NAFTAでのキモヲタのソナタ
ブッシュがカリフォルニアを火災ゾーンとして宣言しました。ロスとサンディエゴを含む南カリフォルニア一帯で、森林火災が発生しています。しかも、これだけの大規模な火災が一斉に発生したということで、
「もしかしたら、原因は放火?」
とさえ噂されています。自然災害ではなくて、陰謀があるとさえ想像する人たちもいます。

私のところは、もう空が真っ白になってしまって、太陽が正午でもオレンジ色に変色していて、とても不気味でたまりません。そう、まるで、『神無月の巫女』の太陽が紫色に変色したのと同じような気分になりました。世界の終末が起こってしまうような危機感が私を覆いました。それに今は10月ですし、10月の別名が「神無月」なので、まさに神がいない月に天災が起きてしまったわけです。そのオロチたちを鎮めるには、巫女の犠牲が必要なのでしょうか?イエス・キリストが神の子羊として十字架上で犠牲になったように。ネオ・ヴェローナの緑を復活させるには、ジュリエットの犠牲が必要であったように。

地図を見ていただければ、これだけの不特定多数の火災が一斉に発生すること自体おかしいと思います。まるで、アル・ゴアの『不都合の真実』の予言が的中してしまったような、とても残念な出来事です。

私のところは、完全に煙に巻かれてしまっています。


この時期の平均気温よりも10度ぐらい高くなってしまっていますし、グリーンハウスのようです。まさに地球温暖化のコンパクト版です。もう11月に差し掛かるというのに。速いところ、なんとかしてもらいたいです。シュワルツネッガー知事は、
「FEMAは迅速な対応をしている」
と称賛し、感謝していました。FEMAはカトリーナのときにすごい批判を浴びせられて、そのときの長官のマイケル・ブラウンは、辞職してしまいました。彼は「無能」の烙印を押されてしまいました。マイケル・ブラウンは、オクラホマ出身で、私も彼が学生時代に過ごした町に住んでいたもんですから、それだけの思い入れがあったからこそ、彼の辞職はとても残念でした。でも、今回のFEMAは、カトリーナの反省があるので、ちゃんと対応してくれると思っています。

【2007/10/25 11:56】 | 環境、緑、地球
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ゴアがノーベル平和賞をとったというニュースを、昼休みに休憩室のテレビで観ました。『不都合な真実』の間違いが指摘された裁判がイギリスであったようですが、そのようないざこざがあろうとも、やはり環境をきれいにするということは、政治上立場が違っても人類共通の認識だと思っています。そして二酸化炭素を酸素に還元してくれる木々は、人の犠牲でなりたっていると、私のドミニカ共和国出身の知り合いが言っていました。彼は、カリブ海のタイノ族連合の酋長の子孫で、
人の犠牲によって、緑の地球は潤う
と言っていました。そこで、彼の言葉を、家に帰ってじっくり考えさせていただきました。

なるほど、では、ゴアが犠牲になって、地球の緑を復活させることが、究極の環境保護運動なのではないか
という解釈が生まれました。ナザレのイエスは、人間に恵みをもたらす植物でした。そして、植物に光合成を可能とさせる恵みの光でもありました。だから、スペイン語では、日曜日を「ソーレス」と呼ばず、「ドミンゴ(主)」と呼ぶのです。イエスは、自分を葡萄の木と言っていましたし、自分の血はぶどう酒、いわゆるワインだとも言っていました。そして、肉体は自分の体、つまり麦で出来たパンでしたし、そのパンが液体化されたものが、ビールです。だから、バイエルンの修道所では、ビールは「液体のパン」と呼ばれ、つまり、イエスの体を吸収しているわけなのです。つまり、ワインとビール、それを摂取すれば、イエスの命のパワーを摂取したことになるのです。そして、イエスは、十字架上で処刑され、その血は、大地に流れ、地球は潤いました。キリスト教徒は、それによって、すべての犠牲は完了したとしています。それ以来、人身供犠の必要がなくなったと、実際に、メキシコのアステカの人々に説いたそうです。というよりは、強制でしたが。

