メイドブームは、最近の日本の秋葉でのブームだと思っていました。特にIT革命によってもたらされたブームだと思っていました。しかし、メイドブーム自体は、大正時代まで遡ることができるようです。メイド萌えアニメである『鋼鉄天使くるみ』も、大正時代が設定ですし、帝国陸軍の技術者である綾小路博士(CV:鈴置洋孝)は、メイドロボットを次々と開発していくのです。日本の都市部が大衆レベルで本格的にヨーロピアナイズしてきたのは大正時代で、レストランとかカフェとかが流行出しましたし、それに乗じてメイドも登場し、太宰治なども、メイドたん目当てにカフェに通っていたそうです。また、帝国海軍でも、メイド服フェチが多かったようです。だから、日本では、すでにメイドにコスプレ要素があったわけです。それは、やはり「輸入」された斬新で新鮮なものであり、その本質的な意味は後回しにされたためでしょう。ロリータにも同じことが言えますね。だからこそ、フランス哲学者のバルドは、日本を『表徴の帝国』と呼んだのではないでしょうか。記号が自由に浮遊する社会。記号が意味から解放されているのです。メイド服という記号は、本家のヨーロッパでは、女性の抑圧という意味があるのですが、日本では、その意味が希薄であり、逆に萌えの属性として全面的に出てきます。
しかし、メイド服を生み出した本家のヨーロッパでは、すでに19世紀にメイドブームは起こっていました。まさに、貴族政治が終わって、ブルジョア階級が台頭した時です。そして農村やプロレタリアートの娘は、貨幣を求めてメイドとなりました。だから、メイド人口が爆圧的に増えました。しかし、それは当時の女性にはもっぱらメイドしか、働き口がなかったという事情があるのでしょう。女性の役割というのは、社会でもメイド的だったのです。つまり、パートタイム妻のような、そう、「レンタル奥さん」のようなものだったのです。しかし、メイドには、労働基準法もなく、女性の人権も保護されていなかったので、それをいいことに、金持ちの家がメイドを雇って、時には主人がメイドたちに性的関係を迫ったようです。今では、雇用主が従業員に性的関係を迫るのはセクハラとなりますが、あの時は、それが公然と行われていたわけです。『花右京メイド隊』の花右京財閥の当主、花右京北斎がメイドとセックスして、そのメイドは、私生児を生んでしまいます。北斎は、戦前の人なので、「浮気は男の甲斐性」と言われた時代で育ったわけですから、そういう社会風潮のなかで、そういうことをやってしまったのでしょう。だから、フェミニストたちが、マルクス主義的なルサンチマンを抱えているのも理解できるのです。だから、欧米では、メイド服は、コスプレではなく、むしろ女性の抑圧のシンボルとして見られるのです。
そして、ドイツ史でもっとも有名なメイドは、マリア・アンナ・シックルグルーバーでしょう。彼女は、ロスチャイルド財閥の当主、ソロモン・マイヤー・ヴォン・ロスチャイルドの屋敷でメイドをしていました。その時に、彼女は妊娠しました。または、金持ちユダヤ系のレオポルド・フランケンベルガーの屋敷で、メイドをしていて、その期間に私生児を出産しました。だから、この二人の御主人様が、マリアの子どもの父親である可能性が高いのです。そして、その子は、アロイス・シックルグルーバーと名付けられました。
そして、アロイスは、39歳のときに名字を継父のヒュードラーという名字にあやかって「ヒトラー」と改称します。そして、アロイスは妻と死別し、家事をする人がいなくなったので、自分の姪であるクラーラという10代のメイドに家事を担当させます。まさに、「レンタル奥さん」ですね。そして、アロイスは、
「レンタルだろうと奥さんは奥さんなんだから、もちろんセックスもいいに決まってる!」
と、とうとう我慢できなくなって、親戚でありながら、クラーラと肉体関係を結んでしまいました。近親相姦です。また、アロイスは、本当なら違法の結婚を無理にして、レンタル奥さんをパーマネント奥さんにしてしまいました。それで、クラーラは御主人様である叔父との間に子どもが出来てしまい、そして、生まれた子どもが、アドルフです。それが、アドルフ・ヒットラー、あのユダヤ人600万人を虐殺した世界最悪の独裁者です。つまり、ヒトラーもヒトラーの父も、御主人様と関係を結んでしまったメイドから生まれたのです。よって、メイドは、女性搾取の記号であるとともに、ナチズムの母という面も、ヨーロッパの人々にとっては、あるのかもしれません。
よってメイドは、御主人様の性的搾取の対象にもなりうるということです。花右京太郎にも、お側御用隊のメイド三姉妹がいました。つまり、夜のサービス専用のメイドです。それは、まるでシッダールタを誘惑した三姉妹のラーガです。というか、花右京の屋敷は、太郎以外、すべて若い女性のメイドであり、そこは、まさにハーレム、妓女だけがいる離宮であり、あたかも天空の楽園だったのです。まさにシッダールタの皇太子時代を再現したような豪華絢爛なものでした。しかし、それは、女性が、性的にも搾取されていたという苛烈な事実ということを示すものです。つまり、メイドは、性奴隷としての意味合いも込められていたということです。
アメリカ南部の奴隷制度では、男はコットンを摘みましたが、女はメイドとなりました。そして、トマス・ジェファーソンは、自分のメイドに手を出していました。しかも人種間の結婚は犯罪だったので、御主人様の子どもを身ごもったら、その子は当然、私生児となりました。だから、アメリカでは、とくに黒人社会では、メイド服は忌み嫌われるのです。メイド服は黒人女性にとっては、白人主人による搾取と抑圧の象徴です。メイド服は、その黒人の虐げられてきた歴史を思い起こさせてしまうのです。それも、アメリカでは、メイドカフェが流行らない理由でしょう。人種問題にとてもセンシティブですからね。つまり、メイド服は、「politically correct」ではないのです。ヨーロッパでは、女性に対する抑圧の記号ですが、アメリカでは、さらに白人至上主義の抑圧の記号と見られてしまうのです。
だから、そういった意味で、宮崎駿は、熱烈なフェミニストなので、メイドブームに否定的なのでしょう。特に、手塚治虫に継ぐもっとも偉大なアニメ家である彼が、萌えに対して否定的だったという事実には、ショックを隠し切れません。心から尊敬していたのに…。しかし、萌え系のメイドは、性的搾取ではありません。いわゆるメイドブームの「メイド」は、家政婦的な属性から解放されています。バルドの言う意味から解放された記号の自由、そう、抑圧的役割を象徴する記号ではないのです。そう、史実のメイドではないのです。アニメにおいて、記号は自由になったのです。私たちは、現実のメイドは必要としていません。私の望むのはいわゆるコスプレメイドです。だから、私はフェミニズムの教義には反していないのです。私個人の望むメイドは、世話係というより、心身のボディーガード的な存在です。用心棒ですね。
はっきり言いますが、守ってもらいたいのは、なにも女だけに限ったことではありません。男も守ってもらいたいのです。しかし、今の国家資本主義社会におけるジェンダーの言説では、男は女を守ってあげるものという偏見があるので、そして、残念なことに、その腐敗した偏見に当の女性も順応してしまっているので、守ってもらいたいと願う男は「女々しい、弱っちい」として、そして最悪なのは、そんな男は「キモイ」として避けられてしまうことです。そんな偏見を取り払うことこそ、フェミニズムが取り組まなければならない課題ではないでしょうか!だから、私たちは、ネオリベラル式恋愛資本主義に冒された現実の女性ではなくて、アニメの世界において、自分を守ってくれるメイドたんたちに希望を託すのです。くるみちゃんが、陰陽道の落ちこぼれでいじめられっ子の仲人に、
「御主人様を守るです!」
と言った時は、どんなに救われたことか!彼は、陰陽師家の家督を継いだ兄に比べて、魔術の能力もないし、背も低いし、ハンサムでもないし、学園ではいじめられていたし、兄に対して劣等感を持っていたはずです。とくに、大正時代では、男尊女卑が色濃く反映されていたし、男限定の天皇を頂点とした儒教的な身分社会と年功序列が徹底していたので、長兄は、絶対的な存在でした。そして男は、明日の戦士として、今以上よりも強くあることが求められました。つまり「男としては失格」というレッテルを貼られ、そんなプレッシャーに彼は押し潰されそうになっていましたが、メイドロボットのくるみちゃんが、危機一髪で彼を救うのです。
私はメイドブームが到来する前に、学園でキモオタとして迫害されてきました。当然、くるみちゃんのように、私にキスしてくれる女の子は存在しませんでした。だから、異性との皮膚感覚が完全に欠落していました。その天使のような柔らかい唇の感触をどれほどまでに求めていただろうか!よって、私はひきこもりになりました。そして、メイドブームが到来する直前、私は「透明な自分」にとうとう耐えきれなくなり、日本を捨てて、渡米しました。もし、メイドブームがもっと早く起きていれば、渡米することはなかったでしょう。そして、メイドブームの最中に、小泉という変人が現れたのですから。ああ、メイドたんたち、アメリカにはメイド喫茶がないから残念。でも、アニメで、メイドたんたちに逢えますから…。まほろちゃん、くるみちゃん、コノヱちゃん、
私を守ってー!
