NAFTAでのキモヲタのソナタ
ピンクフロイドの「The Dark Side of The Moon」はまさにカミユの『シジフォスの神話』を体現している。不条理の世の中を描いているのだから。シジフォスは巨大な石を担ぎ上げて坂の上まで登ろうとするが、石が坂から落ちてしまうので永遠に坂の下からやり直さなければならない。果てしない同じことの繰り返しである。ゼノンの「亀とアキレスの競争」のパラドックスにも通じている。

このIT革命後の世界ではもっと仕事が楽になり、人々の生活が向上すると思われていた。しかし仕事が楽になるどころか余計きつくなった。勤労時間は増え、仕事の量も増えた。コミュニケーションの革命で時間を節約するどころかもっと余暇を削減されるはめとなったのである。余計忙しくなってしまったのだ。亀には永遠に追いつけないのである。

ピンクフロイドの「Breath」という詩から抜粋すると
Run, rabbit run
Dig the hole, forget the sun
And when at last the work is done
Don't sit down, it's time to dig another one

(ウサギよ、走れ
穴を掘れ、太陽を忘れるんだ
そしてついに仕事を終わらせたら
座ってはいけない、次の穴を掘る時間だ)

シジフォスは果てしなく巨石を担ぎ上げる。ウサギも永遠に穴を掘り続ける。イソップ物語でもウサギは亀に追いつけなかった。そしてパリスの矢によってアキレスは走る能力を奪われ、亀に追いつくための方便さえ失ってしまい、死んでしまうのだ。ネオリベラルキャピタリズムとはそんなシステムなのだろうか。

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【2006/03/26 04:08】 | 哲学
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痴漢の語源は「馬鹿な漢人」という意味だと聞く。英語で言うと「Chinese Idiot」かあるいは「Stupid Chinese」だろうか。「漢」という言葉はもともと「高貴な男」という意味で日本で使われていたようだが、しだいに「下衆の男」として定着して行った。その背景には満州族の清王朝が誕生し漢民族の支配が崩壊した経緯があった。そのことで華夏を中心とした中華思想のヘゲモニーが砕け散り、朝鮮、ベトナム、日本が独自の道へと進むこととなった。

中華思想の正当後継者はもはや異民族に従属させられた漢民族ではなく大和民族となったと水戸黄門は宣言した。日本民族主義はここからスタートしたのである。それと同時に「漢」に対する崇拝が嘲笑の対象へと変わったのだろう。「暴漢、悪漢、痴漢、門外漢」などなどネガティヴな印象を与える。つまり社会規範から外れたふしだらなだらしない男は「漢人」となったのだ。

フランス人はかつてアメリカ人の尊敬を集めていたが、今となっては嘲笑の対象である。ジョン・ケリー大統領候補もFOXニュースでさんざん「フランス人」と嘲笑された。漢人もフランス人も尊敬から侮蔑の対象へと変化してしまった。

「痴漢」が放送禁止用語になってないとは。市民権団体から抗議があったというニュースも聞いたことがない。まあ日本ではこの言葉はあまりにも人々の生活に溶け込んでしまったためにだれも気にしないし、潜在的差別用語であることも気づくはずもない。

【2006/03/21 04:59】 | 文化
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こんにちは
まぐ
コメントをどうぞhttp://happy-site.net/のサイト見てたら記事が載っていたので、見にきました。また見にきますね〜!


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ミロシェビッチが獄中死したニュースがあった。そしてアメリカにはないホワイトデー。

会社は突然リストラを発表した。私の部門も大量の人員が削減された。特に能力のある人が、アウトソーシングの対象となったようだ。

それにしても同僚の涙にはこたえた。今まで共に働いてきた同志がこのように一瞬にして仕事を失ってしまったのだから。だれもが憂鬱になった。

アメリカの優秀な人材が職を失い、海外の優秀な人材を低賃金で雇って会社の利潤を増やす、典型的な資本主義だ。かつてのITバブルではコンピューター技師はヤッピーとしてベンベを乗り回していたが、彼らは20年後にはアメリカから絶滅しているという。5年前はだれもがコンピューターを専攻したが、今ではさらに多様性が求められるという。なんと流動が激しいのだろう。同僚もその流動の餌食となってしまったのだ。

私の会社はメキシコに拠点を移すと発表したが、あまりにもとっさのことだったので何がなんだか分からない。せめて30日前に通告するのならまだ分かるが、出勤して突然レイオフを告げられたなんて。なんたることだろうか。はたしてこれは正義なのか?