ポリネシアの神話でも、ヒナというお姫様がいましたが、オスのウツボが人間に化けて、ヒナを口説いてエッチしてしまいました。そして、村の怒りをかったウツボは斬首の刑となりました。どころが、その生首からヤシの木が生え、それから人々はココナツの実を食べるようになったという言い伝えがあります。日本にも、その類いの言い伝えはあります。スサノオが食物の女神に食事を恵んでもらうとしましたが、その女神は、なんとスカトロジストでした。スサノオは、彼女の性癖に驚いてしまい、気が動転して、持っていた刀で斬殺してしまいました。すると、その遺体から、五穀が発生しました。そう、生命の木というのは、犠牲になるのだというプロトタイプがあるのでしょう。シッダールタも菩提樹の下で悟りを開き、娑羅双樹の下で入滅しました。

そして、私が感動した今年のアニメである『ロミジュリ』、これでも、キャピュレット家の代々の娘は、空中都市ネオベローナに繁栄をもたらす「エスカラスの大樹」に身を捧げてきたという設定でした。もともとエスカラスの大樹は二つあって、一つは人間によって枯れてしまったようです。そして、残った木も、枯れようとしていました。それは、ロミオが二宮金次郎みたいに、村を上げて農業に取り組みましたが、作物が育たず、
「土に活力がない」
という台詞に象徴されていました。つまり、地球は活力を失っている、そのためには、地球復活のためには、キャピュレット家の娘の犠牲が必要だと。そして、その娘の胸のなかには、大樹の種が植えつけられているということ。枯れ行く木を復活させるには、その木の種を芽生えさせるということ、だから、新しい芽を出すことが、新たな命の木を生成させ、地球に活力をもたらすという、壮絶なストーリーなのです。新しい芽を出す、それは、「萌え」である。 それは、仏教の如来蔵の種子にも似ているかもしれません。芽生え=「萌え」が世界を救うのです。そして、キャピュレット家の当主となったジュリエットも、その運命には逆らえませんでした。彼女は、種を芽生えさせるために、ロミオとの約束も果たせず、自ら進んで犠牲となりました。

創世記においても、エデンの園には、二つの木があります。智慧の木と生命の木です。蛇の勧めによって人間は智慧の実を食べて、性欲が沸きました。イブとアダムが葉っぱで裸体を隠したのも、性を意識しはじめたからでしょう。しかし、生命の木の実は、エデンの園から追放されたので、人類は食べることができませんでした。だから、ナザレのイエスは、自分が生命の木だと宣言し、自分が犠牲に成ることで、種が芽生え、それが人々、また地球に活力を与えるとしました。そう、キリスト教も、また「萌え」の宗教だったのです。それは、まさに、『ロミジュリ』の設定と酷似します。たぶん、智慧の木は、蛇の家紋であるモンタギューが滅ぼして、生命の木は薔薇の家紋であるキャピュレットによって復活したのです。また、蛇は智慧の木の主(ぬし)だったのですから、生命の木の主は、イエスです。またジュリエット個人の好みの花はアイリス(Iris)した。だから、スペイン語の「arco iris(アイリスのアーチ)」は「虹」を意味します。それは、イエスや聖母マリアをシンボル化した花で、フランス王家の紋章にも使われていました。つまり、ジュリエットは、生命の木であり、三位一体を象徴するアイリスでもあったので、とてもイエス的であったということです。そして、どうやらこの二つの木というのは、集合的無意識のシンボルなのでしょうか。シッダールタも娑羅双樹という、二本のサーラの木の下で入滅したのですから。でも、イエスと違うところは、ジュリエットは、革命家であり、独裁政権を倒して、ネオベローナに再び平和を取り戻し、そして犠牲となるところです。それは、イエスというよりは、ジャンヌ・ダルクのようです。

