NAFTAでのキモヲタのソナタ
詩か、自由の境地を目指すのが詩というものであろう。
ああ、会社って大変だなぁ。ホワイトカラーなのに、給料が安いなんて。しかし、そんな中でも、我々はめげずに詩を書いている。あるガイズ・ガール(野郎たちと一緒に行動する女)的な存在の女の子がある同僚のためにバースデーパーティーをしようということで、皆にメールしてきた。私も会社のメールで、ちょっとライム(rhyme)、いわゆる「韻を踏む」ことをして、その子を笑わせようと思って、彼女のメールに返信した、ちゃっかりccに皆のアドレスを含めて。そして休憩時間になると、同僚のJが、
「おお、おまえ、スキルがあるじゃねえか!」
と突然薮から棒が出てくるように褒め讃えてきた。そして、休憩が終わって席に着いた次の瞬間、さっそくJからメールが来た。なんと、ラップ形式の強烈な詩ではないか、しかも意図的にccに皆のアドレスを含めて。まさにこれぞ目立ちたがり屋精神!すると、やはり同僚にゲットー出身が多いこともあり、それが火種となって、彼らも会社のメールで、「今度はオレも」というばかりに、ライムで、次から次へと詩の形式で返信してきた。もう、こうなったら止まらない。どうやら、私のちょっとしたふざけ心からの無思慮な行動が起爆剤となってしまったようである。彼らの、ヒップホップの精神に火をつけてしまったのだ。こうなったらもう燎原の火である。そして我々はお互いに相手の詩を読んでは、
「おまえは天才だ!」
とお互いに褒め合いながら、メールにおいてのヒップホップ形式の詩では、
「貴様の戯言はそれまでだ。オレこそが最高だ!なにしろオレ様のライムは地球だけではなく、銀河系、さらには宇宙全体にさえも響き渡るのだから」
と競争し合っていた。「王の中の王はオレだ」とばかりに、次から次へと「you
got mail!」という表示がモニターにポンポン出てきて、それでとても忙しくなった。でも、彼らの想像力と創作力、とてもすごくてかなわない。私もインターネットで、スラングを探しながら、限られている単語力で、どうにかライムをこなして、詩を書いて、メールし返していた。やはり、本場のアメリカのゲットーで育った人は表現力の強さが目立ち、連結のパワーというのは驚嘆に値するほどだ。私は日本に育ったし、グラフィティが散乱している廃墟ではなかったから、彼らのその経験の深さというものがないので、それを言葉にすることはできなかった。暴力と麻薬とセックス、それがゲットーラップ、もしくはギャングスター・ラップ、いわゆる「Gラップ」の文殊の知恵だが、それではとても彼らの表現力の足下にも及ばないので、それにゲットー文化については無知蒙昧なので、同じ土俵では勝負できないと思い、私は極力、詩の内容はエロチックな方面でがんばった。私は女の解剖学で全ての事象を表すように努めたのであり、それもそれでフェミニストには断固許しがたいものだったであろう。なにせ女の子に生まれたかった私だからなぁ。たとえば、
「Today I'm totally feeling mensual,
just like periodic hos ain't no sensual
(今日、 オレの気分は完全に月経的だ、
生理中のあばずれたちが感じなくなっているように」
と韻を踏んで、自分の風邪を引いている状態を表現した。だから、私の詩の形式はヒップホップやラップのとは路線が違うが、それでも、本場の彼らギャングスター・ラッパーたちは私を天才だと評価してくれたのだから、とても嬉しかった。

はじめは女の体がどうのこうのというような、いかにもピンプが書きそうな内容だったが、しかし、会社に対する不平不満がどんどん入ってきて、仕舞にはラップがテロリズムやファシズムなどの政治問題まで発展し、最後には人類愛と平和主義まで行き着いてしまった。彼らのように、まるで梶原一騎のようにストリートで喧嘩に明け暮れていた人たちも、やはり平和を望んでいるのだ(私の場合は引き蘢り型のインドアオタッキーで喧嘩はしなかったが・・・)。やはり男同士が詩でコミュニケートすると、どんどん話題が膨らんで行くという、なんだかスゴいことになっていた。それは宇宙膨張論のごとく、留まることを知らない。しかもそれは仕事中だったし、上司の目を盗んでは、詩を書いてメールで送っていたが、メールリストには一人の上司の名もあったし、その上司まで、やはりゲットーで育ってきた過去をもっているので、民族的芸術であるヒップホップには抵抗できず、「ラップはオレ様のお家芸だ」とばかりに自らもメールでどんどんラップを書いて送ってきていた始末だ。

黒沢映画でたしか『どん底』というのがあったが、これも貧乏な男が集まってきて、やはりそこには男が集まってくる切っ掛けとなるガイズ・ガールがいて、男たちは歌舞伎役者の台詞を真似して、太鼓を叩いて、順番に台詞を詠み上げて行くというものだった。それは現代で言えばラップパーティーそのものだった。歌舞伎役者は今で言えば、ラップのMCみたいなものだったからなぁ。で、会社でも、パーティーのオルガナイザーであるガイズ・ガールのメールに私が韻を踏んで返信したら、それが起爆剤となって会社のメールでのラップのオンパレードとなってしまったのだ。いやぁ、いつの時代になっても男って本当に進歩がないものだ。そんなことでムキになってしまって、こりにこってしまうのだから。しかも一つ一つの詩を読んだら、
「ほんと手が込んでいるよなぁ」
とわかるほど、見事なものである。PCの前で仕事に真剣になってるかと思えば、実は全く違うのだから。でも、「うわっ、真剣だなぁ」とは伝わって来るんだろうけれども。それで、よく仕事はおろそかにならないと不思議になるが、やはり熟練労働者はどこで手を抜くかも知っているのだ(まあ、私はまだまだ沙弥なので、私こそこんなことしていてはいけないのだが・・・)。端から見たら、「何やってんだろ、まったく」っとくだらなく思うかもしれないが、しかし、その中にいたら、本当に相手が天才に思えてきて、
「くっそ〜、負けてたまるか、自分も頑張らなきゃ!」
となるのだ。蝸牛角上というべきか、ドングリの背比べというべきか、本当、外から見たら大したことではないのだが、だかその渦に巻き込まれたら最後、女はどうかわからないが、男は泥濘にハマったように抜け出せなくなるのだ。男は何かちょっとしたことに感化されただけでも、それはカッコいいとなり、性質的にこってしまうからなぁ。本当バカだよ。でも、私もそう言っておきながら、大バカだからなぁ。昼休みは弁当を食べる時間を惜しんでまで、ずっとパソコンの前で、ライムを考えて、自分の詩をすべての「自称ラッパー」たちに送っていたのだから。そして、
「うわっ、すげえ、傑作じゃん!」
と褒め讃えられて、洪水のようなラップ形式の返信が来た。しかし、詩でこうやってコミュニケートして意思疎通ができているとは、とても素晴らしいことではないか。そう、まるで古代日本の連歌のように。

だから黒沢映画で『どん底』という作品は結構マイナーなのだが、このことを知っている人であるならば、充分にあの映画作品は堪能できると思うのである。もちろん『七人の侍』や『用心棒』は普遍的にどん底な社会をテーマにした作品で海外で知られているが、この『どん底』ほど、我々男の、とくにどん底の社会で育ってきた男の特性を充分に表現している作品はないであろう。『どん底』の日本の時代設定はきっと明治維新の前ということは確かであろう。だから、かつての日本社会も今のアメリカの巨大都市のようにゲットーは散乱していたはずである。そういう意味では、背景が近いのかもしれない。

いやぁ、でも、ここまで彼らが乗ってきてしまったとは。そんなつもりは毛頭なかったのに。棒で蛇を突っついたよう。まるで悪いイタズラ好きな子どもが人から隠れてマッチで火遊びをしていたら、倉ごと炎上してしまったかのようだ。でも、このメール上のラップで、彼らとは一気に親近感が沸いたような気がする。そういえば、空海も中国に上陸した時は、不法移民と見られて現行犯逮捕されたんだっけ。これで万事休すと思いきや、空海は筆をとって詩を書いてみせたら、中国の国境警備隊員たちは、
「こいつ、スキルがあるじゃねえか!」
と驚いて、それで彼は釈放されて、中国社会の仲間入りをしたというからね。それで、無事に日本に密教を持って帰ることができたのだ。きっと空海の詩を読んだ中国人も、
「おまえは天才だ!お前にはスキルがあるじゃねえかぁ。」
と褒め讃え、負けじと詩を書き上げて競争し合っていたのだろう。そして、空海も「貴様もなかなかの天才だなぁ」と相手を褒めながら、書の腕を磨いていったのだろう。「弘法は筆を選ばず」なら、我々のはPCのキーボードであり、筆を選んでいないので、我々も弘法なのだ!ゴア革命の成果による、そして連歌のごとくのネットワーク上でのサイバー・ラップ、そう、それが言葉の力、いわゆる言霊であろう。その空海のやっていたことが、この会社内で同じことが起こったというのは、まさに注目に値することである。そう、千年経っても、ゴア革命が進んでも、男の本質というのは、全く変わらないということだ。

しかし、これは平安時代の男女の恋文とは明らかに違うものだね。そんな貴族的なものではないさ。これは、ゲットーなんだから。まさにストリートの詩であるのだ。


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【2007/03/31 00:25】 | 仕事
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全米デビュー!?
金木犀
これだけ長い文を一気に書き上げてしまうのも、ヘルメスさんの才能だなあなんて、思うのですよ。日本語の文章も、やはりどこかリズム感がありますよね。露骨な表現?もいやらしさをあまり感じないのも不思議。
(マニアックな内容のときは、知識と理解力がなくてついていけないのですが・・汗)
言葉で、本場の方たちに一目置かれてしまうなんて、やはり才能でしょう。
みんなで、ラップチームを作ったらいかが。


ありがとうございます!
ヘルメス
金木犀さん、いやはや、覗いてくださって、どうもありがとうございま〜す。

ラップだなんて、私の詩の形式はまったく違いますからね。同じことをやっていては、とてもかないませんから。ま、私の場合は韻を踏んでいるだけなので、実際のラップ音楽にしたら、めちゃくちゃでしょうね。

へへ、詩のメールのやり取りをアンソロジーにしょうという話も上がたんですよ。たとえ微量なコスモスの出来事であろうと(笑)!

