最近になって気付いたことですが、日本人はおつりをくれません。とてもケチな民族です。日系のレストランでそう思いました。
「おつりはいりませんね?」
ときかれて、
「はい」
と答えると、おつりが返ってこないのです。英語、またはスペイン語では、
「Don't you need change? ¿No necesitas cambio?」
となるのですが、それを肯定して
「Yes, Sí」
と答えると、おつりが返ってこない。私は、
「あの〜、おつりは?」
ときくと、
「ああ、失礼しました」
とあわてておつりを渡してきました。きっとチップの中に含めていると思ったのでしょうね。しかし、私はまずいと思った食べ物にはチップを払わない主義なので、ちゃんとおつりをもらいます。でも、「はい」と言ったのに、おつりを渡さないとは。私は、「はい、いります」と答えたのに。英語では、「Yes」ですからね。もし、おつりがいらなければ、「Noいいえ」と答えるわけです。
でも、考えてみたら、日本人はあまりNoとは言いませんね。とくに否定形質問に対して否定する時に「はい」といいます。それは、ちょっと特殊ですね。しかも否定形質問のときに、「はい」と答えると、断ったことになるのです。
「今日は暇じゃないんですね?」
「ええ」
そうなると、暇じゃないこととなってしまいます。これは、英語、スペイン語だと、暇であるということになるんですけどね。もしかしたら、外交でも、
「オレンジを輸入したくないんですよね?」
と米国通商代表団にきかれて、日本側は、
「はい」
と答えてしまったのでは。「はい」は「yes」ですから、米国側は、
「ああ、オレンジを輸入したいことを日本は肯定した」
となって、結果的にオレンジ・ダンピングになってしまったのでは。
そう、グローバルスタンダードでは、Noが否定の意志を表すのです。決して、「Yes」ではないのです。だから、石原慎太郎は『NOと言える日本』を書いたのでしょう。日本人は基本的に「Yes」しか言わないからです。
いやぁ、アニメを見ていても、いまだに「はい、結構です」という断り方をしてますね。本当は「いいえ、結構です」なんですけど。でも、最初から否定形質問をすれば、断る時も、相手を拒絶するのではなく、相手の言っていることに同意して、そして断ると言う、相手の提案を断るだけで、相手自体は否定してないわけですからね。それは、日本の「和」だと思います。
しかし、アメリカはとても合理主義的で論理的ですから、切り捨てごめんですね。冷たいです。Noが異常にきついです。成功するためには、友人、恋人さえも「No」と切り捨てて、上に上がっていくのですから。しかも、よりによってなにもかも上手く行かないときに、行き詰まった時に、人は離れていくのがアメリカですからね。エリック・クラプトンも、そう歌ってますよ。『Nobody knows you when you are down and out』ってブルースの曲で。だから、サウダージなんか感じたら、それこそ「あいつは負け犬だ」と思われてしまうのです。サウダージさえ許されない社会、それがネオリベラル社会です。アメリカ人がどうして薬物中毒になるか、それは、やはり成功へのプレッシャーでしょうね。私もアニメ中毒、アニメはネオリベラル先進国の阿片ですから、マルクスはキリスト教が阿片と言いましたけどね。それか、過食症になる、だから、アメリカの人口の60%以上は体重オーバーなんです。ストレスですよ。だから、私も虹コンとしてアニメに浸かるのです。
しかし、ラテンでは、それはまぁ緩いですからね。成功へのプレッシャーはアメリカほどではないです。だから、サウダージを感じてもいいんですよ。サウダージを歌うと、女性は「pobrecito(かわいそうな子)」と言って同情してくれますから。だから、『Chega de Saudade』という曲がブラジルでは成り立つのです。しかし、アメリカやイギリスのようなアングロサクソン型資本主義社会では、pobrecitoは、未成年だけしか許されませんからね。大人では無理です。で、女性は未成年の男にセクシャルな同情はできない、そんなことしたら女性は逮捕されてしまいます、『Notes on a Scandal(あるスキャンダルの覚え書き)』のように。ぎゃくにpobrecitoが女性の優しさを求めたらストーカーになりかねない。だから、チョ・スンヒのような最悪な結果に…。アメリカでは順調なときでしか、皮膚感覚がない、それは巨大なストレスとなり、だから殆どのアメリカ人はなんらかの精神安定剤を処方されているのです。アメリカが心理セラピーで最先端なのは、皮肉な結果なのです。そして、宗教心もやけに強いし。だから原理主義者が多いんですよ。