イエスは、政治的革命家ではありませんでした。ヘブライ人は、メシアにローマ支配からの解放を求める軍事指導者を求めていましたが、イエスは、きっぱりとその意志がないことを伝えました。植民地宗主国のローマの税金問題でも、
「カエサルのものはカエサルに」
と独立戦争を起こすという根底の理由も否定してしまいました。米国は、「ジョージ王に税金が払えるか!」
ということで、つまり税金問題が引き金となって、独立戦争が勃発して、独立したのですが、イエスはヘブライ人のジョージ・ワシントンになることを拒絶しました。それが原因で、イエスからは多くの人々が離れていきました。イエスは、彼らの独立の希望を裏切ったのです。しかし、ジュリエットは、モンタギュー家の圧制に苦しんでいる人々を革命によって救いました。そして地球のためにも犠牲となりました。イエスはあくまでも宗教に徹しましたが、それは、コスモスを司る蛇の世界にはかかわらないとの表れでしょうけれども、ジュリエットは政治と宗教、両方のシンボルとして犠牲になりました。

ゴアは政界から引退して、環境問題に徹しているので、ジャンヌ・ダルクやジュリエットよりかは、イエスのほうに近いかもしれません。そして、彼も、また地球の大地の活力のために犠牲になることが人々から要求されていることでしょう。母なる地球、母なる大地、母なるガイアは、犠牲を必要としているとタイノ族の言い伝えにはあります。ゴアがノーベル平和賞を受賞したということは、これでもう環境運動の犠牲者としての太鼓判が押されたわけですから、ジュリエットのように運命に従うべきでしょう。環境保護とはいわゆる地球の復活です。その犠牲者として、彼が選ばれたのですから。このノーベル賞の戴冠式では、彼が、生命の木の種を芽生えさせてくれる、つまり「萌え」させてくれるシンボルであるということを、証明した瞬間ではなかったのでしょうか。実際に、ノーベル賞受賞者のことを英語で、「laureate(月桂冠をかぶった人)」と言いますから、だから、
このゴアのかぶっている月桂冠は、イエスの茨の冠に匹敵するものだと私は思うのであります!

【2007/10/14 00:01】 | 環境、緑、地球
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私は、さっき車でモールに行ってきたが、夏のロサンゼルということもあって、アメリカ人の若い子たちの肌の露出は、私を
「ぐわががががががー!!!」
とさせた。あんなにお尻の形がいいなんて、私は、
「ああ、アメリカに来て本当によかった。I Love America!
と叫んでしまった。それに、女の子が車から出てきて、そして「新しい皮袋」である携帯で電話してるし。そこで、電話が終わったら、パカッと携帯を閉じて、ハンドバックのカバンにしまい込むその姿。そのあまりものセクシーさに、私は絶句となるしかなかった。しかし、車では、駐車場でパーキングスペースを探し出すだけでも、苦労する。ああ、電車があればなぁ。地下鉄とか。

アメリカの通勤の割合は、自動車通勤が90%を占め、電車やバスの公共トランシットの通勤はたったの9%でしかない。しかし、一方のヨーロッパ連合では、公共トランシットでの通勤の割合が39%である。そして、アメリカでの、大気汚染の50%以上が自動車のスモッグによるものであり、もし、電車の通勤割合をヨーロッパのと同じにすれば、現在のアメリカの石油輸入依存率も40%押さえ込むことが出来るのであり、二酸化炭素排出量も、25%押させ込むことが出来るという。そして、国民が目指すエネルギー独立を達成できるのだという。また、公共トランシットでは、大気汚染の元凶であるCO2は自動車の5%で済み、またその他の汚染化学物質は8%で済むという。だから、電車の交通網をもっと発達させれば、環境は絶対に改善されるということだ。


日本では、車に乗らない若者が増えているというが、それはすばらしいことだ。車がなくても、生活できるインフラが整備されているのである。だが、アメリカは違う。サバーバンの各家庭にはガラージがかならず付いているという、いわゆる中流意識の達成、アヴェレージ・アメリカンの理想、そして、車で通えるモールという巨大駐車場を軸にしたショッピング街があり、そこには、AMCの映画館も付いている。女の子は、そこでファッション・センターでショッピングを楽しみ、アイスクリームを食べ、ショッピングが終われば、夜は、ボーイフレンドと映画館で手をつなぎ合って映画を鑑賞するのである。そして、車で、ラブラブムードで帰宅するのだ。まあ、女の子がボーイフレンドを助手席に乗せることも、トレンディーになってきたのだから、それは素晴らしいことである。

