ペルーから帰ってきて、正直言って、現実の世界に戻ってきたという感じでしたね。また引きこもりになっちゃいそうです。ペルーは、たしかに大変でした。今までの旅の中で一番大変だったのです。英語がまったく通じない、それは途上国というグローバルスタンダードから取り残された国ということだったからでしょう。
まあ、英語が通じないというのでは、日本もそうですね。あそこもグローバルスタンダードから取り残されています。しかも日本ではちゃんと英語を教育しているのに、英語が通じないと言う、特殊な国なのです。
ペルーはスペイン語だらけ、というかスペイン語だけ、それにスペイン語はとてもはやい、相手をまくしたてるように話すので、もうついていけない。早口が当たり前な言語なんですね。日本で言えば、下町のような話し方、ケンカ腰の話し方ですかね。日本語も発音面ではスペイン語のように単純なので、とても早口になれる言語ですからね。ラテンはとにかくおしゃべりですね。陽気ですし。もちろんなかには静かな人もいましたよ。でも、なんか熱気が違いますね、感情的になるんだったらスペイン語という、あの言語で喧嘩したら、すごいだろうなぁ。
アメリカに来て、それはなくなりました。だから、サウダージですよ。よって、毎日スペイン語のチャンネルをつけてます、意味はわかりませんが、ちょっとペルーを思い出すからです。ペルーにもアニメチャンネルがあって、ドラゴンボールとかやってましたが、悟空が「ムーチョ」と言っているのには驚きましたね。まあ、スペイン語だから、当たり前か。スクールランブルも、沢近が「ムーチョ」と言っているのもビックリしましたね。でも、やはりテレノベラの女性はほんとスタイルがいいですね。ラテンです。もう、あのおしりは世界一です。
この前、トーランスで日本人のライブに行ったのですが、そこの日本人の若い子たちは、かわいい子は多かったですが、いやー、胸とお尻がぜんぜんなかったです。あれは、悲惨でした。胸がある子は、ちょっと小太りとか、そういう類いでしたから。さすが、ラテンには勝てませんでした。でも、着ているものは日本人のほうがはるかにかわいいですし、卓越したファッションセンスもあると思います。まあ、なにしろ日本は、ファッションセンターの東京がありますし、東京はミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨークと肩を並べるファッションシティーとして知られていますからね。でも、ラテンは、そんなファッションに身を包まなくても、もう体ですごいですから。あの体があれば、あとはどんな服を着てようといいわけです。その体を引き立たせるように着こなせば、もう、輝きますからね。官能ボディー、セクシャルでエロチックな、もう見た瞬間に鼻血炸裂!しかもラテン文化では、その体に触れられるわけですから!
でも、アメリカに帰ってきて、体調を崩しっぱなしですね。女性とのスキンシップが一気になくなったからです…。ペルーの子でさえ、やはりアメリカに帰ってきてずっと体調を崩してたそうです。そして完全に回復するには二週間を要したそうです。急激な環境の変化に体はついていけないのでしょう。しかも、高山でしたからね。私がドイツ、オランダに行った時は、ぜんぜん病気にはなりませんでしたよ。体調はとても優れていたし、ドイツのハンバーグ料理、ホワイトアスパラガスのスープで体力がどんどんアップしたという感じでした。アメリカに帰ってきても、すごい元気でしたよ。ドイツではストレスはぜんぜんありませんでしたから。しかも、トイレとシャワーがアメリカよりもきれいでしたから。でも、ペルーから帰ってきたら、もう毎日外に出れずに寝込んでいるだけです。そして、スペイン語のチャンネルを見ているだけですね。
それでなんとかサウダージを切り抜けています。
まあ、英語が通じないというのでは、日本もそうですね。あそこもグローバルスタンダードから取り残されています。しかも日本ではちゃんと英語を教育しているのに、英語が通じないと言う、特殊な国なのです。
ペルーはスペイン語だらけ、というかスペイン語だけ、それにスペイン語はとてもはやい、相手をまくしたてるように話すので、もうついていけない。早口が当たり前な言語なんですね。日本で言えば、下町のような話し方、ケンカ腰の話し方ですかね。日本語も発音面ではスペイン語のように単純なので、とても早口になれる言語ですからね。ラテンはとにかくおしゃべりですね。陽気ですし。もちろんなかには静かな人もいましたよ。でも、なんか熱気が違いますね、感情的になるんだったらスペイン語という、あの言語で喧嘩したら、すごいだろうなぁ。
アメリカに来て、それはなくなりました。だから、サウダージですよ。よって、毎日スペイン語のチャンネルをつけてます、意味はわかりませんが、ちょっとペルーを思い出すからです。ペルーにもアニメチャンネルがあって、ドラゴンボールとかやってましたが、悟空が「ムーチョ」と言っているのには驚きましたね。まあ、スペイン語だから、当たり前か。スクールランブルも、沢近が「ムーチョ」と言っているのもビックリしましたね。でも、やはりテレノベラの女性はほんとスタイルがいいですね。ラテンです。もう、あのおしりは世界一です。
この前、トーランスで日本人のライブに行ったのですが、そこの日本人の若い子たちは、かわいい子は多かったですが、いやー、胸とお尻がぜんぜんなかったです。あれは、悲惨でした。胸がある子は、ちょっと小太りとか、そういう類いでしたから。さすが、ラテンには勝てませんでした。でも、着ているものは日本人のほうがはるかにかわいいですし、卓越したファッションセンスもあると思います。まあ、なにしろ日本は、ファッションセンターの東京がありますし、東京はミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨークと肩を並べるファッションシティーとして知られていますからね。でも、ラテンは、そんなファッションに身を包まなくても、もう体ですごいですから。あの体があれば、あとはどんな服を着てようといいわけです。その体を引き立たせるように着こなせば、もう、輝きますからね。官能ボディー、セクシャルでエロチックな、もう見た瞬間に鼻血炸裂!しかもラテン文化では、その体に触れられるわけですから!
