あああ、解雇されてしまった。まさか、こんなことになるとは…。もはや人間不信です(まあ、渡米する前からそうでしたが…)。だれとも話すことが出来ません。会社の人間とはもう付き合っていけないでしょう。だれでもクビになったら、会社との関係は、一人残らず断ちたいと思うはずです。屈辱という感情が、私の心を覆い尽くしているのですから。もう頭が混乱していて、まともに考えることが出来ません。
ああ、これからどうやって生きていけばいいんだろうか?ずっと引き蘢るしかないのか。っていうか、家賃が払えなくなったら、引き蘢るところもない、ダンボールのなかでダウンタウンの3rdストリートの路上で寝るはめになるんでしょうか?そんな状態では、アニメという二次元への逃避すらできなくなります。
やはり、サブプライムローンの破綻で経済が悪くなってきている、そして消費力も低下し、利益も減る一方。だから、企業も人件費削減。そして人員削減は、一番不必要と評価されている所から切られる。ああ、そんな評価だったのか、私は!それだけでも、もう、私の自尊心は粉々に砕け散りました。
どこにこの怒りをぶつけたらいいのか!もう自暴自棄です。二次元というより、もう周りの環境をそのままがらりと変えるしかないですね。国外逃亡です。どこか他の国へ逃げましょう。そうですよ。他の国に。アメリカの近くと言えば、南米ですね。北米、アメリカ、カナダ、メキシコのいわゆるNAFTAは、ほんとネオリベラル社会でとても残酷です。最近のヒラリーとオバマのディベートじゃないですけど、NAFTAは最悪ですよ。ブッシュ元大統領とクリントン・ゴア政権の作った自由貿易協定、その犠牲に私はなってしまいました。自然淘汰、弱肉強食、容赦なく首を切られてしまいます。それが負け組の運命なのです。
さあ、南米では、どの国がいいのか。とにかくNAFTA圏から逃避しようではないか!それは、クスコやナスカの地上絵や天空都市マチュピチュがあるペルーですかね。もうチケット買っちゃえい。思い立ったが吉日といいますし。
ああ、また失業者となってしまった…。これで女の子とのデートの可能性はゼロとなってしまいました。ネオリベラル社会では、
「Who gonna date a dude on welfare?」
ですよ。失業保険、社会福祉の小切手で暮らしているクビになった男とだれがデートするでしょうか?だから、もう自暴自棄です。とにかく気分転換に、旅に出なければ!
ああ、これからどうやって生きていけばいいんだろうか?ずっと引き蘢るしかないのか。っていうか、家賃が払えなくなったら、引き蘢るところもない、ダンボールのなかでダウンタウンの3rdストリートの路上で寝るはめになるんでしょうか?そんな状態では、アニメという二次元への逃避すらできなくなります。
やはり、サブプライムローンの破綻で経済が悪くなってきている、そして消費力も低下し、利益も減る一方。だから、企業も人件費削減。そして人員削減は、一番不必要と評価されている所から切られる。ああ、そんな評価だったのか、私は!それだけでも、もう、私の自尊心は粉々に砕け散りました。
どこにこの怒りをぶつけたらいいのか!もう自暴自棄です。二次元というより、もう周りの環境をそのままがらりと変えるしかないですね。国外逃亡です。どこか他の国へ逃げましょう。そうですよ。他の国に。アメリカの近くと言えば、南米ですね。北米、アメリカ、カナダ、メキシコのいわゆるNAFTAは、ほんとネオリベラル社会でとても残酷です。最近のヒラリーとオバマのディベートじゃないですけど、NAFTAは最悪ですよ。ブッシュ元大統領とクリントン・ゴア政権の作った自由貿易協定、その犠牲に私はなってしまいました。自然淘汰、弱肉強食、容赦なく首を切られてしまいます。それが負け組の運命なのです。
さあ、南米では、どの国がいいのか。とにかくNAFTA圏から逃避しようではないか!それは、クスコやナスカの地上絵や天空都市マチュピチュがあるペルーですかね。もうチケット買っちゃえい。思い立ったが吉日といいますし。
ああ、また失業者となってしまった…。これで女の子とのデートの可能性はゼロとなってしまいました。ネオリベラル社会では、
「Who gonna date a dude on welfare?」
ですよ。失業保険、社会福祉の小切手で暮らしているクビになった男とだれがデートするでしょうか?だから、もう自暴自棄です。とにかく気分転換に、旅に出なければ!
詩か、自由の境地を目指すのが詩というものであろう。
ああ、会社って大変だなぁ。ホワイトカラーなのに、給料が安いなんて。しかし、そんな中でも、我々はめげずに詩を書いている。あるガイズ・ガール(野郎たちと一緒に行動する女)的な存在の女の子がある同僚のためにバースデーパーティーをしようということで、皆にメールしてきた。私も会社のメールで、ちょっとライム(rhyme)、いわゆる「韻を踏む」ことをして、その子を笑わせようと思って、彼女のメールに返信した、ちゃっかりccに皆のアドレスを含めて。そして休憩時間になると、同僚のJが、
「おお、おまえ、スキルがあるじゃねえか!」
と突然薮から棒が出てくるように褒め讃えてきた。そして、休憩が終わって席に着いた次の瞬間、さっそくJからメールが来た。なんと、ラップ形式の強烈な詩ではないか、しかも意図的にccに皆のアドレスを含めて。まさにこれぞ目立ちたがり屋精神!すると、やはり同僚にゲットー出身が多いこともあり、それが火種となって、彼らも会社のメールで、「今度はオレも」というばかりに、ライムで、次から次へと詩の形式で返信してきた。もう、こうなったら止まらない。どうやら、私のちょっとしたふざけ心からの無思慮な行動が起爆剤となってしまったようである。彼らの、ヒップホップの精神に火をつけてしまったのだ。こうなったらもう燎原の火である。そして我々はお互いに相手の詩を読んでは、
「おまえは天才だ!」
とお互いに褒め合いながら、メールにおいてのヒップホップ形式の詩では、
「貴様の戯言はそれまでだ。オレこそが最高だ!なにしろオレ様のライムは地球だけではなく、銀河系、さらには宇宙全体にさえも響き渡るのだから」
と競争し合っていた。「王の中の王はオレだ」とばかりに、次から次へと「you
got mail!」という表示がモニターにポンポン出てきて、それでとても忙しくなった。でも、彼らの想像力と創作力、とてもすごくてかなわない。私もインターネットで、スラングを探しながら、限られている単語力で、どうにかライムをこなして、詩を書いて、メールし返していた。やはり、本場のアメリカのゲットーで育った人は表現力の強さが目立ち、連結のパワーというのは驚嘆に値するほどだ。私は日本に育ったし、グラフィティが散乱している廃墟ではなかったから、彼らのその経験の深さというものがないので、それを言葉にすることはできなかった。暴力と麻薬とセックス、それがゲットーラップ、もしくはギャングスター・ラップ、いわゆる「Gラップ」の文殊の知恵だが、それではとても彼らの表現力の足下にも及ばないので、それにゲットー文化については無知蒙昧なので、同じ土俵では勝負できないと思い、私は極力、詩の内容はエロチックな方面でがんばった。私は女の解剖学で全ての事象を表すように努めたのであり、それもそれでフェミニストには断固許しがたいものだったであろう。なにせ女の子に生まれたかった私だからなぁ。たとえば、
「Today I'm totally feeling mensual,
just like periodic hos ain't no sensual
(今日、 オレの気分は完全に月経的だ、
生理中のあばずれたちが感じなくなっているように」
と韻を踏んで、自分の風邪を引いている状態を表現した。だから、私の詩の形式はヒップホップやラップのとは路線が違うが、それでも、本場の彼らギャングスター・ラッパーたちは私を天才だと評価してくれたのだから、とても嬉しかった。
はじめは女の体がどうのこうのというような、いかにもピンプが書きそうな内容だったが、しかし、会社に対する不平不満がどんどん入ってきて、仕舞にはラップがテロリズムやファシズムなどの政治問題まで発展し、最後には人類愛と平和主義まで行き着いてしまった。彼らのように、まるで梶原一騎のようにストリートで喧嘩に明け暮れていた人たちも、やはり平和を望んでいるのだ(私の場合は引き蘢り型のインドアオタッキーで喧嘩はしなかったが・・・)。やはり男同士が詩でコミュニケートすると、どんどん話題が膨らんで行くという、なんだかスゴいことになっていた。それは宇宙膨張論のごとく、留まることを知らない。しかもそれは仕事中だったし、上司の目を盗んでは、詩を書いてメールで送っていたが、メールリストには一人の上司の名もあったし、その上司まで、やはりゲットーで育ってきた過去をもっているので、民族的芸術であるヒップホップには抵抗できず、「ラップはオレ様のお家芸だ」とばかりに自らもメールでどんどんラップを書いて送ってきていた始末だ。
黒沢映画でたしか『どん底』というのがあったが、これも貧乏な男が集まってきて、やはりそこには男が集まってくる切っ掛けとなるガイズ・ガールがいて、男たちは歌舞伎役者の台詞を真似して、太鼓を叩いて、順番に台詞を詠み上げて行くというものだった。それは現代で言えばラップパーティーそのものだった。歌舞伎役者は今で言えば、ラップのMCみたいなものだったからなぁ。で、会社でも、パーティーのオルガナイザーであるガイズ・ガールのメールに私が韻を踏んで返信したら、それが起爆剤となって会社のメールでのラップのオンパレードとなってしまったのだ。いやぁ、いつの時代になっても男って本当に進歩がないものだ。そんなことでムキになってしまって、こりにこってしまうのだから。しかも一つ一つの詩を読んだら、