しかし、メイド服を生み出した本家のヨーロッパでは、すでに19世紀にメイドブームは起こっていました。まさに、貴族政治が終わって、ブルジョア階級が台頭した時です。そして農村やプロレタリアートの娘は、貨幣を求めてメイドとなりました。だから、メイド人口が爆圧的に増えました。しかし、それは当時の女性にはもっぱらメイドしか、働き口がなかったという事情があるのでしょう。女性の役割というのは、社会でもメイド的だったのです。つまり、パートタイム妻のような、そう、「レンタル奥さん」のようなものだったのです。しかし、メイドには、労働基準法もなく、女性の人権も保護されていなかったので、それをいいことに、金持ちの家がメイドを雇って、時には主人がメイドたちに性的関係を迫ったようです。今では、雇用主が従業員に性的関係を迫るのはセクハラとなりますが、あの時は、それが公然と行われていたわけです。『花右京メイド隊』の花右京財閥の当主、花右京北斎がメイドとセックスして、そのメイドは、私生児を生んでしまいます。北斎は、戦前の人なので、「浮気は男の甲斐性」と言われた時代で育ったわけですから、そういう社会風潮のなかで、そういうことをやってしまったのでしょう。だから、フェミニストたちが、マルクス主義的なルサンチマンを抱えているのも理解できるのです。だから、欧米では、メイド服は、コスプレではなく、むしろ女性の抑圧のシンボルとして見られるのです。
そして、ドイツ史でもっとも有名なメイドは、マリア・アンナ・シックルグルーバーでしょう。彼女は、ロスチャイルド財閥の当主、ソロモン・マイヤー・ヴォン・ロスチャイルドの屋敷でメイドをしていました。その時に、彼女は妊娠しました。または、金持ちユダヤ系のレオポルド・フランケンベルガーの屋敷で、メイドをしていて、その期間に私生児を出産しました。だから、この二人の御主人様が、マリアの子どもの父親である可能性が高いのです。そして、その子は、アロイス・シックルグルーバーと名付けられました。
そして、アロイスは、39歳のときに名字を継父のヒュードラーという名字にあやかって「ヒトラー」と改称します。そして、アロイスは妻と死別し、家事をする人がいなくなったので、自分の姪であるクラーラという10代のメイドに家事を担当させます。まさに、「レンタル奥さん」ですね。そして、アロイスは、
「レンタルだろうと奥さんは奥さんなんだから、もちろんセックスもいいに決まってる!」
と、とうとう我慢できなくなって、親戚でありながら、クラーラと肉体関係を結んでしまいました。近親相姦です。また、アロイスは、本当なら違法の結婚を無理にして、レンタル奥さんをパーマネント奥さんにしてしまいました。それで、クラーラは御主人様である叔父との間に子どもが出来てしまい、そして、生まれた子どもが、アドルフです。それが、アドルフ・ヒットラー、あのユダヤ人600万人を虐殺した世界最悪の独裁者です。つまり、ヒトラーもヒトラーの父も、御主人様と関係を結んでしまったメイドから生まれたのです。よって、メイドは、女性搾取の記号であるとともに、ナチズムの母という面も、ヨーロッパの人々にとっては、あるのかもしれません。
よってメイドは、御主人様の性的搾取の対象にもなりうるということです。花右京太郎にも、お側御用隊のメイド三姉妹がいました。つまり、夜のサービス専用のメイドです。それは、まるでシッダールタを誘惑した三姉妹のラーガです。というか、花右京の屋敷は、太郎以外、すべて若い女性のメイドであり、そこは、まさにハーレム、妓女だけがいる離宮であり、あたかも天空の楽園だったのです。まさにシッダールタの皇太子時代を再現したような豪華絢爛なものでした。しかし、それは、女性が、性的にも搾取されていたという苛烈な事実ということを示すものです。つまり、メイドは、性奴隷としての意味合いも込められていたということです。
アメリカ南部の奴隷制度では、男はコットンを摘みましたが、女はメイドとなりました。そして、トマス・ジェファーソンは、自分のメイドに手を出していました。しかも人種間の結婚は犯罪だったので、御主人様の子どもを身ごもったら、その子は当然、私生児となりました。だから、アメリカでは、とくに黒人社会では、メイド服は忌み嫌われるのです。メイド服は黒人女性にとっては、白人主人による搾取と抑圧の象徴です。メイド服は、その黒人の虐げられてきた歴史を思い起こさせてしまうのです。それも、アメリカでは、メイドカフェが流行らない理由でしょう。人種問題にとてもセンシティブですからね。つまり、メイド服は、「politically correct」ではないのです。ヨーロッパでは、女性に対する抑圧の記号ですが、アメリカでは、さらに白人至上主義の抑圧の記号と見られてしまうのです。
だから、そういった意味で、宮崎駿は、熱烈なフェミニストなので、メイドブームに否定的なのでしょう。特に、手塚治虫に継ぐもっとも偉大なアニメ家である彼が、萌えに対して否定的だったという事実には、ショックを隠し切れません。心から尊敬していたのに…。しかし、萌え系のメイドは、性的搾取ではありません。いわゆるメイドブームの「メイド」は、家政婦的な属性から解放されています。バルドの言う意味から解放された記号の自由、そう、抑圧的役割を象徴する記号ではないのです。そう、史実のメイドではないのです。アニメにおいて、記号は自由になったのです。私たちは、現実のメイドは必要としていません。私の望むのはいわゆるコスプレメイドです。だから、私はフェミニズムの教義には反していないのです。私個人の望むメイドは、世話係というより、心身のボディーガード的な存在です。用心棒ですね。
はっきり言いますが、守ってもらいたいのは、なにも女だけに限ったことではありません。男も守ってもらいたいのです。しかし、今の国家資本主義社会におけるジェンダーの言説では、男は女を守ってあげるものという偏見があるので、そして、残念なことに、その腐敗した偏見に当の女性も順応してしまっているので、守ってもらいたいと願う男は「女々しい、弱っちい」として、そして最悪なのは、そんな男は「キモイ」として避けられてしまうことです。そんな偏見を取り払うことこそ、フェミニズムが取り組まなければならない課題ではないでしょうか!だから、私たちは、ネオリベラル式恋愛資本主義に冒された現実の女性ではなくて、アニメの世界において、自分を守ってくれるメイドたんたちに希望を託すのです。くるみちゃんが、陰陽道の落ちこぼれでいじめられっ子の仲人に、
「御主人様を守るです!」
と言った時は、どんなに救われたことか!彼は、陰陽師家の家督を継いだ兄に比べて、魔術の能力もないし、背も低いし、ハンサムでもないし、学園ではいじめられていたし、兄に対して劣等感を持っていたはずです。とくに、大正時代では、男尊女卑が色濃く反映されていたし、男限定の天皇を頂点とした儒教的な身分社会と年功序列が徹底していたので、長兄は、絶対的な存在でした。そして男は、明日の戦士として、今以上よりも強くあることが求められました。つまり「男としては失格」というレッテルを貼られ、そんなプレッシャーに彼は押し潰されそうになっていましたが、メイドロボットのくるみちゃんが、危機一髪で彼を救うのです。
私はメイドブームが到来する前に、学園でキモオタとして迫害されてきました。当然、くるみちゃんのように、私にキスしてくれる女の子は存在しませんでした。だから、異性との皮膚感覚が完全に欠落していました。その天使のような柔らかい唇の感触をどれほどまでに求めていただろうか!よって、私はひきこもりになりました。そして、メイドブームが到来する直前、私は「透明な自分」にとうとう耐えきれなくなり、日本を捨てて、渡米しました。もし、メイドブームがもっと早く起きていれば、渡米することはなかったでしょう。そして、メイドブームの最中に、小泉という変人が現れたのですから。ああ、メイドたんたち、アメリカにはメイド喫茶がないから残念。でも、アニメで、メイドたんたちに逢えますから…。まほろちゃん、くるみちゃん、コノヱちゃん、
私を守ってー!