『Nobody knows you when you are down and out』と『Chega de Saudade』、これほどのアングロサクソンプロテスタント文化とラテンカトリック文化の違いを表す曲はないでしょうね。
しかし、最近の日本の女の子たちは、アメリカかぶれになってきましたね。
「今度の日曜、デートに行きませんか?」
と誘うと、
「いいえ、結構です」
ときっぱりと断られました。私は否定形疑問文できいたんですけどね。まさか「Noいいえ」とはっきり言われるとは…。アメリカン・スタンダードによるグローバリゼーションが古き良き日本の「以和為貴」を崩壊していくプロセスを肌身で感じる出来事でしたね。
そう、小泉純一郎のネオリベラル政策、アメリカナイゼーションによって、日本人の女の子はさらに冷たくなってしまったのです。そう、アメリカのアングロサクソン型資本主義の女性のように。負け犬は、皮膚感覚が完全に欠落してしまい、キモオタとなってしまうのです。だから、『永遠の未成年者集団』が出てきてしまうのです。なにせ、pobrecitoになるのを許されているのは、ネオリベラル社会では、未成年だけですから。だから、負け犬は自らを「未成年」と名乗るしかないのです。それを助長したのが、まさに小泉純一郎その人でした。その非情さ、冷酷さ、まさにネオリベラリズムです。
pobrecitoとして生きていけるのは、ラテン文化、とくに南米、ブラジルでしょうか?メキシコはラテンでも、NAFTAに加盟しちゃったから、ここんところ冷酷な人が増えてるというではありませんか。メキシコは北米になりたいそうですからね。北米のネオリベラルの非情さを真似したいのでしょうか?そうすることで、メキシコも先進国の仲間入りが出来ると思っているのでしょうか?だったら、メキシコのpobrecitosも行き場を失うでしょうね。そして、行き場を失った彼らは、引きこもりとなり、自ら「未成年者」を名乗り、アニメに非難することでしょう。そこで、アニメの需要が拡大し、日本のアニメ業界がメキシコの市場を開拓していくのです。私も自称16歳ですが、メキシコでもその内、20以下の人がたくさん出てきます、つまりメキシコは若返るのです、少なくとも心の面で。メキシコがNAFTAに加盟したのは、アニメ業界にとっては、儲け話ですし、棚から落ちたぼた餅のようなものです。
しかし、アメリカでも、NAFTAのおかげでpobrecitosが行き場を失っています。これをオバマは痛烈に批判してます。ヒラリーは、もともと夫とゴアと同じくNAFTAを擁護してましたが、今ではNAFTA批判にまわってます。しかし、これ以上のpobrecitosを出さないためにもデニス・クシニッチやラルフ・ネーダーは、NAFTAからの脱退を叫んでいるのです。巷ではネオリベラル政策の最悪な結果がNAFTAと言われているのですから。
そう、「ノーと言える日本人」は、pobrecitoに対してノーと言うことなのです。つまり、「日本人はネオリベラル的になれ!」ということなのです。そして「ノーと言える日本人」を体現した文化的英雄、カルチュラル・ヒーローが小泉純一郎だったのです。例を挙げれば切りがないですが、頑固なまでの靖国参拝も「ノーと言える日本人」を演出したものでした。彼は、偉大な演出家でもありました。あの郵政解散もそうでしたし、福祉削減、医療改革、特別減税廃止なども、すべてはノー、つまり弱肉強食の敗者は、ノーなのです。だから、pobrecitoは、女性の柔らかさ優しさを受けられない、皮膚感覚を享受できなくなってしまうのです。ネオリベラル社会では、女性は消費型競争社会のトロフィーとして振る舞いますから、pobrecitosは「ダメンズ」として、断固拒絶します。つまりpobrecitosにNOと言う日本人女性なのです。
ああ、やはりpobrecitoが救いを求めるとしたら、南米かなぁ。あそこは、聖女マリアも崇拝しているわけだし、プロテスタントのように、女性がまったく排除されているということもないですからね。女性の優しさ、ラテン女性との皮膚感覚。それがpobrecitosを救うことでしょう。
だが、日米のワーキングプアであるpobrecitos、彼らのサウダージはいずこ。
「おつりはいりませんね?」
ときかれて、
「はい」
と答えると、おつりが返ってこないのです。英語、またはスペイン語では、
「Don't you need change? ¿No necesitas cambio?」
となるのですが、それを肯定して
「Yes, Sí」
と答えると、おつりが返ってこない。私は、
「あの〜、おつりは?」
ときくと、
「ああ、失礼しました」