日本の大店法改正も、そのような巨大モール建設を目論んだものであろう。しかし、それでも、やはり日本人は通勤は電車を利用する。また、高校生のデートでも、電車が交通手段だ。自動車免許が18でないと取れないというのは、結構いい案かもしれない。アメリカでは、16歳で免許が取得可能だし、高校生で、車によるデートというのが、大衆化してしまっているのだ。しかし、もしかしたら、アメリカの圧力で、日本でも、16歳で免許取得可能と法律が改正されるかもしれない。それで、高校生までもが、車での恋愛を理想化してしまうように。それが、日本の恋愛の言説になったら、実に困るのだ。

実際に、アメリカの圧力で、弁護士になる試験も、ロースクールを出ていることが2006年から日本でも義務化された。それが、小泉政権の日本の大改革でもあったし、弁護士業界も、アメリカ化した。それは、それで、良かったのではないと、私は思う。日本はあまりにも弁護士が少なかったから、憲法で保証されている市民の権利を保護することはできず、侵害された市民は、今まで泣き寝入りするしかなかったのが、これからは、改善されていくであろう。そうすれば、取り調べにおいても、容疑者は弁護士を付けることができるのだ。日本の警察の取り調べは人権侵害だから、国連で非難されるべきだ。

しかし、日本では18なのに、選挙権がないというのは、馬鹿げているが。そこは、やはりアメリカよりもまだ遅れているのだ。また、喫煙率をどうにかしてほしい。あれで、日本の精神レベルはかなり低くなってしまっているし。だが、アメリカでは、高校生が車を乗るのは勝手だが、モールへは、自動車でないと行けないというのは、実に悲惨である。自転車で、買い物の荷物を自転車籠に載せて帰るということは、できないのだろうか。スクーターもアメリカではまったく見かけないし。また、車もハイブリッドではなくて、完全に電気にすればいいことである。車のなかでは、新聞も漫画も読書もできないし、携帯でもメールできないし、iPodでビデオを見れないではないか。それに交通渋滞でのストレスは心臓に負担がかかるし、歩かないのは肥満のもとである。だから、電車が必要なのである。そうすれば、人は歩くので、太ももの筋肉は第二の心臓といわれているぐらいだから、そこを動かすことは健康に良いし、また電車男は、ニューヨークやシカゴとかだけとは、限らなくなるのだ。そう、ハリウッドは、これからは電車での恋を描くべきだ。『School Days』など、アニメの学園の恋愛は、ほとんど電車なのだから。そこで、携帯電話でメールで恋人とやりとりしているという、私の青春時代では決してなし得なかったことが、行われているのである。だからこそ、彼らはニュータイプなのだ。私は、ニュータイプのはずだったのだが、テクノロジーが解放されていなかった。インターネット、携帯、それらが、インディゴ・チルドレンのテクノロジーであり、ゴア革命によって解放されたものであり、ある意味、インディゴ・チルドレンが覚醒するのはゴア革命のテクノロジーによるとでもいえよう。ナザレのイエスも、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」と言っているのだし、私も青春時代にそのテクノロジーが欲しかった。シャー・アズナブールのように「ニュータイプになり損ねた人間」というレッテルは貼られたくないのだ。だが、アメリカでは、インターネット、携帯はあるが、肝心なことは電車がないことである。だからこそ、電車を作らなければならない。それは、環境フレンドリーだし、また、インディゴ・チルドレンを覚醒するためにも、必要なことなのである。