「ほんと手が込んでいるよなぁ」
とわかるほど、見事なものである。PCの前で仕事に真剣になってるかと思えば、実は全く違うのだから。でも、「うわっ、真剣だなぁ」とは伝わって来るんだろうけれども。それで、よく仕事はおろそかにならないと不思議になるが、やはり熟練労働者はどこで手を抜くかも知っているのだ(まあ、私はまだまだ沙弥なので、私こそこんなことしていてはいけないのだが・・・)。端から見たら、「何やってんだろ、まったく」っとくだらなく思うかもしれないが、しかし、その中にいたら、本当に相手が天才に思えてきて、
「くっそ〜、負けてたまるか、自分も頑張らなきゃ!」
となるのだ。蝸牛角上というべきか、ドングリの背比べというべきか、本当、外から見たら大したことではないのだが、だかその渦に巻き込まれたら最後、女はどうかわからないが、男は泥濘にハマったように抜け出せなくなるのだ。男は何かちょっとしたことに感化されただけでも、それはカッコいいとなり、性質的にこってしまうからなぁ。本当バカだよ。でも、私もそう言っておきながら、大バカだからなぁ。昼休みは弁当を食べる時間を惜しんでまで、ずっとパソコンの前で、ライムを考えて、自分の詩をすべての「自称ラッパー」たちに送っていたのだから。そして、
「うわっ、すげえ、傑作じゃん!」
と褒め讃えられて、洪水のようなラップ形式の返信が来た。しかし、詩でこうやってコミュニケートして意思疎通ができているとは、とても素晴らしいことではないか。そう、まるで古代日本の連歌のように。
だから黒沢映画で『どん底』という作品は結構マイナーなのだが、このことを知っている人であるならば、充分にあの映画作品は堪能できると思うのである。もちろん『七人の侍』や『用心棒』は普遍的にどん底な社会をテーマにした作品で海外で知られているが、この『どん底』ほど、我々男の、とくにどん底の社会で育ってきた男の特性を充分に表現している作品はないであろう。『どん底』の日本の時代設定はきっと明治維新の前ということは確かであろう。だから、かつての日本社会も今のアメリカの巨大都市のようにゲットーは散乱していたはずである。そういう意味では、背景が近いのかもしれない。
いやぁ、でも、ここまで彼らが乗ってきてしまったとは。そんなつもりは毛頭なかったのに。棒で蛇を突っついたよう。まるで悪いイタズラ好きな子どもが人から隠れてマッチで火遊びをしていたら、倉ごと炎上してしまったかのようだ。でも、このメール上のラップで、彼らとは一気に親近感が沸いたような気がする。そういえば、空海も中国に上陸した時は、不法移民と見られて現行犯逮捕されたんだっけ。これで万事休すと思いきや、空海は筆をとって詩を書いてみせたら、中国の国境警備隊員たちは、
「こいつ、スキルがあるじゃねえか!」
と驚いて、それで彼は釈放されて、中国社会の仲間入りをしたというからね。それで、無事に日本に密教を持って帰ることができたのだ。きっと空海の詩を読んだ中国人も、
「おまえは天才だ!お前にはスキルがあるじゃねえかぁ。」
と褒め讃え、負けじと詩を書き上げて競争し合っていたのだろう。そして、空海も「貴様もなかなかの天才だなぁ」と相手を褒めながら、書の腕を磨いていったのだろう。「弘法は筆を選ばず」なら、我々のはPCのキーボードであり、筆を選んでいないので、我々も弘法なのだ!ゴア革命の成果による、そして連歌のごとくのネットワーク上でのサイバー・ラップ、そう、それが言葉の力、いわゆる言霊であろう。その空海のやっていたことが、この会社内で同じことが起こったというのは、まさに注目に値することである。そう、千年経っても、ゴア革命が進んでも、男の本質というのは、全く変わらないということだ。
しかし、これは平安時代の男女の恋文とは明らかに違うものだね。そんな貴族的なものではないさ。これは、ゲットーなんだから。まさにストリートの詩であるのだ。
「おお、おまえ、スキルがあるじゃねえか!」
と突然薮から棒が出てくるように褒め讃えてきた。そして、休憩が終わって席に着いた次の瞬間、さっそくJからメールが来た。なんと、ラップ形式の強烈な詩ではないか、しかも意図的にccに皆のアドレスを含めて。まさにこれぞ目立ちたがり屋精神!すると、やはり同僚にゲットー出身が多いこともあり、それが火種となって、彼らも会社のメールで、「今度はオレも」というばかりに、ライムで、次から次へと詩の形式で返信してきた。もう、こうなったら止まらない。どうやら、私のちょっとしたふざけ心からの無思慮な行動が起爆剤となってしまったようである。彼らの、ヒップホップの精神に火をつけてしまったのだ。こうなったらもう燎原の火である。そして我々はお互いに相手の詩を読んでは、
「おまえは天才だ!」
とお互いに褒め合いながら、メールにおいてのヒップホップ形式の詩では、
「貴様の戯言はそれまでだ。オレこそが最高だ!なにしろオレ様のライムは地球だけではなく、銀河系、さらには宇宙全体にさえも響き渡るのだから」
と競争し合っていた。「王の中の王はオレだ」とばかりに、次から次へと「you
got mail!」という表示がモニターにポンポン出てきて、それでとても忙しくなった。でも、彼らの想像力と創作力、とてもすごくてかなわない。私もインターネットで、スラングを探しながら、限られている単語力で、どうにかライムをこなして、詩を書いて、メールし返していた。やはり、本場のアメリカのゲットーで育った人は表現力の強さが目立ち、連結のパワーというのは驚嘆に値するほどだ。私は日本に育ったし、グラフィティが散乱している廃墟ではなかったから、彼らのその経験の深さというものがないので、それを言葉にすることはできなかった。暴力と麻薬とセックス、それがゲットーラップ、もしくはギャングスター・ラップ、いわゆる「Gラップ」の文殊の知恵だが、それではとても彼らの表現力の足下にも及ばないので、それにゲットー文化については無知蒙昧なので、同じ土俵では勝負できないと思い、私は極力、詩の内容はエロチックな方面でがんばった。私は女の解剖学で全ての事象を表すように努めたのであり、それもそれでフェミニストには断固許しがたいものだったであろう。なにせ女の子に生まれたかった私だからなぁ。たとえば、
「Today I'm totally feeling mensual,
just like periodic hos ain't no sensual
(今日、 オレの気分は完全に月経的だ、
生理中のあばずれたちが感じなくなっているように」
と韻を踏んで、自分の風邪を引いている状態を表現した。だから、私の詩の形式はヒップホップやラップのとは路線が違うが、それでも、本場の彼らギャングスター・ラッパーたちは私を天才だと評価してくれたのだから、とても嬉しかった。
はじめは女の体がどうのこうのというような、いかにもピンプが書きそうな内容だったが、しかし、会社に対する不平不満がどんどん入ってきて、仕舞にはラップがテロリズムやファシズムなどの政治問題まで発展し、最後には人類愛と平和主義まで行き着いてしまった。彼らのように、まるで梶原一騎のようにストリートで喧嘩に明け暮れていた人たちも、やはり平和を望んでいるのだ(私の場合は引き蘢り型のインドアオタッキーで喧嘩はしなかったが・・・)。やはり男同士が詩でコミュニケートすると、どんどん話題が膨らんで行くという、なんだかスゴいことになっていた。それは宇宙膨張論のごとく、留まることを知らない。しかもそれは仕事中だったし、上司の目を盗んでは、詩を書いてメールで送っていたが、メールリストには一人の上司の名もあったし、その上司まで、やはりゲットーで育ってきた過去をもっているので、民族的芸術であるヒップホップには抵抗できず、「ラップはオレ様のお家芸だ」とばかりに自らもメールでどんどんラップを書いて送ってきていた始末だ。
黒沢映画でたしか『どん底』というのがあったが、これも貧乏な男が集まってきて、やはりそこには男が集まってくる切っ掛けとなるガイズ・ガールがいて、男たちは歌舞伎役者の台詞を真似して、太鼓を叩いて、順番に台詞を詠み上げて行くというものだった。それは現代で言えばラップパーティーそのものだった。歌舞伎役者は今で言えば、ラップのMCみたいなものだったからなぁ。で、会社でも、パーティーのオルガナイザーであるガイズ・ガールのメールに私が韻を踏んで返信したら、それが起爆剤となって会社のメールでのラップのオンパレードとなってしまったのだ。いやぁ、いつの時代になっても男って本当に進歩がないものだ。そんなことでムキになってしまって、こりにこってしまうのだから。しかも一つ一つの詩を読んだら、
「ほんと手が込んでいるよなぁ」
とわかるほど、見事なものである。PCの前で仕事に真剣になってるかと思えば、実は全く違うのだから。でも、「うわっ、真剣だなぁ」とは伝わって来るんだろうけれども。それで、よく仕事はおろそかにならないと不思議になるが、やはり熟練労働者はどこで手を抜くかも知っているのだ(まあ、私はまだまだ沙弥なので、私こそこんなことしていてはいけないのだが・・・)。端から見たら、「何やってんだろ、まったく」っとくだらなく思うかもしれないが、しかし、その中にいたら、本当に相手が天才に思えてきて、
「くっそ〜、負けてたまるか、自分も頑張らなきゃ!」