とあわてておつりを渡してきました。きっとチップの中に含めていると思ったのでしょうね。しかし、私はまずいと思った食べ物にはチップを払わない主義なので、ちゃんとおつりをもらいます。でも、「はい」と言ったのに、おつりを渡さないとは。私は、「はい、いります」と答えたのに。英語では、「Yes」ですからね。もし、おつりがいらなければ、「Noいいえ」と答えるわけです。
でも、考えてみたら、日本人はあまりNoとは言いませんね。とくに否定形質問に対して否定する時に「はい」といいます。それは、ちょっと特殊ですね。しかも否定形質問のときに、「はい」と答えると、断ったことになるのです。
「今日は暇じゃないんですね?」
「ええ」
そうなると、暇じゃないこととなってしまいます。これは、英語、スペイン語だと、暇であるということになるんですけどね。もしかしたら、外交でも、
「オレンジを輸入したくないんですよね?」
と米国通商代表団にきかれて、日本側は、
「はい」
と答えてしまったのでは。「はい」は「yes」ですから、米国側は、
「ああ、オレンジを輸入したいことを日本は肯定した」
となって、結果的にオレンジ・ダンピングになってしまったのでは。
そう、グローバルスタンダードでは、Noが否定の意志を表すのです。決して、「Yes」ではないのです。だから、石原慎太郎は『NOと言える日本』を書いたのでしょう。日本人は基本的に「Yes」しか言わないからです。
いやぁ、アニメを見ていても、いまだに「はい、結構です」という断り方をしてますね。本当は「いいえ、結構です」なんですけど。でも、最初から否定形質問をすれば、断る時も、相手を拒絶するのではなく、相手の言っていることに同意して、そして断ると言う、相手の提案を断るだけで、相手自体は否定してないわけですからね。それは、日本の「和」だと思います。
しかし、アメリカはとても合理主義的で論理的ですから、切り捨てごめんですね。冷たいです。Noが異常にきついです。成功するためには、友人、恋人さえも「No」と切り捨てて、上に上がっていくのですから。しかも、よりによってなにもかも上手く行かないときに、行き詰まった時に、人は離れていくのがアメリカですからね。エリック・クラプトンも、そう歌ってますよ。『Nobody knows you when you are down and out』ってブルースの曲で。だから、サウダージなんか感じたら、それこそ「あいつは負け犬だ」と思われてしまうのです。サウダージさえ許されない社会、それがネオリベラル社会です。アメリカ人がどうして薬物中毒になるか、それは、やはり成功へのプレッシャーでしょうね。私もアニメ中毒、アニメはネオリベラル先進国の阿片ですから、マルクスはキリスト教が阿片と言いましたけどね。それか、過食症になる、だから、アメリカの人口の60%以上は体重オーバーなんです。ストレスですよ。だから、私も虹コンとしてアニメに浸かるのです。
しかし、ラテンでは、それはまぁ緩いですからね。成功へのプレッシャーはアメリカほどではないです。だから、サウダージを感じてもいいんですよ。サウダージを歌うと、女性は「pobrecito(かわいそうな子)」と言って同情してくれますから。だから、『Chega de Saudade』という曲がブラジルでは成り立つのです。しかし、アメリカやイギリスのようなアングロサクソン型資本主義社会では、pobrecitoは、未成年だけしか許されませんからね。大人では無理です。で、女性は未成年の男にセクシャルな同情はできない、そんなことしたら女性は逮捕されてしまいます、『Notes on a Scandal(あるスキャンダルの覚え書き)』のように。ぎゃくにpobrecitoが女性の優しさを求めたらストーカーになりかねない。だから、チョ・スンヒのような最悪な結果に…。アメリカでは順調なときでしか、皮膚感覚がない、それは巨大なストレスとなり、だから殆どのアメリカ人はなんらかの精神安定剤を処方されているのです。アメリカが心理セラピーで最先端なのは、皮肉な結果なのです。そして、宗教心もやけに強いし。だから原理主義者が多いんですよ。
『Nobody knows you when you are down and out』と『Chega de Saudade』、これほどのアングロサクソンプロテスタント文化とラテンカトリック文化の違いを表す曲はないでしょうね。
しかし、最近の日本の女の子たちは、アメリカかぶれになってきましたね。
「今度の日曜、デートに行きませんか?」
と誘うと、
「いいえ、結構です」
ときっぱりと断られました。私は否定形疑問文できいたんですけどね。まさか「Noいいえ」とはっきり言われるとは…。アメリカン・スタンダードによるグローバリゼーションが古き良き日本の「以和為貴」を崩壊していくプロセスを肌身で感じる出来事でしたね。
