悪臭が漂う、それはロサンゼルスのダウンタウンだ。とてつもない悪臭が漂っている。私もこの悪臭にいずれまみれてしまうのではないかと毎日恐怖している。そこは、このネオリベラル資本主義で競争から脱落した敗者の捨て場である。私は片腕でやっとの思いで崖にしがみつき、必死になって、渾身の力を込めて、這い上がろうとしている。まさに断崖絶壁である。だが、もう力が出せなくなってきた。もはやこれまでなのか。悪臭放つ地獄に転落してしまうのか。悪臭と貧困。
「貧すれば臭う。」
都市の不浄観というのはここから来ているのだ。潔癖性というのは都市の病気である。しかし都市に住んでいる人間が田舎に行くとショックを受けるのは、悪臭が漂う家畜たちと過ごしている人々がいるということである。都市の人間は思う。
「あんな悪臭を放つ動物と一緒に生活できるなんて、どうかしている」
と。つまり、悪臭は都市文化とは無縁のものである。
「貧すれば臭う。」
都市の不浄観というのはここから来ているのだ。潔癖性というのは都市の病気である。しかし都市に住んでいる人間が田舎に行くとショックを受けるのは、悪臭が漂う家畜たちと過ごしている人々がいるということである。都市の人間は思う。
「あんな悪臭を放つ動物と一緒に生活できるなんて、どうかしている」
と。つまり、悪臭は都市文化とは無縁のものである。
王子のシッダールタも悪臭からは隔離された生活を送っていた。それはシッダールタだけでなく、現代ではサバーバンキッズも悪臭から隔離された生活を送っているのである。これは都市文化における特有の現象である。子供はどんどんきれい好きになっていく。そして潔癖性がさらに悪化する。しかし、シッダールタは当時では稀に見る潔癖性であった。そして悪臭をひどく嫌った。一般庶民は臭かったのである。だから四門出遊でシッダールタがまず感じたのは、庶民、下町の悪臭であっただろう。乞食は臭い。ホームレスは臭い。貧しいものは臭い。病気に倒れている人は臭い。死骸は臭い。下水道の発達していない下町は臭い。いたるところに糞尿の臭いが立ちこめている。それにインドは牛の糞だらけであり、不浄観はここから来ているのだ。さらに牧畜などの田舎は悪臭に満ちている。牛や馬や豚などは汚くて臭い。馬糞はとても臭い。動物の排泄物を肥料にして作物が実るのだから、食べ物はすべて汚い。しかし、都市ではその事実を隠そうとする。というか都市では不浄なものを排除しようとする傾向にある。まず、不浄なものとは関わろうとしない。悪臭とは無縁でいたいのだ。だが、悪臭は貧乏と結びついている。人間、汚いものを見ても、やはり悪臭を嗅覚で感じないと実感が沸かないであろう。臭いではじめて人はうろたえるのである。逆に都市の人間は田舎の人から見れば、とても潔癖である。都市人間にとっては汚いものとも一緒に暮らすことなど考えられないのである。それがひどくなったのが、シッダールタのケースであり、彼の潔癖性が行き過ぎるところまで行き過ぎて仏教という病気を作り出したのだ。
いや、田舎であれば、不浄は生活の中の一部にある。それに不快感を起こすことはない。イエスが馬小屋のような悪臭の充満したところで生まれたのも、イエスは不浄な貧困層の出であることを強調している。まさに「家貧しくて老子顕る」である。だからイエスは大衆向けの宗教家であった。しかし、シッダールタは悪臭とは無縁である。馬小屋などのような質素な場所で一国の主を担う皇太子は生まれないのである。シッダールタは聖徳太子ではなかった。彼の生まれたところは、今では産婦人科の病院のようにばい菌から隔離されたなかで、看護士や医者が緑の防護服を着て、それはまさに不浄は悪と印象づけているのである。そして、彼は不浄とは別の世界で生きていた。
なにしろ、美女たちの取り乱した寝相によって、厭離を生じたのだから。そう、最も不浄と縁がなさそうな美女たちが不浄というショッキングな事実をシッダールタは知ってしまったのである。美女は清潔である以上に美しい。だから、余計ショックの度合いがそれだけ強くなるのだ。おぞましき庶民の穢れが、雨期の離宮までにも侵入し、もはや穢れからのシェルターはどこにもない、万事休すという心理がシッダールタに芽生えたのだ。四門出遊でホームレスを見て、シッダールタはショックを受けたのだ。
私も同じような経験があった。共和党は伝統的に移民に対してネガティヴである。奴隷解放政党としてスタートしたものの、プロテスタント・アングロサクソン以外の移民、特にアイルランド系に対しては否定的であったあ。そして共和党の極右派のパット・ブキャナンなどが離党して、アメリカ改革党と結成し、移民排斥を露にした。カトリック系のヒスパニック移民が排斥の対象である。特に、違法移民に対して絶対排斥を唱えるのである。失業率やギャングなどによる凶悪犯罪は移民増加のためだと私も思ってきた。だから違法移民排斥は賛成であった。そうすればギャングの数も減ると思ったし、治安も良くなると思った。だが、メキシコに旅行に行って、考えを改めざるを得なかった。
