セックスはタブーであった。なぜならセックスへのアンガージュマンは人間、もしくは全ての性交する生物を苦しみの世界へと輪廻転生させるからである。生殖によって生まれたモノは苦しみを味わうことになるからである。そこからの解脱こそがインド哲学の根幹である。セックスはエロチシズムを生み、蕩尽を生み出す。それはスピリチュワリティーを完全に破壊させるものである。しかしシッダールタはこの蕩尽に期待しなければならなかった。生産しない人に食事を施させる、托鉢、これこそ蕩尽を正当化したのだ。
仕事なしに食事なし。キリスト教の修道所でさえ生産は基本であった。しかし生産社会を捨てたために生産に従事してなかったシッダールタは生産された食物を食べなければならなかった。だから出家しても在家を完全に捨てることができず、そこで中道の原理を使って彼の行為を正当化した。それが彼のユーレカだったのだろう。だれでも「私は中道派だから」といえば些細なことに気を使わなくて済む。そうやって彼は自分の捨てた忌むべき欲望に満ちた苦しみの世界を承認しなければならなかった。
非生産機構をそこまで大きく作り上げたのは世界史上彼が最初であろう。現代では500人以上の社員を抱える企業の社長はビッグビジネスオーナーと見なされる。シッダールタの教団は2000人以上に膨れ上がり、今では数えきれない人数だ。そして彼は呪術も禁止したので、彼の教団は完全に非生産社会となった。完全な非生産性、それが彼のニルヴァーナ(涅槃)の解釈だろう。非生産、創造も、維持も、劣化も、破壊もない。書物もなく、録画もない、ただあるのは、「如是我聞」だけである。2500年以上も続いた企業はどこにも存在しない。
このアメリカ資本主義社会では生産性のない人間はマージナライズされてしまう。ウェルフェア・マム(社会福祉に依存する母親)やニートやホームレスは厳しい批判にさらされてきた。なぜなら生産しないからだ。しかし僧侶は税金すら払っていないのに批判を受けることは滅多にない。アル・ゴアでさえ仏教僧からの政治献金には甘かった。一方クリントンは私通には甘かったが。そのクリントンの伝家の宝刀とも言うべき私通も生産性がなく、非生産的である。だから私通は社会から眉をひそめられてきた。しかしアメリカの60年代の若い反抗者たちがそのような馬鹿げた既存価値観からモクシャ(解脱)したのである。ウッドストック69は非生産的ライフスタイルがサブカルチャーレベルでアメリカ社会に受け入れられたことを象徴する出来事であった。その他の非生産性社会と言えばは僧伽であろう。だから彼らはセックスをすると追放されてしまうのだ。セックスは神聖視されるかおぞましきものとして卑しまれるかのどちらかだ。しかしシッダールタは中道をセックスには当てはめなかったようである。人間は機械品である。だからシッダールタはインティファーダを人間に対して起こしたのである。セックス禁止は彼の禁欲主義の中心であったが、中道を発見した後には禁欲主義を捨て去ったと言う。しかし彼は非生産性を独占するためにセックスを排除したのだ。
だからセックスそのものが生産性の世界へと再びつなぐ鍵となったのである。カントが芸術を「目的なき目的性」と表現したように、私通は「生産なき生産性」である。私通は生産社会と非生産社会の双方から忌み嫌われたのでおぞましきものとなった。生産社会にとってそれは非生産的であり、非生産社会にとってそれは生産性の匂いがした。しかし禅定というのは非生産的でありながら生産社会非生産社会の両方から賛美された。オナニーも非生産的であるが、仏教の戒律にオナニーのことには言及していないように思われる。セックスだけであろう。ディルドーのことなどは驚くことに言及されていたが、オナニーそのものに対して規制するような事項は見られない。これも告解させて抑圧する権力である。そしてセックスに対する規制は僧伽のアイデンティティーを築いた。ウパーリ(在家者)とビク(出家者)の境界線をはっきりさせた。だからセックスはビクとビクニのアイデンティティーを脅かすおぞましき存在だったのだ。しかし後の仏教徒は釈迦の規制したルールに反抗した。そして在家と出家の境界線を曖昧なものにした。さらにセックスは大日如来と合体するための真の道具となった。それは生産性の匂いがしたセックスを完全に非生産性にした瞬間でもあった。つまり大般非生産性である。よって後期仏教では非生産性をさらに押し進めてきたのである。
非生産機構をそこまで大きく作り上げたのは世界史上彼が最初であろう。現代では500人以上の社員を抱える企業の社長はビッグビジネスオーナーと見なされる。シッダールタの教団は2000人以上に膨れ上がり、今では数えきれない人数だ。そして彼は呪術も禁止したので、彼の教団は完全に非生産社会となった。完全な非生産性、それが彼のニルヴァーナ(涅槃)の解釈だろう。非生産、創造も、維持も、劣化も、破壊もない。書物もなく、録画もない、ただあるのは、「如是我聞」だけである。2500年以上も続いた企業はどこにも存在しない。
このアメリカ資本主義社会では生産性のない人間はマージナライズされてしまう。ウェルフェア・マム(社会福祉に依存する母親)やニートやホームレスは厳しい批判にさらされてきた。なぜなら生産しないからだ。しかし僧侶は税金すら払っていないのに批判を受けることは滅多にない。アル・ゴアでさえ仏教僧からの政治献金には甘かった。一方クリントンは私通には甘かったが。そのクリントンの伝家の宝刀とも言うべき私通も生産性がなく、非生産的である。だから私通は社会から眉をひそめられてきた。しかしアメリカの60年代の若い反抗者たちがそのような馬鹿げた既存価値観からモクシャ(解脱)したのである。ウッドストック69は非生産的ライフスタイルがサブカルチャーレベルでアメリカ社会に受け入れられたことを象徴する出来事であった。その他の非生産性社会と言えばは僧伽であろう。だから彼らはセックスをすると追放されてしまうのだ。セックスは神聖視されるかおぞましきものとして卑しまれるかのどちらかだ。しかしシッダールタは中道をセックスには当てはめなかったようである。人間は機械品である。だからシッダールタはインティファーダを人間に対して起こしたのである。セックス禁止は彼の禁欲主義の中心であったが、中道を発見した後には禁欲主義を捨て去ったと言う。しかし彼は非生産性を独占するためにセックスを排除したのだ。
だからセックスそのものが生産性の世界へと再びつなぐ鍵となったのである。カントが芸術を「目的なき目的性」と表現したように、私通は「生産なき生産性」である。私通は生産社会と非生産社会の双方から忌み嫌われたのでおぞましきものとなった。生産社会にとってそれは非生産的であり、非生産社会にとってそれは生産性の匂いがした。しかし禅定というのは非生産的でありながら生産社会非生産社会の両方から賛美された。オナニーも非生産的であるが、仏教の戒律にオナニーのことには言及していないように思われる。セックスだけであろう。ディルドーのことなどは驚くことに言及されていたが、オナニーそのものに対して規制するような事項は見られない。これも告解させて抑圧する権力である。そしてセックスに対する規制は僧伽のアイデンティティーを築いた。ウパーリ(在家者)とビク(出家者)の境界線をはっきりさせた。だからセックスはビクとビクニのアイデンティティーを脅かすおぞましき存在だったのだ。しかし後の仏教徒は釈迦の規制したルールに反抗した。そして在家と出家の境界線を曖昧なものにした。さらにセックスは大日如来と合体するための真の道具となった。それは生産性の匂いがしたセックスを完全に非生産性にした瞬間でもあった。つまり大般非生産性である。よって後期仏教では非生産性をさらに押し進めてきたのである。
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Harriet >だから出家しても在家を完全に捨てることができず、そこで中道の原理を使って彼の行為を正当化した。
ふむむ、釈尊の中道思想はそんな日和見的なものではないと思うのですが・・
確かにおっしゃるないように、この点が宗教の自家撞着ですね。矛盾してます。
あと、性欲をコントロールするのはとても困難なもの、無理なら出家などせず正直に弱さを認めて在家になるべきなんです。それを誤魔化して表面だけ取り繕うとするから変なことになる。天に近い処のはずの僧院が、魔の闊歩する最も邪悪な者の巣窟になってしまう

自己欺瞞こそ諸悪の根源ではないかと
ヘルメス Harrietさん、コメントたいへんありがとうございます。
