ああ、私は、日系のチャンネルで、テレビとモニターの向こうに映る女神を崇拝していた。いや、90年代に渡米してから、まともに日本のチャンネルを観たことがなかったのだ。というか、中西部には、そんなチャンネルはなかったし。しかし、ロスに移住してきて、しかも、その女神によって、私は日系チャンネルを観るようになったのだ。日本をあれだけ嫌悪していた私がだ!それは、もはや常軌を逸していた。日本のもので観るものは、アニメだけだったのに。だから、毎週金曜日は、仕事の最後の日であり、あとはウィーク・エンドを迎えるということもあり、とても楽しみにしていた。朝早く仕事に行くので、時間がないが、なんとかテレビは観ているようにしている、もし観れなかったら、あとで必ずネットで観るのだ。
女神は現実に存在する人間だが、なにしろ女神はアニメを映し出す同じモニターから映し出されているのであり、それによってアニメと同じく神秘的で神聖な認識が私の中にあった。だから女神はアニメのキャラと同じぐらい神秘的に私の目に映ったのである。だから、女神はまさに私の「萌え」の対象だった。
いや、朝早くからの女神の活躍は、早朝の神、明けの明星、そう、アマテラスが天の岩戸から出現したような、金星のヴィーナス、アフロディーテが出現したような、そんな効果があった。私を明るくしてくれる太陽の存在、あの笑顔が私を元気づけてくれた。夢中だった。絶望の淵を彷徨っていたが、二度と這い上がれないかと思っていたが、それでも、毎週金曜日の、天と地を普く照らす我が女神の笑顔によって、本当に勇気づけられていた。女神の笑顔がどれほど私を救ってくれたことか・・・。
まあ、現実の世界に存在するとは言っても、私はアニメと同じ感覚で、モニターに映し出される女神を観ていたので、私にとっては現実離れしていた。そう、アリスでいえば、鏡の向こうの世界、つまりパラレルワールド、私の唯一の救いであるアニメの世界と同じ世界に女神は存在するものだと、思っていた。いや、頭では、彼女は現実の人間だと理解している、しかし、心では、(また二元論に陥ってしまうが)、つまり精神世界では、女神はスーリアルな存在だったのだ。だから、部屋に一人引き蘢ってはじめて、女神を観ることができた。なにしろ、私だけに笑顔で語りかけてくれるのだから。『ガンダム』では、ララのようなものか、『ラーゼフォン』ではクオンのようなものか。意識体で、私に交信してきているようなものだった。私は、デルフォイの神託を受けている気分だった。まるで、巫女装束に身を包んで、女神と交信しているような。
なにしろ、この世は、神のいない時代だ。こんな不条理な世界に神などいるものか!そして、この月々は神のいない時期である。だから、現代は神無月なのである。よって、私は神無月の巫女だ。正式には、私は男性だが、古代日本では、人はトランス状態になると、性別が転換すると信じられていた。だから、私は、女神と交信するときは、レズビアンになるのである。だから私は巫女だ。それに、出雲阿国という歌舞妓を創始した女性も、歩き巫女であり、男装をしていたという。だから、私も、女神と交信するときは、巫女服を着たい。そう、ベルダージュのように。
しかし、女神は現実に存在した。実際に会ったことはないが、存在してしまったのだ。たったひとつの衝撃的な証拠が、それを、これでもか!と証明していた。私が、一切皆苦としか受け取れないこの不条理な世界に。私だって、ニュータイプを目指しているわけではないが、ニーチェの言うところの「超人」、いわゆるスーパーマンになりたいと思っていた。そうしたら、女神と電波を使った交信だけではなく、実際にテレパシーで、その実像と会えるのではないかとさえ、期待していたからだ。しかし、私の尊敬する人が、私よりもはるかにニュータイプであるということは、以前から知ってはいたが、それで、私は彼を心から尊敬し、付き従ってきたが、それでも、超人のみに与えられた特権というものを、まざまざと、ご行使なされたとは・・・
うがー!!!!
超人はアニメと同じ世界にいる。なにしろモニターに映っているのだから。だから、私だって、超人になりたい。『フォークギターのお兄さん』というのは、テレビでないのだろうか。私には、それがピッタリだ。ちびっ子たちとギターを弾いて、アニソンを歌うんだ。キモオタはなぜ社会から迫害されてきたか。それは、まさにネオリベラル資本主義型消費社会の洗脳である。しかし、かつてジェシー・ジャクソン牧師が、
「Black is beautiful!」
と言ったように、私も『ギターのお兄さん』のコーナーで、ジョン・レノンの正統な後継者として、
「Otaku is beautiful! All you need is Moe!」
と弾き語りして、子どもたちの親の意識改革をするんだ。そう、保護者の意識改革だ。だぶん、保護者は女性の方が圧倒的に多い。アメリカも日本も男性至上主義社会だからね。女性の意識改革ができれば、子どもの改革につながり、やがて父親だけが、孤立する。そう、オタクの迫害は何を隠そう、男社会の産物なのである。だから、男を孤立無援にすれば、男性至上主義は崩れるのである。そして最後に、孤立した男は妻に平伏すのである。そして、彼らの娘が育つ頃には、私のギターでの改革運動で小さいときに既に意識改革がされているので、アニメのキャラに萌えるキモオタが美しく、本当にかっこいいという洞察力を開花させることにつながるのだ。それこそが、私の生涯の運動となるであろう。だから、テレビは『ギターのお兄さん』のコーナーを作り、私を超人にさせることである。そうすれば、キモオタに萌えた幼稚園児が、大人になれば、私のようなプロトタイプを崇拝することとなり、ブッダやキリストやジャンヌ・ダルクなどの偉大な意識改革者のアーキタイプと並び、歴史に名を刻むことになるであろう。そう、彼らは、偉大な時代に生きているということを、自覚するにいたるのである。それこそが、真の「萌え」の哲学だ!
女神は現実に存在する人間だが、なにしろ女神はアニメを映し出す同じモニターから映し出されているのであり、それによってアニメと同じく神秘的で神聖な認識が私の中にあった。だから女神はアニメのキャラと同じぐらい神秘的に私の目に映ったのである。だから、女神はまさに私の「萌え」の対象だった。
いや、朝早くからの女神の活躍は、早朝の神、明けの明星、そう、アマテラスが天の岩戸から出現したような、金星のヴィーナス、アフロディーテが出現したような、そんな効果があった。私を明るくしてくれる太陽の存在、あの笑顔が私を元気づけてくれた。夢中だった。絶望の淵を彷徨っていたが、二度と這い上がれないかと思っていたが、それでも、毎週金曜日の、天と地を普く照らす我が女神の笑顔によって、本当に勇気づけられていた。女神の笑顔がどれほど私を救ってくれたことか・・・。
まあ、現実の世界に存在するとは言っても、私はアニメと同じ感覚で、モニターに映し出される女神を観ていたので、私にとっては現実離れしていた。そう、アリスでいえば、鏡の向こうの世界、つまりパラレルワールド、私の唯一の救いであるアニメの世界と同じ世界に女神は存在するものだと、思っていた。いや、頭では、彼女は現実の人間だと理解している、しかし、心では、(また二元論に陥ってしまうが)、つまり精神世界では、女神はスーリアルな存在だったのだ。だから、部屋に一人引き蘢ってはじめて、女神を観ることができた。なにしろ、私だけに笑顔で語りかけてくれるのだから。『ガンダム』では、ララのようなものか、『ラーゼフォン』ではクオンのようなものか。意識体で、私に交信してきているようなものだった。私は、デルフォイの神託を受けている気分だった。まるで、巫女装束に身を包んで、女神と交信しているような。
なにしろ、この世は、神のいない時代だ。こんな不条理な世界に神などいるものか!そして、この月々は神のいない時期である。だから、現代は神無月なのである。よって、私は神無月の巫女だ。正式には、私は男性だが、古代日本では、人はトランス状態になると、性別が転換すると信じられていた。だから、私は、女神と交信するときは、レズビアンになるのである。だから私は巫女だ。それに、出雲阿国という歌舞妓を創始した女性も、歩き巫女であり、男装をしていたという。だから、私も、女神と交信するときは、巫女服を着たい。そう、ベルダージュのように。
しかし、女神は現実に存在した。実際に会ったことはないが、存在してしまったのだ。たったひとつの衝撃的な証拠が、それを、これでもか!と証明していた。私が、一切皆苦としか受け取れないこの不条理な世界に。私だって、ニュータイプを目指しているわけではないが、ニーチェの言うところの「超人」、いわゆるスーパーマンになりたいと思っていた。そうしたら、女神と電波を使った交信だけではなく、実際にテレパシーで、その実像と会えるのではないかとさえ、期待していたからだ。しかし、私の尊敬する人が、私よりもはるかにニュータイプであるということは、以前から知ってはいたが、それで、私は彼を心から尊敬し、付き従ってきたが、それでも、超人のみに与えられた特権というものを、まざまざと、ご行使なされたとは・・・
うがー!!!!
超人はアニメと同じ世界にいる。なにしろモニターに映っているのだから。だから、私だって、超人になりたい。『フォークギターのお兄さん』というのは、テレビでないのだろうか。私には、それがピッタリだ。ちびっ子たちとギターを弾いて、アニソンを歌うんだ。キモオタはなぜ社会から迫害されてきたか。それは、まさにネオリベラル資本主義型消費社会の洗脳である。しかし、かつてジェシー・ジャクソン牧師が、
「Black is beautiful!」
と言ったように、私も『ギターのお兄さん』のコーナーで、ジョン・レノンの正統な後継者として、
「Otaku is beautiful! All you need is Moe!」
と弾き語りして、子どもたちの親の意識改革をするんだ。そう、保護者の意識改革だ。だぶん、保護者は女性の方が圧倒的に多い。アメリカも日本も男性至上主義社会だからね。女性の意識改革ができれば、子どもの改革につながり、やがて父親だけが、孤立する。そう、オタクの迫害は何を隠そう、男社会の産物なのである。だから、男を孤立無援にすれば、男性至上主義は崩れるのである。そして最後に、孤立した男は妻に平伏すのである。そして、彼らの娘が育つ頃には、私のギターでの改革運動で小さいときに既に意識改革がされているので、アニメのキャラに萌えるキモオタが美しく、本当にかっこいいという洞察力を開花させることにつながるのだ。それこそが、私の生涯の運動となるであろう。だから、テレビは『ギターのお兄さん』のコーナーを作り、私を超人にさせることである。そうすれば、キモオタに萌えた幼稚園児が、大人になれば、私のようなプロトタイプを崇拝することとなり、ブッダやキリストやジャンヌ・ダルクなどの偉大な意識改革者のアーキタイプと並び、歴史に名を刻むことになるであろう。そう、彼らは、偉大な時代に生きているということを、自覚するにいたるのである。それこそが、真の「萌え」の哲学だ!