でも、これを誘発したのはやはりガイズ・ガール的な女性です。女性はやはり、女神っと言ったらなんですが、飯田さんも言っているように、私たちの花ですよ。

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今日は本当に辛い。くっそー、どうして風邪なんか引いてしまったんだろうか。熱もあるし、頭痛、目眩、吐き気、下痢、腹痛、関節痛、しかも脚が宙に浮いているようで、最悪である。しかし会社を休めない。アメリカは労働条件が最悪だ。正社員は風邪ごときで休んだら、それこそ白い目で見られるし、派遣社員や契約社員やパートやバイトというものは病欠しても、給料が出ないし、保険もないし、まったくふざけているとしかいいようがない。シュワちゃん知事が州民健康保険を今年始めに提唱したんだけど、それが実現するのはいつのことやら・・・。私も一日や二日さえ休暇を取れれば、回復しているはずなのだが、出勤しなければ行けないため、回復が長引いてしまう。というか、その間にどんどんどんどん人から人へと風邪がうつり、社内全体が風邪で蔓延し、その中の労働者はすべて風邪にかかってしまったぐらいだ。しかも、ごほごほしたものがエアコンによって空中にまき散らされ、社内は風邪の温床となる。まさにタミフルの実験台には最適な環境だ。


私は帰りの途中、ヒスパニックの店に寄り道して、オレンジジュース100%を買った。風邪にはオレンジジュースが一番いいと聞くからなぁ。でも、一番肝心のタミフルを探したんだけど、見つからなかったね。まあ、アメリカだから、ないのかもしれない。しかし、私のレジの前に並んでいた可愛い19歳くらいの女の子、その黒人の子は、とてもセクシーだったから、もう大変。超スタイルが良くて、くびれが半端じゃないし、しかもお尻が斜め45度に突き出ているんだから。私は、
「うわ、なんていいケツしてんだ!」
と思った瞬間、
「ぎぎぎげほげほげほげほげほ!!!」
と大量に咳き込んでしまった。興奮すると咳き込んでしまうとは、風邪って本当にうっとおしくてしょうがない。まるで孫悟空が興奮すると、三蔵法師の呪文によって頭の輪で締め付けらて制されるように。でも、病気でも興奮するということは、それだけまだ大丈夫ということだ。しかし、彼女の後ろにいた黒人の大男は彼女の父親だろうか、彼はOJシンプソンのように大かくて、たぶん190cmぐらいの巨漢で、ジョージ・フォアマンのような腕をしていたから、そして彼は私をぎらりと睨んできた。まるで、
「オレの娘に手を出したら、ぶっ殺すぞ!」
と言わんばかりのものだった。この時、初めてテレパシーの存在を信じるようになったね。今まで、テレパシーなんて詐欺だと思ってたんだけど。しかしこの男、まるで、暴力を振るうことしか能がないような巨大な野獣にしか見えなかった。だから、私は彼女に声をかけることはできなかった。悔しかった。私ほど可愛い子が好きな人間はこの世にいないだろうに。ふざけやがって。やはり男って邪魔だよなぁ。どいつもこいつも私の邪魔をしやがる。いっそうのこと絶滅すればいいのに。このことが原因で、帰りの車の中で、どうして「父親」というものが存在するのか。その存在意義を考慮していた。そして、ついに結論が出た。

娘に対して過保護になる父親は、ヤハウェーとなんら変わりがない。男権至上主義の神であるヤハウェー、娘は貞潔でなければいけないという、とんでもない言説をもって娘のセクシュアリティーを弾圧するのである。娘のセクシュアリティーを踏みにじる父親たち、その集合的無意識がヤハウェーなのである。だから、イスラムの文化圏のタリバンやイランでは、貞潔を失った娘は、家族の恥として、処刑されるのである。しかも、レイプの被害にあった娘でさえ、保護されなければいけないのに、レイプの被害者なのに、家族に恥をもたらしたとして、父親は自らの娘を処刑させるのだ。そんなふざけた宗教などあるだろうか。ユダヤ教だって、昔は、不倫、浮気した女は石打の刑で、ぶっ殺された。女を石打にする処刑は今でもイスラム社会で根強く残っている。その証拠はこちらのサイトに載っている。新約聖書では、イエスはその不条理な刑を止めに入ったのだが。しかし、イエスの父は紛れもなく極悪非道なヤハウェーである。そんなことを命令するヤハウェーという存在は、神ではなく、卑劣で極悪な悪魔でしかない。キリスト教だって、パウロというクソバカヤロウがレズビアンは罪だとして、糾弾し、パウロのことばに忠実な神父たちは、古代ギリシャのレズビアン文学の文献を捨て去り、おかげで今ではほんの断片しか残っていないのである。すべては父親言説のためだ。その父親たちの集合的無意識言説がヤハウェーを作り出したのだ。だから、我々、男女平等主義者、自由主義者はこのヤハウェーの言説をブッ潰さなければならないのだ。父親はいないほうがいい。結婚という制度が父親という存在を正当化させたが、育てるのは必ずしも父が必要ということはないであろう。

中国雲南省の納西(ナーシー)族は、女だけで家族をつくり、完全な女系女権社会なので、男は外でぶらぶらしているだけであり、「結婚」という概念もなく、また「父親」という概念さえない。親は女、つまり母親だけなのだ。そう、男はただの女のセックスの相手であるくらいか、子作りの種馬ぐらいなものであり、子育ても労働も全部女がやるから、社会ではなんの責任もなく、そこらへんの犬や猫のようにぶらぶらとのんびりと、ただ麻雀して、酒飲んで、女性に呼ばれた時だけ、夜這に行くような放浪な生活を満喫しているのである。そう、男は放し飼いのペットなのである。なんという素晴らしい社会だろうか。
「あたしたちは男たちを養っていかなきゃいけないんだから、今日も一生懸命働くか!」
と気合いを入れていた姿、それにはジーンとしてしまった。決定権は全て女にあるという、そして男は毎日遊んでいればいいという、男にとってこれほど羨ましいことはないだろう。そう、結婚制度を破壊することは男の解放にもつながることなのである。まあ、私は女になりたいので、この社会に入れば、決断決断ばかりとなり、女としての苦労は耐えないだろうし、大変だろうが、エロチシズムにおいて女性上位を望む男ならば、天国のような世界であろう。まあ、私は女楽園に行きたいのは確かだが、厳密に言えばそれは女学園であり、レズビアンの世界である。つまり、完全に女だけの世界だ。そこでは自分も女になるのだから。

男って、文明が発達したのに、どうして絶滅しなかったんだろう。野生時代はとっくに終わったのに。男は野生の名残があるけれども、女は本当に進んでいる。まさに現代人類である。男は野生の名残というより、野生そのものであり、野獣に知能が備わっただけの存在でしかない。しかし、女性は、人間に知能が備わっている存在なのだ。だから男は女に教育をなるべく施さないようにした。知性と理性が全て、たとえ獣であっても。だから、知性を持たない人間より、知性を持っている野獣のほうが優れていると男は思いたかったのである。ソクラテスというゲイの男権至上主義哲学者のせいで、すべては知性で測られてしまう世の中が続いてきたのだ。それは女性を差別するものだったし、女性隷属を正当化してきた。だが、これからは人間性を測らなければならなくなった、なぜなら女性解放によって、女も知性をつけてしまったからだ。そして、それを阻止するヤハウェーが19世紀末に死んでしまったからだろう。だから、男にとって女性が知性をつけるのをとても恐れていたのも理解できるのだ。だから、男女平等社会をなんとか実現しないようにヤハウェーを作って、阻止してきたのだ。なぜなら、女性が知性をつけたら、両方とも知性をつけてしまうので、もはや知性が判断基準にならず、人間性が判断基準となり、野獣である男は人間である女にかなうはずがないからだ。それが、どうして長年、ヤハウェー的社会が女性を教育しなかったかという最大の歴史的疑問の答えである。

それに、男というものは、すぐにムキになってカッとなる。そして暴力沙汰となる。男は知性よりプライドだ。そんなの台湾の議会を見れば、一目瞭然ではないか。男なんて野生の時代からちっとも進歩がない。だから、男は政治に参加しない方がいい。納西族の男のように、すべて女性に任せようではないか。労働も、ビジネスも、子育ても、家事も、教育も、政治も、お祭りも、そうすればセクシュアリティーは実に自由だ。どの男がどの女を所有しているか、どの女がどの男を所有しているか、つまり結婚制度で、所有者以外とセックスしたら不倫という馬鹿げた言説など、この社会にはないのである。セックスしたい人とやればいいだけの話だ。アメリカも日本も、結婚という制度があるから、あのようなふざけた娘を監視するゲシュタポのような父親を生産し、娘の自由を奪ってしまうのである。あの野郎は絶対に監視カメラを自分の娘の部屋に取り付けているはずだ。そして娘がオナニーするところを見て、興奮しているのだ。父親とはそういう存在なのだ、とくにヤハウェーは。そして恋という風邪を引いた娘を治そうとして、父親はタミフルを飲ませるのである。恋を治すのにタミフルは最適だと父親は思うのだ。そしてヤハウェー・ネオコンのカモにされるのだ。しかし、恋という高熱が出たら、無理にタミフルで治そうとするれば、どんなことになるか。だから、そんなものはないほうが娘のために良い。それに、タミフルを買ってくるチャイルド・モレスターは娘から隔離されなければならない。ああいうオヤジがいるから、タミフルが売れてしまうんだ。だから、自由を勝ち取るには、公民権運動もそうだが、人種差別撤廃もそうだが、結婚制度の廃止もそうなのである。結婚制度の廃止なくして、人間解放宣言は有り得ないのである。

よって、年頃の娘をヤハウェーの呪縛から解放するためにも、結婚を廃止せよ!