よって、アメリカは、通勤、通学を自動車ではなく、電車でできるようにすることである。そうすれば、アメリカは、健康的にも環境的にも改善されるし、また、電車による恋愛というのが、ローモデルとなるであろう。そうすれば、本当に、アニメの学園恋愛の世界を、これからの若いアメリカ人たちが理解し、それを世界に広めていくことであろう。もうヨーロッパでは、日本のように、パブリック・トランシットの恋が、ローモデル化されている。だから、ヨーロッパのほうが、アメリカよりも、アニメに対する理解が深いのである。よって、アメリカも、インディゴ・チルドレンの精神レベルをヨーロッパと日本に近づけるには、電車をとにかく作ることである。


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【2007/08/05 06:04】 | 環境、緑、地球
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私はロスの港の近くで仕事をしているが、これほどひどい環境はない。だから、この悲惨さを伝えるために写真を撮った。見ての通り、これはレンズが汚れていたから、茶色くなっているのではない。これがいわゆるスモッグである。容赦のない産業のスモッグ、自動車のスモッグ、それがたまって層を形成し、笠となって街全体を覆うのである。そう、それは「死の霧」と言ってもいい。こんな環境でアル・ゴアの『不都合な真実』を観ると、本当に恐ろしくなってしまう。というか、私はもうダイオキシンまみれだ。
「もう助からないのでは」
とついつい考えてしまうほど。ダイオキシンは生殖力を著しく低下させ、精子の生産も低下し、精巣の精子の数も激減し、それによって妊娠の確立も低下するという。不妊症まっしぐらだ。また、胎児が生まれたとしても、母乳にダイオキシンが含まれているため、胎児の将来は暗い。環境ホルモンが人の体を蝕んでいるのである。



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この「死の霧」の下を毎日通勤で運転するのだ。とんだところに来てしまったわけだ。ああ、一刻も早く逃げ出したい。生殖力の低下か。だが、今のところは私の性欲は一向に低下していない。逆に女の子への興味は強くなる一方だ。だから、大丈夫だろう、しばらくは。しかし、噂によれば、ダイオキシンは性欲まで破壊してしまうそうだ。最近、都市では非セックス化しているカップルが多くなってきたそうだ。それもかつては性欲バリバリだった人たちである。やはりダイオキシンのせいだろうか。まずい。私の人生最大の喜びである女の子との結合への欲望自体がなくなったら、それこそ、何のために生きているか、まったくわからない。ましてや萌えなくなる自分が全く想像できないので、恐怖におののいている始末だ。そうなったら自殺してしまうかもしれない。

イザナミとイザナミはセックスによって国生みをした。セックスが日本の創世神話だ。そう、全ては性欲によって生まれたのだ!しかし、ダイオキシンによって、その神話は絶えてしまうことになるのだ。「萌えパワー」がダイオキシンで死に絶えるのだ。ダイオキシンはアニメオタクワールドへの脅威なのだ。ダイオキシンによって萌えなくなれば、アニメオタクワールドは崩壊してしまうだろう。そうならないためにも、連邦政府は京都を批准するべきである。そしてアル・ゴアがフル活用しているメインストリームのポップ・メディアだけでなく、サブカルチャーのメディアで生きているオタクたちを率先して環境保護活動に誘致しなければならない。ダイオキシンは萌えにとって脅威であることを伝導しなければならない。彼らの支持なしにはもはや何事も前進に進まなくなる時代がもう少しでやってくるのだから。彼らの理解と支持と得るべきである。それこそ総動員で環境を保護することができるのだ。



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【2007/02/07 12:08】 | 環境、緑、地球
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最近、『地球新世紀』を観たが、その中で『木を植えた人』という絵本が紹介されてあった。最近、日本でその絵本がブームになって、その朗読公演が日本で行われているそうだ。これはフランスの童話であり、この物語の主人公であるElzéard Bouffierがオリエントの仙人に非常に似ている気がした。
「この方こそ、まさに仙人(サンスクリット語でrishi、パーリ語でisi)であろう。」
と思わされた。なにせシッダールタは独りで樹下で瞑想して悟りを開いた。その木は菩提樹と呼ばれている。だから仏教と森林は相即不離、持ちつ持たれつの関係であろう。