やっと、私に社会情勢への関心が戻ってきた。今までは、昼間は夜禍人のように引き蘢って、アニメを観て、なんとか現実逃避してきて、自殺するのを回避してきた。まあ、自殺しても、私は女性ではないので、夜禍にもなれない。だから、自殺はしなかった。そして自殺は、あくまでもシンボル的なものにとどめておいた。
それはさておき、マイケル・ムーアのインタビューがあった。彼は、アメリカの健康保険システムのひずみを指摘する映画を作ったのだ。それは『SICKO』という映画であり、今月の29日に公開されるという。私もその映画を非常に楽しみにしている。そして、インタビューでは、ゴアにぜひ大統領選に出馬してほしいとのことであった。
まあ、私個人としては、ゴアには出馬してほしくない。もう政治から退いたのだから、これからは環境活動家として、活躍して欲しい。李白が野望を達成できなかったが、偉大な詩人として後世に残ったように。ゴアも偉大なアクティヴィストとして、歴史に名を残して欲しい。
カリフォルニアの州上院議会ではSB840が可決された。SB840の内容はこちらで詳しく載ってある。あとは、下院議員の採決を待つだけである。これは州民皆保険であり、去年はこの法案はシュワちゃんの拒否権発動で無効になってしまったものである。だからシュワちゃんは去年の知事選で負けると思っていた。事実、私はシュワちゃんに投票しなかった。しかし、改心したシュワちゃん知事は、今年明けに、この法案に取って代わる医療保険政策を打ち出したが、それは民間の保険会社のビジネスをそのまま認めるものであり、利益をあまりにも優先する仕組みのままのため、州民の20%以上が医療をまともに受けられない問題を解決するものではない。ただすべての州民を強制的に民間の保険会社に加入させるというものだからだ。だから、金持ちはいい保険に入り、貧乏人はサービスの限られた安い保険にしか入れない弊害をもたらし、貧富の差がそのまま医療の差となったままとなってしまうのである。これではなんの解決にもならない。だから、私は民間の保険会社ではなくて、州の健康保険をシングル・ペイヤー・システムで作るべきだと思うのである。そして歯科医も健康保険に統合することである。そしてすべての看護代、入院代、手術代、薬代、麻酔代、それらの煩瑣な請求書の山を一まとめにすることだ。そう、医療とは人権なのである。それは肯定的権利である。
この映画が、SB840の実現の力になればと願う。またこの映画をきっかけにして、全国のアメリカ人が意識改革し、連邦議会を動かして、シングル・ペイヤー・システムの国民皆保険を創設してくれることを願う。私はこの運動に二回も署名した。なにせ、私は、環境問題もそうだが、この運動こそ、アメリカの壊れた医療制度を立て直し、アメリカ人の健康を保証するものだと信じているからである。しかし、シングル・ペーヤーを公言しているのは、民主党の大統領候補ではクシニッチだけである。彼のその面の政策において、私は彼を民主党の候補のなかで最も支持する。なにせ、医療は、基本的人権なのだから。
それはさておき、マイケル・ムーアのインタビューがあった。彼は、アメリカの健康保険システムのひずみを指摘する映画を作ったのだ。それは『SICKO』という映画であり、今月の29日に公開されるという。私もその映画を非常に楽しみにしている。そして、インタビューでは、ゴアにぜひ大統領選に出馬してほしいとのことであった。
まあ、私個人としては、ゴアには出馬してほしくない。もう政治から退いたのだから、これからは環境活動家として、活躍して欲しい。李白が野望を達成できなかったが、偉大な詩人として後世に残ったように。ゴアも偉大なアクティヴィストとして、歴史に名を残して欲しい。
カリフォルニアの州上院議会ではSB840が可決された。SB840の内容はこちらで詳しく載ってある。あとは、下院議員の採決を待つだけである。これは州民皆保険であり、去年はこの法案はシュワちゃんの拒否権発動で無効になってしまったものである。だからシュワちゃんは去年の知事選で負けると思っていた。事実、私はシュワちゃんに投票しなかった。しかし、改心したシュワちゃん知事は、今年明けに、この法案に取って代わる医療保険政策を打ち出したが、それは民間の保険会社のビジネスをそのまま認めるものであり、利益をあまりにも優先する仕組みのままのため、州民の20%以上が医療をまともに受けられない問題を解決するものではない。ただすべての州民を強制的に民間の保険会社に加入させるというものだからだ。だから、金持ちはいい保険に入り、貧乏人はサービスの限られた安い保険にしか入れない弊害をもたらし、貧富の差がそのまま医療の差となったままとなってしまうのである。これではなんの解決にもならない。だから、私は民間の保険会社ではなくて、州の健康保険をシングル・ペイヤー・システムで作るべきだと思うのである。そして歯科医も健康保険に統合することである。そしてすべての看護代、入院代、手術代、薬代、麻酔代、それらの煩瑣な請求書の山を一まとめにすることだ。そう、医療とは人権なのである。それは肯定的権利である。
この映画が、SB840の実現の力になればと願う。またこの映画をきっかけにして、全国のアメリカ人が意識改革し、連邦議会を動かして、シングル・ペイヤー・システムの国民皆保険を創設してくれることを願う。私はこの運動に二回も署名した。なにせ、私は、環境問題もそうだが、この運動こそ、アメリカの壊れた医療制度を立て直し、アメリカ人の健康を保証するものだと信じているからである。しかし、シングル・ペーヤーを公言しているのは、民主党の大統領候補ではクシニッチだけである。彼のその面の政策において、私は彼を民主党の候補のなかで最も支持する。なにせ、医療は、基本的人権なのだから。
ああ、素晴らしい、『Sola』か。尊師の推薦で、このアニメを観ているが、まさに、ゲーテの「永遠の女性像」、『新世紀エヴァンゲリオン』的な綾波レイのアーキタイプ、そして私の幼年期から最も憧れてきた「お姉さん」つまり姉弟の関係、そう、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』『兄と妹』の逆パターンのような、「姉萌え」「弟萌え」というアニメの革命的な大転換であり、これぞ女性上位時代がとうとうアニメの世界にも到来したのであり、また、さらに行き着くとダンテの『神曲』に匹敵するほどのモチーフ、そして女の子のファッション、パンク・ロリータ、ゴズロリと、『ローゼンメーデン』の影響も見られる。私の崇拝する女性の要素をすべて集大成したようなアニメだ。さすがは尊師。そのセンスには敬服する。尊師は偉大な天才だー!ジョンイルが死んだら、今度は尊師がNextチュチェ(主体)確定だね!まあ、いい、詳しい感想は最終回を見終わってからにしよう。今回の話題は、レズビアン映画についてであるのだから・・・。
私は、『神無月の巫女』というレズビアンアニメを発見し、その素晴らしさに感嘆し、称賛しているが、レズビアンの映画では、オードリー・ヘップバーン主演の『The Children’s Hour』というものがある。この映画は、1961年に製作されたのであるから、当時のホモセクシュアルに対する差別意識が容赦なく主人公を破滅に導くという強烈なものであった。なにせ、自由の国アメリカでは、ホモセクシュアルのセックスの自由が認められたのは2003年のことであり、つい最近、4年前のことである。そう、4年前までは、ホモセクシュアルは犯罪だったのである。また、1967年まで、黒人が白人と結婚するのは、犯罪であった。だから、異人種結婚が認められる6年前にこの映画は製作されたのだから、とても前衛的と言ってもいい。小泉八雲ことラッカディオ・ハーンはオハイオ州で売れっ子の新聞記者であったが、黒人女性と結婚したために職を追われ、オハイオ社会から追放された。そう、日本に来るまでは、自由の国アメリカで、そのような差別を受けてきたのである。それが、アメリカの正体なのである。だから、そのような腐った清教徒倫理社会のアメリカで、1961年にすでに、レズビアンの映画がハリウッドで製作されていたとは、驚嘆に値するのである。
それにしてもオードリー・ヘップバーンの美貌に憧れたレズビアンは多いはずである。私もオードリーは綺麗だと思うが、アメリカ人にしては、胸も小さいし、とても華奢なので、性欲はあまり起きない。マリリン・モンローのようなセックス・シンボルではなく、セクシュアリティーの女神ではなくて、なにか貴族的な、そう、高貴な、アメリカにはない、古きヨーロッパ的な高貴さがオードリーにはあるのだ。私はどうしても、そういう家柄的なものではなくて、肉体を求めているので、オードリーの振りまく貴族的な雰囲気はどうでもいいのだが。だから、私はアメリカ的かもしれない。(というか、現在ではヨーロッパの方がセクシュアリティーに関してははるかに進んでいるのだが・・・。)しかし、この高貴さは、レズビアンにとってはたまらないのかもしれない。まるで、姫子が千歌音の貴族的な雰囲気に憧れたように。そう、上品さである。しかし、その上品さを体現したかのような完璧人間の千歌音が、恋のために身を滅ぼすことになるとは、それが、まさにロマンスの醍醐味なのである。これは、まさに『The Children’s hour』とは逆の設定である。
姫子は庶民的なブロンドで、千歌音は黒髪の美しき令嬢、しかし、背が高く貴族的な千歌音が姫子に片思いするという。『The Children’s Hour』では、アメリカ的な肉付きの良いブロンドのマルサ・ドービーが貴族的な黒髪の背の高いカレン・ライトに片思いするという、それは逆である。そして、マルサは最後に破滅してしまうのである。そう、片思いというのは、破滅に導くのである。しかし、庶民的な女性が恋のために破滅するというのは、現代ではあまり面白くはないであろう。やはり、すべてを兼ね備えた人が、恋のために身を滅ぼすというのが、美しいのである。そういう面では、『神無月の巫女』は『The Children’s Hour』より進化したと言えるのである。
しかし、『The Children’s Hour』の物語はとてもアニメ的であった。そう、これをそのままアニメ化しても、まったく問題はないのだ。というか、この物語自体はアニメのために作られたようなものだ。しかし、1961年では、現在のような素晴らしい日本アニメ技術はない。だから、あまりにも時代は早すぎた。映画ではどうしても、実写なので、物語はある程度重たくならないと不自然になってしまう。だが、この映画の物語はそれを感じさせなかった。物語自体がレズビアンを題材としており、当時のアメリカではタブーとされていた主題だったので、それ自体が、現実から逸脱していたものだったのだろう。だが、物語はもはや映画レベルではなく、アニメレベルまで到達していたのである。それが、さらに私を驚嘆させたのである。そう、私は、この映画を観たとき、まるでアニメを観ているような感覚になったのである。だから、この映画はスゴかった。そう、もちろんオードリー・ヘップバーンの俳優技術には感服させられるが、もちろん俳優を目指す女性なら、また女流の声優ならだれもが憧れる存在であるが、それでも、私はこの映画のアニメヴァージョンを観たいという欲求に駆り立てられたのである。とにかく素晴らしい映画だった。
ああ、私もドービー・ライト学園に入学したい。でも、そこは女子全寮制のボーデゥング・スクールなんだよね。しかも、金持ちの令嬢が行きそうな。先生がレズビアンだから、この学校は閉鎖に追い込まれたが、私だったら、先生がレズビアンだからこそ、入学したくてたまらないんだけど・・・。どうして、私のような前衛的な発想になれないのかなぁ。まあ、60年代なので、当然か。あの時の人間ってバカでド阿呆だったからね。子どもがそんな腐った思想しか持たなかった親に育てられたのはあまりにもかわいそうだね。ああ、あの時代に生まれてこなくて本当によかった。だから、生まれるとしたら、新しければ新しいほどいいのである。ドービー・ライト学園はちょっと早すぎたね。現在、建てていれば、絶対に宮小路瑞穂ちゃんのように、私も女装して入学していたのにねー。レズビアン天国、それこそ私の浄土だ!いや、穢土でもいい。三島由紀夫的に言えば、ゲイが至高の恋愛と位置づけたが、私は三島とは違い、レズビアンがこの世で最も崇高な恋愛であると宣言するのである。三島は極右団体の「盾の会」というゲイ軍団を作ったが、私が望むのは、極右団体の「百合の会」というレズ集団であろう。戦闘女神のアマゾン集団でもいいかなぁ。ワルキュレーとか。私はかつてワーグナーを崇拝していたので、「ワルキュレー」は私の好きな楽曲だった。でも、彼女らはレズビアンじゃなかったからね。ああ、そういえば、『マリア様がみてる』のアニメ制作委員会も「山百合会」と言ったっけ?じゃ、もう存在するじゃん。現代のドービー・ライト学園はリリアン女学園であろう。聖應女学院もそうか。まほろばの村にも行きたい。なにしろ、日月の巫女はレズビアンなのだから。そこの氏子になりたーい!
それにしてもオードリー・ヘップバーンの美貌に憧れたレズビアンは多いはずである。私もオードリーは綺麗だと思うが、アメリカ人にしては、胸も小さいし、とても華奢なので、性欲はあまり起きない。マリリン・モンローのようなセックス・シンボルではなく、セクシュアリティーの女神ではなくて、なにか貴族的な、そう、高貴な、アメリカにはない、古きヨーロッパ的な高貴さがオードリーにはあるのだ。私はどうしても、そういう家柄的なものではなくて、肉体を求めているので、オードリーの振りまく貴族的な雰囲気はどうでもいいのだが。だから、私はアメリカ的かもしれない。(というか、現在ではヨーロッパの方がセクシュアリティーに関してははるかに進んでいるのだが・・・。)しかし、この高貴さは、レズビアンにとってはたまらないのかもしれない。まるで、姫子が千歌音の貴族的な雰囲気に憧れたように。そう、上品さである。しかし、その上品さを体現したかのような完璧人間の千歌音が、恋のために身を滅ぼすことになるとは、それが、まさにロマンスの醍醐味なのである。これは、まさに『The Children’s hour』とは逆の設定である。
姫子は庶民的なブロンドで、千歌音は黒髪の美しき令嬢、しかし、背が高く貴族的な千歌音が姫子に片思いするという。『The Children’s Hour』では、アメリカ的な肉付きの良いブロンドのマルサ・ドービーが貴族的な黒髪の背の高いカレン・ライトに片思いするという、それは逆である。そして、マルサは最後に破滅してしまうのである。そう、片思いというのは、破滅に導くのである。しかし、庶民的な女性が恋のために破滅するというのは、現代ではあまり面白くはないであろう。やはり、すべてを兼ね備えた人が、恋のために身を滅ぼすというのが、美しいのである。そういう面では、『神無月の巫女』は『The Children’s Hour』より進化したと言えるのである。
しかし、『The Children’s Hour』の物語はとてもアニメ的であった。そう、これをそのままアニメ化しても、まったく問題はないのだ。というか、この物語自体はアニメのために作られたようなものだ。しかし、1961年では、現在のような素晴らしい日本アニメ技術はない。だから、あまりにも時代は早すぎた。映画ではどうしても、実写なので、物語はある程度重たくならないと不自然になってしまう。だが、この映画の物語はそれを感じさせなかった。物語自体がレズビアンを題材としており、当時のアメリカではタブーとされていた主題だったので、それ自体が、現実から逸脱していたものだったのだろう。だが、物語はもはや映画レベルではなく、アニメレベルまで到達していたのである。それが、さらに私を驚嘆させたのである。そう、私は、この映画を観たとき、まるでアニメを観ているような感覚になったのである。だから、この映画はスゴかった。そう、もちろんオードリー・ヘップバーンの俳優技術には感服させられるが、もちろん俳優を目指す女性なら、また女流の声優ならだれもが憧れる存在であるが、それでも、私はこの映画のアニメヴァージョンを観たいという欲求に駆り立てられたのである。とにかく素晴らしい映画だった。
ああ、私もドービー・ライト学園に入学したい。でも、そこは女子全寮制のボーデゥング・スクールなんだよね。しかも、金持ちの令嬢が行きそうな。先生がレズビアンだから、この学校は閉鎖に追い込まれたが、私だったら、先生がレズビアンだからこそ、入学したくてたまらないんだけど・・・。どうして、私のような前衛的な発想になれないのかなぁ。まあ、60年代なので、当然か。あの時の人間ってバカでド阿呆だったからね。子どもがそんな腐った思想しか持たなかった親に育てられたのはあまりにもかわいそうだね。ああ、あの時代に生まれてこなくて本当によかった。だから、生まれるとしたら、新しければ新しいほどいいのである。ドービー・ライト学園はちょっと早すぎたね。現在、建てていれば、絶対に宮小路瑞穂ちゃんのように、私も女装して入学していたのにねー。レズビアン天国、それこそ私の浄土だ!いや、穢土でもいい。三島由紀夫的に言えば、ゲイが至高の恋愛と位置づけたが、私は三島とは違い、レズビアンがこの世で最も崇高な恋愛であると宣言するのである。三島は極右団体の「盾の会」というゲイ軍団を作ったが、私が望むのは、極右団体の「百合の会」というレズ集団であろう。戦闘女神のアマゾン集団でもいいかなぁ。ワルキュレーとか。私はかつてワーグナーを崇拝していたので、「ワルキュレー」は私の好きな楽曲だった。でも、彼女らはレズビアンじゃなかったからね。ああ、そういえば、『マリア様がみてる』のアニメ制作委員会も「山百合会」と言ったっけ?じゃ、もう存在するじゃん。現代のドービー・ライト学園はリリアン女学園であろう。聖應女学院もそうか。まほろばの村にも行きたい。なにしろ、日月の巫女はレズビアンなのだから。そこの氏子になりたーい!