日和見的ではないにしろ、合理的であると私は思っています。
シッダールタは断食を長い期間にわたって行い、摂取するものは不殺生に触れない水と球根だけだったと言います。食はすべての苦しみの根源であるために断食を試みましたが、最後には苦行を捨ててしまいます。王太子としての快楽の生活への反省から苦行に走ったと思われますが、死んでしまったら元も子もありませんから、悟りへの道ではないと結論づけたのが中道です。私はシッダールタは完全に在家とのつながりを断とうとしていたと見ています。しかしそれは合理的ではありませんでした。だから在家の存在なしに悟りを開けないと悟ったのでしょう。自己保存には托鉢が必要だった、そこで中道は譲歩するために有効に働いたと見ています。しかし在家とのつながりは食だけに留めておきたかったのでしょう。
彼によれば性欲は束縛の苦しみを生み出すだけですから、妻子を捨てたのも愛欲を断つためでしょう。子供にラーフラ(束縛)と名付けるくらいですから。アメリカ人の仏教徒の女の人で夫と子供たちと地域社会からの束縛からシッダールタのように逃げられたらどんなに、と愚痴をこぼす人もいました。もちろん家族を愛していると言っていましたが。しかしなぜ束縛を生まない私通も駄目なのでしょう。
シッダールタは戒律を変更してもいいと言っています。セックス禁止はあまりにも行き過ぎているということで解禁になったのでしょう。もちろん上座部は厳しく対応していますが。悟りには食は必要だがセックスは不要と言います。しかしセックスをしても悟りの道への障害にならないというのが新しい発想です。曹洞宗の僧は妻を持てますし、浄土真宗もそうみたいです。肉食妻帯は親鸞が始めました。在家と出家の中道ですね。シッダールタ自身も肉を出家した後も食べていました。禅宗ではブッダさえも殺せと説いています。だからブッダの言葉にすべて無抵抗に従うことはないと言います。それに中道は不殺生を緩和しました。中道はシッダールタの自己保存どころか仏教の自己保存にも役立ってきました。日本仏教はいろいろな意味(葬儀や法事や戒名などの金儲け)で中道を乱用していると言われますが、この中道が他の宗教との共存を可能にしてきましたし、それは良い意味での規制緩和だと思います。日本文化に仏教が溶け込んだのもまさにこの中道のおかげです。
という私の推理でした。
Harriet なるほど
説明して頂いてお考えがかなり判りました。有り難うございます。
私も、ほとんど同意する点ばかりです。
ただ、釈尊が性欲を否定したのは、単に束縛に結びつくから、苦しみを生むからというだけでなく、その情念そのものが清浄行に逆行するという、釈迦自身の体験的理解が根底にあるのではないかと思います。
仏教だけでなく世界規模に至った宗教では一様に、性欲否定あるいは抑制を教えの第一項として挙げている、単なる便宜、ご都合主義では説明しきれない事実でしょう。
イエス様も、淫行の思いを持って他人の妻を見たものはすでに淫行したも同じだ、と言っています。究極的に問題なのはは想念の世界なのです。だから、避妊すれば、或いは自慰ならば良い、ということにはならない。
尤も、否定しないで肯定して悟りを開くことも可能なはず、と私は思います。むしろ肯定して成仏するのが本願のはず、だって人間はそうのように造られているんですからね。在家成仏が究極の目標であって、出家は過程的な方便にすぎないというか。
それから、本来の中道というのは妥協どころか凄く厳しい、丁度剃刀の刃の上を歩くような極度の自制力を必要とするものだったように、私には思われます。ある意味では苦行や快楽に徹するほうが却って簡単なくらい。
後の人々が故意、誤解を含めていろいろ自分に都合の良い解釈をして、その結果随分違った内容になっていったのは確かでしょうが。
釈尊は宗教論争を否定していますよね。というより論争に無関心だった。論より証拠、実質を求めた方でした。それが仏教が他宗教に対して寛容である理由の大きなものだと思っています。
いくら仏教でも、論争を好む宗派は寛容ではありません。
以上、憚りながら私見を述べてみました。
また長くなって申し訳ありません。
ヘルメス 長いコメントありがとうございます。うれしいです、これほどまでに深く考えてくださって。
ご指摘の通り、世界宗教と言われる仏教、キリスト教、イスラム教、みな性愛を敵に回しています。これらは男によって創始され、女性を軽蔑してベールなどを強制的にかぶせたり、女性蔑視の思想が世界宗教にはちりばめられています。女性は男性に生まれ変わらなければ成仏できない、そのような戯言を現代で言ったらフェミニストに糾弾され、仏教は成功しなかったでしょう。女性が美しければ美しいと素直に認めて賛美すればいいと思いますが。何もいかに女性が不浄かということを瞑想をしなくてもいいでしょう。
世界宗教はホモセクシャルも否定してきました。ダライラマでさえホモセクシャルは間違っていると言っていました。呪術は性愛を肯定してきましたが、世界宗教に否定されました。今ではアメリカの若者がウィッカなど性愛を肯定する新しい呪術的なニューエイジに入る人が多いです。世界宗教が登場した時は確かに人権や医療技術がありませんでしたし、戦争も日常茶飯事でした。だから当時は大いに役立ったと思いますが、いまでは現代にあわない箇所が目立ってきています。仏教も当時はもっともリベラルな宗教でしたが、今では女性蔑視や性欲否定を押し付けることはできません。当時の中道も沙門には中道だったのでしょうが、もしHarrietさんが言われたのが本当の中道なら、現代人には合わないでしょう。それは現代人にとっては苦行でしかありません。現代の風潮にあった改革が必要です。原理主義は当時の宗教の教義を現代にもて適応させようと言う運動です。教祖の教義をある程度否定しなければ時代の波について行けないでしょう。
と私は思うのであります。
やはり「ふしぎ遊戯」はとてもおもしろかった。もう十数年前にもなるし、その時は日本の学園生活にいたので、とてもリアル感があって見ていたもんだ。だが久しぶりに今となって見ると、懐かしいと言うか、胸が押しつぶされる思いであった。アメリカ生活は私にとって出家生活とは行かなくとも出国生活である。未練があるとは、私の自尊心が許さない。
ふしぎ遊戯は美朱(みあか)と唯(ゆい)の二人の幼なじみが古代中国にタイムスリップしてしまうという話である。このアニメは当時としては露出度が高く、性的であった。それに巫女が中国人に強姦されるシーンがあったが、当時ショックのあまり私は学校でクラスメイトに激怒しながらこんなことを言った。
「中国の野郎って本当に下劣だよな。レイピストなんて社会のクズだし、中国にはそういう奴らが蔓延しているとはな。オレあれで中国嫌いになったよ。」
「はは、おい、あれはただの漫画だろう。」
「なに言ってるんでよ。おまえも昨日のふしぎ遊戯で分かっただろう。中国人の男っていうのはみんな女と見るとレイプしようとするんだぜ。南京大虐殺だって本当は中国人が日本兵に化けて女を片っ端から強姦したんじゃねえの。」
「うわー、なんてひでえこと言うんだ、おめえ。そんな壮大なプロジェクトなんか当時の中国にできんのかよ。」
「国民党ならそんなことはやりそうだよ。あれは国民党と共産党の陰謀だと思うよ。」
「・・・・・・」
今考えてみれば美朱を守った鬼宿(たまほめ)も中国人だったのだ。主人公二人以外は90%が中国人だったのだ。あの時は本当にただアニメを見ただけで一つの国を嫌うことさえあった。ステレオタイプと偏見と差別がアニメによって植え付けられたのである。今にしてみれば誠に恥ずかしい話である。アニメの未成年に対する影響力は恐ろしい。
それにしても、なぜ日本のアニメは学園ものが多いのだろうか。高校の制服を理想化されたアニメで見ると、本当に切なくなってしまう。I's Pureを見た時は本当に、
「やめてー。助けてくれー。年を取りたくない。老化を避けたい。若返りたい。あの頃に戻りたい!」
と悲鳴をあげていた。逆に本物の学生服を見ると、忌々しい記憶が蘇ってくるので、日本に未練はない。アメリカに移住して本当に正解だったと思う。
やはりアニメは芸術であろう。理想郷を描き出しているのだから。アメリカのアニメを見ても、二次元世界に入り込むことはない。常に主体である自分を意識しながら、サウスパークなどを見ている。しかし日本のアニメは自分と主体がズレを起こすのだ。そう、まるで疲れ切った状態で夢を見ているかのように、そして熟睡状態に入ると、自分が完璧にアニメと合体してしまうのだ。梵我一如(Brahma-atma-aikyam)というか漫我一如(manga-atma-aikyam)であろう。anime-atma-aikyamでもいい。いやいや、ふしぎ遊戯の二人の主人公にも同じことが起きたのだ。そのとき「私」という意識はどこにもない。うーむ、アニメオタクにも色々な宗派があるが、哲学系アニメオタクにこのことを話したら、納得してもらえた。瞑想や座禅などで無我の境地があるとされるが、漫我一如はその境地の一つであろう。