仏教は一人で森林で修行するのを本当の楽しさとしている。『ダンマパダ』によると、
「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。(99)」
とされる。またそれはシッダールタの弟子のからも読み取れる。
もし、前に、あるいはまた、後に、〔修行の妨げとなる〕他の者が見出されないなら、林のなかで独り住んでいる者にとって、〔そこは〕あまりに平穏なる〔場所〕と成る。さあ、〔わたしは〕独り、林へと行くのだ――覚者(ブッダ)によって褒め称えられた〔林〕へと――独り住む者にとって、自己を精励する比丘にとって、平穏なる〔場所〕へと。〔心の〕制止者(ヨーガの実践者)が喜びと為し〔心が〕喜ぶべき〔森〕へと、発情した象が慣れ親しむところの森へと、〔わたしは〕独り、義(道理)に自在なる者となり、すみやかに入るであろう。見事に花ひらいたシータ林(地名・寒林:死体置き場)にある、涼やかな山窟で、四肢に〔水を〕注いで〔身を清め〕、〔わたしは〕独りある者となり、経行[きんひん]するであろう。〔心が〕喜ぶべき、大いなる林のなかで、伴侶なき独一者となり、何時[いつ]、わたしは、為すべきことを為した煩悩なき者として、住むのだろう。このように、為すことを欲する、わたしの志は、栄えあれ。わたしだけが、〔その志を〕為し遂げるであろう。他者は、他者にとって、為す者にあらず(自己のみが、自己のことを為す)。この〔わたし〕は、甲冑を装着し、森へと入るであろう。煩悩の滅尽を得ることなく、その〔森〕から出ることはないであろう。芳しい香りの、涼やかな風が吹き渡るとき、〔わたしは〕山の頂きに坐し、無明を破るであろう。花に覆われた林の、涼やかな洞窟で、〔ここ〕ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)で、まちがいなく、解脱の安楽を楽しむ者となり、喜び楽しむであろう。
ー『テーラガーター』十なるものの集まり 537−545
シッダールタの一番弟子であったシャーリプトラも、
「修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり(スッタニパータ958)」
と言っている。しかしここにトイレの存在は認められない。身を不浄と見るにはトイレが格好の場所だと思うのだが、森の生態系では排出物さえも縁起というエコロジーの中の一つでしかなく、溶け合っているのだ。つまり都市の生活を厭い、森への信仰への回帰がここに認められるのである。しかし仏教では本来森の守護者であった神々がその性格を失っていることであり、ブッダの法を実践している修行者の方が森とうまくやっていけていると伝えているのが実に興味深い。それは仏教が都市宗教としてスタートしたことの裏返しであろう。自然回帰は都市の人間の思考体系だからである。

神は、
「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのようにあ明朗なのであるか?(『神々との対話』20項)」
とシッダールタに尋ねている。つまり、森が修行者の生活の場であったことをこの言葉は暗示している。また神は、
「日も盛りの時、鳥どもが[枝に]とまっているときに、大きな森が鳴りひびく。それは、わたしには恐ろしく思われる。」
と言うが、シッダールタは、
「それは、わたしには楽しみと思われる。(24項)」
と言い返している。まるで神々が都市の便利な生活に慣れてしまった住民のようなことを言っているのだ。というかシッダールタの方が本来の自然の神に近いのだ。人間が都市文化を築いたとともに神々も都市化してしまったのであろう。

またシッダールタは森林保護も訴えているように思われる。『神々との対話』の第一編の五章七節に「植林する人(またはこどば)」があり、そこで神が、
「いかなる人の功徳が、昼夜につねに増大するのですか?いかなる人が、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむくのですか?」
と訊くと、
園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、ーかれらの功徳は、昼夜に常に増大する。(74項)」
とシッダールタは答えた。つまり緑を増やす人が常に功徳を増大させるという。しかしシッダールタがこのようなことを言っていたのも実に興味深い。すでに2500年前のインドで森林伐採による環境破壊の問題があったということなのか。