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自殺した。私は手首を切ろうと思ったが、それでは身体的に生き返ることはできないので、イエス・キリストのように蘇生するためにも、髪をバッサリと切ったのである。いわゆる断髪式が、私のシンボリックな自殺となったのだ。私は実は、あることをした。しかし、とてもブログでは、そんなことは書けない。メール事件とでも呼んでおくか。ほとぼりが冷めてから、書くことにしよう。アニメでは同じみの、いわゆる女の子が失恋すると後ろ髪を切るというものである。そして、髪はまた伸びてくる。いわゆる復活である。
私は三原則を誓った。現実を捨てる。アニメに真理を見いだす。そして、結婚制度の廃止。その三つである。それが断髪式での誓いであった。それが、シッダールタ的に言えば、私の「厭離、出家、出世」の三段階である。
私は三原則を誓った。現実を捨てる。アニメに真理を見いだす。そして、結婚制度の廃止。その三つである。それが断髪式での誓いであった。それが、シッダールタ的に言えば、私の「厭離、出家、出世」の三段階である。
この映像は、クリントンが大統領の時に、ペレス首相の誕生日に『イマジン』を歌ったものである。なんとも音痴であった。
それにしても、この16歳のイスラエル人の子は、かわいいなぁ。クリントンも照れまくりだったね。とくに、クリントンと手をつなぐシーンには、嫉妬してしまった。ああ、世界の最高権力者はこんな特権があるんだ。権力か。それにクリントンはハンサムだったし、女性問題が起きても、世論の支持率は上昇した。モニカ・スキャンダルは逆に女性の関心を引き寄せたのだろう。
「もしかしたら、自分にも・・・」
と思ってしまったんだろうね。やはり、権力とハンサム、または美貌が結びついたら危ないね。ケネディーも不正な選挙でニクソンに勝ったわけだし、マフィアが後ろで動いたのだし、それでも、ケネディーはイケメンだったからね。またケネディーはホワイトハウスに毎週の土曜に女の子を連れ込んでいたというし。しかも妻子がありながら。それでも、彼は最も偉大な大統領の一人に数えられるのだ。イケメンと権力は、王子さまにさせるんだろうね。
山崎拓は、女性の総スカンを食らって、議員辞職した。あのスキャンダルの裏には、野中広務がいたといわれているが、本当の所は、というか最も重要な理由は、山崎はキモメンだったために、駄目になってしまったということである。小泉の盟友であったにもかかわらずだ。これは、明らかにキモメンに対する差別であろう。一方アメリカの有名な女性スキャンダルでは、クリントンがホワイトハウスのインターンにフェラチオをさせたというものがあった。しかし、それは大スキャンダルとなったが、女性の人気はさらに増したのだ。それに、クリントンの『My Life』という本は、とくにアメリカ人女性の間で売れまくったそうだ。クリントンはイケメンだったために。ああ、そうそう、私のアメリカ人の女の先生も、
「クリントンのモニカスキャンダルの弁明がある」
と言って、授業の途中でテレビをつけて、見入っていたね。そして、
「クリントンは嘘つきだね」
とやけに喜んでいた。私は、
「なんてバカな先生だ」
と思った。共和党はクリントンのアーカンソー時代のビジネスの不正のスキャンダルでクリントン政権に揺さぶりをかけたが、それは国民にとっては、あまりにも難しかったため、というか、ビジネス法とかによほど詳しくなければ、理解できないことも多い問題だったので、不発に終わった。そして、共和党はクリントン政権への攻撃を女性問題に切り替えたのだ。そしたら、それは大当たりし、いわゆる国民にとってイージーイシューだったので、世論は一気にクリントンのフェラチオスキャンダルで盛り上がり、弾劾裁判までこじつけたが、クリントンは圧倒的な人気を誇ったので、没となった。いや、クリントンは、女性問題が、政権を揺さぶることなく、逆に国民の人気を得たので、共和党のまったく予期せぬ結果となってしまったのだ。クリントンはピンチからチャンスに切り替えたわけだが、それは彼がイケメンだったためであろう。イケメンが浮気をすれば、女性選挙人は、
「あたしにもチャンスがあるかもしれない」
と思い、キモメンが浮気すると、
「クビにしろ!」
と厳しい言葉を口にするのである。もし、クリントンが若くてイケメンでなければ、これがキモメンのニクソンであれば、間違いなく政権にダメージを与えることが出来たであろう。やはりクリントンのイケメンとキャラクター性が、彼の長期政権を実現したのである。それは、小泉が、
「国債を30兆円以内にするという公約を守れなかったのは、別に大したことではない」
と言っても、小泉のような日本には稀な風貌とキャラのために、政権の大打撃にならなかったようなものである。やはり、キャラ作りを上手くした政治家というものは、実に選挙に強いのだ。ようするに、政治もアニメと同じく、キャラ作りが命なのである。とくに民主政治ではそうであろう。小泉も、ラテンアメリカの国々では、「東洋のリチャード・ギア」と言われて、もてはやされていた。日本人女性にはない感覚でラテンの女性は評価するのだし、
「ルックスがいい」
と言っているし、米国の男性雑誌でも、クリントンやトニー・ブレアよりもルックスがいいと評価されていたのである。日本の政治家では、初めてではなかろうか。小泉の自分のイメージ作りは、日本国民に対してではなく、世界も視野に入れていたということでは、やはり、注目に値することである。プレスリーの館でも、大統領夫妻、そしてプレスリー母娘の前で、「グローリー・ハレルーヤ」と熱唱して踊って見せたのも、キャラクター作りの最高潮というべきであろう。クリントンもサックスを吹いて、音楽的感性の持ち主であることもアピールしたし、それで、リベラルが多いミュージシャンの支持も多く得た。マイケル・ジャクソンとの共演も素晴らしいパフォーマンスだった。
あのイスラエルの16歳の女の子との『イマジン』の共演も、キャラ作りには欠かせないパフォーマンスだったのである。小泉もクリントンも自分のキャラクターがしっかりしているので、長期政権となったのだろう。イケメンが女の子と遊べば、それは人気となり、キモメンが遊べば、弾劾される。それほどひどい社会はない。
「この人には抱かれたい」
「このキモオタとは死んでも嫌だ」
それで、すべては決まってしまうのだ。だから山崎拓は許されなかった。彼はキモメンなので、金と権力で、セックスしたくない女性を無理矢理させているという、女性を隷属化している人間のクズと思われてしまうのだ。金と権力がなければ、絶対にだれもセックスしたりしないのだから。しかし、クリントンの場合は、イケメンであるので、女性も「あの人とは寝たい、あたしの体を触ってー」となるのである。だから、金と権力はさらにプラスとなるのだ。だから、女性が隷属化されているという意識はない。女性が、クリントンのような男性とは寝たいと思っているのだから。というか、既に女性側にも承諾があるのだから、まったく犯罪ではないのである。また、モニカという、あまり魅力的でない女性が相手だったということも、女性たちをシンデレラ気分にさせたであろう。しかも、モニカのほうが明らかにクリントンを誘惑していたのだから。あの視線攻撃は、クリントンもたじたじとなってしまっていたし、そのビデオは何回も放送された。
「大統領を落とした女、モニカ」
として、女性のなかからも、称賛の声が上がる始末だ。とくに、女子大生が、クリントンに向かって、
「大統領の下着はどのタイプですか?」
という質問をするテレビを見たこともあった。私は机を叩き、
「くっそー、クリントンめ!」
となった。これが山崎拓であったなら、だれもそんな質問はしないだろう。彼は金と権力という卑劣な手段を用いて女性をセックスの奴隷にする最低な男なのだから。キモメンの男が若い美人な女性とセックスするには、それしか手段はないのだから。だから、彼は、女性に嫌われたために、議員辞職に追い込まれてしまった。
ああ、私も金持ちになったら、そんなことになるんだろうなぁ。私も、キモオタなもので・・・、ハンサムに生まれたかった。金持ちでなくても、キモメンとしての迫害を受けたよ。私は、一度、たまたまブロンドの美人なアメリカ人女性と歩いているだけで、
「兄ちゃん、シリコンバレーの人?」
と目されたこともあったのだ。私がイケメンだったら、そんな質問はしてこないであろう。キモメンなのに美女と歩くことが出来るのは、いい収入をもらっているに違いないと思われたのである。私がキモメンだったから、しかもそれが美人と歩いていると、金があるか、いい仕事に就いているかという、そんな先入観が周りの人にあったのだ。やはりイケメンは正義、キモメンは邪悪なのである。百人以上の女性が私を拒絶してきた。
「この人、生理的に駄目だわ、キモすぎて、吐いちゃう」
と思われたのだろう。友だちとしてはいい、でもセックスは死んでも嫌だ、それが彼女らの態度であった。
イケメンは本当にいいよなぁ。だってイケメンはセックスに執着することはないじゃん。なにせ、ちょっと女の子に声をかけるだけで、もう既に10人は発情していることだろうし。だから、シッダールタは、「いつでもできる」という恵まれた感覚を持っていたので、出家できたのだ。キモメンのように頑張っても頑張ってもセックスに辿りつけないということはないのだから。そして、だれにも相手にされないかわいそうなキモメンが自暴自棄になって風俗に行けば、
「女性の権利を侵害する最低な社会のクズ」
と糾弾されるのである。しかし、イケメンに風俗は必要ないのだ。なにしろイケメンだ!シッダールタだって出家した後も、女性にはモテモテだったんだし。だから仏教は私の宗教ではないのだ。イケメンによって作られた宗教なのだから。イケメン教なのだ。シッダールタが悟りを開く直前の三人の美女の誘惑は、本当に羨ましい。それに打ち勝って悟りを開き、覚者(ブッダ)となったのだ。しかし、私はブッダになれない。だれも、私をベッドに誘ってこないのだから。私がやりたいと思っている超スーパーセクシーダイナマイト美女は私に一度たりとも誘惑したことがあっただろうか。だから悟りを開けないのだ。美女に誘惑されたい。ああ、この世は本当に残酷だ。どんなに美女と恋愛遊戯に甘んじたいのか、世界は理解していないのだ。どれほど、私が誘惑されたいことを望んでいるか!美女と快楽に興じられるのなら、それが日本でもできたんだったら、渡米することはなかったんだ!!!!なんで、キモメンになってしまったんだ!!!!
ああ、イケメンに生まれたかった。王子様に生まれたかった。シッダールタもいい想いをしまくって、出家したんだ。悔いはないであろう。私だって、シッダールタのようにイケメンであったなら、青春は楽しかったはずである。だから、私は遺伝子工学発達を推進する。整形手術では、顔しか変えられない。それに危険だ。だったら、遺伝子レベルからイケメンにするようになればいいのだ。それに、整形手術では身長は変えられない。だったら、遺伝子操作で、身長が高くなるようにすればいい。そして、脚も長くなればいい。そう、遺伝子工学によって、我々キモメンはイケメンになることができるのである。そうすれば、あの可愛い16歳のユダヤの女の子は、私の手を取ってくれるであろう!
