NAFTAでのキモヲタのソナタ
さあ、今回初めてラントを書く。以前にもそれに近いものは一つ二つぐらい書いたことがあったか。ハロウィーンの前日ということもあって、ラントというカテゴリーを新たに追加した。ラントとは英語の「rant」であり、「不平、不満、愚痴、わめき」という意味である。感情を爆発させるには良いところであろう。まあ、文章は支離滅裂になるだろうが、それがラントというものだ。アメリカのブログではラントが広く書かれている。だから私も英語のブログでよくラントを書いている。だが日本語でもわめき散らしたいと思う。では、早速書き始めよう。

以下ラント:


畜生、Rめ、私の元親友(今でも親友かな?)であるRに久々に会うこととなった。彼は週末の休暇を使ってロスに遊びにきたのである。彼は私の元ルームメイトであり、サンフランシスコに移り住んでからというもの、素晴らしい業績を挙げ、来月には昇進すると言う。アメリカ新自由主義的資本主義社会で勝ち組の階段を着実に上っているのである。いや、階段を上るというより、命綱なしのロッククライミングと言った方が良いだろう。それが自然淘汰の原理が働くアメリカ帝国資本主義の競争社会なのだから。Rはとにかく女にモテる。私はそれを嫌というほど目撃したし、そのことは以前記事にも書いた。Rめ、いろんな女とやりやがってー。なんであんな簡単に女の子を落とせるのだろうか。それに女の子もそこそこ可愛いではないか。やはり良い仕事を持っているからだろうか。遊びに使えるほどの余裕が持てる報酬をもらっているのだろう。IT関係だからなあ、それは最先端だけあって、給料も良いはずだ。
「男は金じゃねー、心だー!」
と私は長年叫んできたが、アメリカ資本主義社会ではどんなに容姿が良くとも、お金がなければデートできないのだ。経済力のない男はどうしろというのだ。それはそうだ、大都市で映画に行って、ベースボールを見て、良いレストランで食事をし、酒場に行って、デートしたら、簡単に100ドルを超えてしまう。それにアメリカ消費社会では男がいつもおごるので、どうしょうもない。女性だって経済力をつけてきてるんだし、少しは女性から率先しておごらないと。また割り勘でも良いではないか。アメリカのフェミニズムは偽りだ。未だに女性の意識が男性至上主義のままだ、恋愛の面では。おごらせる女はもはや時代錯誤だということを啓蒙しなければならない。

Rは、私の親友だと思っていたのに。彼のどれだけたくさんのセクシーな女と寝たかという自慢話は私をひどく不機嫌にさせた。まるで成功者としてのトロフィーのように喜色満面でそのことを話すのだ。彼の行き過ぎた自画自賛は傲岸不遜としか受け取れなかった。セックスしか頭にない男は嫌われるはずなのだが、映画やアニメを見ても、モテる男は優しくて思いやりのある人間である。だが現実は違うのだろう。金のある男がモテるのである。金さえあればモテるということだ。荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、それが現実だ。男の最大の魅力は経済力なのだ。彼との会話でこの事実が千の刃物となって私の胸に突き刺さった。私だってヨットがあれば、女の子を誘うことが出来たのに。だがこのアメリカ資本主義での生活、まったく光が見えてこない。私と女との距離がどんどん遠くなって行くようだ。すぐ近くに星の数ほど女はいる、だが、物理的には近くとも、心理的には彼女らの位置はエヴェレストの頂上のようだ。

Rとの会話では、ただ嫉妬心が渦巻いていた。これほど嫉妬したことは空前絶後と言ったら嘘になるが、それでもこれほど嫉妬したのは今年になって初めてだ。いやー、サンフランシスコはゲイ・キャピタルでもあるから、ロスのように表面的ではなく、より内面的と聞いていたのだが。しかし、花より団子に見えたサンフランシスコがこうでは、救いようがない。私が追いかけていた最もリベラルなメトロポリタンは蜃気楼に過ぎなかったのだ。いっそうのこと、原爆でも落とせば良いのではないか、ソドムとゴモラのように。やばい、ムスカみたいなこと言っちゃった。今のは冗談。まあ、とにかくRがモテまくって、私がモテないなんて、そんな不条理なことは世の中にないであろう。そんなことは断じてあってはならない!だから人間関係は嫌いだ。私の思い通りに世の中は進まない。選挙でも、私の投票した候補者は落選するし、どうなっているんだ、一体!。こんな残酷な資本主義システムを少しでも慈悲的にするのが主眼であるというのに。敗者復活制度を整備しないのはどういうことだ!。

Rめ、彼は快楽に耽り過ぎた。いまこそ釈迦のように出家するべきだ。釈迦だってやり過ぎが原因で出家したのだから。情欲の人生を全ての有情の救済のために捨てる時が来たのだ。そして私が彼の快楽の代役を買ってカヴァーするのだ。あれだけの快楽を尽くしてきたのだから悔いはないはずだ。あとに残された彼の人生は苦行だけで十分だ。でなければ不公平だ。何事も中道とお釈迦様もおっしゃっていたではないか。一方私の人生は快楽を欠いた苦行のような娑羅双樹の花さえ散ってしまうほどの惨めなものでしかない。美女と遊ぶことのできない人生なんて、そんな悲惨な生活を悔やんで流してきた涙は枯れ果ててしまった。だからこそ、それを相殺するためにこれからは快楽に従事するべきだ。それしか道はない。頭も禿げかかってきているし、もう時間が・・・。早く遺伝子工学を発展させて永遠に若く生きられる特効薬を開発してもらわねば。そうでなければ、なんのために生まれてきたのか、一体何のために生きているのか。快楽を楽しむために生まれてきたのではないのか。人間は幸福になる権利を生まれながらに有しているはずだ。これだけ終始一貫して快楽を欠いた苦しい人生を送ってきたのだから、もうそろそろ快楽一色になってもいい頃だろう。等価交換だ。私は十分に代価を払ってきた。だから今度こそリファンドを刈り取れる時だ。私の苦行とRの快楽を交換してこそ、等価交換であり、バランスのとれた中道のライフスタイルとなろう。でなければ仏教の業(カルマ)は事実無根ということになってしまう。釈迦だってずっと雨期のハーレム離宮での美女との宴の歓楽に心酔してきたのだし、ある時その空しさを感じて出家を決意して全てを切り捨てて、苦行に身を投じたのだから。だからRももうそろそろ空しさを感じて苦行を試す時期に差し掛かっているはずである。私だってこの苦行の生活に空しさを嫌というほど感じているのだから、交換しようではないか。でなければ不公平だし、とても中道とはいえない。快楽のない生活なんて出家生活のようなものだ。だから還俗したい。我欲還俗!だが当の仏教は私を幸せにはしないだろう。なにせ、仏教は恋愛までを否定するのだから。 

***


仏教は人の愛というものを毛嫌いする宗教であろう。いや、人そのもの、ヒューマニティーそのものを忌み嫌う思想である。人類に対する悲観主義哲学である。人類は憎しみ合い、憎しみが争いを呼び、犯罪や殺戮や虐殺や民族浄化しか生み出さない。性悪説ではないが、人の世界は苦しみのみという、いわゆる一切皆苦が仏教の四法印の一つである。それに人間界だけではない。仏教には輪廻転生の世界である六道があり、地獄界、餓鬼界、畜生界、人間界、神界があり、修羅界はこの五つの世界に偏在すると言う。神界が六道のうち最も高い世界であり、神々は人間を凌駕した存在である。だが神々でさえも苦しみに束縛されているため、解脱への道を必要としている。つまり六道は苦しみの世界であり、一切皆苦の世界なのである。だが、仏陀は神々をも超越した存在であり、完全に苦しみから解脱した存在であるのだ。だから創造神であるアラーやヤハウェーやブラフマーは仏陀の前にひれ伏すのである。なぜなら仏陀は神をも超えた存在であるからだ。ブラフマーは釈迦に悟りの内実を人々に説いて回るよう懇願したと伝えられている。それがかの有名な梵天勧請である。

だから釈迦は人間界を去ることが主眼であった。また人間界だけでなく六道すべてから解き放たれる自由の身にならなければならないのだ。それが成仏でり、成道でもある。輪廻転生の車輪からの解脱、そう、ウルドの糸車を滅するのだ。また仏教はユダヤ教的に言えば人類をアダム化させようとしているのだ。アダムは世界最初の人間であり、そして男である。つまり人間の原型は男であったのだ。そして彼にはもともと女はいなかった。というより女がこの世に存在しなかったのだ。女のいない世界では性交はあり得ない。よって苦しみの世界である人間界を作り出すことはない。そして仏教の僧伽ではセックスは禁止されている。つまりセックスや恋愛の禁止は女の存在を無化することであり、また人間を無化するということでもある。それが涅槃である。人間を生むから世界が生まれるので、人間を生まなければ世界は生まれない。というのは世界はセックスによって生み出されるのであり、日本の国生み神話も神々のセックスが原理である。だから六道という一切皆苦の世界を無化させるためにセックスを消すのである。

釈迦の忌避した人間界は一切皆苦である。それは仏教の基本教義であり、四聖諦によって説かれる。四聖諦とは「苦諦、集諦、滅諦、道諦」の四つである。その中の苦諦には四苦八苦という代表的な苦が含まれる。四苦とは「生老病死」である。そして八苦とは「生老病死」に「愛別離苦怨憎会苦求不得苦五蘊盛苦」を加えたものである。私は「Strawberry Panic」を見たが、あのアニメはこの世が四苦八苦で満ちていることを表していた。まるで一切皆苦であるように。

エトワールである花園静馬の元恋人である桜木花織は生まれつき病気を煩っていた。そして不治の病によって花織は命を落としてしまう。これは生老病死の生と病であり、また死である。そして静馬にとっては死別という愛別離苦でもある。それにもう恋人の愛を得られないと言う求不得苦でもある。さらに冷静沈着に見えた静馬も花織の面影が重なる蒼井渚砂に対する感情をどうすることも出来ないという五蘊盛苦に陥る。部屋の中で枕の羽根をまき散らす様子は印象的であった。また南都夜々光莉に対する強引な破廉恥行為も五蘊盛苦である。つまり恋愛による苦しみがこのアニメの題材だ。英語で言えば「Unrequited Love」であり、「報われない恋」という意味である。エリック・クラプトンの歌曲もこれがテーマである。よって恋愛はドロドロした人間関係を生み出す。そんないちご舎はまさに釈迦が忌避した世俗世界である。

このように恋愛は諸刃の剣であり、恋の対象を私から奪おうとする人間、または奪った人間は敵となり、怨憎会苦を味わう。それによってどれだけの友人を失ってきたことか。だからたとえ恋愛が成就して恋人との享楽の世界を築くとしても、それは同時に排他的にもあり、敵を作るのだ。人間の基本的要素は食事、排泄、愛、セックスである。普通は憎悪も含まれるが、釈迦は憎悪はから生まれると示唆している。だから愛もなければ憎悪もないという縁起の理論である。そのなかで最も釈迦が敵視したのはセックスと愛であった。まるで自分の王太子時代の半生を呪っているかのように。だから仏教は愛を踏みにじる宗教であり、当然恋愛もその対象である。よって恋愛は最も人間臭いため、僧伽では恋愛は禁物だったのだ。そこが世俗と出家のはっきりした分断点であった。そう、いちご舎と祇園精舎の鐘の声、それはピンク・フロイドの「Division Bell」に通じるものがある。とにかく苦しみを生み出す世俗的要素を全て切り捨てようとしたのである。

仏教はアンチ恋愛主義であろう。だから人間社会をもとから快く思っていないのだ。釈迦も王太子の時には自分に謁見するもの全てが媚を売ってきて、その下で毎日のように謀略が行われていたことを不愉快に思っていたに違いない。そして自分は妓楽に耽る毎日、なにしろヒエラルキーのトップにいたのだから、その不条理さに嫌気がさして、シッダールタは世俗社会を捨てたのだろう。この世は幻影であり、涅槃に入った時に真実が分かると言う。苦しみのない涅槃が真実というのだ。世界でたった一人のアダム、それが仏教僧の真の姿だろう。釈迦が悟りを開いた時は僧伽などなかった。彼一人で、自力で悟りを開いたのであるから。そう、孤立無援が理想なのである。ブラフマーが懇願しなければ、仏教者は釈迦だけであったはずである。

創世記には二つの神話が混在する。一つはアダム単独発生説ともう一つはアダムとイヴ同時発生説である。この二つに対して釈迦的な解釈をしてみたい。まずはアダム単独発生説から見てゆこう。アダムが一人の時は女もなく、子供もなかった。だから人に対する愛着も沸くはずもなく、淋しいという気持ちさえなかったのだろう。子孫繁栄などのコンセプトもない。「人類」とう概念もない。だから何も育てる必要もない。農業に従事することもない。自分の食べ物さえ確保していれば良いのだから。それに食料はエデンの園の果物を食べていれば良かったのだから、労働もなかった。何もせずに食べ物は確保されていた。それに家族も親も子も兄弟もいないのだから、愛もなければ、恋愛もない。しかもこの神話では子孫繁栄のためではなく、男が独りでいるといけないから女を創ったのである。それがアダム単独発生説の主意だ。