とにかく仏教は植林を奨励している。木を植えた人はまさに昼夜に功徳を増大させる。樹木葬でもなんでもいい、とにかく木を植えよう。しかしそれは人のため、あるいは母なる地球のためであろうか。どうも、そうではないようだ。「情けは人のためにあらず」ということわざがある。それが仏教の環境保護の精神であろう。『神々との対話』で神は、
「子ほど可愛い者は存在しない。」
というが、シッダールタは、
「自己ほど可愛いものは存在しない。(24項)」
と言い返している。つまり、自己を依りどころとしているのだ。それが法なのであろう。『ダンマパダ』では、
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(129)」
「すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(130)」
とある。つまり自分にされては困ることを人にするなという黄金律だ。逆に言えば人にしてもらいたいことを人にしてあげるのだ。それこそイエスの『マタイによる福音書』の7章の12節である。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
したがって慈しみとは自己が最も可愛いからできるのである。つまり情けは人のためにではないのだ。「情けは人のためにある」と思うから、環境保護もろくにできないのではなかろうか。

アメリカの親は子供に「Be Yourself」と助言する。「自己になれ」という意味だ。また叱るときにも「Behave yourself」という。つまり「自己をふるまえ」というのだ。それは悪いことをする人間は自己になっていない、自己喪失しているという考え方である。一見、シッダールタの「自己ほど可愛いものは存在しない」という発言は自己中でエゴイズムに満ちた偏見と映るが、これはアメリカ人にとってはピンと来る発言なのである。個人主義の本当の意義が集約された言葉なのだから。個人主義とエゴイズムは違う、よって「自分さえ良ければ」という言葉は個人主義では成り立たないのである。なにせ自分さえ良いという考えは自分を愛していることでは決してないし、よってエゴイストは自分を愛していないのである。シッダールタも言っている、
だれでも身体によって、ことばによって、心によって悪行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しいものではない。それ故に、かれらにとって自己は愛しからざるものなのである。ところが、だれでも、身体によって善行をなし、[ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しきものなのである。]それ故に、かれらにとっては自己は愛しいものなのである。
ー『神々との対話』164項
聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵に対するようにふるまう。かれらは悪い行いをして、苦い報いを受ける。もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣き叫びながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善いのである。自分の益になるものであると知り得ることを、あらかじめなすべきである。
ー『神々との対話』134項
「自分の益」になるもの、それはまさに「我が雪と思えば軽し笠のうえ」であろう。だから、アメリカの小学校で悪いことをした子は、
「おまえは自分を可愛いとは思っていない」
と、先生に叱られるのだ。
「もっと自分を愛してみろ!」
というふうに説教されてしまうのがオチである。そういう意味では仏教はよりアメリカ的であるということだ。

だから環境保護も自分のためにやればいいのだ。そうすれば個人主義のアメリカ人にはとくに理解されるだろう。アメリカ人は一度やりだしたことは最後まで成し遂げる粘り強さがある。なんでもハッキリさせなければ気が済まない中途半端が大嫌いな国民性だからだ。なにも、
「人類のため」
と大袈裟な大義名分を作らず、
「自己を愛するが故に」
とすればそれに越したことはないのだ。

きっとゴア氏はその個人主義的見解を暗黙の了解としてアメリカで『不都合な真実』公演を行っていたのであろう。日本で公演をしたときは、その哲学的見解をそのまま維持して日本人に説いたのかどうかという疑問が私を患う。というより、好奇心旺盛にさせるのだ。

しかし、ゴア氏の功徳はきっと昼夜に常に増大するであろう。
「彼は現代の仙人だ!」
と言ったら、美辞麗句になってしまうだろうけれども。都市文化にあってそのような人は実に新鮮だ。自然を愛するヒッピーも都市文化から出てきた。しかし現在では彼らは老いた麒麟となり、自然を愛するどころかSUVを乗り回して、自然を破壊するようになってしまった。もう一度、若いときのように自然回帰を思い出して欲しいものだ。かつて彼らがヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んで感激し、森の中の修行者の生活に憧れていたように。