「中国の野郎って本当に下劣だよな。レイピストなんて社会のクズだし、中国にはそういう奴らが蔓延しているとはな。オレあれで中国嫌いになったよ。」
「はは、おい、あれはただの漫画だろう。」
「なに言ってるんでよ。おまえも昨日のふしぎ遊戯で分かっただろう。中国人の男っていうのはみんな女と見るとレイプしようとするんだぜ。南京大虐殺だって本当は中国人が日本兵に化けて女を片っ端から強姦したんじゃねえの。」
「うわー、なんてひでえこと言うんだ、おめえ。そんな壮大なプロジェクトなんか当時の中国にできんのかよ。」
「国民党ならそんなことはやりそうだよ。あれは国民党と共産党の陰謀だと思うよ。」
「・・・・・・」
今考えてみれば美朱を守った鬼宿(たまほめ)も中国人だったのだ。主人公二人以外は90%が中国人だったのだ。あの時は本当にただアニメを見ただけで一つの国を嫌うことさえあった。ステレオタイプと偏見と差別がアニメによって植え付けられたのである。今にしてみれば誠に恥ずかしい話である。アニメの未成年に対する影響力は恐ろしい。
それにしても、なぜ日本のアニメは学園ものが多いのだろうか。高校の制服を理想化されたアニメで見ると、本当に切なくなってしまう。I's Pureを見た時は本当に、
「やめてー。助けてくれー。年を取りたくない。老化を避けたい。若返りたい。あの頃に戻りたい!」
と悲鳴をあげていた。逆に本物の学生服を見ると、忌々しい記憶が蘇ってくるので、日本に未練はない。アメリカに移住して本当に正解だったと思う。
やはりアニメは芸術であろう。理想郷を描き出しているのだから。アメリカのアニメを見ても、二次元世界に入り込むことはない。常に主体である自分を意識しながら、サウスパークなどを見ている。しかし日本のアニメは自分と主体がズレを起こすのだ。そう、まるで疲れ切った状態で夢を見ているかのように、そして熟睡状態に入ると、自分が完璧にアニメと合体してしまうのだ。梵我一如(Brahma-atma-aikyam)というか漫我一如(manga-atma-aikyam)であろう。anime-atma-aikyamでもいい。いやいや、ふしぎ遊戯の二人の主人公にも同じことが起きたのだ。そのとき「私」という意識はどこにもない。うーむ、アニメオタクにも色々な宗派があるが、哲学系アニメオタクにこのことを話したら、納得してもらえた。瞑想や座禅などで無我の境地があるとされるが、漫我一如はその境地の一つであろう。
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以前、ピリカラさんの911テロの記事で、ツウィンタワー以外でWTC第七ビルが突然崩れたということを指摘されたことがあった。それはあまりにも不自然ということだった。当日、警官隊が出動して大学が閉鎖されたので、朝の授業もなく、家にいて生放送でツウィンタワー崩壊を見ていたが、第七ビルのことは全く覚えていなかった。だから、そのビルの映像をネットで検索していた。
私は懐疑的なので、とくに陰謀説に関しては私の意見は述べず、黙っているしかない。そうかもしれないし、そうでもないかもしれないからだ。だが検索のなかでFallenangel108氏のブログに突き当たり、このドキュメンタリーと遭遇した。
「911 Eyewitness」
Fallenangel108氏はホームレスの生活を体験されたこともある方で、アメリカの格差社会のどん底を知っており、よって社会に対する鋭い洞察力を持ち合わせている。さらにアメリカ人仏教徒でもあるそうだ。まあ釈迦もホームレスになって悟りを開いたのだから。
このドキュメンタリーを見た後、疑問が怒濤のように沸き上がった。はたして本当に旅客機だけでツウィンタワーを破壊させたのだろうか、という疑問である。
「911 Eyewitness」の事件映像は編集されていない生の状態のものを使っており、それからタワーがどういうふうに砕け散ったのかを科学的に分析したものである。タワーが崩れ落ちる前の爆音や、煙がビルの下から上がったりと、他の力が働いているように見える。それに確かに第七ビルは何の外的要因もなしに突然崩れだしたように見える。ナレーターは内部からの爆発が原因のようだと結論づけていたが。だがそれがテロリストによるものか、アメリカの自演自作かというのは、陰謀説になってしまうが、それを抜きにしても、疑問を持たせるような映像である。このドキュメンタリーは二時間ぐらいで、すべて英語である。日本語訳があれば素晴らしいのだが、それでも主意は映像から読み取れるであろう。もちろん暇がないのなら早送りして要点だけ見てもかまわない。とにかく旅客機だけが原因ではなく、他の力が加わったと思わせるような分析結果である。
私は懐疑的なので、とくに陰謀説に関しては私の意見は述べず、黙っているしかない。そうかもしれないし、そうでもないかもしれないからだ。だが検索のなかでFallenangel108氏のブログに突き当たり、このドキュメンタリーと遭遇した。
「911 Eyewitness」
Fallenangel108氏はホームレスの生活を体験されたこともある方で、アメリカの格差社会のどん底を知っており、よって社会に対する鋭い洞察力を持ち合わせている。さらにアメリカ人仏教徒でもあるそうだ。まあ釈迦もホームレスになって悟りを開いたのだから。
このドキュメンタリーを見た後、疑問が怒濤のように沸き上がった。はたして本当に旅客機だけでツウィンタワーを破壊させたのだろうか、という疑問である。
「911 Eyewitness」の事件映像は編集されていない生の状態のものを使っており、それからタワーがどういうふうに砕け散ったのかを科学的に分析したものである。タワーが崩れ落ちる前の爆音や、煙がビルの下から上がったりと、他の力が働いているように見える。それに確かに第七ビルは何の外的要因もなしに突然崩れだしたように見える。ナレーターは内部からの爆発が原因のようだと結論づけていたが。だがそれがテロリストによるものか、アメリカの自演自作かというのは、陰謀説になってしまうが、それを抜きにしても、疑問を持たせるような映像である。このドキュメンタリーは二時間ぐらいで、すべて英語である。日本語訳があれば素晴らしいのだが、それでも主意は映像から読み取れるであろう。もちろん暇がないのなら早送りして要点だけ見てもかまわない。とにかく旅客機だけが原因ではなく、他の力が加わったと思わせるような分析結果である。
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pirikara710 ヘルメスさん、こんにちは。
懐疑的なことは大事なことですよね。なんでも鵜呑みにするとカルトにはまったり、詐欺にひっかかったり・・・
世の中、残念だけど、性善説では通りませんものね。
私も、逆の意味で懐疑的。つまり、マスコミや政府の言ってること、とりあえず一回疑ってしまったり裏読みしてしまったり・・どんどん性格が素直じゃなくなってきそうですよぉ。(T_T)
フィルム見せてもらいましたが、
>タワーが崩れ落ちる前の爆音や、煙がビルの下から上がったりと、他の力が働いているように見える
確かにそんな感じありますね。英語が、わからへんので不利ですわ・・・(T_T)
私が読んだ本の写真では、煙の出ている場所から離れた下の階を拡大すると、明らかに内側から爆発があったように、窓が外に飛び散ってる場所があります。
鉄が溶ける音頭は、1535度、航空燃料を理想的に燃やした温度がせいぜい800度だそうです。だとしたら、鉄骨が溶けたということさえ怪しくなってしまいます。
ペンタゴンもさらに怪しくて、破壊された場所と旅客機の大きさがあいません。
それから本の著者も書いてましたが、911関連のサイトは、保存しておかないと次に見たときは黒くなってたり、サイトがなくなったりしてしまうんですって。アメリカのほうがこの件に関しては顕著で、私も以前見た顔を隠したテロリストの胸のアップの写真に、シャツの中からちらりと見えたユダヤの星のペンダントの写真、もう一度見ようとしたらなくなってました。
日本のほうがまだまし?