アダムが初めて神に反抗したのは女と一緒になってからだ。つまり他人がいて初めて犯罪が起きたのだ。つまり女が男の脇から作られたという神話はアダムこそが理想の人という考え方が根底にある。男から見て脇なのだから男の視点であり、男性中心主義であり「Phallogocentrism(ファロゴセントリズム)」である。まるでアダムが人類の本来の姿であったように。罪を犯す前の純粋無垢なアダム、しかし女という初めての他人が発生したことによって人類の苦しみが始まり、アダム本来の姿に人類が戻るには前途多難な道を歩まなければならなくなってしまった。もちろん女が批判の対象になっているが、真の批判の矛先は人間関係である。そしてアダムの反抗によって智慧の果実を食べ、性欲が沸き、イヴとセックスして子供を作ってしまった。それによってアダムは人類の父となり、イヴは母となり、人間界が誕生した。つまりアダムは人間界の創始者となった。いわゆる五道に人間界が加わって六道になって、さらに苦しみの世界が増えたのである。アダムが人間関係を持たなければアダムは完璧であったのだから。だから仏教では子供を作らない人間が悟りの道へと進めるのだ。それはあたかもアダムが人間関係を持つまでは仏陀であったかのようだ。釈迦は人間から仏陀になったが、アダムは仏陀から人間に降格してしまったのである。仏教的に言えばアダムは「ティッサ・メッテイヤ」に記されている堕落した賢者である。

そして、アダムは女との関わりによって、とくにセックスによって涅槃から脱落してしまった。仏教的にもアダムの行為は極悪非道であった。また、この神話はカトリックの出家生活を奨励する材料には最適となっている。つまり人間関係を断つことで本当の人間に帰れるという人間関係否定説であろう。だから男の独身が正当かされるという根拠を導きだしている。またイエスの「人は神の道を選ぶために結婚しない人もいる」という根拠でもあるのだ。「Strawberry Panic」も出家を認めるカトリックの学校が舞台であり、そのために世俗世界に対しては嫌悪感がより激しいにもかかわらずレズビアンは受け入れられているのではないだろうか。だが出家社会はセックスを忌避する。また異性とは交わらない。だから性交と性別をセットで忌避するのである。英語では性別も性交も両方とも「sex」というので、セックスを否定するで十分だが。そして、女性とセックスが仏教とカトリックでは忌避されてきたのである。いやゆる女とは関わるな説だ。釈迦の図式は女=俗世界=苦しみであった。だから始め釈迦は女を出家させなかった。そしてそんな釈迦の態度は出家は許されても女のままでは成仏できないという滅茶苦茶な説まで浮上するまでに至ってしまった。

だが男女同時発生説の神話ではどっちみち最初から人間関係が存在したのであり、人間関係そのものを敵視する神話ではないということだ。だから仏教的ではないのである。したがって、人が孤独になることは絶対に許さないだろうし、奨励もしないのである。つまり人間が天国に入るには人間関係の軋轢の中でもまれてこそ、罪を背負ってこそ成長して行くと言う人間関係肯定説である。いわゆるアリストテレス的である。それに男女の創造はもっぱら子孫繁栄のためであり、男が独りだといけないからではない。だから、こちらの神話をベースにすれば、天涯孤独な独身生活はもってのほかであり、小泉元首相のような社会のリーダーは受け入れられることは難しい。つまり女と関われ説だ。だから旧約聖書の創世記神話でも教会によって解釈が変わるのだ。それは創世記自体が人間関係の否定と肯定を示唆する神話の二重性を帯びているからである。

***


だからRは女ともう関わるべきではないのだ。彼の宗教はカトリックだ。だから出家を認める宗教なのだから、出家しか道はない。出家と在家を比べたら出家の方が望ましいし、というか出家至上主義ではないか。人間関係否定説の系統を受け継いでいるのだから、そう、人間関係を放棄するべきである。彼がプロテスタントやイスラムでなかったのは幸いだ。彼が出家してしまえば、今まで見向きもしなかった可愛い女が私と遊んでくれるようになるのだから。女が彼の餌食になる脅威はなくなるわけだし、それは世の中のために良い。彼がカトリックであったことを神に感謝する。ホット・チックスを独り占めにする男こそ出家が望ましい。だからこそ仏教とカトリックは私を救ってくれる。美女を独占する男は出家させるべきだ。出家こそ真の道と教え込み、独占禁止法を執行するのだ。それこそ正義というものだ。でなければ世の中は不公平なままだ。

しかしRの家系に先祖代々から受け継がれているカトリックとは違い、イスラムやユダヤ教では出家を認めていない。というかイマームやラビは結婚してなければならないのだ。家族の長でこそ、社会のリーダーとして人々の規範となるのである。アメリカ合衆国の大統領にはかならずファースト・レディーが存在する。米国プロテスタントではカトリックと違い、出家制度を採用しているのはほとんど稀である。だから子供を育てることが義務であり、出家をすることは子孫繁栄への貢献を放棄することになるので、この概念は受け入れられない。宗教と世俗の分離がなされていない文化でのほうが、原理主義が発生しやすいのだ。

またプロテスタント文化では処世術もより発達しているであろう。カトリックでは働くことは神の罰であり、俗世間の行いと見られるので、忌避された。仏教の僧伽では労働は生産性という人間的なものであるため禁止であった。カトリックも自給自足のための労働だけが許され、金儲けのための労働は忌避されていた。その点でカトリックとプロテスタントの間で経済発展に差が出たと言われている。労働は罰ではなく神への奉仕という概念の大転換が資本主義の発展に重要な役割を果たしたとマックス・ウェバーは言っている。出家が良くて世俗が駄目という言説であったなら人は駄目なものに一所懸命にならないだろう。それに出家は一種の「引きこもり」なので、出家文化のような日本、イタリア、スペインでは引きこもり症候群にかかっている青年が多いとされる。それは宗教的引きこもりが例外的に肯定されているからであろう。釈迦の取った行動はまさに「Social Withdrawal(引きこもり)」であった。しかしプロテスタント文化では引きこもりはお話しにならない。

仏教もカトリックも僧侶に対しては厳しい戒律があるが、世俗はそれほど束縛されていない。プロテスタントとイスラムでは出家社会と在家社会の区別がなく、一切世俗なので、宗教権威がより世俗社会に浸透し、厳しい倫理観が人々を圧迫するのである。カトリックの国々ではセックスはそれほどまでに圧力をかけられていない。それは世俗社会に対する諦めである。いわゆる「世俗だから仕方ないか」という甘さが出てくる。そして出家社会をより重要視する。人間関係を断った独身貴族社会である。まあ、カトリックは実質的にローマ皇帝の権威を継いでいたため世俗権力でもあったが、ナポレオンによって完全に世俗から独立した宗教権威になった。だから世俗社会と出家社会は完全に分離した。それからカトリックは世俗に対して厳しい発言はするものの影響力はなくなった。だから本当の出家社会となった。よってプロテスタントの清教徒倫理がまかり通るアメリカに比べると、カトリックの国々のセックスに対する規制は寛容なのである。

だからRもカトリックだけあって、より女遊びに没頭できるのだろう。いちご舎でも出家者のシスターが管理する学校でありながら、恋愛は自由奔放だ。といか全校を代表するエトワールが情欲のままに行動していたのだから、渚砂と出会うまでは。だから「マリみて」も「Strawberry Panic」も「おと僕」も恋愛のリベラル度はサンフランシスコ並みである。ただお嬢様学校というのは気に入らない。そんなカースト制度を正当化するような校風は破壊するべきだ。私立学校はブルジョワの特権という言説を打ち砕かねば。ヴァウチャー制度を導入して、プロレタリアートでも実力さえあれば政府の援助金で私立学校に入学できるようにすれば良いのに。でもそうすると憲法の精神である政教分離の原則に反するかもしれない。政府が宗教系列の学校に援助することは、宗教機関をスポンサーすることになるからだ。でも政教分離の徹底しているフランスでもヴァウチャー制度があるのだから、どうってことはないだろう。自分の学力に合った学校が選べないほど不公平なことはないのだから。だが公立学校があまりにも悪いから行けないのだし、まずは公立学校の改善からだ。私立校に比べて公立校が学力が低いと思われているからヴァウチャー制度が声高に主張されるのだ。それに金持ちの子供に許嫁がいるなんて、馬鹿げてる。アメリカのブルジョワでさえ許嫁など使っていない。もちろん政略結婚はあるし、負け組の男が勝ち組の女と結びつくのは稀だが、許嫁はないだろう。それはアニメの世界だけだ。

***


まあ、要するに宗教的権威が弱まれば、どこの社会でもセックスが自由になるということだ。宗教権威が弱まったところでは資本主義の言説が力をつけてくる。宗教は人間関係に密着していたが、こんどは消費社会の言説が人間関係を左右するようになった。Rも成功の階段を順調に駆け上っているし、才気煥発であるから消費社会ではモテるわけだ。消費が出来ない男はデートの対象になれない困った社会なのである。私だって、どんなにデートしたいか!そのためには貧困から脱出しなければ!

「フルーツバスケット」でも主人公が人間社会でもまれながら生きていく姿を描いている。本多透は山下清ように純情無垢であり、あそこまでの境地になるには普通の人では相当の苦行が必要であろう。人間は雑念の生物であるのだから。苦しんでいる人間をありのままに受け入れるのは相当なものだ。だが山下清は警察が嫌いだった。つまり国家権力が嫌いなのだ。私も彼のように国家権力が濫用される人間社会は嫌いだ。最も進んでいるアメリカ民主主義社会でもブッシュ政権が誕生したために一切皆苦だ。しかしその中でなければ生きて行けないし、またそうしなれば恋愛することも出来ない。出家社会では恋愛は禁止されている。また性欲は敵視されている。だから私は出家することはない。なぜなら女の子にモテまくる人生を送りたいからだ。そんな夢のような生活が送れるのなら、一生人間界に束縛されたってかまわない。解脱なんて糞食らえだ!仏教など不要だ。もし出家社会が「ターンホイザー」のヴィーナスの谷だったならば、喜んで出家したのに。しかし、そんな極楽は存在しないのがこの厳しい現実だ。ああ、女の子と恋愛遊戯したい。だから人間関係の中で生きて行かねばならないのだ。消費社会の言説が支配するこの人間界で。出家社会がヴィーナスの谷であったならば。そんな宗教はないのだろうか。クロウ・リードのモデルとなったアレイスター・クローリーは性魔術を行ったが、あれではプライバシーがない。だからクローリーの密儀社会はとても私の目指す理想郷とはいえない。私が目指すのはヴィーナスの谷だ。

私がアニメで発見したヴィーナスの谷とは聖應女学院であろう。私も男である宮小路瑞穂のようにエルダー・シスターになれば絶対に女にモテまくるのだし、そしてかつてのマイケル・ジャクソンのように女の子の熱狂を浴びることになるのだから。それはマリア様が保証してくれる。宮小路瑞穂は同性として私のアーキタイプだ。そして、私がアーキタイプになるのだ、新人類の神話の英雄として。これは小さな物語に留めておく必要はない。宮小路瑞穂では小さな物語のままだが、私がエルダー・シスターになれば神話に昇華できるのだ。そうなれば、もはやRの比ではない。エルダー・シスターにさえなれば、Rと一緒に遊んできた美女たちが全て私の魅力に圧倒されることとなり、もはや彼女らはあいつに騙される哀れな存在に成り下がることもない。私こそがあいつの魔の手から美女を救う勇者だと天の摂理も説いている。そして、今度はあいつに私の偉大さを見せつける番だ!ようやくあいつに思い知らせることが出来る。どんなにこの時を待ったことか。そして私に、
「参りました。今まで思い上がってました。私ではあなたに到底かないません。私の未熟さを改めて思い知らされました。あなたこそが世界が認める真の天才です。」
と土下座して謝ることであろう。そしてあいつは私の前にひれ伏すのだ。そのためには聖應女学院に編入しなければ。それにアニメで見た限りでは聖應女学院はまさに天国だ!そう思うとカトリックも悪くないよなあ。さて、早速インターネットで願書を提出しようかな。もちろん、単願で。

でも、どうせなら、この消費社会の圧政から人々を解放させたい。私だけ解放されても人々が圧制に悶え苦しんでいるままでは私の恋愛遊戯のチャンスが永遠に到来しないので無意味だ。だから私は菩薩乗派である。そうすればアニメの世界ではなく、この現実も捨てたものではなくなる。現実に希望を持って生きられるからだ。アニメの世界は現実ではない。だから、「乙女はお姉さまに恋してる」のようなアニメで起こっている素晴らしいことを実現したい。しかしそれには消費主義型資本主義社会の圧政が邪魔である。だからこそ、この消費社会の言説を吹き飛ばしたいのだ。

確かにビン・ラディンは消費社会のシンボルを破壊したが、それはテロであり、絶対に許されない行為だ。我々だって世界貿易センターからの圧制を感じていた。だが、あんな形で崩壊してしまうとは。我々は自由を勝ち取るために反抗する、しかしビン・ラディンは人々を恐怖に陥れる。テロリズムは間違いだ。それは自由そのものに対する戦争だ。はっきり言っておくが私の自由とは美女との恋愛遊戯が出来る自由だ。そのために世界貿易センターは障害だった。だが敵に我々の障害物を破壊されるとは。それでは美女とふしぎ遊戯することができないではないか。なにしろ危険が差し迫った状態では人はより慎重になってしまうのだから。人々が望むのは自由ではなく、安全保障になってしまうのだから。