ああ、カードキャプターと握手しちゃいました。あ・・あんなに嬉しいことは、ひ・・久しぶりなんだなぁ。けっこうかわいかったなぁあああ。ねぇっ、あんなハキハキと話すなんて、とても好印象じゃないですか?自分の携帯の番号、差し上げようと思ったくらい、いや、口座番号でもいい!でも、財産がないのが、バレちゃうから、駄目でしょうね。あぁあ、駄目だよ、どうせ。ああ、社会がマルクス的であったなら、財産なんて恋愛に関係ないんだけどなぁ。
それにしても、私は憤慨している。『School Days』を観て、とても憤慨している。それは、伊藤誠が、不特定多数の女性とやりまくっているからである。しかも、女の子が妊娠だなんて。また、伊藤は、コンドームの着用をまともにしていなかったことを認識していたのだが、それでも、責任を回避しようとした。中絶は選択しないのだろうか。というか、日本では法的には選択はできないのだろう。母子保護法では、なんの障害の兆候もない母体に危険を及ぼさない胎児をおろすのは、犯罪になる。それは、堕胎罪となる。しかし、それでも、日本では、だいたいのケースでは、おろしても大丈夫であるのが、また事実なのだが。しかし、日本では、中絶は、原則として犯罪なのである。アメリカのような、中絶は女性の選択の権利というフェミニスト的な認識は低いのである。そしてそんなアメリカでも、保守的な男尊女卑を正当化するようなキリスト教原理主義派閥が、中絶の権利を女性から剥奪しようとするのだ。しかし、日本では、母体の保護以外では、中絶は犯罪なのである。それを見ても、日本がいかに男尊女卑社会だということがわかる。産むも産まむも女性の選択だ。男性が決定することではない。本当に女性が自分一人で選択できるのは、やはりシングルマザーであることだろう。雲南省のナーシー族は、すべての女性がシングルマザーだ。決定権がすべて女性にある、政治、祭司、家事、教育、仕事、男性は、ただ一日中ぶらぶらと酒を飲んで麻雀をして、遊んでいるだけである。それこそが、女性社会である。そんな社会ならば、私は引き蘢っていても大丈夫だろう。他の男が酒とギャンブルをしているときに、私は部屋に閉じこもってアニメを観ていることだろうに。そして、女性のお呼びがあるときに相手をするという、そんな天国のような生活はない!
たしか、石原慎太郎の『太陽の季節』が出た1955年も、中絶がピークの年でもあった。その年の中絶件数は100万を突破したのだ。つまり、100万の女性が中絶をした、譬えるなら、東京の人口の約10分の1が、中絶をしたことに匹敵するのである。そして、その小説の中でも、女性が妊娠させられて、中絶手術を受けるというものがある。だから、『太陽の季節』は当時の社会状況を反映しているのである。
『School Days』の場合は、現代版の太陽の季節であるが、違いは、主人公の男がDQNではなく、男らしさを否定した、ニュータイプの男性ということである。そして、彼は、不特定多数の女性とセックスをする輩なのだ。だが、実際に現実ではそうなのであろうか。このアニメは現代の社会状況を反映しているのだろうか。
結論から言えば、そうである。まずは、高校生の性体験率であるが、女性のほうが上回っている。しかも、田舎のほうが、性体験率は高いという結果が出ている。それは、田舎でも、とくに東北地方が性体験率は高く、女子の性体験率は、二人に一人という結果が出ている。やはり、寒くては、体温、ぬくもりを求めて、抱き締め合うのだろうか。そして、男子の高校生の初性交率は、女子に比べると少ないというのだ。そんな不公平なことがあるだろうか!
それは、どういうことか。それは、男子のほうが、不特定多数の女子と性交しているということである。つまり、ハーレム気取りの好色一代男が沢山いるということだ。そして、それが、必ずしも、DQNということはなくなったということだ。だから、伊藤誠というキャラは、現在の男子高生そのままを代表しているようなものなのだ。
また、セックスの確率でも、携帯のメール派と、パソコンのメール派のどちらが高いか、というアンケートがあったが、それでも、メール派のほうが圧倒していた。つまり、携帯のほうが、はるかに性交率が高かったのである。詳しくはこちらの記事で。そして、このアニメの写真も、二人の可愛い女の子たちが携帯を持っている。携帯のメールで恋愛もすれば、セックスもする。そして、恋愛よりも、セックス三昧となった。つまり、携帯はセクシュアリティー解放への鍵なのである。そう、ゴア革命によって、インターネットが大衆化されて、そのおかげで、日本の高校生の性行動のパターンを完全に変えてしまったのである。つまり、人間の性生活を変えてしまった責任は、ゴアにあるのである。当のアメリカでは、パソコン派なため、セックスの体験率は減少傾向にある。これが、携帯によるIT革命であったならば、キリスト教原理主義はそこまで勢力を伸ばさなかったであろうに。アメリカは道を誤った。携帯によって革命を起こすべきだった。だから、私は、16歳のときに、学園で携帯によって、恋愛したかったのだ!携帯はセクシュアリティーを解放してくれたはずだったのに!ああ、失学園、ここまできて私を苦しめるのか!
携帯革命は日本の政治をも変えた。小泉が登場したときは、女の子たちが、携帯で写真をパチパチと撮っていたのが、とても印象的であった。ファシズムのヒトラーやムッソリーニの周りには、絶えずカメラマンたちが群がっていたが、それが、現在では、すべての携帯所持者がプロパガンダのマスコミとなったのであり、それが、日本の小泉ポピュリズムに貢献したのである。それを、友人に転送したり、ブログにアップロードすれば、ネット上で、政治ワイドショーとなるのだから。また、小泉は、写真に撮られやすそうな、写真を撮りたい人物であり、かつてのケネディーのようなフォトジェニックな人物であったことも、人気の要因の一つである。
だから、伊藤誠のような男は、携帯のメールによって、性交しまくり、好色一代男として、快楽の中に心酔していくという、まさにハーレム、出家する前のシッダールタのような贅沢三昧だ。
私はシッダールタが非常に憎い。あいつは、ゲロ以下だ!夏の雨期の離宮では、そこは妓女たちだけがエンターテーメントサービスをシッダールタ王子のためだけに行っていたと言う。つまり、現代でいえば、金持ちの権力者が、夏のヴァカンスにどっかの避暑地の別荘に行って、そこで絶世の美女たちとパーティーを開いて、ランチ騒ぎしているようなものである。それでいて、すべての贅沢をやり尽くして、出家して、今度は、
「女性への執着を捨てろ」
と説くのである。そんな不公平なことはない。
しかし、そのようなハーレムが未だに続いているのが、この男性至上主義社会である。なぜ、女性は、もっと多くの男性とセックスしないのだ。女子高生の初体験率が50%なのに、男子高生のは、30%台だなんて、そんなふざけたことがあるだろうか。それは、
「女は淫蕩であることは、良くない、倫理に反している」
という、男性至上主義の洗脳のためである。明治時代以前の農村の女性は、不特定多数の男とやっていた。そう、女性も好色であることが当たり前だったのである。だから、性体験率は、イコールだったことであろう。また、「助兵衛」という言葉は、男女両方ともにも適応されたのだ。
しかし、明治時代になって、それは、もっぱら男性だけのものとなった。それは、儒教にキリスト教倫理が付加されて、男尊女卑思想が徹底化されたためである。また戸籍制度による家制度も徹底された。それが、「貞子」という女性像を作り出してしまったのだ。だから、女性が好色であることは、下品と見なされるようになったのだ。そして、それが、現代の高校生にも、こうして受け継がれてしまっているのだ。だから、男性のセックス率は、女性に比べて少ないのである。もっと、女性も、積極的に、そして、どんどん男性に声をかければいいのではないか。それでこそ、男女平等というものだ。
伊藤のような不特定多数の女性とする男がいるのなら、女性にもいてもいいはずだ。そう、サマリア女のように。今度はサマリア女の時代だ。ジゴローの時代は終わりだ。『Sex and the city』のような、淫蕩な女性を、私は心から望む。そのためには、男尊女卑のキリスト教的清教徒倫理観を打破することである!セクシュアリティーの解放は女性解放、または同性愛解放へとつながる。
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まったく、ふざけやがって。私は『Zガンダム』を見て、愕然とした。なんと、私のフラウ・ボウが結婚して、しかも、名字が、「ボウ」から「コバヤシ」に変わっていたのだ。妊娠しているというのも、さらに追い討ちをかけて、私を徹底的に打ちのめしてくれた。聖母マリアの受胎告知としての原型は、彼女には不似合いだったのに。私は聖母マリアよりも、聖女マリアである16歳のロリータを彼女に求めていたというのに。これほどショッキングなことはなかった。まったく、ガンダムの原作者は、いったい何を考えているのだ。まさか、宇宙世紀に男性至上主義的な結婚形態が残っているとは。そんな馬鹿なことをする女性だとは思わなかった。男の名字を引き継ぐなんて。男の所有物になるという、maiden nameというものを作ってしまうのである。それは、あたかも女性だけのものであるように。だから、フラウ・ボウは決してNew Typeではないと思った。彼女は、旧態依然のOld Typeだったのである。実に保守的な女で、ハヤトも保守的な男だったのだ。まったく、馬鹿な男と結婚したものだ。しかし、ミライ・ヤシマはそのまま名字を残していたので、ミライもブライトはさすがだと思った。やはり、ジェントルマンは違う。