「もしかしたら、自分にも・・・」
と思ってしまったんだろうね。やはり、権力とハンサム、または美貌が結びついたら危ないね。ケネディーも不正な選挙でニクソンに勝ったわけだし、マフィアが後ろで動いたのだし、それでも、ケネディーはイケメンだったからね。またケネディーはホワイトハウスに毎週の土曜に女の子を連れ込んでいたというし。しかも妻子がありながら。それでも、彼は最も偉大な大統領の一人に数えられるのだ。イケメンと権力は、王子さまにさせるんだろうね。
山崎拓は、女性の総スカンを食らって、議員辞職した。あのスキャンダルの裏には、野中広務がいたといわれているが、本当の所は、というか最も重要な理由は、山崎はキモメンだったために、駄目になってしまったということである。小泉の盟友であったにもかかわらずだ。これは、明らかにキモメンに対する差別であろう。一方アメリカの有名な女性スキャンダルでは、クリントンがホワイトハウスのインターンにフェラチオをさせたというものがあった。しかし、それは大スキャンダルとなったが、女性の人気はさらに増したのだ。それに、クリントンの『My Life』という本は、とくにアメリカ人女性の間で売れまくったそうだ。クリントンはイケメンだったために。ああ、そうそう、私のアメリカ人の女の先生も、
「クリントンのモニカスキャンダルの弁明がある」
と言って、授業の途中でテレビをつけて、見入っていたね。そして、
「クリントンは嘘つきだね」
とやけに喜んでいた。私は、
「なんてバカな先生だ」
と思った。共和党はクリントンのアーカンソー時代のビジネスの不正のスキャンダルでクリントン政権に揺さぶりをかけたが、それは国民にとっては、あまりにも難しかったため、というか、ビジネス法とかによほど詳しくなければ、理解できないことも多い問題だったので、不発に終わった。そして、共和党はクリントン政権への攻撃を女性問題に切り替えたのだ。そしたら、それは大当たりし、いわゆる国民にとってイージーイシューだったので、世論は一気にクリントンのフェラチオスキャンダルで盛り上がり、弾劾裁判までこじつけたが、クリントンは圧倒的な人気を誇ったので、没となった。いや、クリントンは、女性問題が、政権を揺さぶることなく、逆に国民の人気を得たので、共和党のまったく予期せぬ結果となってしまったのだ。クリントンはピンチからチャンスに切り替えたわけだが、それは彼がイケメンだったためであろう。イケメンが浮気をすれば、女性選挙人は、
「あたしにもチャンスがあるかもしれない」
と思い、キモメンが浮気すると、
「クビにしろ!」
と厳しい言葉を口にするのである。もし、クリントンが若くてイケメンでなければ、これがキモメンのニクソンであれば、間違いなく政権にダメージを与えることが出来たであろう。やはりクリントンのイケメンとキャラクター性が、彼の長期政権を実現したのである。それは、小泉が、
「国債を30兆円以内にするという公約を守れなかったのは、別に大したことではない」
と言っても、小泉のような日本には稀な風貌とキャラのために、政権の大打撃にならなかったようなものである。やはり、キャラ作りを上手くした政治家というものは、実に選挙に強いのだ。ようするに、政治もアニメと同じく、キャラ作りが命なのである。とくに民主政治ではそうであろう。小泉も、ラテンアメリカの国々では、「東洋のリチャード・ギア」と言われて、もてはやされていた。日本人女性にはない感覚でラテンの女性は評価するのだし、
「ルックスがいい」
と言っているし、米国の男性雑誌でも、クリントンやトニー・ブレアよりもルックスがいいと評価されていたのである。日本の政治家では、初めてではなかろうか。小泉の自分のイメージ作りは、日本国民に対してではなく、世界も視野に入れていたということでは、やはり、注目に値することである。プレスリーの館でも、大統領夫妻、そしてプレスリー母娘の前で、「グローリー・ハレルーヤ」と熱唱して踊って見せたのも、キャラクター作りの最高潮というべきであろう。クリントンもサックスを吹いて、音楽的感性の持ち主であることもアピールしたし、それで、リベラルが多いミュージシャンの支持も多く得た。マイケル・ジャクソンとの共演も素晴らしいパフォーマンスだった。
あのイスラエルの16歳の女の子との『イマジン』の共演も、キャラ作りには欠かせないパフォーマンスだったのである。小泉もクリントンも自分のキャラクターがしっかりしているので、長期政権となったのだろう。イケメンが女の子と遊べば、それは人気となり、キモメンが遊べば、弾劾される。それほどひどい社会はない。
「この人には抱かれたい」
「このキモオタとは死んでも嫌だ」
それで、すべては決まってしまうのだ。だから山崎拓は許されなかった。彼はキモメンなので、金と権力で、セックスしたくない女性を無理矢理させているという、女性を隷属化している人間のクズと思われてしまうのだ。金と権力がなければ、絶対にだれもセックスしたりしないのだから。しかし、クリントンの場合は、イケメンであるので、女性も「あの人とは寝たい、あたしの体を触ってー」となるのである。だから、金と権力はさらにプラスとなるのだ。だから、女性が隷属化されているという意識はない。女性が、クリントンのような男性とは寝たいと思っているのだから。というか、既に女性側にも承諾があるのだから、まったく犯罪ではないのである。また、モニカという、あまり魅力的でない女性が相手だったということも、女性たちをシンデレラ気分にさせたであろう。しかも、モニカのほうが明らかにクリントンを誘惑していたのだから。あの視線攻撃は、クリントンもたじたじとなってしまっていたし、そのビデオは何回も放送された。
「大統領を落とした女、モニカ」
として、女性のなかからも、称賛の声が上がる始末だ。とくに、女子大生が、クリントンに向かって、
「大統領の下着はどのタイプですか?」
という質問をするテレビを見たこともあった。私は机を叩き、
「くっそー、クリントンめ!」
となった。これが山崎拓であったなら、だれもそんな質問はしないだろう。彼は金と権力という卑劣な手段を用いて女性をセックスの奴隷にする最低な男なのだから。キモメンの男が若い美人な女性とセックスするには、それしか手段はないのだから。だから、彼は、女性に嫌われたために、議員辞職に追い込まれてしまった。
ああ、私も金持ちになったら、そんなことになるんだろうなぁ。私も、キモオタなもので・・・、ハンサムに生まれたかった。金持ちでなくても、キモメンとしての迫害を受けたよ。私は、一度、たまたまブロンドの美人なアメリカ人女性と歩いているだけで、
「兄ちゃん、シリコンバレーの人?」
と目されたこともあったのだ。私がイケメンだったら、そんな質問はしてこないであろう。キモメンなのに美女と歩くことが出来るのは、いい収入をもらっているに違いないと思われたのである。私がキモメンだったから、しかもそれが美人と歩いていると、金があるか、いい仕事に就いているかという、そんな先入観が周りの人にあったのだ。やはりイケメンは正義、キモメンは邪悪なのである。百人以上の女性が私を拒絶してきた。
「この人、生理的に駄目だわ、キモすぎて、吐いちゃう」
と思われたのだろう。友だちとしてはいい、でもセックスは死んでも嫌だ、それが彼女らの態度であった。
イケメンは本当にいいよなぁ。だってイケメンはセックスに執着することはないじゃん。なにせ、ちょっと女の子に声をかけるだけで、もう既に10人は発情していることだろうし。だから、シッダールタは、「いつでもできる」という恵まれた感覚を持っていたので、出家できたのだ。キモメンのように頑張っても頑張ってもセックスに辿りつけないということはないのだから。そして、だれにも相手にされないかわいそうなキモメンが自暴自棄になって風俗に行けば、
「女性の権利を侵害する最低な社会のクズ」
と糾弾されるのである。しかし、イケメンに風俗は必要ないのだ。なにしろイケメンだ!シッダールタだって出家した後も、女性にはモテモテだったんだし。だから仏教は私の宗教ではないのだ。イケメンによって作られた宗教なのだから。イケメン教なのだ。シッダールタが悟りを開く直前の三人の美女の誘惑は、本当に羨ましい。それに打ち勝って悟りを開き、覚者(ブッダ)となったのだ。しかし、私はブッダになれない。だれも、私をベッドに誘ってこないのだから。私がやりたいと思っている超スーパーセクシーダイナマイト美女は私に一度たりとも誘惑したことがあっただろうか。だから悟りを開けないのだ。美女に誘惑されたい。ああ、この世は本当に残酷だ。どんなに美女と恋愛遊戯に甘んじたいのか、世界は理解していないのだ。どれほど、私が誘惑されたいことを望んでいるか!美女と快楽に興じられるのなら、それが日本でもできたんだったら、渡米することはなかったんだ!!!!なんで、キモメンになってしまったんだ!!!!
ああ、イケメンに生まれたかった。王子様に生まれたかった。シッダールタもいい想いをしまくって、出家したんだ。悔いはないであろう。私だって、シッダールタのようにイケメンであったなら、青春は楽しかったはずである。だから、私は遺伝子工学発達を推進する。整形手術では、顔しか変えられない。それに危険だ。だったら、遺伝子レベルからイケメンにするようになればいいのだ。それに、整形手術では身長は変えられない。だったら、遺伝子操作で、身長が高くなるようにすればいい。そして、脚も長くなればいい。そう、遺伝子工学によって、我々キモメンはイケメンになることができるのである。そうすれば、あの可愛い16歳のユダヤの女の子は、私の手を取ってくれるであろう!
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やはり女性は失恋しても自殺を考えないのだろうか。男のように拳銃をもって頭を撃ち抜くということはなさそうである。あるとしても、極めて致命的ではない手首を切るとか、自傷行為には陥るかもしれないが、それは後ろ髪を切るような行為に似たものであると推測されるのである。私は同僚の女の子と大激論した。はじめは恋愛について淡々と会話していただけであったが、私の美徳感が真っ向から否定されたために、私は憤激してしまったのである。私は、恋のために命を捨てるのは美徳だと主張したが、彼女は、
「それはまったくの論外だ。ナンセンスだ」
と突っぱねた。私は、
「失恋したら、もはや生きてはいけない。すべてはナンセンスだ。ニヒリズムだ。なんのために生きているかさえもわからない」
と言ったが、彼女は、
「オーマイガッド」
と言うばかりであった。そして、私は、『めぞん一刻』の主題歌でもあったギルバート・オサリバンの『Alone Again Naturally』という歌詞にあるように、塔に登って飛び降り自殺することを称賛したが、彼女は、私を、
「あなた、狂人ね」
と言うだけだった。さらに、彼女は、
「君はあのヴァージニアのアジア人学生みたいだよ」
と侮辱するようなことまで発言した。
「なんだとー、私が虐殺する人間に見えるか?いくらなんでも、それはあまりにも失礼だろ!」
とカッとなった。さらに私は、
「いくら、私がアジア系とはいえ、あいつは韓国人だ。私はこれ以上アジア系のステレオタイプを悪化させることはできない。それに、私は人権擁護者である。自分の命は自分で決定するだけであり、他人の命は決定しない。人を道連れにして自殺するなんて、もっとも醜い死に方だ」
と言った。すると、彼女は、
「えー、理解できない。たった一人の女の子のために死ぬっていうの?この世には、千差万別の女の子がいるというのに」
と反論した。
「いや、その子(Yさん)じゃないと駄目なんだ。しかし、彼女は、永遠に私に愛を与えてくれないであろう。あのラブラブ度では、どうしょうもないんだ。だから、絶望なんだ。絶望しかない。だから潔く死にたい」
と言った。彼女は、
「あなた、本当におかしいわ、セラピストに行ったほうがいいんじゃない?」
とまったく私を理解しようとしなかった。私は、さらに頭に血が上り、
「じゃー、なんだって言うんだ。お前の婚約者が突然今日にでも死んだら、屋上から飛び降り自殺しるんじゃないのかよ?」
と言った。すると、
「いや、たとえそうなっても、自殺だけはしないと思う。その選択権は私の中にはない」
と言った。私は、あきれてしまって、
「ああ、そうですか?それは、めでたいことですね!」
と言って、一方的に話を切り上げた。
それにしても、私をあのヴァージニアの韓国人青年と同類扱いするとは、なんという侮辱。私はアーティストなので、美徳を追求しているんだ。あのような他人を道連れにするような人権蹂躙の自殺は絶対にしない。他人の命を奪うことはしない。自分が自分の命を決定するのであり、自殺はその究極の選択なのだから。だから、私は尊厳死も支持するのである。家族や医者が反対するから、生き地獄を味わなければならないなど、患者の人権をまったく無視するような政策は実に理解しがたいのである。人は自分の命は自分で決定する権利を有しているのだ。しかし、ヤハウェーは自殺は神に対する罪であるという。神が人間の命を決定するのであり、人間自身は自分の命を決定すると地獄に落ちるのだと言う。そんな戯言があるだろうか。ヤハウェーは人間の尊厳を尊重しない人権蹂躙の独裁者なのである。だからこそ、人間はヤハウェーから独立しないといけないのだ。それは、自分の自由意志で、人生を決めるという選択である。だから、私はセラピーを受ける必要はない。私は正気だ。人が生きたいと望めば、生きればいいし、死にたいと思えば、死ねばいいのだ。まあ、いい、彼女は自殺は選択しないというのなら、それはそれでいい。ただ、私が自殺の選択もあってはいいという主張に、「気違い」、いわゆる「crazy」「insane」と評したのが許せなかっただけだ。とても傷ついた、というより、もうYさんに想いが届かないのでかなり傷ついたので、もはや瀕死の状態だったので、傷つきようもないのだが、それでも、あの彼女の態度には、悲憤慷慨した。私は再び明確にしておきたい、自殺の選択権は基本的人権である。やはり、自殺しては行けないという観念はヤハウェーから来ているのだ。ヤハウェーは結婚によって、人類のセクシュアリティーの自由を奪い、また自己決定意志の自由までも奪っているのである。ヤハウェーは自由意志を人間に与えたというが、しかし、ヤハウェーに逆らった行動を取れば、地獄に堕ちるのである。それでは、まったくのナンセンスだ。選択権がないではないか。よって、人間の人権を解放するには何がもっとも求められているか、それは、ヤハウェー体制の転覆なのである。ヤハウェーが消えれば、地獄も消え、ジョン・レノンの「天国も地獄もない世界を想像してごらん」という福音が実現されるのである。それこそが、Dream come trueである。
「それはまったくの論外だ。ナンセンスだ」
と突っぱねた。私は、
「失恋したら、もはや生きてはいけない。すべてはナンセンスだ。ニヒリズムだ。なんのために生きているかさえもわからない」
と言ったが、彼女は、
「オーマイガッド」
と言うばかりであった。そして、私は、『めぞん一刻』の主題歌でもあったギルバート・オサリバンの『Alone Again Naturally』という歌詞にあるように、塔に登って飛び降り自殺することを称賛したが、彼女は、私を、
「あなた、狂人ね」
と言うだけだった。さらに、彼女は、
「君はあのヴァージニアのアジア人学生みたいだよ」
と侮辱するようなことまで発言した。
「なんだとー、私が虐殺する人間に見えるか?いくらなんでも、それはあまりにも失礼だろ!」
とカッとなった。さらに私は、
「いくら、私がアジア系とはいえ、あいつは韓国人だ。私はこれ以上アジア系のステレオタイプを悪化させることはできない。それに、私は人権擁護者である。自分の命は自分で決定するだけであり、他人の命は決定しない。人を道連れにして自殺するなんて、もっとも醜い死に方だ」
と言った。すると、彼女は、
「えー、理解できない。たった一人の女の子のために死ぬっていうの?この世には、千差万別の女の子がいるというのに」
と反論した。
「いや、その子(Yさん)じゃないと駄目なんだ。しかし、彼女は、永遠に私に愛を与えてくれないであろう。あのラブラブ度では、どうしょうもないんだ。だから、絶望なんだ。絶望しかない。だから潔く死にたい」
と言った。彼女は、
「あなた、本当におかしいわ、セラピストに行ったほうがいいんじゃない?」
とまったく私を理解しようとしなかった。私は、さらに頭に血が上り、
「じゃー、なんだって言うんだ。お前の婚約者が突然今日にでも死んだら、屋上から飛び降り自殺しるんじゃないのかよ?」
と言った。すると、
「いや、たとえそうなっても、自殺だけはしないと思う。その選択権は私の中にはない」
と言った。私は、あきれてしまって、
「ああ、そうですか?それは、めでたいことですね!」
と言って、一方的に話を切り上げた。
それにしても、私をあのヴァージニアの韓国人青年と同類扱いするとは、なんという侮辱。私はアーティストなので、美徳を追求しているんだ。あのような他人を道連れにするような人権蹂躙の自殺は絶対にしない。他人の命を奪うことはしない。自分が自分の命を決定するのであり、自殺はその究極の選択なのだから。だから、私は尊厳死も支持するのである。家族や医者が反対するから、生き地獄を味わなければならないなど、患者の人権をまったく無視するような政策は実に理解しがたいのである。人は自分の命は自分で決定する権利を有しているのだ。しかし、ヤハウェーは自殺は神に対する罪であるという。神が人間の命を決定するのであり、人間自身は自分の命を決定すると地獄に落ちるのだと言う。そんな戯言があるだろうか。ヤハウェーは人間の尊厳を尊重しない人権蹂躙の独裁者なのである。だからこそ、人間はヤハウェーから独立しないといけないのだ。それは、自分の自由意志で、人生を決めるという選択である。だから、私はセラピーを受ける必要はない。私は正気だ。人が生きたいと望めば、生きればいいし、死にたいと思えば、死ねばいいのだ。まあ、いい、彼女は自殺は選択しないというのなら、それはそれでいい。ただ、私が自殺の選択もあってはいいという主張に、「気違い」、いわゆる「crazy」「insane」と評したのが許せなかっただけだ。とても傷ついた、というより、もうYさんに想いが届かないのでかなり傷ついたので、もはや瀕死の状態だったので、傷つきようもないのだが、それでも、あの彼女の態度には、悲憤慷慨した。私は再び明確にしておきたい、自殺の選択権は基本的人権である。やはり、自殺しては行けないという観念はヤハウェーから来ているのだ。ヤハウェーは結婚によって、人類のセクシュアリティーの自由を奪い、また自己決定意志の自由までも奪っているのである。ヤハウェーは自由意志を人間に与えたというが、しかし、ヤハウェーに逆らった行動を取れば、地獄に堕ちるのである。それでは、まったくのナンセンスだ。選択権がないではないか。よって、人間の人権を解放するには何がもっとも求められているか、それは、ヤハウェー体制の転覆なのである。ヤハウェーが消えれば、地獄も消え、ジョン・レノンの「天国も地獄もない世界を想像してごらん」という福音が実現されるのである。それこそが、Dream come trueである。
私が小さい頃、『めぞん一刻』というアニメが流行ったが、その主題歌が、ギルバード・オサリバンの『Alone Again Naturally』という曲である。それが、はじめてアニソンの素晴らしさを子どもながらに感じさせたものであった。日本語ではない英語の、たしかそれが子どもの頃にはじめて洋楽をまともに聴いた曲だったのだが、だから、私はこのなつかしく、心地よい音楽をずっと覚えていたのである。やはりアニメの子どもに対する影響力というのはスゴい。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』の『Fly Me To The Moon』もジャズを初めてまともに聴いた曲となった。アニメによって、私は洋楽に目ざめたといってもいいのだ。そして、ようやくYouTubeで、それを見つけることが出来た。感無量だ。さあ、歌の内容といえば、好きな人にふられて、孤独になってしまって、近くの塔のてっぺんから飛び降りるという、飛び降り自殺の曲である。まあ、主人公は結局自殺せずに家に帰るのだが・・・。そして両親を失った時の孤独な心境を思い出しているのであるのだが。
「ああ、どうせオレは孤独なのさ。自然とまた孤独になっちゃったよ」
と自分が天涯孤独な身であることを悲しみを通じて改めて認識する曲なのだ。
「考えてみれば、いつも孤独だったなぁ、それがオレにとっては自然なことなんだろうなぁ」
と回想しているのである。ああ、それにしても、私も天涯孤独だ。Yさん、私の想いは伝わらなかった。Yさんが響子さんのように未亡人だったら・・・、しかし、この現実はアニメのようには行かない(まあ、響子さんはジェネレーションXなので、世代はちょっと離れ過ぎているが、また80年代は私のもっとも嫌悪する時代なので・・・)。そして、私は夢破れて山河有りの状態で、この曲を聴いたのだ。それで、カタルシスを得て、悲しみを昇華させたのである。やはり、音楽は素晴らしい。
では、歌詞を抜粋する、
そう、だから私も会社の屋上に出て、そこから飛び降りようかと思った。Yさんに遺書を残して。とても、『めぞん一刻』の主題歌とは思えないほどの深刻な内容の歌詞であるが、このほのぼのとしたアニメとは、まるで釣り合いが取れていないのだが。でも、この曲は、『めぞん一刻』の主題歌として覚えていたのだ。しかし、子どもの頃は英語はわからなかったので、まさか、ここまで深刻な歌だとはわからなかった。
「ああ、いい歌だなぁ」
としか、思っていなかったのである。まさか、「自殺しようかなぁ」という歌だとは、まったく気付かなかったのだ。それに、私に英語の能力が備わってから、やっとこの歌の趣意が理解できるようになったのである。なるほど、これほど私の心境を的確に表現している歌はないであろう!私も天涯孤独なのだから。孤高な人間なのだ、私は!『Alone again Naturally』万歳!