私はからくもリストラの対象からまぬがれたが、ここのところ経済は良くないし売り上げも良くなかったので、私もいつ路頭に迷うことになるか分からない。でもそれがネオリベラルキャピタリズムであり、レーガンが作り上げた弱肉強食のシステムである。イギリスではサッチャーが、そして日本では小泉が。

アメリカではホワイトカラーは労組に入っていないのが普通。だからもちろん我々に声はない。すべてトップが決断するので、会社は独裁体制だ。それが新自由資本主義であり、民主主義とは相反する。ネオリベラルキャピタリズム下ではこんなことは日常茶飯事なのだ。つまりキャピタルがアメリカ社会のアルケーとなってしまっている。

アルケーはギリシャ語で「根源、原理、支配、政府、支配者」を意味する。だからアナーキストはan(無) + archy(政府)で「無政府主義者」だが、厳密に言えば「無原理主義者」である。キリスト教はロゴス(理性、言葉)がアルケーだとする。そしてロゴスは神である。しかしアナーキストはそのアルケーに反抗する。だから無神論的世俗運動もパンクロック運動も脱構築運動も反体制的なアナーキスト運動なのだ。

しかし労組が問題を解決するとは限らない。労組には常に悪いイメージが付きまとう。労組は基本的に組織なので腐ってしまう。政党と同じだ。アメリカでは過去にチームスターなどの労組がマフィアと結びついてラスベガスに投資し、幹部は贅沢三昧の生活を送っていたと言う。「オン・ザ・ウォーターフロント」という映画もいかに労組が腐敗していたかを通説に描いている。言うまでもなく労組も独裁政治だ。プロレタリアートの独裁の「独裁」はアウタルキーであり、「autos(自ら)+archy(支配)」である。結局はアルケーの奴隷になってしまう。そんなのはもううんざりだ。

できるなら人が個人として独立して生きて行ければいい。そう、自営業者や起業家のように。アルケーに従うことなく生きていく。それこそがアメリカンドリームである。

韓国では四月十四日がブラック・デーであり、ジャージャー麺を恋人のいない負け犬たちが食べるのだと言う。それが韓流で日本にも飛び火したそうだ。しかしここではプラックデーは一ヶ月早く来てしまったようである。


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【2006/03/16 03:49】 | 仕事
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マインド・サーカス、これはどういう意味だろう。「サーカスを気にしなさい」か、「ヌース(知性)のサーカス」だろうか。まあ私の思考はごった返していると言っても良いだろう。

自殺する若者

日本の埼玉県で若者の集団自殺があったと聞いた。なんたることだろう。どうして自殺者がこれ程までにも増えたのだろうか。日本ではここアメリカや欧州、中東のように宗教によって自殺は罪とされることはない。即身仏と言う概念も日本にはあるし、日露戦争の英雄の乃木希典将軍も明治聖帝の崩御にともない殉死した。神道や佛教には欧州のような自殺に対する罪の意識はそこまで無い。自殺は神に対する犯罪ではないのだ。

ユダヤ・イスラム・キリスト教では人の命を奪えるのは神だけであり、人が人を殺したり自殺したりする権利はない。欧州の国王や皇帝は王権神授説によって人を死刑にする権限を持っていた。だから人を殺すことが出来るのは王だけであった。殺人は王の権威を侵害するものであり大逆であり、王の権威を回復するために殺人犯はもっとも残酷な形で公開処刑された。世界初の世俗国家となったアメリカがいまだに死刑を容認しているとは。世俗国家となった瞬間に死刑が廃止されなかったとは。ヨーロッパ連合では死刑は廃止されたのに。宗教心が最も薄い西欧で死刑が廃止され中東のような宗教心が濃い国で残酷な刑が行われているとは皮肉である。当然自殺は神に背く行為であり、社会に背く行為でもあったが、最近それも変わりつつある。とくにポスト冷戦の時代に入って既存の価値観は消え、自殺に対する価値観も変わろうとしている。

