は超セクシーな格好で登校してくるのである!なんという天国。こんな学校ならば、私は登校拒否に絶対に陥らなかった。しかも、アメリカの女の子は13歳からすでに化粧をしているし、とてもませているのである。つまり思春期と同時にセクシュアリティーも開花するのである。だから、あれだけセクシーになれるのだ。私もはじめてアメリカの大学の授業に出た時は驚愕してしまった。あまりものアメリカ人女子のセクシーさに。
「これが、アメリカの女子大生かー!」
と天を仰いだ。だから、成績ははじめのころは、Cだらけであった。いや、D+というのもあった。Fもあったかなぁ。私もブッシュと同じで、大学ではCストゥーデントだった。だか、アメリカ人女性は高校のときこそが、もっともワイルドな時期というし、まあティーン後期は、性欲がもっともスゴいというし。だから私はアメリカの高校に入学したかった。日本でニートとして引き蘢るんじゃなくて、アメリカに行けば良かったものを。
しかし、女子高生の彼女らはまだ純粋にそれを楽しんでいるのであり、資本主義には汚染されていない。だが、大学に入ったとたん、彼女らは資本主義に汚染されるのだ。ロサンゼルスの高校では、異人種間のデートがとても盛んなのだが、大学に入ったとたんに、人種主義に犯されてしまうと言う。それは、やはり自分の文化と肌の色にもっとも安心感を得るからであろう。というか、社会が、異人種間の結婚を奨励していない。やはり結婚となると、異なる文化、宗教であることが問題となるからだ。だから、私は差別の根源である結婚を廃止することを説くのである。結婚はイデオロギーであり宗教だからだ。だから、ドメスチック・パートナー制度に移行してしまえばいいのだ。そう、資本主義に洗脳された女性は先に結婚を見据えているのであり、だから、人種主義に陥ってしまうのだ。よって、結婚を廃止することである。そうすれば、人種主義は消える。また結婚はヤハウェーのシステムであり、結婚を廃止することは、その集合的無意識であるヤハウェーを解体することにつながるのだ。
ああ・・・。それにしても、16歳になりたい。というか、それは、もしアニメの世界のような日本の高校で実現できるものであればの話である。だが、アメリカでは青春は早ければ中学から始まる。それを、私はパリス・ヒルトンの『Nothing In This World』というビデオクリップで再確信した。だから、私はアメリカの中学生にもなりたいと強く思うようになった。そして、
「なんでアメリカで中学生をやっていなかったんだ!」
ととても後悔した。現在のアメリカの思春期真っただ中の中学生男子の女神は、やはりパリスであろう。
しかし、パリスに対しては、私は個人的に悪い感情を持っている。飲酒運転の罪で、あんな短い刑期で済んだのは、ヒルトンという名字を持っていたからだろう。そして、パリスは、シュワルズネッガー知事に恩赦を請願したのである。しかし、もちろん、そんなことはシュワルツネッガーはしなかった。それに、私の知り合いは同じ罪で、3ヶ月も刑務所に入り、刑期を満たした。刑期より早く釈放されるということはなかった。それに、一日目の精神的ブレークダウンが起きても、自宅軟禁に切り替えられることはなかった。普通は、それはだれもが初日に経験する精神的苦痛である。しかし、パリスはブレークダウンから回復するまで、自宅軟禁に切り替わった。しかし、彼女の自宅は、超高級マンションか豪邸である。それでは、刑を受けていることにはならない。まるで、パブロ・エスコバル気取りだ。どう考えても、刑務所専属の病院に搬送されて、安静にしておく対処をとるであろう。私の知り合いは、病院にも搬送されず、ただそのまま牢屋に入ったままだった。郡保安局が一般の囚人にブレークダウンが起きたからと言って、自宅軟禁に切り替えることがあるだろうか。だったら、初日のブレークダウンを起こしたすべての飲酒運転の罪状の囚人を自宅軟禁に切り替えるべきであろう。