メキシコ旅行に行った時のことを鮮明に覚えている。。そこで見たものは凄まじい光景であった。たしかヴィヤエルモサ市からオアハカ市まで、ヴァンで大陸横断している途中で、地方の村々を通過している時であったが、なんとも悲惨な家屋に村人が住んでいたのである。その家には窓ガラスも扉もなく、廃墟と同じであり、道路も舗装されておらず、悪臭が立ちこんでいて、子供が裸足でサッカーボールを蹴って遊んでいたのである。その村の一角で休憩してジュース屋に立ち寄ると、私を旅行者と見るや子供たちが一斉に集まってきた。なんと葦の袋を差し出してきて、
「これ買わない?」
と言ってきた。私は袋の中身を見たが、なんとマングースのような動物が入っていて驚いてしまった。こんなのを捕まえて、旅行者に売り付けようとしていたとは。我々が買わないと知ると、蜘蛛の子を散らすように去っていった。売れそうなものはとにかく売り付けようとする。だが、私はそのたびに、
「No interesante. Lo siento.(興味がないので、ごめんなさい)」
と謝って断った。しかも彼らはボロボロのTシャツ姿であり、とても胸が痛んだ。メキシコは本当に発展途上国である。メキシコの地方がここまでひどかったとは。日本でも小泉政権で都市と地方の格差が進んだと言っているが、さすがに、ここまでではないであろう。メキシコシティーのような大都市でも、路上の子供が素足でバク宙などのアクロバチックな動きを披露して、小銭を旅行者から恵んでもらっていた。たぶん、あの子たちは家もないストリートチルドレンなのであろう。生活があんなに悲惨だから、麻薬や人身売買の犠牲者になるのである。
だから、始めはパット・ブキャナンが掲げる違法移民排斥を支持はしていたが、やはりこういう状況を見てしまうと、なんとも言えなくなってしまう。こんな状況ではアリゾナの砂漠で違法移民の死者が続出するのはわかる。彼らは命がけだ。シッダールタは南に行って病人に出くわしたと言う。私は南、つまりメキシコに行ってストリートチルドレンに出会った。シッダールタは北に輝かしい沙門を見たという。私はまだ北に行ったことがない。北と言えばカナダであろう。そこに輝かしい人々がいるのだろうか。アメリカ大陸で最も北に行ったといえば、ニューヨークぐらいか。しかし、そこで輝かしい人々に会うことはなかった。強いて言えば、俳優をやっている友人のBぐらいだろうか。皆、消費社会の言説の真っただ中にいるという印象しかなかった。やはりカナダなのだろうか。思い立ったが吉日と言うが、しかしカナダに住む金がない。しかし、移民排斥も一筋縄では行かないことがよく分かった。メキシコを先進国にしない限り、移民は命を賭けて国境を越えてくるだろう。彼らは大河リオ・グランドを泳いでくる。だから、彼らはアメリカの卑語で「Wet Bag」と呼ばれるのである。
しかし、ロサンゼルスのダウンタウンの3番街では、ホームレスが多くで悪臭が漂っている。だから、布施をしようとしても近寄れないのである。しかし、そこでストリートチルド園は見たことがない。それだけでも幸いかもしれない。しかし、ホームレスがいること自体が問題である。ここロサンゼルスでは不浄と清浄がハッキリと別れている。ニューヨークはジリアーニが清掃してくれたが、ロスは相変わらず不浄な地域が多い。とくに貧困層のゲットーはそうだし、レイプや殺人やギャングの抗争など、修羅界としか思えない。というのは、都市の不浄とは、犯罪と結びついているからである。だから、ジリアーニ元ニューヨーク市長は「ブロークン・ウィンドウ政策」と取り、不浄なものを徹底的に排除して、治安の強化に努めた。都市美化によって、地下鉄の落書きなどを徹底的に消すことによって、不浄を滅却してきた。それで殺人事件がなんと50%も減少したという。そう、シッダールタの不浄に対する態度は、都市に通じるのである。不浄なものは絶対に受け入れられないというその態度が。
だが、田舎に行けば、不浄は生活の一部だ。しかも都市のような人工的に作り出した不浄ではなく、自然の成り行きの不浄である。下水道もなければ、衛生状態も悪い。だが、より自然に近いので、都会の空気の汚染に比べては、まだ空気はきれいだ。しかも都会の人間が飲んだら中毒になってしまうような井戸水でさえ、田舎の人間は平気だ。そこでは自然への感謝が現れる。不浄なものでさえ、崇拝の対象となる場合だってある。例えば、糞尿のようなものも肥料として使い道があるので、日本の神話にも草屋姫など、クソを擬神化した神も登場して、人々は礼拝する。バラモン教にもそんな特性があった。いわゆる、自然崇拝的な要素である。しかし、シッダールタは田舎ではなく、都市の近くで、修行した。都市では、自然崇拝的な宗教はそれほど力を持たない。農業や酪農、牧畜業などは自然の営みに頼るところが多い。一方、貨幣経済や商業では現実主義、人間の欲望というものが横行する。つまり消費社会とは人間の欲望によって動かされているのであり、大自然の恵みがビジネス成功のためのメインファクターにはならないのだ。よって、都市の人々は無神論的にもなる。だから人の苦しみは天災などの外部的要素が直接原因ではないとする。