http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/911terror/nyterror.htm
アメリカの某有名大学の現役教授による、こちらは、きちんと整理されてます。
http://yogananda.cc/daily/you/img/9_11.pdf
ヘルメス たけしの番組でも取り上げられていましたか。たしかにピリカラさんがくれたウェブサイトに載っている写真を見ましたが、まったくサイズがあっていませんね。飛行機が衝突した映像が一つも残っていないのも不思議ですね。疑惑が深まるばかりです。連邦政府には嫌気がさします。アナーキストの気持ちも分かります。
ブッシュ政権が終わったとしても、次の政府が情報を公開するとは思えません。ケネディー暗殺でさえ、あと二十年経たないと情報は公開されないみたいですし。我々に今必要なのはペレストロイカとグラスノスチですね。
ドイツ人もナチスのユダヤ人虐殺を最後まで知らなかったみたいです。ポーランドで殺害されていましたから。グアンタナモ湾基地もキューバにあるというのが、とても不思議です。本当はアメリカとカストロがつながっているのかとさえ思ってしまいます。以前もクリントンがカストロと握手した情報が漏れて、米国民に謝罪するという騒動になりました。敵国の中に米軍基地があるというのは、本当におかしいです。しかもそこでCIAがジュネーヴに違反する拷問などを行っているのですから。ブッシュが最後まで議会の拷問禁止法案に反対したのには、信じられません。「どうしてこの男が大統領なのだろう」と本当に頭を痛めてしまいました。
とにかくこれらの写真などを見て、疑惑がますます強くなりました。911はセンシッティヴな話で、私も含めてできるだけ避けてきましたが、やはり事実を隠蔽されていては、納得がいきません。本当は何があったのかを知る権利を国民は当然有しているはずです。
情報ありがとうございます。
pfaelzerwein 先日の英国で画策されたとする航空機爆発未遂事件なんですが、真相が見えないとして、こちらの巷では情報陰謀説が流れています。そちらではどうでしょうか?
また、例のグラス氏が最近情報デマの元締めとしてCIAを批判しています。確かにブッシュ政権は何をしでかすか分からない危なさがありますね。
丸田道典 愛と慈悲が神そのもの、仏そのものだと思います。コメントありがとうございます。
ヘルメス pfaelzerweinさん、お久しぶりです。
そうですね。その事件のあと、アメリカでは国内便でさえも最低三時間はセキュリティーのために待たされるようになりました。国際便だと五時間ですね。とくに夏休み中なので、大変です。
ヘルメス 丸田道典さん、
そうですね。弥勒菩薩の「弥勒」もサンスクリット語で「マイトレーヤー」と言って、慈愛という意味のMaitriから来てますね。パーリ語ではMettaというそうです。イエスの説いた愛もMettaではなかろうかとおもいます。アガペーと本質的に同じだと思います。
シッダールタの父シュッドーダナ(浄飯王)はこのような予言を受けた。
「汝の息子は世界征服王になるか偉大な哲学者となるであろう。」
「汝の息子は世界征服王になるか偉大な哲学者となるであろう。」
もちろん王としての立場から王太子には王位継承者として徹底的に帝王学を学ばせ、世界征服の夢を息子に託したのだろう。出家をさせないために外に出さないで贅沢な生活をさせたというのはそもそも伝説だろう。王子であるなら嫌でも贅沢な生活から逃れられない。「ラストエンペラー」でも溥儀は紫禁城の外に出られなかった。しかも当時のインドでは出家はある程度の年齢に達することが条件だった。つまり直系の相続人が成人年齢に達し、家督権を譲ってから出家することが仕来りだったのだ。いわゆる隠居である。徳川家康が将軍職を秀忠に譲ったようなものである。つまり出家は引退のようなものであった。だからシッダールタに息子が生まれても当時のインドの常識では出家をする年齢ではなかった。しかもシッダールタにとっては、まさにこれからという時である。出家にはあまりにも若すぎたのである。だからシュッドーダナにとっては息子の出家は非常に予想外だったと思う。またシャカ族中を震撼させた大事件だったことだろう。王太子が出家して沙門になる。慌てふためいたシュドーダナ王は全力で王太子の出家を阻もうとしただろうが、結局シッダールタは父や宮廷の側近の説得に応じず、当時の常識を破って世界征服への野望を断ったのである。帝王として、また優れた軍事指導者になるだけの素質はあっただろう。もし王に即位していればインド統一、ましては世界を席巻するほどの大帝国を築いていたのかもしれない。しかし予言は偉大な哲学者として実現した。
そのあと、世界を征服する指導者と言えばもちろん泣く子も黙るアレキサンダー大王である。アレキサンダー大王はギリシャの辺境にある小国マケドニアの王に過ぎなかった。だが世界帝国を築き上げた。シッダールタの国もインド辺境にある小国に過ぎなかったが、アレキサンダー大王みたいに世界を征服していたのかもしれない。だからそういう意味でシッダールタへの予言がアレキサンダー大王によって実現されたのである。言い換えればもしシッダールタが出家をせず、軍事指導者の道に進んでいたならば、アレキサンダーは偉大な哲学者として歴史に名を残していたのかもしれない。そしてアレキサンダーがブッダ(覚者)となっていたのだろう。仏教の原典もサンスクリットやパーリ語ではなく、ギリシャ語になっていたのかもしれないのだ。アレキサンダーの家庭教師にはアリストテレスがついていた。だからアリストテレスの道を進む可能性もあった。しかしアレキサンダーは早い父の死で18歳で王となる。予言はシッダールタの出家によってアレキサンダーを世界征服王にさせたのである。しかしシッダールタが偉大な哲学者にならなければ、彼はシッダールタ大王として世界史の英雄になっていたのかもしれない。
そんな私の推測である。この予言自体怪しいものであり、後になって付け加えられたものだと思われる。しかし、白昼夢の一時を楽しむのも悪くはないと思う今日この頃である。
そのあと、世界を征服する指導者と言えばもちろん泣く子も黙るアレキサンダー大王である。アレキサンダー大王はギリシャの辺境にある小国マケドニアの王に過ぎなかった。だが世界帝国を築き上げた。シッダールタの国もインド辺境にある小国に過ぎなかったが、アレキサンダー大王みたいに世界を征服していたのかもしれない。だからそういう意味でシッダールタへの予言がアレキサンダー大王によって実現されたのである。言い換えればもしシッダールタが出家をせず、軍事指導者の道に進んでいたならば、アレキサンダーは偉大な哲学者として歴史に名を残していたのかもしれない。そしてアレキサンダーがブッダ(覚者)となっていたのだろう。仏教の原典もサンスクリットやパーリ語ではなく、ギリシャ語になっていたのかもしれないのだ。アレキサンダーの家庭教師にはアリストテレスがついていた。だからアリストテレスの道を進む可能性もあった。しかしアレキサンダーは早い父の死で18歳で王となる。予言はシッダールタの出家によってアレキサンダーを世界征服王にさせたのである。しかしシッダールタが偉大な哲学者にならなければ、彼はシッダールタ大王として世界史の英雄になっていたのかもしれない。
そんな私の推測である。この予言自体怪しいものであり、後になって付け加えられたものだと思われる。しかし、白昼夢の一時を楽しむのも悪くはないと思う今日この頃である。
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Harriet ヘルメスさん、コメント有り難うございました。勉強になりました。
このお説、とても面白いですね。
予言(預言)には中心人物がどういう選択をするかによって動く幅があるものです。
そういう意味で、貴説はかなりありそうな推測だと思いました。
あの頃、内外両面の世界統一を志向する時代の要請があったのは確かです。でも、誰がそれを達成するか、はオープンだったのかも知れません。
いや、ありうる、ありうる。
ヘルメス Harrietさん、
コメントありがとうございます。
うれしいです、楽しんでいただけて。
ところでスェーデン語は英語と比べてどっちが難しいですか?