アメリカの女性は、どいつもこいつもOld Typeばかりだ。ヒラリーも、「クリントン」という名字を持っているので、Old Typeである。彼女は、決してニュータイプではない。よって、彼女がニュータイプであることを証明するためには、離婚して名字を戻すしかない。コンディー・ライス国務長官は完全にNewtypeであろう。なにしろ、IQは200以上といわれている。それに、彼女は独身だ。すばらしいことだ。シャアもアムロもライスも小泉も一人なのである。それこそ、本当の個人主義者だ。それに、米国では、腐った日本社会とは違って、夫婦は名字を選択できるという、つまり、夫婦が同姓でなくてもかまわないのである。しかし、そんな選択権が与えられているにもかかわらず、あろうことにも90%のアメリカ人女性既婚者は、夫の名字に変えているのである。40%ぐらいなら、まだわかるが、90%である。どうみても、異常としか思えない。夫の家族の名前にしてどうするつもりなのだ。それでは、男の家に嫁いでいるというものではないか。父親の名字にすべての家族員が合わせるなんて、そんな時代遅れなものはない。だから、ソーシャル・セキュリティーも、税申告でも、パスポートも、運転免許書も、選挙登録証明書も、すべて結婚のときに改めなければならない。つまり、身分証明書がすべて変わるのだ。そんなレッドテープな役所プロセスを、女性は皆通りたがるのだ。つまり、女性は、結婚することによってIDを変えるのである。まるで、CIAのスパイのように。しかし、それはもちろん、洗脳というものが大いに関係しているのだが、問題はもっと構造的のようなものに思われる。まあ、私は構造主義者でもなければ、ポストモダニストでもないが。私は、ヒキコモリズムを信奉するヒキコモリストである。
ところが、アメリカでは、夫婦別姓の選択があるのだが、妻が結婚申請書に夫の名前を書くだけで、名字を変更できるというのに、夫が妻の名前に変える時は、結婚申請書に欄がないのである。ということは、どういう手続きをとるか。カリフォルニア州の例を挙げれば、州の上級裁判所の官吏と一緒に請願書を提出せねばならず、それだけでも$375の料金を裁判所に払わなければならず、また、裁判の日の前まで、法的通告を発行して、新聞社を通して宣伝し、世論を味方につけねばならず、それだけでも、$400はかかり、また、出廷して、判事の最終判断を仰がなければならない。つまり、夫が名字をカリフォルニアで変えるとなると、煩瑣なレッドテープを経験するのである。一方、妻は、結婚申請書に夫の名字を書くだけで、受理されるというのに。それは、多くても80ドルぐらいしかかからないのに。あきらかに、性差別である。(詳しくはこちらの記事)だから、夫は名字を変えたくとも、構造的に女性に比べるととても煩瑣な手続きが必要であり、それも女性の方が圧倒的に夫の名字に変更する率を高くさせているのである。その構造に清教徒倫理的な男性至上主義のからくりがあるのである。
現在のロサンゼルス市長であるアントニオ・ヴァヤライゴサ(Villaraigosa)も、そのような手続きをとった。彼の元の名字はVillarであり、妻の名字はraigosaであった。そして、彼らが結婚したときに、お互いの名字を組み合わせてVillaraigosaにしたのである。そして、素晴らしいことは、我らの市長に、旧姓があることである。そう、maiden nameがあるのだ。つまり、男もmaidenなのである。というか、bachelor nameだろうか。まあ、maidは、中世イギリスでは、イエスのことを指していたし。中世英国の文豪チョーサーはそうイエスを呼んだ。つまり、maidとは、独身という意味なのである。世界でもっとも偉大な独身、それはキリストであった。そういう認識があったのだ。また、小泉は独身であった。だから、彼はメイドだったのだ。だから、メイド喫茶は、素晴らしいのだ。ニュータイプのための喫茶なのである。ロス市長の場合は、夫婦そろってmaiden nameがあるのだ。「あたし名前かわったから」という女の自慢が、こんどは男の自慢にもなるという時代がきたのである。しかし、ロス市長であろうとも、お互いの名字を組み合わせるのには、夫が名字を変えるのとおなじ煩瑣な手続きが必要だった。
だが、州法案AB102が、その性差別を解消してくれるだろう。この法案は、フィオナ・マー法案といってもいいであろう。なぜなら、結婚申請書に、夫が妻の名字を記入することができるようになるからだ。そして、夫と妻のお互いの名字を組み合わせて新しい名字を作ることも、結婚申請書上でできるようになるのだ。カリフォルニアの下院議会で、その法案は可決した。あとは、上院議会の採決を待つだけである。そして、上院議会で法案が通過すれば、最後はシュワルツネッガー知事の署名で、性差別がなくなるのである。
あとは、ドメスチック・パートナー制度でも、名字の変更が可能になるということである。以前は、同性愛カップルがドメスチック・パートナーになって、名字を変更することができたが、最近、DMV(運転免許書発行所)の独断で、その手続きを拒否する事件が起きた。DMVは、新しい名字で運転免許書を発行するのを拒否したのである。つまり、一官僚組織が、名前の変更を採決するということが起きてしまったのだ。(詳しくはこちらの記事)だから、この法案を通すことが必要なのである。
現在のアメリカでは、たった6州しか、夫が結婚申請書で名字を変えることができない。つまり、夫の妻との同等の権利は、アメリカではたった6州なのである。ハワイ、ニューヨーク、マサチューセッツ、ジョージア、アイオワ、ノース・ダコタ、ルイジアナだけである。残念ながら、もっともリベラルな州のカリフォルニアが入っていないのが、非常に残念だ。もし、AB102が通過すれば、カリフォルニアは名字変更において、男女同権の七番めの州となるであろう。そうなることを心から願う。
ガンダムでも、夫の名字に変える妻があまりにも多すぎた。それが、私には、ガンダムの限界に思えた。宇宙世紀でも、セクシズムが蔓延していたのである。私は、宇宙世紀には、結婚は廃止されているだろうと思っていた。結婚というふざけた宗教倫理がまとわりつく守旧の制度から、完全にドメスチック・パートナー制度に移行するのではないか、と思ったのである。結婚とはOld Typeのものであり、ドメスチック・パートナー制度はNewtypeのものである。今後は、結婚が廃止されることを望むだけである。社会の最小単位は家族だという18世紀からの国家主義はもう消滅するべきだろう。結婚は20世紀後半まで民族主義を反映していたし、今でも宗教を反映している。完全な世俗化は、結婚を廃止し、個人を尊重する。今までは、社会が個人を優先してきた。大切なのは個人よりも家族であった。それが、イデオロギーであり、結婚制度は教会から国家の一望監視システムに移り、個人は国家の統制を受けた。しかし、これからは、個人が社会を先行する。個人を守ることが、軍人の仕事となるであろう。小泉というニュータイプの独身が首相になったのだし、ファーストレディーのような、君主制の家族制度を臭わせるような旧態制度の悪臭はなかった。だから、清貧だったのである。クロニー・キャピタリズムから、脱却した存在だったのだ。日本の「家」を根底から覆すような指導者だったのだ。
しかし、女性が男の名字をとるという腐った伝統がガンダムの時代にもみられたのいうのは、残念で仕方ない。宇宙世紀には、そんなくだらないものは、とっくに消滅していたと思っていたのに。フラウ・ボウには絶望した。ハヤトにも絶望した。彼は、やはりOldtypeだったのである。まあ、ハヤトは、モテないキャラとして、自分を見ているようで嫌だったが、それでも、彼の結婚観には、絶望させられた。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。私はハヤトに対して、尊敬を失った。私も、好きだった女性が次々と結婚し、妊娠して子どもを産んでいくのには、とても切ない気持ちになった。だから、日本には帰れない。私の思春期時代の女性たちが、妻となり母親になっているんじゃないかと思うと、夜も眠れない。だから、年を取りたくない。それに大学の親友たちも次々と結婚し、母親、または父親となった。私の最も近かったオクラホマの友人も、テキサスに移り住んで、そこで婚約を発表した。彼は、もともとは結婚廃止論を唱えるリバータリアン党員であったが、結婚してから、民主党員となってしまった。民主党も共和党も結婚保護法を支持している政党だったからである。つまり、同性愛結婚を認めない政党の党員になってしまったのである。その周りの人間の変わりようには、私をひどく不安にさせた。若さが失われていくからである。だから、それも原因で、私はオクラホマから逃亡した。カリフォルニアはアメリカで、最も恋愛に自由が与えられている土地と聞いていたので、私はロサンゼルスに引っ越したのである。なにせ、ロングビーチはガルマ大佐の殉死の地である。恋のために殉死したという、疾風怒濤の精神を、ロングビーチは祭り立てているのである。だから、そこは聖地のはずであった。しかし、宇宙世紀が来るまでは、ロングビーチは、ただの軍産複合体の町であり、またパリス・ヒルトンが、『Nothing In This World』を撮影した高校があるというだけである。また、ロッキード事件ともかかわった町でもある。よって、現実は、違った。だから、私は、フランスか、カナダに行こうと思う。サンフランシスコもいいであろう。フランスでは、ニュータイプがぞくぞくと出現している。「アニメオタク」というニュータイプが!