「ああ、どうせオレは孤独なのさ。自然とまた孤独になっちゃったよ」
と自分が天涯孤独な身であることを悲しみを通じて改めて認識する曲なのだ。
「考えてみれば、いつも孤独だったなぁ、それがオレにとっては自然なことなんだろうなぁ」
と回想しているのである。ああ、それにしても、私も天涯孤独だ。Yさん、私の想いは伝わらなかった。Yさんが響子さんのように未亡人だったら・・・、しかし、この現実はアニメのようには行かない(まあ、響子さんはジェネレーションXなので、世代はちょっと離れ過ぎているが、また80年代は私のもっとも嫌悪する時代なので・・・)。そして、私は夢破れて山河有りの状態で、この曲を聴いたのだ。それで、カタルシスを得て、悲しみを昇華させたのである。やはり、音楽は素晴らしい。
では、歌詞を抜粋する、
I promised myself, to treat myself,
and visit a nearby tower,
and climbing to the top,
would throw myself off
in an effort to, make clear to whoever,
what it's like when you're shattered
私は自分自身に約束した、自分をいたわると
そして近くの塔を訪れ、
塔の屋上に登り、
身を投げるであろう
みんなに明白にしようと努力して、
人がズダズダに破壊された時は、どんなものかを
そう、だから私も会社の屋上に出て、そこから飛び降りようかと思った。Yさんに遺書を残して。とても、『めぞん一刻』の主題歌とは思えないほどの深刻な内容の歌詞であるが、このほのぼのとしたアニメとは、まるで釣り合いが取れていないのだが。でも、この曲は、『めぞん一刻』の主題歌として覚えていたのだ。しかし、子どもの頃は英語はわからなかったので、まさか、ここまで深刻な歌だとはわからなかった。
「ああ、いい歌だなぁ」
としか、思っていなかったのである。まさか、「自殺しようかなぁ」という歌だとは、まったく気付かなかったのだ。それに、私に英語の能力が備わってから、やっとこの歌の趣意が理解できるようになったのである。なるほど、これほど私の心境を的確に表現している歌はないであろう!私も天涯孤独なのだから。孤高な人間なのだ、私は!『Alone again Naturally』万歳!
きょきょきょきょー、ああ、レズビアン、かーかーかかー、本当にありがとうございます、私の尊敬する人よ。ああ、久々に愉快な仲間たちとlittle get togetherをエンジョイすることができた。久々にとても面白かった。やはり尊敬する方の映画産業での活躍の話は、とても面白かった。我々のような、資本主義企業社会にどっぷり浸かってしまった凡人には、まったく経験できないことなのだから。そんな尊敬する方の「お勧め」というか、「亭主の好きな赤烏帽」といったら表現は適切ではないが、ロサンゼルスのどこかの北朝鮮語の文字で埋め尽くされた町に行って料理を食べたが、ソルサにはなるものの、おいしいことはおいしかった。久々に、
「こりゃ、うめー、キムジョンイル、マンセイ!」
と、沢山食べた。しかし、ショージュははじめは飲まなかった。私はYさんに酒を禁止されたので、まだそれに従っていたのである。だが、私はもうYさんを忘れたはずであるから、飲んでいいだろうと思って、解禁して飲んだ。ところが、いざ酒を口に含んでみると、あまりものアルコールの濃度にびっくりしてしまい、それから、飲めなくなってしまった。Yさんに禁止されてから、アルコールを一滴も飲まなかったので、舌がアルコールの舌ヅヅミを心地よいと思わなくなってしまったのだろう。
「ショージューってこんなにまずかったけー?」
と思った。やはり、恋の力というのは、味覚まで変えてしまうのである。それに、ソルサをこれ以上悪化させては困ると思って、それ以上飲まなかった。まあ、ラテン系のYさんが、サルサダンスを得意とするなら、私はソルサ・ダンスが得意なのだ。そしてソルサ・ダンサーは私だけではないといういうのが、とても心強いことなのだ。
「こりゃ、うめー、
と、沢山食べた。しかし、ショージュははじめは飲まなかった。私はYさんに酒を禁止されたので、まだそれに従っていたのである。だが、私はもうYさんを忘れたはずであるから、飲んでいいだろうと思って、解禁して飲んだ。ところが、いざ酒を口に含んでみると、あまりものアルコールの濃度にびっくりしてしまい、それから、飲めなくなってしまった。Yさんに禁止されてから、アルコールを一滴も飲まなかったので、舌がアルコールの舌ヅヅミを心地よいと思わなくなってしまったのだろう。
「ショージューってこんなにまずかったけー?」
と思った。やはり、恋の力というのは、味覚まで変えてしまうのである。それに、ソルサをこれ以上悪化させては困ると思って、それ以上飲まなかった。まあ、ラテン系のYさんが、サルサダンスを得意とするなら、私はソルサ・ダンスが得意なのだ。そしてソルサ・ダンサーは私だけではないといういうのが、とても心強いことなのだ。
それにしても、インターネット世代はやはり情報量がスゴい。私など小学校と中学のときはインターネットもなく、ただただオナニストになるしか選択権がなかった。それがもっとひどくなれば、キヨシ様のように夢精しかなかった。悪夢にうなされて起きたらパンツが濡れているのである。しかし、今ではインターネットでアニメや情報を簡単に集めることが出来るのだ。ああ、だから私はもっと遅く、最低90年代に生まれたかったのである。若ければ若いほど素晴らしいのだから。そうか、40歳まっしぐらか・・・、たしかジョン・レノンも40歳で死んだし、ショパンが39歳、ジョーゼフ・スミスが38歳、ゴッホが37歳で死んだのだから、40歳は人生の節目なのだろう。ああ、いやだ、40歳だけにはなりたくない。そんな日なんか来て欲しくない。たすけてー。早く遺伝子工学を発達させてくれー。そうすれば、永遠に若くて健康でいられるのに。16歳に戻りたい。ああ、16歳、スイート・シックスティーンに。とにかく、16歳に戻らせてくれー!
ああ、それにしても、思い出してしまった。美人の太ももが脳裏に焼き付いてしまったのもので・・・。まあ、その美人とは友坂 鈴夏なのだが・・・ってね。私はかつて、15歳か16歳のときにホイス・グレイシーに憧れて、小さな町の柔道場に八ヶ月間だけ通ったことがあった。そして、私はそこで、Sさんという、とてもかわいい女性に会った。髪の毛も地毛の栗色っぽい暖かい色で、しかも、見るからにプヨプヨしてそうな肌だったのだから。そして軽量級だったし、こじんまりしていて、とても可愛かった。
「へー、柔道やってる子でも、こんな可愛い子がいるんだ!」
と、あまりもの衝撃と感動のため、ホイス・グレイシーのことは、その瞬間に頭の中から消えてしまった。確か、Sさんは、私と同じ学年だったか、まあ、違う学校だったのだが、彼女は、市の中学女子柔道大会で優勝した実力の持ち主であった。それはともかく、可愛い子との寝技、どんなに夢見たことか。そんなのアニメでしか観たことがなかったので。そう、『ラムネ』の友坂 鈴夏のような。しかし、それを、ようやく現実の世界で実現するときがきたのだ。チャンス到来!私は、さっそく、犬のようにお尻をふって、Sさんに寝技の乱取りを申し入れた。
「寝技!」
「おいーす!」
と道場の先生の号令がかかった瞬間、私はすかさずSさんに、
「おねがいします!」
と五体倒地をした。そこの道場は亀の姿勢、いわゆる四つん這いの形になって、相手を攻めさせる体勢から寝技の乱取りを始めるのが通例であったので、私はそれに乗っ取って四つん這いになった。そしたら、Sさんは、私をその官能的な太ももで私の頭上を跨いできたのである。そして、私の頭と肩を挟んできたのだ。私は、
「きょーほほほっほー!太ももだー、ああ天国じゃー!」
とのぼせてしまった。そう恍惚状態に浸っているうちに、いきなり両足でぐるりっとひっくり返されて、しかもSさんの両脚が顔と胸と肩に挟まったまま、仰向けにさせられて、しかも、なんと呼吸が出来なかったのだ。私はびっくりしてしまい、
「ひえー!たすけてー!」
と思ったが、横隔膜があまりにも圧迫されていたために、叫び声も出せなかったのだ。私はどうしたらいいかわからず、とにかく、
「死にたくない!」
と思いながらも、目の前が暗闇に包まれてしまった。
「おい、ヘルメス!まいったしろ!」
と罵声が聞こえたので、私はタップしようと思ったが、Sさんは、私の両腕を封じてしまっていたので、タップができなかった。片方の手は道着を使って制され、もう片方の手は、Sさんが思い切り引っ張っていて、さらに両脚での絞めを効率的に強くさせようとしていたのである。とにかく、呼吸ができなかったという恐怖と、意識が遠のいていくという、最悪の状態であり、私は脚を使ってバタバタし、「まいった」の合図を出すしかなかった。とてもみっともない敗北であった。それが、最初の女性との寝技であり、いわゆる初体験であった。私は、絞め技は手だけでやるものだと思っていたので、まさか脚での絞め技があるとは思わなかった。それは、「三角絞め」という技であった。Sさんは、中村三兄弟の中村行成に憧れていたのであり、その人の得意技が三角絞めだというので、Sさんも、それを得意技にしたそうである。私は、それで、中村兄弟が嫌いになった。それにしても、女性に初めて本気で勝負して負けたので、それはそれは、男としてのプライドをズダズダに引き裂かれてしまった。今までの私は、男はもちろん嫌いだったが、それでも、女はか弱いので男が守っていかなければ行けない存在とかたく信じていた。だが、あの三角絞めで、その変な先入観は粉々に砕け散った。それからである、私がフェミニズムに傾倒するようになったのは。あれだけ強いんだったら、男の助けなしに、女性一人で生きていけるだろうと思った。しかも、Sさんはかわいかったし、それがまた、私を女性賛美者にさせたのだ。今まで、田村亮子などの女性柔道を観てきたが、
「女としてモテることをあきらめた鬼畜」
としか、私の目には映らなかったのだ。所詮、セーラームーンのように、かわいくて格闘技が強い女の子は、アニメの世界だけなんだとさえ思っていた。ところが、まあ、私は、女の子に圧倒的な実力差で負けたのがとてもショックで、数日間はだれとも口がきけなくなってしまったが、それでも、女性に対する見方が変わったのは確実である。それは、スウィート・シックスティーンならではの、卒業であったのだ。だから、結果的には、あの敗北はとても良かったのだ。そこが私のフェミニズムの原点の一つである。
でも、私がSさんに個人的に求めていたのは、押さえ込みであった。しかし、彼女は私に対してだけ、絞め技と関節技しかやらなかった。私が片羽絞めを嫌って横に逃げたら、腕を取られて十字固めをかけられてしまった。だから、彼女との寝技のあとは、やけに関節が痛んだのである。そして、シャワーを浴びるとき、首がとてもヒリヒリした。
「中村兄弟の影響の受け過ぎた。ふざけんじゃねぇ、中村ども!」
と本当に中村たちを恨んだ。だから、吉田秀彦が階級を上げて、中村長男を撃沈したときは、あれほどスカッとしたことはなかったね。あの時からだ、私が熱烈に吉田を支持するようになったのは。しかし、彼女はまた新しいバージョンの三角絞めを覚えたようで、私を亀の状態から、こんどはアクロバチック的に真後ろに私をひっくり返したのである。私は後頭部を畳みに打ち付けてしまった。周りが真っ暗になった。あれは、本当に不意をつかれた。また横に体重をかけて倒してくるだろうと思っていたのだが、真後ろに私の頭を両脚で挟んだまま飛んだので、本当、やられた瞬間はなにがなんだかわからなかった。新しく開発した技の実験台、モルモットにされていたのだろう。だから、今度は立ち技で勝負だと、双手刈り、いわゆるホイス・グレイシーの得意なタックルをやったら、見事に肩すかし気味の内股で、吹っ飛ばされた。そして、だれかが、冗談で、
「ストーカーを撃退したぞ」
と言ったのだ。そして、
「ナイス・タイミング」
と、笑いが起こった。あのくそバカ野郎、今でも覚えているぞ、私をコケにした奴を。私をストーカー呼ばわりした罪は、十字架上のイエスに唾棄するのと同じぐらい重いのだから。私のプライドを傷つけた奴は絶対に、死ぬまで、いや死んでも忘れることはない。まあ、私はいずれ死を克服するので、死ぬことはないが。恨みは骨髄まで徹するからね。もう十年以上も前のことだが、そいつの顔だけはしっかりと覚えている。名前は忘れてしまったが・・・、だからデス・ノートで彼を始末することはできない。まったく、私が名前の覚えが悪いのが幸いだったなぁ。じゃなったら、あいつは今頃、死神に命を奪われているところだ。感謝しろ!