そう、小泉純一郎のネオリベラル政策、アメリカナイゼーションによって、日本人の女の子はさらに冷たくなってしまったのです。そう、アメリカのアングロサクソン型資本主義の女性のように。負け犬は、皮膚感覚が完全に欠落してしまい、キモオタとなってしまうのです。だから、『永遠の未成年者集団』が出てきてしまうのです。なにせ、pobrecitoになるのを許されているのは、ネオリベラル社会では、未成年だけですから。だから、負け犬は自らを「未成年」と名乗るしかないのです。それを助長したのが、まさに小泉純一郎その人でした。その非情さ、冷酷さ、まさにネオリベラリズムです。
pobrecitoとして生きていけるのは、ラテン文化、とくに南米、ブラジルでしょうか?メキシコはラテンでも、NAFTAに加盟しちゃったから、ここんところ冷酷な人が増えてるというではありませんか。メキシコは北米になりたいそうですからね。北米のネオリベラルの非情さを真似したいのでしょうか?そうすることで、メキシコも先進国の仲間入りが出来ると思っているのでしょうか?だったら、メキシコのpobrecitosも行き場を失うでしょうね。そして、行き場を失った彼らは、引きこもりとなり、自ら「未成年者」を名乗り、アニメに非難することでしょう。そこで、アニメの需要が拡大し、日本のアニメ業界がメキシコの市場を開拓していくのです。私も自称16歳ですが、メキシコでもその内、20以下の人がたくさん出てきます、つまりメキシコは若返るのです、少なくとも心の面で。メキシコがNAFTAに加盟したのは、アニメ業界にとっては、儲け話ですし、棚から落ちたぼた餅のようなものです。
しかし、アメリカでも、NAFTAのおかげでpobrecitosが行き場を失っています。これをオバマは痛烈に批判してます。ヒラリーは、もともと夫とゴアと同じくNAFTAを擁護してましたが、今ではNAFTA批判にまわってます。しかし、これ以上のpobrecitosを出さないためにもデニス・クシニッチやラルフ・ネーダーは、NAFTAからの脱退を叫んでいるのです。巷ではネオリベラル政策の最悪な結果がNAFTAと言われているのですから。
そう、「ノーと言える日本人」は、pobrecitoに対してノーと言うことなのです。つまり、「日本人はネオリベラル的になれ!」ということなのです。そして「ノーと言える日本人」を体現した文化的英雄、カルチュラル・ヒーローが小泉純一郎だったのです。例を挙げれば切りがないですが、頑固なまでの靖国参拝も「ノーと言える日本人」を演出したものでした。彼は、偉大な演出家でもありました。あの郵政解散もそうでしたし、福祉削減、医療改革、特別減税廃止なども、すべてはノー、つまり弱肉強食の敗者は、ノーなのです。だから、pobrecitoは、女性の柔らかさ優しさを受けられない、皮膚感覚を享受できなくなってしまうのです。ネオリベラル社会では、女性は消費型競争社会のトロフィーとして振る舞いますから、pobrecitosは「ダメンズ」として、断固拒絶します。つまりpobrecitosにNOと言う日本人女性なのです。
ああ、やはりpobrecitoが救いを求めるとしたら、南米かなぁ。あそこは、聖女マリアも崇拝しているわけだし、プロテスタントのように、女性がまったく排除されているということもないですからね。女性の優しさ、ラテン女性との皮膚感覚。それがpobrecitosを救うことでしょう。
だが、日米のワーキングプアであるpobrecitos、彼らのサウダージはいずこ。
sheistyという、米国のサバーバン・スラングがあるが、その意味するところは、「せこい」ということだろうか。sheistyは、「シャイスティー」と発音する。
例を挙げれば、『School Days』のように、西園寺世界が、一回限りの性教育を伊藤誠に実施するのだが、しかし、誠は、
「今日も、お願い」
と頼むような行動のことである。そう、女にとっては、「one night stand(一回限りのセックス)」のはずで、「no strings attached」の条件で、男もそれを了承したにもかかわらず、後になって、男は、また「やってください」と女に頼むようなものである。図々しいにもほどがある。その、不遜な態度、または行動を、「sheisty」というのだ。そう、no stringsを、there are stringsにしてしまう契約破棄なのである。まあ、『Nothing In This World』の先生であれば、永遠に教育を受けたいと思うのは、当然か?特に、引きこもりがちなイジメられっ子のラブシャイや、インディゴ・チルドレンにとってみれば。