しかし田舎では心理的な苦痛も霊魂と言う外部の存在が原因であり、祈祷師などが呪術を使って、苦痛を取り除くのである。だが、シッダールタは天災や悪霊などを重要視せず、人間の渇愛を主眼に置いた。いわゆる苦痛の追求が外向的でなく、内向的でなのである。また、都市では人のつながりも過疎化のために、農村に比べたら弱くなる。だから、共同体の全体責任よりも個人の責任が重要となる。したがって、結局自分を救うことができるのは自分自身であり、他人、もしくは神が手助けすることはないのである。シッダールタは神の存在をいるとして、物事を語ってはいたが、神が彼の教義の中心に来ることはなかった。むしろ、神と霊魂など、彼にとってはどうでもよかったのだ。つまり、分析可能なものを主眼に置いたということだ。というのも、その態度は現代の都市の人間にも共通することであろう。
そして共同体責任が破壊されて、個人責任ということでは、社会的弱者も自業自得となりかねない。そこで、共同体の代わりに、政府が個人を助ける役割を担うのである。それが社会主義である。つまり社会主義は個人主義から起きているのである。しかし、それは自主的に人を助けるのではなく、強制的に金を弱者に分け与えるシステムである。プロレタリアートが圧倒的な数を占めていた時は、それが望ましかった。しかし、人助けは政府の役目ではなく、金持ちが中道の精神から慈善事業で弱者を助けるのが、仏教の慈悲喜捨である。つまり、この考え方も、都市経済が発達し、ビジネス階級、今で言えば、ブルジョワ階級の発達が仏教のような都市宗教が発展する基盤を作ったのである。貴族という存在自体が人の苦しみを作り出していると見ている人にとっては仏教は革新的であったに違いない。都市経済はアンバパーリーのような裕福な女性をも生み出し、男尊女卑の社会であった文化においては、極めて珍しい女性成功者であった。それも都市文化の特質であり、このような女性はまず農村では現れない。
しかし、仏教の登場はあまりにも早すぎたようである。現在、先進国の人間のほとんどは都市に住んでいる。それに今の庶民の主流はプロレタリアートではなく、ミドルクラス(中産階級)である。だから、仏教は時代に合っている。家族の絆も契約として解消するのも簡単であり、父親が三人もいるというアメリカ人も珍しくない。クリントン元大統領もかつて、父が二人いた。だから捨て子や捨て親などが溢れ返っている。それが、都市文化である。逆に農村では家族が個人よりも尊重されるから、個人的な仏教はそこまで根付かなかった。というか、原始仏教は古代インド大衆を嫌った傾向がある。だが、内面性よりも外面性、大自然に神を見る農村が中心の社会であった古代インドでは、仏教は呪術的な面を強めるか、民俗的な神々を折衷させることでしか、生き残れなかった。大乗仏教も呪術や先祖崇拝など、家族を強調する伝統を無視しては普及しえなかった。
田舎では、都市文化の不浄観が人間界を厭離を生じさせることはなかった。というより、田舎では人間ではなく、生きとし生けるものである。動物とふれあう機会が都市に比べて多いからだ。それは自然の一つであり、神の恵みでさえあった。だから、不浄に対する抵抗力は農村の人々の方が強い。カーウボーイなんかは特に強い。もし、シッダールタが過保護なクシャトリアの息子でなく、カーウボーイであったなら、仏教を作ることもなかったであろう。
釈迦の享受していた享楽とはサービス産業の原型でもあった。だからプロフェッショナルという観念も薄々とこの時からエンターテーナーの間ではあったのであろう。いわゆる妓女にとってシッダールタはお客様であった。だから彼女たちにはプライバシーもあったはずである。釈迦が女性を「禍」と表現したのも、妓女が仕事を終えて、寝ている時である。つまり、舞台を終えて楽屋で化粧を落としている最中に突撃取材するようなものである。シッダールタの妓女とのセックスはプライベートではなく、サービスとしてであった。だからあくまでも妓女にとってはビジネスであった。
サービスというのはイメージ作りでもある。役者のイメージが崩れたら、役者はおしまいだ。しかし、そのイメージをシッダールタはある日崩してしまったのである。それにショックを受けたのであろう。しかし、農村ではサービスという概念はあまりない。なぜならプライベートでも家畜や畑と一緒に寝起きするからである。都市ではサラリーマンは家を出て、会社に通う。会社にいるときこそプロフェッショナルである。だが、いったん家に帰ってスーツを脱げば私人である。だが、農村では私人とプロフェッショナルの区別がなかった。よって、不浄と清浄という二項対立概念も未発達だったと考えられるのである。つまり人の二面性は田舎では薄かった。だから、庶民や百姓に対して不浄観を持っていたのはシッダールタのような王侯貴族だけであろう。しかも、彼は人をプロフェッショナルとして尊重することもなかった。というより、皇太子としての彼には、阿諛追従するものに囲まれていたために、世間並みの判断もできなかったのだろう。というか、都市文化としての常識が彼には欠落していたのである。