ファグスはギリシャ語で「食」を意味する。英語の「Esophagus(食道)」も「Sarcophagus(石棺)」も食に関係がある。もちろんファルスはギリシャ語で「男根」であるが、これはもう日本語になっている。つまり「Phagus vs Phallus」の観点から仏教を見てみたい。
仏教の原典の一つであるスッタニパータを見てみよう。
「食」は原文のパーリ語ではaharaであり、サンスクリット語でもaharaである。しかし英文では「食物」と訳されてある。だが、ahara(アーハーラ)は「食べること」とも意味する。だからアーハーラはファグスである。そこで私は経典の文節の「食」にファグスを当てはめてみるとする。
ファグスに依存しない、つまりファグスを滅するということだ。aharaを滅する、つまりaharaの無い状態、無食である。三法印の一つである諸法無我はサンスクリット語でSarva-Dharma-Anatmaであり、このAnatmaが「無常」に当たる。An(無)とAtman(アートマン、我)を結合させてアナートマとなる。よってAharaの前に無を意味するAnを付け加えればAnahara(アナーハーラ)となる。よって無食となるのだ。一切のaharaについて依存なき者、それこそSarva-Anaharaだ。よってAnaharismが無食主義となり、Anaharistが無食主義者となる。
ファグスをさらに拡大解釈してみよう。これをギリシャ神話に応用してみる。クロノスは予言を実現させないために子供を食い殺した。これがクロノスのカルマ(業)となったのは言うまでもない。子食いが親を最終的に葬ることになる。エディプスの父ライウス王は少年愛者であり、ある日、少年を強姦した。性行為を食事行為に例えるのはいろいろな文化で共通すると見える。英語に「eat out」という熟語ある。これは「食い尽くす」という意味であるが、俗世間では「cunnilingus(クンニリングス=陰部を口で愛撫する)」という意味合いで用いられる。また口という器官もフェラチオやクンニリングスへの性欲に結びつくので、ファルス的にもなる。つまり食欲も性欲も同じ衝動から起きているのだ。だからライウスは少年をeat outしたのだ。よって少年食いを「pedophagus」と名付ける。本当かどうか知らないが、マイケル・ジャクソンもその傾向があると噂されている。だがライウスはそのカルマのために彼の実の息子はかならず彼を抹殺するだろうという予言を授かる。だから彼は生まれたばかりのエディプスを始末するよう命じた。しかしライウスはとうとうそのカルマから逃れることができず、生き延びて成長したエディプスに無惨にも斬殺されてしまう。私はこれを「ファグスのカルマ」と名付ける。つまり食業だ。
シッダールタももう少しで子食いになるところだったと推測する。それかラーフラに食べられてしまう運命であると悟ったのだろう。だから息子を日食に関連する「昇交点」と名付けたのだ。つまりラーフラは「heliophagus(日食)」だったのである。いわゆるシッダールタを食べてしまう存在だったのだ。だから食業を断つために出家したと思われる。
カルマは三つに分けられる、身口意である。仏教は特に意に集点をおいている。そして意を汚す煩悩でもっとも忌み嫌われたのは三毒である。貪嗔癡である。それらは三つの動物で象徴される。貪が豚、嗔が蛇、そして癡が鶏である。豚は食いあさることしか知らない。だから貪はファガスである。嗔は怒りであるが、私は発情、性衝動とも解釈する。そして癡は愚かさであるが、性欲と性交そのものを表していると思う。事実、英語で雄鶏を意味するcockとは陰茎のことであり、ファルスである。畜生の一生など食って発情して交尾して死ぬだけだ。よって貪はファグス、嗔と癡はファルスとなる。しかし大元の「器官なき身体」は同じなので三毒どれもファグスでありファルスでもある。そしてシッダールタはどちらも無明から生じると見ていた。
ファルス的な活動は無明の産物であるとする。つまり知恵がない状態が暗闇であり、知恵または智慧がある状態が光、いわゆる明である。しかし旧約聖書によれば「知る」という単語は性交を意味する。「アダムは女を知った」という表現、ということはセックスは知恵である。知恵はIntercourse(性交)であり、それは「会話」とも訳される。ソクラテスは対話によって知を深めて行った。だから彼の哲学はファルス的である。またソクラテスの方法は産婆術(Maieutics)とも呼ばれ、彼はどうやら妊婦狂(Maiesiophilia)だったようである。妊婦狂は紛れもなくファルス的であるということを誰が疑おうか。
それにアダムとイヴは知恵の果実を食べることによって明を得た。そして自分が性器を曝け出しているのが恥ずかしくなり、葉っぱでそれを覆い隠した。そして結果的に性的に引かれ合った彼らはお互いを「知る」に至った。つまり明暗を分けるのはセックスなのだ。sexはもともとラテン語の「secare(切る)」から派生している。「Caesarian Section(帝王切開)」のsection(切開)もsecareが元となっている。そして人を男女に切り分けたのがセックス、つまり性別である。物事を切り開いていく分別の力。セックスとは差異を増殖させて行く力なのだ。つまりセックスは智慧を得るための手段であり、智慧そのものでもある。
だから聖書は貞操者は無明、卒業生は明と暗示しているかのようだ。それなのにどうしてキリスト教、特にカトリックや正教会には僧侶がいるのだろうか。さらにほかのセム宗教のユダヤ教やイスラム教にとっては僧侶がいること自体が全く理解できない。彼らにとったら僧侶になることは明への道を捨ててしまったも同然に映るからだ。
ところで私は数学が大の苦手だ。大学のフレッシュマン時代、単位を落とし損ねたぐらいだ。でも私の分かる範囲以内で仏教とキリスト教のファルスに数式を応用してみることにするが、許されい。
明がK、ファルスがPとなる。よってこうなる;
訳するとこうなる。
聖書ではK(明)はセックスへと導いたが、仏教では~K(無明)がセックスへと導く。そしてたとえセックスを経験したとしても無知蒙昧のままである。仏教では貞操生活に捧げる者が明に到達でき、明星の下で覚者となれるのである。しかし貞潔はキリスト教では闇だ。だからキリスト教と仏教はそういう面で正反対なのである。
思春期の子供は自己意識を発達させる。だから知恵の木はセクシュアリティーと個性化への道なのだ。恥とプライバシーの意識はコインのように表裏一体なのでは。アダムとイヴがそうであったように。彼らは神からの隠れ場が必要だった。そう、思春期の子供が親からの隠れ場を必要とするように。性的な成熟はティーネージャーにプライバシー意識を発達させ、親に反抗し出す。
「俺の部屋に侵入するな。俺にはプライバシーがある。」
親を部屋から追い出し、インターネットで可愛い女の子のサイトを探し、白昼夢に酔いしれる。もしくはウェブキャムでそのような女の子との会話に夢中となる。そして18歳にもなれば、選挙権を獲得し、大人となる。アートマンの発展が彼らを大人にさせるのだ。
すべてはアートマンだ。個人的な空間もアートマンの延長だ。サイバースペースはアートマンの追求のために自立しようとする十代の温床である。しかし究極のプライバシーは親の元を離れて一人で生活して行くことだろう。そうすればクラブ、大学、会社、ビジネス、政府機関で自己のアートマンの拡張を追求することができるのだ。シッダールタがその機会を獲得したのは29歳の時だった。現在の大学生から見たら、ちょっと遅いが。また「理由なき反抗」の登場人物はそれに失敗したが。よってプライバシーとエゴは切り離すことができない。事実、エゴという言葉はラテン語とギリシャ語で主格の一人称単数形である。
英語のprivacyという単語を見てみよう。 privacyはラテン語のprivusから派生しており、「自分の、個人の」という意味である。だから知恵はエゴもしくはアートマンの自覚へと導く。 一方で、英語のidiot(白痴)という単語はギリシャ語のidiosから派生しており「プライベート、自分の」という意味である。よってエゴ、プライバシー、アートマンに執着する人間は全て白痴なのである。 だからidiotという言葉はとても仏教的なのである。ドストエフスキーの「Idiot」も完全な利他主義者に見えるが、実はエゴイストなのである。マハトマ・ガンジーも聖なる馬鹿だったのだ。彼の名はマハー(摩訶、偉大)とアートマン(自己、我、魂)が合わさってマハトマとなっている。 事実、仏教は無知によって執着が起こるとする。だから知がアートマンへの執着を断つ、よてアナートマ(無我)となり、三法印の諸法無我となる。
しかしcarpophagus(果実食) がアダムとイヴに知恵を与えた。だからファグスは智慧獲得への必要条件だったのだ。しかし神はアダムとイヴをエデンの園から追放し、彼らが生命の木の実を食べて永遠の命を手に入れられないようにした。よってキリスト教はファグスに重点を置く。一方、仏教ではファグスを苦の原因としてしか見ていないが。
「イエスを食べよ、血を仰げ、肉を食らえ。」
Sarcophagusは肉食であり、jesophagus(Jesus+Phagus)もしくはchristophagusはキリスト食いである。事実、キリスト教徒はjesophageal(jesophagusの形容詞)である。 彼らはクライスト・イーターである。むろん、キリスト教はとてもファグス的な宗教である。彼らは食べ物の戒律を全く気にしない。食べられる物なら何でも食べる。一方で仏教は不殺生を説くので、ヴェジタリアンが多い。彼らはセックスで作られた生物は口にしたくないのだろう。六道を輪廻する存在はすべて生殖によって生まれるのだから。しかし六道で植物界というのはない。だから彼らは植物でさえ生殖によって作られているとは夢にも思わなかったのだろう。
中世フランスのアルビジョワ派はpesco-vegetarian(ペスコ・ヴェジタリアン=魚介類も食べる菜食主義者)であった。彼らも魚は生殖で生まれるとは考えておらず、海底から自然発生していると本気で信じていたようだ。それに当のイエスが魚を食べていたのだから、魚を拒絶すると反キリストになるので、魚はオッケーにせざるを得なかった。日本人の大半も明治維新まではみんな仏教徒でなければならなかったから、食生活はペスコ・ヴェジタリアンだった。彼らもまた、魚が生殖によって成り立っているとは知らなかったのかも?