となるのだ。蝸牛角上というべきか、ドングリの背比べというべきか、本当、外から見たら大したことではないのだが、だかその渦に巻き込まれたら最後、女はどうかわからないが、男は泥濘にハマったように抜け出せなくなるのだ。男は何かちょっとしたことに感化されただけでも、それはカッコいいとなり、性質的にこってしまうからなぁ。本当バカだよ。でも、私もそう言っておきながら、大バカだからなぁ。昼休みは弁当を食べる時間を惜しんでまで、ずっとパソコンの前で、ライムを考えて、自分の詩をすべての「自称ラッパー」たちに送っていたのだから。そして、
「うわっ、すげえ、傑作じゃん!」
と褒め讃えられて、洪水のようなラップ形式の返信が来た。しかし、詩でこうやってコミュニケートして意思疎通ができているとは、とても素晴らしいことではないか。そう、まるで古代日本の連歌のように。
だから黒沢映画で『どん底』という作品は結構マイナーなのだが、このことを知っている人であるならば、充分にあの映画作品は堪能できると思うのである。もちろん『七人の侍』や『用心棒』は普遍的にどん底な社会をテーマにした作品で海外で知られているが、この『どん底』ほど、我々男の、とくにどん底の社会で育ってきた男の特性を充分に表現している作品はないであろう。『どん底』の日本の時代設定はきっと明治維新の前ということは確かであろう。だから、かつての日本社会も今のアメリカの巨大都市のようにゲットーは散乱していたはずである。そういう意味では、背景が近いのかもしれない。
いやぁ、でも、ここまで彼らが乗ってきてしまったとは。そんなつもりは毛頭なかったのに。棒で蛇を突っついたよう。まるで悪いイタズラ好きな子どもが人から隠れてマッチで火遊びをしていたら、倉ごと炎上してしまったかのようだ。でも、このメール上のラップで、彼らとは一気に親近感が沸いたような気がする。そういえば、空海も中国に上陸した時は、不法移民と見られて現行犯逮捕されたんだっけ。これで万事休すと思いきや、空海は筆をとって詩を書いてみせたら、中国の国境警備隊員たちは、
「こいつ、スキルがあるじゃねえか!」
と驚いて、それで彼は釈放されて、中国社会の仲間入りをしたというからね。それで、無事に日本に密教を持って帰ることができたのだ。きっと空海の詩を読んだ中国人も、
「おまえは天才だ!お前にはスキルがあるじゃねえかぁ。」
と褒め讃え、負けじと詩を書き上げて競争し合っていたのだろう。そして、空海も「貴様もなかなかの天才だなぁ」と相手を褒めながら、書の腕を磨いていったのだろう。「弘法は筆を選ばず」なら、我々のはPCのキーボードであり、筆を選んでいないので、我々も弘法なのだ!ゴア革命の成果による、そして連歌のごとくのネットワーク上でのサイバー・ラップ、そう、それが言葉の力、いわゆる言霊であろう。その空海のやっていたことが、この会社内で同じことが起こったというのは、まさに注目に値することである。そう、千年経っても、ゴア革命が進んでも、男の本質というのは、全く変わらないということだ。
しかし、これは平安時代の男女の恋文とは明らかに違うものだね。そんな貴族的なものではないさ。これは、ゲットーなんだから。まさにストリートの詩であるのだ。
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ああ、
女の子ってなんてかわいいんだろう。どうしたらいいんだろうね。会社のあるヒスパニックの子の目は大きくて、そう、まるでアニメのキャラのような瞳をしていて、可愛い。またほっぺも赤くて、ああ、キスできたらなあ。だからとてもじゃないけどアイ・コンタクトがとれない。目を合わせられないんだ。それにくらべて日本人の女の子って平均的に目が小さいからなあ。三白眼で悩んでいたり、一重で悩んでいたりと、アジア系は大変である。だが、ヒスパニック、アーリア系やアフリカ系、中東系、まあ、アジア系を抜かしたら全ての民族の目は基本的に大きい。だが、日本の子はやはり限界がある。だから東京の子はやけに目を強調したアイシャドウをし、そしてコンタクトで瞳を大きくする。だが、シャワーを浴びたあと、コンタクトもなく化粧も落ちている彼女らは別人としかいいようがないので、ギョッとなるし、
「あっ、部屋、まちがえちゃいました」
とこっちが逃げてしまうのである。それは相当な幻滅である。日本人は確かに化粧の腕は世界一である。だからメイキャップアーティストに日本人が多いのも理解できる。
それにしてもヒスパニックの子の目、ああ、駄目なんだ。あんな可愛い目で見られると、うう、こっちの頭には花火が飛び散って、くえぇ、となってしまう。相手がサングラスをしてくれていたら、まだ大丈夫なのだが。
「ちょっと、サングラスかけてよ」
とも言えないし。そんなことしたら、それこそイスラムのように女性に強制的にベールをかぶせて人権蹂躙するようなものだ。あの子の目、「はああ」とウットリしちゃって、全身が蒸発してしまうようだ。そう、アメリの体が水に還元したように。
「週末は何するんですか?」
か。そんな質問を女の子にされるとは。はじめてかなあ。いや、遠い昔にあったようななかったような。男同士ならもちろん、
「ああ、決まってんじゃん、週末はもちろんオナニーだぜ」
とバカなことを言えるんだけど、女の子に対しては、そんなことは言えないよ。とくに会社では。やはり会社の女の子とは話しづらいなあ。女の子との会話はなにか言論を統制されているようで、言いたいことがまったく言えない。以前の職場ではそんなことはなかったのに。男も女もセックスの話は堂々とできた。また、女性の美を褒めることもできた。まあ、ホワイトカラーの職場ではそうはいなかいのだろう。こうして見るとホワイトカラーのほうが、なんだか虚定的に感じてしまうものだが。正直になれないというのがつらいねぇ。いやー、何ヶ月ぶりに女の子と話したもんで、もちろん仕事で会話はしていたが、世間話をする機会はなかったので。
それしても、みんな平凡な恋愛をするもんだ。どいつもこいつも。どうしてセックスだけに興じないのか。セックスでの共産主義を実現すべきだ。共産主義は経済では破綻したが、セックスでは成功するだろう。実際、明治以前の日本のセックスはいたって共産主義的であった。「粋」という江戸時代の恋愛もそうである。愛のないセックスは今では邪悪なものとされているが、それは明治時代にキリスト教倫理が浸食したからだ。つまり欧米の価値観に支配されてしまっているのだ。愚かな奴らだ。ヨーロッパやサンフランシスコでは、もうそんな恋愛など時代遅れになってきているのに。ヨーロッパの古びた部分だけを真似しやがって。そもそも伊藤博文が憲法を作るときにアメリカでなくて超セクシストなプロシア憲法を真似たから、大日本帝国憲法はゲボ同然のものとなった。あんな憲法を日本が持っていたとは、国恥である。それと同時に、セックスも恋愛の支配下においてしまったのだ。だから豊臣秀吉のバテレン追放令は日本のセックス文化を守る上でも重要だったのだ。
また、とにかく恋愛をすると金がかかる。しかし消費社会はそれを喜ぶ。そしてこれでもかというぐらい、
「もっと恋愛しろ!」
と大衆の尻を叩く。女と一日デートすると軽く200ドルは超えてしまう。だからクレジットカードが必要となる。しかし、恋愛ではなく、セックスだけなら、省エネにもなるし、お得だ。コンドーム一つはせいぜい50セントぐらいであろう。だから、200ドルと50セントどっちが得か、もちろん50セントのほうが断然お得に決まっているだろ。アメリカの貯蓄率はマイナスなんだし。だから、恋愛を捨てて、セックスだけすればいいのだ。わざわざ恋愛してセックスすることはないではないか。そうすればアメリカの貯蓄率は回復する。それこそ国益というものだろう。節約こそが美徳という倫理観がまったくないのが、今のアメリカの悲惨な状況だ。女性には何千ドルもするダイヤモンドではなくて、50セントのコンドームをプレゼントせよ。
「なんだ、あたしの体が目当てなんだ」
と不愉快に思ったら、それこそネオリベラル社会の思うつぼだ。
「あたしとセックスしたいほど、あたしは魅力的なんだ」
と愉快に思えないのは本当に惨めだ。私だって女性に、かつて鈴木保奈美が『東京ラブストーリー』で「エッチしよう」と言ったように、「セックスしない?」と誘われたら、それだけで狂喜乱舞、欣喜雀躍してしまうというのに。一秒たりとも自殺なんかを考えることすらなかったというのに。また、ヴァレンタインでは女性は男性にチョコレートではなくて、コンドームをプレゼントするのがいい。男はダイヤモンドやチョコなどいらない、本当にコンドームだけで充分だ。そうすれば安倍晋三のクロニズムの源泉である森永の陰謀をうち砕くことができるのだ。マリリン・モンローは、
「Diamonds are a girl's best friend」
と歌ったが、これからの男女は、
「Condoms are our best friend」
と一緒に歌えばいいのだ。それでこそ、マリリン・モンローから続いた恋愛至上主義を打破できるというものだ。しかし、それを喜ばない女性は完全に恋愛至上主義的ネオリベラル資本主義社会の言説に洗脳されているのだ。完全にセックスは恋愛の所有物となってしまったのだ。現代の日本女性は江戸時代の女性の喜びを忘れてしまったのだ。それにしても、どうしてセックスは恋愛に独占されてしまったのだろうか。それは大衆に節約させない最も効率の良い方法だったからであろう。クレジットカードを使わせてまで大衆に消費させるのだ。しかし、そんな不条理なことはない。だからセックスを恋愛から解放することこそ、プロレタリアート革命の真実だ。それこそ消費社会の言説を砕く最善策である。よって、世界の労働者よ、団結せよ!