***

ポスト冷戦世代

私はポスト冷戦世代だ。第二次大戦後のアプレ・ゲール世代はジェームス・ディーンの「理由なき反抗」に象徴された。私は94年にその映画を見た。まさにその心境と同じだった。そして阪神大震災、地下鉄サリン事件といい、サカキバラ・セイト事件といい、まったく訳の分からない怪事件が連続して続いた。ポスト冷戦は何がなんだか分からない時代だ。アメリカもソ連が消えたことでとても内向的になったし、消費社会による経済の復興に全力が注がれた。しかしそんなアメリカでも93年にブランチ・デヴィディアン事件、そして95年にオクラホマシティーでテロ事件が起こった。テロの犯人は湾岸戦争にも従軍したアメリカ国粋主義者であった。そして97年にはヘブンズゲートの集団自殺があった。

その間にIT革命も起こった。インターネットは全てを変えた。今では20%以上もの十代のアメリカの若者が自分のホームページを持っていると言う。私はちょっと生まれるのが早かった。できるなら、インターネット革命が浸透してから思春期を経験したかった。今の若者の情報力は十年前と比べたら一億倍も違う。アメリカの老人でさえ、「最近の若者は話しが出来るのう」と言ってウキウキしていたのだから。

そんな中で行き場を失った高校生がコロラドのコロンバイン高校で大量射殺するという事件が起きた。ITバブルによる株式は最高潮に達し、アメリカの歴史の中で経済が最も繁栄した時期だったので、アメリカ中がショックを受けた。どうしてそんなことが起きてしまったのか、そう人々は口を揃えて呟いた。そして二十一世紀最初の年にニューヨークで同時多発テロが起きてしまった。世界の消費社会の象徴だったツインタワーが粉々に崩壊したのだ。

***

ポスト冷戦の時代、我々は神話を失った。しかしアメリカの一部ではキリスト教が非常に強い。彼らにとっては神話は根強く残っている。「Saved」というキリスト教系の高校を風刺するコメディー映画があったが、彼女らは神の名において自分の行動全てを正当化する。全ての行動は「これは神の意志」とし、議論する時も常に「神はこう欲してらっしゃる」と必ず後につけるのだ。まるで戦前の大日本帝国だ。すべては「陛下の御心」、だからどんな強情な熊のような凶暴な軍人であっても天皇に謁見するときは色を失ったそうだ。北条政子が公家に対して反旗を翻す時でも「上皇様は側近に惑わされている」と言い訳をしてはじめて部下を出陣させることが出来た。イスラム原理主義者も「アラーの御心」を盾にし、「アラーアクバル」と叫んで人の首を切るのだ。「バンザイ・クリフ(万歳の崖)」もその狂気から生じたものだ。神風特攻隊も「天皇陛下万歳」と叫んで敵艦に激突したのだろう。信じられないことである。だから「原理」は人を硬直させてしまうのだ。

しかし日本の若者の自殺は神や天皇、個人的信条、教義、主義、名誉、家族のためではなく、根拠の無いものだ。ある特定の原理に従って行動するということでもない。理由がないのである。サルトルは人間の存在に根拠がないと言っていたが、まさに現代の若者の自殺者にはそれが当てはまるだろう。「理由なき自殺」と言ってもいいだろう。ポスト冷戦の新しいタイプの自殺ではないだろうか。

***

そんなポスト冷戦時代の混乱の中、私は96年にあの曲に大変感銘を受けたことを覚えている。坂本龍一が作曲した「Mind Circus」という曲である。「ベルリンの壁が町に消えたあの夜」、まさにポスト冷戦の世代に対する詩である。「革命戦士」は自分に似ているというだけで、自分ではない。何がなんだか分からない、はっきりしたものが見えてこない世界、世界が何かさえ分からない、自分さえ見いだせない、そんな世界に生きていることを痛感させられる曲だ。

セイトの反抗

サカキバラ・セイトはそのような状態を「透明な自分」と表現した。これはそれまでの言葉の大転回だった。これまで「透明な主体」と言えば、「自分を理性によって完全に把握している」と意味していたが、サカキバラのは「自分さえ見えてこないどこにも存在しない自分」と言うことだ。「Cogito Ergo Sum」の「Sum(本質)」が否定されたというより無化されたのだ。「Sum」は「esse(である)」の一人称単数形である。同じ言葉を使って意味をすり替えたのである。詩的なアナグラム、まさに言語ゲームの産物だ。

