『フエゴ・エン・ラ・サングレ』というメキシコのテレノベラを見ていますが、ああ、いいですね。主人公のソフィア・エリソンドは、カトリックの教会学校の先生です。で、彼女がどんな立場に置かれてるキャラなのか、このキャラクター図である程度わかると思います。

OPからもソフィアのキャラの設定がわかると思います。
そう、この場面です。この映像の3分目です。

ああ、いいですね。そういえば、私の保育園はカトリックの学校だったんです。で、こういう先生いましたよ。かすかな記憶しかありませんが、たしか20代の女の先生だったと思います。だから、このソフィアが子供たちに聖書を教えている姿は、自分の過去の記憶を呼び覚ましたんです。すごい懐かしかったんです、この映像を見て。私も先生の真似をして十字を切ってました。それで、アヴェ・マリアの曲が流れて。ああぁぁ、カトリックはいいですね。私は、『マリア様がみてる』を見た時も、とても衝撃的で、小笠原祥子さまがオルガンで弾くアヴェ・マリアは、もうとても感動して涙が溢れ出てきました。リリアン女学園の山百合会(生徒会)主催の新入生歓迎式だったんですけどね。聖堂で、ステンドグラスの光に照らされて、オルガンを弾く祥子さまの姿、とても綺麗でした。そして、これまで、私の人生がすべて罪で覆われていたような気になってしまって、いつの間にか、モニターの前でひざまずいて、お祈りしてたんです。
「ああ、マリアさまぁ、どうか僕の罪をお許しください!」
って。その時の祥子さまの華麗さ、どうして自分が女の子に生まれて来なかったんだろうと後悔しましたからね。祥子さまの妹になりたかった。ロザリオの契りを交わしたかった。そう、アリス(有栖川金太郎)とまったく同じ心境なのです。それも、レズビアン・カトリック。なんか、カトリックは、とても綺麗ですからね。憧れますよね。
しかし、カトリックが「愛の宗教」というのは、まったくのデタラメでインチキです。スペイン帝国のアメリカ植民地化における残虐行為などで一目瞭然です。しかもメキシコはスペインから独立したのに、ほとんどの人民はカトリックを未だに信仰している。宗主国の宗教を妄信的に信じているのです。宗主国を追い出したのに、宗教を追い出さないとは、どうなってるんでしょうか?朝鮮だって、朝鮮神宮かなんかを強制されて、アメリカに解放されてからちゃんと破壊したじゃありませんか?いずれ、人類全体がニーチェの「神が死んだ」を経験すれば、宗教のくだらなさを自覚でき、そんな詐欺に惑わされずに幸せを追求することができるでしょう。私は二次元のカトリックに憧れますが、三次元のカトリックは、論外です。ローマ教皇が国をもってるというのが、まったく理解できません。そもそも宗教というインチキに国家権威を持たせてるのが、民主主義ではないのです。バチカンの国家元首として教皇を認めたムッソリーニもファシストだから、あんな馬鹿げたことをしたんでしょうね。国連でバチカンが承認されてること自体まったく理解不能なのです。バチカン自体は規模が小さいですけど、あれを大きくするとイラン・イスラムのアーヤトーラのような危険なものになるのです。バチカンがイランほどの大きさならば、バチカン国民は人工中絶の権利もないし、同性愛者は死刑になるのではないでしょうか?また異端者は、魔女裁判にかけられて、火破りになりますし、カトリックの教義に反する科学を唱える科学者は、コペルニクスのように弾圧されるのです。ダーウェンの進化論でさえ、やっと今頃になって認めたんですから。よく、あんな人権蹂躙を堂々と行って来た腐った宗教からマザー・テレサが出て来たもんです。その神ヤハウェは、民族浄化と大量殺戮いう虐殺性に満ちた嫉妬の悪神であり、そんなふざけた神を信仰するところの保育園に通ってたというのは、まさに人生の汚点です。
まぁ、三次元は、そういうもんですが、二次元だったら、レズビアンや同性愛もちゃんと承認されてるようだし、ローマ教会のような人間の自由意志に真っ向から反するような堕落した教義ではありませんね。二次元のカトリックはとてもリベラルでですね。あぁ、でもソフィアも優しそうだし、実際に保育園の先生も優しかったなぁ。自分の身長は、ちょうど先生の股間のあたりでしたから、だから抱きつくと、頭が逆三角形の絶壁部分に当たってましたね。それが気持ち良くて、頭のてっぺんにある枕のような感じで。その先生は柔らかい生地の長いスカートだったから、感触が良かった。それで、抱きついては頭で先生のそこをぐりぐりやってました。20代の女性の肉体の柔らかさを初めて体験したんです、カトリックの保育園で。だから、小笠原祥子さまにも、やりたいなぁ。
「お姉さま!
」
って抱きついてぐりぐりしたい…。でも、16歳の男子がそんなことしたら、少年院行きになってしまいますね。