ああ、どうせなら瑞穂ちゃんのようになりたい。女装してレズビアンと恋いしたい。そして私はロミオになってジュリエット役の貴子たまにキスしたーい。貴子たま〜!そして「Love Power」を歌いたい。ああ、『Air』の神尾観鈴ちゃん。かわいいなあ。あの「がお〜」や「にゃはは」という奇声、なんたることか。我慢できない。本当蒸発しちゃうよ。恐竜さんを真似て「がお〜」か。ひよこが恐竜になるのか。それはそうだろう。ひよこも恐竜も卵から生まれてくるのだから。鶴も亀も卵から生まれるし。「そったくどうじ」という言葉があるのだから。ちくしょう、漢字に変換できないのが悔しいが。まったく、GHQの漢字廃止がここまで不便にするとは。つまり卵の殻を割り、恐竜が出てくる、ひよこが恐竜になる、そう、観鈴ちゃんは恐竜になりたかったのだ。だから、あのヒスパニックの女の子にも、「がお〜」と言って欲しいのだ。あの可愛い目で。くわー、そんなことされたら、それこそ私は水蒸気になってしまって、雲になって、雨となって彼女に降り注ぐだろう。朝雲暮雨のごとく。きゃーかかっかかー。



「あっ、部屋、まちがえちゃいました」
とこっちが逃げてしまうのである。それは相当な幻滅である。日本人は確かに化粧の腕は世界一である。だからメイキャップアーティストに日本人が多いのも理解できる。
それにしてもヒスパニックの子の目、ああ、駄目なんだ。あんな可愛い目で見られると、うう、こっちの頭には花火が飛び散って、くえぇ、となってしまう。相手がサングラスをしてくれていたら、まだ大丈夫なのだが。
「ちょっと、サングラスかけてよ」
とも言えないし。そんなことしたら、それこそイスラムのように女性に強制的にベールをかぶせて人権蹂躙するようなものだ。あの子の目、「はああ」とウットリしちゃって、全身が蒸発してしまうようだ。そう、アメリの体が水に還元したように。
「週末は何するんですか?」
か。そんな質問を女の子にされるとは。はじめてかなあ。いや、遠い昔にあったようななかったような。男同士ならもちろん、
「ああ、決まってんじゃん、週末はもちろんオナニーだぜ」
とバカなことを言えるんだけど、女の子に対しては、そんなことは言えないよ。とくに会社では。やはり会社の女の子とは話しづらいなあ。女の子との会話はなにか言論を統制されているようで、言いたいことがまったく言えない。以前の職場ではそんなことはなかったのに。男も女もセックスの話は堂々とできた。また、女性の美を褒めることもできた。まあ、ホワイトカラーの職場ではそうはいなかいのだろう。こうして見るとホワイトカラーのほうが、なんだか虚定的に感じてしまうものだが。正直になれないというのがつらいねぇ。いやー、何ヶ月ぶりに女の子と話したもんで、もちろん仕事で会話はしていたが、世間話をする機会はなかったので。
それしても、みんな平凡な恋愛をするもんだ。どいつもこいつも。どうしてセックスだけに興じないのか。セックスでの共産主義を実現すべきだ。共産主義は経済では破綻したが、セックスでは成功するだろう。実際、明治以前の日本のセックスはいたって共産主義的であった。「粋」という江戸時代の恋愛もそうである。愛のないセックスは今では邪悪なものとされているが、それは明治時代にキリスト教倫理が浸食したからだ。つまり欧米の価値観に支配されてしまっているのだ。愚かな奴らだ。ヨーロッパやサンフランシスコでは、もうそんな恋愛など時代遅れになってきているのに。ヨーロッパの古びた部分だけを真似しやがって。そもそも伊藤博文が憲法を作るときにアメリカでなくて超セクシストなプロシア憲法を真似たから、大日本帝国憲法はゲボ同然のものとなった。あんな憲法を日本が持っていたとは、国恥である。それと同時に、セックスも恋愛の支配下においてしまったのだ。だから豊臣秀吉のバテレン追放令は日本のセックス文化を守る上でも重要だったのだ。
また、とにかく恋愛をすると金がかかる。しかし消費社会はそれを喜ぶ。そしてこれでもかというぐらい、
「もっと恋愛しろ!」
と大衆の尻を叩く。女と一日デートすると軽く200ドルは超えてしまう。だからクレジットカードが必要となる。しかし、恋愛ではなく、セックスだけなら、省エネにもなるし、お得だ。コンドーム一つはせいぜい50セントぐらいであろう。だから、200ドルと50セントどっちが得か、もちろん50セントのほうが断然お得に決まっているだろ。アメリカの貯蓄率はマイナスなんだし。だから、恋愛を捨てて、セックスだけすればいいのだ。わざわざ恋愛してセックスすることはないではないか。そうすればアメリカの貯蓄率は回復する。それこそ国益というものだろう。節約こそが美徳という倫理観がまったくないのが、今のアメリカの悲惨な状況だ。女性には何千ドルもするダイヤモンドではなくて、50セントのコンドームをプレゼントせよ。
「なんだ、あたしの体が目当てなんだ」
と不愉快に思ったら、それこそネオリベラル社会の思うつぼだ。
「あたしとセックスしたいほど、あたしは魅力的なんだ」
と愉快に思えないのは本当に惨めだ。私だって女性に、かつて鈴木保奈美が『東京ラブストーリー』で「エッチしよう」と言ったように、「セックスしない?」と誘われたら、それだけで狂喜乱舞、欣喜雀躍してしまうというのに。一秒たりとも自殺なんかを考えることすらなかったというのに。また、ヴァレンタインでは女性は男性にチョコレートではなくて、コンドームをプレゼントするのがいい。男はダイヤモンドやチョコなどいらない、本当にコンドームだけで充分だ。そうすれば安倍晋三のクロニズムの源泉である森永の陰謀をうち砕くことができるのだ。マリリン・モンローは、
「Diamonds are a girl's best friend」
と歌ったが、これからの男女は、
「Condoms are our best friend」
と一緒に歌えばいいのだ。それでこそ、マリリン・モンローから続いた恋愛至上主義を打破できるというものだ。しかし、それを喜ばない女性は完全に恋愛至上主義的ネオリベラル資本主義社会の言説に洗脳されているのだ。完全にセックスは恋愛の所有物となってしまったのだ。現代の日本女性は江戸時代の女性の喜びを忘れてしまったのだ。それにしても、どうしてセックスは恋愛に独占されてしまったのだろうか。それは大衆に節約させない最も効率の良い方法だったからであろう。クレジットカードを使わせてまで大衆に消費させるのだ。しかし、そんな不条理なことはない。だからセックスを恋愛から解放することこそ、プロレタリアート革命の真実だ。それこそ消費社会の言説を砕く最善策である。よって、世界の労働者よ、団結せよ!
ああ、どうせなら瑞穂ちゃんのようになりたい。女装してレズビアンと恋いしたい。そして私はロミオになってジュリエット役の貴子たまにキスしたーい。貴子たま〜!そして「Love Power」を歌いたい。ああ、『Air』の神尾観鈴ちゃん。かわいいなあ。あの「がお〜」や「にゃはは」という奇声、なんたることか。我慢できない。本当蒸発しちゃうよ。恐竜さんを真似て「がお〜」か。ひよこが恐竜になるのか。それはそうだろう。ひよこも恐竜も卵から生まれてくるのだから。鶴も亀も卵から生まれるし。「そったくどうじ」という言葉があるのだから。ちくしょう、漢字に変換できないのが悔しいが。まったく、GHQの漢字廃止がここまで不便にするとは。つまり卵の殻を割り、恐竜が出てくる、ひよこが恐竜になる、そう、観鈴ちゃんは恐竜になりたかったのだ。だから、あのヒスパニックの女の子にも、「がお〜」と言って欲しいのだ。あの可愛い目で。くわー、そんなことされたら、それこそ私は水蒸気になってしまって、雲になって、雨となって彼女に降り注ぐだろう。朝雲暮雨のごとく。きゃーかかっかかー。


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マーチン・ルーサー・キング牧師の誕生祭であるこの日、人々はこりずに睡眠時間を削ってまであせくせと働いている。少しは偉大な公民権運動家の功績を讃える時間さえもったいなぶらずに確保しておけばいいと思うのに。また、このサイトによると日本人の睡眠時間が減少傾向にあるという。70年代と90年代のここ20年の間で、一時間も睡眠時間が減っているのである。これでは人は病気にかかりやすくなる。しかもパートやアルバイトやフリーターや派遣社員が増えることにより、保険料すら払えない人も増加している。その人たちは給料はそこが知れているので労働時間を増やすことでしか、生活水準に達する方法がないのだ。つまり、それだけ休息時間もなくなるということだ。ということは、職業訓練を受けたくとも時間がないし、寝不足の脳は新しい情報を取り込む吸収力も著しく低下するのである。つまりもっとも健康保険が必要とされている人が医療を受けられないという異常事態が発生するのだ。寝不足は万病のもとだというのに。つまり経済が新自由主義的になるほど、人は寝不足になるのである。
都会では確かに欲望が渦巻いているので人は寝不足になる。遊び疲れて寝不足なのだ。しかし寝不足を解消しようと医師は叫ぶが、それではサービス産業に打撃を与えるので、社会は睡眠を削って働く(遊ぶ)人間を聖者扱いするのだ。また人が寝不足になれば医者は儲かるのであり、大風吹けば桶屋が喜ぶのだ。アメリカでは貧困層の庶民も消費の足枷から逃れられない。クレジット・カードで消費を続けさせるのだ。吸い取られるだけ吸い取られてしまうのだ。つまり貧乏に寝る暇を与えず、またブルジョアは自ら寝る時間を割いている振りをして、庶民を寝させないようにする。高度経済成長期と無縁な庶民はブルジョアに憧るようになっている、だから睡眠不足になれば財産の幸福を呼び寄せられるという呪術信仰を実地するのである。それは女性が豊胸手術をして金(貨幣)と権力(国家)を呼び寄せるのと類する。資本家がビジネスを始めるとき必ず真っ先に雇うのは権力に強い弁護士と金に強いCPA(会計士)である。ヒラリー・クリントンもウォールマートの企業弁護士であった。そしてそれが連邦議員、または大統領への一つの登竜門なのである。要するに金と権力なのである。それが偉人が持つ七つの宝の基本中の基本である。
仏教もやけに睡眠に関して厳格である。ある意味、徹底した睡眠否定主義であり、アンチ・スリープと言っても良い。
もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目さめておれ。(ダンマパーダ157)
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。(296)
睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、ーこれは破滅への門である。(スッタニパータ96)
起てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。(331)