キリスト教ではファグスとファルスが天国への階段だ。聖書によると無明はファグスへと導き、ファグスは明へと導き、神でさえファグスは永遠の命へと導くと言い切っている。そしてイエスは永遠の命の木になろうとした。たとえ神が最初の人間からそれを食べるのを阻止したにもかかわらず。つまりイエスは反抗者なのだ。プロメテウスがそうであったように。あの蛇は人類に火(明、智慧)を与えたのだ。ルシファーは光を運ぶ者であり、明けの明星である。そしてシッダールタも明けの明星のもと、悟りを開いてブッダになったという。第一の反抗者がプロメテウスであり、第二の反抗者がイエス、命を運ぶ者である。
仏教では無知は食を起こし、食は楽ではなく、いかなる苦の条件となる。反対に、アダムとイヴは無知だったがために神の規律を理解することができず、規則を破ってしまった。しかし、彼らは違反行為によって知恵を獲得した。だから無明はファグスを媒体として明へと導いたのだ。よって知らぬが仏だ!英語では「Ignorance is bliss, 'tis folly to be wise.」となる。Thomas Grayの格言である。follyとはまさにアダムとイヴのことだ。なるほど、キリスト教がときたま無知に対して寛容になるのも無理がない。一方、仏教では無明に対してはもっぱら非寛容であるが。それにしても仏教徒は不食人間になりたいのだろうか。私もそうだったらいいのに。そうすれば、食費もセーヴできる。飢えに苦しむこともない、排泄することもない。食が無ければ畑を耕すことも無い。しかし食が無ければ命も無い、それがキリスト教だ。イエスを求めるには身体は器官を必要とする。
でも、器官なき身体は意志、もしくは力と運動であろう。善悪がないタブラ・ラサである。器官なき身体は「生への意志」や「力への意志」のようなバズワードを使って宣伝されてきた。しかし仏教では器官なき身体でさえ無明に依って起こる。そして識が起き、名色が起き、六処が起き、欲望へと導き、身体は器官と結びつく。この名色のプロセスは創世記の2章19節に見られる。
結論を言えば、ファグスとファルスの両方は神の国へのパスポートである。しかし仏教ではこれら二つは煩悩であり、涅槃に到達するためには去勢しなければならない。シッダールタ自身は独覚であった。だから彼はファルス的活動である会話によってブッダにはならなかった。彼はファルスを「去勢」したのだから。タントリズム的な密教ぐらいか、特に立川真言流ぐらいだろうか、ファルスを堂々と彼らの修行に取り入れたのは。そういう意味では須弥山もファルスなのであろうか?
747
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、食という縁から〔生起する〕。諸々の食が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
748
「苦しみは、食という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の食を知り尽くして、一切の食について依存なき者となる。
「食」は原文のパーリ語ではaharaであり、サンスクリット語でもaharaである。しかし英文では「食物」と訳されてある。だが、ahara(アーハーラ)は「食べること」とも意味する。だからアーハーラはファグスである。そこで私は経典の文節の「食」にファグスを当てはめてみるとする。
747
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、ファグスという縁から〔生起する〕。諸々のファグスが止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
748
「苦しみは、ファグスという縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切のファグスを知り尽くして、一切のファグスについて依存なき者となる。
ファグスに依存しない、つまりファグスを滅するということだ。aharaを滅する、つまりaharaの無い状態、無食である。三法印の一つである諸法無我はサンスクリット語でSarva-Dharma-Anatmaであり、このAnatmaが「無常」に当たる。An(無)とAtman(アートマン、我)を結合させてアナートマとなる。よってAharaの前に無を意味するAnを付け加えればAnahara(アナーハーラ)となる。よって無食となるのだ。一切のaharaについて依存なき者、それこそSarva-Anaharaだ。よってAnaharismが無食主義となり、Anaharistが無食主義者となる。
ファグスをさらに拡大解釈してみよう。これをギリシャ神話に応用してみる。クロノスは予言を実現させないために子供を食い殺した。これがクロノスのカルマ(業)となったのは言うまでもない。子食いが親を最終的に葬ることになる。エディプスの父ライウス王は少年愛者であり、ある日、少年を強姦した。性行為を食事行為に例えるのはいろいろな文化で共通すると見える。英語に「eat out」という熟語ある。これは「食い尽くす」という意味であるが、俗世間では「cunnilingus(クンニリングス=陰部を口で愛撫する)」という意味合いで用いられる。また口という器官もフェラチオやクンニリングスへの性欲に結びつくので、ファルス的にもなる。つまり食欲も性欲も同じ衝動から起きているのだ。だからライウスは少年をeat outしたのだ。よって少年食いを「pedophagus」と名付ける。本当かどうか知らないが、マイケル・ジャクソンもその傾向があると噂されている。だがライウスはそのカルマのために彼の実の息子はかならず彼を抹殺するだろうという予言を授かる。だから彼は生まれたばかりのエディプスを始末するよう命じた。しかしライウスはとうとうそのカルマから逃れることができず、生き延びて成長したエディプスに無惨にも斬殺されてしまう。私はこれを「ファグスのカルマ」と名付ける。つまり食業だ。
シッダールタももう少しで子食いになるところだったと推測する。それかラーフラに食べられてしまう運命であると悟ったのだろう。だから息子を日食に関連する「昇交点」と名付けたのだ。つまりラーフラは「heliophagus(日食)」だったのである。いわゆるシッダールタを食べてしまう存在だったのだ。だから食業を断つために出家したと思われる。
カルマは三つに分けられる、身口意である。仏教は特に意に集点をおいている。そして意を汚す煩悩でもっとも忌み嫌われたのは三毒である。貪嗔癡である。それらは三つの動物で象徴される。貪が豚、嗔が蛇、そして癡が鶏である。豚は食いあさることしか知らない。だから貪はファガスである。嗔は怒りであるが、私は発情、性衝動とも解釈する。そして癡は愚かさであるが、性欲と性交そのものを表していると思う。事実、英語で雄鶏を意味するcockとは陰茎のことであり、ファルスである。畜生の一生など食って発情して交尾して死ぬだけだ。よって貪はファグス、嗔と癡はファルスとなる。しかし大元の「器官なき身体」は同じなので三毒どれもファグスでありファルスでもある。そしてシッダールタはどちらも無明から生じると見ていた。
ファルス的な活動は無明の産物であるとする。つまり知恵がない状態が暗闇であり、知恵または智慧がある状態が光、いわゆる明である。しかし旧約聖書によれば「知る」という単語は性交を意味する。「アダムは女を知った」という表現、ということはセックスは知恵である。知恵はIntercourse(性交)であり、それは「会話」とも訳される。ソクラテスは対話によって知を深めて行った。だから彼の哲学はファルス的である。またソクラテスの方法は産婆術(Maieutics)とも呼ばれ、彼はどうやら妊婦狂(Maiesiophilia)だったようである。妊婦狂は紛れもなくファルス的であるということを誰が疑おうか。
それにアダムとイヴは知恵の果実を食べることによって明を得た。そして自分が性器を曝け出しているのが恥ずかしくなり、葉っぱでそれを覆い隠した。そして結果的に性的に引かれ合った彼らはお互いを「知る」に至った。つまり明暗を分けるのはセックスなのだ。sexはもともとラテン語の「secare(切る)」から派生している。「Caesarian Section(帝王切開)」のsection(切開)もsecareが元となっている。そして人を男女に切り分けたのがセックス、つまり性別である。物事を切り開いていく分別の力。セックスとは差異を増殖させて行く力なのだ。つまりセックスは智慧を得るための手段であり、智慧そのものでもある。