でも、アメリカに帰ってきて、体調を崩しっぱなしですね。女性とのスキンシップが一気になくなったからです…。ペルーの子でさえ、やはりアメリカに帰ってきてずっと体調を崩してたそうです。そして完全に回復するには二週間を要したそうです。急激な環境の変化に体はついていけないのでしょう。しかも、高山でしたからね。私がドイツ、オランダに行った時は、ぜんぜん病気にはなりませんでしたよ。体調はとても優れていたし、ドイツのハンバーグ料理、ホワイトアスパラガスのスープで体力がどんどんアップしたという感じでした。アメリカに帰ってきても、すごい元気でしたよ。ドイツではストレスはぜんぜんありませんでしたから。しかも、トイレとシャワーがアメリカよりもきれいでしたから。でも、ペルーから帰ってきたら、もう毎日外に出れずに寝込んでいるだけです。そして、スペイン語のチャンネルを見ているだけですね。
それでなんとかサウダージを切り抜けています。
![]() | わたしはレンタルお姉さん。 川上 佳美 (2007/01) 二見書房 この商品の詳細を見る |
くーくくくっくくく。レンタルお姉さんか?産經新聞でもそれは紹介されていた。レンタルお姉さん専用のブログもあるそうだし。そんなサービスが日本にあったとは、これには健康保険が適応されるのだろうか。引きこもりを救う女神だという。そうだ、私には、レンタルお姉さんはいなかった。中学でイジメに遭い、不登校になり、高校の時にはキモオタとして女の子たちに避けられたため、引き蘢った。そして、それまで娯楽でしかなかったアニメが、唯一の現実逃避の神器となったのだ。
私は、お姉さんが欲しかった、小中高とお姉さんが欲しかった。実は、今でも、欲しい、とても欲しい。しかし条件がある。それは、私が16歳になることである。だから、遺伝子工学の発達が不可欠なのである。そして、17歳のテッサ大佐、または、小笠原祥子さまなどが、お姉さまになってほしいのだ。ああ、レンタルお姉さんか。アメリカでは、このサービスはないもんなぁ。そういう面では、アメリカより日本のほうが進んでいる、というか、日本のほうが引きこもりやすい環境なのであろう。とくに、都市部の日本ではそうであろう。アメリカでは、なにせ、18歳になると、親は子どもを家から追い出す。というか、子どもが自ら親を捨てて家出をする。また、アメリカでは18歳で選挙権を獲得できるので、18歳は立派に政治参加できる成人である。だから、子どもはアパートで一人暮らしをして、大学に行くか、働くかするのである。つまり、自立させられるのである。だから、ニートは、発生しにくい社会なのだ。日本の教育の最大の問題点は、子どもに自主性を持たせないことである。それが、ニート社会を作ってしまうのである。いわゆる男社会と年功序列の腐った制度が、自立できない若い人々を作り出してしまうのだ。だから、私はゆとり教育に賛成なのだ。
私も中学のときの唯一の救いが、『ああ女神さまっ!』であった。家で、そのOVAを見て、このような女性が出現することを絶えず願った。それは、クリスチャンがキリストの降臨を願うかのようなものであった。ヴェルダンディが私を救ってくれるはずであった。彼女こそ、私のお姉さんになるはずだったんだ!だから、私はドイツに行く夢を捨てきれず、ドイツに旅行に行ったのだ。ヴェルダンディに会うために。だから、ヴェルダンディの三姉妹のノルン三姉妹は、もともとはリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』に登場するのだが、そのアニメがきっかけで、私はワーグナーに熱狂し、ワーグナーの崇拝者となった。だから、私は元バイエルン王国の首都であったミュンヘンにも行ったのだ。だが、憧れのドイツに行ったものの、結果は無惨なものだった。蓋を開けてみれば、ライン川は、ヨーロッパでもっとも汚染の進んだ川の一つであった。だから、女神と妖精たちは、跡形もなく姿を消してしまっていた。だから、私は緑の党を熱烈に支持するようになった。それが、私の環境保護支持の原点である。そして、私は緑の党から立候補したラルフ・ネーダーをかつてのアメリカ大統領選で、支持した。つまり、お姉さんの実現である。環境美化は、それを実現するための政策なのだ。環境を美化すれば、お姉さんが戻ってくるはずなのである。その信念のもとに、私は彼を支持したのだ。
まあ、だから、結局は、私は自分探しとともに、お姉さん探ししているのである。それが、私の旅なのであろう。私は引きこもりが極端となって、渡米という行動に結びついた。まるで、圧縮したエネルギーがビッグバンによって一気に放出するように。それが、引きこもりの究極奥義であった。そして、私は現在でも、お姉さん萌えに奔走する。テッサ大佐、小笠原祥子さま、それらのお姉さまたちを私は探しているのである。中学のときのお姉さんは、パリス先生であろう。そうすれば、私はイジメから救われた。私の厭世家としての、対人恐怖、人間不信の原点は、すべては学園のイジメなのだ。男性至上主義をベースとした男尊女卑の社会、それは皇室典範にも反映されている、そんな社会の学園、つまり男言説によって、私はいじめられた。男になることを拒否したのだから。しかし、アニメでは、男になることを拒否した主人公が、女性のアプローチを受けるという、まさにフェミニズムが完成された世界が広がっているのである。だから、現実の人間ではなく、アニメのキャラに私は陶酔するのである。特に、お姉さんキャラ、または、セクシュアリティーの解放されたロリータに。現実の世界は、駄目。現実の世界では、小泉というニュータイプの指導者が腐り切った男社会の根源である万世男系の天皇家の伝統を破壊してくれると思ったが、それは頓挫したため、私は、もう二度と日本には戻らないであろう。
しかし、私は、『わたしはレンタルお姉さん』という本を読んで、それには愕然とさせられた。なんと、無理矢理にも寮に入居させられ、まあ、寮に入居させられるのは、反対ではないが、それは逆に支持するが、だが、そこでは、テレビもPCもなく、アニメが観れない地獄なのだという。それは、まるで、アニメオタクにとっては、刑務所にぶち込むようなものである。そう、テレビとPCは、オタクにとっては、かかせないものだ。絶対不可欠なものである。だから、その彼らにとっては救いであるアニメキャラの女性に萌えることを奪うということは、人権侵害の何ものでもない。社会復帰には、そんな手段が必要なのであろうか。それは、ショック療法としかいいようがなく、ロシア経済は、ショック療法によって、ズダズダとなり、今でも、共産主義の懐かしさに人々はうつつを抜かしてしまうのである。ショック療法は、引きこもりの精神を崩壊させるかもしれないのだ。それは、自殺を招くかもしれない。アニメがあったからこそ、私はこうして今でも生きているのだ。二次元の完全否定には、とうてい賛成できない。そもそも、三次元のお姉さんが二次元のアニメキャラに取って代われることは断じてない。なぜ社会復帰にアニメを否定しなければならないのか。それは、ビッグブラザーが、人民に対してセックスを統制するようなものである。そう、シッダールタが悟りを開くためには、セクシュアリティーを否定しなければならない、つまり女性に対する欲情を否定しなければならないと、思想統制するようなものである。まるで、レンタルお姉さんは、どこかの原理主義教団の「勧誘お姉さん」そのものだ。または、どこかの過激なシスターや尼僧となんら変わりがない。
私は、引きこもり自体には反対ではない。というか、独立している成人が、引きこもりを選択するのであれば、それはそれでいい。ただ、成人が親に依存して、引き蘢っているのは、問題である。いわゆるニートがそれに当たる。それは、親を苦しめることになるし、迷惑をかけてしまっている。独立した成人が山に引き蘢ったり森に引き蘢って修行したりと、シッダールタも、そのようなことをして、悟りを開いたわけであるし、社会から引き蘢ることは、真理を見据える上でも大切なことである。問題なのは、独立もせずに引き蘢っている人である。また、親が他界していないというのも、原因であろう。親がいなければ、引き蘢るところはない。よって、独立して、社会生活をして、給料を稼いで、引き蘢るか、または、投資して、莫大な財産を築いて引き蘢るか、それか、坊主のように世捨て人となって、引き蘢るか、それらならば、引きこもりは他人に迷惑をかけることはない。また、レンタルお姉さんは、そういう人たちは対象にしていない。他人に依存してしまっている引きこもりが問題なのであろう。
私は、労働忌避者ではあるが、労働をしなければ、生活してはいけないし、また労働がなければ、経済は成長しない。だから、労働は社会奉仕の面もあることを否定できない。しかし、それらの類いの社会奉仕のすべてをコンピューターかロボットに任せられる時代が到来するのは、まだまだ先のようである。きっと、人々が労働から解放されないかぎり、ニートは、罪となってしまうのである。
私は、引きこもりではなくても、お姉さんは欲しい。レンタルお姉さんは、引きこもりしか対象にしていないのだろうか?私のような一般人も相手にしてくれないのだろうか。ああ、お姉さん、私をいたわって〜。でも、サービスだから、サービス費用は取られるし。やはり、私の望んでいるお姉さんは、資本主義に基づく「レンタル」という費用がかかるサービスではなく、ポットラック、いわゆる北米先住民のような「蕩尽」のようなものであり、それこそ真のエロティシズムというべきものであろう。そもそも、「姉」というのは、身内か、親密な関係の年上の女性のことであり、このようなビジネスのような金銭フェテシズムに基づいた冷めた関係に、「お姉さん」と名付けるのは、少し抵抗を感じた。つまり、「レンタル」と「お姉さん」の言葉の組み合わせは、オクシモーロンなのである。もちろん、その言葉を発明した文化的人物のセンスは称賛するが。
私の望んでいるのは、真如のお姉さんだ。それこそが、「姉萌え」だ!