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、(437)
多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。(926)
しかし、アインシュタインは睡眠時間をより多くとっていた。だが、彼はシッダールタに言わせれば、賢い人ではなかったのである。マーラ(死神)の第五の軍隊に負かされた敗北者だったのだから。
どうにかして睡眠時間を増やせないだろうか。酒とタバコは人の睡眠不足を悪化させる。とくに日本人の男性の半分以上が喫煙者であり、どうしようもない。仏教の五戒に不飲酒があるが、不喫煙も加えて六戒にするべきである。そして世界の全ての仏教教団にそれを実践してもらいたい。私が『テニスの王子様』を観たとき、ショックを受けたのは、越前リョーマの父親が作務衣を着ている僧でありながら、タバコを吸っていたことである。シッダールタは酒を飲むなとは言ったが、禁煙しろとは言わなかった。それが仏教の最大の欠点である。また睡眠否定をしているところも欠点である。
睡眠否定の仏教の支持者の主体は商工業者であったし、いわゆる古代のブルジョアであろう。よって仏教は古代のブルジョア宗教であった。だから仏教の禁欲主義が最も反映されているのが睡眠否定説であろう。またインドでは大英帝国に支配されるまでは仏教の兄弟であるジャイナ教の信者がインドの資本を牛耳っていた。ジャイナ教は徹底した禁欲主義で知られるし、ジャイナ教徒から見ると仏教徒でさえ怠けて見えるのだそうだ。まあ、どちらもブルジョアジーに多きく買われた宗教であったが。つまり禁欲と資本主義は相反するようで共存するのだ。ブルジョアの睡眠否定がネオリベラル消費経済を支えているのである。プロテスタントの倫理もブルジョアが望んだことであった。それは労働者の睡眠時間を剥奪することであった。新自由主義はまさに純粋なブルジョア主義であり、それが睡眠時間を短縮させているのである。
だからある女性が、
「あたし最近寝不足で」
と卑下すると、それは自慢のうちとなり、人は彼女を「ブルジョア的だね」と皮肉を込めて称賛するのである。今まで人々はプチブルで満足していたが、今度からはブルジョアそのものを目指すようになった。だから資本主義はマルクスの予想を外れて中産階級を生み出したが、いわゆる中流意識が人の精神的欲求を安定させていたが、またマルクスが予言した通りの社会構造になりつつある。なぜなら中流意識が崩れてきたからである。中流意識が崩れるときにファシズムが現れやすい。大恐慌で最も打撃を受けたのは中流階級であった。つまり社会は再び二つの階級、ブルジョアジーとプロレタリアートの二つに分かれるのである。その兆候は人々の睡眠時間の減少によって顕著である。
はっきりと断言するが、健全な社会とは睡眠の安定した社会である。それこそが美しい日本である。しかし、『美しい国、日本』を読んでも、睡眠時間の確保という部分について考慮するとき、それが全く見えなかったので、これでは日本は美しくならないと直感した。麗しい素肌の秘訣は睡眠を多く取ることである。決して寝る間を惜しんでまで夜のマンハッタンを遊び歩くことではない。なぜなら睡眠時に身体は蘇生されるからだ。仏教のように睡眠を否定して身を常に不浄と観ていては、それこそ本当に醜くなってしまう。だからせっかく貯まった財産を化粧に浪費してしまうのだ。アメリカでは年間の化粧の消費量が約5百億ドルにまで達するといわれている。さらにインターネットによるクレジットカードの消費により、それに拍車をかける。アキレスは新しい情報技術を得ても、亀には追いつけない。なぜならアキレスは寝不足で脚に力が入らないからだ。そして怪我をしやすくなり、最後にはアキレス腱を負傷してしまい、亀の後ろ姿さえ確認できなくなってしまうのだ。それこそ器用貧乏人宝の助長である。つまり睡眠不足は消費漬けへのロンドなのである。だから寝不足解消こそが回復へのロンドなのである。寝る子は育つのだから、よく寝る国民はよく育つのである。つまり、国家の成長とは充実した睡眠によるのである。「睡眠=怠けてる」という言説を砕かないことには日本の成長どころか、それこそ美しい文化は退廃してしまうであろう。
アインシュタインがなぜ日本をそこまでこよなく愛したか。それは日本が睡眠時間を多く取る彼の体質に合っていたからである。それこそがアインシュタインに日本を美しい国と感じさせた大きな要因であると推測されるのである。しかし新自由主義に陥った日本、美しい国は今いずこ・・・。
参考文献:
中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫、2006年
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年

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ああ、久しぶりに贅沢を味わった。なんと親友のLanceさんが私のためにチャーハンを見舞ってくれたのだ。なんて素晴らしい人なんだ!それにしても、あのチャーハンは格別であった。それに蜜柑といい、もはや感無量どころではない。それまで肉もまともに食べれないほど生活が貧窮していた。ロサンジェルスのコリアン・タウンでは、
「チュヌルヨー!」
という訳の分からない言葉が飛び交い、悪名高い金正日が使うハングル文字がいたるところで氾濫している。そんな町でやっていくといっても、テンプの粗末な給料では、食料までも節約せねばならず、女の子を誘うことは到底できない。たとえ運良く誘えたとしても、デートする金すらない。そんなどん底の真っただ中、親友の心遣いは私を大いに励ましてくれた。
「チュヌルヨー!」
という訳の分からない言葉が飛び交い、悪名高い金正日が使うハングル文字がいたるところで氾濫している。そんな町でやっていくといっても、テンプの粗末な給料では、食料までも節約せねばならず、女の子を誘うことは到底できない。たとえ運良く誘えたとしても、デートする金すらない。そんなどん底の真っただ中、親友の心遣いは私を大いに励ましてくれた。
また、わざわざクリスマス・パーティーにも招待していただき、ただひたすら感謝、感謝、謝謝他。いやー、特にデザートで出されたアリスクリームは格別であった。私はもう山下清状態だった。なにせ、噂によれば、山下画伯は、
「ア・・アイスクリームがないと、お絵描きに集中できないんだなあ」
と苛立を隠せなかったといわれている。それは都市伝説かもしれないが。苛立った時の画伯の吃(ども)りはさらに悪化したと伝えられている。また、線路の長旅ではトイレは不便極まりないので、常にオムツを携帯していたとも噂されている。
「オ・・オムツとオムスビは必需品なんだなあ」
とでも言おうか。
画伯は「裸の大将」として俗世間で通っている。しかし、厳密に言えば、決して原始ジャイナ教徒のようにフルチンではなかった。彼はオムツを穿いていたのである。ならば訂正して「オムツの大将」と改名しなければならない。お釈迦様は「糞掃衣」という黄褐色の袈裟を纏っていた。チュンダの料理によるソルサ(下痢)事件で、お釈迦様の糞掃衣もオムツ状態と化した。だからオムツもまた「糞掃衣」なのである。なにしろオムツは糞尿で黄褐色に染まるのだから。よって「日本のゴッホ」とまで称された偉大なる画伯の袈裟とは、オムツだったのである。したがって、画伯を敬愛して止まない信奉者たちは、授戒の証として、オムツを賜るのである。そして、修行を完成させたものはオムツを頭にかぶるのである。いわゆる戴冠式のようなものだ。それがオムツ教団でいう「印可」というものであろう。そう、画伯僧伽は集合写真の時、お揃いでオムツを穿いて記念写真を撮るのである。ちなみに画伯僧伽のキャンプファイヤーでは、オムツを頭にかぶって、
「線路は続くよ、どこまでも」
をフォーク・ギターの伴奏に合わせて皆で歌うことが恒例の年末行事となっている。
伝説によれば画伯はオムツを穿いて遍歴し、托鉢ではオムスビをもらって絵を描いていたそうだ。仏教の最古の経典とされる『スッタニパータ』においても、画伯の修行者としての特徴が裏付けられる。それは2500年前に既にそのプロトタイプが完成していたということも、まさに感嘆されるべき驚愕の事実である。
「唖者」とは、「頭の鈍い人」のことである。英語の俗語で言えば「dumb」である。そう、剃髪の画伯がただ一人オムツを穿いて線路を歩いている姿を見た人は、彼を見て変人だと思い、「唖者」だと判断したことだろう。いや、その姿に度肝を抜かされたのかもしれない。お釈迦様は筏で激流を渡ったが、画伯は汽車または電車の激流の真っただ中を両足で渡り歩いたのだから、彼はまさしくお釈迦様以来の真の遍歴行者であったということである。家も持たず、妻も持たず、愛欲に耽ることなく、ただひたすら線路の上を歩いて遍歴し、精神を統一して絵を描く。彼こそが最も尊い行者であり、彼に施し物(オムスビ)を与えた者は、この世で最上の功徳を積んだはずである。現在そのような聖人は、はたして存在するのだろうか。少なくとも、我々はKiyoshi様の境地を目指して日々励んでいるが、そこからは到底ほど遠いというのが、拙著の現状である。私の尊師は既に画伯の卒塔婆へ巡礼に行かれた。私も、功徳を積むために、いつかは長野の美術館を訪れたいと願う今日この頃である。
しかし、今のアメリカの乞食と来たら、
「iPodを恵んでくれ!」
と通行人にせがむという。つい、こないだまでは、
「クオーター(25セント)くれ」
というのがキャッチフレーズだったというのに。一日中やることがないから、暇つぶしにiPodが必要なのだとほざいている。しかし、iPodだけには飽き足らず、
「iPodがあっても、コンピューターがなきゃダウンロードできねえじゃねえか!」
と言って、iTune付きのPC(パソコン)を強請る。さらに、今度は、
「PCじゃワイヤレスがねえから、インターネットができねえ」
と言って、ラップトップ(ノート型パソコン)を要求する始末だ。彼らの傍若無人ぶりには茫然自失である。しかし、ある金持ちは本当にその要求に応じてラップトップを与えてしまったという。だから、ある乞食はラップトップを所有し、自分のブログさえ持っており、毎日最新の記事を更新しているそうだ。例を挙げれば、このブログなどがそうである。だから、彼らはとても阿羅漢とは言えないのである。しかし、この注目に値すべき事象は、ロングテール現象が今やホームレスまでを巻き込んでいるということなのだろう。時代は完全に変わろうとしているのである。まさに、世紀の大転換期が近づいているということなのであろうか。
もしオムツの大将が現在も存命であったならば、彼もラップトップを持参して遍歴していたのだろうか?