「自分が透明であること、即ち自分はない」ということ、つまり「透明な自分」は無我である。「即自」がない。最初が無いということでもある。天皇の「皇」の「白」はもともと「自」であり、「First(最初)」という意味で、「皇」は「世界最初の王」と意味する。「第一の王」と言う意味でもあり、アウグストス皇帝の称号「Princeps(プリンケプス)」も「第一の人」という意味だった。ギリシャ語では「自」は「αρχη(アルケー)」であり、「万物の根源」を意味する。いわゆる「原理」であり英語の「principle(原理)」も「プリンケプス」から派生している。佛教で言う「自性(じしょう)」である。

サカキバラはこの「First Person(一人称第一の人、自分)」を否定したのであり、それは起源がないことでもある。起源なき、根源なき、根拠なき、理由なき存在、それが理由なき反抗へと結びつくかどうかはその人次第である。若者の自殺も一人称に対する反抗なのか、「私、ぼく、オレ、あたし」に対する反抗なのか。「自分」というのは相手をさすこともある。その場合「あなた」よりも「あなたの本質」つまり「あなた自身」ということである。つまり「その人自体」であり、カントの「Ding an sich(物自体)」である。「I myself」か「You yourself」など「自身」という周囲にから独立した存在である。その「自体」への反抗かも知れない。原理を持たない人間の犯罪、あるいは破壊行為、エヴァンゲリオンに共通する事象である。だから最近「動機のない犯罪」が増えてきたのだろう。ある大学教授の話しによると授業中にアイスクリームを食べている学生がいたので「どうして授業中に食べてるんだ」と注意したら「食べたいから」と言い返されたと言う。欲望のままに漂流している若者たち...

サカキバラは「essentialist(本質主義者)」ではなく「existentialist(実存主義者)」であろう。英語では「be動詞」は一つだが、フランス語とルーマニア語を抜かして他のロマンス諸語には二つある。スペイン語とポルトガル語の「ser」と「estar」、イタリア語の「essere」と「stare」、ラテン語の「esse」と「stare」、「essence<エッセンス=本質存在>」と「existense<事実存在(実存)>」の差異と関係。厳密に言えばフランス語もかつて「etre」と「ester」に分かれていた。つまりこの「stare」こそが実存哲学の問題である。

「stare」は元々ラテン語で「立つ」という意味であり、「status」が「stare」の名詞形であり「状態」という意味だ。それが英語の「state(国家、州)となった。「stare」はインドヨーロッパ語源の「sta-」から派生し、英語の「exist(存在する)」の語源であるラテン語の「ex(前へ)- sistere(立ち止まる、立ち向かう)」の「sistere」もこの「sta-」から派生しているのだ。つまり決起の哲学である。ドリス・デイの名曲「Whatever will be will be」の「be」はスペイン語で「ser」であり、ラテン語の「esse」が語源であり、英語の「essence(本質)」の語源でもある。つまりこの歌は瞬視する状態ではなく永遠の本質を表現している。だから三人称単数未来形の「sera」になり、「Que Sera Sera」となる。未来も原理に束縛されているのだ。きっと実存哲学者はこの歌を嫌うだろう。


アメリカ帝国の出現


アメリカでも「Perpetual Unionist(永久連邦主義者)」と「State rightist(州権主義者)」に分かれる。この永久連邦主義者は本質主義的な考え方をする。永久なものが根拠であり、流動するもの(状態)の元となる。だから「state(州、状態)」はラテン語の「stare」から来ている。つまり連邦が永遠で、州は永遠ではないのだ。つまり州は本質ではない。それでも州の脱退は認められていた。事実、州権主義者はそう認識していた。どこの州が脱退しようと二つ以上州がありさえすれば連邦は存在した。州が先にあって連邦が出来たのだから。州あってこその連邦。サルトルの「実存は本質に先行する」という言葉は的を得ている。南北戦争の危機でさえ連邦は存続していた。全州が脱退すれば連邦は存続しなかったが、州は連邦なしでも存続できた。しかし州が連邦から脱退するのは南北戦争の後、連邦最高裁が違憲と判断してしまった。本質が実存を支配してしまったのだ。つまり州が州ではなくなってしまった、「state(州)」という名を形骸化させてしまった、州あってこその連邦から連邦あってこその州へ、まさ州の死である。連邦なくして州なし、それこそフェデラリスト(のちの共和党)の陰謀であった。連邦が「永遠」と規定した瞬間にその主義は宗教となったのだ。本質なしに実存はあり得ないと言うシステムを作ってしまったのだ。永遠なものなしに実存が存在することが出来なくなったのだ。