追記を閉じる▲
私の無比の親友であり、師でもある尊師のレジデンスで、久々に静養を取った。社会人として、会社のいざこざやストレスなど、現実世界にはすっかり疲れてしまったので、ここ2週間はまともに睡眠を取ることもできず、疲労困憊していた。だから、正直に言えば、尊師との会合、またはアニメだけでなく、休養を取ることも、目的の一つであった。レジデンスに来てからは、安心したのか、一気にどっと溜まってた疲れが出てきて、朝も昼も夜も定期的に意識を失って、寝てしまった。ガンダムを見ていたのだが、あれはとても集中力を要するものなので、たとえコメディーであっても、そうとう内容が濃いので、エネルギーを消費する。だから、観ている途中でも、眠ってしまった。しかし、私の精神は回復することができた。私もあの世界にいたら、ハマーン萌えに興じていたことだろう。あんな総帥をもったマシマーはとても羨ましかった。あの気持ち、本当に理解できる。私も、こんどからスーツのときは、薔薇をポケットに刺そうと思う。しかも、コーティング加工は必須条件だ。さもないとハマーン様に対する不敬罪だ。
静養地のようなこの静かなレジデンスは、とても良好なセラピーになった。それに、尊師のおかげでPeach Wellに可愛さを見いだしたし、ああ、秋葉にいきたい。イザナミの子どもたちである、糞尿と月経の血の神々が祀られているのだから。ドイツ人のサブカルチャー系のスカトロジストの巡礼地となりそうでもあるが・・・。まあ、そんなものは置いといて、とにかく、我々の聖地は、スカト系ではなく、スケディア系として認識してるのだから。まあ、スケディア系でも、sexualかemotionalかに別れるが、「萌え」はemotionalの部類に属するであろう。まあ、そこまでのこだわりはないし、どちらでもかまわないが、私の嗜好は、どちらかといえば「萌え」である。sexualは、現実の女性に求めるほうが強いと言えるだろう。
心の静養を提供していただいた尊師には、心から感謝する。
静養地のようなこの静かなレジデンスは、とても良好なセラピーになった。それに、尊師のおかげでPeach Wellに可愛さを見いだしたし、ああ、秋葉にいきたい。イザナミの子どもたちである、糞尿と月経の血の神々が祀られているのだから。ドイツ人のサブカルチャー系のスカトロジストの巡礼地となりそうでもあるが・・・。まあ、そんなものは置いといて、とにかく、我々の聖地は、スカト系ではなく、スケディア系として認識してるのだから。まあ、スケディア系でも、sexualかemotionalかに別れるが、「萌え」はemotionalの部類に属するであろう。まあ、そこまでのこだわりはないし、どちらでもかまわないが、私の嗜好は、どちらかといえば「萌え」である。sexualは、現実の女性に求めるほうが強いと言えるだろう。
心の静養を提供していただいた尊師には、心から感謝する。
ああ、仕事は、本当に嫌だ。私は、労働忌避者ではないが、アニメを観ているほうがはるかにいい。しかし、それでは、食っては行けない。どうせなら、ずっと引き蘢ってアニメを観ていたい。私の引きこもりの環境は思春期のときに整い始めていた。小さい頃は、駄菓子屋や、紙芝居のお菓子屋、アイスクリーム・トラック、焼き芋、チャルメラ、火の用心と、お菓子を買うには、外に出ることが必要だった。だから、子どもは引きこもりになれなかった。しかし、大店法改正によって、自営業の酒店や、お菓子屋さんは消滅し、すべてコンビニや、巨大マーケットで、なんでも買えるようになった。しかも、低価格で。コンビニに行けば、お金は下ろせるし、雑誌、弁当も買えるし、ジュースも、酒も買える。つまり、コンビニの登場、またビデオゲーム、さらには、PCのゲームの登場によって、引きこもりの環境は整った。また、PCでネットでダウンロードしたり、DVDを観たりできるのだから、それこそアニメオタクにとっては、自分の部屋は、神殿である。しかし、そんなオタクを見て、女性は気持ち悪がるだけであった。どんなに傷ついたことか!
若い女性は、まったく、私とセックスする気にはならないのだろうか。どんだけ、私が求めているのか、だれもわかっていないのだ。つまり、女にモテなかったため、私は日本を捨て、渡米した。日本では、ちょうど、カーディガンズの『Lovefool』というオタッキーな歌い方をするスウェーデン人の女性のヴォーカルのバンドの音楽が流行っていた。男性には、あの曲は、きもく聴こえたという人もいたが、女性の間ではいたって受けていた。そして、私も一時ハマった。そして、女性の肌の感触に恋い焦がれていた。『Lovefool』には、ヨーロッバ版とアメリカ版があって、やはりヨーロッパはとてもリベラルな風土だということがこの映像からもわかる。一方アメリカは、より保守的で宗教的で清教徒倫理に配慮したものであることがわかる。だから、どちらが性的解放であるか一目瞭然だ。しかし、この曲が世界的に有名になったきっかけは、やはり、当時のイケメン男優のデカプリオ主演の『ロミオとジュリエット』のサントラに使われたからであった。あれは、日本人の若い女性の間で絶大な、カルト的な人気となり、よりデカプリオ・カルトを加熱させた。だから、あの映画は、大嫌いだった。あのような恋愛を夢見るのだから、私がモテるはずもなかった。よって、私は、すべてが嫌になって、渡米した。しかし、渡米しても、モテないことには変わりなかった。すべての人種の女性、いや、人種を問わず、私はモテなかった。だから、女性自体に、私は失望した。よって現実の女は、駄目だ。二次元の世界では、『Nothing In This World』ぐらいだろうか。ああ、中学生になりたい。しかし、今の遺伝子工学の発達レベルでは、それは無理だ。だから、アニメの女の子に萌えるしかないのだ。そして、ある時は、オナニー、またそれが駄目なら、夢精だ。とにかく、性の解放は、まったく浸透していないのだ。最近は、ブッシュ大統領が、
「結婚までは貞潔を」
という、ふざけたスローガンを掲げている。エイズがあるからか。だったらエイズを治す薬を開発すること、そしてコンドーム教育を浸透させることだ。やはり60年代、70年代は天国だった。ウッドストックなどを観ると、皆泥んこで裸だから、綺麗もハンサムもブサイクもなく、それこそ自由だったのだ。日本人は、とても性欲を押さえ込んでいる。というか、女性には、貞潔観念が強過ぎる。性的放蕩な女性を観ると、同性の女性は彼女らを軽蔑する。私は、絶賛するというのに。すべては、キリスト教の言説が、そうさせたのである。明治維新の教育勅語がそれである。日本庶民に貞潔観念を植えつけたのである。それが、すべての元凶だ。そう、私がモテないすべての責任はブッシュにあるのだ。なにせ、ブッシュは、キリスト教原理主義者なのだから。
私は、ヒスパニックの店で服を買った。安いからだ。で、そこで目にした女性たちは、じつに目紛しかった。ああ、あの体。肉体は半端じゃない!あのお尻の出っ張り具合、斜め45度に出っぱっており、そしてあの胸、バストアップも素晴らしい。超セクシーではないか!さすがはラテン系。やはり、アメリカは素晴らしい。
「I love America!」
と叫んでしまった。しかも、夏というだけあって、露出度の高い服装、私は、
「きょえー!」
となるしかなかった。日本も、もっとこのようなセクシュアリティーにフリーな文化になるべきである。もともと日本は、スキンシップの国だったのだから。それが、明治政府によって、変貌してしまったのだ。だから、明治の呪縛を取り除くことである。それには、その大元である、ジュデオ・キリスト・イスラム的なヤハウェーを除霊することである。