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年

「ア・・アイスクリームがないと、お絵描きに集中できないんだなあ」
と苛立を隠せなかったといわれている。それは都市伝説かもしれないが。苛立った時の画伯の吃(ども)りはさらに悪化したと伝えられている。また、線路の長旅ではトイレは不便極まりないので、常にオムツを携帯していたとも噂されている。
「オ・・オムツとオムスビは必需品なんだなあ」
とでも言おうか。
画伯は「裸の大将」として俗世間で通っている。しかし、厳密に言えば、決して原始ジャイナ教徒のようにフルチンではなかった。彼はオムツを穿いていたのである。ならば訂正して「オムツの大将」と改名しなければならない。お釈迦様は「糞掃衣」という黄褐色の袈裟を纏っていた。チュンダの料理によるソルサ(下痢)事件で、お釈迦様の糞掃衣もオムツ状態と化した。だからオムツもまた「糞掃衣」なのである。なにしろオムツは糞尿で黄褐色に染まるのだから。よって「日本のゴッホ」とまで称された偉大なる画伯の袈裟とは、オムツだったのである。したがって、画伯を敬愛して止まない信奉者たちは、授戒の証として、オムツを賜るのである。そして、修行を完成させたものはオムツを頭にかぶるのである。いわゆる戴冠式のようなものだ。それがオムツ教団でいう「印可」というものであろう。そう、画伯僧伽は集合写真の時、お揃いでオムツを穿いて記念写真を撮るのである。ちなみに画伯僧伽のキャンプファイヤーでは、オムツを頭にかぶって、
「線路は続くよ、どこまでも」
をフォーク・ギターの伴奏に合わせて皆で歌うことが恒例の年末行事となっている。
伝説によれば画伯はオムツを穿いて遍歴し、托鉢ではオムスビをもらって絵を描いていたそうだ。仏教の最古の経典とされる『スッタニパータ』においても、画伯の修行者としての特徴が裏付けられる。それは2500年前に既にそのプロトタイプが完成していたということも、まさに感嘆されるべき驚愕の事実である。
かれは鉢を手にして歩き回り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするのだ(スッタニパータ713)
「唖者」とは、「頭の鈍い人」のことである。英語の俗語で言えば「dumb」である。そう、剃髪の画伯がただ一人オムツを穿いて線路を歩いている姿を見た人は、彼を見て変人だと思い、「唖者」だと判断したことだろう。いや、その姿に度肝を抜かされたのかもしれない。お釈迦様は筏で激流を渡ったが、画伯は汽車または電車の激流の真っただ中を両足で渡り歩いたのだから、彼はまさしくお釈迦様以来の真の遍歴行者であったということである。家も持たず、妻も持たず、愛欲に耽ることなく、ただひたすら線路の上を歩いて遍歴し、精神を統一して絵を描く。彼こそが最も尊い行者であり、彼に施し物(オムスビ)を与えた者は、この世で最上の功徳を積んだはずである。現在そのような聖人は、はたして存在するのだろうか。少なくとも、我々はKiyoshi様の境地を目指して日々励んでいるが、そこからは到底ほど遠いというのが、拙著の現状である。私の尊師は既に画伯の卒塔婆へ巡礼に行かれた。私も、功徳を積むために、いつかは長野の美術館を訪れたいと願う今日この頃である。
しかし、今のアメリカの乞食と来たら、
「iPodを恵んでくれ!」
と通行人にせがむという。つい、こないだまでは、
「クオーター(25セント)くれ」
というのがキャッチフレーズだったというのに。一日中やることがないから、暇つぶしにiPodが必要なのだとほざいている。しかし、iPodだけには飽き足らず、
「iPodがあっても、コンピューターがなきゃダウンロードできねえじゃねえか!」
と言って、iTune付きのPC(パソコン)を強請る。さらに、今度は、
「PCじゃワイヤレスがねえから、インターネットができねえ」
と言って、ラップトップ(ノート型パソコン)を要求する始末だ。彼らの傍若無人ぶりには茫然自失である。しかし、ある金持ちは本当にその要求に応じてラップトップを与えてしまったという。だから、ある乞食はラップトップを所有し、自分のブログさえ持っており、毎日最新の記事を更新しているそうだ。例を挙げれば、このブログなどがそうである。だから、彼らはとても阿羅漢とは言えないのである。しかし、この注目に値すべき事象は、ロングテール現象が今やホームレスまでを巻き込んでいるということなのだろう。時代は完全に変わろうとしているのである。まさに、世紀の大転換期が近づいているということなのであろうか。
もしオムツの大将が現在も存命であったならば、彼もラップトップを持参して遍歴していたのだろうか?
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年

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「おい、女のいない世の中って想像したことある?」
確か、私はそのように不潔な男の上司に尋ねられたことがある。私は、
「いいえ、そんな世の中になったら自殺した方がましです」
という気分になった。どうして私は男になったのであろう。不思議だ。いままで会ってきた女の子で私を女だと思った人は一人もいない。私は男になりなくなかった。男だけにはなりたくなかったのだ。といって別に女になりたいというわけでもない。ただ、男にだけはなりたくなかったのだ。中性でもかまわない。マイケル・ジャクソンも中性的な魅力で女の子たちをコンサートで失神させる。私もその力が欲しい。私は神を恨む、なぜマイケルのように魅力的にしてくれなかったのであろうかと。私だって奇跡を起こしたかったのに。もちろん、整形する前のマイケルだ。そして少年愛のレッテルを貼られる前のマイケルである。彼の『ライヴ・イン・ブカレスト』は私に衝撃を与えた。一万人以上の女の子たちが、まるで取り憑かれたかのように、マイケルに向かって懇願していたのだから。そう、女の子の憧れになることが私の最大の人生の目的だ。
確か、私はそのように不潔な男の上司に尋ねられたことがある。私は、
「いいえ、そんな世の中になったら自殺した方がましです」
という気分になった。どうして私は男になったのであろう。不思議だ。いままで会ってきた女の子で私を女だと思った人は一人もいない。私は男になりなくなかった。男だけにはなりたくなかったのだ。といって別に女になりたいというわけでもない。ただ、男にだけはなりたくなかったのだ。中性でもかまわない。マイケル・ジャクソンも中性的な魅力で女の子たちをコンサートで失神させる。私もその力が欲しい。私は神を恨む、なぜマイケルのように魅力的にしてくれなかったのであろうかと。私だって奇跡を起こしたかったのに。もちろん、整形する前のマイケルだ。そして少年愛のレッテルを貼られる前のマイケルである。彼の『ライヴ・イン・ブカレスト』は私に衝撃を与えた。一万人以上の女の子たちが、まるで取り憑かれたかのように、マイケルに向かって懇願していたのだから。そう、女の子の憧れになることが私の最大の人生の目的だ。
そのためにはネオリベラル資本主義社会で成功しなければならない。というより、マイケルのような天才になりたかった。モーツァルトのような神童になりたかった。神から与えられた才能、それをステージで披露し、若い女の子は狂喜乱舞するのである。しかし、いつも女の子というのは男をインスペクションにかける。そして、偏狭的判断をして、男をふるい分けるのである。そして容赦なく私の前を素通りしてきた。どんなにその判断が私たちを傷つけてきたことか。彼女らは男をただのけだものとして思っていないのだろう。男は全て野獣といいながら、自分より質の高い男を見ると、彼はまるで聖者のようであり、女の子は彼の前にひれ伏すのである。そして、彼が投げキスをするだけで、恍惚状態になって女の子は気絶してしまい、あるいは泣き崩れてしまうのである。マイケル・ジャクソンがそうだ。あそこまで、女の子の注意を引けるなんて、私はかつて無神論者だったが、その衝撃の映像を観たときには、
「マイケルには神がついている!」
と叫んでしまった。彼のカリスマを目の当たりにして、いつの間にか私は神の存在を認めるようになっていた。現代のキリストと言ったら、キリスト教徒に叱られるかもしれないが、
「あんなことが現実世界の娑婆でも有り得るんだ」
と認識させられた。そして私はこのことを強く願うようになった。
「私も神の恵みを受けたい。マイケルの力が欲しい。イエスの力が欲しい!」
私も奇跡を起こしたい。そうすれば女の子にモテるのだから!あまりにも女の子が好きだから、私は彼女らのきれいなスベスベした光悦の皮膚感覚をもたらす柔らかい肌に触れることができないために、悶絶躄地だ。だからただ大地の上でのたうちまわるしかない。苦しくて苦しくてたまらない。苦しすぎる。私ほど女が好きな人間はいないというのに・・・。なぜ女は理解してくれないんだ。普通、自分を好いてくれる人間には好意を持つと心理学実験でも実証済みではないか。やはり金のない男は資本主義社会では相手にされないということか。うーん、でもその前に、きっと私が男だからだ。生理的に受け付けないのだろう。だから私にどの女も見向きもしない。これだけ彼女らを求めているというのに。まさに門前雀羅状態である。
「このまま一生彼女らと戯れることなく死んでしまったらどうしよう」
と思うと、とてつもない恐怖が全身を襲い、身震いが止まらなかった。
だから
「いっそうのこと女の子になってしまおうかな」
と空想することもある。その空想を体現化してくれるのがアニメである。だから、私に希望を与えるのは紛れもなくアニメなのである。『マリアさまがみてる』このアニメは衝撃だった。なんという素晴らしいアニメであっただろうか。乙女の世界がここまで美しいものだったとは、私の想像を遥かに超えていた。小笠原祥子さまは私の憧れである。それに比べて、野郎の世界などというのは、ドブの悪臭が漂うヘドロよりも不浄なゴミためである。私は思春期でそこを通過し、根っこまで腐ってしまった。思春期前までは、
「ヘルメスって、女の子みたいだよね」
と評価されていたのに。そう、私は「女の子っぽい」と言われて、本当に嬉しかったのだ。
「女の子の中にいても全然違和感ないよね」
とまで言わしめたというのに!私には野蛮で暴力的で乱暴な男のクラスメイトとは一線を画しているという自負があった。しかし、顎髭、脇毛、とくにすね毛のおぞましさが、そのプライドをズダズダに砕いた。私は立ち直れないほどのショックを受けてしまった。まるで自分が化け物になっていくかのように恐怖した。だが、どうすることもできなかったのだ。なにせ男は不潔で野蛮と小さい頃から感じていたのだから。
『乙女はお姉さまに恋してる』あのような素晴らしいアニメはない。まさに私の理想郷である。桃源郷がそのまま実現された世界である。ああ、聖應女学園に入学したい。主人公の瑞穂ちゃんは男の子だ。しかし、彼女は女子高生に化けていて、さらに、学園の「エルダー」に推薦されてしまったのだ。そう、女の中の女として、カトリック女子高校のお嬢様たちからも、評価されたのである。ミス・ビキニのイタリア大会でも、優勝した絶世の美女が男だったと聞く。だから世間はあっと驚いた。そんなことが起きてしまうイタリアという国も、すごいものだが、日本では現実には起こりえない。だからアニメの世界でそれを体現するのである。私だって女子高に行きたいのに。
『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』なんということだろう。主人公の男子高生が不慮の事故で手術を受け、さらに性転換までしてしまうのである。そして、彼は女子高生として新たな人生を送るようになるのである。私は叫んだ。
「これこそ、オレの目指していた夢だー!」
しかも、女の子になった主人公はより自信を持てるようになったのである。だから性転換は結果的に良かったのだ!