しかし、王族としての清浄観が砕け散った今、シッダールタは家を出ることを決めた。清浄な美女と戯れることが王族の特権と思っていた彼に、その美女が不浄とあっては、自分はドブ沼に使って泥遊びしている豚と大して変わりがないという自己嫌悪が芽生え、いてもたってもいられなくなったのだろう。つまり、「我階層清浄、他階層不浄」というカースト制度の根幹が彼の中で崩れ去った。彼が出家する前はお山の大将であり、世間知らずの高枕であり、潔癖性が冒されることによってショックを受けて出家し、ラージグリハのような大都市文化に飛び込んだのである。それこそ、世界を見てみるということであったのだ。そこで、彼は都市文化の最先端の考え方などを学んだに違いない。そして、やがて彼はカースト制度関係なく人間は皆平等に不浄という概念を築き上げたのだろう。不浄観による平等主義である。差別の根本たる美意識を滅しようとしたのだ。というか、潔癖がさらに進んだのである。つまり、潔癖すぎてすべてが汚く見えてしまう。四念住の身不浄とはそれである。だから、「バラモンは生まれによってではなく、行為によってバラモンとなる」という説を提唱したのである。まあ、まさにその通りであるが。ここでやっと人をプロフェッショナルとして尊重する心構えを身につけたのであろう。職業選択の自由という基盤が、ここに見えるからである。
アメリカの不浄観もシッダールタが生きた古代のインドと通じる部分もあることはある。私も一時、アメリカの田舎に5年ほど住んでいたことがあった。その時、大統領選挙ということもあって、地元のアメリカ人と政治議論をしていて、女性の投票率が選挙を左右するということだったので、それで、
「私の見解では、田舎の不浄に慣れ親しんでいるカウボーイのような馬糞の臭いをかいでもなんとも思わない女が、ブッシュを支持し、潔癖性の傾向がある都市の女はケリー候補を支持するだろう。だからブッシュがもしこの選挙に勝つとしたら、それは馬糞の臭いが染み付いている女のせいだ。」
と私は発言したことがあった。すると、私は大批判を浴びた。当初、私は、
「それはすべて事実無根であり、ただのステレオタイプだ!」
と批判されるかと思った。だが、なんと私の発言を認めた上での批判だったので、驚いた。つまり、彼らは悪臭まみれであることをあっさり認めてしまったのだ。
「たしかに、オレらは馬糞の臭いで満ちている。それは事実だ。テキサスのランチなどは、たいがい、貴様らのような都市の人間にとっちゃ、臭すぎて、いてもたってもいられないだろう。仕方のないことだ。だが、カウボーイを侮辱するような言い方だけは許せねえ。オレらはカウガールが好きだ。彼女らがいるおかげでオレたちはこうしてやってこれたんだ。都市のビッチのような表面的にしか人を見ない女に比べちゃー、はるかに良い。あいつらは化粧をして着飾って、猫をかぶっていることでしか、自分をアピールできねえんだ。しかし、カウガールは違う。見てみろ、自然体であれほどセクシーな女性はアメリカの田舎ならではのビューティーだぜ。その素晴らしさが全く分からねえ奴に、そんなこと言われる筋合いはねえ。だから、一度でも良いから、オレたちの誇りのカウガールのそばに行って、思う存分匂いをかいでみるがいい。そうすれば、悪臭と思われる匂いも、いいものだっていうことが、分かると思うぜ。それでこそ、本当のアメリカを知るということでもあるのさ!」
と批判されたんだか、怒られたんだか、励まされたんか、わからなかった。確かに、凄い剣幕で怒りをあらわにしていたが、それでも、田舎への理解を願っている熱意が伝わってきた。そう、彼ら田舎人は不浄とともに生きていることを認めているのである。しかし、私たちは都市に育ったので、馬糞の大地に生きているカウボーイのように悪臭に対して抗体がないのは確かだ。しかし、彼らはそれを生活の一部として享受し、さらに自然を敬っているのである。我々のようにガソリンを毎日通勤のために燃やして、容赦なく環境を傷つけることはないのである。そう、我々は大衆なのである。愚民である。だから、我々は動物に対してではなく、同族である人間自体に対してさえもウンザリしているのである。そう、都会では二面性が求められるのだ。だから都会には嘘つきが多い。よって、それはさらに人を信用できないという悪循環を作っている。人間不信は相談する相手を減らし、苦肉の策としての奇妙なペットを我々に消費させる。そして我々が都会の混雑からのはけ口として接する動物も、飼いならされたインドアのペットぐらいである。とても自然の猛威を体現した馬などを飼えない。都市は馬小屋を設けるのには狭過ぎる。だから、田舎のような牧場経営可能な土地が不可欠なのであり、そこが都市と田舎の宗教観を別け隔てるのである。田舎では動物はペットではなく、神の贈り物だ。そう、イエスも自分を羊飼いと呼んだ。つまり、都会の人間から見ればイエスは畜生と接する人間なのだ。また、田舎では二面性も希薄で正直者が多い。田舎のアメリカ人の自慢の「自然体でセクシーな女」が、それをよく表している。よって不両舌という禁句は都市ならではだ。だから内向的な宗教は田舎では流行らない。それが都市と田舎の思想の格差である。
仏教は都市文化である。サンガは都市の近くにあった。とういうか六師外道も都市文化の賜物である。なぜなら、都市では言論の自由、思想の自由が農村より寛容だからだ。都市ではいろいろな文化が混じり合う。また経済階級は国家にとっては重要な財源でもあり、思想の自由が都市経済には必然的だからだ。文化的寛容さは、国際都市ならではであり、より多くの商品を流通されるのに不可欠であり、さもなければトレンド、または世界の市場動向から乗り遅れるのであり、それはビジネスにとって痛手である。六師外道という事実も仏教が都市文化のなかで生まれたという特徴を我々に教えてくれるのである。しかし、田舎では伝統にあまりにもとらわれ過ぎていて、思想の統制もあり、六師外道は起きない。またそれは頑のようにシッダールタには映ったのであろう。