若い女性は、まったく、私とセックスする気にはならないのだろうか。どんだけ、私が求めているのか、だれもわかっていないのだ。つまり、女にモテなかったため、私は日本を捨て、渡米した。日本では、ちょうど、カーディガンズの『Lovefool』というオタッキーな歌い方をするスウェーデン人の女性のヴォーカルのバンドの音楽が流行っていた。男性には、あの曲は、きもく聴こえたという人もいたが、女性の間ではいたって受けていた。そして、私も一時ハマった。そして、女性の肌の感触に恋い焦がれていた。『Lovefool』には、ヨーロッバ版とアメリカ版があって、やはりヨーロッパはとてもリベラルな風土だということがこの映像からもわかる。一方アメリカは、より保守的で宗教的で清教徒倫理に配慮したものであることがわかる。だから、どちらが性的解放であるか一目瞭然だ。しかし、この曲が世界的に有名になったきっかけは、やはり、当時のイケメン男優のデカプリオ主演の『ロミオとジュリエット』のサントラに使われたからであった。あれは、日本人の若い女性の間で絶大な、カルト的な人気となり、よりデカプリオ・カルトを加熱させた。だから、あの映画は、大嫌いだった。あのような恋愛を夢見るのだから、私がモテるはずもなかった。よって、私は、すべてが嫌になって、渡米した。しかし、渡米しても、モテないことには変わりなかった。すべての人種の女性、いや、人種を問わず、私はモテなかった。だから、女性自体に、私は失望した。よって現実の女は、駄目だ。二次元の世界では、『Nothing In This World』ぐらいだろうか。ああ、中学生になりたい。しかし、今の遺伝子工学の発達レベルでは、それは無理だ。だから、アニメの女の子に萌えるしかないのだ。そして、ある時は、オナニー、またそれが駄目なら、夢精だ。とにかく、性の解放は、まったく浸透していないのだ。最近は、ブッシュ大統領が、
「結婚までは貞潔を」
という、ふざけたスローガンを掲げている。エイズがあるからか。だったらエイズを治す薬を開発すること、そしてコンドーム教育を浸透させることだ。やはり60年代、70年代は天国だった。ウッドストックなどを観ると、皆泥んこで裸だから、綺麗もハンサムもブサイクもなく、それこそ自由だったのだ。日本人は、とても性欲を押さえ込んでいる。というか、女性には、貞潔観念が強過ぎる。性的放蕩な女性を観ると、同性の女性は彼女らを軽蔑する。私は、絶賛するというのに。すべては、キリスト教の言説が、そうさせたのである。明治維新の教育勅語がそれである。日本庶民に貞潔観念を植えつけたのである。それが、すべての元凶だ。そう、私がモテないすべての責任はブッシュにあるのだ。なにせ、ブッシュは、キリスト教原理主義者なのだから。
私は、ヒスパニックの店で服を買った。安いからだ。で、そこで目にした女性たちは、じつに目紛しかった。ああ、あの体。肉体は半端じゃない!あのお尻の出っ張り具合、斜め45度に出っぱっており、そしてあの胸、バストアップも素晴らしい。超セクシーではないか!さすがはラテン系。やはり、アメリカは素晴らしい。
「I love America!」
と叫んでしまった。しかも、夏というだけあって、露出度の高い服装、私は、
「きょえー!」
となるしかなかった。日本も、もっとこのようなセクシュアリティーにフリーな文化になるべきである。もともと日本は、スキンシップの国だったのだから。それが、明治政府によって、変貌してしまったのだ。だから、明治の呪縛を取り除くことである。それには、その大元である、ジュデオ・キリスト・イスラム的なヤハウェーを除霊することである。
ああ、私は、日系のチャンネルで、テレビとモニターの向こうに映る女神を崇拝していた。いや、90年代に渡米してから、まともに日本のチャンネルを観たことがなかったのだ。というか、中西部には、そんなチャンネルはなかったし。しかし、ロスに移住してきて、しかも、その女神によって、私は日系チャンネルを観るようになったのだ。日本をあれだけ嫌悪していた私がだ!それは、もはや常軌を逸していた。日本のもので観るものは、アニメだけだったのに。だから、毎週金曜日は、仕事の最後の日であり、あとはウィーク・エンドを迎えるということもあり、とても楽しみにしていた。朝早く仕事に行くので、時間がないが、なんとかテレビは観ているようにしている、もし観れなかったら、あとで必ずネットで観るのだ。
女神は現実に存在する人間だが、なにしろ女神はアニメを映し出す同じモニターから映し出されているのであり、それによってアニメと同じく神秘的で神聖な認識が私の中にあった。だから女神はアニメのキャラと同じぐらい神秘的に私の目に映ったのである。だから、女神はまさに私の「萌え」の対象だった。
いや、朝早くからの女神の活躍は、早朝の神、明けの明星、そう、アマテラスが天の岩戸から出現したような、金星のヴィーナス、アフロディーテが出現したような、そんな効果があった。私を明るくしてくれる太陽の存在、あの笑顔が私を元気づけてくれた。夢中だった。絶望の淵を彷徨っていたが、二度と這い上がれないかと思っていたが、それでも、毎週金曜日の、天と地を普く照らす我が女神の笑顔によって、本当に勇気づけられていた。女神の笑顔がどれほど私を救ってくれたことか・・・。
まあ、現実の世界に存在するとは言っても、私はアニメと同じ感覚で、モニターに映し出される女神を観ていたので、私にとっては現実離れしていた。そう、アリスでいえば、鏡の向こうの世界、つまりパラレルワールド、私の唯一の救いであるアニメの世界と同じ世界に女神は存在するものだと、思っていた。いや、頭では、彼女は現実の人間だと理解している、しかし、心では、(また二元論に陥ってしまうが)、つまり精神世界では、女神はスーリアルな存在だったのだ。だから、部屋に一人引き蘢ってはじめて、女神を観ることができた。なにしろ、私だけに笑顔で語りかけてくれるのだから。『ガンダム』では、ララのようなものか、『ラーゼフォン』ではクオンのようなものか。意識体で、私に交信してきているようなものだった。私は、デルフォイの神託を受けている気分だった。まるで、巫女装束に身を包んで、女神と交信しているような。
なにしろ、この世は、神のいない時代だ。こんな不条理な世界に神などいるものか!そして、この月々は神のいない時期である。だから、現代は神無月なのである。よって、私は神無月の巫女だ。正式には、私は男性だが、古代日本では、人はトランス状態になると、性別が転換すると信じられていた。だから、私は、女神と交信するときは、レズビアンになるのである。だから私は巫女だ。それに、出雲阿国という歌舞妓を創始した女性も、歩き巫女であり、男装をしていたという。だから、私も、女神と交信するときは、巫女服を着たい。そう、ベルダージュのように。
しかし、女神は現実に存在した。実際に会ったことはないが、存在してしまったのだ。たったひとつの衝撃的な証拠が、それを、これでもか!と証明していた。私が、一切皆苦としか受け取れないこの不条理な世界に。私だって、ニュータイプを目指しているわけではないが、ニーチェの言うところの「超人」、いわゆるスーパーマンになりたいと思っていた。そうしたら、女神と電波を使った交信だけではなく、実際にテレパシーで、その実像と会えるのではないかとさえ、期待していたからだ。しかし、私の尊敬する人が、私よりもはるかにニュータイプであるということは、以前から知ってはいたが、それで、私は彼を心から尊敬し、付き従ってきたが、それでも、超人のみに与えられた特権というものを、まざまざと、ご行使なされたとは・・・
うがー!!!!
超人はアニメと同じ世界にいる。なにしろモニターに映っているのだから。だから、私だって、超人になりたい。『フォークギターのお兄さん』というのは、テレビでないのだろうか。私には、それがピッタリだ。ちびっ子たちとギターを弾いて、アニソンを歌うんだ。キモオタはなぜ社会から迫害されてきたか。それは、まさにネオリベラル資本主義型消費社会の洗脳である。しかし、かつてジェシー・ジャクソン牧師が、
「Black is beautiful!」
と言ったように、私も『ギターのお兄さん』のコーナーで、ジョン・レノンの正統な後継者として、
「Otaku is beautiful! All you need is Moe!」
と弾き語りして、子どもたちの親の意識改革をするんだ。そう、保護者の意識改革だ。だぶん、保護者は女性の方が圧倒的に多い。アメリカも日本も男性至上主義社会だからね。女性の意識改革ができれば、子どもの改革につながり、やがて父親だけが、孤立する。そう、オタクの迫害は何を隠そう、男社会の産物なのである。だから、男を孤立無援にすれば、男性至上主義は崩れるのである。そして最後に、孤立した男は妻に平伏すのである。そして、彼らの娘が育つ頃には、私のギターでの改革運動で小さいときに既に意識改革がされているので、アニメのキャラに萌えるキモオタが美しく、本当にかっこいいという洞察力を開花させることにつながるのだ。それこそが、私の生涯の運動となるであろう。だから、テレビは『ギターのお兄さん』のコーナーを作り、私を超人にさせることである。そうすれば、キモオタに萌えた幼稚園児が、大人になれば、私のようなプロトタイプを崇拝することとなり、ブッダやキリストやジャンヌ・ダルクなどの偉大な意識改革者のアーキタイプと並び、歴史に名を刻むことになるであろう。そう、彼らは、偉大な時代に生きているということを、自覚するにいたるのである。それこそが、真の「萌え」の哲学だ!