そんなヘルマン・ヘッセの小説でも取り上げられた仏教では自然の保護者は神ではなく、人間というのが突出した特徴なのである。人間は神の領域に生存していたが、都市化とともに人間は神の領域から姿を消した。しかし、気付いてみれば神々でさえ自然神としての性格を失ってしまった。人間も神も森の住民ではなくなってしまったのだ。だから人間たちは神を頼って自然を回復させようとしたが、当の神々が森を怖がるようになってしまったのだ。まるで南極のペンギンが上野動物園に連れてこられて、そこで長いこと暮らしているうちに日本ごときの生温い冬の気候に凍えてしまうようなものだ。また温暖化が進めば、南極の氷は完全に溶けてしまい、ペンギンの帰る場所は地上から消えてしまう。また、このままだと「北極の王者」とまで謳われたHitachiのCMでおなじみの『白くまくん』も北極圏の氷が溶けて死に絶えてしてしまう。それと同じで、森林伐採で神々は住処を追われのだろう。そして神々は動物園で暮らすようになって、自然を忘れてしまったのだ。もちろん人々は動物園にお参りして神々を賛美し続けたが、その神々はもはや本来の神の力を失ってしまった。動物園で育った野生動物を野生に返すと死んでしまうように。しかし、このままだと彼らの帰る森すらあと400年で絶滅するという。そうなれば神は二度と本来の神に戻れなくなってしまう。アリストテレスは、
「野生で暮らしていけるのは神と獣だけだ。」
と言ったが、今では神も獣も住むところを追われ、熊でさえ都市に出てきてゴミをあさっているあり様。かつてアイヌ民族に崇拝された熊、金太郎に武術を伝授した熊、その神の化身たる熊が今ではこのあり様である。そして神々は既に絶滅危惧種として認定済みである。そこで、そんな神々の危急存亡のとき、人間が自らブッダとなって、その自然神の性格を取り戻し、植林を促したのであろう。

つまり、元祖環境保護運動家とは、インドの仙人だったのだ。そういう意味ではゴアは現代の仙人だ。だが環境保護家というのは環境が破壊されるから出てくるのである。絶滅危惧種がいるから動物保護団体があるのだ。どの宗教も世が乱れる時、救世主が現れるという。世直しは世が乱れているから起こるのだ。つまり我々が彼らを賛美する状態は本当はあってはならないことなのだ。ゴアのような人が出てきてはいけないのだ。我々は神々も保護しなければいけない立場になってしまったのだから。太古から、神々は我々を保護してきたが、シッダールタの時代には冠履転倒となった。人間の上である存在が人間であるブッダに五体倒地するようになってしまっていたほど、神々は追い詰められていたのである。だから、神の媒体者であるシャーマンに、
「神々はなんて言ってるんですか?」
と訊くと、
「ビートルズの『Help!』を歌っています。」
と答えるだけであり、シャーマンの価値も地に落ちてしまった。神々がプライドを捨ててまでシッダールタに、
「たすけてくれ〜!」
とすがりつくようになってしまったのだ。梵天勧請はその最たるものであろう。つまり、シッダールタの時代でさえ既に環境破壊が進んでいたことが推測されるのである。

神々が我々にひれ伏す時代、それがまた到来してしまったことは、なんと悲惨なことであろうか!かつては神々が自然の番人であったというのに。しかし、今では神々でさえ森林を恐れるようになった。それも我々が彼らを自然から追いやったからだ。そして自然の番人は仙人ひとりで担当しなければならなくなった。そもそも、その責任は我々にある。だから我々がその代償を払うために環境保護に精を出すのも当然なのだ。よって多量のヒッピーを生産するのは義務というより、もはや神々と自然に対する賠償であった。ヒッピーが神の代わりを務めなければならなくなったのだから。つまり人間が森の保護者とならなければならくなったのだ。『木を植えた人』も木を植えた「神」ではない。「人」である。スサノオのように朝鮮半島から植林の技術を伝えた神はもはや消え失せた。今や、その役割を担うのは仙人という「人」なのだ。自然の神々を復活させるのは人なのである。アル・ゴアもその一人であろうと私は認識している。


参考文献:
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年
中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫、2006年
中村元訳『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤI』岩波文庫、2005年



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【2007/01/30 13:36】 | 環境、緑、地球
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