まるで同一性を求めたナチスの中央集権化である。ヒットラーも「我が闘争」中でリンカーンの連邦主義に賛辞を贈っている。永遠のドイツ帝国のような、そんな連邦が「永久」の実体と定義されるなんて。まるで連邦自体は永久であるかのように。ヒットラーも「an sich(自体)」という言葉を好んで「我が闘争」の中にちりばめた。「永久」というものはないだろうし、「完全」も何を基準にしているのかが曖昧だ。連邦は憲法というテクストでしかない。そのテクストも織物のように書き換えられて行く。しかし連邦あっての州と書き換えられてしまったことは悲劇である。

それに二つ以上の州があれば連邦を構成するのだから、脱退できないということもない。脱退できなかったらまるで昔のソ連だ。ソ連もバルト三国が独立してもソ連だった。しかし15の共和国全てがソ連から脱退したのでソ連は消滅した。ロシア連邦がソ連の権威を引き継いでいるがたった一国ではソ連になりようがない。永遠と言われた共産主義自体東欧から消滅してしまったのだから。南部の人々も実存を連邦政府にぶつけた。そしてその勇敢さには称賛に値するが、彼らは邪悪なシステムを守るために戦った。サカキバラの哲学も心を打つものがあったが、極悪非道な犯罪に走ってしまった。ソ連の解体を導いた反抗するものたちが真のヒーローであろう。

永遠的で永遠でないもの

永遠なものはあるのだろうか。あるかどうか分からない。だがあって欲しい。永遠がなければ永遠的なものを作ればいいのだ。私の肉体も永遠ではないと言う。だがそれを凌駕したい。不死身になりたい。永遠の命が欲しい。始皇帝もギルガメッシュも永遠の命を得られなかったが、いまでは遺伝子工学が発達してきているので、私は希望を持っている。いずれ人は事故に遭わない限り永遠の命を獲得することが出来るのだ。永遠に若く健康で美しく人は生きるのである。それこそが私の目指すものだ。そして自分を完成させるのだ。

遺伝子哲学と言う宗教によれば人は死ぬからセックスようになったのだと言う。セックスは簡単に言えば遺伝の組み換え作業である。遺伝の組み換えを行うためにセックスするのだ。そして子孫を残して人類は存続するのである。つまり不死身であれば遺伝の組み換えの必要はない、子孫などいらないのだ。人類存続のために遺伝の組み換えを行って人類は進化して行くのだ。だが不死身な人間がいるならば進化することはないのだ。不死身なのだから。男女と別れたのも死ぬからだと言う。染色体が途切れている以上は遺伝子の組み替えのために性別が分かれ、人は死ぬのだ。ところが遺伝学で寿命を延ばすことが出来ると言う。つまり寿命を更新してさえいけば生き続けるのだ。老化が起こるのも細胞が死に始めるからだと言う。回数券が切れてきたからだ。しかしこの回数券を更新することで一生若く健康で永遠に生きられるのである。その技術こそ聖杯の水である。

よって「私」はポスト冷戦時代にありながら自分探しをしている存在である。何が何か分からない、だから分かりたい。よって私は実存主義者ではないのだ。


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【2006/03/12 13:19】 | 哲学
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マイケル・ジャクソンについて同僚と話した。アメリカ人というのは白人、黒人、ラテン、アジア、先住民などと区別されているが、この人種が混ざり合えば新人種が生まれると言う。ブラジル人のような素晴らしい混血の美女が生まれるのだ。