美女と戯れることが出来たなら、どれほど私の人生は素晴らしいものになるだろうか。美女と恋愛遊戯ができるのなら出家や世俗などどうだっていいことだ。出家しても女にモテない、世俗でも女にモテない、そんなCatch-22は絶対にあってはならないのだ!畜生、Rめ、羨ましい限りだ!彼は出家しないと。私だって経済状態が悪いために幾度も出家を考えた。そこまで追いつめられた経験はRにはないであろう。いや、あまりにも女にモテるから、そろそろ嫌気がさしてくる頃だろうし、下手したら出家するかも。だが誤解しないでほしい。私はRを嫌っていない。逆に心から尊敬している。だから彼との再会を心から喜んだし、事実、Rは素晴らしい人間だ。彼は私が経済的困難な状況にある時に援助してくれた。なんと感謝したら良いか。だから彼には頭が上がらない。また彼のベイ・エリアでの人脈も凄いものがある。それもここという時に人の役に立つからだ。とても気が利く人である。だから彼は信頼されているのだ。コミュニケーションに長けているし、ソーシャルスキルの達人である。飲み屋でも見知らない女の子が彼に話しかけるぐらいだから、そうとう話しやすいのだろうし、人当たりもいいのだろう。ただ、彼がセクシーガールズとのセックスの自慢話をする時だけ、むしょうに腹が立ってムカムカするのである。「親しき仲にも礼儀あり」という諺を知らないのか。まあ、アメリカ人だからしょうがないか。いや〜、でもあそこまで自慢話をされたら、いくら親友と言えども最後には我慢が出来なくなって、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、気付いた時には、
「いい加減にしろ!鶏冠きた!」
と怒鳴り散らしてしまっていた。怒髪、冠を衝いたので、枕を思いっ切り叩いて鬱憤を晴らそうとした。そう、エトワールさまのように。それは到底耐えられるものではない。畜生、なんであいつだけ、ふざけんじゃねー、バカヤロウ!


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【2006/10/30 05:34】 | ラント
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zanki
かなり欲求不満のご様子ですね。

あと、文、長げぇー。

方向変えて、頑張ってみては?


ヘルメス
zankiさん、いらっしゃませ。

まあ、ラントなので感情を思い切りブチ撒けました。でも私にとっては欲求不満という子供魂みたいのものではないですよ。これはある意味絶望に近い深刻さですね。

そうですね。消費社会への反抗もテロとの戦争のなかでは影が薄いですから。ブッシュが、
「おまえはオレの味方か、テロリスト側かのどちらだ。」
と連邦議会で宣言しましたから。消費社会の象徴がテロリストに破壊されましたから、いつの間にか世界貿易センターは消費社会の圧制ではなくアメリカの自由の象徴にすり替わってしまいましたから。あのテロは劇場型でしたね。そしてブッシュが勇敢な消防士と一緒に瓦礫の上でメガフォンを使って国民に団結を呼びかけるという、まさにこれも劇場型ですね。ブッシュ本人が我々の反抗の象徴になりましたけど、彼は、
「おれに味方しない奴は全てテロリストだ」
とテロリスト呼ばわりしてきますから、きついですね、とくにこの時代の風潮では。でもイラク戦争を疑問に思うアメリカ人は着実に増えていますから希望はあります。この中間選挙が鍵ですね。

小泉元首相も。
「私の内閣の方針に反対する勢力、これは全て抵抗勢力であります。」
と演説しましたから。
「『抵抗勢力』という言葉はきついな」
と言う人は多かったはずです。郵政民営化の郵政選挙もそんな言説の中で強引に押し進められましたから、劇場型政治ですね。あんなことなど日本で起こるとは、あのような独裁的な政治家が登場するとは夢にも思っていませんでした。もともと自民党が嫌いだった人でさえも自民党に投票するという考えられない現象が起きましたから。今はなんでも劇場型ですね。

消費主義社会の鏡であるメインストリームメディアと大衆動員型の政治家が結びついたら恐ろしいことになります。鬼に金棒ですからね。そういうときこそ弾圧の危険性がもっとも高くなります。なにしろ我々は反対勢力ですから。出家するか、アニメの世界に亡命するか、こういう状況ではなかなか見えてきませんね。まあ、そんな状況でもめげずに実存を率先してぶつけろとサルトルは言いましたから。

こういうわけで、この記事はラントとなりました。わざわざおこしいただき、ありがとうございます。

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私は「カードキャプターさくら」を見た。いやー、クローカードを集めるのには本当に時間がかかった。クロー・リードはイギリスの神秘主義者のアレイスター・クローリーがモデルになったと思われる。クローカードもクローリーの「トート・タロット」というタロットカードをもじったものであろう。クローリーはビートルズの「サージャント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットの表紙にも登場している。左上から二番目の丸坊主のイギリス人男性がそうである。

しかしさくらは2000年で小学6年生だったのだから、今年は高校3年生であろう。18歳と言えば、アメリカでは選挙権が与えられる年である。なんと時間は早いのだろう。やめてくれー。過ぎたるは及ばざるが如しか。人が大人になって行くと同時に自分は若くなって行かないのだろうか。そういえば手塚治虫の「火の鳥:宇宙編」で主人公が若くなって最後には赤子になってしまうというストーリーがあった。私は赤子にはなりたくない。18歳から25歳までの若さを保てればそれにこしたことはない。

でもさくらはかわいかった。あんだけかわいい子が娘だったら、さぞかし幸せなことだろう。これは成長したときには特別美しくなるはずである。でもカードキャプターの登場人物は皆容姿がいいので、驚いてしまう。醜女醜男が存在しない世界である。ある意味、不気味とも言えるが、きっとクローの魔法で皆綺麗になったのだろう。

さくらがクローの伝承者となるためにクローは厳しい試練を彼女に与えた。それはまるで旧約聖書のヨブ記のようである。それは魔術や神秘主義秘密結社では定番の通過儀礼である。そしてさくらは通過儀礼に見事合格し、最終回ではクロー自ら祝賀会を開いた。そしてさくらちゃんは11歳にしてクローの正当後継者となり、またさくら自身が独自に成長し、自立したのである。イエス・キリストは12歳でユダヤ教の学者と討議するほどの叡智を既に身に付けていた。だがさくらも11歳で魔術の叡智を体得したのである。その叡智を完成させるために師匠のクローが輪廻転生してまで手助けをした。わずか11歳にして魔術師になったという奇跡の偉業を成し遂げたのである。

でもホモセクシュアリティーを示唆するようなシーンもたびたび見られた。アメリカでは放送禁止となって自主規制したようであるが、日本では逆にホモセクシャルに対する権利の認識度が低いので放送されたのかもしれない。そのような問題が政治的であるアメリカでは放送は自主規制されたのだろう。保守派の突き上げを恐れて。まるで日本のテレビ局が天皇批判を自主規制しているようなものだ。アメリカのテレビ局も日本のテレビ局も低レベルであるとしか言いようがない。そんなことでよく言論の自由の代弁者と豪語できるものだ。

それに自主規制をするような露骨な内容でもないであろう。李小狼の雪兎に対する同性愛的な憧れ、そして木之本桃矢の雪兎に対する感情、観月歌帆に対してさくらの「ほえー」となるシーン、雪兎の木之本桃矢に対する感情。また大道寺知世のさくらに対する感情、まるで着せ替え人形マニアであり、自分のデザインしたコスチュームをさくらに着せて、ビデオに録画すると言うマニアに近い同性愛、これらはコミカルな効果を狙ったものであろう。「マリア様がみてる」や「ブロークバック・マウンテン」のような純愛ではないのだ。だからアメリカで問題となるのは常軌を逸しているとしか言いようがない。

ジョン・レノンは「不思議の国アリス」を基にして「I am the walrus」を書いた。だから、私も「カードキャプターさくら」を基にして何か曲を書こうかな。このアニメはインスピレーションを与えるほどの物語と言ってもよいであろう。事実、さくらもエリオルの魔法によって本の世界に入ってアリスになったのだから。ルイス・キャロルの偉大さが伺える。ジョン・レノンにも、CLAMPにも影響を与えたのだから。まあ、ルイス・キャロルは仏教で言えば瑜伽行派といったところか。ちょっとマイケル・ジャクソンのように少年愛の疑惑付きでもあるが。

劇場版が「カアードキャプターさくら」の完結編と私の尊敬するアニメ・グルから聞いたので、早速それをインターネットで注文し、DVDを見た。素晴らしかった。やはり映画だけあって、背景もしっかりと描かれている。テレビアニメでは背景は手を抜いているように見えた。だが映画では細部まで丁寧に描かれていた。しかし知世ちゃんのマニアックな部分が映画ではより過激になっていた。
「知世ちゃん、暴走しちゃった。」
と思ってしまうほど、彼女の妄想は度を超えていた。

いや、でも最後は感動した。エンディングテーマソングの「明日へのメロディー」が世紀末のジャズのようで、素晴らしかった。あの曲で「カードキャプターさくら」を閉めくくったのは良かった。この「明日」とは新世紀のことだ。「輝く未来、希望の虹」どれも21世紀には輝かしい未来が待っていることを示唆している。世紀末最後の年に李との恋が成就したのである。20世紀はとにかく悲惨な世紀であった。ヴィクトリア女王の崩御から20世紀はスタートし、人類は破滅の道を辿っているかに見えた。そして世紀末は世界の滅亡という予言をさくらは見事に滅したのだ。そして彼女自身の恋も成就させた。光り輝く未来に向かって万全のステップを踏み出したのである。

私は小学生ごときの恋愛などただの一瞬の気の迷いに過ぎないと高をくくっていたのに、つい深みにはまって感動してしまうなんて、自分に情けなくなった。いや、でもこれは香港人と日本人の恋愛物語でもあり、いわゆる国境を越えた国際恋愛なのである。でも二人のその後はどうなったのだろう。小泉が靖国参拝してしまったから、李とさくらの間に亀裂が入ったのでは。いや、恋愛は国境を越えるのだから、関係ないであろう。

李が生まれ育った香港は1997年に共産党独裁国家に変換された。香港が一党独裁の共産主義勢力に呑込まれてしまったのは遺憾だが、李はその二年後に意を決して日本に留学したのである。小学校に留学するのは前代未聞であったが、小学校レベルから国際交流がなされるようになったとは、素晴らしいことである。友枝町の姉妹都市は香港なのだろうか。そこで青少年交流の一環として李従兄弟が留学してきたのだろうか。東京都青梅市の姉妹都市がドイツのボッパルト市であるように。ところで友枝町ってどこだろう。港区あたりか、東京タワーに近いこともあるし。

ああ、時代は完全に進歩しているのである。しかも小学生が携帯を持っているのだから、当たり前のように。それがなんと21世紀に入る前である。私は20世紀にピッチが流行った頃に渡米した。そしてその時はほとんどの人は携帯を持っていなかった。もちろん私も持っていなかった。日本では21世紀を迎える前から既にさくらちゃんのような小学生が携帯を持っていたとは。李はもちろん携帯社会の香港から来たので、そんなのは当たり前であったはずである。まさか日本がそんなに進んでいたとは。

「世紀末救世主伝説の崩壊」


さくらが活躍した時期は小泉が首相になる前であり、まだ、911事件の前でもある。そう、世紀末である。私は世紀末をアメリカで過ごした。世紀末のアメリカではブリトニー・スピアーズが登場し、一世を風靡した。私もブリトニーの魅力に陶酔しながら、世紀末を越した。さくらが世紀末に登場したことによって日本は希望を持って新世紀を迎えることが出来たかに見えた。21世紀は夢の世紀となると私は期待を寄せていた。もちろん私はゴアを支持したが、たとえ大統領がブッシュであろうと、あそこまでアメリカが悪くなるとは思っていなかった。まさか911が起こるなんて。911がなければネオコンも戦争は出来なかったはずだし。そして小泉が首相に就任したことによって日本が変わると思った。新たな時代のリーダーだと思っていたし、あの時の内閣の支持率は80%以上であった。だれもがこの新しい世紀は希望に満ちた時代になると思っていた。しかし、ビン・レディンによって、その希望は粉々に砕け散った。それは世界貿易センターの崩壊とともに私の新世紀への期待も崩れ去った。

さくらが東京タワーで審判を下されるその象徴的なシーンもそう思うと、
「あれは一体なんだったのか。」
と唖然としてしまう。あれは何かを予感させるものであったのか。東京タワーは世紀末に月夜に赤く輝く戦後日本の資本主義の象徴であるのだから。さくらは世紀末に魔術師になったのである。カードの封印が世紀末に解かれ、それを集めなければ世界に災いが起きると言うノストラダムスの予言にも通じるシナリオでもある。クローカードの封印が世紀末に解かれたと言うのも、シンボリズムである。