資本主義は男社会だ。男社会はゲロの匂いで満ちている。社会進出している女性なら私の言っていることはわかるだろう。どんなに嘔吐社会であるかということを。気付いた時はもう手遅れで、女性も嘔吐してしまうのだ。酒、タバコ、コーヒー、これらの異臭が嘔吐を促進させる。コーヒーは資本主義の臭いであり、人は寝不足になって短気になり、ストレスがどんどんたまり、最後には嘔吐してしまうのだ。頭がガンガンするのは嘔吐の前兆である。そう、人は潔癖にならなければ生きていけない社会が資本主義社会である。せっかく、こっちは女性が社会進出することによって、嘔吐社会が少しは清浄になっていくだろうと期待しているのに、
「女性がゲロ袋を携帯してどうするんだ」
とガッカリさせられる。自分まで汚くなったら何の意味があるのだろう?もっと反抗して掃除していかなければ。
アニメはゲロ社会からの逃避である。安楽浄土とはアニメの世界である。とくに、女の子がたくさん登場するアニメ、というか女が主人公のアニメ、また女の子だけの社会のアニメ、男が女のような主人公の社会では、これらのアニメはまさに夢である。私の一番好きなアニメは『マリアさまが見てる』『乙女はお姉さまに恋してる』そして『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』であろう。思春期以前の私は女の子からも彼女らの「仲間」として認定されていたのに。しかし、日本社会はジェンダーにとくにうるさい。小泉政権のゆとり政策の前は、子供は中学生になると強制的に「性別」にふり分けられた。私もその犠牲となった。だが、今ではジェンダー矯正は緩やかになった。男の子が髪の毛を伸ばしても大丈夫になった。また女の子がブルマをはくこともなくなった。そして結果的に学生服そのものが廃止されるだろう。時代はさらにリベラルになってきたのだ。
資本主義社会では女はズボンをはいているのに、どうして男はスカートをはかないのだ。瑞穂ちゃんのようにスカートをはかないと。女が男性化することは良くて、男が女性化するのは悪なのか。それは不公平だ。さあ、女に憧れている男たちに告ごう、スカートをはき給え!そしてニューヨークの地下鉄の空気孔の上で、マリリン・モンローの「うっふーん」を披露しよう。『七年目の浮気』という映画のシーンだが、あれも実に面白い映画であった。そうだ、世界中の男性諸君よ、女装せよ!
とにかく、女は男より遥かに良い。犯罪も起こさないし。アメリカの90%の服役囚は男だ。どんなに男は犯罪に走りやすいか。一方、女は暴力に訴えない。なんとすばらしい。それこそ不殺生である。女が世直しをするのである。『蝿の王』という小説は、男だけの社会はいかに世界を破滅に導くかという真理を切実に伝えている。男は暴力で全て片付けようとするのだから。自分がそんな男になってしまったことの絶望と後悔。男嫌いな私は自分を嫌うしかない。自己嫌悪だけが私を束縛する。男が男嫌いであるなら脱男化するしかない。したがって男を超えることが私の主眼となろう。そう、ブッダが人間世界を厭ったために、非人間化したように。ちなみに「佛」という漢字は、「人にあらず」という意味にも解釈される。
よって、どの視点から見ても、男より女の方が良いとしか言えないのである。変成男子なんて、そんな理論は馬鹿げている。浄土の真の姿は変成女子であろう。それこそが、『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』で体現されていた真理である。ブッダの真理、キリストの真理、それらのどの真理よりも、この真理が世界にとって最も価値があるものであることを私は確信した。
成功、地位、名誉、財産、名声、どうしてそれらが必要か。それは資本主義社会ではそれらに近づけば近づくほど女にモテるからである。そう、女の子の賞賛を浴びることができるからだ。そのためには、値札のアラビア数字の桁を大きくする必要がある。だから、私もそれらが欲しい。女の称賛を浴びるにはそれらを渇望するしかないのだ。だから私は資本主義社会が嫌いである。それらなしでも女にモテる社会にしたい。私にとって正直言って、地位、名誉、財産などどうでもいいのである。値札などどうでもいいのだ。モールの値札の大群など燃やしてしまいたいのである。それは私の基準ではない。私の望みはただ一つ、美女との戯れである。
「巫山の夢」という言葉があるが、それは男女の婬欲の交わりを意味している。また「ふざける」を漢字で書くと「巫山戯る」となる。そう、「ふざける」とは男女がエロチックになるという原義だったのだ!だから、私は女とふざけたいのである!もうそろそろアセンションが到来すると言われている。アセンションが起これば、女はもはや成功と金で男を判断することはなくなるだろう。それこそ、本当の女性の意識改革である。だから、マイケルのようなカリスマを持った人間が、真の天才として人々に崇められるようになるのだ。そう、地位、財産、名誉ではなく、天賦の才こそが、美女と戯れることができるようになるのである。そして歌垣に興じるのである。古代神事の祭りとは、まさに巫山のエロティシズムだったのだ!だから歌垣では歌が上手い人間がモテるのだ。マイケルもそうだ。だから彼は巫山の巫子だ。そして『涼宮ハルヒ』も巫女的な歌姫である。もはや『人魚姫』のように歌の才能をドブに捨てて死ぬことはないのである。だから、私が最も欲しいものは、天才の才能である。『ああ女神さまっ!』はまさに朝雲暮雨であり、ゲーテの「永遠のフェミニン」であろう。よって巫山の夢を現実のものとすることができるのだ。
アセンションは2012年だという。その時に人々は自分に付着している値札を焼却するであろう。しかしそれはあまりにも先だ。それまで生きているかどうかもわからないし、生きていてもあと6年も老化を我慢しなければならない。そんなのは嫌だ。死んで花実が咲くものか!命あっての物種だ。だからこそ、一刻も早くアセンションを願う。よって私は至高の幸福を手にできるのである。エロティシズムに興じられないなんて、どうして生きていると言えようか!どこに人生の価値があるのだろうか!エロティシズムがない人生なんて、牢獄で廃人やっているのとどう違うと言うんだ。だから私はカリスマが欲しい。ギリシャ語で「神の贈り物」という意味の「カリスマ」を私も賜りたい。私が天才だったらどんなに!そう、私は成功者になりたいのではなく、天才になりたいのだ!
天よ、我の望みを叶え給え、アーメン!

「マイケルには神がついている!」
と叫んでしまった。彼のカリスマを目の当たりにして、いつの間にか私は神の存在を認めるようになっていた。現代のキリストと言ったら、キリスト教徒に叱られるかもしれないが、
「あんなことが現実世界の娑婆でも有り得るんだ」
と認識させられた。そして私はこのことを強く願うようになった。
「私も神の恵みを受けたい。マイケルの力が欲しい。イエスの力が欲しい!」
私も奇跡を起こしたい。そうすれば女の子にモテるのだから!あまりにも女の子が好きだから、私は彼女らのきれいなスベスベした光悦の皮膚感覚をもたらす柔らかい肌に触れることができないために、悶絶躄地だ。だからただ大地の上でのたうちまわるしかない。苦しくて苦しくてたまらない。苦しすぎる。私ほど女が好きな人間はいないというのに・・・。なぜ女は理解してくれないんだ。普通、自分を好いてくれる人間には好意を持つと心理学実験でも実証済みではないか。やはり金のない男は資本主義社会では相手にされないということか。うーん、でもその前に、きっと私が男だからだ。生理的に受け付けないのだろう。だから私にどの女も見向きもしない。これだけ彼女らを求めているというのに。まさに門前雀羅状態である。
「このまま一生彼女らと戯れることなく死んでしまったらどうしよう」
と思うと、とてつもない恐怖が全身を襲い、身震いが止まらなかった。
だから
「いっそうのこと女の子になってしまおうかな」
と空想することもある。その空想を体現化してくれるのがアニメである。だから、私に希望を与えるのは紛れもなくアニメなのである。『マリアさまがみてる』このアニメは衝撃だった。なんという素晴らしいアニメであっただろうか。乙女の世界がここまで美しいものだったとは、私の想像を遥かに超えていた。小笠原祥子さまは私の憧れである。それに比べて、野郎の世界などというのは、ドブの悪臭が漂うヘドロよりも不浄なゴミためである。私は思春期でそこを通過し、根っこまで腐ってしまった。思春期前までは、
「ヘルメスって、女の子みたいだよね」
と評価されていたのに。そう、私は「女の子っぽい」と言われて、本当に嬉しかったのだ。
「女の子の中にいても全然違和感ないよね」
とまで言わしめたというのに!私には野蛮で暴力的で乱暴な男のクラスメイトとは一線を画しているという自負があった。しかし、顎髭、脇毛、とくにすね毛のおぞましさが、そのプライドをズダズダに砕いた。私は立ち直れないほどのショックを受けてしまった。まるで自分が化け物になっていくかのように恐怖した。だが、どうすることもできなかったのだ。なにせ男は不潔で野蛮と小さい頃から感じていたのだから。
『乙女はお姉さまに恋してる』あのような素晴らしいアニメはない。まさに私の理想郷である。桃源郷がそのまま実現された世界である。ああ、聖應女学園に入学したい。主人公の瑞穂ちゃんは男の子だ。しかし、彼女は女子高生に化けていて、さらに、学園の「エルダー」に推薦されてしまったのだ。そう、女の中の女として、カトリック女子高校のお嬢様たちからも、評価されたのである。ミス・ビキニのイタリア大会でも、優勝した絶世の美女が男だったと聞く。だから世間はあっと驚いた。そんなことが起きてしまうイタリアという国も、すごいものだが、日本では現実には起こりえない。だからアニメの世界でそれを体現するのである。私だって女子高に行きたいのに。
『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』なんということだろう。主人公の男子高生が不慮の事故で手術を受け、さらに性転換までしてしまうのである。そして、彼は女子高生として新たな人生を送るようになるのである。私は叫んだ。
「これこそ、オレの目指していた夢だー!」
しかも、女の子になった主人公はより自信を持てるようになったのである。だから性転換は結果的に良かったのだ!