でなけば、不公平だ。それは、「ヒルトン」だから、待遇を受けたのだ。まったく、ヒルトンの金の力というのは、政治システムまで腐敗させてしまう。ネオリベラル社会の頂点に君臨する一族だからね。それが、アメリカならではなのクロニー資本主義なのだろう。郡保安局は市民の側ではないのか。公平さを正義とするモットーはどこへ行ったのか。これでは、市民の保安局に対する不信はつのるばかりだ。ただでさえ、市民はLAPDに不信を抱いているというのに。もし、パリスが刑期を済ませずに釈放されたら、それこそロドニー・キング事件以来の暴動に発展したことであろう。
まあ、現実のパリスの問題は別として、彼女の演じた中学の先生のビデオクリップでは、まさに私の
「アメリカの中学生になっていれば!」
という後悔をそのまま絵にしたような正確なものである。これまでアメリカの犯罪史では、様々な若い美人教師が、生徒を誘惑して、逮捕されたという事件があったが、それは、中学生にとっては、まさに夢である。私が大塩平八郎だったら、無罪放免するであろう。これは、フォード大統領がニクソンの共謀罪に恩赦を与えるより、はるかにましなはずだ。ニクソンのは国家犯罪だった。許されるべきではない。しかし、美人教師のは、犯罪というより、チャリティーである。まあ法的には犯罪だが、実質的には、チャリティーだ。私だって、アメリカ人の中学生になりたかった。アメリカ人として生まれ育ちたかった!そのチャリティーを私に!Give me chocolate!ではなくて、Give me Paris!
である。ああ、アメリカでは、中学と高校は一つというところもある。7学年から12学年は一つの学校である。なにしろ、アメリカではK−12(幼稚園から高校三年まで)が義務教育なのだから。それに、いつも中退となるのが、男子生徒ばかりだ。だったら、このような先生がいたら、私は絶対に赤点を取ることはなかった。しかし、このビデオクリップの中学生も、D+の生徒か。ルーザーとしての生活は大変であっただろう。私も成績が悪かったからね。そして、私は中学に進級すると、いじめにあった。勉強もスポーツもできなかったし。成長も遅かったし。クラスのほとんどの男子にいじめられた。だから、私は登校拒否した。そしてポルノ雑誌で、または、水着美女のグラビア雑誌で、現実逃避した。この頃は、まだアニメの女性キャラには、高校になるまでは、ハマらなかった。というより、アニメが私の救いではなかった。思春期は現実の女の子しか頭にない。しかし、女の子も、暴力は使わなかったが、私を心理的にいじめた。私の男のなかでの評価を彼女らは内在化して、言葉の暴力を私に対して発したのだ。だから男が嫌いになった。また男だけにはなりたくなかった。こんな野獣的な生物だけにはなりたくなかったのだ。いまでも、男と本当に打ち解けるまでは、友だちにはなれない。というか、よほどのことがない限り、男とは友だちにならない。男は生理的に嫌いだ。
このアメリカの中学生の少年も、ひどいいじめにあっている。便器に顔を突っ込まされるという、残酷無比なものである。私は上履きの裏を舐めさせられたり、女子トイレに投げ込まれたりと、ひどい仕打ちにあったが、便器に顔を無理矢理突っ込まされて溺れさせられるといういじめは受けたことはない。さすがに、そこまではひどくなかった。アメリカのいじめは、本当に残酷だから。しかも、女の子も一緒になって少年をいじめているのだ。というか、このブロンドの可愛い子が、DQNに命令して、少年を便器に溺れさせるのである。DQNは、
「You like that, don't you!」
と訊くのだ。少年は、ゲホゲホと咳き込みながらも、
「If I say "yes," please stop doing it.」
と訴える。しかし、女の子は、非情にも、
「Do it again.」