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【2007/03/28 12:02】 | 社会風刺
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続編:

以下



その7 回春

ああ、年を取りたくない。死にたくない。死ぬのが怖い、年を取るのが非常に恐ろしい、私は大変な恐怖のために夜もろくに眠れない。不眠症はそれが原因で起こっている。青春が終わってしまった絶望。それを希望に変えてくれるのは、桃であろう。中国では桃が回春の食べ物だ。しかし、私にとっては青春はいちご味だ。だから私は桃といちご両方食べる。そして青春を回復しようとする。しかし、青春を回復するどころか、いちごケーキにより体はもっと太るだけであり、それこそ中年太りして、オヤジ体型となってしまう。だから私はケーキを全く食べないことに努めている。大好きなアイスクリームでさえ、ここ三ヶ月も我慢して食べていない。全ては老化を避けるため。だから、桃やいちごを売っている八百屋、またはいちごケーキを売っているケーキ屋が「売春宿」なのである。

しかし、周りの同年代の男は子どもをすでに持っているし。子を持つことは世代をつなげることなので、自分が死ぬことをそのまま認めてしまっているようなものだ。結婚もそうだ。「永遠の愛」とは、死ぬから言えることだ。死ななければ、夫婦はうっとうしいものだけとなり、いろんなパートナーとセックスすることを望むだろう。というか、夫婦は成り立たないのだ。イエスの功罪は一夫一妻制の結婚制度を確立してしまったことだ。それが、恋愛至上主義を作り出してしまった。恋愛によって永遠の命を約束したのである。そして婚約指輪なるものを作り出した。男は婚約指輪をせず、女だけがする。つまり男が婚約指輪で女を縛り、
「この女はオレのものだ!」
と世間に公言しているようなものなのだ。指輪は束縛なのだ。それにマリリン・モンローは『Gentlemen love blonde』で「Diamonds are a girl's best friend」を歌い、マドンナはそれをパクって「Material Girl」を歌った。しかもマドンナは、「我々は物質世界で暮らし、そして私は物質女」と堂々と歌っていた。完全にネオリベラル型消費社会に洗脳されてしまった女を演じていたのだ。そして男は躍起になって彼女にダイヤを貢ぐ。だが、ダイヤモンドの消費はどれだけアンゴラの義足率を増やしたというのか。だから私は、常に、
「ダイヤは絶対に買うな!」
と訴えてきたのだが、奴らは逆切れして、
「うるせえ。結婚相手も見つけられない奴は黙ってろ!」
と罵るだけであった。結婚するにはダイヤを買うことが暗黙の了解なら、結婚自体をブッ潰してしまえばいい。とくにダイヤを女に買った男が切れた。だが、彼らはダイヤなんて実にもろいものだということを全く理解してないんだよ。火をつければただの炭素の塊だから、あっという間に消えるのにね〜。なにが金剛力士だ。金剛(ダイヤ)ほど強いというなら、私はマッチ一本で金剛力士を消滅させることができるだろう。それが、男女の結婚というものだ。金剛のように固い絆も、マッチ一本のエロスで炎に包まれてしまうのだ。そして固い絆は燃え尽きて崩壊してしまう。なにせアメリカでは50%以上の離婚率がそれを証明している。個人主義と結婚は性質的に全く相反するものなのだから、無理があるのだ。結婚は個人を束縛してしまうのだから。主格が「I」から「We」に変わってしまうのだから。結婚は個人主義の台頭で崩壊する運命にあることを人類は気付いていないのだろうか。だが、男どもは女を独占したことをアピールするために、まだ独身である女性の指にダイヤの指輪をはめ、束縛するのである。そして世界に公言するのだ、
「こいつはオレの女だ」
と。女は結婚する前から男のものだが、女は結婚する前は彼を自分のものにできないのだ。それは男の支配欲の言説を三次元化した腐敗したシンボルでしかない。
「おまえはオレに忠義を尽くせ」
と言っておいて、自分は他の女とセックスしているかもしれないのだ。しかし、今は男女平等となり、男も女に忠義を尽くさなければならなくなった。そして恋愛はセックスを独占した。恋愛とセックスは本来別だ。なんで逆でないのだ。男が他の女とセックスできるなら、婚約指輪をしている女もフリーセックスを認めればいいではないか。男も自由なら女も自由だ。だが、始めは男が女の首を絞めていたが、今度は自分で自分の首を締めるようになってしまったとは。男女平等を主張した女性もまったく馬鹿なものだ。男が結婚まで自由の身なら男も女と同じように婚約指輪をして平等に束縛されなければ行けないとは、一体何を考えているのだ。男が自由の身なら、女だって結婚するまでは自由の身ではずであり、平等に婚約指輪など必要ないとすればいいものを。発想が本当に消費社会寄りだから、あきれてしまう。男も婚約指輪をすれば、もっと宝石が売れるのだから。どうせなら両方とも、解放すればいいものを。そうすればダイヤなど売れなくなるし、テロリストもダイヤ鉱山を奪い合って殺し合うこともないだろう。そして、そんな消費社会の言説を砕くには、つまり、結婚そのものを廃止することだ。日本人もその欧米キリスト教の言説によって洗脳されたのだ。というより、もともと恋愛結婚というものはなかったのだ、日本には。そして恋愛自体存在しなかったのだ、明治時代の前の日本には。

Wife Swap』という妻を交換する番組でわかったとこは、結婚とは宗教のもとだということだ。だから、本当に人々が宗教を世俗化して無宗教になるためには、結婚を廃絶しなければならない。つまり、メイド(非婚)こそが、本当の無宗教の姿なのである。だから、メイド喫茶に行きたい!では、その結婚はどうやったら本質的に消せるだろうか。それには人々が永遠の命を得ることが先決だ。なぜなら本当に永遠の命を手に入れたなら、結婚も子作りも不要だからだ。そうなれば世代をつなげることもないし。だから、永遠の命が、私は欲しい。私こそが生きなければならない。子どもに世代を託すだ?そんな馬鹿げたことはない。自ら将来死んでしまうのを認めてるだけではないか。永遠の命じゃなきゃナンセンスだ。永久の命こそが、人類の夢ではないのか。その夢が実現すれば、人は結婚も子作りも放棄するだろう。世代というものがどうして存在するだろうか、そのようなところに。そしてエロティシズムを謳歌するのだ。老化さえなくなれば、私は幸せになれるのに!

シッダールタは本当にふざけた野郎だ。回春を否定しているのだから。しかし彼の言うことろの生病老死、生は私が女の子として生まれてこなかったこと、男として生まれてしまったこと、そして遺伝子工学が未発達なために性転換がスムースにできないこと、病は失学園によるトラウマであり、また遺伝子工学の未発達により不治の病を克服できないこと、老はそのまま、遺伝子工学が未発達なために老化してしまう苦しみであり、死は遺伝子工学が未発達なために寿命が来てしまうことだ。そう、私の四苦は全て、遺伝子工学が未発達なために起こっているのである。だから、遺伝子工学の発達こそ、永遠の命、永遠の若さ、永遠の青春、永遠の学園を実現させ、私をどん底の苦しみから救うことができるのだ!ニルバーナは若さの回復によって達成されるのだ。

四苦八苦の一つである「生」に関しては、シッダールタはバカヤロウだ。障害児が生まれたら、それは障害児が過去に悪行を働いたから障害児に生まれたのであり、自業自得であるというのだ。つまり自分の過去世の責任だというのだ。そんな無責任な発言があるだろうか。このときほど、宗教が嫌いになったことはない。また自分でだれに生まれて来るか決めて来るという馬鹿なこともないだろう。障害児に生まれてくるのは不幸だ。どうすることもできない。私の知り合いに障害児を持っている方がいたが、その人に、
「あなたの息子は自分で障害児の人生を送ろうと選んだのですよ。あなたの息子は前世の悪い業のために、こういう体に生まれてきたんですよ」
とか面と向かって言えるだろうか。私は彼らにどんな言葉をかけらいいのか、全くわからなかった。ただ普通に付き合っていたが、それでもいつも辛い思いをした。もし私がパートナーに子どもができたとしたら、どうしょうかと思ってしまうほどだ。今の技術では出産前に既に障害児かどうかわかる。だから、中絶するかどうかの選択は女の人にゆだねられてしまう。私は子宮を持たないし、腹を痛めるわけではないので、中絶を勧めるだろう。だって、障害児として生まれてきたら、それこそ苦しみだけで終わってしまうのだから。セックスもできないんじゃ、女の子と遊べないんじゃ、青春も謳歌できないんじゃ、社会貢献もできず、ただ慈しみで生かされているんじゃ、それほど不幸なことはないであろう。だから中絶したほうがいいと思うが、女性は始めは中絶に賛成でも、いざ腹を痛めたとなると愛着が沸いて、考えを変えてしまうこともあるし。自分の子を危険にさらされたら、女性は理性を失うのだから。だから結婚はできない。子どもはつくりたくない、というか作らない。障害児を育てることになったら、しかも実の子がそうであったなら、それこそ私の方が気がめいってしまって、自殺するかもしれない。それに不慮の事故で障害者になったもの、それもとても不幸だ。そんな苦しみ、想像できない。尊厳死はあまりにも不幸だ。また事故で死んでしまったら、元も子もない。本当に魂なんかあるのだろうか。来世なんかあるのだろうか。天国なんか。それらが確かなら自殺してもいい。来世がもし本当にあるのなら、私は自殺するだろう、青春をまた来世で経験するために。今度こそ女の子とスキンシップを取りまくるんだ、ベッドの中で。しかし、来世は不確かであり、だれも証明できない。だから私は自殺できない。来世という概念自体、死に対する恐怖を慰めるために発明されたものであろう。しかし、過去があったとか、未来があったとか、そんな不確かなことはない、いや、ただ私には現在しかない。だから、現在、幸せになりたいのだ。しかし、この現在、遺伝子工学は未発達のままだ。そんな不条理なことがあるだろうか。もし老化してから、遺伝子工学が発達したらどうしよう。手遅れではないか。90歳のジジイになってから永遠の命を手に入れても、どうして人生を楽しめようか。よぼよぼのままで永遠の命だなんて。老人は身体障害者のようだ、なにをするにしても人の手助けが必要だ。介護される人生が永遠に続くダなんて。だから、今のうちに遺伝子工学が発達して欲しい。はやく、はやく、どうして未発達なんだ。このままではまずい。本当にまずい。焦りが私を苦しめる。ああ、こんして考えると、本当、この世は不条理で、苦しみだけだ。アニメしかない、理想の世界は。だったら、遺伝子工学、またはクローン技術で失われた身体の一部を回復できる技術を開発することである。

今のところ、遺伝子工学が未発達な世界では、私が若さを保っていられるのはアニメの世界だけである。アニメがなかったら、どうなっていたことか。早く遺伝子工学を開発して欲しい。なんで、21世紀にもなって、永遠の命の薬が開発されていないんだろう。若いままで、永遠に生きる、それは実現しないのか。とにかく、青春を取り戻したい。回春が私の唯一の望みだ。失学園はあまりにも辛い。そして瑞穂ちゃんにように、女装して、女学院で青春をやり直すんだ!レズビアンとして。セーラー服を着てやるぅぅぅぅ!!!口紅を塗りたい。だから、私はウォールマートの化粧品セクションで口紅を色々見ていたが、一人の若い女性店員にジロジロ見られたので、私はとっさに、
「いやぁ、ガールフレンドの誕生日にどのプレゼントがいいかなぁって」
と一目散にネズミのように駆け足でその場から逃げた。やはりサンフランシスコでなければ、男が堂々と化粧品セクションには立ち寄れないのだろう。こんな息苦しいことはない。自由の国アメリカでさえ、こんな社会的圧力が働くなんて。だからサンフランシスコにいずれ移住するだろう。ベルダージュになるために。そして自由を求めて。あそこはレズビアンのシティーであり、様々なライフスタイルのキャピタルでもあるのだから。

それに最近、レズビアンのメリッサ・エスリッジの「I need to wake up」のコード進行をギターで体得した。だから、この曲を歌いまくる、自分を女に変えるために。大佛はずむ君のように。I need to change myself to a woman. そのためには、女装である!