「伝統だからといってそれを鵜呑みにしては行けない。じっくりと考えて、考慮に考慮を重ねた結果に出された答えによってはじめて、決定するべし」
と弟子を戒めている。これは、田舎の価値観を完全に否定するものであり、都市文化的であり、ある意味、懐疑的でもある。伝統を守ってこそが生き様と思われている田舎では全く受け入れられない発言である。それはシッダールタに限ってではなく、六師外道も神を教義の中心に添えていなかったことからも伺え知ることができる。どれもバラモン教から来るカースト制度を正当化するような道徳論を否定しているのである。どれもその類い稀な分析力によって、既得概念を否定しているのだ。こうした思想傾向が当時の都市で流行していたのであり、シッダールタも彼らと競争して、思想に磨きをかけていったのであろう。だから六師外道のようなライバルだけでなく、様々な奇想天外な思想家が犇めき合って競争していたのである。そう、ラージグリハはアイディアの宝庫だったのだ。現在のシカゴのようなところであろう。シカゴで出されるアイディアの99%は馬鹿なものでしかないが、1%が世の中を変えていくという。ラージグリハも最先端のアイディアで犇めき合っていた刺激ある大都会だったのである。よって、科学が宗教を凌駕するという特徴がもう既に2500年前に見られるのである。これはニーチェの「神は死んだ」発言より、はるか昔のことである。
また、都市の金持ちのライフスタイルも仏教成立に少なからず影響しているであろう。田舎では歓楽は貴族だけのものであるが、都市ではビジネスマンでも道楽に耽ることができる。つまり、都市では貴族よりも資産を持つものも出てくるということだ。田舎になると金持ちは王侯貴族ぐらいなものである。しかし、都市では貴族出身ではなくとも、成功への道が開かれているのである。だから、貴族出身ではなくとも、高級娼婦のようなアンバパーリが都市で成功し、シッダールタ一味をご馳走することができたのである。アンバパーリは都市文化ならではの、女性であった。田舎では女性は成功できないし、女性どころかカースト制度に縛られている庶民は成功すら望むのも無理であった。だからアンバパーリは都市文化のヒロインであっただろう。とうか、女性の憧れだけではなく、都市の商業階級、もしくは庶民もアンバパーリを尊敬していたに違いない。そんなアンバパーリがシッダールタと会うとなると、貴族も負けじとシッダールタに昼食会をオファーするが、シッダールタは、
「すでにアンバパーリとの予約が先にございますので。」
と貴族の申し出を断った。これは、当時のカースト社会において人を差別しなかった画期的な思想を裏付ける行動という解釈が仏教徒の間でまかり通っているが、私は都市文化としては当然の対応だったと思えるのである。予約を先に済ませたものが優先されるというのはビジネスでは常識である。「先んずれば人を制す」「早い者勝ち」である。それがビジネスの鉄則である。スピードに乗り遅れたら負けなのだ。貴族だからといって、特権階級扱いされるとはないのである。ビジネスマンにとってはシッダールタの態度は常識であり、特権を振りかざす高慢な貴族にはひれ伏さないという態度が企業家の信頼を得たのだ。それに、田舎では貴族に逆らったなら制裁を加えられるが、都市では商業で経済が成り立っているため、貴族も下手に偉そうにできず、「蛙の面に水」になって冷や飯を食わされるのだ。そういう面で、仏教は都市宗教であった。そしてさらに都市経済が発達すれば、フランスのブルジョア革命までに至ったのである。
また、アンバパーリもシッダールタとミーティングを計画したのは、ちょうど今で言えば、マルサ・スチュワートがダライ・ラマやマザー・テレサに会い、慈善事業に参加することを世間に印象づけるためのバブリシティーであろう。ビル・ゲーツ会長が慈善事業家のU2のボノと会見するように。あらゆるアメリカの、いや世界のビジネスマンが慈善事業家であるオープラ・ウィンフィールドの番組に出演したいように。アンバパーリにとってはシッダールタとの談合はパブリシティーであり、またイメージアップのためのビジネス戦略であったと思える。だから、当時のビジネス業界の成功者は率先してシッダールタを利用しようとしたのであり、またシッダールタもそれを利用して仏教の普及に努めたのである。そう、「使う者は使われる」の法則である。すでに、この頃から現代にも通じる都市文化のビジネス基盤が形成されていたという貴重な事実を大般涅槃経は伝えているのである。
だから、都市の人間は反バラモンが多かったと見える。既存の宗教権威を否定するのはだいたい都市である。シッダールタもそんな風潮の中から、仏教を起こしたのだろう。カーストと制度の否定、スッタニパータにおけるヴェーダの呪術禁止など、既存の宗教権威の儀式を否定した。しかし、政治的支配階級や、都市の支配階級である企業家などに対しては友好的であり、釈迦の説法の対象は支配階級層であることも特徴の一つである。シッダールタは現代で言えば企業を渡り歩いたと言ってもいい。つまり、転法輪とは端的に言えば、売り込みであった。