私はマイケルがそのような新しいアメリカの人種だろうと話した。そしたら彼女らは賛成しなかった。
「マイケルのは整形じゃない。どう見ても不自然じゃない。」
と言った。私は、
「でも美しくなりなりたくて、整形したんじゃないの?」
と尋ねると、彼女らは、
「ナンセンスだ。黒人であることを恥じているから肌を漂白したんでしょ。」
と言った。
確かにそうだ。黒人であることを恥じているかどうかは知らないが、人工的に容姿を非人種化したことは確かだ。非人種的な超人、それこそがアメリカ人の理想の姿だ。どこの人種に属するか分からない。まさに脱属領化である。今の技術ではそれが可能になったのだ。マイケルはそのシンボルだと思う。新人類、スタンリー・キューブリックの「2001宇宙のオデッセイア」のような、超人か。人間は動物と超人の過渡期にいる。そのプロセスはまさに綱渡りである。マイケルはその綱を渡った。前の記事の「ヴァレンタインの屈辱」でも言及したが、マイケルこそがアメリカの超人と言うべきシンボルではないだろうか。

整形は可能になった。だから表面的に肉体改造が出来るようになった。だが未来には遺伝子操作によって肉体改造が出来るであろう。背が高くなりたい、美しくなりたい、健康になりたい、手術でしか出来なかったことが人間の設計図であるDNAを組み替えることで実現するのである。それこそ人間の表徴(エイドス、デザイン)を変えることであり、画期的転換である。また遺伝子工学は将来人の死さえも克服するようになると言う。だとすると宗教が約束した永遠の命を科学で手にすることが出来るのだ。「神は死んだ」から「人は死なず」への歴史的大転換が起きるのである。この技術によってポストモダンは終焉するのだ。

脚を長くしたい。残念ながら日本民族はアメリカ人と比較すると平均的に脚が短い。不幸なことに私も例外では... しかし現在の技術ではそれは不可能だ。厳密に言えば可能だが、長い年月を要するし、とても不便だ。なら遺伝子操作で脚が長くするようなDNAに組み替え、自然に脚を長くすればいいのだ。整形手術は激痛を伴うし失敗する確率も高く至って危険である。場合によってはそれがもとで命を落としてしまう。しかし近い未来に整形はメスを使うことなく遺伝子の組み替えだけでできるようになると確信している。醜男も醜女も救われるのである。だから遺伝子工学の発展こそが人間を救うのである。

もしクレオパトラの鼻が短かったら歴史は変わっていただろう」とパスカルはほざいた。ニーチェは「もしソクラテスがハンサムだったら哲学史は変わっていただろう」とほのめかした。私は「もしナポレオンの脚が長ければ歴史は変わっていただろう」と言う。それか「もしナポレオンがもうちょっと背が高ければ歴史は変わっていただろう」の方が適当か。石長姫(イワナガヒメ)が醜くなければ天皇の寿命が縮まることはなかったのだ。

それほどまでに外見と容姿というのは重要なのである。そして人間はそれを遺伝的に変えられる技術を手にすることが出来るのだ。人間をみずから可能性に制限のない超人に進化させる術を獲得することが我々のデステニーである。マイケルはまさにその最先端にいる人である。


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【2006/03/05 04:04】 | 文化
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こんにちは。
さくら
おもしろいお話ですが、結果として、肌が白いですけど、、、どうなんでしょう?白斑(肌の色素が抜け落ちる病気)という病気だと、本人は言っておりますが。
それに肌が白いから白人というのは単純すぎます。色白の人は皆白人ですか?
マイケルは肌の色が白くても黒人ですよ?これは生まれ持ったもので、いくら外見が変わっても、人種だけは変えられません。彼はアフリカン=アメリカンなのです。

コメントありがとうございます
ヘルメス
さくらさん、

本人は整形は二回しかしていないと言ってましたし、信用できないですね。

白人は自らを「白人」と呼んでいます。「ヨーロッパ系」とはあまり聞きません。なお「ユーロ・アメリカン」という新語を作ろうとする動きもあるみたいですが、そこまで浸透してませんね。黒人もおなじく黒人の間でも意見が分かれています。私は日本を出るまでは自分のことをアジアンとは一度も思ったことがありませんでしたが、渡米して「アジアン」とはじめて呼ばれたので、アメリカでは私はアジア系なんだ、という感じですかね。でも実感は沸いてこないです。アジアン・アメリカ人は「アジアン」という意識が強いみたいですが。

私に取ってはマイケルは人種を超越した超人です。それに東欧諸国のファンの中ではマイケルが元黒人だったことを知らない人もいるみたいですから。天に選ばれた人間と言ってはおかしいかもしれませんが、あの方は真のスーパーアメリカンと言っても良いでしょう。

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イギリスやカナダで市民権を取得するための最後の手続きが「宣誓」と言われるものである。

たとえばイギリスでは、
I, [name], [swear by Almighty God] [do solemnly and truly declare and affirm] that, on becoming a British citizen, I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth II, her heirs, and successors, according to law.