しかし私が思うには世界貿易センターでの審判が本当の審判であったように思われる。東京タワーの審判はさくらに対する審判でもあり、さくらが審判を通過できなければ世界に災いが降り注いでいたことであろう。だが映画では本当の災いのカードの封印が解けて、さくらはそれを降魔成道することで初めて独立した魔術師となったのである。そして世紀末は災いも起こらず、さくら自身の恋も成就したのである。だが東京タワーは崩れ去ることはなかったが、新世紀に突入した矢先にニューヨークの世界貿易センターは廃墟と化した。世紀末を切り抜けたさくらであったが、災いが起きてしまったのだ。しかもさくらがクローから完全に独立した一年後である。

世界貿易センターは消費型資本主義社会の圧迫と見なされていた。そして、その圧政のもとで知世がデザインする衣装はシミュラークルとなり、魔法使い専用の衣装が消滅した。どのコスチュームを着用しようとも、どれも魔法使いのコピーのコピーとしてしか機能しない。だからコスチューム自体が一人歩きするのである、そう、モナリザのように。まるでさくらはマネキン人形のように着飾られるショーウィンドーのような世紀末に合った存在となったのだ。だからさくらは小学生にディスクールを強要する存在となってしまったのだ。クローリードは古典的魔術師であって、いつも決まった衣装を身にまとっていた。だがさくらはクローが死んでから数十年と言う歳月が流れ、世紀末の時代を反映していた。李は最初に審判を受けるが、彼はいつも同じ衣装をまとい、ステレオタイプの領域から出られなかった。李は時代に合っていなかったのだ。だから彼は後継者争いから脱落してしまった。師と同じことをやっていたのでは師を超えられない。スーパーマンはスーパーマンのマントをまとわなくとも空を飛べるのである。さくらの時代が世紀を超えても続くか否かがテーマであった。

さくらは世紀末の女性であり、そんな消費社会の圧力が小学生にも及んでいることを象徴していた。小学生が携帯を持ち歩き、ファッションに気を使う時代、さくらはまさにそのシンボルであった。たしか「Yawara! A Fashionable Judo Girl」というアニメがあったが、彼女はファッショナブル・ガールであり、ファション・マーケティングのターゲットが女子大生から女子高生に移行したことを示すバロメーターであった。しかし「カードキャプターさくら」はそれが今や小学生になっていると言うことを体現していた。消費社会はもはや小学生すら餌食にしようとするのである。義務教育で保護者に守られているような小学生がファッションと恋に殉ずるのである。だから現在の子供はアル・ゴア元副大統領によってインターネットが90年代半ばに一般大衆の間で登場したこともあって、早熟となり、消費社会の権謀術数の標的になってしまったのである。その圧力は留まるところを知らない。

しかしフランスの哲学者のボードリヤールはそんな消費社会の閉鎖性に反抗する手段として詩的実践死の贈与があるとした。東京タワーは都会という消費社会の閉鎖性のシンボルである。しかし、ビン・レディンはどうやら東京は標的にしなかったようだ。だが世界経済の中心地であるニューヨークにそびえ立つ世界の消費社会のシンボルである世界貿易センターを標的とした。ツイン・タワーが圧政の象徴となったのは新しいことではない。コロンバイン高校虐殺事件の犯人も飛行機でツイン・タワーを破壊しようと構想を練っていたようだし、反体制派は少なくとも現代のバスティーユに反旗を翻そうとしていた。アメリカの民族主義者もそのような構想を小説に書き、FBIに危険視されていた。90年代にイスラム過激派のテロリストが爆破を試みたが、失敗した。しかし、見事にさくらが過去のものを捨て去り、新しい時代を切り開いたその一年後に、世界貿易センターは破壊された。いわゆるアメリカ帝国消費社会の象徴が木っ端微塵となったのである。

さくらは東京タワーにまた新しい意味を与えた。そして東京タワーをさらに強化させた。東京タワーは徳川将軍家の菩提寺である増上寺を破壊して作られたのだから、古いものを破壊し、その上に新しいものが建てられたのだ。そう、さくらがクローカードをさくらカードに変えたように。さくらは東京タワーを守ることが出来たが、世界貿易センターはさすがにさくらのようなスーパーヒーロであるスーパーマンやスパイダーマンやバットマンも守り抜くことが出来なかった。

さくらと知世は現代のコンシュマリズム(消費主義)の少女であろう。あの二人のコンビは表裏一体のような、そう、ケロベロスも解説していた陰陽のような関係である。個人がデジタル・カムコーダーを使って簡単に撮影し、コンピューターに取り込んで編集することが出来るようになったので、知世も早くからコスプレ・マニアになる興味を沸かせるようになった。私が小学生の頃はまだファミコンが最先端でという次元でしかなかったから、現代の子供はそうとう早熟なはずである。かつて、そんな早熟な子は偉大な預言者くらいであった。

イエスは12歳で叡智を得た。しかし、彼が救世主として再び世界に登場するのはその20年後である。さくらは2020年に再び世の中に出るのだろうか。キリストが生誕してから2020年、その時にさくらは救世主となるのか。現在の2006年はさくらは18歳だ。そしてマヤ文明の暦では世界は2012年に滅びると言う。しかし、その時さくらは24歳となっている。魔術で世界を救えるのだろうか。このアニメを見る限りではさくらは世紀末の救世主のような気がした。しかしイエス・キリストがもし2000年に降臨していたのなら、キリストはさくらのようにファッショナブルでなければならなかったであろう。だから私は911以来ファッションにこだわらなくなった。というか、それどころではなくなった。911の日、私の通っていた大学が警察によって閉鎖され、全米が大パニックに陥ったのだから。

「カードキャプターさくら」は世紀末救世主伝説であったが、そんな伝説も911テロによって完全に破壊された。このアニメを見たというもの、希望に満ちた新世紀を開いたはずのさくらの功績をすべて否定するようなテロがオザマ・ビン・ラディンによって行われたのである。消費社会の圧力が人格化されたようなさくらでは救世主になれなかったということだ。東京タワーでさくらが審判を受けるシーン、そして遊園地での時計台の中でのマイナスカードの封印と恋の成就、事実さくらがマイナスのカードをさくらカードに変換させたとき、それは「希望のカード」となった。クローカードの封印が解かれるとき、パンドラの箱のように災いが起きるが、最後に残ったのが希望である。だからさくらの最後のカードは希望であったのだ。そのシンボリズムは跡形もなくビン・ラディンによって破壊されたのだ。シンボルを破壊するアルカイーダ、彼らはそう言う意味で新世紀のアイコノクラスト(iconoclast)である。

仏教的な「愛を失ってはじめて世界が元通りになる」という、このライン川の水の妖精の言葉にも似ている言説をさくらは壊したが、死の贈与は愛するという心の源である命を犠牲にするので、世界貿易センターの破壊は全く免れなかった。消費社会を破壊することが出来ないのなら、逃避するしかない。消費社会からの逃避は出家が一番であろう。そこで詩的実践をすればいいのだ。禅などはグラフィティーやアナグラムのようなものだ。しかしアメリカではそれすら消費する商品と成り下がってしまった。そしてそれは解釈を固定化された欲望の客体と化す。特に禅が「Zen」になって欧米でもてはやされてから。「ナマステ」と言えることがブルジョワの教養という一種の自慢を生み出すだけである。しかし、私が禅についてアメリカ人に語ろうと、知っていて当然と見られてしまうので、ナンセンスだ。アメリカのブルジョワかぶれの女の子の興味をそそることはないのである。だから消極的な抵抗ではアメリカ新自由主義的資本主義社会を揺るがすことは出来ないのである。

しかし消費社会の言説がどうしてそこまで気になるのだろうか。それは、その言説の捉え方によって女にモテるかモテないかが決まるからである。つまり女からの評価が自分は流行に乗り遅れていないかどうかとビクビクさせるのである。デートも消費社会のマニュアル通りに行かなければ成り立たないのだから。聖ヴァレンタイン・デーにチョコやプレゼントを恋人に買ってあげない人など本当に稀であろう。安倍首相のクロニズムである森永の陰謀に騙されているだけなのだから。ケリー元大統領候補のクロニズムがハインツ・ケチャップであるように。アメリカが肥満社会なのもハインツの陰謀である。また女性の友人から聞いたが、彼女もその言説の圧力に嫌気がさしていると言う。特に表層的なハリウッド社会では。ハリウッドでは女子高生が豊胸手術すると言われている。また他人の子がそんなことすると嘲笑する親でさえも、いざ自分の娘に強請られると、断りきれなくて支払ってしまうそうである。「人の子死んだより我が子の転けた」とはまさしくこのことであろう。ニューヨークではファッショナブルな人も多いそうだが、逆にファッションに全く気を使わなくとも受け入れられると言われている。私は、
「ええ、まさか世界の資本主義の帝都であるニューヨークでそんな人間が本当に受け入れられるのかよ。」
と思った。しかしサブカルチャーも極力繁栄していることも事実である。しかしメインストリームで受け入れられているかどうかだ。ニューヨークには住んだことはないからなんとも言えないが、きっとそれも911の後遺症だと思われる。

世紀末のさくらもこれで終わりであろうか。いや、終わりであろう。世紀末は過ぎてしまった。さくらは冷戦が終わる頃に生まれたのだから。今度は消費社会の圧迫からも独立した大人のさくらも出るのだろうか。私はさくらより2つ年下になりたい。そうすれば今16歳だっただろうに。そしてスウィート・シックスティーンとしてアメリカの高校に通うのである。そうすれば私の青春はバラ一色だったはずである。早く生まれてしまったことをとても後悔している。今では頭の禿げ具合まで気にしなければならなくなってしまったのだから。結論を言ってしまえば、さくらは世紀末救世主ではなかったということだ。本当のさくらの戦いは始まったばかりであり、将来救世主になるのか、ジャンヌ・ダルクになるのかは分からない。しかし今のところ言えるのは「カードキャプターさくら」という希望のアニメはアルカイーダによって破壊されたということである。そして暗黒の時代が開いてしまったのだ。


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【2006/10/26 09:22】 | アニメ
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Lance
自分のblogへのコメント有難うございます!
それからカーキャプのblog待ってましたよ! 相変わらず関心させられる事は多くて勉強になりました。 やはりアナタは私が思った通り、「アニメ」を素晴らしい総合芸術として世界に広めていくのに必要不可欠な人物でした!
 「アニメ」は未だに世間では”子供の観るモノ”や”偏見”を持たれているのが現状で特に{集団行動が大好きな}日本人にはその傾向が強いです・・・。  基本的に日本人は”皆がやっている事が正しい”という独創力の無い民族なので世間から少しでも外れた事をすると冷たい目でみられてしまい、”天才”や”先人”が育ちにくい社会ですね。
 そして、”天才”や”先人”は 後年になって評価されるという悲しい国です。。。  まぁ、日本だけではないですけどね。

 とにかく、自分が言いたい事はアナタのように「アニメ」を芸術としてとらえ、過去の歴史や事実と照らし合わせ「評論してもらえる」というのは説得力もあり、自分のように単純に”アニメ好き”な人にとっては素晴らしい人物です!!!  なんたって、原作者のclampは色々そういった知識があるのは知っていましたが、何を元にしてどうアレンジしたかは無知の自分には想像も付かなかった事ですから、今回のブログは改めて「アニメ」の素晴らしさを感じました!!!

 そこまで深い内容だったとは思いもしなかったものですから・・・。 このBLOGをアニメにたいして偏見を持ってる人に見てほしいですね!  そして、アニメの奥深さを知ってほしいですっ!
 しかし残念な事にアニメに対しての評価が正当化されるのは早くても5、6年はかかるでしょうね。 2次元に対してだけ使える「萌え〜」は違った意味で使われてるし、その言葉自体もっと前から(多分5年くらい前)我々の間では使われてましたからね!    特に頻繁に使われてたのは文化放送の”ポリケロのなんちゃってsay you!”が自分の中では出発点ですから。
 また、未だに「宮崎アニメは観るけど、他のは・・・。」という人が多いのが現状で、オリコン5以内に入っても”タモリのMステーション”で歌手が出ないという「有り得ない珍事」が当たり前のように行なわれているアホな国ですからね。 アニメというだけで差別して、音楽自体を評価しようとしない悲しい現状です。。。
 なので自分はハリウッドで成功し、凱旋帰国した時には”アニメオタク”として堂々とTVなどでアニメの素晴らしさを説いてまわります!
 
 カーキャプの映画も観たのですね。 DVDを貸した自分は恥ずかしながらまだ観てないのでコメントできませんが、日本のオタク友達の情報では「簡潔してて良かった!」とういのは聞いていました。 早く観なくてはっ!!!