しかし、イエスは支配階級と真っ向から対立した。彼は宗教権威を批判し続け、とうとう死刑になった。イエスは大衆の味方であった。大衆の中のイエス、大衆から現れたイエスが、社会の上層部と対立して処分されるという結末である。イエスは神殿で行われている商人のビジネス取引を妨害した。その商人に対する敵対心は顕著である。それは、当時の商人は宗教権威と結びついていたのであり、また彼はそれら宗教権威を「詐欺師」と糾弾したので、イエスは金持ちからの支持を受けていなかったことを示す。それも当時ヘブライの地がローマの占領下にあったことも関係している。だから、ヘブライ人はメシアにローマからの解放を望んでいた。しかし、イエスは平和主義を通したので、大衆の期待をも裏切り、イエスのもとから人々は去った。六師外道のような自由な思想を育む礎がヘブライの地にはできていなかった。つまり思想の自由はなかったのである。シッダールタの教団はたった5人から2000人へと拡大したが、イエスの教団は最後はたったの12人になってしまい、さらにその一人に裏切られてしまう始末であった。だから、もともと金持ちと宗教権威の既得権益を批判していたので、キリスト教が金持ちから承認されるまでは時間がかかった。貧乏な大衆の間にキリスト教があまににも広まり過ぎたために、ローマ皇帝はやむなくキリスト教を承認したのである。決して支配階級から積極的にキリスト教を受け入れた訳ではなかったのだ。つまり、キリスト教は、仏教のように上からではなく、下から始まったのである。
一方、シッダールタはもともと王太子であったため、上層部とのやり取りの手順は知っていた。だから、権力者とも人脈があり、彼らを敵に回すことはなく、一代で死を待たずして悟りの内実を普及できた。そして、祇園精舎などを億万長者スダッタから寄進されたりもした。ジェータ太子は、始め土地の寄進を認可しなかったが、スダッタ商人の資産の多さに驚愕し、寄進を許してしまったのだ。ジェータ太子は当初商人を馬鹿にしていたのであろう。だから、
「寄進したい土地を黄金で敷き詰めたら考えてやっても良い」
と滅茶苦茶な財産提示の仕方を要求し、完全に商人を見下していたのだ。つまり、
「そんな多額な資産など、たかが商人ごときに持てるはずがない」
とあなどっていたのである。だから、そんな途方もないようなことを言ったのだろう。しかし、スダッタがその通りに資産を提示するや否や、膨大な資産がジェータ太子を圧倒してしまったのだ。だから、太子はあっけなく土地の寄進を許可してしまった。本当のジェータの感想としては、
「商人がここまで財産を築けるとは、不覚。」
と内心驚いていたのであろう。このエピソードはいかに商人が都市で力を持っていたかとういことである。つまり、商人が認めるものは、たとえ国を支配する王族であっても無視できなくなったということである。またクシャトリアがバラモンではなく、商人を重要視するようになったこと、つまり近代ヨーロッパで言えば、国王は貴族や教会を無視し、ブルジョア階級と結びつくことで絶対王権を強化するような成り行きにあったということである。
よって、シッダールタにはビジネスセンスがあったように思われる。ヤサを出家させたのも大きな功績であろう。ブルジョアであるヤサの両親もシッダールタの考えが都市的だったので、彼らも帰依したのである。そして、紛争の仲裁までもシッダールタは買って出たのであり、その出来事は大般涅槃経にも記録されている。つまりシッダールタがいかにブルジョアの後ろ盾があったかということである。商人にとっては紛争は市場に大打撃を与える、だからブルジョアは和平調停にシッダールタを推薦したのであろう。現在でも平和団体がダライラマにお願いするように、またボノの推進したJubilee2000にローマ教皇を利用したように。そうして、政治指導者を説得したのである。そういう意味では、ダライ・ラマはシッダールタが始めたことを継承しているのだ。有名な企業家は彼と会おうとする。昔のインドの都市の企業家が競ってシッダールタと会おうとしたように。
だが、イエスは時の権力者と対立し、また権力と結びついている商人と対立し、殺された。それでキリスト教は殉死色が強くなったのである。つまり、イエスにビジネスセンスはなかった。唯一、イエスの周りでビジネスに強かったのはエスカリオットのユダであろう。しかし、そんなユダも宗教権威と取引したために、自殺に追い込まれた。だから、ビジネスに強いことは、イエスへの反逆と見なされるようになった。だから、金儲けがうまいユダヤ系は、シェークスピアの『ベニスの商人』でも徹底的に糾弾されることになったのだ。
イエスは不浄な馬小屋で生まれた。そして、穢れとされて神殿から忌み嫌われていた人々を祝福した。そう、イエスは田んぼの中で働いているお百姓さんに自ら泥をかぶって愛を説いて回った。シッダールタは王太子として不浄から隔離されていたが、自らも不浄ということを知り、その不浄観で苦しみの根源である欲望を制御しようとした。カーストで階級が上になろうが、この世は一切不浄なので、根本的に人間は平等である。