女神は現実に存在する人間だが、なにしろ女神はアニメを映し出す同じモニターから映し出されているのであり、それによってアニメと同じく神秘的で神聖な認識が私の中にあった。だから女神はアニメのキャラと同じぐらい神秘的に私の目に映ったのである。だから、女神はまさに私の「萌え」の対象だった。
いや、朝早くからの女神の活躍は、早朝の神、明けの明星、そう、アマテラスが天の岩戸から出現したような、金星のヴィーナス、アフロディーテが出現したような、そんな効果があった。私を明るくしてくれる太陽の存在、あの笑顔が私を元気づけてくれた。夢中だった。絶望の淵を彷徨っていたが、二度と這い上がれないかと思っていたが、それでも、毎週金曜日の、天と地を普く照らす我が女神の笑顔によって、本当に勇気づけられていた。女神の笑顔がどれほど私を救ってくれたことか・・・。
まあ、現実の世界に存在するとは言っても、私はアニメと同じ感覚で、モニターに映し出される女神を観ていたので、私にとっては現実離れしていた。そう、アリスでいえば、鏡の向こうの世界、つまりパラレルワールド、私の唯一の救いであるアニメの世界と同じ世界に女神は存在するものだと、思っていた。いや、頭では、彼女は現実の人間だと理解している、しかし、心では、(また二元論に陥ってしまうが)、つまり精神世界では、女神はスーリアルな存在だったのだ。だから、部屋に一人引き蘢ってはじめて、女神を観ることができた。なにしろ、私だけに笑顔で語りかけてくれるのだから。『ガンダム』では、ララのようなものか、『ラーゼフォン』ではクオンのようなものか。意識体で、私に交信してきているようなものだった。私は、デルフォイの神託を受けている気分だった。まるで、巫女装束に身を包んで、女神と交信しているような。
なにしろ、この世は、神のいない時代だ。こんな不条理な世界に神などいるものか!そして、この月々は神のいない時期である。だから、現代は神無月なのである。よって、私は神無月の巫女だ。正式には、私は男性だが、古代日本では、人はトランス状態になると、性別が転換すると信じられていた。だから、私は、女神と交信するときは、レズビアンになるのである。だから私は巫女だ。それに、出雲阿国という歌舞妓を創始した女性も、歩き巫女であり、男装をしていたという。だから、私も、女神と交信するときは、巫女服を着たい。そう、ベルダージュのように。
しかし、女神は現実に存在した。実際に会ったことはないが、存在してしまったのだ。たったひとつの衝撃的な証拠が、それを、これでもか!と証明していた。私が、一切皆苦としか受け取れないこの不条理な世界に。私だって、ニュータイプを目指しているわけではないが、ニーチェの言うところの「超人」、いわゆるスーパーマンになりたいと思っていた。そうしたら、女神と電波を使った交信だけではなく、実際にテレパシーで、その実像と会えるのではないかとさえ、期待していたからだ。しかし、私の尊敬する人が、私よりもはるかにニュータイプであるということは、以前から知ってはいたが、それで、私は彼を心から尊敬し、付き従ってきたが、それでも、超人のみに与えられた特権というものを、まざまざと、ご行使なされたとは・・・
うがー!!!!
超人はアニメと同じ世界にいる。なにしろモニターに映っているのだから。だから、私だって、超人になりたい。『フォークギターのお兄さん』というのは、テレビでないのだろうか。私には、それがピッタリだ。ちびっ子たちとギターを弾いて、アニソンを歌うんだ。キモオタはなぜ社会から迫害されてきたか。それは、まさにネオリベラル資本主義型消費社会の洗脳である。しかし、かつてジェシー・ジャクソン牧師が、
「Black is beautiful!」
と言ったように、私も『ギターのお兄さん』のコーナーで、ジョン・レノンの正統な後継者として、
「Otaku is beautiful! All you need is Moe!」
と弾き語りして、子どもたちの親の意識改革をするんだ。そう、保護者の意識改革だ。だぶん、保護者は女性の方が圧倒的に多い。アメリカも日本も男性至上主義社会だからね。女性の意識改革ができれば、子どもの改革につながり、やがて父親だけが、孤立する。そう、オタクの迫害は何を隠そう、男社会の産物なのである。だから、男を孤立無援にすれば、男性至上主義は崩れるのである。そして最後に、孤立した男は妻に平伏すのである。そして、彼らの娘が育つ頃には、私のギターでの改革運動で小さいときに既に意識改革がされているので、アニメのキャラに萌えるキモオタが美しく、本当にかっこいいという洞察力を開花させることにつながるのだ。それこそが、私の生涯の運動となるであろう。だから、テレビは『ギターのお兄さん』のコーナーを作り、私を超人にさせることである。そうすれば、キモオタに萌えた幼稚園児が、大人になれば、私のようなプロトタイプを崇拝することとなり、ブッダやキリストやジャンヌ・ダルクなどの偉大な意識改革者のアーキタイプと並び、歴史に名を刻むことになるであろう。そう、彼らは、偉大な時代に生きているということを、自覚するにいたるのである。それこそが、真の「萌え」の哲学だ!
さあ、グルメルポっていうわけでもないけど、あっしも虹色オリハルコンさんのブログで紹介されていた人妻の知恵である「炊飯器でゆで卵」をトライしてみた。ではその写真を早速グラスノスチする。
まずは卵をちゃんとすみずみまで清めて、そして炊飯器に入れる。

米が炊けたと同時に、ゆで卵もできているはず・・・(汗)。

そして恐る恐る殻をむくと、ちゃんとゆであがっていたので、ビックリ!やったー!そしてカレーライスにのせて完成。
というわけで、大成功ー!そして、これがまたうまかった!いやー、ロサンゼルスで貧乏やってる私にはたまらない生活の智慧であることは間違いなし。これぞ、まさに一石二鳥!かっかかー!人妻の知恵がここまで役立つとは。だが、私は人妻ではない。しかし、これは人妻ではなくても、かなり役立つはずである。というか普遍的な智慧であろう、女性としての。だから、これを使って女の子を口説いてみようかなぁ。しかし、私の周りの女性はいつの間にか人妻だらけになってしまった・・・。なんて悲惨な人生なんだ。人妻なんかにこんなテクニックを教えても無駄だし。どうせ恋は成就しないんだから。やっぱ、唯一の救いはアニメの女の子なのかなぁ。この女性の智慧を教えることによって女の子に「ええ、意外!ヘルメスってすごいよねー!」と印象づけようと思ったのに。だが、断っておくが、私は女性の節約の智慧にはとても憧れている。なにしろ私は紛れもなくレズビアンなのだから。だれがなんと言おうとも、たとえ万人が否定しようとも、私の前世は絶対に女性なんだ!本当は現世でも女の子になるはずだったんだ。が、なにかの手違いで化け物に生まれてしまったんだ、残念なことに!
私の最も尊敬する瑞穂ちゃんだって、きっとこの女性としての生活の知恵をクラスメイトたちから学んだはずである。涼風ちゃんも、唯一の得意料理であるゆで卵をこういう方法で料理していれば、萌果ちゃんなんかに大和を奪われずに済んだものを・・・。そしたら、萌果ちゃんは、絶対に私とデートしてくれたはずなのに。だが、私の今の本命は結衣ちゃんかなぁ?うわー、でも結衣ちゃんも料理が苦手だったんだよね。じゃ、この「炊飯器ゆで卵」を教えれば、彼女が私に恋すること間違いなし!
「ヘルメス君、すごい、あたし見直しちゃった
」
なんてねー。
きゃーかっかっかーあ!
まずは卵をちゃんとすみずみまで清めて、そして炊飯器に入れる。

米が炊けたと同時に、ゆで卵もできているはず・・・(汗)。

そして恐る恐る殻をむくと、ちゃんとゆであがっていたので、ビックリ!やったー!そしてカレーライスにのせて完成。
というわけで、大成功ー!そして、これがまたうまかった!いやー、ロサンゼルスで貧乏やってる私にはたまらない生活の智慧であることは間違いなし。これぞ、まさに一石二鳥!かっかかー!人妻の知恵がここまで役立つとは。だが、私は人妻ではない。しかし、これは人妻ではなくても、かなり役立つはずである。というか普遍的な智慧であろう、女性としての。だから、これを使って女の子を口説いてみようかなぁ。しかし、私の周りの女性はいつの間にか人妻だらけになってしまった・・・。なんて悲惨な人生なんだ。人妻なんかにこんなテクニックを教えても無駄だし。どうせ恋は成就しないんだから。やっぱ、唯一の救いはアニメの女の子なのかなぁ。この女性の智慧を教えることによって女の子に「ええ、意外!ヘルメスってすごいよねー!」と印象づけようと思ったのに。だが、断っておくが、私は女性の節約の智慧にはとても憧れている。なにしろ私は紛れもなくレズビアンなのだから。だれがなんと言おうとも、たとえ万人が否定しようとも、私の前世は絶対に女性なんだ!本当は現世でも女の子になるはずだったんだ。が、なにかの手違いで化け物に生まれてしまったんだ、残念なことに!