もう一人、美しい方がいた。Fさんと言ったか、その子は一つ上だったのかなぁ。小学校のときは、全国大会に出場したと言っていたし。その子はすらりと手足が伸びて、リーチが長かったので、試合ではかなり有利だったのだろう。身長も173ぐらいで、高かったし、でも、中量級だったから、スタイルは、まあよかったのだろう。というか、あまりにもショートカットだから、魅力が普通のめかしている女の子に比べたら、なかったが、それでも、ちゃんと髪を伸ばして、めかしたら絶対に可愛さに秀でるはずであった。Fさんは原石だったのだが、そっちを磨くのではなくて、柔道の才能を磨く方に精力を傾けていた。それが、ちょっと惜しいな。どっちも努力してほしかった。だって、顔は整っていたのだから、あれでショートじゃなくて、伸ばしていて、ちゃんと、ちょっとでもファッションや化粧に気を配れば、間違いなく、校内のすべての男子生徒が彼女を見て、犬が熱くてベロを出すようにハアハアとなってしまっていたことであろう。残念だ。彼女にも、私は寝技を申し込んだ。こんどは亀の姿勢からではなく、彼女が仰向けになって、そう、ノゲイラが得意とするガード・ポジションからの乱取りであった。しかし、彼女のガードポジション、私の頭は、
「これって、ベッドの上だったら、かなりやばくない?」
と一人で興奮してしまい、頭がクラッとなった。だって、女性が、股を開いて待っているんだよ。考えてみたら、とても怪しいことじゃん。それに、仰向けになっていると、道着の襟も緩むわけだから、下に着ているTシャッツがパラっと見えるんだよね。そうすると、ガードポジションで仰向けになっているわけだから、重力のせいで、スポーツ用ブラジャーの形がくっきりとTシャッツに浮かび上がってくるんだよね。ほんと気絶するかと思ったよ。
「おお、Fさん、胸でっかいーんだなぁ!」
と唾液分泌線がフル稼働したのを覚えている。
「やべー、このままじゃ、鼻血が!」
と思って、意識が鼻の穴に集中した。しかし、Fさんは真剣な顔をして、
「さあ、こい!」
と気合いを込めていた。だから、私は、
「おねがいしま〜す!」
と桜庭がガードをジャンプして飛び越えるのではなく、私はジャンプして直接Fさんに抱きつこうとして飛び乗ったのである。そしたら、見事に両脚で私の骨盤当たりが塞き止められ、私はそれ以上間合いをつめることが出来なかった。そして、ぼやぼやしている内に、いつのまにか両手で首を絞められていたのである。それは、双手絞めであった。まさか、真っ正面からの絞め技があったなんて、ぜんぜん知らなかった。ホイスのチョークスリーパーとか、かならず背後から絞めるのしか見たことがなかったので、これも本当に予想外であった。そして、口に酸っぱいのが溢れ出たため、
「これはやばい!死んじゃう!」
と恐ろしくなり、Fさんの太ももにタップした。そしたら、Fさんは解いてくれた。でも、よかった、首を絞められたおかげで、頸動脈から頭への血流量が減少したので、鼻血をFさんの道着に垂らさずに済んで本当に良かった。でも、絞めを解かれた直後、私はみっともなく、むせ込んでしまった。
「首の周りがガラあきだよ」
と指導されてしまった。だから、今度は、首を縮めて、脇を絞めて、ヌーというように、ソッと攻めた。その格好は、他人からは、
「なんか、性犯罪者のようだ」
とからかわれてたが、それから双手絞めの餌食になることはなくなった。まあ、他の技でFさんにとことんやられてしまったが・・・。
SさんとFさん、この二人のおかげで、私は毎週道場へ行くのが楽しくなった。道場に飾ってあった掛け軸それぞれに「香取大神宮」「鹿島大神宮」とあったが、私にとってはそれらは「F大神宮」「S大神宮」だった。そう、二人の女神に私は黙想していたのである。だが、私は怠けていたわけではない。一応、真面目に練習していたが、それでもいっこうに上達しなかった。やはり運動神経がなかったのだろう。いくら一生懸命稽古に励んでも、強くならなかった。私は夜の公園で一人で木に向かって打ち込みをしたこともあった。しかし、努力も虚しく、いつまでたっても、
「おい、ヒョロヒョロ、雑魚、もやし」
とからかわれる。
「その呼び方やめてくれないか!」
と本気で怒ったのだが、やはり実力差があっては、どうしょうもない。喧嘩しても勝てないし。先生も一緒に笑っているだけだし、たかが子どものいざこざに手を出すまでもないとでも思っていたのだろう。いわゆるいじめだ。また最も信頼していたFさんもSさんも、私をかばうことなく、また私とはあまり話してくれなかったし、仲良くするのは、黒帯で、しかも県大クラスの連中ばかり。そう、DQNばかりだ。野獣本能丸出しの男どもばかりなのだ。格闘技をやっている奴はそういうケダモノが多い。そして最もショックだったのは、女神と仰いでいたSさんとFさんがそんなDQNどもにくっついていたことであった。だから、私はアニメでも、そんな男たちが闘う作品は好まない。そこには、典型的なDQNに媚を売るVarsity Whoresが出てくるのだから。まあ、格闘アニメで、「アンパンマン」ぐらいだったら許せるが。それに、格闘技は女だけがやればいいではないか。男はもともと野獣なのだから、格闘技なんか必要ないであろう。格闘会は、本当、弱肉強食の世界、強いことが正義、弱いのは、ただ食われるのみ。それが、道場の世界だった。ここでも、ネオリベラリズムにすでに浸食されてしまっていたのである。とても嘉納治五郎の「精力善用」「自他共栄」という精神にはほど遠かった。それで、道場の崇高な精神に幻滅したと言ってもよかった。だから、私はたった八ヶ月間で道場を辞めてしまったのである。だから、私が精神世界を求めるのは、宗教性のある大本教を元にした合気道や、神道の精神を元にした柔道の道場ではなく、アニメであることを気付かされたのである。
そんなことを、夜中に人の家のトイレでソルサをしながら、考えていた。しかも、ソルサがやばいからという理由だけで泊めさせていただいた尊敬する方とマームには大変に迷惑をかけた。なにしろ、ソルサのためだけに泊まったのだから。しかも、その理由が通ってしまうというのも、また、彼らの寛大さの証拠でもあるのだが。「ソルサのときの神頼み」である。さあ、この場を借りて、丁重に感謝の意を表する。
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小泉は、「殺されてもいい」という覚悟で、郵便局を改革した。つまり死ぬ覚悟だったのである。郵政民営化とは、国営郵便局を民間の会社にしてしまおうという単純なものである。そう、郵政三事業、いわゆる郵貯、簡易保険、そして郵便サービスをすべて民間でやってもらおうとするものである。つまり、国民にとってはわかりやすいイージー・イシューなわけであるが、そのためだけに小泉は総理になったといってもいい。それが彼の政治家人生のすべてだったのだ。その民営化法案を議会で通そうとしたが、衆議院では可決したものの、参議院では否決されてしまった。よって、小泉は衆議院を解散したのである。普通であれば、小泉が首相を辞めて、内閣総辞職になるはずであったが、小泉は、
「国民に信を問う」
と言って、解散を断行した。森前首相の「解散だけはしないでくれ」という説得も振り切った。森前首相は、
「あいつは変人以上だ!」
と評した。そんなことは日本の歴史でどの首相もやらなかったことだったのだから。そして、小泉は選挙後、造反議員を容赦なく自民党から破門した。造反議員が選挙に望むものならば、刺客候補をぶつけてきた。それも、社会で成功して活躍する女性ばかりである。それは、織田信長さながらの非情さであった。よって、小泉は自民党を小泉党にし、独裁政治を築いたのである。
「オレに逆らう奴は粛正」
という大変恐ろしい政治が行われるようになったのである。よって、自民党はイェスマン揃いとなってしまったのだ。しかし、そこまでしなければ、郵便局は民営化されなかったことであろう。その小泉の2005年の9月11日の郵政選挙は、とても衝撃的であった。
「国民に信を問う」
と言って、解散を断行した。森前首相の「解散だけはしないでくれ」という説得も振り切った。森前首相は、
「あいつは変人以上だ!」
と評した。そんなことは日本の歴史でどの首相もやらなかったことだったのだから。そして、小泉は選挙後、造反議員を容赦なく自民党から破門した。造反議員が選挙に望むものならば、刺客候補をぶつけてきた。それも、社会で成功して活躍する女性ばかりである。それは、織田信長さながらの非情さであった。よって、小泉は自民党を小泉党にし、独裁政治を築いたのである。
「オレに逆らう奴は粛正」
という大変恐ろしい政治が行われるようになったのである。よって、自民党はイェスマン揃いとなってしまったのだ。しかし、そこまでしなければ、郵便局は民営化されなかったことであろう。その小泉の2005年の9月11日の郵政選挙は、とても衝撃的であった。
私も死ぬ気だった。Yさんへの恋心は、小泉純一郎の郵政民子への初恋というような、それと同じ心境だったのだ。だから、告白して散ろうと思った。小泉も、森元首相に、「殺されてもいい」と言ったのだから、散ろうと思っていたのだろう。全ての破滅を覚悟していたのである。しかし、私の死を覚悟した告白は不発に終わってしまった。あれは本当に予想外だった。告白の最中に逃げられてしまうなんて。「断じて行えば鬼紳もこれを避く」というではないか。死ぬ気で恋をすれば、気持ちが伝わるんじゃないかと思った。そして、気持ちを伝えて拒絶されれば、死ぬ覚悟だった。だが、彼女は、告白すら聞いてくれなかった。鬼神は、私を妨害したのである。ということは、鬼神が避けるのではなく、鬼神を排除しなければならないのだ。鬼神が道を譲るとでも思うのか、そんなわけがない。猿田彦がストリップ嬢のウズメに道を譲るというのは、神話の中の話だけだ。現実では、道を進む者は、鬼神とは闘わなければならないのである。小泉も、鬼神を徹底的に排除して、つまり解散選挙をして、鬼神どもを撃退した。よって、私にとっての抵抗勢力、鬼神とはなにか。それはYさんが信仰するヤハウェーである。ヤハウェーによって、私の恋心は否定されてしまったのである。アガペーしか認めないヤハウェー、アガペーの人類がセックスしあうのなら、それは近親相姦罪となる。そしてエロスは特別に結婚内でしか認められていないという残酷な一望監視システム、それがヤハウェーのマトリックスなのである。それを徹底的に粉砕してこそ、Yさんを一望監視システムのバスティーユの牢獄から救い出すことができるのである。それこそ、真の勇者というものだ!『ロードス島戦記』のパーンのように!
『神無月の巫女』の姫宮 千歌音も、死ぬ覚悟で恋をした。そして、最後にそれは破滅をもって成就したのである。このアニメは郵政選挙の一年前に制作された。だから、千歌音のアニメ界での登場が現実の日本の小泉純一郎の偉大なる革命の予兆だったのではないかと思う。小泉も千歌音と同じく死ぬ覚悟で郵政民営化に恋をし、そして「殺されてもいい」と言って、人生の全てを賭けて砕け散ろうという玉砕だった。そう、恋に殉ずる精神を共有していたのである。事実、あの参議院の否決と衆議院の解散で、小泉の政治生命は終わってしまうのではないかと思ってしまった。小泉と自民党は破滅してしまうのではないかと思った。「私が自民党を潰します!」ということが本当になるのではないか、という期待感もあった。でも、どうしてそこまで破滅的になれたのだろうか。なにせ小泉純一郎は独身だ。だから、彼は恋を成就させるために、死ぬ気で鬼神を切り倒していったのである。まるで玉砕を望むかのように。そう、独身が「負け犬」ということは断じてないということを小泉は証明してくれたのである。それこそ独身の力というものだ。独身、万歳!
私のこれからの人生はヤハウェーのシステムの根幹である結婚を破壊することに全身全霊を賭けるであろう。それこそ、鬼神を撃退することになるのであるから。姫宮 千歌音もオロチを殲滅したように。それによって、恋は成就するのである。その心構えは小泉のそれと通じるものがあった。私の最も尊敬するヒーローは姫宮千歌音である。彼女はヘトロセクシュアルのエロスの関係だけが許されているヤハウェーの言説に真っ向から戦いを挑んだ。彼女こそ、レズビアン・ヒーロー、いや、人類全ての悲劇のヒーローである。そして、その彼女の生き様は私に衝撃と感動を与えた。彼女こそが、これからの文化的な英雄であろう!