だから聖書は貞操者は無明、卒業生は明と暗示しているかのようだ。それなのにどうしてキリスト教、特にカトリックや正教会には僧侶がいるのだろうか。さらにほかのセム宗教のユダヤ教やイスラム教にとっては僧侶がいること自体が全く理解できない。彼らにとったら僧侶になることは明への道を捨ててしまったも同然に映るからだ。
ところで私は数学が大の苦手だ。大学のフレッシュマン時代、単位を落とし損ねたぐらいだ。でも私の分かる範囲以内で仏教とキリスト教のファルスに数式を応用してみることにするが、許されい。
明がK、ファルスがPとなる。よってこうなる;
キリスト教の数学:
K⊃P
~P
~K
仏教の数学:
~K⊃P
~P
~~K=K
訳するとこうなる。
キリスト教の数学:
明があればファルスがある。
ファルスがない。
よって明がない(無明)。
仏教の数学:
明がなければファルスがある。
ファルスがない。
よって無明がない。二重否定で、明がある。
聖書ではK(明)はセックスへと導いたが、仏教では~K(無明)がセックスへと導く。そしてたとえセックスを経験したとしても無知蒙昧のままである。仏教では貞操生活に捧げる者が明に到達でき、明星の下で覚者となれるのである。しかし貞潔はキリスト教では闇だ。だからキリスト教と仏教はそういう面で正反対なのである。
思春期の子供は自己意識を発達させる。だから知恵の木はセクシュアリティーと個性化への道なのだ。恥とプライバシーの意識はコインのように表裏一体なのでは。アダムとイヴがそうであったように。彼らは神からの隠れ場が必要だった。そう、思春期の子供が親からの隠れ場を必要とするように。性的な成熟はティーネージャーにプライバシー意識を発達させ、親に反抗し出す。
「俺の部屋に侵入するな。俺にはプライバシーがある。」
親を部屋から追い出し、インターネットで可愛い女の子のサイトを探し、白昼夢に酔いしれる。もしくはウェブキャムでそのような女の子との会話に夢中となる。そして18歳にもなれば、選挙権を獲得し、大人となる。アートマンの発展が彼らを大人にさせるのだ。
すべてはアートマンだ。個人的な空間もアートマンの延長だ。サイバースペースはアートマンの追求のために自立しようとする十代の温床である。しかし究極のプライバシーは親の元を離れて一人で生活して行くことだろう。そうすればクラブ、大学、会社、ビジネス、政府機関で自己のアートマンの拡張を追求することができるのだ。シッダールタがその機会を獲得したのは29歳の時だった。現在の大学生から見たら、ちょっと遅いが。また「理由なき反抗」の登場人物はそれに失敗したが。よってプライバシーとエゴは切り離すことができない。事実、エゴという言葉はラテン語とギリシャ語で主格の一人称単数形である。
英語のprivacyという単語を見てみよう。 privacyはラテン語のprivusから派生しており、「自分の、個人の」という意味である。だから知恵はエゴもしくはアートマンの自覚へと導く。 一方で、英語のidiot(白痴)という単語はギリシャ語のidiosから派生しており「プライベート、自分の」という意味である。よってエゴ、プライバシー、アートマンに執着する人間は全て白痴なのである。 だからidiotという言葉はとても仏教的なのである。ドストエフスキーの「Idiot」も完全な利他主義者に見えるが、実はエゴイストなのである。マハトマ・ガンジーも聖なる馬鹿だったのだ。彼の名はマハー(摩訶、偉大)とアートマン(自己、我、魂)が合わさってマハトマとなっている。 事実、仏教は無知によって執着が起こるとする。だから知がアートマンへの執着を断つ、よてアナートマ(無我)となり、三法印の諸法無我となる。
しかしcarpophagus(果実食) がアダムとイヴに知恵を与えた。だからファグスは智慧獲得への必要条件だったのだ。しかし神はアダムとイヴをエデンの園から追放し、彼らが生命の木の実を食べて永遠の命を手に入れられないようにした。よってキリスト教はファグスに重点を置く。一方、仏教ではファグスを苦の原因としてしか見ていないが。
「イエスを食べよ、血を仰げ、肉を食らえ。」
Sarcophagusは肉食であり、jesophagus(Jesus+Phagus)もしくはchristophagusはキリスト食いである。事実、キリスト教徒はjesophageal(jesophagusの形容詞)である。 彼らはクライスト・イーターである。むろん、キリスト教はとてもファグス的な宗教である。彼らは食べ物の戒律を全く気にしない。食べられる物なら何でも食べる。一方で仏教は不殺生を説くので、ヴェジタリアンが多い。彼らはセックスで作られた生物は口にしたくないのだろう。六道を輪廻する存在はすべて生殖によって生まれるのだから。しかし六道で植物界というのはない。だから彼らは植物でさえ生殖によって作られているとは夢にも思わなかったのだろう。
中世フランスのアルビジョワ派はpesco-vegetarian(ペスコ・ヴェジタリアン=魚介類も食べる菜食主義者)であった。彼らも魚は生殖で生まれるとは考えておらず、海底から自然発生していると本気で信じていたようだ。それに当のイエスが魚を食べていたのだから、魚を拒絶すると反キリストになるので、魚はオッケーにせざるを得なかった。日本人の大半も明治維新まではみんな仏教徒でなければならなかったから、食生活はペスコ・ヴェジタリアンだった。彼らもまた、魚が生殖によって成り立っているとは知らなかったのかも?
キリスト教ではファグスとファルスが天国への階段だ。聖書によると無明はファグスへと導き、ファグスは明へと導き、神でさえファグスは永遠の命へと導くと言い切っている。そしてイエスは永遠の命の木になろうとした。たとえ神が最初の人間からそれを食べるのを阻止したにもかかわらず。つまりイエスは反抗者なのだ。プロメテウスがそうであったように。あの蛇は人類に火(明、智慧)を与えたのだ。ルシファーは光を運ぶ者であり、明けの明星である。そしてシッダールタも明けの明星のもと、悟りを開いてブッダになったという。第一の反抗者がプロメテウスであり、第二の反抗者がイエス、命を運ぶ者である。
仏教では無知は食を起こし、食は楽ではなく、いかなる苦の条件となる。反対に、アダムとイヴは無知だったがために神の規律を理解することができず、規則を破ってしまった。しかし、彼らは違反行為によって知恵を獲得した。だから無明はファグスを媒体として明へと導いたのだ。よって知らぬが仏だ!英語では「Ignorance is bliss, 'tis folly to be wise.」となる。Thomas Grayの格言である。follyとはまさにアダムとイヴのことだ。なるほど、キリスト教がときたま無知に対して寛容になるのも無理がない。一方、仏教では無明に対してはもっぱら非寛容であるが。それにしても仏教徒は不食人間になりたいのだろうか。私もそうだったらいいのに。そうすれば、食費もセーヴできる。飢えに苦しむこともない、排泄することもない。食が無ければ畑を耕すことも無い。しかし食が無ければ命も無い、それがキリスト教だ。イエスを求めるには身体は器官を必要とする。
でも、器官なき身体は意志、もしくは力と運動であろう。善悪がないタブラ・ラサである。器官なき身体は「生への意志」や「力への意志」のようなバズワードを使って宣伝されてきた。しかし仏教では器官なき身体でさえ無明に依って起こる。そして識が起き、名色が起き、六処が起き、欲望へと導き、身体は器官と結びつく。この名色のプロセスは創世記の2章19節に見られる。
結論を言えば、ファグスとファルスの両方は神の国へのパスポートである。しかし仏教ではこれら二つは煩悩であり、涅槃に到達するためには去勢しなければならない。シッダールタ自身は独覚であった。だから彼はファルス的活動である会話によってブッダにはならなかった。彼はファルスを「去勢」したのだから。タントリズム的な密教ぐらいか、特に立川真言流ぐらいだろうか、ファルスを堂々と彼らの修行に取り入れたのは。そういう意味では須弥山もファルスなのであろうか?