私の最も尊敬する瑞穂ちゃんだって、きっとこの女性としての生活の知恵をクラスメイトたちから学んだはずである。涼風ちゃんも、唯一の得意料理であるゆで卵をこういう方法で料理していれば、萌果ちゃんなんかに大和を奪われずに済んだものを・・・。そしたら、萌果ちゃんは、絶対に私とデートしてくれたはずなのに。だが、私の今の本命は結衣ちゃんかなぁ?うわー、でも結衣ちゃんも料理が苦手だったんだよね。じゃ、この「炊飯器ゆで卵」を教えれば、彼女が私に恋すること間違いなし!
「ヘルメス君、すごい、あたし見直しちゃった
」なんてねー。
きゃーかっかっかーあ!
くっそー、あの女め、うぐー!ちょっと告白文?読まれたくないなぁ、かなりプライベートなことなので・・・。
くー、悩殺されかけた。まさかあそこまでスタイルがいいとは。99%はもう悩殺されそうだったが、まさに万事休すというところで1%の望みにかけて、逃げ出し、九死に一生を得た。ああ、危なかった。このままでは、完全に・・・。この会社を紹介してもらった女の人がうちの会社に来ていたのだが、なんと、ピチピチなジーンズをはいていて、ハイヒールのせいもあるのだろう、脚がすごい長かったので、驚いてしまった。この人は身長が5.8フィート(173センチ)ぐらいで、もともと脚も長いのだろうし、それに今はやりのベービードールというシャツが若い女性の間で流行っており、それをこの三十代後半の女性が着ていたのだが、なんととてもフィットしていたので、私の脳細胞は随所まで破壊されてしまうのではないかと恐れてしまったほどだ。彼女が、
「どうですか、元気ですか?」
と笑顔で挨拶してきた時は、その眩しすぎるシルエットが目に入ってきて、もう声が出なくて、
「く・・く・くるな・・げ・・げんきじゃないよ」
と言って、一目散に逃げてしまった。さすがに、あれはまずかったなぁ、私としたことが、とてもプロフェッショナルではなかった。社会人なのに。ちゃんと挨拶はしておくべきだった。ああ、印象悪かっただろうなぁ。
でも、女も女だ、そもそも企業訪問だというのに、どうしてあんな格好してくるのだろうか。とてもプロフェッショナルとは思えない。スーツでバシッと決めなきゃ。あんな格好しているから行けないんだ。でも、そういうと、モハメッドが女性にヴェールをかぶせた心理と同じになってしまうからなぁ。じゃ、駄目だ。女性の人権を踏みにじる発言をしてしまった。しっけい!なら、非は完全に私だけにあったということで決着を付けよう。あっ!そういえば今日は金曜日だから、カジュアル・フライデーなんだ。ホワイトカラー独特の風習の。だって、前会った時は、ちゃんとしたドレスを着ていて、まったくそんなことなかったし、プロフェッショナルな女の人との認識しかなかったし、端から見ればただのおばさんだったので(「30代後半でおばさんとは何事だ!」と怒られるかもしれないが)、しかし、あまりもの変容ぶりに、度肝を抜かれてしまった。彼女はまるで萌果ちゃんを30代後半にしたような。それにしても、まさか、30代後半の女性に欲情してしまうなんて、ショックだった。マザーファッカーにはなりたくないからね。あっ、そうか、子どもの頃のお姉さんたちはこの人と近い年齢なんだろうね。だったら、くう、わからない。でも、やっぱり子どもの頃のお姉さんたちは、永遠に戻ってこないからなぁ。でも、私が一番戻りたいのは青春、とくに16歳だ!
でも、この人は結婚してるし、指輪がそれを証明していたし、でも恋さえしなければいいと思うなぁ。いいじゃない、もう21世紀なんだから、キリスト教の言説なんて捨てようよ。エロスだけでいい、現実の世界では。恋や萌えはアニメの世界でできるじゃん。なぜなら、アニメのキャラには皮膚感覚がないから、エロスを求めるのは無理があるんじゃないかと思うんだけど。エロスは接触、肉体と肉体との触れ合い、いわゆるスキンシップが基本だからね。だからキリスト教の二元論ではないが、愛はアニメの女の子に求めて、セックスは現実の女性に求めるのだ。アニメの世界は愛で、現実の世界は体だけだ。つまり魂はアニメ、肉体はセックスだ。だから「自由の国」にフリーセックスの世界に再びなってほしいのだ、かつての60年代のように。
恋とセックスは別だ。私は身をもってそれを体験した。私は大学の文化祭で、コメディー大会のステージで、
「すべての可愛い女よ、ボーイフレンドを捨てて、オレとやらせろ。やらせないと自殺するぞ。それでもやらせてくれなきゃ、髪の毛をくれ。たった一本でいいんだ。そうすれば、髪の毛からクローンをつくって、思う存分セックスしてやる。それだったら、君の人権を侵害することもないし、ストーカーやレイプも地上から消えるだろうし、一石二鳥でしょ?」
という歌を唄って、観客の女性の総スカンを食らった。笛吹けども踊らず、か・・・。しかし、ところがどっこい、ある女の子は私に欲情したようであり、その子はやはりアメリカ人だけあって、アメリカンサイズの豊胸であり、またセクシーであった。その子の目は、ショーを終えた後、なんかチラチラと私のことを見てきたし、色目だったので、私は刹那にチョモランマとなってしまい、腰をかがめないと歩けなくなってしまった。でも、彼女は私の友人のガールフレンドだったので、私も欲情したけれど、何もしなかった。ただ、友人の家でパーティーをしたとき、私がベッドルームでインターネットをしていると、その子はアルコールも入っているせいか、突然私にキスしてきたのだ。というか、もろに舌が使われていたので、私は、
「ぎぇ!」
となって、道徳心という悪魔に体を制御され、震えてしまった。そのときにお尻も掴まれて、女の人があそこまで握力が強いとは思っていなかったから、とても痛かったのが予想外で、女性のセクシュアリティーの力の前に圧倒されそうだった。今まで、女性って男と比べたら性欲が極端に弱いと思い込んでいたから、衝撃的だった。でもまず初めに考えてしまったことは、
「彼女のボーイフレンドはどうなる?」
ということだった。私は彼女にきいた。
「こんなことしてやばくない?ボーイフレンドは怒らないの?」
「大丈夫よ。セックスだけならオッケーなんだから」
と言っていた。私は彼女のボーイフレンドにも確認したが、
「やりたいことはやればいいじゃん!」
と彼女の性行動を逆に支持していたのだ。驚いた。まさかここまでリベラルだとは。それでなくとも、彼女はいい男がいると、いつも欲情していたからね。しかし、私は踏み出せなかった。タブーを犯すことができなかった、臆病者でありすっかりチキンになってしまっていたから。それに、女性からセックスの誘いがあったことなんて人生で一度もなかったし。この時は、私がヤハウェーの言説にがんじがらめになっていたのだ。セックスは恋愛に独占されるべきというイエスのもっとも間違った教えを、私はイエスを「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というほど嫌っていたのに、いつの間にか、しかも最重要局面という時に、イエスの教えを守ってしまっていたのである。正直者が馬鹿を見る、か・・。彼らキリスト教文化で育った人たちが、私のようなキリスト教圏外で育った人間よりも、キリスト教の呪縛から解脱していたのだから。この時、初めて、キリスト教と何の関わりもなかった私が洗脳されているということに自覚した。
彼女のボーイフレンドもイケメンではあったが、しゃべりだすと、動物に譬えるとウナギのようにウネウネしてヌルヌルするような掴みどころがない態度としゃべり方なので、瓢箪鯰というか、変人のようなので、女からドン引きされて、恋人ができにくかったそうである。端から見たらいい男、しかし実際話すと気違いもしくは変質者、そんな奴だった。まさに「言わぬが花」というような。だから普通の資本主義に洗脳された女の子はデートしなかった。でも、すごいいい奴だったことは確かだ。彼女も彼女で高校時代は荒れていて、精神安定剤を服用しなければ、まともに学校に行けなかったそうである。生まれつきに精神がちょっと普通の人と比べると、安定してなかったのだから、かわいそうといえばかわいそうだが・・・。ADHDだったのかもしれない。彼女の兄とも話したが、それこそ家族は大変な思いをしたそうである。で、彼女自身も大学の専攻は心理学で、セラピストになるのが夢であるそうだ。