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きゃーかかかかいきここーーー!!!!久々に笑い狂った、Yさんを忘れるためにとにかく現実離れしたかったんだ。だから、会社を休んでまで、アニメを観るのである。それが、私なりのショックに対する治療である。
『神無月の巫女』か。こんなにすばらしいレズビアンアニメは観たことがない!!!というのは嘘だが。『マリみて』『おとボク』『Strawberry Panic!』『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』など、数々のレズビアンアニメを観てきた。どれも素晴らしいものだった。さあ、ネタバレになるので、注意。
『神無月の巫女』か。こんなにすばらしいレズビアンアニメは観たことがない!!!というのは嘘だが。『マリみて』『おとボク』『Strawberry Panic!』『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』など、数々のレズビアンアニメを観てきた。どれも素晴らしいものだった。さあ、ネタバレになるので、注意。
メカ系や、戦闘系、チャンバラや銃撃や戦争のアニメはもともと好きではない、というか私は恋愛もの、まあ正確に言えば「萌え系」が好きなので、こういうアニメを観るのは『ラーゼフォン』以来、久々なのだが、アメリカのアニメのサイトで、絶賛されていたレズビアンアニメとして『神無月の巫女』が紹介されていたので、観てみることにしたのだ。でも、メカ系なので、だいぶ路線が違うなぁという不安があった。そして、いざアニメを観てみると、それにしても、このアニメの見所である戦闘シーンは実にチンケであったため、とても歯がゆい想いをした。正確に言えば、あまりにも手が抜かれていたので、がっかりだ。また、ほとんどのダークサイドの8人のキャラクターの背景もまったくわからなかったので、それもとても惜しかった。まあ、その内の二人は重要なキャラだったので、背景は知り得たが、それでも、戦闘シーンは駄目だった。しかし、恋愛に焦点を当てているので、それも同然であろうか。しかし『舞-HiME』の場合は、恋愛もあったが、戦闘シーンは実にしっかりしていた。「真剣勝負」がひしひしと伝わってきたのである。だから、あの作品は総合的に見てとても完成度が高かった。しかし、『神無月の巫女』は、ストーリーはしっかりしいたし、声優も素晴らしかったし、絵も綺麗だったし、恋愛の深さ、また台詞も文学的で、とても美しかったのだが、敵側の八岐大蛇の残り6人のキャラがまったくサブキャラ扱い、というかいてもいなくてもどうでもいいキャラだったので、それが残念である。ただ、ファンサービスとして、「萌え」の要素を入れただけの、逆に言えば、なかった方がましだった。まったく必要なかったのだから。逆にコマを浪費してしまった。「萌え」は来栖川姫子と姫宮千歌音の巫女服の束帯だけでよかったのだ(私も実は巫女服を着てみたい・・、しかしそんなことを言えば、サンフランシスコでなければ、社会的に迫害されてしまうので、とても言えないという辛い事情がある)。そして、戦闘シーンはあまりにも単純で、ただコマをセーブしているとしか見えないような手法だったので、それも駄目であった。戦闘シーンはもっとシリアスに、かく残酷に、コミカルな要素は省くべきだっただろう。とても命を賭けて闘っているとは伝わってこなかったのだから。アニメ化で、それがとても悔やまれるのだ。そう、私はエヴァンゲリオンのようなシリアスさを求めていたのだ。戦闘というのは、ぶっちゃけていえば、殺し合いなのだから。「真剣勝負」しているというのが、まったく伝わってこなかったのだ。逆に、とてもあっけなかったのが、欠点であった。
私は、でもどちらかというと、戦闘より恋愛を好むので、恋愛シーンにとても力を入れていたのは絶賛する。もし、戦闘シーンに力を入れて、恋愛シーンに力を抜いていたら、それこそ終わりであった。私は、このアニメを駄作として、退けていたであろう。だが、このアニメは、二人の主人公の恋愛による葛藤、とくに月の巫女である姫宮千歌音の葛藤を上手く醸し出していたので、それはそれは素晴らしかった。それにしても、文学的な月の巫女と陽の巫女の台詞、とても素晴らしかった。私の頭はもう、「げー!」状態だった。有頂天だった。それに、おんなじ部屋で、同じ鏡の前で、姫子の髪をといてあげる千歌音の行為、これはもう、
「うぎー!なんで、オレは女の子に生まれてこなかったんだろう!」
と私をとても後悔させてしまった。化粧道具がいっぱいある鏡の前で、女の子二人が楽しげに化粧をしてあげたり、しかも髪を編んであげたりと、とても羨ましい光景。女性にとってはこれは普通なんだろうが、私にとっては、本当に憧れだ。
でも、これを他の男に言うと、
「てめえ、本当に金玉ついてんのかよ!」
と罵詈雑言を浴びるだけである。だから、男はけだものなのだ。よって、男は大嫌いだ。だから私は引きこもって、人と交わろうとしなかった。いや、正確には、男と交わろうとしなかった。そして、女の子とは逆に交わりたかったが、彼女らは、オタクは話す価値もないと思っていたので、私を避けていた。オタクに対するステレオタイプが彼女らをバカにさせていたのだ。
「オタクは変態で、キモメンで、女装癖があって、コスプレ好きで、エロビコレクターで、エロゲファンで、ロリコンで、フィギュアでオナニーして、ホモ臭くで、ファッションセンスがまるで駄目、しかもストーカー」
という最悪なステレオタイプを、男社会から植えつけられて、洗脳されていたのである。だから、オタクではない私ですら、オタク的であるというだけで、これらのレッテルが貼られ、本当に私は孤独となってしまった。私は孤独を望んでいなかった。ただ、男を避けたかっただけである。本当に自分の思っていることを言うと、
「玉金ついているのか!」
という言説、そんな馬鹿な思考回路しか持たないDQNどもとは関わらないことを決めたのだが、その結果が、女の子に避けられてしまうという地獄だったとは。そこが、私の男社会に対する嫌悪と憎悪の原点である。だから、私はフェミニストではないのだが、というか過激的なフェミニストに対しても良く思っていないが、それでも私は、心からフェミニズムを徹底的に応援し、男社会の言説を完全に殲滅することを願っているのだ。だから、小泉の皇室典範改正案には、当然、天皇という男社会を正当化するような根幹の制度を破壊することになるので、熱狂的に支持した。しかし、あの姫が男のガキを生んだために、日本の腐れ切った男社会の原点を破壊することはできなかった。そう、またしても「男」が天皇家を改革するチャンスを阻んだのである。おかげで、日本は永遠に腐ったままだ。なにが日本国憲法は世界でもっともすばらしいだ。憲法がすばらしかろうが、国は腐っているので実にナンセンスだ。お下劣な男社会の日本というゲロとヘドロに満ちた国。またタバコの喫煙者も50%以上を占めるという国民の実に二人に一人が馬鹿なのだ。そんな国民では到底、日本を改革することはできない。本当に、男社会である。また、タバコを吸う男を未だにカッコいいと思っている女性が馬鹿だ。というか、あまりにも洗脳に曝されたために、脳が狂牛病のようにスポンジ化してしまったのではないか。『だめんず・うぉ〜か〜』という漫画を読めば一目瞭然だ。「いい男」は一人でタバコを吸っている性格の悪い男なのだから。普通はタバコを吸っていること自体、デートの対象にするべきではないであろう。健康管理ができていないことの証拠なのだから。そんなタバコまみれのクソ野郎とどうしてデートしたいのだろうか。セックスするときでもヤニ臭くてたまらないであろう。だが、日本は男社会だ。男社会に洗脳されている女性はタバコを吸うバカに惚れるのである。タバコの消費量が多い国ほど、精神が遅れているということを世界では証明されているというのに。だから、日本は精神途上国なのである。というか精神的ゲロと糞尿の国だ。天皇制が女人禁制というのが、もう腐っている証拠だ。救いようがない。小泉はマッカーサー以来に匹敵する強い指導者だと思っていたが、日本のヘドロを一気に大掃除してくれるのだと期待したが、天皇制の改革をあきらめたので、あいつには本当に失望したよ。あの郵政選挙の非情さは一体どこに行ってしまったんだ。どうして男社会のゲロを放置したままにしたのだろうか。というか、男性社会のゲロを放置しているような国である日本は国連の人権委員会から除名されるべきであろう。いくら金をアメリカの次に多く払っているかと言っても、悪いことをしているんだから、除名だ。処罰の対象となるべきだ。それぐらいの措置がこの国には必要なんだ。そうすれば、大掃除する動機ができるはずだ。だから、こんな腐った国は、捨てて本当に良かった。とても誇りに思えないからね、
「ゲロ国から来ました」
と超大国の人間にどうやって自慢できようか。だったら超大国の市民権を取ったほうが、よほどましだし、また誇りを持てるのである。そして、私は市民権を取得した。だから、ホッとしているのだ。日本の男社会が廃絶されないかぎり、二度と日本に住みたいとは思わないであろう。ヤニゲロに満ちた国なのだから。ヤニゲロ国家、日本。道を歩けば、酔っぱらいがタバコを吸い、ゲロを吐いて汚くするので、日本の夜の都会はゲロとタバコの悪臭で満ちているのである。バブル景気が終わってもそれは残念ながら終わらなかった。日本の老若男女は、頭の中はバブルのままなのである。日本人はバブルを未だに引きずっているのである。だから日本のサラリーマン社会はまさしくヘドロなのである。実に不健康だ。こんなところにいては、健康な人でも不健康になる。副流煙とゲロに満ちたこんな男社会に入るのはごめんだった。だから渡米したのだ。できることなら、男のいない世界にすみたい。ウジ虫の世界にはもうこりごりだ。そう、女性だけの世界。それこそ桃源郷だ。しかし、私はこの憧れを心のうちにしまっておくしかなかったのだ。なにせ、アメリカも、男社会なのだから。カラフルなシリアルを食べているだけで、
「お前、ホモなんじゃないの?」
とからかわれるのだから。しかも、そのシリアルはワッカ型なので、「fruity loops(ホモ的なワッカ)」とまで言われてしまう。普通、カラフルなシリアルは子ども向けのはずだろう。なんで、ホモになるんだ!それだけではない。アメリカでは、結婚する女性の実に90%以上が男の名字に改名するという、知恵遅れとしか思えない行動を取っているのだ。夫婦別姓の選択権があるのに、90%以上は明らかに異常だ。アメリカ人女性の頭は本当に狂牛病になったんじゃないの?明らかに洗脳が行われているとしか思えない。だから、現実の世界、ネオリベラル資本主義社会のロサンゼルスには絶望した。現実の女性より、理想の女性だけの世界、そう、姫子と千歌音の世界。そのようなレズビアン的な世界、このアニメで、その世界への憧れはますます膨張した。
なにせ男は野獣だ。そして女は超人だ。そしてトランスジェンダーが野獣と超人を繋ぐロープである。歴史的に人間は全て「理性」という尺度で判断され、女は意図的に教育から排除されてきたので、男は、
「それ見ろ!女は感情的で理性的ではないんだ」
とけなしてきたし、女性を政治や宗教から排除してきた。まるで、フランス大統領選挙の女性候補のロワイヤルに対して取られたプロパガンダである。まさか、ジャンヌ・ダルクという偉大な女性リーダーが出てきた国で、そのようなヘドロ的なプロパガンダが通じてしまうとは・・・、絶句だ!しかし、現在は、女性も教育を受けるし、アメリカの大学の進学率にいたっては女性の方が高い。だから、これからは、女性の方が頭が良くなるし、理性的になるのである。ということは、女も男も両方とも理性的になるので、人間の尺度は理性ではなくて、中身になるのだ。ということは、女性がどうしても男性よりも優れていることになってしまうのだ。それを男性は恐れていたのであるが、もう現実になってしまうであろう。あと20年したら、レズビアンの恋こそが、至高の恋愛と見なされるようになるであろう。そして、男は本当は男であることに気付いてしまうのである。そう、野獣であるということに。しかし、そうなったら、数々の男が拳銃で頭を打ち抜くことになるであろう。私は小さい頃から男であることを恥ずかしく思っていたから、だから私は男から排除されたし、また私も男を避けてきたし、それで女性が今度は話し相手になってくれるかと思えば、避けたので、私は引き蘢るしかなかった。だから、私はあまりにも早すぎたのである。だが、このアニメが社会的に受け入れられるということになってきたのだから、希望はある。ただ、私があまりにも早く生まれてしまったことが後悔されるのだ。90年代に生まれていれば。そうすれば、千歌音と同じ16歳だったのに。私は永遠の16歳なのだから。井上喜久子が「私は永遠の17歳」というように。私が90年代生まれだったなら、私が大人になる頃には、私のようなものが受け入れられる社会となっていたことであろうに。なんで早く生まれてしまったんだー!