資本主義は男社会だ。男社会はゲロの匂いで満ちている。社会進出している女性なら私の言っていることはわかるだろう。どんなに嘔吐社会であるかということを。気付いた時はもう手遅れで、女性も嘔吐してしまうのだ。酒、タバコ、コーヒー、これらの異臭が嘔吐を促進させる。コーヒーは資本主義の臭いであり、人は寝不足になって短気になり、ストレスがどんどんたまり、最後には嘔吐してしまうのだ。頭がガンガンするのは嘔吐の前兆である。そう、人は潔癖にならなければ生きていけない社会が資本主義社会である。せっかく、こっちは女性が社会進出することによって、嘔吐社会が少しは清浄になっていくだろうと期待しているのに、
「女性がゲロ袋を携帯してどうするんだ」
とガッカリさせられる。自分まで汚くなったら何の意味があるのだろう?もっと反抗して掃除していかなければ。
アニメはゲロ社会からの逃避である。安楽浄土とはアニメの世界である。とくに、女の子がたくさん登場するアニメ、というか女が主人公のアニメ、また女の子だけの社会のアニメ、男が女のような主人公の社会では、これらのアニメはまさに夢である。私の一番好きなアニメは『マリアさまが見てる』『乙女はお姉さまに恋してる』そして『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』であろう。思春期以前の私は女の子からも彼女らの「仲間」として認定されていたのに。しかし、日本社会はジェンダーにとくにうるさい。小泉政権のゆとり政策の前は、子供は中学生になると強制的に「性別」にふり分けられた。私もその犠牲となった。だが、今ではジェンダー矯正は緩やかになった。男の子が髪の毛を伸ばしても大丈夫になった。また女の子がブルマをはくこともなくなった。そして結果的に学生服そのものが廃止されるだろう。時代はさらにリベラルになってきたのだ。
資本主義社会では女はズボンをはいているのに、どうして男はスカートをはかないのだ。瑞穂ちゃんのようにスカートをはかないと。女が男性化することは良くて、男が女性化するのは悪なのか。それは不公平だ。さあ、女に憧れている男たちに告ごう、スカートをはき給え!そしてニューヨークの地下鉄の空気孔の上で、マリリン・モンローの「うっふーん」を披露しよう。『七年目の浮気』という映画のシーンだが、あれも実に面白い映画であった。そうだ、世界中の男性諸君よ、女装せよ!
とにかく、女は男より遥かに良い。犯罪も起こさないし。アメリカの90%の服役囚は男だ。どんなに男は犯罪に走りやすいか。一方、女は暴力に訴えない。なんとすばらしい。それこそ不殺生である。女が世直しをするのである。『蝿の王』という小説は、男だけの社会はいかに世界を破滅に導くかという真理を切実に伝えている。男は暴力で全て片付けようとするのだから。自分がそんな男になってしまったことの絶望と後悔。男嫌いな私は自分を嫌うしかない。自己嫌悪だけが私を束縛する。男が男嫌いであるなら脱男化するしかない。したがって男を超えることが私の主眼となろう。そう、ブッダが人間世界を厭ったために、非人間化したように。ちなみに「佛」という漢字は、「人にあらず」という意味にも解釈される。
よって、どの視点から見ても、男より女の方が良いとしか言えないのである。変成男子なんて、そんな理論は馬鹿げている。浄土の真の姿は変成女子であろう。それこそが、『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール』で体現されていた真理である。ブッダの真理、キリストの真理、それらのどの真理よりも、この真理が世界にとって最も価値があるものであることを私は確信した。
成功、地位、名誉、財産、名声、どうしてそれらが必要か。それは資本主義社会ではそれらに近づけば近づくほど女にモテるからである。そう、女の子の賞賛を浴びることができるからだ。そのためには、値札のアラビア数字の桁を大きくする必要がある。だから、私もそれらが欲しい。女の称賛を浴びるにはそれらを渇望するしかないのだ。だから私は資本主義社会が嫌いである。それらなしでも女にモテる社会にしたい。私にとって正直言って、地位、名誉、財産などどうでもいいのである。値札などどうでもいいのだ。モールの値札の大群など燃やしてしまいたいのである。それは私の基準ではない。私の望みはただ一つ、美女との戯れである。
「巫山の夢」という言葉があるが、それは男女の婬欲の交わりを意味している。また「ふざける」を漢字で書くと「巫山戯る」となる。そう、「ふざける」とは男女がエロチックになるという原義だったのだ!だから、私は女とふざけたいのである!もうそろそろアセンションが到来すると言われている。アセンションが起これば、女はもはや成功と金で男を判断することはなくなるだろう。それこそ、本当の女性の意識改革である。だから、マイケルのようなカリスマを持った人間が、真の天才として人々に崇められるようになるのだ。そう、地位、財産、名誉ではなく、天賦の才こそが、美女と戯れることができるようになるのである。そして歌垣に興じるのである。古代神事の祭りとは、まさに巫山のエロティシズムだったのだ!だから歌垣では歌が上手い人間がモテるのだ。マイケルもそうだ。だから彼は巫山の巫子だ。そして『涼宮ハルヒ』も巫女的な歌姫である。もはや『人魚姫』のように歌の才能をドブに捨てて死ぬことはないのである。だから、私が最も欲しいものは、天才の才能である。『ああ女神さまっ!』はまさに朝雲暮雨であり、ゲーテの「永遠のフェミニン」であろう。よって巫山の夢を現実のものとすることができるのだ。
アセンションは2012年だという。その時に人々は自分に付着している値札を焼却するであろう。しかしそれはあまりにも先だ。それまで生きているかどうかもわからないし、生きていてもあと6年も老化を我慢しなければならない。そんなのは嫌だ。死んで花実が咲くものか!命あっての物種だ。だからこそ、一刻も早くアセンションを願う。よって私は至高の幸福を手にできるのである。エロティシズムに興じられないなんて、どうして生きていると言えようか!どこに人生の価値があるのだろうか!エロティシズムがない人生なんて、牢獄で廃人やっているのとどう違うと言うんだ。だから私はカリスマが欲しい。ギリシャ語で「神の贈り物」という意味の「カリスマ」を私も賜りたい。私が天才だったらどんなに!そう、私は成功者になりたいのではなく、天才になりたいのだ!
天よ、我の望みを叶え給え、アーメン!

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ミロシェビッチが獄中死したニュースがあった。そしてアメリカにはないホワイトデー。
会社は突然リストラを発表した。私の部門も大量の人員が削減された。特に能力のある人が、アウトソーシングの対象となったようだ。
それにしても同僚の涙にはこたえた。今まで共に働いてきた同志がこのように一瞬にして仕事を失ってしまったのだから。だれもが憂鬱になった。
会社は突然リストラを発表した。私の部門も大量の人員が削減された。特に能力のある人が、アウトソーシングの対象となったようだ。
それにしても同僚の涙にはこたえた。今まで共に働いてきた同志がこのように一瞬にして仕事を失ってしまったのだから。だれもが憂鬱になった。
アメリカの優秀な人材が職を失い、海外の優秀な人材を低賃金で雇って会社の利潤を増やす、典型的な資本主義だ。かつてのITバブルではコンピューター技師はヤッピーとしてベンベを乗り回していたが、彼らは20年後にはアメリカから絶滅しているという。5年前はだれもがコンピューターを専攻したが、今ではさらに多様性が求められるという。なんと流動が激しいのだろう。同僚もその流動の餌食となってしまったのだ。
私の会社はメキシコに拠点を移すと発表したが、あまりにもとっさのことだったので何がなんだか分からない。せめて30日前に通告するのならまだ分かるが、出勤して突然レイオフを告げられたなんて。なんたることだろうか。はたしてこれは正義なのか?
私はからくもリストラの対象からまぬがれたが、ここのところ経済は良くないし売り上げも良くなかったので、私もいつ路頭に迷うことになるか分からない。でもそれがネオリベラルキャピタリズムであり、レーガンが作り上げた弱肉強食のシステムである。イギリスではサッチャーが、そして日本では小泉が。
アメリカではホワイトカラーは労組に入っていないのが普通。だからもちろん我々に声はない。すべてトップが決断するので、会社は独裁体制だ。それが新自由資本主義であり、民主主義とは相反する。ネオリベラルキャピタリズム下ではこんなことは日常茶飯事なのだ。つまりキャピタルがアメリカ社会のアルケーとなってしまっている。
アルケーはギリシャ語で「根源、原理、支配、政府、支配者」を意味する。だからアナーキストはan(無) + archy(政府)で「無政府主義者」だが、厳密に言えば「無原理主義者」である。キリスト教はロゴス(理性、言葉)がアルケーだとする。そしてロゴスは神である。しかしアナーキストはそのアルケーに反抗する。だから無神論的世俗運動もパンクロック運動も脱構築運動も反体制的なアナーキスト運動なのだ。
しかし労組が問題を解決するとは限らない。労組には常に悪いイメージが付きまとう。労組は基本的に組織なので腐ってしまう。政党と同じだ。アメリカでは過去にチームスターなどの労組がマフィアと結びついてラスベガスに投資し、幹部は贅沢三昧の生活を送っていたと言う。「オン・ザ・ウォーターフロント」という映画もいかに労組が腐敗していたかを通説に描いている。言うまでもなく労組も独裁政治だ。プロレタリアートの独裁の「独裁」はアウタルキーであり、「autos(自ら)+archy(支配)」である。結局はアルケーの奴隷になってしまう。そんなのはもううんざりだ。
できるなら人が個人として独立して生きて行ければいい。そう、自営業者や起業家のように。アルケーに従うことなく生きていく。それこそがアメリカンドリームである。
韓国では四月十四日がブラック・デーであり、ジャージャー麺を恋人のいない負け犬たちが食べるのだと言う。それが韓流で日本にも飛び火したそうだ。しかしここではプラックデーは一ヶ月早く来てしまったようである。
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