しかし、その子の新しいボーイフレンドは厳しい保守的な人で、酒場で彼女は私にお尻を触らせてくれたのだが、それを目の前で見ていたボーイフレンドはカンカンに怒ってしまって、酒場から出てしまい、彼女は彼氏を追いかけて謝らなければならなかった。「まともな」人と付き合うと、これだからなぁ。自由を束縛されて、とても気の毒に思えた。どうしてキリスト教の言説を強制する人間と付き合うのだろうか。彼にも、
「あなたも性愛は謳歌していいんだよ
」
と教えてあげなきゃ。まったくあの男も実にヤハウェーのような奴だ。
私もキリスト教言説に洗脳されていなければ、あのとき、完璧にセクシュアリティを謳歌していただろうに。だって、彼女が欲情しているのに、私は彼女の欲情を無視して、彼女のボーイフレンドにいちいち確認するという行動をとってしまったのだから。つまり、彼女はボーイフレンドの所有物であることを、つまり男の所有物であることを、そのような男性至上主義にもとづく考え方をしていた自分に吐き気がした。それに私の歌詞にも
「ボーイフレンドを捨てて」
とあるので、いかに考えが固かったか。女のセックスはボーイフレンドに独占されていることを認めているようなものだ。だから、「ボーイフレンドがいようとも」に変えておくべきだった。私はまだ恋愛を信仰していたからなぁ、あの時は。彼女がセックスしたいのに、男の許可が必要だなんて、私は一体なにを考えていたのか。彼女は21歳以上だったし、だれの所有物でもなく、だれの奴隷でもなく、独立したアメリカ市民なのに。つまり、彼女の人権を私は尊重しなかったのだ。それに一番情けないのが、その男が許可していた、というより許可もクソもなく、自由だったのにも関わらず、男性至上主義的清教徒倫理というウジ虫が湧くようなヘドロに私が浸かってしまっていたということであった。そう、未婚女性が性的処女でなければならないのは、処女はヤハウェーの所有物だからである。そしてボーフレンドは処女を所有しているから、彼氏はヤハウェーであり、自分以外セックスを許さない。で、結婚すれば女は完全に男の所有物になってしまうという、つまりすべてセックスはヤハウェーの裁量下なのである。私は知らぬ間にそれを承認してしまっていたのだ。「据え膳食わぬは男の恥」という生温いものでは済まされない。その苦い経験のため、私はキリスト教の結婚観というのを破壊することに人生をかけることを誓った。
恋愛と結婚というのは常に一対一だ、一夫一妻もそれがベースであり、他者とのセクシュアリティを排除している。その哲学の根底にあるのがイエスである。だからイエスは私にとっては悪魔だ。彼の人類愛は確かに称賛されるべきもの、私はイエスの『山上の説教』とシッダールタの『初転法輪』、そしてジョンレノンの『イマジン』は、無比の人類の宝だと思うが、それでもイエスが『山上の説教』に「姦淫」というものを入れてしまったことは非難を避けられないであろう。またシッダールタの徹底した婬欲否定も同罪である。また、ジョンとヨーコもドメスチックーパートナー制度ではなく、結婚をしてしまったこと、サルトルとボーヴォアールのように自由の境地ではなかったことは後世に遺恨を残してしまったであろう。しかし、1980では、まだドメスチックパートナーという存在もなかったからね。もし、現在、ジョンが生きていたならば、きっとそちらの方でも精力的に動いているのではなかろうか。死人に口無しだから、なんとも言えないけどね。まあ、どちらにしろ、性の解放が、私の生涯の運動である。
私の尊師も、最近、幼稚園でセクシーな30代中盤の女性に会ったそうである。ああ、その幼稚園に幼稚園生として入学したいなぁ。そして幼稚園児として人生をやり直したい。そしてスキンシップがほしい。
私の体を玩んで〜!
「どうですか、元気ですか?」
と笑顔で挨拶してきた時は、その眩しすぎるシルエットが目に入ってきて、もう声が出なくて、
「く・・く・くるな・・げ・・げんきじゃないよ」
と言って、一目散に逃げてしまった。さすがに、あれはまずかったなぁ、私としたことが、とてもプロフェッショナルではなかった。社会人なのに。ちゃんと挨拶はしておくべきだった。ああ、印象悪かっただろうなぁ。
でも、女も女だ、そもそも企業訪問だというのに、どうしてあんな格好してくるのだろうか。とてもプロフェッショナルとは思えない。スーツでバシッと決めなきゃ。あんな格好しているから行けないんだ。でも、そういうと、モハメッドが女性にヴェールをかぶせた心理と同じになってしまうからなぁ。じゃ、駄目だ。女性の人権を踏みにじる発言をしてしまった。しっけい!なら、非は完全に私だけにあったということで決着を付けよう。あっ!そういえば今日は金曜日だから、カジュアル・フライデーなんだ。ホワイトカラー独特の風習の。だって、前会った時は、ちゃんとしたドレスを着ていて、まったくそんなことなかったし、プロフェッショナルな女の人との認識しかなかったし、端から見ればただのおばさんだったので(「30代後半でおばさんとは何事だ!」と怒られるかもしれないが)、しかし、あまりもの変容ぶりに、度肝を抜かれてしまった。彼女はまるで萌果ちゃんを30代後半にしたような。それにしても、まさか、30代後半の女性に欲情してしまうなんて、ショックだった。マザーファッカーにはなりたくないからね。あっ、そうか、子どもの頃のお姉さんたちはこの人と近い年齢なんだろうね。だったら、くう、わからない。でも、やっぱり子どもの頃のお姉さんたちは、永遠に戻ってこないからなぁ。でも、私が一番戻りたいのは青春、とくに16歳だ!
でも、この人は結婚してるし、指輪がそれを証明していたし、でも恋さえしなければいいと思うなぁ。いいじゃない、もう21世紀なんだから、キリスト教の言説なんて捨てようよ。エロスだけでいい、現実の世界では。恋や萌えはアニメの世界でできるじゃん。なぜなら、アニメのキャラには皮膚感覚がないから、エロスを求めるのは無理があるんじゃないかと思うんだけど。エロスは接触、肉体と肉体との触れ合い、いわゆるスキンシップが基本だからね。だからキリスト教の二元論ではないが、愛はアニメの女の子に求めて、セックスは現実の女性に求めるのだ。アニメの世界は愛で、現実の世界は体だけだ。つまり魂はアニメ、肉体はセックスだ。だから「自由の国」にフリーセックスの世界に再びなってほしいのだ、かつての60年代のように。
恋とセックスは別だ。私は身をもってそれを体験した。私は大学の文化祭で、コメディー大会のステージで、
「すべての可愛い女よ、ボーイフレンドを捨てて、オレとやらせろ。やらせないと自殺するぞ。それでもやらせてくれなきゃ、髪の毛をくれ。たった一本でいいんだ。そうすれば、髪の毛からクローンをつくって、思う存分セックスしてやる。それだったら、君の人権を侵害することもないし、ストーカーやレイプも地上から消えるだろうし、一石二鳥でしょ?」
という歌を唄って、観客の女性の総スカンを食らった。笛吹けども踊らず、か・・・。しかし、ところがどっこい、ある女の子は私に欲情したようであり、その子はやはりアメリカ人だけあって、アメリカンサイズの豊胸であり、またセクシーであった。その子の目は、ショーを終えた後、なんかチラチラと私のことを見てきたし、色目だったので、私は刹那にチョモランマとなってしまい、腰をかがめないと歩けなくなってしまった。でも、彼女は私の友人のガールフレンドだったので、私も欲情したけれど、何もしなかった。ただ、友人の家でパーティーをしたとき、私がベッドルームでインターネットをしていると、その子はアルコールも入っているせいか、突然私にキスしてきたのだ。というか、もろに舌が使われていたので、私は、
「ぎぇ!」
となって、道徳心という悪魔に体を制御され、震えてしまった。そのときにお尻も掴まれて、女の人があそこまで握力が強いとは思っていなかったから、とても痛かったのが予想外で、女性のセクシュアリティーの力の前に圧倒されそうだった。今まで、女性って男と比べたら性欲が極端に弱いと思い込んでいたから、衝撃的だった。でもまず初めに考えてしまったことは、
「彼女のボーイフレンドはどうなる?」
ということだった。私は彼女にきいた。
「こんなことしてやばくない?ボーイフレンドは怒らないの?」
「大丈夫よ。セックスだけならオッケーなんだから」
と言っていた。私は彼女のボーイフレンドにも確認したが、
「やりたいことはやればいいじゃん!」