しかし、名字をなくせば、すべては解決されるであろう。つまり、公的に名字は認知されないようにするのである。名字があるから、夫婦別姓の問題が出てくる。だったら、名字をなくしてしまえば、このような問題はない。それこそ、シッダールタの縁起説による解決法である。日本でも、明治維新までは、庶民の間では、そんな問題はなかった。公的には一つの名前だけでよかったのである。インドネシアのようにパスポートに名前一つで充分にすればいいのだ。だから、インドネシア人がアメリカに入国するとき、かならず関税でひっかかるのである。つまり、アメリカは名字を強制する社会なのである。だから、彼らがアメリカの市民権を取る時、名前と名字が同じであることが多いのだ。アメリカのパストートには、「スカルノ・スカルノ」となるのだ。ロミオとジュリエットは、名字に縛られていたために悲劇の死をとげた。だからこそ、彼らは、名字を捨てたがっていた。つまり、名字を捨てるということは、「家」を捨てるということである。それこそ、本当の個人となれるのである。名字は個人主義とは相反するのだ。だから、私は名字を捨てよう。そして名前も私なりに替えよう。どうして私が自分の名前を決定できないのだろうか。私のことは私が決定するのだ。だから16歳になれば、自分で名前を決める制度にすればいいのだ。それか、選挙権が出てくる18歳で幼名を捨て、個人としての名前をつければいいのではないのだろうか。そう、クワトロ大尉のように、名前を変えられるのであれば、それに越したことはない。だからこそ、彼は、ニュータイプだったのである。
ところが、アメリカでは、夫婦別姓の選択があるのだが、妻が結婚申請書に夫の名前を書くだけで、名字を変更できるというのに、夫が妻の名前に変える時は、結婚申請書に欄がないのである。ということは、どういう手続きをとるか。カリフォルニア州の例を挙げれば、州の上級裁判所の官吏と一緒に請願書を提出せねばならず、それだけでも$375の料金を裁判所に払わなければならず、また、裁判の日の前まで、法的通告を発行して、新聞社を通して宣伝し、世論を味方につけねばならず、それだけでも、$400はかかり、また、出廷して、判事の最終判断を仰がなければならない。つまり、夫が名字をカリフォルニアで変えるとなると、煩瑣なレッドテープを経験するのである。一方、妻は、結婚申請書に夫の名字を書くだけで、受理されるというのに。それは、多くても80ドルぐらいしかかからないのに。あきらかに、性差別である。(詳しくはこちらの記事)だから、夫は名字を変えたくとも、構造的に女性に比べるととても煩瑣な手続きが必要であり、それも女性の方が圧倒的に夫の名字に変更する率を高くさせているのである。その構造に清教徒倫理的な男性至上主義のからくりがあるのである。
現在のロサンゼルス市長であるアントニオ・ヴァヤライゴサ(Villaraigosa)も、そのような手続きをとった。彼の元の名字はVillarであり、妻の名字はraigosaであった。そして、彼らが結婚したときに、お互いの名字を組み合わせてVillaraigosaにしたのである。そして、素晴らしいことは、我らの市長に、旧姓があることである。そう、maiden nameがあるのだ。つまり、男もmaidenなのである。というか、bachelor nameだろうか。まあ、maidは、中世イギリスでは、イエスのことを指していたし。中世英国の文豪チョーサーはそうイエスを呼んだ。つまり、maidとは、独身という意味なのである。世界でもっとも偉大な独身、それはキリストであった。そういう認識があったのだ。また、小泉は独身であった。だから、彼はメイドだったのだ。だから、メイド喫茶は、素晴らしいのだ。ニュータイプのための喫茶なのである。ロス市長の場合は、夫婦そろってmaiden nameがあるのだ。「あたし名前かわったから」という女の自慢が、こんどは男の自慢にもなるという時代がきたのである。しかし、ロス市長であろうとも、お互いの名字を組み合わせるのには、夫が名字を変えるのとおなじ煩瑣な手続きが必要だった。
だが、州法案AB102が、その性差別を解消してくれるだろう。この法案は、フィオナ・マー法案といってもいいであろう。なぜなら、結婚申請書に、夫が妻の名字を記入することができるようになるからだ。そして、夫と妻のお互いの名字を組み合わせて新しい名字を作ることも、結婚申請書上でできるようになるのだ。カリフォルニアの下院議会で、その法案は可決した。あとは、上院議会の採決を待つだけである。そして、上院議会で法案が通過すれば、最後はシュワルツネッガー知事の署名で、性差別がなくなるのである。
あとは、ドメスチック・パートナー制度でも、名字の変更が可能になるということである。以前は、同性愛カップルがドメスチック・パートナーになって、名字を変更することができたが、最近、DMV(運転免許書発行所)の独断で、その手続きを拒否する事件が起きた。DMVは、新しい名字で運転免許書を発行するのを拒否したのである。つまり、一官僚組織が、名前の変更を採決するということが起きてしまったのだ。(詳しくはこちらの記事)だから、この法案を通すことが必要なのである。
現在のアメリカでは、たった6州しか、夫が結婚申請書で名字を変えることができない。つまり、夫の妻との同等の権利は、アメリカではたった6州なのである。ハワイ、ニューヨーク、マサチューセッツ、ジョージア、アイオワ、ノース・ダコタ、ルイジアナだけである。残念ながら、もっともリベラルな州のカリフォルニアが入っていないのが、非常に残念だ。もし、AB102が通過すれば、カリフォルニアは名字変更において、男女同権の七番めの州となるであろう。そうなることを心から願う。
ガンダムでも、夫の名字に変える妻があまりにも多すぎた。それが、私には、ガンダムの限界に思えた。宇宙世紀でも、セクシズムが蔓延していたのである。私は、宇宙世紀には、結婚は廃止されているだろうと思っていた。結婚というふざけた宗教倫理がまとわりつく守旧の制度から、完全にドメスチック・パートナー制度に移行するのではないか、と思ったのである。結婚とはOld Typeのものであり、ドメスチック・パートナー制度はNewtypeのものである。今後は、結婚が廃止されることを望むだけである。社会の最小単位は家族だという18世紀からの国家主義はもう消滅するべきだろう。結婚は20世紀後半まで民族主義を反映していたし、今でも宗教を反映している。完全な世俗化は、結婚を廃止し、個人を尊重する。今までは、社会が個人を優先してきた。大切なのは個人よりも家族であった。それが、イデオロギーであり、結婚制度は教会から国家の一望監視システムに移り、個人は国家の統制を受けた。しかし、これからは、個人が社会を先行する。個人を守ることが、軍人の仕事となるであろう。小泉というニュータイプの独身が首相になったのだし、ファーストレディーのような、君主制の家族制度を臭わせるような旧態制度の悪臭はなかった。だから、清貧だったのである。クロニー・キャピタリズムから、脱却した存在だったのだ。日本の「家」を根底から覆すような指導者だったのだ。
しかし、女性が男の名字をとるという腐った伝統がガンダムの時代にもみられたのいうのは、残念で仕方ない。宇宙世紀には、そんなくだらないものは、とっくに消滅していたと思っていたのに。フラウ・ボウには絶望した。ハヤトにも絶望した。彼は、やはりOldtypeだったのである。まあ、ハヤトは、モテないキャラとして、自分を見ているようで嫌だったが、それでも、彼の結婚観には、絶望させられた。フラウ・ボウも地に落ちたものだ。私はハヤトに対して、尊敬を失った。私も、好きだった女性が次々と結婚し、妊娠して子どもを産んでいくのには、とても切ない気持ちになった。だから、日本には帰れない。私の思春期時代の女性たちが、妻となり母親になっているんじゃないかと思うと、夜も眠れない。だから、年を取りたくない。それに大学の親友たちも次々と結婚し、母親、または父親となった。私の最も近かったオクラホマの友人も、テキサスに移り住んで、そこで婚約を発表した。彼は、もともとは結婚廃止論を唱えるリバータリアン党員であったが、結婚してから、民主党員となってしまった。民主党も共和党も結婚保護法を支持している政党だったからである。つまり、同性愛結婚を認めない政党の党員になってしまったのである。その周りの人間の変わりようには、私をひどく不安にさせた。若さが失われていくからである。だから、それも原因で、私はオクラホマから逃亡した。カリフォルニアはアメリカで、最も恋愛に自由が与えられている土地と聞いていたので、私はロサンゼルスに引っ越したのである。なにせ、ロングビーチはガルマ大佐の殉死の地である。恋のために殉死したという、疾風怒濤の精神を、ロングビーチは祭り立てているのである。だから、そこは聖地のはずであった。しかし、宇宙世紀が来るまでは、ロングビーチは、ただの軍産複合体の町であり、またパリス・ヒルトンが、『Nothing In This World』を撮影した高校があるというだけである。また、ロッキード事件ともかかわった町でもある。よって、現実は、違った。だから、私は、フランスか、カナダに行こうと思う。サンフランシスコもいいであろう。フランスでは、ニュータイプがぞくぞくと出現している。「アニメオタク」というニュータイプが!