最後に、「この印籠が目に入らぬか!」というような錦の御旗さながらの飯田史彦氏のことばでこの記事を閉めたいと思う:
僕なんか、女性になりたくて仕方なかったですね(笑)。子どものころから、「女に生まれたかった」と、ずっと思っていたんですから。だって、女性として生きるほうが、なんだか楽しそうじゃないですか。(116項)だから、子どもの頃から、「女性で生まれたかったなぁ」なんて、うらやましく思っていたんです・・・「このストレスから解放されるには、どうしたらいいだろうか」と、男同士で話したことがあるんですが、「女性になるしかないなぁ」という結論になったくらいです(笑)。(117項)






参考文献:
飯田史彦 三砂ちづる『生きがいの女性論』PHP研究所、2006年



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【2007/03/28 00:28】 | ラント
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続編:

以下



その6 ババア

最近の出来事は本当にショックだった。それが、私にさらに追い討ちをかけるように、まるで俎上の魚のように万事休すであろうかというほどのショッキングなことだった。私は、ある日本人の女の人に会ったが、最初その人は「おばさん」だと思った。オクラホマでは全く日本人コミュニティーに関わらなかったので、とういか、日本人コミュニティー自体はおろか、アジア系コミュニティーはなかったので(小さいベトナム系町がオクラホマ・シティーにあったぐらいで)、ロスに引っ越してくるまでは、日本人のおばさんに会う機会はなかった。今まで会った日本人女性といえば若い留学生ぐらいであり、ババア言説とは無縁の生活をしていた。しかし、ロスにはやたらと日本人が多い。だから、久しぶりに日本の「おばさん」という人種に会うこととなってしまったのだ。しかし、しばらくしないうちに、話を進めて行くと、私と同世代ということだ発覚してしまったのである。うわ!と驚いてしまったが、さすがに表情に出すと失礼になるので、蛙の面に小便のごとく、平気な顔をして誤魔化した。しかし、心ではとてもショックで、動揺していた。

10歳以上も私より老いていると思ってしまったのはどうしてだろう。態度かなぁ、きっと。日本から出て、しばらく聞かなかったババアトークの話し方をあの人はしていた。懐かしいというか、不潔という感覚が甦り、吐き気がした。だみ声というか、まったく腹から発声させることなく、だらけた声で、しかもイントネーションがあまりも汚い。なにか、ウシガエルの「げろげろ」という鳴き声さながらの、汚い発声であった。若い時は絶対にあんな話し方ではなかったはずだ。さもないと、だれも男は近づいてこない。ましては結婚もできないだろう。だが、子どもはちゃんといるし、大きいダイヤをしているし、それなのに、どうしてこの人は、こんなに若いのに、もうすでにババアと化してしまったのだろうか。しかも、日本という腐り切った保守的な汚物で息が詰まるような土地ではなくて、自由の国アメリカに住んでいるというのに。

アメリカに住んでいたら、キャリアウーマンの国だから、他の女性に触発されて、自分をプレゼンタブルに保つことに絶対に努力するはずであろう。だから、ある一つの人種がコミュニティーを作って、そこで日本と変わらない生活をするのには全く賛成しない。まあ、本人の自由だが、アメリカに来てまで、日本の最も嫌な部分であったババア言説をアメリカという自由な国でブチまくなんて、しかもこんな身体的に若い女性が、信じられない思いであった。マドンナをぜひ見習って欲しい。彼女は48歳になっても、まだセクシーだ。しかも、また新しいアルバムも出したほどではないか。カリスマ主婦のマルサ・スチュワートが、ババアに見えるだろうか。American Idolの審査員、ポーラ・アブドゥールは44歳だが、いまだにキュートと評価され、10代、20代の男性ファンは多い。だが、この人はどうだろうか。ポーラどころかマルサのようなエネルギーが全くない。全くパワーを感じられないのだ。いや、よ〜く見てみると、この人の肌はまだ美しさが残っている。髪もまだまだつやがあるではないか。だから身体的には私とさほど変わらない年齢なのだ。だが、きっと、この人の声の発し方、態度、気、どれを取っても、倦怠感しか感じられず、本当にババアとしかいえないものであった。やはり「ババアは気から」というのは本当だったのだ。それにしても、どうして、あんな汚い話し方をするのだろうか。なにが彼女をそうさせたのか。とても不思議だ。
「やめろよ!」
とも言えないし。せめて腹式呼吸で話して欲しいものだ。それだけでもずいぶん違ってくるはずだ。まさかアメリカに来てまで、日本語の最も汚い話し方の一つであるババアトークを聞くハメになってしまったとは。やはりロスからは出たほうがいいようだ。日本の醜い部分を見てしまうのだから、ロスでは。私が子どものときのお姉さまたちより若いこの人は、すでにババアとなってしまっていたのだから。その事実は、あまりにもショックだった。

いやだぁ、私はおじさん、オヤジ、ジジイになりたくないために、アメリカに来たというのに、ロスに日本人コミュニティーがあるのは、本当に息苦しい限りだ。おじさんになるんだったら、いっそう死んだ方がましだ。ましてやジジイなんかになってしまったら、それこそ人生の終わりだ。還暦なんか迎える前に大量に睡眠薬を服用するだろうなぁ。一体何のために生まれてきたのかと思ってしまうよ。同世代の女の人がババアになりうる、ということは、もうジジイになりうるということでもあるのだ。石原慎太郎のように。あいつは「ババア発言」をしたというが、あいつだって、
「お前だってクソジジイじゃねえか」
と突っ込まれてしまうのだから、まったくおかしな話だ。だからジジイがババアの悪口を言っても、滑稽なだけだ。もっと若い女がジジイを批判したり、若い男がババアを批判するんだったら、まだわかるが。

そういえば、小泉はジジイ言説の破壊に大いに貢献したと評価している。政界ではクソジジイはなかなかやめないからなぁ。マッカーサーの「老兵、ただ消え去るのみ」ということばはあまりにも有名だというのに。だから政治は保守的になって息が汚物に詰まるのだ。だが、小泉の評価は、政党に定年制を敷いて、二人のクソジジイ、いわゆる政界のがん細胞というべき中曽根と宮沢を追放したことである。橋本が首相のとき、一国の新しい首相がどうして中曽根のような死に損ないのアドバイスを受けるんだ、ととても強い反抗心を持った。元老制度など、戦前で終わっているはずだ。年功序列制度がジジイ言説の元凶だったので、アメリカのように徹底的に平等にするべきだと思ってたので、小泉がサプライズ人事などで見事にそれをやってのけたので、ジジイ言説を政界から取っ払ってくれたのは実にスカッとした。ついでに石原のクソジジイも首にしてほしかった。あいつもジジイ言説を東京であたりかまわずブチまいているからなぁ。まあ、総理大臣には知事を罷免する権利はないようだから。アメリカでも大統領に知事の罷免権はない。そんなことしたら、それこそフェデラリズムに真っ向から反するファシスト中央集権体制で、国際社会の非難を浴びるであろう。どうせなら道州制をさっさと導入して、石原を追放すれば良かったんだ。それに日本のジジイはとにかくタバコ臭い。日本では酒とタバコがジジイの悪臭と体臭のヘドロである。しかも日本では8割ものジジイがタバコを吸うという。だから、酒とタバコに浸かってしまったら、それこそジジイへの一途をたどるだけだ。だから、私は酒もタバコもやらない(付き合いでやるときはあるが)。ジジイだけにはなりたくないし、永遠に若くいたいのだから。

でもオヤジ言説も排除してほしかったなぁ。オヤジ言説とジジイ言説、その特徴とは何か、それは女性蔑視に尽きる。なんで金権政治の最中にいた青木や、女性の総スカンを食らった山崎を永久追放にしなかったのか、理解に苦しむ。あいつだけにはやめて欲しいと思う人はいっぱいいるだろうに。北朝鮮問題でも余計なことをするし。まあ、そんな山崎のようなオヤジジイは「青二才」としか思っていない若者蔑視もあるだろうが、実に新しいものを受け入れにくい萎靡沈滞の輩どもなのである、文化的に。皇室典範改正はまさにそんな閉鎖的時代錯誤のオヤジ言説を打破してくれるものであった。安倍晋三は少なくともオヤジのようには話さない。素晴らしいことだ。彼と同年代の政治家はオヤジ的に話すというのに。また彼の閣僚もオヤジジイばっかだ。とくに柳沢は最悪だ。話し方もジジイだし、言説までもがジジイ。人間を機械だなんて。ポストモダンのガタリは『資本主義と分裂症』で、人間を機械性から解き放とうと訴えたのに。そして、今の新しい世代(90年代生まれ)は、ポストモダンの「ポ」の字にも接していないほど、新鮮だというのに、あんな時代錯誤なジジイをよく選ぶものだと安倍には不信感がつのるばかりだ。今は、機械文明ではなく、ゴア革命によって情報文明に変わったというのに。また管も「生産性」と出生率を表現するとは、我々は工場か!ピンクフロイドの『ザ・ウォール』の子どもたちが工場の機械に投げ込まれるシーンを思い出してしまったではないか。また小沢の側近の平野でさえ、女性に対する認識は柳沢と同レベルだと言っていたし、そんな奴らが政界にいるかぎり、日本はジジイ言説に支配されたままだ。そんな奴らを選ぶ大衆の心理も理解できない。まあ、選挙にまじめにいくのは、オヤジ世代が圧倒的に多いからなぁ。どうして若者は選挙にいかないのだ。でも、小泉の郵政選挙で若者の投票率がやっと上がってきたというし、それはポジティブだ。これからどんどん若者が政治参加して、オヤジジイ言説を排除してもらいたい。麻生太郎などもオヤジジイであろう、彼の発声は本当に悪く、まるでいい加減で、オヤジそのまんまの話し方で、あれでよく最先端の秋葉の若者の支持を得ているものである。それも、奴の話はだらだらと長く、聞いているほうが疲れる。よく、あれで、漫画好きと自慢できるものだ。もっと、アニメを観て、声優から学ばなければいけないのに。とくに「遮二無二やらなあきゃん法案でしょうか」と皇室典範改正に異を唱えた時は、奴を辞めさせるべきだった。何を考えているんだ、とあきれはててしまった、彼のジジイぶりには。しかもあのダラダラとした声を潰したような汚い話し方で。小泉のように腹から話して、勢いに乗って、簡潔に演説できないものか。小泉の演説は、私の師であり、俳優であるランスさんも評価している。小泉は演出に長け、舞台の成り行きがわかっている人だという。だから、若者の支持を得たのだ、あの人は。事実、私の元同僚であったサウジアラビアの若い子も、
「小泉さん、セクシーだね」
とうっとりしていた。つまり、小泉とセックスしたいということだ。私が、
「うちの首相は独身なんだよ」
というと、目を輝かせて、
「本当に!じゃ、絶対狙ってやる」
と笑っていた。このアラブの子だけではない。チリでも「東洋のリチャード・ギア」と称され、オランダでも女の子の野次馬が小泉を歓迎していたのだから。日本の首相で世界でこんなに人気があったのは驚嘆に値した。それに、小泉の演説をテレビで見ただけだが、赤羽の陸橋歩道が携帯で写真を撮る女子高生で埋め尽くされていたのは、本当に驚く光景であった。あの熱狂の中にいたかった。日本であんな特異な現象がおこるなんて。なつかしの赤羽駅、まさか大衆動員されるとは、想像できただろうか。劇場型政治。これにつきるぜ。アメリカ的な選挙戦術で、とても新鮮だった。まるで、我々はフットボールのゲームに酔いしれるようなものなのだから。青組か赤組か、だから選挙はエンターテーメントでもあるのだ。