とDQNに命令する。そして、彼らは少年を嘲笑するのである。これほどの屈辱はあるだろうか。しかも女の子がいじめに加わるなんて。これが、私だったら、登校拒否どころか、自殺していたであろう。可愛い子に自分がいじめられるところを見られるほど屈辱的なことはない。しかも、その可愛いブロンドの子が、一緒になっていじめるのである。そんなことをされたら、私だったら耐えられなくて自殺していたはずだ。そう、私をもっとも傷つけたのは、女の子たちの嘲笑だったのだ。どれほど彼女らに助けを求めていただろうか。
「やめなよ!」
この一言が欲しかったのに。こんな過酷な状況のなかでも、女の子たちだけは私の味方だという希望があった。彼女たちが唯一の希望だった。しかし、実際のところ、彼女らは嘲笑うだけであった。私の希望はズダズダに砕かれ、絶望が私を包んだ。この少年も、給食を台無しにされて、ケチャップまみれという惨めな姿になって、それを見ている女の子たちに笑われるのである。まったく悲惨であった。
この少年は、体がまだ小さいので、喧嘩しても、到底DQNには歯が立たない。だから、無力なのである。まったく抵抗ができなかった。
「本当に強い人はいじめないよ」
とよく大人はほざく。まったく欺瞞に満ちた馬鹿としか思えない発言だ。ここでは「強い」という言葉の定義を誤魔化しているのだ。大人の詐欺である。「本当に」という時点でもううさん臭い。子どもには、「本当に」という意味がさっぱりわからない。我々には、それは最も強い人のことを指していると捉えられるのだ。もし、そうであるならば、私はいじめられていたから、本当に強い人がいじめることを知っている。というか、それが集団のボスなので、それがすべてのいじめの元凶だ。そしてある程度強い子は、ボスに従い、いじめを遂行する身分なのだ。士農工商の身分にもない非人がいじめられるのだ。だから、私は「強い」という言葉を訂正する。強い人はいじめる。そして弱い人はいじめられる。それが真理だ。そして他の弱い奴は自分がいじめられないように強い奴のいいなりになる。その典型がファシスト国家だ。市民がスパイと化す、『ロミオとジュリエット』のネオヴェローナの市民のように。また男社会では女性はいじめられる。だから弱くてもいじめられない方法を探すのが一番だ。最善な方法は、弱い者同士団結して、立ち向かって相手を撃破するまでだ。そう、本当に強い人を転覆するのである。それが革命だ。
そのためには、まず弱者は妄想することだ。だからルーザーにはドリーマーが多いのである。そう、夢を持つ人は、ルーザーが圧倒的に多いのである。妄想族はルーザーの集まりだ。社会で追いやられた人々、社会的窓際族にこそ、夢想家が多いのである。そういう人々を救いにきたのがイエスであり、70年代ではジョン・レノンだった。なにせ、ジョン・レノンは「労働者階級の英雄」である。ネオリベラル社会に虐げられている労働者たちのヒーローなのだ。『Nothing in this world』に挿入されているキャッチフレーズの、
「Somtimes a dreamer is a loser」
という言葉、これは本当に真意を突いている。要するにいじめられっ子は、ルーザー(負け犬)なのだ。負け犬は夢想家になりやすいのだ。いじめられるから、モテないから、社会的抑圧を受けているから、夢想するのだ。だから夢を抱くのだ、イマジン(妄想)するのだ。ジョン・レノンの『イマジン』の歌詞にも、
「You may say I'm a dreamer」
という箇所がある。しかし、『イマジン』は、紛れも無く弱者救済の歌である。そこで、「dreamer」を「loser」と取り替えてみる。するとどうだ。
「You may say I'm a loser, but I'm not the only one. I hope some day you'll join us, and the world will be one」
そう、それこそ社会的ルーザーを救うための歌なのだ。つまり、弱者が団結すれば、それは革命の力となるのである。