 話しは変わり”アメリカが肥満社会なのもハインツの陰謀である。” これはその通りと思いましたね! だからこそ、色んな体を鍛えたり脂肪をなくす機会が続々と発売され、それ関係のクスリも販売されてるわけですね・・・。   まさに”肥満はアメリカの国家問題”と同時に”国家ビジネス”というわけですか・・・。 怖い怖い。
自分もこの国に居るいじょう、その一部にならないように気をつけなければ。


ヘルメス
Lanceさん、コメントありがとうございます。

「ポリケロのなんちゃってsay you!」というラジオ番組がアニメオタク文化の発祥なんですね。それはサブカルチャー的ですか。

そうですよ。Lanceさんが凱旋帰国して、アニメの素晴らしさを大衆にショック療法してほしいですね。現在はアニメオタクは「負け組」に属するというステレオタイプがありますから、ハリウッドの成功者が自分の演技スタイルはアニメによるインスピレーションをもとにしていたとなれば、世界はアニメを認めざるを得ませんから。日本人は個人レベルではLanceさんのように独創性にとても富んでいますが、環境が環境ですからね。あまりにも集団主義ですから。アメリカの方がそういう方には向いていますね。独創性に富んでいる天才が世界から集まってきますから、刺激になりますね。

でも日本の声優もアメリカで人気が出ていますし、去年は坂本真綾のライブがロスでありました。私のアニメオタクの知り合いが見に行きましたが、アニソンを英語で歌ったのは反感を持ったと言っていました。できるなら、日本語で、オリジナルの歌詞で歌ってこそ価値があると言ってました。だからアメリカ人がアニソンを歌う時、日本語で覚えるそうです。

そういえば私の大学の日本語のクラスでも、アニメ好きなアメリカ人が多かったですね。だから彼らにとってもっとも親しい日本語は声優の話す綺麗な日本語です。Lanceさんの日本語も無駄がなくて綺麗ですから、アニメ好きのアメリカ人のブロンドガールからはモテますよ。たまーにアニメ好きのアメリカ人の女の子で本当にかわいい子がいますから。でも彼女らはメインストリームから離れてますから、探すのは一苦労ですね。でも大学だと、さすがに一人か二人はかならずいますよ。ヴァージニアのような田舎でさえも大きな大学ではアニメ好きのアメリカ人の女の子が日本人男性とデートしていると言うウェッブサイトまであるぐらいですから。アジア人の男とデートしていることを、ネット同好会のなかで自慢し合うと言う、夢のような話です。

でもLanceさんがおっしゃるようにあと6年ぐらいですね。アメリカでアニメがメインストリームになるのも。インターネットが普及して10年ですし、あと6年もすれば、アニメを当たり前のように見て育った子供が青春を迎える訳ですから。そしたら一気に企業も日本のアニメをフランチャイズに取り入れるので、メインストリームに入ってくるでしょう。今はまだ子供が対象ですが、今度は青少年が狙われますね。

アメリカで人気音楽グループのゴリラも日本のアニメをビデオクリップに使っていますから。でも、そうなった時は、オタクはきっとサブカルチャー時代を懐かしむことになるでしょう。また、メインストリーム派とサブカルチャー派に分裂するかもしれません。パンクロックでも同じことが起きましたから。カントリーでもそうですし。アニメオタクは今流行っているからアニメを見るのではなく、純粋にアニメを愛してるからアニメを見ますからね。そこがメインストリームとサブカルチャーの違いですね。

そうですね。ハインツを使う食品を食べるのは経済状態が悪い人々ですから。そう、国家ビジネスですよ。また国家戦略ですね。世界を肥満にしたいんじゃないですか。フランスでマクドナルドをボイコットする事件が起きましたから。食べ物と健康が経済状態を繁栄しますから。

カードキャプターさくらは素晴らしい作品でした。Lanceさんが推薦されただけあります。でも世紀末にこのアニメを見てなかったのは残念ですね。私は世紀末の時、プリトニィー一辺倒にハマっていましたから。

では、近々お会いしましょう。




Lance
あっ、そうそう! 偶然ですが、自分の出身地は「青梅市」ですよ〜!  ボッパルトが姉妹都市なのは知ってました!
青梅は自然いっぱいで良いトコです! 夏は川で泳げるし!


ヘルメス
ええ、人が泳げるほど川がきれいなんですか。珍しいですね、東京で。東京に自然が豊かというイメージはあまりなかったので。ロサンゼルスに自然の美しさがあるとはだれも想像できないでしょう。ロサンゼルス川で泳いだら、それこそ発癌して、死んでしまいます。

おお、ドイツと姉妹都市ということは、青梅では生粋のアーリア人であるブロンドのドイツ人美女がウロウロしているのですか? 


Lance
いえ全く。 そんなに活発に交流していないのが現状ですね。   でも青梅市はわりと広くて、田舎のとこもあればそこそこ都会の場所もあって、その辺は少しは外国人は居ますね。でも、自分の方は田舎方面なのでほとんどいないです。
 

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アメリカでは同性愛者は白い目で見られることもある。特にキリスト教が強い中西部と南部ではホモセクシャルに対する偏見は根強い。ホモセクシャルを差別する宗教はない方が世界のために良い。そんな宗教はこの世に全く必要ない。しかし何億人という信者がいるキリスト教やイスラム教は滅ぼすことは不可能だ。そんなホモセクシャルを否定する宗教を信じていること自体理解できないが。しかし滅ぼすことができないのなら宗教教義を改革するまでである。だからそれらの宗教は基本的人権を尊重する教義に改革させるべきである。

アメリカではキリスト教が蔓延しており、ホモセクシャルはそのために不当な扱いを受けてきた。テキサスでは2003年まで同性とセックスすることは犯罪であった。しかしマイノリティーのローレンスという勇気ある青年がテキサス州相手に裁判を起こし、見事に連邦最高裁判所に於いて全ての州のホモセクシャルに対する不平等なセックス法を無効化させたのである。しかし連邦軍にはその判決も適応されないと言う。だから軍はいまでも反ホモである、とても残念なことだが。

最近では「ブロークバック・マウンテン」という田舎のカーウボーイの同性愛を描いた映画が全米を震撼させた。あれは衝撃的であり、議論を沸き起こした。日本でも同じ時期にホモセクシャルを題材としたアニメが流行った。それは「マリア様がみてる」である。

日本は若衆道が昔から存在しており、ヨーロッパのようにキリスト教に弾圧されることもなかった。またヨーロッパでは神が死んだ後も科学国家であるナチスではホモセクシャルはガス室に送り込まれた。しかし日本で若衆道がタブー化されたのは明治維新の後であり、西洋文化のキリスト教倫理と儒教道徳が折衷して起きたものであり、新しいものである。そんな中、そのような圧迫と偏狭に対抗して、あからさまに小説でホモ作品を書いたのは三島由紀夫であり、「仮面の告白」はその代表作であろう。しかし今はアニメで世界は日本の文化を知り、我々はハリウッド映画でアメリカの文化を知る。世界で最も知れ渡っている総合芸術はハリウッド映画と日本アニメなのだ。だから「マリア様が見てる」で世界は日本のホモセクシャルの作品を知ることができる。ちょうど我々が「ブロークバック・マウンテン」やエリザアベス・テイラー主演の「Suddenly, Last Summer」でホモセクシャル作品を知るように。アメリカではハリウッドが世界産業だが、日本ではアニメが世界産業だ。ともにそれぞれの世界市場で80%ものシェアを誇る芸術である。

一方、清教徒文化のアメリカでは「ブロークバック・マウンテン」は大騒ぎになるほどだった。なぜなら純愛物語だからである。以前トム・ハンクス主演の「フィラデルフィエア」というエイズ問題を扱った映画であったが、あれは純愛物語ではなかった。つまりホモの純愛物語を扱った映画は保守的なアメリカでは受け入れられていなかった。それはまだ文学だけの世界に留まり、ハリウッド映画の領域では一種の聖域となっていた。それまではホモは流行っているからという程度でしか、映画では取り上げられなかったのだ。そう、同性愛キャラはスパイス的な存在でしかなかったのだ。自由の国と言われるアメリカだか、その実態は変化に乏しく、実に保守的である。なにしろアメリカの90%以上が田舎であり、80%以上の土地がまだ未開拓と言われているのだから。だから新しい価値観がアメリカの隅々まで行き渡るのには国土があまりにも広過ぎるというのも関係しているであろう。

事実、アメリカでは「カードキャプターさくら」というアニメが放送される時、かなりのエピソードが削減された。李小狼が月城雪兎に、大道寺知世が木之本桜に抱く同性愛を示唆するようなシーンなどがアメリカの子供によろしくないということで、そのようなシーンがあるエピソードはアメリカでは放送されなかったのだ。「カードキャプターさくら」は別にホモセクシャルを題材にしたアニメではないにもかかわらず、アメリカの厳格な清教徒倫理の犠牲になってしまったのである。「カードキャプターさくら」はあの何かと規制にうるさくお固いイメージがつきまとう国営のようなNHKで放送されていたぐらいなのだから、自由の国アメリカで一体何が問題になったのか、全く理解できないが。清教徒倫理による圧迫と偏狭によるものとしか思えない。そのような社会風潮に「ブロークバック・マウンテン」は真っ向から挑んだのである。もちろんサブカルチャーではホモセクシャルものは強い支持を持っていたが、メインストリームに本気で殴り込みをかけたのがこの映画であろう。

日本でもオタクの間ではホモ・アニメは狭く深い支持を得てきた。だが「マリア様がみてる」はメインストリームで人気が出たのである。しかも「マリア様がみてる」は今まで世界を席巻したスーパーヒーロー的要素を全て一掃している。というのも登場人物に普通の人間には備わっていない超人的な力を発揮するということがないからだ。いわゆるこれまではホモは超人的なキャラクターの特権として扱われてきた節がある。そう、強いスパイスを料理に使うかがごとく。だが「マリア様がみてる」の登場人物は、やけに綺麗だが、スーパーヒーローのような超人的な能力はなく、いたって普通の人間である。つまり素の同性の純愛をテーマにしたアニメがメインストリームで受け入られたのである。これは今までになかった現象と言えよう。アニメでは初めてではなかろうか。確実に時代が変わってきていると言えよう。

だから「ブロークバック・マウンテン」で扉をこじ開けたアメリカにおいてこそ「マリア様がみてる」を伝導すべきであろう。アメリカの市場を制するものは世界を制する。なにしろグローバリゼーションはアメリカから始まっているのだから。世界の総合芸術であるハリウッド映画とアニメで同性愛者の権利拡張を訴えるのである。ハリウッド映画市場では「ブロークバック・マウンテン」が成功を収めた。だから今度はアニメの世界市場で「マリア様がみてる」を出荷し、世界の人々の意識改革を行うのである。そして「マリア様がみてる」は世界中の同性愛者を勇気づけることになるであろう。


「カトリックのホモフォビア」


「マリア様がみてる」は私立リリアン女学園というカトリックの女子高校が舞台であり、上流階級の学校と見える。まったくキリストはプロレタリアート、いや当時は貧困層のために天から降りてきたと思っていたが、この学校はプロレタリアートを奴隷のように扱う排他的な貴族階級の子供が通うような、キリストの教えとは矛盾撞着している私立高校であろう。ニーチェだってキリスト教を奴隷道徳と批判していたではないか。まさかカトリック=金持ちの図式が出来上がっていたとは、摩訶不思議である。またリリアンではフランス語もたくさん使われているので、フランス系カトリックと見える。それにしてもなんでブルジョワジーはフランスが好きなのだろうか。フランスはブルジョワ革命によって建てられた国だからか。フランスは高貴というイメージがあるのだろうか。確かに私の会ったフランス人の女性は上品で綺麗だったが、男はガサツで下品だと感じた。だからフランスは上品とは思えない。それにジダンのヘッドバットを見れば、一目瞭然である

アメリカ人にとってカトリックとはラテン系の宗教、とくにアメリカで最近膨れ上がる英語もろくに話さないヒスパニックの宗教というイメージがあるので、まさか日本では上流階級と結びつくとは夢にも思わないであろう。アメリカでは伝統的にカトリックは敵視されてきた。アイルランド移民がなだれ込んできた時は「Know Nothing Party」という政党が結成され、反カトリック移民排斥運動が起こった。そしてその残党は共和党に移籍した。それに反対する勢力はアイルランド系の支持を得た民主党系であり、ニューヨークで抗争が起こった。その抗争がレオナルド・デカプリオ主演の「ギャング・オヴ・ニューヨーク」という映画のテーマである。

だからカトリック出身で大統領になったのはケネディーただ一人である。だがケネディーは、
「私はアングロサクソン・プロテスタント価値観を共有するアメリカ人であり、カトリックはただの肩書きだ」
と公言した。まあ、シュワルツネッガーもカトリックであるが、彼もかなり進んでいる。そしてシュワルツネッガー知事の妻もケネディー家の令嬢である。しかし最近カトリックはアメリカの政治に口出しするようになった。カトリック教徒であるケリー候補が中絶賛成ということで神父がミサからケリー候補を閉め出すと発言したのである。私はそれで、
「カトリックというのはどうしょうもないな。」
と思った。時代遅れの宗教としか思えなかったのだ。それに、カトリックはあまりにも形式にとらわれすぎている宗教なので、リリアンの生活基準が厳格というのもつい納得してしまう。

まあ、今の教皇のような時代錯誤で保守的な人間がカトリックの長になれるのだから、規律も当然時代遅れとなるであろう。なんでリベラルな人を教皇に選ぼうとしないのだろうか。それこそコンクラーベ政治、いやゆる密室政治の最大の汚点である。それだけでもカトリックは錆び切っていることが明々白々である。まあ、カトリックで唯一良かったことはマザーテレサが出たことぐらいか。あとは中南米を侵略して無理矢理先住民を改宗させた悪の宗教としか印象にないが。修道院はミリタントな規則でも知られているし、校則も自然と厳しいものを採用しているであろう。高等部では姉妹関係が校則に取って代わられているというが、初等部から叩き込まれてきた厳格な規則は高等部になるとしっかり染み付いてしまったいるからだ。いわゆるエスカレーター式の洗脳プログラムである。だからこそ緩やかな校則になっても姉妹システムが円淳に可動していると言ってもいい。確かに姉妹システムが校則に代わって生活指導を担当できていると言うのも間違いではないが、それは初等部からの洗脳プログラムという代価を払っているからだ。事実、「マリア様が見てる」を見てみると、生徒はだれもケバい格好をしていない。そして話す言葉があまりにも丁寧すぎて不気味であった。先輩が後輩に対してとても丁寧なのには度肝を抜かれた。先輩が後輩を叱る時でさえも丁寧なので、
「何なんだ、この世界は!」
と慌てふためいてしまった。いやー、貴族というのは分からない。常識が全く通じない人たちなのだろうか。そういえば私の中学時代のクラスメイトも成績優秀でカトリックの女子高校に受かったと言っていた。そこも私立で、しかもお嬢様学校で頭がよく、シスターが学長と聞いている。だからあの子もあの高校であんな変な言葉を使っていたのかと思うと、気の毒に思えた。実は私の幼稚園もカトリックだったが、あんな異様な言葉遣いはしていなかったはずである。でもあの子に一番訊きたかったことはやっぱりレズビアン文化がリリアンのように彼女の高校でも当たり前に受け入れられているかどうかだ。女子校にレズが多いとは前々から聞いていたが、まさかカトリックの女子校があそこまで進んでいたとは。日本のカトリック、万歳!