あの『Nothing In This World』の引き蘢ってパリスを妄想する中学生も、絶対に、インディゴ・チャイルドだ。ガンダムのニュータイプの概念に近いものだろうか。アムロ・レイにとってみれば、マチルダ中尉や、クローリー・ハモンのような女性であろう。その女性らによって、アムロはニュータイプとして覚醒した。小泉も姉萌えでニュータイプとして覚醒した。よって、このいじめられっ子も、インディゴ・チャイルドとして、またニュータイプとして、パリス先生によって、覚醒されたのである。シッダールタもスジャータによって、また三人の美女によって覚醒し、菩提(ボーディー)に到達した。ボーディーとは「覚醒」という意味であり、ブッダは「覚者」という意味だ。いわゆる「目ざめた人」という意味である。だから、私も般若心経を唱えるのだ。
「ギャーテーギャーテー・パラサムギャーテー・ボーディー・ソワカ!」
と。「ボーディー・ソワカ」とは、「覚醒が成就するように」という意味だ。だから、私は、『Nothing In This World』を毎回見るたびに、般若心経を唱えるのだ。
閑話休題、または、レストランで、金が足りなかったから、友人の慈悲で奢ってもらったので、今回も、奢ってもらおうとするような、せこさであろう。つまり、人の一回限りの特別な慈悲心から助けてもらった好意に、まったく感謝せずに、それを当然のことをして振る舞う間違った態度なのである。だから、「sheisty guy」と言えば、「せこい男」という意味になるのである。もっと強烈な言い方をすれば、「sheisty motherfucker」か、ギャングスター的に言えば、「sheisty mofo」となるのである。そのような、的確な表現が、アメリカ英語にあるのだ。そのスラングを今回、紹介してみた。
例を挙げれば、『School Days』のように、西園寺世界が、一回限りの性教育を伊藤誠に実施するのだが、しかし、誠は、
「今日も、お願い」
と頼むような行動のことである。そう、女にとっては、「one night stand(一回限りのセックス)」のはずで、「no strings attached」の条件で、男もそれを了承したにもかかわらず、後になって、男は、また「やってください」と女に頼むようなものである。図々しいにもほどがある。その、不遜な態度、または行動を、「sheisty」というのだ。そう、no stringsを、there are stringsにしてしまう契約破棄なのである。まあ、『Nothing In This World』の先生であれば、永遠に教育を受けたいと思うのは、当然か?特に、引きこもりがちなイジメられっ子のラブシャイや、インディゴ・チルドレンにとってみれば。あの『Nothing In This World』の引き蘢ってパリスを妄想する中学生も、絶対に、インディゴ・チャイルドだ。ガンダムのニュータイプの概念に近いものだろうか。アムロ・レイにとってみれば、マチルダ中尉や、クローリー・ハモンのような女性であろう。その女性らによって、アムロはニュータイプとして覚醒した。小泉も姉萌えでニュータイプとして覚醒した。よって、このいじめられっ子も、インディゴ・チャイルドとして、またニュータイプとして、パリス先生によって、覚醒されたのである。シッダールタもスジャータによって、また三人の美女によって覚醒し、菩提(ボーディー)に到達した。ボーディーとは「覚醒」という意味であり、ブッダは「覚者」という意味だ。いわゆる「目ざめた人」という意味である。だから、私も般若心経を唱えるのだ。
「ギャーテーギャーテー・パラサムギャーテー・ボーディー・ソワカ!」
と。「ボーディー・ソワカ」とは、「覚醒が成就するように」という意味だ。だから、私は、『Nothing In This World』を毎回見るたびに、般若心経を唱えるのだ。
閑話休題、または、レストランで、金が足りなかったから、友人の慈悲で奢ってもらったので、今回も、奢ってもらおうとするような、せこさであろう。つまり、人の一回限りの特別な慈悲心から助けてもらった好意に、まったく感謝せずに、それを当然のことをして振る舞う間違った態度なのである。だから、「sheisty guy」と言えば、「せこい男」という意味になるのである。もっと強烈な言い方をすれば、「sheisty motherfucker」か、ギャングスター的に言えば、「sheisty mofo」となるのである。そのような、的確な表現が、アメリカ英語にあるのだ。そのスラングを今回、紹介してみた。
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