話が脱線してしまったが、陽の巫女である姫子の行動はとてもかわいい。ドジで、おっちょこちょいで、引っ込み思案で、モジモジしていて、でも、人一倍の頑張り屋さんで、とてもやさしくて、明るくて、いい子で、純粋無垢で、きょっとんとしていて、歩く時も後ろに手を組んで、肩をちょっと上げて振り返る仕草、しかも迷っている子犬を助けようとするそのやさしさ、
「かわいいー!」
となってしまった。耐えられない。千歌音もそう感じていたのであろう。
逆に、千歌音は優等生タイプで、お嬢様で、凛としていて、なんでもできて、才色兼備、背も高くて、スタイル抜群で、目がきりっとしていて、弓道や短刀を使いこなす武術も心得ていて、そしてテニスもうまくて、乗馬もこなし、さらにピアノも超一流、何一つ欠点がないという、そう、まるで優雅さを体現したような・・・。まさに、私の憧れの女性である。姫子とは実に対照的である。しかし、そんな非の打ち所のない完璧な人間が、報われぬ恋に苦悩するという、私も恋に苦悩しているので、彼女の気持ちはよくわかるのである。恋の悩みは万人共通ということか。「恋に上下の隔てなし」か。お姫様が最下層のプロレタリアートの女の子に恋い焦がれるとは、現実には有り得ない階級の壁を突き破っているので、それも、まさに共産主義的である。そう、アニメはやはり桃源郷、ユートピアなのである。それに、千歌音の、
「あなたの瞳が好き、春の銀河のように煌めく瞳が、春の日差しのようなやさしい眼差しが好き」
と告白するシーン。その文学的なまでの美しき台詞は私を恍惚状態にさせた。また、千歌音が心の中で、姫子への想いをなんとか封じ込めようとするが、悪魔の誘惑の攻撃に容赦なくさらされるシーンが見物である。私もこの葛藤を経験したからである。そして、彼女は死ぬことを決意するのである。自殺である。その彼女の生き様に私は憧れた。直立不動で完璧さを追求した千歌音が、恋に苦悩するとは、そして恋のために身を滅ばすとは。彼女は、かつてのシッダールタのように未来は約束されていた。しかし、シッダールタは全てを捨てて道の人となって乞食生活に入った。千歌音も、全てを捨てて、恋のために死ぬことを決意した。
そう、私自身は自殺は思いとどまった。しかし、自殺自体は悪いことではない。ヒットラーはアンゲラという恋人が死んだので、拳銃で頭を打ち抜こうとしたのだ。つまり、政治家も辞めて、死のうと思ったのであり、自殺しようとしたのである。しかし、彼は、その奈落の底から復活し、再びドイツ支配の道に突き進むようになったという。その時から、彼は完全に非情な人間になったのだそうだ。そう、彼が自殺しておけば、600万人のユダヤ人は死ぬことはなかったのである。また世界が戦争になることはなかったのだ。そう、失恋の自殺は、ヒットラーのような将来モンスターになる人物には、奨励したほうが世の中のためになるのである。だから、失恋によってモンスターを生み出すよりは、自殺させておけばいいのである。止める必要はない。千歌音もモンスターとなってしまう前に自殺しておくべきであったが、そうなるとアニメにはならないので、やはり世界を破滅に導くモンスターとなった。『ニーベルンゲンの指輪』では、アルベリッヒというキモメンの小人は、世界を破滅させるモンスターとなった。しかし、『神無月の巫女』では、勝ち組の金持ちの娘、スタイル抜群の美少女、何をやっても完璧であり、すべての分野に秀でて、全てを兼ね備えている、だれもが憧れ、羨む完璧なロールモデル的人間が、恋に苦悩し、世界の破壊者となるのだから、これはまったく違ったパターンであろう。ある意味、斬新だ。ニーチェの言うように、いつもならキモメンがモテないために、世界を破壊するのだが、このアニメでは、イケメンで完全な人間がモンスターになるのだから。千歌音と大神ソウマのプリンセスとプリンスがダークサイドになってしまうのだから。そう、アナキン・スカイウォーカーのように。
また、恋する相手がレズビアンでなかったというのが悲劇的であり、またレズビアンとしての罪悪感も彼女を苦しめていたのである。
「でも、無理だわ、あなたは女の子ですもの」
と悪魔のささやきを受けるが、あれは自分の葛藤を外在化したものであろう。とてもフロイド的でもあった。スーリアリズムの領域だったね。一応、オロチとして悪魔が登場するが、あれは千歌音の中の葛藤である。女の子が女の子に恋をしてはいけないという罪悪感、そして相手がレズビアンではないから、報われない恋。それが完璧な人間の千歌音を狂わせ、とうとうダークサイドに落ちてしまったのである。心理描写が実に多く行われ、それもこの作品を素晴らしいものにした。
しかし、千歌音のピアノを弾くシーン、あの優雅さ、美しく長い黒髪がなびき、それにあのドレスといい、私はとてもジーンとしてしまった。本当に、感動してしまったのだ。こんな女の人が現実にいるだろうか。完璧さを体現したような、そんな人だ。私は憧れた。というか、私の「お姉さま」になってほしいとさえ思った。ところが、姫子の前では女の子の一面を見せるという、そのギャップがまた好きだ。というより、嫉妬してしまった。私も姫子と同じで引っ込み思案だから、千歌音お姉さんにうんと甘えたかったのに。だから、姫子に嫉妬してしまったのだ。だって、姫子にしかそういう部分を見せないじゃん。だから、私も女の子である姫子に自分を同化させた。そして、
「ああ、女の子に生まれていれば!」
と心から後悔した。私もプロレタリアートなので、千歌音よりは、姫子に同化できるのである。姫子は女性と男性のトップクラスからモテるのだから、しかも当の姫子自身は自分がモテないと思っているから、そこがまたかわいいー!まあ、本当に学園でも目立たないほうだし、声をかけられるわけでもないし、モテないのだが、でも全校生徒が憧れる学園のプリンセスとプリンスにはモテるという、バイセクシュアルにとっては、これほど羨ましいことはない。しかもプリンセスがあそこまで庶民の姫子に夢中になるなんて。しかも、そのために狂ってしまうなんて。報われぬ恋に身を滅ぼすとは。目がいっちゃてたからね。彼女であれば、どんな相手も落とせたというのに・・・。学園の憧れの的だったんだから。千歌音に告白する男女はもはや勇者として讃えられていたというのに。そんな千歌音がメイド服を着て、まるで、後ろ姿はまほろちゃんを彷彿させるような。それも、姫子のために特別にメイド服に着替えたんだから。私にも、メイド服になって欲しかった・・・。でも、その行為が、
「ああ、千歌音は死ぬ気なんだなぁ」
と悟らせるものでもあったから、淋しい想いをした。まあ、千歌音とまほろちゃんの声優は同じなのだから。なにせ、まほろちゃんで私はメイド服の萌えを発見したのだから。ああ、葵ちゃんとも同じか。でも、それでも、キャストを見るまでは、まったく気付かなかったのだから、声優の演技力というのは、本当にスゴい!
でも、失恋によって死ぬ気になるということは、私にも何回かあったので、自分を彼女と重ね合わせて観てしまった。千歌音はまさに悲劇のヒーローなのである。だから千歌音に対しては複雑な心境だ。彼女は私のお姉さま、また私の尊敬する先駆者でもあり、また私自身でもあるかもしれない。そう、全ての人間には仏性があるように、また私の中にも千歌音性があるのである。報われぬ恋によって破滅の道を選ぶという。それは、全ての人の中にオザマがあるようなものである。
彼女は自分の運命に逆らおうとしたが、それでも予言の力には勝てなかった。予定されていたことは覆すことは出来なかった。イエスも自分の運命を知り、最も信頼していた弟子ユダにイエスを裏切ることを告げた。なにしろユダは教団の財政を担当していたのだから。そしてユダは、その通りにイエスを売ってしまった。つまり、ユダは最も愛している師匠を裏切ったのである。それも、イエスは、
「お前は私を裏切るだろう」
と言い、ユダがイエスを嫌いになるように仕向けたのだ。最も尊敬している人から、
「お前は私を裏切る」
と言われたら、どうなるだろうか。最も尊敬している人に、そんなことを言われるなんて、信頼と尊敬が全て砕け散るだろう。それはイエスの一番弟子に対する裏切りだったのだ。だが、イエスは自分の予定されていた運命を全うするために、意図的にユダにそうさせたのだろう。そして、イエスは死によって、贖罪の山羊になって、人類を救ったことになったのである。そしてイエスは復活したのである。それも、ユダが裏切らなければ、起きなかったことである。姫子もユダに似た心境ではなかったのだろうか。まあ、姫子の場合は、裏切りというか、もっとひどいことをされて、人格を破壊されて廃人になりかけてしまったから、あれはないだろうとさえ思ってしまった。人権蹂躙、いや人道に対する罪である。姫子のような子は、それこそ廃人になってしまって、もはや正気を取り戻せないのではないかというものであるから、あれは絶対に許されるべき行為ではなかった。だが、姫子がその精神的ショックから立ち直らなければ、アニメは進まないので、結局は立ち直って、戦いに挑んだわけであるが。そして千歌音も犠牲になることによって地球と人類は救われたのである。
視点を変えれば、千歌音も自分の星の運命を悟り、まるで、『北斗の拳』のリュウガのようであった。ケンシロウの定められた使命を全うさせるために、自らが犠牲になったのである。それと同じく、千歌音は、姫子と自分の巫女としての使命を全うさせるために、自らが犠牲になったのである。また、この原型も『スターウォーズ』のそれと酷似しており、千歌音もアナキン・スカイウォーカーと同じく、「選ばれし者」でありながら、ダークサイドに落ちてしまったのである。それが、キリスト教の聖書から続く、『神無月の巫女』『北斗の拳』『スターウォーズ』に見られる悲劇のヒーローのアーキタイプだと思われる。人類の集合的無意識が作り出した悲劇のヒーローなのであろう。ジャンヌ・ダルクも自ら犠牲となり、フランスを救った。「魔女」として犠牲になったにもかかわらず。『神無月の巫女』はまさに21世紀の神話だ。
とても深いアニメであったことは確かである。ただ、戦闘シーンだけは、手を抜き過ぎていたのが、遺憾であった。
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『ココロ図書館』を観た。特に、第11話は良かった。感動した!なんと、こころの父親は戦争を兵士として経験し、二度と戦争を繰り返してはならないとして、平和への決意として図書館を建てたのである。それから、三姉妹が生まれたのだ。つまり、アプレ・ゲール、戦後に三姉妹が生まれ、末っ子がこころちゃんだったのだ。しかし、こころが物心ついたときには、父親は他界してしまっていた。だから、図書館はこころにとっては父の形見なのである。だから、市の議会の図書館閉鎖の決定にこころは真っ向から反対し、こころは自ら市長舎に出向き、そしてそれが政治運動となり、多くの市民は市役所の前で、デモ行進を起こし、図書館閉鎖反対を訴え、議会と市長は、とうとう決定を覆したのである。なにせ、こころ図書館は平和のシンボルだったのだから。10歳の子どもであるこころちゃんが、平和運動を起こしたのであり、その意志が通ったのである。こころちゃんは、まさに奇跡を起こすリーダーだ。21世紀の精神指導者だ。萌えのメイド服を身にまとった精神指導者なのである。
そして、アンドロイドは戦争のために開発されたロボットだが、アンドロイドは戦争に従軍していたが、こころの父親の部隊専属のアンドロイドが爆弾として利用される前に、最後の言葉としてこころの父親に、
「これからは、人の役に立つロボット、コンパロイドを作ってください」
と言って機能を停止させてしまったのである。それが遺言となったのだ。私は、そのアンドロイドの言葉に涙があふれてきた。つまり、こころ図書館は平和の象徴だったのである。そして、図書館のメイドとして開発されたのが、コンパロイドだったのである。だから、コンパロイドはメイド服を着ていて、年頃の女の子の形をしているロボットなのである。それが、すごーくかわいー!あの耳でピコピコとセンサーが反応するところなんか、はぐわ〜!駄目だ、萌えてしまう。この私を萌えさせるとは。ロボットのくせに。でも、仕方がない。もしかしたら、生身の人間の女性ではなくて、コンパロイドが私を救ってくれる可能性があるかもしれない。そうだ、コンパロイドは壊れたら修理すればいいんだ。生身の女性では、美は滅びるし、心は無常だ。設定ができないのが、すべての苦しみの原因だ。だから、コンパロイドの方がいい。安らぎを得ることは確実だからだ。ああ、これが、現実にあればなぁ、私も一体ほしいんだけど。それこそ、平和利用というものだ。そう、メイドに萌えることは、平和の決意なのである。萌えそのものが平和主義なのである。憲法9条は、萌えの精神なのだ。アンドロイドという、War Potentialが、コンパロイドという完全平和ロボットになったのであるから。
つまり、アンドロイドは戦争のシンボルだったが、コンパロイドは平和のシンボルだったのである。だから、コンパロイドは私を癒してくれるのである。そういえば、『まほろまてぃっく』でも、まほろちゃんは、戦闘用アンドロイドだったが、退役して、メイドとなり、人を癒すコンパロイドとなった。そして、それが、中学時代の美里優の永遠の女性像となり、おじさんになってふけてしまった美里優を最後に救ったのである。そう、ファウスト博士が、最後に、グレートヒェンに救われたように。私も、Yさんの形をしたコンパロイドが欲しい。私は欲張りなので、現在のYさんではなく、20代か10代後半のYさんの姿をしたコンパロイドが欲しいのだ。そうすれば、私も間違いなく救われるだろう。それが、平和の時代を象徴するロボットであり、この激しい嵐を平定し、私の心に安らぎと平和をもたらすであろう。
そして、アンドロイドは戦争のために開発されたロボットだが、アンドロイドは戦争に従軍していたが、こころの父親の部隊専属のアンドロイドが爆弾として利用される前に、最後の言葉としてこころの父親に、
「これからは、人の役に立つロボット、コンパロイドを作ってください」
と言って機能を停止させてしまったのである。それが遺言となったのだ。私は、そのアンドロイドの言葉に涙があふれてきた。つまり、こころ図書館は平和の象徴だったのである。そして、図書館のメイドとして開発されたのが、コンパロイドだったのである。だから、コンパロイドはメイド服を着ていて、年頃の女の子の形をしているロボットなのである。それが、すごーくかわいー!あの耳でピコピコとセンサーが反応するところなんか、はぐわ〜!駄目だ、萌えてしまう。この私を萌えさせるとは。ロボットのくせに。でも、仕方がない。もしかしたら、生身の人間の女性ではなくて、コンパロイドが私を救ってくれる可能性があるかもしれない。そうだ、コンパロイドは壊れたら修理すればいいんだ。生身の女性では、美は滅びるし、心は無常だ。設定ができないのが、すべての苦しみの原因だ。だから、コンパロイドの方がいい。安らぎを得ることは確実だからだ。ああ、これが、現実にあればなぁ、私も一体ほしいんだけど。それこそ、平和利用というものだ。そう、メイドに萌えることは、平和の決意なのである。萌えそのものが平和主義なのである。憲法9条は、萌えの精神なのだ。アンドロイドという、War Potentialが、コンパロイドという完全平和ロボットになったのであるから。
つまり、アンドロイドは戦争のシンボルだったが、コンパロイドは平和のシンボルだったのである。だから、コンパロイドは私を癒してくれるのである。そういえば、『まほろまてぃっく』でも、まほろちゃんは、戦闘用アンドロイドだったが、退役して、メイドとなり、人を癒すコンパロイドとなった。そして、それが、中学時代の美里優の永遠の女性像となり、おじさんになってふけてしまった美里優を最後に救ったのである。そう、ファウスト博士が、最後に、グレートヒェンに救われたように。私も、Yさんの形をしたコンパロイドが欲しい。私は欲張りなので、現在のYさんではなく、20代か10代後半のYさんの姿をしたコンパロイドが欲しいのだ。そうすれば、私も間違いなく救われるだろう。それが、平和の時代を象徴するロボットであり、この激しい嵐を平定し、私の心に安らぎと平和をもたらすであろう。
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