それにカトリックの教皇と言えば、妊娠中絶やコンドームに反対しているし、ホモセクシャルに対しても断固反対している。新約聖書にはホモセクシャルは罪であると「ローマ人への手紙」で聖パウロは明確に宣言しているので、そんな宗教の首長を頂点とする系列の学校でレズビアンがどうして受け入れられているのか不思議で、違和感があった。普通であれば退学になっているのだろうが。しかし、なんと学園長までレズビアンであるので、驚いてしまった。この学校は確かに生活指導は厳しいけれども、恋愛に対してはかなり開かれていることが分かった。

でもカトリックはホモ反対と言っておきながら、アメリカでよく宗教スキャンダルになるのはカトリックの神父の少年愛による児童虐待をともなう性犯罪だ。出家した人間が性的いたずらをするのだから、大問題であろう。しかしリリアンの場合は出家していない世俗の女子同士なので、純粋無垢であろう。だからレズビアンは歓迎されているのだ。それはある意味、この学園は教皇よりも進歩的であると言えよう。教皇もリリアン女子学園の開放政策を見習ってほしいものだ。まあ、彼はヒットラー・ユーゲンド出身を恥じているが、厳しい面ではヒットラー・ユーゲンド譲りである。でもカトリックの学校が恋愛にここまで開放的だったとは、明らかに時代が変わってきていると予感されられて、安心した。

でもホモが罪とはパウロが書いただけで、キリストは言及していない。あれはただパウロの意見ということなので、ホモに教義上反対する理由など皆無である。パウロはキリストではないのだから。それにホモでも受け入れるのがキリストの慈悲というものだ。キリストはユダヤ祭司が祝福することを拒んだ社会的弱者を祝福したのだから。マザーテレサもだれも身よりもなくただ道端で死んで行く人にせめて愛を注ぐことによって、キリストの慈悲を実行したのだから。マザーテレサの行いが本当のキリストの教えと言っていいだろう。どんなに頑固一徹な仏教徒でさえマザーテレサは悟りを開いていると言わしめるほどだ。なんでマザーテレサが教皇にならなかったのか。私はあの人こそ教皇になるべきだと思ったのに。まあ、マザーには権力欲が全くなかったので、たとえ推薦されてもあっさりと断っていたことであろう。

「大都市のホモ」


しかしゲイやレズビアンはアメリカの大都市では自由気まま、天空海闊に恋愛を謳歌しているように見える。私はかつてアメリカ人の女友達とゲイ・バーに行ったことがあったが、彼女はそこで5回以上も女の子にナンパされていた。そしてダンスホールを見てみるとゲイやレズビアンのカップルがあちらこちらで抱擁し合い、熱いキスをしていたので、私は恥ずかしさのあまり、ずっとうつむいたままであった。友人はそんな私を見て、
「最初のうちは恥ずかしいと思うけど、そのうち慣れるよ。」
と気遣ってくれた。

それにしてもレズビアンのナンパの仕方は半端ではない。ある時、友人と一緒にカクテルを飲んでいると向こうのテーブルにとてもセクシーなブロンドの女の子がこっちをじっと見ていた。私の友人を鷹の目のようにターゲット・ロックしていたのである。女の子があんな目をするなんて、信じられなかった。まるで獲物を狙うハンターの殺気を漂わせていた。そしてその子はついに行動に出た。なんと、我々の会話にいきなり割り込んできて、友人に
「お酒、おごってあげようか。」
と言い寄ったのだ。私は驚いてしまった。普段なら失礼極まりない行動だが、あの子のセクシーさに私はポーとなってしまった。しかし友人は丁寧にも断った。というか友人は男にしか興味がなかったので、レズビアンのお誘いは受けなかったのだ。でも、ゲイ・バーでお酒を飲んでいるのなら、必然的に同性愛者と周りの客に期待されても仕方のないことだ。だが、しばらくして同じ子がめげずに、またまた友人を口説こうとした。
「ねえ、今夜暇じゃない?私とどっかに行かない?」
私は、
「おいおい、ちょっとオレを差し置いてどっか行くって、どういうことよ。」
と思った。どうせなら私も連れて行ってもらいたいというのが本心であった。しかし友人は苦笑いを浮かべながらまた丁寧に断った。私は羨望の目でその光景を見ていた。
「私が女だったなら!」
あんなセクシーな子にナンパされるなんて、まるで夢のようだ。その場で友人に頭突きでもして魂を入れ替えようかとさえ思ったほどだ。でも私はゲイからのお誘いを全く受けなかった。まあ、私は男に興味がないのだから、関係ないが。でもバイセクシャルの女の子からお誘いがなかったのはさすがにがっかりした。

そしてお酒も飲み終わってチップを置いて外に出た時、またあのセクシーな子が友人に断末魔のごとく必死になって追いかけてきて言い寄ってきた。しかも周りに人が多い中でだ。我々はジロジロ見られていた。
「ねえ、考えてよ。あなたを見たとき、あなたしかいないと思ったのよ。今夜だけでいいからさ、あたしのアパートに来ない?」
驚天動地であった。まさかあんなセクシーな女の子が、その容姿ならどんな男もイチコロにさせてしまうほどの眉目秀麗さを持っているのに、私の友人に対しては命を賭けてまで肉体的合体を渇望していたのである。だがそんな気迫にも臆することなく、友人は、
「ごめんなさい。あたし、女の子とはお友達としてしかお付き合いしないの。」
ときっぱり断ってしまった。すると、さすがのセクシーなブロンドガールも肩を落とし、とぼとぼとゲイ・バーに戻ってしまった。まるで完全にノックアウトされたかのように。あの子の自尊心は粉々に打ち砕かれたことであろう。なにしろ周囲に認められる美女だったのだから。しかし相手があまりにも悪かった。なにしろ相手は全く女の子に性的に興味がないのだから。

それにしても女の子が女の子を死にもの狂いでナンパしようとするなんて、そんなことを目撃したのは生まれて初めてであった。あの時、自分がいかに井の中の蛙であったかを徹底的に思い知らされた。これまで築き上げてきた全ての価値観が一瞬にして破壊された。やはりアメリカは壮大な国だ。カリフォルニアより狭い日本ではホモセクシャルの存在すら知らなかったし、オカマぐらいは見たことはあったが、彼らが実際ホモだったかどうかは謎である。しかしアメリカのホモは本当にホモである。なぜなら外見上いたって普通だからだ。それに同性に対するナンパは異性に対してよりも攻撃的であり、下手したらストーカーまがいな行為に至ってしまう危険性をはらんでいる。実生活でホモセクシャリティーに遭遇したのはこれぐらいだが、アニメでは「ベル薔薇」や「ウテナ」などがあった。でも、それらのアニメは同性愛を示唆する程度で、あからさまなことはなかった。しかし「マリア様がみてる」に出会って全てが変わった。それは青天の霹靂であった。



マリア様がみてる」の感想


私は白薔薇ことロサ・ギガンティアの姉妹関係はとても興味深いと思った。白薔薇の姉妹は伝統的に口数が少なく自由放任で禅宗のように思える。そう、言葉を使うことなくコミュニケーションをとっているのだ。佐藤聖が妹に選ばれたのも「顔がいいから」というあまりにも単純な理由であり、聖に思慮分別をさせない答えであった。まるで聖の姉は「どうして達磨は中国に来たの」を「庭前の柏樹子」と答えているかのごとくである。そして聖がロサ・ギガンティアに昇格し、将来妹となる藤堂志摩子に会ったときも以心伝心でピンと来た。白薔薇ファミリーの伝統の伝え方は禅宗そのものである。

そう、白薔薇ファミリーはカトリックのなかの禅宗のようなものだ。だから私は不思議に思った。と思ったら、やはり志摩子はお寺の住職の娘であった。私は「Les Fluers De Cerises(チェリーブロッサム)」というエピソードを見て、
「やっぱり!」
と思った。どうりで言語道断なわけである。アニメにでてくる藤堂家のお寺は円覚寺に似ており、臨済宗と示唆している。だから志摩子は禅宗である。よって志摩子も公案的な会話を好むのである。そして志摩子の妹となる乃梨子もまさに以心伝心で桜の木の下で志摩子と通じ合っていた。志摩子が
「綺麗な桜は他にもたくさんあるわ。でも、この木のように特別に惹き付けられることはないの。どうしてなのかしらね。」
と言うと
「銀杏の中にただ一本、一人きりなのに、こんなに綺麗に咲けるから。」
と乃梨子は答えた。そして乃梨子は志摩子についている花びらを取ろうとして髪の毛に触れるが、そのとき志摩子の美しさに見蕩れてしまうのだ。そして乃梨子も仏教系であり、仏像が好きで、とくに弥勒仏がお気に入りのようだ。

弥勒仏といえばマイトレーヤーであり、サンスクリット語のmitram(友情)が元となっている。そして弥勒仏は衆生を救う救世主であると言う。まさにキリストに共通するものがある。そしてイエスの母が聖母マリアなのだから、観音様と言ってもいい存在である。観音様は慈母的であり、般若心経でも冒頭に「観自在菩薩」として登場する。観音様はサンスクリット語で「Avalokiteshvara」といいava(下を) lok(見る) ita(名詞に変える後置詞)ishvara(主人)という単語で構成されている。つまり「上から見ておられる方」という意味である。それが観音様だ。だから「マリア様がみてる」もマリア様が天から我々を見守っていることを意味しているので、アリア様も観音様と同じ役割を果たしているのである

それにマリア様はリリアンの守護聖だけでなく、ロサンゼルスの守護聖でもある。ロスアンゼルスの正式名称はとても長く、「El Pueblo de Nuestra Señora La Reina de Los Angeles de Porciúncula」である。訳すると「ポルシウンクラ(フランシスコ会修道院の裏庭の畑)の天使の女王である我らの女主人の町」となる。「Los Angeles」とは「天使(男性形複数形)」という意味である。「La Reina」が「女王」であり、これは聖母マリアを指す。ついでに「Nuestra Señora(我らの女将)」をラテン語にすると「Nostra Damus(ノストラダムス)」にある。だから大予言で有名なノストラダムスの名は「マリア様」という意味なのである。そしてフランスの有名なノートルダム寺院の「Notre-Dame」もマリア様のことであり、「ノストラダムス」がフランス語訛りになったものである。つまりマリア様は私の町であるロスアンジェルス、リリアン女学園、パリを見守り、世界に遍在するのである。だから「マリア様がみてる」なのである。

でも志摩子があそこまで魅力的だなんて。私はやっぱり破戒僧をもっと多くした方がいいと思った。あれだけかわいい女の子が坊主から生まれてくるんだから、破戒をどんどん推進して行くべきである。そうすれば美女人口が増加する。これこそ日本の少子化対策である。それにこのアニメを見て仏教僧の娘は可愛いことが分かった。志摩子のお寺はきっと臨済宗だし、臨済宗には美女がたくさんいるのだろう。なら私も志摩子の親父が住職を努める小寓寺の檀那になろうかなあ。そうすれば志摩子のようなかわいい子に出会える機会が増すはずだ。そういえば小寓寺を検索したらちゃんと檀家のサイトが出てきたではないか。志摩子は仏教でカトリック、いいね、さすがは日本だね。欧米だったら、宗教を二股かける伝統がないのだから、一神教だけあって。でも禅はカトリックの聖職者やユダヤ教のラビも試しているみたいだし、禅はどの宗教にも適応するのではないかと思う。もし志摩子がイスラムであったら、ちょっと難しかったと思う。でも、小寓寺のサイト、見つけたので、早速檀家に登録してみようかな。そうすれば私は志摩子の檀那(旦那=husband)になれるのだから。