私、(名前)は、(全能なる神に誓って)、イギリス市民になることによって、法により女王陛下エリザベス二世、彼女の子孫及び王位後継者に忠実であること、そして偽りのない忠誠を尽くすことを、(厳粛にそして誠実に宣言し確約する)。
またカナダでは、

I swear (or affirm) that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth II, Queen of Canada, Her Heirs and Successors, and that I will faithfully observe the laws of Canada and fulfil my duties as a Canadian citizen.

私はカナダの女王、女王陛下エリザベス二世、彼女の子孫及び王位後継者に忠実であること、そして偽りのない忠誠を尽くすこと、そしてカナダ市民として忠実にカナダの法を厳守し義務を全うすることを宣誓(確約)する。文字色

イギリスもカナダも市民になるためには君主であるエリザベス二世国王陛下に絶対的な忠誠を尽くすと宣誓しなければならない。もしエリザベス女王個人に忠誠を誓うのは馬鹿げてると言って宣誓しなければ市民にはなれないのだ。これはまるで絶対君主国である。イギリスが君主国であることは知っていたが、まさかカナダでそのような時代遅れな宣誓が行われているとは、驚愕させられた。カナダはアメリカよりもリベラルだと聞いていたし、同性愛者に対する権利拡張も進んでいるのに、市民はエリザベス個人に忠誠を誓わされるなんて、まるでナチスの軍隊だ。しかもカナダ人はよそ者のイギリスのエリザベスに忠誠を誓う事自体不条理とは思わないのだろうか。第三帝国では国防軍はヒットラー個人に忠誠を誓わなければならなかったが、カナダやイギリス市民になるものは女王に忠誠を誓わなければならないなんて。そんな宣誓が拘束力を持っているなんて。しかも宣誓しなければ市民になれないなんて。

女王の名前を宣誓文から削除するべきだ。何も女王のために市民になる訳ではないのだから。主権は国民にあるはずだ。だからカナダ国民に忠義を誓うのであればまだ分かるが。いまだにカナダ市民は女王の臣民と思っているのだろうか。全く馬鹿げた話しだ。日本だって日本の市民権を取るときに天皇に忠誠を誓うことなどしないのに。イギリスは遅れた君主国である。カナダがいまだに君主国というのも情けない。しかもアメリカの真上でそのような馬鹿げたことが行われているなんて。社会というものは君主から派生したのではなく、市民から派生したのだ。だから市民社会と呼ばれるのだ。

王位神授説などを擁護するような制度をいまだにもうけているなんて。イギリスはヨーロッパ連合の中で最も遅れた国であろう。なにしろアイルランドのシン・フェイン党の党首が女王に対して宣誓を拒んだために英国議会から追放されたのだから。そんな馬鹿な議会がどこにあるか。貴族院というのも馬鹿げた話しだ。そんなものは廃止しなければならない。アメリカの民主主義がイギリスを改革しなければならない。中東の民主化よりもイギリスの民主化が先だ。

アメリカでは市民権を取得する宣誓の時、宣誓文にある「軍隊に入って国家を守る」とか「神の御加護あれ」とかは、言わなくても良い選択権が与えられている。どうせならその文は削除した方がいいと思うのだが。とにかく女王に忠誠を誓うなどそんな馬鹿な話しはない。イギリスに生まれたイギリス人で女王に忠誠を誓わない人も沢山いるのに。イギリス市民になろうとする人間には女王に忠誠を誓わなくてもいい選択権がないなんて。いやそんな宣誓文自体まったく反民主主義的である。王室に関する文を削除すべきだ。



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【2006/03/02 01:08】 | 政治
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