と彼女の性行動を逆に支持していたのだ。驚いた。まさかここまでリベラルだとは。それでなくとも、彼女はいい男がいると、いつも欲情していたからね。しかし、私は踏み出せなかった。タブーを犯すことができなかった、臆病者でありすっかりチキンになってしまっていたから。それに、女性からセックスの誘いがあったことなんて人生で一度もなかったし。この時は、私がヤハウェーの言説にがんじがらめになっていたのだ。セックスは恋愛に独占されるべきというイエスのもっとも間違った教えを、私はイエスを「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というほど嫌っていたのに、いつの間にか、しかも最重要局面という時に、イエスの教えを守ってしまっていたのである。正直者が馬鹿を見る、か・・。彼らキリスト教文化で育った人たちが、私のようなキリスト教圏外で育った人間よりも、キリスト教の呪縛から解脱していたのだから。この時、初めて、キリスト教と何の関わりもなかった私が洗脳されているということに自覚した。
彼女のボーイフレンドもイケメンではあったが、しゃべりだすと、動物に譬えるとウナギのようにウネウネしてヌルヌルするような掴みどころがない態度としゃべり方なので、瓢箪鯰というか、変人のようなので、女からドン引きされて、恋人ができにくかったそうである。端から見たらいい男、しかし実際話すと気違いもしくは変質者、そんな奴だった。まさに「言わぬが花」というような。だから普通の資本主義に洗脳された女の子はデートしなかった。でも、すごいいい奴だったことは確かだ。彼女も彼女で高校時代は荒れていて、精神安定剤を服用しなければ、まともに学校に行けなかったそうである。生まれつきに精神がちょっと普通の人と比べると、安定してなかったのだから、かわいそうといえばかわいそうだが・・・。ADHDだったのかもしれない。彼女の兄とも話したが、それこそ家族は大変な思いをしたそうである。で、彼女自身も大学の専攻は心理学で、セラピストになるのが夢であるそうだ。
しかし、その子の新しいボーイフレンドは厳しい保守的な人で、酒場で彼女は私にお尻を触らせてくれたのだが、それを目の前で見ていたボーイフレンドはカンカンに怒ってしまって、酒場から出てしまい、彼女は彼氏を追いかけて謝らなければならなかった。「まともな」人と付き合うと、これだからなぁ。自由を束縛されて、とても気の毒に思えた。どうしてキリスト教の言説を強制する人間と付き合うのだろうか。彼にも、
「あなたも性愛は謳歌していいんだよ
」と教えてあげなきゃ。まったくあの男も実にヤハウェーのような奴だ。
私もキリスト教言説に洗脳されていなければ、あのとき、完璧にセクシュアリティを謳歌していただろうに。だって、彼女が欲情しているのに、私は彼女の欲情を無視して、彼女のボーイフレンドにいちいち確認するという行動をとってしまったのだから。つまり、彼女はボーイフレンドの所有物であることを、つまり男の所有物であることを、そのような男性至上主義にもとづく考え方をしていた自分に吐き気がした。それに私の歌詞にも
「ボーイフレンドを捨てて」
とあるので、いかに考えが固かったか。女のセックスはボーイフレンドに独占されていることを認めているようなものだ。だから、「ボーイフレンドがいようとも」に変えておくべきだった。私はまだ恋愛を信仰していたからなぁ、あの時は。彼女がセックスしたいのに、男の許可が必要だなんて、私は一体なにを考えていたのか。彼女は21歳以上だったし、だれの所有物でもなく、だれの奴隷でもなく、独立したアメリカ市民なのに。つまり、彼女の人権を私は尊重しなかったのだ。それに一番情けないのが、その男が許可していた、というより許可もクソもなく、自由だったのにも関わらず、男性至上主義的清教徒倫理というウジ虫が湧くようなヘドロに私が浸かってしまっていたということであった。そう、未婚女性が性的処女でなければならないのは、処女はヤハウェーの所有物だからである。そしてボーフレンドは処女を所有しているから、彼氏はヤハウェーであり、自分以外セックスを許さない。で、結婚すれば女は完全に男の所有物になってしまうという、つまりすべてセックスはヤハウェーの裁量下なのである。私は知らぬ間にそれを承認してしまっていたのだ。「据え膳食わぬは男の恥」という生温いものでは済まされない。その苦い経験のため、私はキリスト教の結婚観というのを破壊することに人生をかけることを誓った。
恋愛と結婚というのは常に一対一だ、一夫一妻もそれがベースであり、他者とのセクシュアリティを排除している。その哲学の根底にあるのがイエスである。だからイエスは私にとっては悪魔だ。彼の人類愛は確かに称賛されるべきもの、私はイエスの『山上の説教』とシッダールタの『初転法輪』、そしてジョンレノンの『イマジン』は、無比の人類の宝だと思うが、それでもイエスが『山上の説教』に「姦淫」というものを入れてしまったことは非難を避けられないであろう。またシッダールタの徹底した婬欲否定も同罪である。また、ジョンとヨーコもドメスチックーパートナー制度ではなく、結婚をしてしまったこと、サルトルとボーヴォアールのように自由の境地ではなかったことは後世に遺恨を残してしまったであろう。しかし、1980では、まだドメスチックパートナーという存在もなかったからね。もし、現在、ジョンが生きていたならば、きっとそちらの方でも精力的に動いているのではなかろうか。死人に口無しだから、なんとも言えないけどね。まあ、どちらにしろ、性の解放が、私の生涯の運動である。
私の尊師も、最近、幼稚園でセクシーな30代中盤の女性に会ったそうである。ああ、その幼稚園に幼稚園生として入学したいなぁ。そして幼稚園児として人生をやり直したい。そしてスキンシップがほしい。
私の体を玩んで〜!
追記を閉じる▲
私の住んでいるロス・アンヘレスは日本語で「羅府」と呼ばれる。羅府はラーフラの「ラーフ」であろう。つまり釈迦の息子の羅喉羅の羅喉であり、「羅」だけを取って「羅尊」とも呼ばれる。だからラーフラの町は「羅府」となるのである。よってロスアンジェルスとはラーフラの町のことである。ヒンドゥー神話では日食の交差点の昇交点がラーフと呼ばれ降交点はケートゥと呼ばれる。だから羅府は「束縛の町」を意味するのである。
だから私をこの束縛の町から脱出させ、ニューヨーク、またはパリに移り住まなければならないのだ。太平洋より大西洋の文化圏が私を解放してくれるだろう。それこそがモクシャ(解脱)への道である。よって私は今週末にニューヨークに旅に出ることを決意した。
だから私をこの束縛の町から脱出させ、ニューヨーク、またはパリに移り住まなければならないのだ。太平洋より大西洋の文化圏が私を解放してくれるだろう。それこそがモクシャ(解脱)への道である。よって私は今週末にニューヨークに旅に出ることを決意した。
私は唖然となった。私がかつて働いていたオクラホマの職場の同僚が交通事故でなくなったとの情報を知らされた。とても信じられない思いである。あの人はとても健康であったし、若かったし、まったく死とは無縁のようだった。図書室では普通に会話していたし、ごく普通の人だった。彼女は私と同じ大学を卒業したし、学科も同じであった。とても綺麗な方で職場ではモテた。私がオクラホマからカリフォルニアに引っ越した後だが、最近は結婚もし出産もしたそうだ。人生の絶好調と言っても良い。だが突然そんなことが起きてしまうなんて。実感が全く沸いてこない。もう二度と会えないのだ。かつて当たり前のように会話していた人がこの世に存在しない、墓場に行ってもスーリアルとしか受け止められないだろう。
この世というものは不条理だ。突然人の生命が偶然に終焉するとしたら何のために生きているのだろう。まったく自分の人生をコントロールできないのだから。ショックというよりも、どうして、という心境である。そう考えると逆に死なずに生き続けることがまるで奇跡のようだ。だがそれも偶然にも生き延びたというだけなのか。
もしそれが本当なら、ご冥福を祈るしかない。魂は存在するか分からないが、それでも黙祷はこの場を借りて捧げたい。
この世というものは不条理だ。突然人の生命が偶然に終焉するとしたら何のために生きているのだろう。まったく自分の人生をコントロールできないのだから。ショックというよりも、どうして、という心境である。そう考えると逆に死なずに生き続けることがまるで奇跡のようだ。だがそれも偶然にも生き延びたというだけなのか。
もしそれが本当なら、ご冥福を祈るしかない。魂は存在するか分からないが、それでも黙祷はこの場を借りて捧げたい。
| ホーム |