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とうとう八月になっちまいやがった。この間まで新年だと思っていたのに。ちょっとー、時間の経過、あまりにも早すぎない?!やめてよ。そんなの嫌だ。たすけてー!もうお盆の時期だなんて、正気の沙汰とは思えない。
さて盆とは「盂蘭盆経」のことであり、シッダールタの十大弟子の一人であるマウドガリヤーヤナ(目連)は教団では神通力第一と評された超能力を以て母親が餓鬼界に輪廻転生してしまったことを知り、シッダールタの助言を借りて母親を救出するという話である。盂蘭盆のサンスクリット語がウランバーナ(Ullambana)であり、「苦からの救済」という意味である。Ullamは「逆さ吊り」であり、banaは「御饌で詰まった鉢」である、よってbanaは「救済」の意味にもなる。いわゆる「逆さ吊りのような苦しみからの救済」である。
盂蘭盆経の原文はここ。英訳も。
シッダールタは、自己はもともとないのだから父も母もなく、死んでしまったら五蘊がばらばらになってしまうのだから執着を滅するように、と説いた。シッダールタは家族愛さえ苦の原因であるとした。苦を滅するためには家族愛さえも克服しなければいけないように。だがそんなことができる人間はいるのだろうか。それに漢文化では先祖供養ほど大切なものはなく、文化の根幹をなしているので、死んだ人を気にしない仏教は理解しがたい存在だったのだろう。だから仏教が漢文化圏で生き残って行くためにも折衷主義的な経典が必要だったのであろう。つまり僧に施しをして功徳を積めば、その功徳の力は自分だけでなく、自分の七代前の先祖までにも及ぶとされた。
お盆はもともと旧暦の7月15日に行われたが、新暦になり、また月遅れが原因で8月15日になったのだろう。7月15日はインドではちょうど雨期が明ける頃だ。その間の湿気の重圧や洪水の危険から避難するため仏僧は4月15日から三ヶ月間避暑地もしくは避雨地で合宿を行う。7月15日が合宿最終日であり、その日はサンスクリット語でプラヴァラーナ(Pravarana)と呼ばれ日本語では「自恣」と訳される。仏僧が集まって過去一年間の生活の反省を懺悔する日であると言う。だからお盆はインドの仏教行事がもととなっており、漢文化の先祖供養と混じって日本に伝来した。そして日本の祖霊信仰と融合し、お盆が日本に根付いた。
地方の「施餓鬼(せがき)」も目連の母の救出劇がもととなっている。ど田舎育ちではない私でも「せがき」は耳にしたことがある。仏教のオリジナルではないにしても、私はお盆と一緒に育ってきた。だから私の生活の一部であった。思春期には(日本にいたらきっと今でも)女の子の浴衣姿を見るのが楽しみでしようがなかった。それにお盆は恋の盛り時とも言うし。盆踊りのドサクサにまぎれてかわい子ちゃんに「セクシーだね」と褒めたら、うちわで頭をぶたれて返り討ちにあったこともあったが、今となってはいい思い出である。
アメリカ生活ではお盆に似ている行事と言えばハロウィーンだろう。しかし、もはや都会の子供たちは衣装を着て「Trick or Treat!(呪われるか、もてなすか!)」と言ってキャンディーをねだらなくなってしまった。理由はマイケル・ムーア監督の「Bowling For Columbine」を見ている方ならお分かりであろう。その理由が知りたければ、この映画をお薦めする。日本は少なくともその面ではアメリカ都市社会のようには病んでいないので、日本にいなくて切なくなることが、ごくたまーにある。いや、何を考えているんだ、私は。私は既に後ろ髪を切り落としたのだぞ。釈迦が出家したときのように。私の場合は出家ではなく出国だったが。
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お立ち寄り頂きありがとうございます
しなびたオコゼ そうですか、すでに後ろ髪は無日本に置いてきたのですね^^
確かに 昨日という過去は永遠に過去になりつつある過去なんですが、先日、40年ぶりの同窓会がありまして、その後やはりしばらく自分が変なんですよ。それって単なる郷愁に浸っているのみならず、事は37年、40年ぶりですから (笑) とにかくタイムマシーンでもあったんです。
ただ面白いのは、その仲間達は、保育園・小学校・中学校同じ連中ですので、全くほとんどと言って良いほど、人間が変わっていないという事だったんです。(初めて開いた田舎の同窓会です)
同窓会後に、同窓ブログを立ち上げまして、その中に出てくるしぐさも個性も性格も・・・・面白いように、過去が甦るんですよ。変わっていたのはしわの多さと髪の薄さと、余計な大人のクソが、一回り大きくなったことだけかもしれないと思いました。
とりとめのない話で恐縮ですが・・・・^^
ただそこにも必ず出てくるのが、「あの時は、あの子が好きだったなぁ・・・」 というたぐいの楽しいお話。そしてまた、その楽しさが40年後においても、楽しめるというのも、不思議ですねぇ・・・・・ ^^
ありのままにさせて、また新たにスタートさせてあげたいと、つくづく思いました。
すばらしい
ヘルメス いえいえ、しなびたオコゼさん、貴重な体験、ご投稿いただき、大変ありがとうございます。勉強になりました。保育園からの友人たちとまだ交流があるとは、すばらしいじゃないですか。私はまだEメールが普及する前に渡米しましたから、なかなか難しいですね。でも縁があればいやでも再会することになるでしょう。
やはり三つ子の魂百までというのは、本当なんですね。70歳ぐらいの方々とお話ししたとき、皆同じようなことをおっしゃてました。で、やはり、オコゼさんがおっしゃた通り、必ずと言っていいほど恋愛の話題になるみたいです。でも「思いを寄せていた人には会わない方がいい」と助言してくれました。なんでも「夢が砕け散るから」だそうです。(笑い)
しなびたオコゼ そうですか、すでに後ろ髪は無日本に置いてきたのですね^^
確かに 昨日という過去は永遠に過去になりつつある過去なんですが、先日、40年ぶりの同窓会がありまして、その後やはりしばらく自分が変なんですよ。それって単なる郷愁に浸っているのみならず、事は37年、40年ぶりですから (笑) とにかくタイムマシーンでもあったんです。
ただ面白いのは、その仲間達は、保育園・小学校・中学校同じ連中ですので、全くほとんどと言って良いほど、人間が変わっていないという事だったんです。(初めて開いた田舎の同窓会です)
同窓会後に、同窓ブログを立ち上げまして、その中に出てくるしぐさも個性も性格も・・・・面白いように、過去が甦るんですよ。変わっていたのはしわの多さと髪の薄さと、余計な大人のクソが、一回り大きくなったことだけかもしれないと思いました。
とりとめのない話で恐縮ですが・・・・^^
ただそこにも必ず出てくるのが、「あの時は、あの子が好きだったなぁ・・・」 というたぐいの楽しいお話。そしてまた、その楽しさが40年後においても、楽しめるというのも、不思議ですねぇ・・・・・ ^^
ありのままにさせて、また新たにスタートさせてあげたいと、つくづく思いました。
すばらしい
ヘルメス いえいえ、しなびたオコゼさん、貴重な体験、ご投稿いただき、大変ありがとうございます。勉強になりました。保育園からの友人たちとまだ交流があるとは、すばらしいじゃないですか。私はまだEメールが普及する前に渡米しましたから、なかなか難しいですね。でも縁があればいやでも再会することになるでしょう。
やはり三つ子の魂百までというのは、本当なんですね。70歳ぐらいの方々とお話ししたとき、皆同じようなことをおっしゃてました。で、やはり、オコゼさんがおっしゃた通り、必ずと言っていいほど恋愛の話題になるみたいです。でも「思いを寄せていた人には会わない方がいい」と助言してくれました。なんでも「夢が砕け散るから」だそうです。(笑い)
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