「不浄に上下なし。」
そして悟りを開いて不浄の世界から解脱するのである。
そう、それは内面の美化計画である。田舎の不浄、美女の自然の不浄、人工的な不浄、どれも不浄には変わりない。不浄に上下なしであったのだ。神や霊魂にこだわる田舎の人間は家畜と接しているために悪臭を放ち、それら全てが不浄に思えたのであろう。伝統に固執する人ほど臭い、また都市のプライバシーも不浄の場と見たのだろう。つまり、人がいるからプライバシーが必要となる。仕事に行くから家でのプラーベートな生活がある。そこでしか、ポルノを見れないし、セックスもできない。図書館でポルノを見たり、路上でオナニーやセックスをしたら、逮捕される。だから出家して、俗世間を捨てて、人のいないところに行けば、プライバシーなど必要ないのである。不浄を隠す必要がない。不浄である自分に嘘をつくこともない。それが沙門である。しかし、不浄をやけに気にするのはやはり都会ならではである。農村の大衆は不浄が平気だったのだから。だから彼らは出家までして不浄に対する意識過剰を克服する必要はなかった。潔癖性というのは、やはりブルジョア、または金持ちならではであろう。
よって、仏教はブルジョア宗教だったので大衆化しなかった。伝統や権威にしがみつかなくとも生きていける金持ちに仏教は有効であったが、民衆には金もないので、上の人間に影響を持つこともない。しかも、参政権のない時代である。そして農村では子供をつくることが何よりも優先される。農業の労働力の確保でもあり、伝統を引き継いでいくためでもある。だから家族の死滅は伝統の死滅を意味した。個人より家族を重んじる民衆の中では、現世利益を重んじるヒンドゥー教が勢力を伸ばし、仏教は滅んだ。つまり、イエスの教えは大衆またはプロレタリアートの宗教、シッダールタのはブルジョアの宗教となったのだ。だが、神を中心にして考える農村、日本でさえ明治維新直後は80%以上もの人口が農村に住んでいたというのだから、マジョリティーが田舎人であったことから、日本仏教は釈尊の都市文化的教義から逸脱した。都市宗教が田舎宗教へと変質してしまったのだ。だから仏教が本来の形で受け入れられるのは現代になってからであろう。
先進国は都市文化が中心である。仏教は都市で発生した。よって都会の宗教なのである。シッダールタの潔癖性も都会の人間に共通するものだ。田舎では潔癖性では生きていけない。潔癖性とは都会の特性だからである。そして都会人の生活から神は消え、人々はより内向的になった。心理学も科学の発達によって発展した新しい学問である。神から疎外した人々は仏教を求めるのである。だからアメリカでも、仏教徒はリベラルな空気の都会で多いし、逆に田舎に行くとキリスト教原理主義が横行している。
仏教は家族より個人、国家より個人、集団より個人を優先する、だから過疎化した都会にはお似合いなのである。シッダールタ自身も国家を捨て、皇太子の地位も捨て、家族を捨て、妻子を捨て、旅立ったのだから。都会人は田舎人と比べると疎外感を感じている人が多いので、自分で全て問題を抱えてしまう人が多い。だから相談する人も友達や兄弟や家族や長老ではなく、セラピストとなるのである。そして人はセラピーを消費するのである。そして仏教も消費の対象となるのである。現在の仏教は消費社会の中の商品でしかない。禅やヨーガも商品である。しかし、仏教はもともと都市宗教である。だから古代の都市宗教が現在アメリカでまた都市化しているのであるから、なんとも言えない。
とにかく、「悪臭、体臭、大衆」とは、田舎を意味していた。昔の大衆は農村中心であった。しかし、都市経済が発達して、いわゆる現代の「大衆」が出来上がった。そして、その大衆の構成員も以前のような不浄なプロレタリアートではなく、中産階級中心となった。だから大衆もきれい好きになった。大衆も潔癖性に冒されてきたのだ。キリスト教はマルクス主義の大衆は美意識が強い。なぜなら、大衆は悪臭を放ち、穢れとして支配階級から忌み嫌われてきたために、清浄になりたいと欲するからだ。キリスト教や浄土教の大衆は天国もしくは極楽を約束され、マルクス主義の大衆は現世でユートピアを約束する。しかし、現代の大衆は清浄となったため、美意識過剰となり、潔癖性に冒されたので、執着のもととなる美意識を克服するという心理セラピー、つまり内面的な美化を求めるのである。現代の大衆はプルジョアと同じ価値観を共有するまでに至ったということだ。
つまり、田舎の大衆はキリスト教に教化され、都会の古い大衆であるプロレタリアートはマルクス主義に教化され、最近の大衆である中産階級は、仏教に教化される可能性が高くなってきた。まあ、ミドルクラスが滅びない限りはである。まあ、民主党が連邦選挙で勝ったのでネオリベラリズムにも歯止めがかかるので、ミドルクラスは存続するであろう。よって、仏教も現代になって、とうとう大衆宗教となることができるのである。なにしろ、大衆のほとんどが中産階級となるのだから、そしてインターネットを享受しているだろうし、ヤサのように贅沢に空しさを感じているサバーバン・キッズも多いことだろう。人は貧すると鈍するので、「苦しい時の神頼み」として神にすがるが、裕福になると神を忘れる。そのような内向的な空しさを感じる傾向にある大衆に仏教はマーケットシェアを拡大しようとしているのである。