それはさておき、私がもっとも心打たれたエピソードは「Les Petales Blanches(白き花びら)」であった。それにしてもなんという美しい物語だろうか。佐藤聖の悲劇の恋を描いたものであり、私は恥ずかしながら泣いてしまった。私は聖と似たところがある。
「私の中には何一つ潤いがない。乾いた荒野の中で私は一人、途方に暮れているのだ。」
それはまさに私の心境そのものだ。アメリカの荒野の中の孤独な一匹狼として過ごしてきた。そんな孤独の中、聖は久保栞に礼拝堂で出会う。聖の一目惚れだった。そしてたちまち二人は恋に落ちるのだ。聖と栞のキスシーン、なんと華麗な。永遠の愛を誓ったはずの二人であったが、しかしある日、礼拝堂で栞は出家することを聖に告げ、聖はショックを受けてしまう。聖は栞に詰め寄った。
「あたしと神様、どっちをとるの!」
そして聖は栞に強引に口づけをしようとしたが、栞は振りほどいて、
マリア様が見ているから。」
と言った。打ちのめされた聖は礼拝堂を去り、
「私はマリア様に負けたのだ」
と捨て台詞を吐いた。この言葉は私の心奥深くにどれほどまでに印象を与えたことだろうか。とても重い一言だった。恋は神に奉仕するためには不要と栞は論ずるのである。カトリックとはなんと残酷な宗教なのだろう。だいたいどうして仏教とカトリックには出家があるのだ。カトリックだって日本の仏教のように坊主になっても恋してもいいことにすればいいのに。今の時代にそぐわない。聖をとるか、神をとるか。そんな選択権しか与えられないなんて、あまりにもむご過ぎる。麗しい恋は社会的圧力に勝つことができず、悲劇に終わってしまう。「忠臣蔵」でもそうだし、「トリスタンとイゾルデ」もそうだ。とても切なかった。でもレズビアンの恋がここまで綺麗に描かれるとは。とにかく感動した。私がここまで感動したのはワグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観て以来だ。

でもシスターの人口が一番多いのは本家イタリアではなく、なんと日本である。ということは日本人の女の子がカトリックへの憧れを持ってしまったら貞潔になってしまい、日本の男子が性的満足を得る確率が減ってしまうということだ。ただでさえ若い世代では男の数が女の数を上回っているというのに。これはまずい。事実、世界で最もシスターの人口が多いのは日本なのだから、それでもう日本男児は不利な訳だ。それにただでさえ日本は少子化問題に悩まされているのに、そんな時代にシスターをはじめとする出家信仰など推進していいのだろうか。せめて日本仏教のように、出家しても性的関係だけは特例として許可されなければならない。

それにしても、なぜここまでカトリックが女性の間で広まってしまったのだろうか。カトリックの男子高校なんてめったに聞かない。しかし女子校はいつもだ。寄りによって、なんでシスターなんかに憧れを持つのだろうか。女性はシスターになっても枢機卿や教皇にはなれないのだ。そんな性差別制度にどうして入信したいと思うのだろうか。だから私が出家者に憧れることなどない。そもそも「砂漠の父」と呼ばれた人たちがキリスト教に出家の伝統を植え付けたのだ。イエスが出家していたかどうかは分からない。砂漠で修行していたようなことを聖書は示唆しているが、正確には分からない。洗礼者のヨハネなら出家していたようだが、まあホームレスと言った方がいいかもしれないが、それに近かったと思われる。まあ、反抗者のカルトであったので、そうなったのかもしれない。

でも出家は人間を捨てるような自殺行為だ。アリストテレスは共同体に属さないで生きて行けるのは神と獣しかいないと「政治論」で述べていたが、きっと出家者は神か人間を超えた存在になりたかったのだろう。それか獣のように食べ物にありつけず死んで行くか。神と獣は紙一重か。そういえば獣は稲荷など神であるし、イエスも贖罪の羊と自分を呼んだ。だから神と仏は人間を超えた存在なのだろう。それを目指すのが出家者の勤めなのかもしれない。しかしどうして人と性的に関わっては行けないのだろう。どうしてそこまでして性を敵視するのだろうか。まるで人間そのものを否定しているようだ。神に近づくためにはそんなことまでしなければならないのか。

とにかく、こんなに綺麗なアニメは見たことがない。あまりもの美しさのために見蕩れてしまった。美しい物語であり、美しい絵画でもあり、美しい音楽でもあり、総合してとにかく美しい。BGMも19世紀の西欧音楽が使われていた。あのグノーの「Ave Maria」も最高に美しかった。特にステンドグラスから発せられる七色の光を浴びながら明眸皓歯な小笠原祥子の弾くオルガンのAve Mariaは言葉にできないほど優雅であった。まるで私のこれまでの人生が全て罪で覆われていたような気持ちになって、マリア様の前で懺悔して、
「これからは正しく生きて行きます。」
と誓おうかと思ってしまったほどだ。心の中まで純化されて行くような、子供の時のような無垢な心に帰るというか、いつの間にか涙が溢れ出てくる。
「どうして泣いてるんだ、オレ・・・。」
そんな心境である。私は普段は無神論者だが、こんな素晴らしい音楽を聴いた時は、天使が舞い降りてくるようで、本当に神は存在するのではないかと錯覚し、もはや私の思考回路は完全停止に追い込まれてしまったほどだ。ラテン語によるAve Mariaは最高無比である。効能書きの読めぬところに効能ありと言うが、まさにその通りだ。一応ラテン語の意味するところを理解しているが、やはり神聖さを感じずにはいられない。まるで梵我一如を音楽によって体験するかのようだ。教会音楽は偉大だ。

私が最も神に近づける瞬間はパイプオルガンによる教会音楽の演奏の中であろう。だからドイツのカトリック教会の大聖堂でパイプオルガンによるバッハの曲の演奏を鑑賞することが私の夢だ。以前、ドイツに行った時はそれが叶わなかった。だからとても後悔している。私はそれによって神を体験したいのだ。もちろん私には美女への渇望もあるが、エロスは最終的には神に辿り着くと言われている。だからこそリリアンでのレズビアンの恋愛は許されていたのではないだろうか。私がきっと輪廻転生して女に生まれてきたとしても女を愛することには変わりないであろう。女性の美しき肉体は神の創造物としか思えないからだ。美しい女性に美しい音楽との合体、これぞ梵我一如の真髄である。私もなんだかんだ言ってキリスト教を批判しておきながら、結局は芸術によって神の存在をいとも簡単に感じてしまうなんて。まだまだ修行が足りないと見える。普段は鉄血の無神論者として物事を考えるのに。芸術は恐れるべし。

ということは、実は私が精神病に悩まされていることを告白しなければならないのか。まるで三島由紀夫の「仮面の告白」のような心境だ。しかしここのブログでは私は源氏名を使っているし、私が別人としての暗黙の了解がブログ界では存在する。だからこそ勇気を振り絞ってここにおいてロサンゼルスの守護聖であるマリア様に私の苦悩を告白するのだ。だから「若きヘルメスの悩み」か「源氏の告白」と言ってもいいであろう。

ああ、私がどんなに女性の美を賛美しているか、それは世界でただ一人、マリア様にしか分からないであろう。女性の美と私の関係は駿河の富士と一里塚のようなものだ。だから自分自身に嫌気がさした。しかし、この現実界においては私が自己嫌悪に陥ったことに人々は批判的であった。そして、私が自己嫌悪を正当化させようとする度に彼らは、
「理屈と膏薬はどこにでもつく。」
と私を痛烈に批判してきた。色々な理屈を試行錯誤して、なんとか自己嫌悪の原因を突き止めて相手を納得させようとしたが、どれも簡単に反駁された。だが、このアニメの発見によって私の悲観主義をこれでもかいうほど正当化させることができるようになった。そしてマリア様が私の側に着いた今、さすがの彼らも反論することはもはやできないであろう。これでようやく彼らを黙らせることが出来るのである。やっと勝利の女神であるマリア様が私に微笑んでくれたのだから。

それに、私にはヒロインの小笠原祥子にいだく憧れの気持ちが手に取るように分かる。私はマリア様を通じて主人公に同化した、というか私は主人公そのものだ。特に祥子さまがオルガンでAve Mariaを演奏するあの華麗な姿、私も主人公と同じく、
「はああ・・・。」
とウットリしてしまった。日本人形のような容姿端麗さと鍵盤楽器を見事に弾きこなす才色兼備さ、そしてあの黒く美しくデリケートでツヤツヤした長い髪、完全に心を奪われてしまった。あんな完璧な非の打ち所がない絶世の美女から
「私を『お姉さま』とお呼びなさい。」
と主人公みたいに正されたら、無抵抗かつ無条件で服従してしまうであろう。なにせ普段の私は生粋の個人主義者だ。だからだれにも服従しないで生きて行けたらなら、それにこしたことはない。しかし、生きて行くためにはやむなく服従せざるを得ない。だから企業の奴隷となって上司の命令に絶対服従するのは私の性に合わない。どうせなら自営業者のようにスーパー個人になりたい。つまり私は人の機嫌を伺って、追従して、いわゆる「kiss ass」に身を落としてまで服従するタイプでは断固ないということだ。しかし、そんな私でさえ祥子さまのようなあそこまで綺麗な人の御前では我を忘れてしまい、
「はい、お姉さま。」
と従ってしまうであろう。まるで「北斗の拳」のユダが最後までレイに対する劣等感を克服できなかった心理のようである。私の祥子さまに対する憧れと嫉妬心はそれに似たものであろう。しかし、いざレイの美技を目の前にすると自分の劣等感さえ忘れさせてしまうほど、美しいのである、というか美し過ぎる。それと同様に祥子さまは美し過ぎる。あのオルガンを弾いているシーンを見た時は、恍惚の光が私の体全てを包み込んだ。そう、まるでベルニーニの「聖テレジアの法悦」のように。

ああ、祥子さまの妹になりたい。しかし、なぜ私は男なのだろう。だから私は自分の運命を呪った、なんで女に生まれてこなかったのかと。どうしてレズビアンに生まれてこなかったのだろうかと。男に生まれてきたばかりに祥子さまが在籍されているリリアンに入学できないとは、不覚。それに私は祥子さまと相性が合っていると思う。なぜなら私は祥子さまと同じく男嫌いだからだ。よって私は男である自分が嫌いだ。だから私は自己嫌悪に陥っているのである。どうせなら主人公に代わって私がプチ・スールになりたい。その過剰な欲求のせいか、私は知らず知らずのうちにリリアンの学園服に憧れを持つようになり、自分がそれを身にまとっているという白昼夢に耽るようになり、いつの間にか、
「私は祥子さまの妹。祥子さまの妹、妹、妹・・・。」
とぶつぶつ唱えている自分に気がついて、かなり困惑している。このままではドゥルーズとガタリの言うところの分裂病を煩ってしまう。だがそれが私の正直な志なのだから仕方がない。今さら万人に頭がおかしいと思われようとも、ええい、どうにでもなれ。なにしろこれは私の告白なのだから。だからマリア様のもとで叫ぼう。
「祥子さま、ロザリオを私に下さいまし!」
と。

それにリリアン独自の姉妹関係というのもソクラテス時代のシンポジウムの同性愛的な師弟関係を思い起こさせるものである。つまりシンポジウムのレズビアン版がリリアン女学園高等部なのである。それに「レズビアン」という単語もギリシャの女流詩人サッポが活躍していた島の名前「Lesbos(レスボス)」から派生しているのだ。サッポは世界史においてレズビアン第一号であった。古代ギリシャの師弟関係はもちろん性的であったが、かなりリリアンのように純化されていたプラトニックな節もある。それが最高の教育法と考えられていたからだ。日本でも大正・昭和初期に姉妹ブームが女学校で流行ったとされている。そして宝塚にも姉妹関係があるとされている。ということは日本には元々このようなレズビアン文化が存在していたということだ。なんと素晴らしいことなのだろう。リリアン高等部は古代ギリシャ式教育法とレズビアン文化が混同しているのである。ただし、エリートの学校というのはキリストの教えに反すると思うが。

しかしこのアニメがちょっとフランスかぶれになっているのはアメリカ人として気に入らないが、それでもマリア様のもとでの女子高生の青春を描いたこの作品はアカデミー賞ものだ。「千と千尋の神隠し」より遥かに素晴らしい。アメリカでも「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー賞を取ったのだから、「マリア様がみてる」も同様アカデミー賞にノミネートされてもおかしくない。どうして映画界の人間はだれも語ろうとしないのか。これほど美しいアニメが存在しているというのに。今こそ沈黙を打ち砕け、サイレント・マジョリティーよ!


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【2006/10/21 04:32】 | アニメ
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かーねぎー
はじめまして。
トラックバックありがとうございました。

これほど「マリみて」について深く
掘り下げた記事は初めてでしたので
感動しました。

私もこの作品が持つ
清らかな雰囲気がとても好きです。
祥子、祐巳をはじめとする女の子達が
とても綺麗に描かれていますよね。
私も女性だったらリリアンに
入りたかった!