まあ、それはともかく、私は小泉政権時、ずっとアメリカにいたから関係ないことなのだが。しかし、青春が失われたら、これからは、ただジジイになって行くだけなのか・・・、そんなのは絶対に嫌だ。私は同世代の女性がすでにババアになってしまったのをこの目で目撃してからというもの、全身が恐怖で震えている。私も、いつでも、このようになってしまう可能性があるのだと思うとさらに体の震えは激しさを増す。助けてくれ。年を取りたくない。老化をどうしても避けたい。私は、気ではずっと若いままであるという自信があるが、体がどうしても老化してしまうからねぇ、うぐぅ〜、どうしたらいいんだろう。60歳になったら、いくら自分はジジイではないと否定しても、周りから見れば、万人から見れば、ただの老いぼれだから、どうしょうもない。特に若い子にはジジイとしての扱いしか受けないであろう。そんなことになったら、それこそ悲劇というものだ。老化は悲しみしか生まない。老化の先にあるのは死だけなのだから。そんな悲惨なことはない。

それに、はたして女の子がジジイと恋することなど有り得るだろうか。きっと金目当てだけに決まっている。回春といっても、そんなことでは「春」は「春」でも所詮「売春」である。回春は永遠に手に入らない。だから、体が永遠に若くない限り、回春というものは絶望的であり、老人になったら売春しか道はない。寿命があと僅かしかないジジイが法律を犯してまで売春に手を染める断末魔の叫びにも似た破滅行為は、それは反社会的という前よりも、もしろ、あまりにも惨め過ぎる。だが、「売春」という定義も帰るべきである。売春はシュガーコーティングされた言葉だ。本当の売春は若さの回復を売ることなのだから、セックスを売ることとはまったく別であろう。セックスして若か返るわけないだろ!遺伝子工学による永遠の若さの発明、その技術を売ることが、本当の売春だ。だから、売春はまだ実現していないのである。女の子はジジイの体が欲しいのではなく、ジジイの持っている遺産である。ジジイは青春が欲しいのに、若い子そのものが欲しいのに。しかし、女の子はジジイを求めないので、ジジイの若い子とのセックスは援助交際としかいかないであろう。やはり身体が若くないと行けないのだ。身体も若ければ、女の子は、お互いに体を求め合うし、やはり青春とはそれであろう。しかし、オヤジ・ジジイになってしまったら、回春は永遠に失われてしまうのである。ファウスト博士もジジイのままで若い子と恋をしなかったし、ちゃんと若返ってから恋したではないか!その前に老化を食い止める技術はできないものだろうか。いや、できなきゃ駄目だ!絶対に!なにがなんでも!どうしても!


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【2007/03/27 00:25】 | ラント
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その5 アダルト・ティーネージャー

しかし、いくら子どものときから変わらないといっても、私はアダルトチャイルドということではない。子どもの頃は、お姉さまの舐犢の愛を受けたし。京都に住んでいた時は近所の魚屋でバイトしていたお姉さんにいつも毎日会いに行っていた。そして、抱きついて、その豊かな胸に触ったりして、
「どこ触ってんねん!」
と頭を叩かれたが、それでも、結局は思う存分触らせてくれた。ただもっともお姉さんの柔らかい部分がとっても気に入って触っていただけのことだから。
「お姉ちゃん、やわらかい」
と素直にお姉さんを褒め讃えていた。だから『舞-HiME』の京都美人のレズビアンである藤乃静留を見た時は、子どもの頃の思い出と重なって、本当に京都に帰りたいと思った。しかし、今そんなことすれば、痴漢で現行犯逮捕だ。とくにアメリカではセクハラには異常に厳しいので、社会から抹殺されるだろう、セックス・オフェンダーとして司法局に登録されてしまい、監視の目が光ってしまうのだから。思春期前は本当に良かった。だから、私の子ども時代に未練がましいことはない。マイケル・ジャクソンのように戻りたいとは思わない。充分楽しかったのだから。しかし、青春だ、青春を体験できなかった後悔が、私をこれでもかというほどに苦しめるのだ。あのまま女性とのスキンシップが続いていれば、私がここまで世界を呪うことはなかったのに。男が支配するこの男性原理世界。だから男性原理は私の最も忌み嫌うものであり、叩き潰さなければならないものだと信じるにいたった。ヒラリーが大統領になってくれればいいのに。しかし、このビデオと観てもわかる通り、期待を一点に集めるオバマ候補の支持者の中には、女性支配にネガティブになるようなイメージをまき散らす輩がいるとは、アメリカでは、まだセクシスト言説が根強いということであろうか。ヒラリーが『1984』のように、ビッグシスターとして大衆にセックスを禁止するということがあり得るだろうか。ビッグシスターは「お姉さん」であり、お姉さんは、セックスを禁止するどころか、「自由とは何か」というのを手ほどきをしてくれる女神だというのに。セックスを弾圧するのはビッグブラザー、いわゆる「兄貴」であり、男性原理主義のシンボルみたいな輩である。

しかし、セクシストの国家であったドイツにメルケル宰相が登場したのは、本当に嬉しいことであった。そして、男性至上主義の元凶である皇室典範を小泉が改正してくれるのをどんなに期待したことか。そして、前原代表(当時)も皇室典範改正を全面的に支持していたではないか。それが象徴的に男社会を粉砕するもの、いわゆるオヤジ言説とジジイ社会をブッ潰してくれると思っていたからだ。青春を絶望的にさせたのは、紛れも無く日本の下痢の貯蔵庫のような男性社会である。そして、思春期に男になる苦しみを一番、わかってほしかったのがお姉さま方だったというのに、肝心なときに、彼女らは私の前から去ってしまった。どんなに傷ついたことか!だから私はアダルト・ティーネージャーになってしまったのだ。アダルト・チャイルドは注目されているが、どうしてアダルト・ティーネージャーはほったらかして、しかも、木で鼻をくくるように、軽く受け止められて流されてしまうのだろうか。我々のも深刻な問題だということがわかっていないのか!我々だって、癒されたいんだ、バカヤロウ!

私が化け物にさえならなければよかったんだ。全ては、私が男になってしまったせいだ。男というだけで、女性は見知らぬ男に恐怖を感じる。生理的に受け付けないのだろう。端から見たら化け物だからなぁ、男というものは。わかるよ、その気持ち、私だって子どもの時はまったく小さくて、力がなかったから、化け物のような成人男性が巨人に見えてしまって、恐ろくて恐ろしくてとても近づけなかった。だから男を見かけた時は生理的にお姉さんたちに飛び込んで、守ってもらうとしていた。子鹿が母鹿の懐に飛び込むように。あんな化け物が暴力を振るったらひとたまりもないのだから、子どもにとっては。だから男は銃を所持してはいけないと思う。女性ならいいが。だって鬼に金棒ではないか、男に武装させることは。化け物に武器を持たせるなんて、そんなふざけたことはあるだろうか。しかし、私がその化け物に変身してしまっただなんて、とてもショックだ。男の脚はまさにウジャウジャした脛毛だらけで、胸毛はジャングルさながらにモジャモジャで、顔はヒゲゴジラで、顎は角張り、肩は化け物のようにゴツゴツして固くなり、年を取れば髪が抜け落ち、ビール腹となり、実に醜くなる。ああ、なんて絶望的なんだろう。本当、不浄になってしまう感じだ。だから、私は女の子のように華奢になりたい、そうすれば、女の子は安心するだろう。そうだ、男性も身体能力が女性と同じぐらいになればいいのだ。それなら、男の体に化け物のような脅威に感じることはないはずだ。レイプの危険性も感じなくなるだろう。それこそ、「安全」というものだ。いわゆる男の凶暴性を武装解除することだ。そうすれば、わざわざ猛犬のような男に守ってもらう必要はない。人間は野生ではないのだから、野生動物の脅威もない。だからそろそろ進化して男の凶暴性と体のゴツゴツも消え失せて、女性みたいに華奢で美しくキュートなってもいい頃だろう。女性を圧倒する不浄な凶暴性に満ちた肉体、それは野生ではない人間には無用の長物だ。

近頃は髪が薄くなってきたから、抜け落ちる前に長くしておこうと思う。ヒゲと脇毛とチン毛は日を追うごとに濃くなってきているのに、どうして頭髪だけは薄くなって行くのだろうか。頭髪を濃くして、その他の毛は薄くなって欲しいのに。女の子はいいな、ヒゲが生えてなくて。ほんと羨ましいなぁ。顔がすべすべで。だが、手で自分の顔を触ると、ザラッとするあの気持ち悪い感触、ただただ憂鬱にさせるだけだ。男になるということは、苦しみでしかないではないか。それに比べて、女の人は柔らかい。あのプニュプニュした柔らかい肌に触れたい、スキンシップを取りたい、そして自分のゴツゴツした肌の荒さの苦しみを忘れ去りたい。レーテの川の水のように。この苦しみを癒してくれるのは、女の子の肌の感触、つまりソフトネス、柔らかさだ!