しかし、名字をなくせば、すべては解決されるであろう。つまり、公的に名字は認知されないようにするのである。名字があるから、夫婦別姓の問題が出てくる。だったら、名字をなくしてしまえば、このような問題はない。それこそ、シッダールタの縁起説による解決法である。日本でも、明治維新までは、庶民の間では、そんな問題はなかった。公的には一つの名前だけでよかったのである。インドネシアのようにパスポートに名前一つで充分にすればいいのだ。だから、インドネシア人がアメリカに入国するとき、かならず関税でひっかかるのである。つまり、アメリカは名字を強制する社会なのである。だから、彼らがアメリカの市民権を取る時、名前と名字が同じであることが多いのだ。アメリカのパストートには、「スカルノ・スカルノ」となるのだ。ロミオとジュリエットは、名字に縛られていたために悲劇の死をとげた。だからこそ、彼らは、名字を捨てたがっていた。つまり、名字を捨てるということは、「家」を捨てるということである。それこそ、本当の個人となれるのである。名字は個人主義とは相反するのだ。だから、私は名字を捨てよう。そして名前も私なりに替えよう。どうして私が自分の名前を決定できないのだろうか。私のことは私が決定するのだ。だから16歳になれば、自分で名前を決める制度にすればいいのだ。それか、選挙権が出てくる18歳で幼名を捨て、個人としての名前をつければいいのではないのだろうか。そう、クワトロ大尉のように、名前を変えられるのであれば、それに越したことはない。だからこそ、彼は、ニュータイプだったのである。
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たしか映画化もされたと思うが、例のアンディー・ウォーホールの殺害未遂事件で逮捕されたヴァレリー・ソラナスの『SCUM Manifesto』というものがあるが、それはあまりにも強烈で、自分のペニスがなくなってしまったのではないかというほど、股間を確かめなければならなかったほどである。というか、自分の股間のでこぼこが原罪のように感じてしまった。シャワーを浴びるために裸になるが、鏡を見ることさえ、気がめいってしまう。SCUMとはSociety for Cutting Up Menの略で、「野郎どもを八つ裂きにする会」と訳したらよいだろうか。その文章を抜粋しよう。
男は人間以下の動物か。だから彼女は我々の人権を完全に無視したのだろう。だからアンディーを男代表として狙撃したのだろう。しかし、我々だって人間の女から生まれてきたんだから・・・、一応は人間だ。基本的人権はあるはずだ。女だって男の精子がなければ生まれてこなかったんだし。まあ、それも彼女に言わせれば、精子は必要悪なんだろうけどね。精子バンクでどうにかなると言っているし。でも、それでも男の野獣的な面は否定できない。私も小さい頃から男だけにはなりたくなかった。男になってしまった私は常に負い目を感じてきた。野獣になってしまったのだから、暴力性に富んだ。まさに牛頭馬頭、魑魅魍魎のごとく。まるで象がマスト状態に陥ったように。だからお姉さんたちは私とスキンシップを取らなくなってしまったんだ。つまり、男になった私を彼女たちは拒絶したのである。私は他の男の子と比べて女の子ぽかったから、特別にお姉さんたちに可愛がられていたのだ。それが私の自負でもあった。
「女の子みたーい
」
と後ろからハッグされたり、それでお姉さんの柔らかい胸を背中いっぱいに感じて、とても幸福な気持ちになったりしたのだが。しかし、思春期になって体中が毛モジャラになり、女らしさが跡形もなく消滅すると、彼女たちは私の前から去ってしまった。だったら、そのスキンシップを回復するにはどうしたらいいのか。『生きがいシリーズ』の飯田さんも言っているように、女になるしかないのではないのか。
そうか、すべては、このYがいけなかったんだ!それはとてつもない啓蒙だったねぇ。Yって、一本棒が欠けているから、私たちはこのようにマストの象のように獰猛になってしまったのか。私が常に情緒が不安定で女性のスキンシップを絶えず求めているのも、わかるような気がする。彼女のなんの根拠もない優生学も、スゴく説得力があるのがとても不思議なくらい。そういえば道教でも陰陽の陰のエネルギーは無限大だけど、陽のエネルギーは絶えず陰にアクセスしていないと、衰えて滅びてしまうというし。道教なんてXYの染色体が発見される前のことなのに、よくそんなことを発見したものだ。すごいね。また西アメリカ文化でもタカラガイで三つ組み合わせると男を表し、四つ組み合わせると女を象徴するというから、きっとそれは染色体を表しているのだろう。バリメケ族の象マスクにも、そのデザインが施されている。まあ、地元の村人は「三つのタカラガイは男性器を表し、四つのタカラガイは女性器を表している」と言っているが、どうみても染色体の知識があったとしか思えない。しかし、顕微鏡が発見される前に、どうやってそれを発見したかが謎であるが。やはりそれは太古の智慧というものか。それは超古代文明を示唆するものなのだろうか。そのいにしえの知識が西アフリカに受け継がれてきたということなのか。しかし、こうしてみると男は女の一本が欠落しているので男というのは、普遍的な事実なのだろう。この一本棒が欠落しているために、自滅的になるしかなかったんだ。ようやくわかったよ。だって男ってなんか自殺っぽいというか、自暴自棄になりやすくて破滅的だから。自縛テロのテロリストたちも圧倒的に男だし。私にはちゃんとXもあるんだけど、やはりYという一本欠けた染色体があるんじゃ、どうあがいても無理か・・・。
唯一の救いと言えるのは、私の女性的な部分であるミトコンドリアぐらいだからね。たとえ私生児であったイエスもミトコンドリアでユダヤ人になったわけだし。聖母マリアのミトコンドリアで。だって、ユダヤ社会って母系だから、母親がユダヤ人じゃないと子どもはユダヤ人になれないわけだし。つまりミトコンドリアがユダヤであるならユダヤ人なのだ。だから、たとえユダヤ男が全滅しようとも、ユダヤ民族は滅びることはないのである。小泉の皇室典範改正が頓挫したために、皇室の男が全滅して女だけが生き残ったら、ユダヤ民族とは逆で天皇家は滅びてしまうのだが。だからアマテラスのミトコンドリアはだれも引き継いでいないのである。なにせ男のミトコンドリアは世代に絶対につなげられない。そこで、もう救われないのである。自分の中の女性要素は伝わらないのだから。だって生殖したら自分のミトコンドリアは完全に女性に殺されちゃうんだから。男の中の女の性質というのは、どうあがいても滅びてしまうということではないか。だから男絶滅計画などたてなくても、男は一代で滅びてしまうのだから、放っておいても毎日滅んでいるのである。わざわざ故意に滅ぼす必要はないのだ。ああ、やっぱり男は不完全だなぁ。だから『マリア様がみてる』のようなレズビアンがもっとも完成した恋愛なのかぁ。ヴァレリーもレズビアンだったからね。