女性が女性を本気でナンパした
話などとても興味深かったです。
日本のテレビなどでホモキャラなど
多数存在しますが、彼らはあくまで
「キャラクター」としてのホモであって
実際に同性愛者かといったら、かなり
疑わしいですからね。
もちろん女性の同性愛者もお目に
かかったことはありません。
私もそのシーンをみてみたかったです。
かなりの衝撃だろうなぁ。

それではまた。



ヘルメス
かーねぎーさん、

コメントありがとうございます。「マリみて」の素晴らしさを共有できることがどれだけ素晴らしいことか、とても励みになります。

いや、ほんとうに嬉しいですね。アメリカでは負け組になると本当に地獄ですからね。というか、どうしてあんな状態で結婚して家族を作れるのか、不思議ですね。普通は貧困に陥ると、子供を作って育てる余裕などないと思うのですが。まるでシジフォスのように石を頂上に運び切る前に、力尽きてしまいそうです。その向こうには豪華絢爛たる勝ち組の要塞都市が見えるのに。

そんな中で、「マリみて」は理想郷とは言いませんが、なぜなら、リリアン女学園はもっぱら勝ち組の学校ですから、しかし、それでも優雅な世界が広がっていて、清らかですから、憧れてしまいます。地獄の中での地蔵菩薩の光といったところでしょうか。やはり庶民でもリリアンに入学できるようにするにはヴァウチャー制度導入ですよね。

また「マリみて」の共感者からのコメント、とても励みになりました。感動しました。ありがとうございます。

「マリみて」をぜひ世界の人に見てもらいたいです。あの美しさを世界に知ってもらいたいです。


mugi
TBありがとうございました。
記事を面白く拝見させて頂きましたが、私は同性愛に関しては保守的な思想の持ち主なので、以下のコメントはご容赦を。

>ホモセクシャルを差別する宗教はない方が世界のために良い。そんな宗教はこの世に全く必要ない。
あなたがそう考えるのはご自由ですが、残念ながら世界の諸宗教で同性愛を認めるものはありません。同性愛を認める宗教は成立し得ないでしょう。受け入れられる者自体が少数派だけでなく、教義自体が異性愛者を獲得できませんし、教団運営能力もあるか疑問です。

同性愛者を擁護される方に問いたいですが、もし、あなたのお子様や兄弟が同性愛者なら、どう思われますか?
私も反社会的な犯罪者の異性愛者より、法と秩序を守る同性愛者の方が遥かに優ると思います。ただし、同性愛者が権利を声高に主張する事には嫌悪と不信感があります。大抵彼らの後ろには胡散臭い人権団体がおりますから。
そして、あなたの紹介されたアメリカのレズビアンはまるで節操がありませんね。女好きのナンパ男の方が遥かに紳士です。

あなたはアメリカのカトリックを中心に書かれてますが、欧州も宗教の重圧はかなりあります。宗教事情に疎い日本のマスコミはまず取り上げませんが、或いは無視しているのか。
現代最も同性愛者を迫害しているのはイスラム圏ですね。かつてオスマン・トルコ、ムガル朝の宮廷には多くのスルタン相手の小姓がいて、性的奉仕もしていましたが、現代は同性愛の疑いをかけられただけで身体生命の保証がない国もあります。

よく立派な宗教家にマザーテレサが挙げられますが、在日ドイツ人が皮肉たっぷりに「マザーテレサ、スーパー物乞い」という記事を書いてますので、よろしかったらご覧下さい。 
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/motherteresa.htm

日本はイタリアよりシスターが多いとは知りませんでした。日本のマスコミの欧米崇拝報道振りゆえ、訳も分からず若い女性が憧れるのでしょうね。魅力も才能もない女たちの永久就職先としては、格好の場ですから。カトリック側の洗脳工作もあるかも。

私はアニメはまず見ないので「マリア様が見ている」も未見ですし、この絵からして関心もありません。
あと、観音様ですが、これはキリスト教のマリアよりも、ゾロアスター教の女神アナーヒターの影響があるのは明らかです。特に大乗仏教はゾロアスター教の影響なしには成立しなかったのですから。

以上、厳しい長文失礼しました。


ヘルメス
mugiさん、コメントわざわざありがとうございます。

>残念ながら世界の諸宗教で同性愛を認めるものはありません。

だから改革して行こうと努める訳です。アメリカ、とくに田舎のようなオクラホマでも同性愛を認める教会が出てきているほどですから。まだまだアンダーグラウンドですが、そのうちメインストリームに受け入れられて人々の意識も変わることでしょう。それこそが正しい生き方、というのではなく、それもあっていい、ということです。

>同性愛者を擁護される方に問いたいですが、もし、あなたのお子様や兄弟が同性愛者なら、どう思われますか?

身内や友人に同性愛者がいれば、理解に努めようとする確率は高くなります。チェイニー副大統領とブッシュ大統領の亀裂はそれが原因です。ブッシュはアメリカ全土で同性愛の結婚を全面禁止するよう連邦憲法を改正しようとしています。しかしチェイニーは娘が同性愛者であるため、その裁定は各州に任せようと異議を唱え、意見が対立しました。チェイニーのような筋金入りのネオコンでさえ、自分自身の家族に問題を抱えていると、個人的なことが政治的となります。だから、身内に、また自分が同性愛者であった場合、なおさら深く考慮するのではないでしょうか。でも、今は家族に自分が同性愛者だと打ち明けられる文化的環境に変化しているということは、素晴らしいことです。これからもっと進歩してゆくでしょう。

>胡散臭い人権団体がおりますから

そういう団体が背後にいなければ、よろしい訳ですね。

>「マザーテレサ、スーパー物乞い」という記事を書いてますので、よろしかったらご覧下さい。 

読ませていただきました。マザーの自伝を読んでも、いいところばかり強調されているので、こういう記事はとても貴重です。とても参考になりました。私の記事でマザーに対する批判を全くしていなかったのが、欠点でしたね。もともとマザーも批判の対象にしようかどうか迷いましたが、もっと掘り下げていくべきでした。マザーはなにせ、超保守ですから。そうですね、マザーが素晴らしいとなると、シスターに憧れる女性が増えてしまいますからね。


>現代最も同性愛者を迫害しているのはイスラム圏ですね。

ごもっともです。

オスマンのハーレムのことは私のアルメニア人の知り合いから聞いています。かつてアルメニア人の少年がオスマンだけでなく、イランの王室などでも性奴隷として使えてきましたから、その悲惨な歴史は彼らの間で語り継がれています。まあ、カトリックでもアルター・ボーイが餌食になっていますが。

>特に大乗仏教はゾロアスター教の影響なしには成立しなかったのですから。

なにかしら西域の影響を受けているのは確かだと思います。経典を漢訳した仏教徒は西域出身が多かった訳ですし。またキリスト教もゾロアスター教の影響を受けています。しかし今日日本でイメージされている観音様は中国文化で形成されたように思われます。

>魅力も才能もない女たちの永久就職先としては、格好の場ですから。

いいところをついてます。私ももしアメリカ資本主義社会で競争に敗北してホームレスになるくらいなら、出家か自殺ですからね。物乞いになって生き恥をさらす訳には生きません、名誉を守るためにも。でもシスターって還俗できないんですかね。「サウンド・オヴ・ミュージック」では主人公はたしか還俗したと思います。でも綺麗な女性が出家してしまうのは本当に我々にとっては痛手です。実際魅力的なシスターを見て、憂鬱になったことがあります。懺悔どころではありませんでした。どうせなら親鸞のように非僧非俗にすればシスターも問題ないと思いますが。

>この絵からして関心もありません。

ショックですね。「マリみて」を中心にこの記事を書いたのに、そんなことを言われてしまっては。まあ、こちらが勝手にトラックバックしたのが悪いと言えば悪いですが。「マリみて」を見ていたら私の記事の内容にもっと共感できたと思います。それにしても、こんなに美しいアニメの良さを共感していただけないとは、非常に残念でなりません。あんな感動したアニメは初めてだったもので。声優のキャスティングも素晴らしいと思いました。まあ、人の美的意識は個人的ですから、どうしょうもないことです。まあ、そう言う人もいるということで、受け流すしかないですね。

いやー、でもアメリカでもやはり世代が若くなるごとにアニメの理解も深まってきます。とくにインターネットを享受する新世代ではアニメの理解者もいたって多いです。その反面、年齢がある程度行っている世代ではアニメを「子供がみるカーテゥーン」としてしか固定観念がない人が極端に多くなって行きます。もっと遅く生まれていれば、アニメを私のように賛美する同年代の人に多く巡り会えただろうに。ちょっと生まれるのが早すぎました。しかし歴史はいずれアニメもオペラや映画のように総合芸術としての威厳たる地位を獲得するような偉大なアートであることを証明してくれるでしょう。

オペラや映画はよく哲学の講義でも取り上げられるのに、アニメはまだまだですね。でもエヴァンゲリオンが大学の哲学の講義で取り上げられてポストモダンに触れたのはとても嬉しかったです。なにしろアニメオタクが哲学の講義で議論に積極的に参加して、脚光を浴びましたから。「アニメオタクもやるじゃねえか」
とみんなの目が変わったのがとても印象的でした。それまで我々にとっては全く無縁であった可愛い女の子と話す機会が出来ましたから。感無量でした。アンディー・ウォーホールのポップアートも哲学者に取り上げられてましたし。いままで蔑まれてきたものが見直されると言うこと、それ以上の喜びはないですね。まあ、その道のりは険しいですが、がんばります。

>厳しい長文失礼しました

こちらこそとんでもない。コメントくださってありがどうございます。いろいろ考えさせられました。


ももまま
トラックバックありがとうございました。
「マリアさまがみている」というのはアニメのようですね。本かコミックだとばかり思っていました。
お時間のある時にでも、またのぞいてみてください。


ヘルメス
ももままさん、

たぶん、小説やコミックを読んだ人はアニメよりはるかに良い、という方が多いかもしれません。でも、百聞は一見に如かずと言われている通り、文字はイメージにはかないません。まあ、私はイメージ派ですから、それは私のソリプシズムに過ぎませんが。とにかく、あのアニメは世界に誇れる総合芸術だと思っています。それを使ってレズビアンの美しさを世界に知ってもらいたいですね。

コメントありがとうございます。


ももまま
コミックや本もあるのですね。
オリジナルは本ですか?それともコミックでしょうか?
身近に同性愛者がいる人ほど、偏見は持たないような気が致します。自分然り。


森2
ヘルメスさん、お久しぶりです。やっとテストが終わりました。

マリ見てはとっても綺麗なアニメですよね!
あの清楚な雰囲気は、本当の女子校でも滅多に見られませんが…
私の学校は女子校ではないのですが、周りの子達に少し見習ってもらいたいものです。
そして私も見習いたい。笑

最近は同性愛をテーマにしたアニメが増えて来ていますね。
女の子同士だと『ストロベリ−・パニック』や『処女は僕に恋をしている』(略は『おと僕』)、男の子同士だと『好きなものは好きだからしょうがない!』『今日からマ王!』辺りが代表になるのでしょうか。
いろいろな同性愛もののアニメがあって甲乙付けがたいのですが、やはり爽やかさでは、マリ見てはダントツ一位だと思います。
作画のクオリティも高いですしね。

ももままさんへ。
マリ見てのオリジナルは、小説ですよ。
『コバルト文庫』という所から出てます。

勝手に回答してすみませんでした。

それでは、失礼させてもらいます。


ももまま
森2さま、回答ありがとうございます。

女子校はかなーりえげつないところでございました。 共学から女子校に行ったので、その遠慮のなさ、慎みのなさに驚愕したものです。


ヘルメス
森さん、お久しぶりです!コメントありがとうございます。テスト、おつかれさまです。

おお、共感できてよかったです。嬉しいです。「マリみて」は素晴らしいですね。さすがは森さんですね。共感できて何よりです。なんと言っても作画の美しさですね。そして音楽といい、声優といい、総合して至高の美を追求した作品だと思います。百合系のアニメはサブカルチャーで強い支持を得ていましたが、最近になってメインストリームにブレークしたのは「マリみて」ではないでしょうか。森さんの列挙されたアニメはメインストリームでも流行っていますか。

いや〜、それにしても山百合会に入りたいですね。どうせなら私がロサ・キネンシス・アン・ブートゥン・プチ・スールになりたいくらいです。あれほど美しいものの前では自分が水になって溶けてしまいますね、フランス映画の「アミリー」のように。佐藤聖の
「マリア様、こんな私を救い給え、アーメン、アーメン、アーメン!」
と拳を握りしめながら春の銀杏の並木の道を駆け抜けて行くシーンが印象的でした。そして息を切らせながら礼拝堂に入ると、そこにマリア様の本尊の前で祈りを捧げる天使のような久保栞が。一目惚れする心境が手に取るように分かります。なんと美しいストーリーの展開なのでしょうか。

「マリみて」の性格判断サイトを検索しているのですが、どうも見つかりません。自己判断ですが、たぶん私の性格は孤狼の面では佐藤聖と、ドジな面では福沢裕巳だと思います。私も熱烈な祥子ファンの一人ですから。あの美しさを賛美崇拝しないわけにはいかないでしょう。でも裕巳のような子が山百合会に混じっているとは、雑魚の魚交じりのようなものですね。それがよりあのアニメを奇想天外にさせています。私のような人間でも山百合会に入れるんだという希望を与えてくれます。山百合会を密室政治の場ではなく一般の生徒にも開かれることが元ロサ・キネンシスの願望でもありましたから、ロサ・キネンシス派閥に庶民的な裕巳を受け入れたことは、その道を後輩に開かせたと思います。小泉が民間の人間を起用したようなものですね。
「自民党をブッ壊す!」
と言うみたいに、
「山百合会をブッ壊す!」
とでも言いましょうか。