「強い男に守ってもらいたい」
か。女性の動物的本能に訴えるなんて。我々はすでに野生には棲まず、文明を持ったのだから。動物とは違うのだ。だから本当なら男性の身体能力の高さは不必要となっているはずだ。退化していいはずだ。ペンギンの翼のように。というかペンギンの翼は退化というより、海という新しい生活環境に適した進化なのだが。だから、男も凶暴性を脱して、進化しなければいけなかったのに。いまだに男は凶暴な野獣として、ちっとも進歩がない。しかし、文明が発達すればするほど、男の凶暴性の存在価値が問われることとなる。だから野獣の脅威が同じ人間である男の脅威にすり替えられたのだ。そうやって男は自分の存在を正当化してきたのだ。女に捨てられないためにも。それが、男原理の始まりであり、「女性は守るもの」という馬鹿な言説が起こり、いつの間にか保護するものは支配するものという、保護欲求が支配欲に転化してしまったのだ。いわゆる過保護という奴だ。ムッソリーニがアルバニアを保護国としたように、日本が朝鮮を保護国としたように。つまり、女性の植民地化である。そして女性の貞潔観念も男の過保護というか支配欲による産物である。それらは廃棄物として処分されなければ行けないのに。

しかし、未だにイスラム文化圏では女性が結婚前にセックスすると、石打の刑に処せられるのだ。とくにイランでは、それが最もひどいという。そんなふざけた劣等極まりない下劣で野蛮な習慣など、ダニを潰すように踏みつぶしてくれないだろうか。イランは間違いなく悪の枢軸だ、男性至上主義という悪の根源の。ハタミ元大統領のような改革者でさえ、レジーム自体があまりにも硬直しすぎているので、改革は頓挫してしまうのだ。だからいっそうのことリジームを変えた方がいい。女性に対する不当な扱い一つ取っても、充分国連でイランの政治体制を変える決議ができるのではないのか。

だが、先進国のアメリカにおいてもそのような言説の類いは今でも女性を支配し、それら男の化け物から守ってくれる化け物と女は結婚したいと洗脳されているのである。もちろん、アメリカではよほどましだが、それでも男性原理がつくった結婚という制度を自由なはずの市民に押し付けているのだ。女は男に保護してもらい、従属するという言説を。だから、女は洗脳されて、いつの間にか、同じ人間である男の脅威から守ってもらいたいと欲するようになるのである。男は女をだれから守るか、それは野獣ではなくて人間の男だ。それぞ貞操観念の元凶だ。まさか、女の脅威から女を守るわけではないだろう。男はレズビアンの脅威を意識するわけではないだろう。男の脅威だ、女の敵は。そして男の敵は。化け物が化け物を退治する魑魅魍魎の世界、そして、女は化け物一人だけ信用して、その男とくっつく。だから一夫多妻制という化け物一人に多数の女という劣等極まりない野蛮な結婚制度が世界の結婚制度の主流なのである。まるでチンパンジーの大将のように。「お山の大将オレ一人」が男性至上主義のモットーなのだから。だが、その男が暴走したらどうするのだ。家庭内暴力を引き起こしたらどうするのだ。どうせなら、女性と結婚した方がよほどましだろう、化け物ではなくて。レズビアンなら少なくとも、致命傷になるような暴力の心配は一般的にはないだろうし。化け物が切れたら、それこそ制御不可能なのだから。まあ、女の人でも、格闘技の達人なら、切れたら危ないが。でも、女の子同士だと、基本的には喧嘩になっても、殴り合いになることはめったにないであろうから、それこそ理想な恋である。なにせ私は思春期に男原理が芽生えたために、お姉さまたちに捨てられてしまったのだから。男原理ほど憎いものはこの世にない。

しかし現実のお姉さまはどうであろう。私はかなりビクビクしている。もはやお姉さまは求めることはできないのか。なにせ、私より年上の女性は、子どものときのように憧れることが身体的に不可能となってしまったからだ。私でさえ髪の毛が薄くなってきている。だったら、同年代の女の人も私と同じく老い始めているわけだ。それより年上であるお姉さんは、もはや今ではもう・・・。だから彼女らとは永遠に会えない。ダンテの9歳のときの恋人は、天国にいた。現実世界ではない。そこで再会を果たしたのだ。そこが、「神曲」のポイントである。アートの世界、妄想の世界、そこがアニメのいいところであり、現実逃避を可能にさせてくれるのだ。


つづく



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【2007/03/26 00:26】 | ラント
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その4 女学園は女楽園

それにしても女だけの楽園はないのだろうか。リリアン女学園か、いいな、私だって女の子になりたかった。男というだけで、避けられること、こんなにハートが傷づくことがあるだろうか。だって、見られただけで、さっとあっちが身を引いてしまうんだよ。そんなに辛いことはない。だから成人の男だけにはなりたくなかった。子どものころは、こっちがお姉さんを大好きだと思うと、お姉さんの方も、こっちを好いてくれた。そして、
かわいいー!
となでなでしてくれたのである。彼女らには私に対する恐怖心は全くなく、全てを受け入れてくれたのだ。見知らぬ女性に声をかけようが、
坊や、ぼく、どこからきたの?
としゃがんで話しかけてくれたのに。そして、女性はかならず笑顔で、接してくれた。だが、今、女の子に大好きだという感情を見せると、彼女らは一目散に逃げてしまう。どうしてだろうか。こんな不条理なことはあるだろうか。資本主義に洗脳されたのも一つだろうが、私の体が思春期を経て、化け物となってしまったために、その肉体的圧迫感に恐怖を抱き、逃げてしまうのであろう。男が暴力を振るったら対処できないからね、普通の女の子は、拳銃を持っていない限り。化け物だらけの世界に生きている女の子たち、だから夜は一人で歩けないのだ。女が夜道を歩く時は何に怯えているか、それは何を隠そう、男という化け物である。そして男と同居している家に帰り、安心するのである。男に怯えて男に助けを求める、これほど奇天烈で異常なことはない。

だが、女の子はレズビアンの脅威も感じないのだろうか。私は『Strawberry Panic!』で女性が女性を襲うシーンを観た。なるほど、女性も凶暴なんだなぁと思った。それに現実の世界でも、カトリーナの時のテキサスのゲイバーで、超セクシーなレズビアンが私の友だちをしつこく口説こうとするところも見たし、もし周りにだれもいなかったなら、襲っていたんじゃないかと思うほど、アグレッシブであった。
「私を襲って〜」
と内心うらやましくて、ぐふふっと笑ってしまったが。しかしこの世界に男は存在せず、皆、女の子だけであったなら、一人で自由にできるであろう。少なくとも野郎のように暴力には至らないと思うし。私はスペイン映画の『Belle Epoque』を観たが、スペイン内乱のときの、ある田舎の4姉妹の家に脱走兵の若い男が逃げ込んできて、居候させてもらうという話だが、そこの姉妹は若い男が来たということで、欲情してしまい、次から次へと、その男を今まで溜まっていた性欲を一気に発散させるかのごとく、ファックしてしまうという・・・うぐぅ〜、まさにメイド・ゲームにありそうな典型的な設定だが(例はこちら参照:18歳以下は見ないこと)・・楽園そのものだった。4姉妹が4人掛かりで男に襲いかかり、男は抵抗も空しく、押さえ込まれてしまって無理矢理女装されてしまうというのも、
「くわー、たまらねえ!」
と叫ぶしかなかった。やはり男一人では多勢に無勢であろう。それこそ女楽園であった。女の園に迷い込んだ男は、そんな素晴らしいことが待っているのだ。私も高校のとき、女子バトミントン部の合宿所で、新入生の男が襲われそうになったという噂を聞いたことがあった。その男は華奢で、少なくとも私のように化け物には見えなかったから、女の子の標的になったのだろう。性格も強く主張することがなくて、おとなしかったし。
「あそこには近づかない」
と言っていたからなぁ。私だったら喜んで毎日通っていたのに。だから、いろんな理由をつけて合宿所に行って、バトミントン部の女の子と話したが、結局何も起こらなかった。「噂を信じては行けない」ということわざは本当だったのだ。だったらいっそうのことスペインにでも行こうかなぁ。でも、男は基本的に化け物だし。でも、男という化け物は女がいる限り生まれて来るだろうし、それもそれで皮肉なことだが、とにかく日本も銃を手に入れるようにすればいいのに、そうすれば女は化け物に頼らなくていいし、夜一人で歩いても、化け物が襲ってこようが撃ち殺すことができるのだから。だって、化け物を撃退するために化け物に依存して化け物を武器として使うより、自分で武装して化け物を撃退するほうが遥かに自立しているだろう。最近では、女性も軍隊に入るようになったのだし、ミリシアにも女性の参加率が増えているのだから、望みはある。化け物をたよりにせず、自らをたよりにする女性が増えてくることは確実であろう。「杖に縋るとも人に縋るな」といういうように。アメリカでは「銃に縋るとも男に縋るな」というのが、これからの生き方ではないか。したがってシッダールタの「この世で自らを島をし、自らをたよりとして、他人をたよりにせず」という言葉を、日本女性よりアメリカの女性の方が実現していっているように感じてしまうのは、私だけかなぁ。

ああ、この男になってしまった体がいけないんだ。思春期になったとたんにお姉さまたちは私に冷たくなった。というか、相手にしなくなってしまった。男になったというだけで避けられたんだ。もはや、
女の子みたいでかわいい
とはだれも言ってくれなくなった。中学に入った私は、黄色い帽子とランドセルではなく、長かった自慢の美しい髪も丸刈りとなり、学ランなってしまったのだから、男に生まれ変わってしまったのであり、女の子みたいなフェミニンな子どもとしてハッグする存在ではなくなってしまったのだろう。子どもの頃は、それこそ女の子っぽかったというのに。私の髪は自然の茶色で、柔らかくて、長くて、フェミニンたっぷりと溢れていたのに。しかし、今では髪は黒々となり、固くなり、汚くなって、しかも、前頭葉部分の髪は薄くなってきている。私自身は子どものときから変わらないのに。どうしてスキンシップをとってくれないんだろう。正直言って、体だけだ、変わったのは。イエスだって、子どもの心のままでなきゃ、天国に行けないと言っているではないか。そういう意味で、私は常にピーターパンであろうと心掛けているのに。やはり人間は外見、というか体が基本だからね。精神と肉体というキリスト教的な二元論自体、間違っているのかも・・・。本当は体だけなのかもしれないのにね。やっぱ精神という概念は、朽ち果てて行く肉体の現実から逃れるために、発明されたものかもしれないね。精神なんて神経の伝達作用だけだ。植物状態だったテリー・シャイボに精神があったといえるだろうか。まあ、それはさておき、共学の中学に行かなければよかったものを。女学園に入学したかった。乙女の園に。処女の園に。メイデンの園に。ヴァージンの園に(ヴァージンは差別用語か?)。未婚女性の園に。女学園は女楽園なのだから。ガールズ・スクールはガールズ・パラダイスであり、ガールズ・スコレーなのである!