それに女はマルティタスクな人が多いし、私など、一つのことに集中しなければ何も進まないというのに。口が動けば手が止むというように、運転中に助手席の女の子と会話していたら、事故りそうになったこともあったし、同時に二つのことをやるのは至難の業だ。だから私はカープールの時は女の子に運転してもらうのだ。そのほうがより安全だから。それに仕事でも、会話すると、仕事がおろそかになるし。それで、「まじめにやらんか」と上司に怒られたが、女の子の同僚は会話していても、仕事がちゃんと終わっていて、ノルマが達成されているのである。一体どうやってそんなことができるのか、とても不思議である。やはり、女性の多くは生まれもってビジネスのセンスがあるということか。でも、そんな才能がありながら、よく女はビジネスに長いこと参加していなかったなんて、それもそれで不思議だが。ここ最近だからね、女性のCEOが世に登場してきたのも。やはり男権至上主義が長く続いたせいであろう。もちろん、マルティタスクな男にも幾人か会ったことがあるが、その人たちはもちろん仕事ができる人間で会社にとっては大きな資産だが、マルティタスクは圧倒的に女の方に多いので、それは「女性的」になるのだろうか。まあ、最終的には性別ではなくて、個人の能力なのだが。
まあ、ヴァレリー自身が、父親から性的虐待を受けて、そのトラウマから男を憎むようになり、いつかすべての男を地上から抹殺しようと思うようになったのだろう。たぶん我々をガス室に送り込むつもりだったのだろう。とにかく現実の男に強い生理的嫌悪を持ってしまったのだ。学生時代は極貧で、売春までして生活をサポートしていたそうであるから。その経験も男に対する憎悪をさらに増大させ、自分の中のモンスターを築き上げていったのだろう。そう、シャーリース・セロン主演の『モンスター』のように。親の虐待は子どもをモンスターにさせ、それらの親はまさにフランケンシュタイン博士のようなマッドサイエンティストなのである。萌えの哲学で有名な『電波男』の本田透も子どもの頃、母親から性的虐待を受けて、そのトラウマのせいで、現実の女性に心開くことなく、アニメのキャラに萌えー!となるのが救いというのだから。しかし本田透はアニメによって狂人にならずに済んだ。ヴァレリーも本田透のようにアニメに出会っていたら、あそこまで狂気にならなかったのかもしれない。殺人鬼にはなっていなかったのではなかろうか。しかし、もとはと言えば、いやすべての元凶は父親だ。彼女の狂気の原因はまさに父親の虐待なのだから。娘を虐待した罪はあまりにも大きい。彼は裁かれたのだろうか。裁かれないで死んだんじゃ、それほど不公平で不条理なことはない。「天網恢々疎にして洩らさず」ということばが嘘になってしまうではないか。まあ、とにかくドメスチックヴァイオレンスは悲劇を繰り返してしまう。その苦しみの原因を取り除くには、この家庭内暴力と虐待を断つことであろう。そうしなければ、彼女のような殺人鬼が出てきてしまうのである。子どもの頃に病んでしまうと、大人になればアダルト・チャイルドとなってしまうのだから。やはり問題はそこにあるのではなかろうか。
まあ、私はアダルト・ティーネージャーなので、ヴェラリーの苦しみとは違うが。しかし、女に憧れているというのは、ヴェラリーの言う通りだと思う。飯田さんだって、子どもの頃から女の子に憧れて、女の子に生まれたかったと言っているんだし。しかし、今のままじゃ遺伝子工学は発達していないからYをXに変えることは無理だし。完全な女性になることはできない。ということは、大佛はずむ君のようには絶対なれないということか、今のままでは。彼のようにUFOに性転換をやってもらえないだろうね。UFOも冷戦時の核戦争に恐怖したアメリカ人の空想の世界の産物みたいだし、ユング博士によれば。だから遺伝子工学が発達するのはいつになることやら・・・。でも、とてもじゃないけど待っていられない。だったらもう女装するしかないね。瑞穂ちゃんのように。「これで許して」という感じで。だれに許しを請うんだと突っ込まれるかもしれないが、まあ、私自身であろう。かーかかっかかー!
では、私の尊敬する飯田さんのことばを以て、この記事を閉じよう。
参考文献:
飯田史彦 三砂ちづる『生きがいの女性論』PHP研究所、2006年




The male is a biological accident: the Y (male) gene is an incomplete X (female) gene, that is, it has an incomplete set of chromosomes. In other words, the male is an incomplete female, a walking abortion, aborted at the gene stage. To be male is to be deficient, emotionally limited; maleness is a deficiency disease and males are emotional cripples.そして、彼女は男絶滅計画を練り出してくる。それでアンディーをピストルで襲撃したのである。つまり、60年代にもっともアメリカのサブカルチャーに文化的影響を与えたアメリカ人の男であるアンディーを殺して、象徴的に男抹殺計画を実行に移したのである。アンディーは別に女性の敵というようなことはなかったのに、ヴァレリーにとっては、すべての男は抹殺の対象だったのだろう。まあ、それは狂気であり、彼女の行動は社会から制裁されなければならないが、彼女の主張たるものは、とても力強い。ここまで言われてしまったらもうお手上げだ。否定するつもりはない。
男は生物学的なアクシデントだ:Y(男)遺伝子は不完全なX(女)遺伝子、つまりそれは、不完全な染色体のセットを持っているのである。言い換えれば、男は不完全な女であり、歩く人工中絶であり、遺伝子段階で中絶されたのである。男になることは欠陥することであり、情緒的に欠落しており、男の性質は欠陥病であり、男たちは情緒障害者なのである。
Every male's deep-seated, secret, most hideous fear is of being discovered to be not a female, but a male, a subhuman animal.
すべての男の根深い、秘密の、最も醜悪な恐怖は、彼が女ではなく、男、人間以下の動物ということが見つかってしまうのではないかということである。
Unable to empathize or feel affection or loyalty, being exclusively out for himself, the male has no sense of fair play; cowardly, needing constantly to pander to the female to win her approval, that he is helpless without, always on the edge lest his animalism, his maleness be discovered, always needing to cover up, he must lie constantly; being empty he has not honor or integrity -- he doesn't know what those words mean.