さあ。結論を言えば、釈迦が死んでから2500年目にして、ようやく大衆の中に都市宗教としての性格のままで仏教が受け入れられる日が来たのではないかと思う、今日この頃である。
チャートで要約すると以下のようになる:
| 大衆 | 心理傾向 | 主な思想 | 美意識 |
| 農村 | 外向的 | 呪術、キリスト教、浄土教 | 不浄、先天的穢れ |
| 都会(プロレタリアート、貧困層) | 外向的 | 社会主義、キリスト教 | 不浄 |
| ミドルクラス、ブルジョア | 内向的 | 仏教、ヨーガ、神秘主義、新興宗教、カルト、瞑想、セラピー、カウンセリング | 清浄、潔癖 |

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ヒューザーといいホリエモンといい、企業のスキャンダルが続発している。
ホリエモンは私のヒーローともいえる存在だった。まるでダビデがゴリアテに立ち向かって行くような、小さな者が巨人に向かって戦いを挑む姿は我々の若者世代のあこがれであった。若くして大企業であるフジテレビを乗っ取ろうとした精神、そう、ロデオが猛牛をコントロールするような、そんなチャレンジ精神に感激させられた。アイディアを思いついたらすぐに実行するという即戦力、まさにアメリカ人が目指すスーパーインディヴィジュアルである。超個人というべきか。一攫千金を狙う人が多いアメリカでは尊敬される対象となることには間違いなし。
ホリエモンは女性にも人気がある。あの若さで巨大な金を動かして世界を席巻するのだから。ホリエモンが広島から刺客として立候補した時の映像を見た。ある髪型が可愛い女子高生がホリエモンからサインをしてもらっている時だ。彼女はもう「ううううふふ」とウキウキ状態であり、ホリエモンと握手した瞬間彼女はもう有頂天、彼女の体は弾みまくっていた。「オレも株式を専攻していれば...」と思ってしまったほどだ。女の子があのような状態になるのを一度も見たことがない。少なくとも私の前では。
ホリエモンは私のあこがれの人物だった。彼はフジテレビさえ買う金があるのだ。一方で私には女の子にブランド品を買ってあげる金さえないというのに。
しかし私のヒーローがあんな結果になってしまったとは実にショックだ。やはり潰されたのだろう。日本にはまだ年功序列の風潮があるのだろう。「若造がいい気になりやがって」という反応が上層部の間で浸透していたのだ。
だがホリエモンはそういう日本の古い既存概念と既得権益を破壊しにきた新しいビジネスマンであり開拓者だ。ホリエモン自体は逮捕されてしまったがその後に続く若者たちに道を切り開いた訳だ。これまで日本にはなかったタイプのビジネスを展開した訳だから。ホリエモンはフスやウィクリフのように潰されてしまったが、その後に続く者がルターやカルヴァンのように改革を断行して行くだろう。彼の歴史的価値はそこにこそある。
ホリエモンは私のヒーローともいえる存在だった。まるでダビデがゴリアテに立ち向かって行くような、小さな者が巨人に向かって戦いを挑む姿は我々の若者世代のあこがれであった。若くして大企業であるフジテレビを乗っ取ろうとした精神、そう、ロデオが猛牛をコントロールするような、そんなチャレンジ精神に感激させられた。アイディアを思いついたらすぐに実行するという即戦力、まさにアメリカ人が目指すスーパーインディヴィジュアルである。超個人というべきか。一攫千金を狙う人が多いアメリカでは尊敬される対象となることには間違いなし。
ホリエモンは女性にも人気がある。あの若さで巨大な金を動かして世界を席巻するのだから。ホリエモンが広島から刺客として立候補した時の映像を見た。ある髪型が可愛い女子高生がホリエモンからサインをしてもらっている時だ。彼女はもう「ううううふふ」とウキウキ状態であり、ホリエモンと握手した瞬間彼女はもう有頂天、彼女の体は弾みまくっていた。「オレも株式を専攻していれば...」と思ってしまったほどだ。女の子があのような状態になるのを一度も見たことがない。少なくとも私の前では。
ホリエモンは私のあこがれの人物だった。彼はフジテレビさえ買う金があるのだ。一方で私には女の子にブランド品を買ってあげる金さえないというのに。
しかし私のヒーローがあんな結果になってしまったとは実にショックだ。やはり潰されたのだろう。日本にはまだ年功序列の風潮があるのだろう。「若造がいい気になりやがって」という反応が上層部の間で浸透していたのだ。
だがホリエモンはそういう日本の古い既存概念と既得権益を破壊しにきた新しいビジネスマンであり開拓者だ。ホリエモン自体は逮捕されてしまったがその後に続く若者たちに道を切り開いた訳だ。これまで日本にはなかったタイプのビジネスを展開した訳だから。ホリエモンはフスやウィクリフのように潰されてしまったが、その後に続く者がルターやカルヴァンのように改革を断行して行くだろう。彼の歴史的価値はそこにこそある。
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