処女を意味するヴァージンは「virgin」であり、ラテン語の「vir(男)」と「genere(作る)」が合わさったものであり、「男のために作られた」という男性支配を正当化する単語であるのだ。だから、メイデンという単語を使おう。メイドブームの「メイド」も「maid」であり、「maiden」と同形であり、それはもともと「未婚の人」という意味であり、かつては男に対しても使われていた。中世イギリスの文豪チョーサーもイエス・キリストを「メイド」と記している。しかし、いつの間にかメイドは女性だけを意味するものとなり、旧姓は英語で「メイデン・ネーム」であり、男の旧姓は同じ使われ方をするのか、疑問を持つのである。まあ、私はメイデンを「未婚」ではなく「非婚」と定義するが。離婚すれば、メイデンになれるのだから。つまり結婚していなければ、処女、または乙女なのである。

そして結婚するまでは天の父である神の所有物であるため、神しか非婚女性にタッチできない。つまりキリストが神の子なら、処女マリアとセックスしたのは神なのだから。しかし、こういう考え方もある。もし結婚前にセックスできるのは神だけだとしたら。だったら皆結婚せずにセックスすれば神になれるということだ。いや、非婚女性とセックスできる権利は神だけが有しているとしよう、だが神が非婚男性とセックスすることは聞いたことがない。つまり、キリスト教では非婚男性が非婚女性をやって神になれるが、女性が非婚男性をやっても神になれないのである。しかし、キリスト教の中で女性も神になれる方法がある。それは、レズビアン・セックス、つまり女同士でやることだ。そうすれば、女は非婚女性をやれるのだから、神になれるのであり、両方とも非婚なら、双方とも神となれるのである。そう、妖精キンナリーのごとく。

したがって、セックス遊戯に浸かる小悪魔的少女の「ロリータ」は、男や女を神にさせる。またロリータもレズビアンを通して神となるのである。そしてマリアはイエスを失って再びフリーとなった。つまり自由となったのだ。つまりイエスという子を亡くして悲嘆に暮れる「悲しみのマリア」いわゆる「Maria de Dolores」という名前が、「Lolita」の本名なのである。「ロリータ」とは、ドロレスを短縮した「ローラ」の女性指小辞形なのである。だから、息子を失った悲しき女性が本来のロリータなのである。キサー・ゴータミーのような。だからロリータであるマリア様とのセックスが人を神にさせるのである。非婚女性とセックスすることが、神の特権なのだから。だからキリスト教では、ゲイ・セックスでは絶対に神になれないのだ。つまり人が神になりたければ、非婚のままでヘトロかレズビアン・セックスをすればいいことなのだ。

またナボコフのロリータは年齢が12歳から14歳と推定されるが、ユダヤ教ではバーミツバという成人式が13歳で行われるので、聖母マリアもヨセフと結婚したときは、そのぐらいではなかったかと思われるのである。そしてイエスを出産したときも、たぶん14歳から15歳と推定されるのだ。だからイエスが33歳で死亡したとき、マリアの年も47歳ぐらいであり、今のマドンナと同じ年と推定されるのである。だから当時のヘブライ社会では、まさにナボコフのロリータの年齢は結婚適齢期だったのだ。さすがに、今ではそれは犯罪だが。

つまりロリータというのは、子がない女性のことである。出産する前の女性か、子どもが死んで、元母となってしまう女性なのである。どちらにしてもロリータには子がない女性なのである。それはミケランジェロの『ピエタ』に象徴されているのだ。そしてナボコフのロリータは妊娠して母になろうとしていたため、もはやロリータではなくなるため、死産した。つまり子を産むことは死ぬことである。自らに絶望してしまったために、子どもに未来を託すのである。子は将来を生き、自分は死んで行くのだから。だから子どもを持つことは死を覚悟することでもある。だから、子どもを持たなければ、死の覚悟の必要もないし、永遠の命を望むことも可能であろう。それに、もし、永遠の命を手に入れたなら子どもなどいらないだろう。キリストは世代間をつなぐことはなかった、彼は不死身になったんだから。つまりマリアはロリータとなったときには聖母でなくなり、メイデンに再び戻るということである。子の呪縛から解脱した人こそ、永遠の命とセクシュアリティーを手に入れることができるのだ。そういう意味では、『ピエタ』はまさに、「子は三界の首枷」から解脱したマリアが再び自由の境地であるロリータに返り咲いた瞬間であった。

そういう意味では、リリアン女学園の恋はまさにレズビアンであり、出産させる危険な男が当然恋の対象としては出てこない。つまり、レズビアンとのセックスで母になることはまずない。だからレズビアンは永遠の若さの泉なのである。よってレズビアン・セックスが女性を若くさせるのだ。それこそがレズビアン・カトリックの肉と血であろう。メイドとロリータ、いわゆる非婚女性である乙女、それには結婚が邪魔だ。よって、結婚制度そのものを潰せば、全ての女性がメイド、またはロリータとなり、女神となり得るのだ。死の家である既存の教会権威が築き上げた結婚、それを破壊することが、メイド革命を実現できるのである。メイド・パラダイス、メイド喫茶、メイド・ガーデン、Garden of EdenではなくてGarden of Maiden、女学園、それらはロリータ学園であり、女楽園だ!


つづく



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【2007/03/25 03:15】 | ラント
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続編:

以下



その3 雌鹿

それにしても女の子は大変だ。我々化け物を育てなければならないのだから。野生ではメスの方が強いことが多いのに。だから、動物の世界では女が化け物で、男はただ子孫を残すためだけにあるような存在であることが多いのだ。セックスをし終わったら食われてしまうのだから。それに動物界で一番凶暴なのは子どもを守ろうとする母親だ。私も奈良の東大寺で鹿に襲われそうになった。あの時はさすがにビビってしまい、仏教の寺のプロトタイプといわれる鹿野園が嫌いになった。サルナートにはとても巡礼できないなぁ、鹿が怖くて。とくに子持ちのメスの鹿が。だから、子持ちの女性には、いくらセクシーといえども、その子どもの時の雌鹿の攻撃の恐怖がインプリントされてしまったせいで、欲情することができなくなったのだろう。フェミニストには、
「女性を動物のメスと見なすとは、なにごとだ!」
と叱られるかもしれないが、自然の母の驚異を感じてしまったからには、既往を咎めずであろう。私は雄ライオンと言われるかもしれない。ライオンの雌は子どもを殺されない限り発情することはないとされるが、だから新しい雄のリーダーは子どもを皆殺しにして、雌とセックスするのである。しかし、私はライオンとは違い、子持ちの女には興味が失せてしまう。既に母親になった女は恐ろしいからだ。それは、言うまでもなく子を持った母の死の覚悟である。その覚悟に私は恐れ入谷の鬼子母神となってしまうのだ。とくに子どもを危険にさらされた母親は理性を失う。それは、かつてクリントン・ゴア政権で「サッカー・マム」だった母親たちが(女子サッカーワールドカップでアメリカ代表が優勝し、アメリカで女子サッカーブームに火をつけた、ゴアの娘もサッカーにハマったという)、911テロの後には「セキュリティー・マム」となり、ブッシュを妄信的に支持してしまったことでもわかるだろうね。

しかし人間の女は鹿と違って自分を守ることは男に任せっきりだ。なぜなら見知らぬ男は化け物であり、そのためには同じ化け物に守ってもらう必要があると思い込んでいるからだ。この世は男性という化け物が支配する男性原理社会であるため、男を必要としないシングルマザーの人口は極めて少ない。またメリッサ・エスリッジのようなレズビアン・カップルで子どもを育てるというライフスタイルは化け物どもが許さないのである。化け物は独立したがっている女性に、
「オレらのプロテクションが必要だろ!」
と化け物の保護を強要するのである。いや、化け物というより、凶暴性むき出しのチンパンジーか、だからブッシュはまさしくチンパンジーのお山の大将である。それはチンペリアリズム(チンパンジーとインペリアリズム[帝国主義]をかけたもの)だ。だから、その化け物言説に洗脳されてしまった人間の女はメスの鹿のようには、自分で身を守ることはできないし、チンパンジーのように、男の群れのボスであるブッシュにすがったのである。ビンラデンというオスに怯えて。女性は格闘技の達人でない限り、どんなに弱っちい男にも押さえ込まれてしまうであろう。暴力を振るわれたらおしまいである。私はただ道を歩いているだけで、男というだけで女性に避けられるのだから。いわゆる身体的なハンディが女性を怯えさせてしまうのであろう。だから女性はドーベルマンのような猛犬みたいな男を飼うのであり、散歩する時は、いつも猛犬がそばにいる。どうしょうもないDQNGoonsなどの野獣としか思えない凶暴な男に女が恋愛してしまうのも、その生物学的な本能によるものだろう。そうでなければ、もっとましな私のような男を選ぶはずだ。だから女性は一人では出歩かないのだ。だから、女性が「一緒に帰って」と男に頼むのも、彼を猛犬として扱っているのである。他の猛犬を追い払うために。「セキュリティー、セイフティー、プロテクション」猛犬はこのどれも満たしてくれるが、しかし、それは何からのプロテクションか、それは何を隠そう同じ猛犬からである。猛犬をもって猛犬を制す、なのである。


つづく



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【2007/03/24 00:13】 | ラント
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金木犀
ヘルメスさん、美姫ちゃん世界フィギアで優勝したよ!
http://sports.yahoo.co.jp/extra/worldfigure_2007/

ミキティー!
ヘルメス
ああ、ありがとうございます、金木犀さん。

ずごい!愛しのミキティー、やりましたね。でも、残念ながら、映像を見れないのが、辛いです。日本だったら、絶対に生中継で見れたんですけどね。こういう国際舞台の中継って、日本のほうがだんぜん発達してますよね。ミキティーも今年で成人なんですね。なんで、彼女より年下じゃないんだろ。年下だったら現実の世界で絶対にお姉さまにしたい人ナンバーワンなのに。青春を返せ!