同情することも、愛情を注ぐことも、忠義を尽くすこともできないことにより、もっぱら彼は外に放り出されているため、男はフェア・プレイの感覚を持っておらず、臆病にも、絶え間なく女の承認を勝ち取るために女に取り入る必要があり、それらなしでは男は無力で、いつも崖っぷちに立たされ、彼の動物性、いわゆる男の性質が見つからないためにも、いつも彼は隠蔽し、絶え間なく嘘をつかなければならない;彼は空っぽなため、名誉も誠実性もないーー彼はこれらの言葉の意味を知らない。
<訳は私>
男は人間以下の動物か。だから彼女は我々の人権を完全に無視したのだろう。だからアンディーを男代表として狙撃したのだろう。しかし、我々だって人間の女から生まれてきたんだから・・・、一応は人間だ。基本的人権はあるはずだ。女だって男の精子がなければ生まれてこなかったんだし。まあ、それも彼女に言わせれば、精子は必要悪なんだろうけどね。精子バンクでどうにかなると言っているし。でも、それでも男の野獣的な面は否定できない。私も小さい頃から男だけにはなりたくなかった。男になってしまった私は常に負い目を感じてきた。野獣になってしまったのだから、暴力性に富んだ。まさに牛頭馬頭、魑魅魍魎のごとく。まるで象がマスト状態に陥ったように。だからお姉さんたちは私とスキンシップを取らなくなってしまったんだ。つまり、男になった私を彼女たちは拒絶したのである。私は他の男の子と比べて女の子ぽかったから、特別にお姉さんたちに可愛がられていたのだ。それが私の自負でもあった。
「女の子みたーい
」と後ろからハッグされたり、それでお姉さんの柔らかい胸を背中いっぱいに感じて、とても幸福な気持ちになったりしたのだが。しかし、思春期になって体中が毛モジャラになり、女らしさが跡形もなく消滅すると、彼女たちは私の前から去ってしまった。だったら、そのスキンシップを回復するにはどうしたらいいのか。『生きがいシリーズ』の飯田さんも言っているように、女になるしかないのではないのか。
そうか、すべては、このYがいけなかったんだ!それはとてつもない啓蒙だったねぇ。Yって、一本棒が欠けているから、私たちはこのようにマストの象のように獰猛になってしまったのか。私が常に情緒が不安定で女性のスキンシップを絶えず求めているのも、わかるような気がする。彼女のなんの根拠もない優生学も、スゴく説得力があるのがとても不思議なくらい。そういえば道教でも陰陽の陰のエネルギーは無限大だけど、陽のエネルギーは絶えず陰にアクセスしていないと、衰えて滅びてしまうというし。道教なんてXYの染色体が発見される前のことなのに、よくそんなことを発見したものだ。すごいね。また西アメリカ文化でもタカラガイで三つ組み合わせると男を表し、四つ組み合わせると女を象徴するというから、きっとそれは染色体を表しているのだろう。バリメケ族の象マスクにも、そのデザインが施されている。まあ、地元の村人は「三つのタカラガイは男性器を表し、四つのタカラガイは女性器を表している」と言っているが、どうみても染色体の知識があったとしか思えない。しかし、顕微鏡が発見される前に、どうやってそれを発見したかが謎であるが。やはりそれは太古の智慧というものか。それは超古代文明を示唆するものなのだろうか。そのいにしえの知識が西アフリカに受け継がれてきたということなのか。しかし、こうしてみると男は女の一本が欠落しているので男というのは、普遍的な事実なのだろう。この一本棒が欠落しているために、自滅的になるしかなかったんだ。ようやくわかったよ。だって男ってなんか自殺っぽいというか、自暴自棄になりやすくて破滅的だから。自縛テロのテロリストたちも圧倒的に男だし。私にはちゃんとXもあるんだけど、やはりYという一本欠けた染色体があるんじゃ、どうあがいても無理か・・・。
唯一の救いと言えるのは、私の女性的な部分であるミトコンドリアぐらいだからね。たとえ私生児であったイエスもミトコンドリアでユダヤ人になったわけだし。聖母マリアのミトコンドリアで。だって、ユダヤ社会って母系だから、母親がユダヤ人じゃないと子どもはユダヤ人になれないわけだし。つまりミトコンドリアがユダヤであるならユダヤ人なのだ。だから、たとえユダヤ男が全滅しようとも、ユダヤ民族は滅びることはないのである。小泉の皇室典範改正が頓挫したために、皇室の男が全滅して女だけが生き残ったら、ユダヤ民族とは逆で天皇家は滅びてしまうのだが。だからアマテラスのミトコンドリアはだれも引き継いでいないのである。なにせ男のミトコンドリアは世代に絶対につなげられない。そこで、もう救われないのである。自分の中の女性要素は伝わらないのだから。だって生殖したら自分のミトコンドリアは完全に女性に殺されちゃうんだから。男の中の女の性質というのは、どうあがいても滅びてしまうということではないか。だから男絶滅計画などたてなくても、男は一代で滅びてしまうのだから、放っておいても毎日滅んでいるのである。わざわざ故意に滅ぼす必要はないのだ。ああ、やっぱり男は不完全だなぁ。だから『マリア様がみてる』のようなレズビアンがもっとも完成した恋愛なのかぁ。ヴァレリーもレズビアンだったからね。
それに女はマルティタスクな人が多いし、私など、一つのことに集中しなければ何も進まないというのに。口が動けば手が止むというように、運転中に助手席の女の子と会話していたら、事故りそうになったこともあったし、同時に二つのことをやるのは至難の業だ。だから私はカープールの時は女の子に運転してもらうのだ。そのほうがより安全だから。それに仕事でも、会話すると、仕事がおろそかになるし。それで、「まじめにやらんか」と上司に怒られたが、女の子の同僚は会話していても、仕事がちゃんと終わっていて、ノルマが達成されているのである。一体どうやってそんなことができるのか、とても不思議である。やはり、女性の多くは生まれもってビジネスのセンスがあるということか。でも、そんな才能がありながら、よく女はビジネスに長いこと参加していなかったなんて、それもそれで不思議だが。ここ最近だからね、女性のCEOが世に登場してきたのも。やはり男権至上主義が長く続いたせいであろう。もちろん、マルティタスクな男にも幾人か会ったことがあるが、その人たちはもちろん仕事ができる人間で会社にとっては大きな資産だが、マルティタスクは圧倒的に女の方に多いので、それは「女性的」になるのだろうか。まあ、最終的には性別ではなくて、個人の能力なのだが。
まあ、ヴァレリー自身が、父親から性的虐待を受けて、そのトラウマから男を憎むようになり、いつかすべての男を地上から抹殺しようと思うようになったのだろう。たぶん我々をガス室に送り込むつもりだったのだろう。とにかく現実の男に強い生理的嫌悪を持ってしまったのだ。学生時代は極貧で、売春までして生活をサポートしていたそうであるから。その経験も男に対する憎悪をさらに増大させ、自分の中のモンスターを築き上げていったのだろう。そう、シャーリース・セロン主演の『モンスター』のように。親の虐待は子どもをモンスターにさせ、それらの親はまさにフランケンシュタイン博士のようなマッドサイエンティストなのである。萌えの哲学で有名な『電波男』の本田透も子どもの頃、母親から性的虐待を受けて、そのトラウマのせいで、現実の女性に心開くことなく、アニメのキャラに萌えー!となるのが救いというのだから。しかし本田透はアニメによって狂人にならずに済んだ。ヴァレリーも本田透のようにアニメに出会っていたら、あそこまで狂気にならなかったのかもしれない。殺人鬼にはなっていなかったのではなかろうか。しかし、もとはと言えば、いやすべての元凶は父親だ。彼女の狂気の原因はまさに父親の虐待なのだから。娘を虐待した罪はあまりにも大きい。彼は裁かれたのだろうか。裁かれないで死んだんじゃ、それほど不公平で不条理なことはない。「天網恢々疎にして洩らさず」ということばが嘘になってしまうではないか。まあ、とにかくドメスチックヴァイオレンスは悲劇を繰り返してしまう。その苦しみの原因を取り除くには、この家庭内暴力と虐待を断つことであろう。そうしなければ、彼女のような殺人鬼が出てきてしまうのである。子どもの頃に病んでしまうと、大人になればアダルト・チャイルドとなってしまうのだから。やはり問題はそこにあるのではなかろうか。
まあ、私はアダルト・ティーネージャーなので、ヴェラリーの苦しみとは違うが。しかし、女に憧れているというのは、ヴェラリーの言う通りだと思う。飯田さんだって、子どもの頃から女の子に憧れて、女の子に生まれたかったと言っているんだし。しかし、今のままじゃ遺伝子工学は発達していないからYをXに変えることは無理だし。完全な女性になることはできない。ということは、大佛はずむ君のようには絶対なれないということか、今のままでは。彼のようにUFOに性転換をやってもらえないだろうね。UFOも冷戦時の核戦争に恐怖したアメリカ人の空想の世界の産物みたいだし、ユング博士によれば。だから遺伝子工学が発達するのはいつになることやら・・・。でも、とてもじゃないけど待っていられない。だったらもう女装するしかないね。瑞穂ちゃんのように。「これで許して」という感じで。だれに許しを請うんだと突っ込まれるかもしれないが、まあ、私自身であろう。かーかかっかかー!
では、私の尊敬する飯田さんのことばを以て、この記事を閉じよう。
僕なんか、女性になりたくて仕方なかったですね(笑)。子どものころから、「女に生まれたかった」と、ずっと思っていたんですから。だって、女性として生きるほうが、なんだか楽しそうじゃないですか。(116項)
だから、子どもの頃から、「女性で生まれたかったなぁ」なんて、うらやましく思っていたんです・・・「このストレスから解放されるには、どうしたらいいだろうか」と、男同士で話したことがあるんですが、「女性になるしかないなぁ」という結論になったくらいです(笑)。(117項)
参考文献:
飯田史彦 三砂ちづる『生きがいの女性論』PHP研究所、2006年



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