または、その不条理ないじめ社会そのものを捨てて、他の土地に移り住むこと、ユダヤ人のように。私のようにダイアスポラか、アウトサイダーになること、そして私は完璧なアウトサイダーになるため、アメリカに渡った。社会を改革しようとする預言者は故郷には受け入れられない。レーニンだってスイスに亡命していたし、チェ・ゲバラも母国のアルゼンチンではなく、キューバ人として革命を成功させた。
中学生では、成長期が人によってとても早い子と遅い子がいる。私は遅い方だった。背の順も前の方だったし。だから、喧嘩しても、大人と子どもが争っているような実力差だったので、一瞬で勝負がついてしまった。いじめっ子にまったく歯が立たなかった。だから、自分では解決できない。やっと彼ら並みの体格になったのは、中三のときであった。そのときに、私がいじめられることはなくなった。というか、その頃は、ニルヴァーナなどに関心が出てきて、ベースギターを弾くようになって不良グループの仲間になったので、私に手を出す人間は消え失せた。アウトサイダーになると、さすがに手は出せないということなのだろう。いじめるのは同じ組織の構成員である雑魚である。まあ、私の場合は、不良グループも暴力の蔓延る世界だったので、溶け込むことは出来なかったが。男の集団に入ることを拒否した。しかし、日本は男社会だし、副流煙の蔓延する社会だし、男の集団に入らなければやっていけない、だからこそ、日本を捨てたのだ。
だが、このアメリカの中学生には、奇跡が起きた。なんとパリス・ヒルトンが学校の教師として現れたのである。そして、彼は救われたのだ。それこそ、妄想の世界への現実逃避だ。パリスという女神に救われるのだ。現実世界では、私もアメリカの大学時代は、jerkとかloserと言われていた。女の子にデートを申し込んでは、
「stupid jerk」
と陰口を叩かれた。陰口というのは、かならず本人に伝わるのだ。だから精神的ダメージが大きい。しかも、ある背が高くて脚線美の素晴らしいアメリカの女の子に、目の前で、
「アジア人の男って、ペニスが小さいんだよね」
と言われたのだ。しかも、セクシーな美女に。どんなに生気をくじかれただろうか。その時はさすがに生きる精力を失ってしまった。私は資本主義によって作られたペニス神話など信じないが、あの時はさすがに二週間はずっとへこんだままであった。それにしても、この少年の受けたいじめ、私は自分の過去と照らし合わせてしまった。あまりにも関連づけられてしまったからだ。私の中学のときにいじめられっ子としての忌々しい記憶が蘇ったのである。だから、彼と自分を完全に重ね合わせていたのである。しかし、私にもパリスがいたら、どんなに救われただろうか。ゲーテにとっての救いはグレートヒェンだったが、私にとっては、いや、この少年にとっては、紛れも無くパリスである。彼は、もはやトイレの水を飲まされることはないのである。パリス万歳!!!(現実のパリスは別にして)
もし私がアダルトチャイルドなら、マイケルのようにピンク色の天使に救われた。ダンテも、ベアトリーチェという幼年時代の初恋の相手に救われた。そして、『Sola』では、剛史は、繭子に救われた。ダンテも、剛史も、アダルトチャイルドだったのである。そう、プレティーンは、そのような永遠の女性である。しかし、アダルトティーンなら、それも思春期が始まったばかりの中学生なら、パリスに救われた。それかショータとして(いわゆるロリータの男版、ロリートとして)の救済である。ショータコンとしてのパリス、それが私をどんなに救ったことだろうか!ショータ、いわゆる、アダルト・アーリー・ティーンには、パリスである。そして、ティーン後期の16歳から18歳ならば、いわゆるアダルト・レイト・ティーンならば、沢近愛理に救われるのだ。また、お姉さまの蒼乃、小笠原祥子さま、または、姫宮千歌音、私は姫子になりたかった。相沢裕巳でもいい。『