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続編:

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その2 Tin Drum

だったら子どもの体のままで、女性に化け物として恐れられない体であったなら、性欲があっても大丈夫だったはずだ。実際、あるアメリカ人の若い子は、キュートな男にはメロメロということがあった。
「こいつなら危なくないだろう」
ということで、セックスに誘うことがあるのだ。恋愛するのは強くてスポーツができて、金のある男、しかし、性欲を発散するのはキュートな、危なくない、女性のセクシュアリティーに圧倒されてしまいそうな女々しくおとなしい男がターゲットとなることがあるのだ。私はそれを目撃した。しかし、私の場合は、顎はごつごつしていて、いかにも化け物、超男っていう感じだから、まったくそんなことはなかったが。ああ、私もどんなに襲って欲しかったか。
「ここにもキュートな男はいるんだよ!」
と叫んだが、その叫び声はだれにも届かなかったようである。なんでいつもいろんなことが私の目の前で起きて、肝心の私自身には起きないのだろうか。私はただ爪の垢を煎じて飲むしかないのだろうか。そう、美女の垢を。それでも一応、間接セックスなわけだからね。なんて惨めな・・・。

キュートな、ショータコン的な男か。その究極の作品はドイツ映画の『Tin Drum』であろう。あれは、ヒットラー・ユーゲンドの主人公が16歳になっても体が小学生のままで、辛い思いをするという物語だったが、それでも思春期の金髪碧眼の純粋なアーリア人の女の子の性欲の対象になったことは、「おお、神よ」と喚き散らしてしまうほど、素晴らしいものであった。やはり、たとえ性質の優しい女の子といえども、自分より力のないものはセックスのペットとして扱いたいという、人間の醜さを露呈していた。と、同時に、私は羨望の目で見ていた。
「人権蹂躙は許せない、しかし私も体を玩ばれたい」
と矛盾した心が入り乱れて、玩物喪志の女の子に、
「女神さま!」
と崇拝する始末だった。アメリカの女の子が、
「あたしのセックスの奴隷にならない?」
と男に要求することもあったし、私は、
「なんでオレにはだれも訊いてくれないんだ!」
とムカついた。私は奴隷制は反対だ。私は人権主義と自由のために政治参加してきたようなものだ。しかし、奴隷制は否定しても、かわいい女の子の奴隷になってみたいという欲望は否定できない。人間の心というのは矛盾しているものなのだ。だから、子どもの体のままで、それか女性に危険と思われない体で、交わりたかった。だが、私は残念ながら、端から見ても男になってしまったのだから、それは「山の芋、鰻になる」という、到底叶わぬ欲望である。

だから、大人になりたくなかった。そして思春期は残酷にも私の体を男にしてしまった。もはやお姉さまたちにタックルできない。この化け物と化した体でタックルなどしたら、お姉さまは大怪我をするだろうし、婦女暴行罪で刑務所行きだ。思春期前までは、女の子のほうが腕力が強かったのに。だから、思春期前に女の子と喧嘩して、ぶっ飛ばされたこともあった。だが、大人となってしまった今、格闘技の達人ではない限り、女の子は相対的に男性に対して腕力が劣ってしまう。だから、タックルはできない。女性より身体的に強くなってしまったことが全ての元凶だろう。もし、チョウチンアンコウだったら、メスはオスの10倍以上の大きさだから、それだったら、思いっきりタックルができるのに。しかも海底で。でも、蜘蛛とかカマキリは、セックスしたあと、メスに食われてしまうんだってね。いやだなぁ、それも。やっぱり人間の女の子が一番いい。綺麗だし、可愛いし、優しいし、柔らかいし、ソフトだし。


つづく



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【2007/03/23 11:01】 | ラント
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さあ、お姉さまとのスキンシップを喪失した愚痴を一気呵成してやる!もはやこうなったら、竹屋の火事だ。



その1 聖母マリア様

お姉さま、私の永遠のスール(お姉さま)である小笠原祥子さま、私も抱きつきたい。どうしても。『マリア様がみてる』、どんなに憧れただろうか。祥子お姉さまが一年生の歓迎会でオルガンを弾く姿、ステンドグラスの光を浴びて、その華麗さは、私は、
「はあ〜」
となって、まるで本当にイエスがこの世に存在していた証とさえ、感じてしまい、ジーンとなってしまった。主人公の祐巳ちゃんが、あそこまで憧れる気持ちは全く同感なのである。ああ、祐巳ちゃんが羨ましい。私は祐巳ちゃんに自分を同化させ、いわゆる自己投影させてこのアニメをずっと観ていたから。あのバッハの曲をベースにしたグノーの「Ave Maria」は最高に美しかった。そのシーンはここで見られる。7分35秒からである。特にステンドグラスから発せられる七色の光を浴びながら明眸皓歯な小笠原祥子の弾くオルガンのAve Mariaは言葉にできないほど優雅であった。まるで私のこれまでの人生が全て罪で覆われていたような気持ちになって、マリア様の前で懺悔して、
「これからは正しく生きて行きます。」
と誓おうかと思ってしまったほど。心の中まで純化されるんじゃないかというような、子供の時のような無垢な心に回帰するというか、いつの間にか涙が溢れ出てくる。
「どうして泣いてるんだ、オレ・・・。」
そんな心境である。私は普段は無神論者だが、こんな素晴らしい音楽を聴いた時は、天使アンギーラサが舞い降りてくるようで、本当に神は存在するのではないかと錯覚してしまう。ラテン語によるAve Mariaは最高無比である。効能書きの読めぬところに効能ありと言うが、まさにその通りだ。一応ラテン語の意味するところを理解しているが、やはり神聖さを感じずにはいられない。まるで梵我一如を音楽によって体験するかのようだ。G線上のアリアといい、アヴェ・マリアといい、バッハはまさしく「音楽の父」であり、神がこの世に示した奇跡だー!

そしてロサ・ギガンティアが祐巳ちゃんを後ろから抱きつくシーン、そしてキスするという。そのシーンはこちらで観られる。4分48秒からである、衝撃の映像。私はただ、
「きょきょきょきょきょぎがががががぁぁぁああ!!!!」
と三浦カズが98年ワールドカップ予選のウズベキスタン戦でゴールを取ってから見せたロボット・ダンスの状態となってしまった。また手を胸の谷間に突っ込んで無理矢理ロザリオを奪うシーン、私の心臓は爆発すると思った。その映像はこちら、35秒からである。私はドッキンとなり、アンパンマンのドキンちゃんの効果よりも、相当ドキンときた。ああ、祐巳ちゃん、本当にいいなぁ、私だって、祐巳ちゃんになりたい。セーラー服を着て、リリアン女学園の一年生になりたい。そしてお姉さまたちに抱き締められたい、スキンシップを取りたい、そしてキスされたい!16歳に女の子として戻りた〜い!そして学園生活をやり直したい!そしてお姉様方に愛撫されたい。そんな素晴らしい学園生活が過ごせなかったなんて、ほんとうに不幸だ。失学園、それは私にとってあまりにもショックであったし、トラウマとなっている。

私が最も神に近づける瞬間はパイプオルガンによる教会音楽の演奏の中であろう。だからドイツのカトリック教会の大聖堂でパイプオルガンによるバッハの曲の演奏を鑑賞することが私の夢だ。以前、ドイツに行った時はそれが叶わなかった。だからとても後悔している。私はそれによって神を体験したいのだ。そして、もちろん、ドイツの大聖堂のパイプオルガンは、祥子お姉さまに弾いてもらいたい!

ああ、祥子さまとのスキンシップ、どんなに渇望しているだろうか。私は子ども時代、お姉さまたちのスキンシップで育った。後ろから抱きつかれたこともあったし、私もお姉さまたちに思いっきりタックルして飛び込んだこともあった。子どもは全力を振り絞って飛びつこうと、大の大人はビクともしない。だからお姉さんにタックルをしても、私の全身を受け止めてくれたし、頭をよしよしと撫でてくれたのだ。お姉さまのいい匂い、きっと香水の匂いだったのだろう。石けんの匂いか。お姉さんの懐で深呼吸をしていたし、その後はお昼寝の時間で、すやすや眠れた。保育園のときも、実は私の保育園はカトリックだったのだが(だから私はレズビアン・カトリックを建てたいのだが)、そこのお姉さんがとても美しくて、いつも脚に抱きついてはぶら下がっていた。そして昼寝の時間はしっかりとビターとくっついていたのだ。そして、幼稚園では、お姉さんの腰の辺りを掴んだり、なにしろ背丈がお姉さんの腰当たりぐらいしかなかったので、後ろからお姉さんのプニュプニュの柔らかいお尻に顔をくっつけたりしていた。またはお尻に向かって走って頭突きなどもしていた。そう、アユアユが相沢にタックルするように、私もお姉さんたちに思い切り走って、
「たー!」
と叫んで、タックルしていたのだ。そう、神風特攻隊のように、お姉さんたちに頭から突撃していたのだ。やはり、大好きな人には全身を受け止めてもらいたいじゃん。
「お姉ちゃん!」
とダッシュして、懐に飛び込むのだ。窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず、であろう。

しかし、青春期に達したときは、新しい欲望が開発され、ただスキンシップだけでなくて、どうしても女の子と交わりたくなった。今度は頭で突くのではなく、亀の頭で突きたかった。それこそが究極のスキンシップだと直感した。というか、悟りであった。だから、私は亀になりたかった。亀はアキレスよりも脚が速いのだから。エロスパワー炸裂だ。「鶴は千年、亀は万年」というではないか。亀は世界でも縁起のいい動物だし。世界不思議発見でも紹介されていたが、岡山県の熊山遺跡の石蓋の中には、ヒンドゥー教のシバ神の亀頭を象ったリンガのような物体が発見されているし(参考はこちらのサイト)、そしてボルブドゥールの地域では古代の棺は亀の形をしていたそうだし。つまり人々が葬儀で思い石棺を運ぶために石棺にロープを引っ掛けるところが変化して、亀頭になり、棺全体が亀になったという。つまり亀頭は未来を切り開く象徴なのだ。その頭によって、私は頭突きしたかったのだ。そう、「太陽の季節」で障子を突いたように。私の頭突きの対象はお姉さんのお尻だったが、思春期に達したとたんに、肝心のお姉さんたちが消え去ってしまい、同級生の女の子には亀男になった私は化け物だと思われ、青春を過ぎてしまった今、このまま行けば挙げ句の果てにはドラゴンボールの亀仙人のようなジジイになってしまう!そうなるんだったら死んだ方がましだ!スケベジジイをだれが好きになろうか。ジジイだけで女の子に嫌われるのだから。そんなジジイにならないように、青春を謳歌しておきたかった。学園生活をエンジョイしたかった。しかし、性欲が芽生えたとたんに女の子とのスキンシップを失うなんて、とてもショックだった。それはあまりにも不条理なのではないのか。失学園はあまりにも厳しすぎた。私には生きる希望は微塵にも残らないだろう、回春が可能にならないかぎり。


つづく



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【2007/03/23 10:57】 | ラント
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