OPからもソフィアのキャラの設定がわかると思います。
そう、この場面です。この映像の3分目です。

ああ、いいですね。そういえば、私の保育園はカトリックの学校だったんです。で、こういう先生いましたよ。かすかな記憶しかありませんが、たしか20代の女の先生だったと思います。だから、このソフィアが子供たちに聖書を教えている姿は、自分の過去の記憶を呼び覚ましたんです。すごい懐かしかったんです、この映像を見て。私も先生の真似をして十字を切ってました。それで、アヴェ・マリアの曲が流れて。ああぁぁ、カトリックはいいですね。私は、『マリア様がみてる』を見た時も、とても衝撃的で、小笠原祥子さまがオルガンで弾くアヴェ・マリアは、もうとても感動して涙が溢れ出てきました。リリアン女学園の山百合会(生徒会)主催の新入生歓迎式だったんですけどね。聖堂で、ステンドグラスの光に照らされて、オルガンを弾く祥子さまの姿、とても綺麗でした。そして、これまで、私の人生がすべて罪で覆われていたような気になってしまって、いつの間にか、モニターの前でひざまずいて、お祈りしてたんです。
「ああ、マリアさまぁ、どうか僕の罪をお許しください!」
って。その時の祥子さまの華麗さ、どうして自分が女の子に生まれて来なかったんだろうと後悔しましたからね。祥子さまの妹になりたかった。ロザリオの契りを交わしたかった。そう、アリス(有栖川金太郎)とまったく同じ心境なのです。それも、レズビアン・カトリック。なんか、カトリックは、とても綺麗ですからね。憧れますよね。
しかし、カトリックが「愛の宗教」というのは、まったくのデタラメでインチキです。スペイン帝国のアメリカ植民地化における残虐行為などで一目瞭然です。しかもメキシコはスペインから独立したのに、ほとんどの人民はカトリックを未だに信仰している。宗主国の宗教を妄信的に信じているのです。宗主国を追い出したのに、宗教を追い出さないとは、どうなってるんでしょうか?朝鮮だって、朝鮮神宮かなんかを強制されて、アメリカに解放されてからちゃんと破壊したじゃありませんか?いずれ、人類全体がニーチェの「神が死んだ」を経験すれば、宗教のくだらなさを自覚でき、そんな詐欺に惑わされずに幸せを追求することができるでしょう。私は二次元のカトリックに憧れますが、三次元のカトリックは、論外です。ローマ教皇が国をもってるというのが、まったく理解できません。そもそも宗教というインチキに国家権威を持たせてるのが、民主主義ではないのです。バチカンの国家元首として教皇を認めたムッソリーニもファシストだから、あんな馬鹿げたことをしたんでしょうね。国連でバチカンが承認されてること自体まったく理解不能なのです。バチカン自体は規模が小さいですけど、あれを大きくするとイラン・イスラムのアーヤトーラのような危険なものになるのです。バチカンがイランほどの大きさならば、バチカン国民は人工中絶の権利もないし、同性愛者は死刑になるのではないでしょうか?また異端者は、魔女裁判にかけられて、火破りになりますし、カトリックの教義に反する科学を唱える科学者は、コペルニクスのように弾圧されるのです。ダーウェンの進化論でさえ、やっと今頃になって認めたんですから。よく、あんな人権蹂躙を堂々と行って来た腐った宗教からマザー・テレサが出て来たもんです。その神ヤハウェは、民族浄化と大量殺戮いう虐殺性に満ちた嫉妬の悪神であり、そんなふざけた神を信仰するところの保育園に通ってたというのは、まさに人生の汚点です。
まぁ、三次元は、そういうもんですが、二次元だったら、レズビアンや同性愛もちゃんと承認されてるようだし、ローマ教会のような人間の自由意志に真っ向から反するような堕落した教義ではありませんね。二次元のカトリックはとてもリベラルでですね。あぁ、でもソフィアも優しそうだし、実際に保育園の先生も優しかったなぁ。自分の身長は、ちょうど先生の股間のあたりでしたから、だから抱きつくと、頭が逆三角形の絶壁部分に当たってましたね。それが気持ち良くて、頭のてっぺんにある枕のような感じで。その先生は柔らかい生地の長いスカートだったから、感触が良かった。それで、抱きついては頭で先生のそこをぐりぐりやってました。20代の女性の肉体の柔らかさを初めて体験したんです、カトリックの保育園で。だから、小笠原祥子さまにも、やりたいなぁ。
「お姉さま!
」って抱きついてぐりぐりしたい…。でも、16歳の男子がそんなことしたら、少年院行きになってしまいますね。
どちらにするか、沖嫉妬神と隠岐嫉妬神、どちらも仮名読みだと「おきしっとしん」ですが…。沖島(奥津島)は、琵琶湖で、隠岐は隠岐国で出雲の上ですね。まっ、源流は福岡の沖ノ島ですね。
宗像三女神の長女(次女、または三女という説も)はオキツシマヒメといい、彼女が沖の島(隠岐島)に鎮座しています。まっ、この三姉妹は、まさにケルトのブリジット三姉妹や、ゲルマンのウルド三姉妹(もちろん、私の好きなベルダンディーもその中の一人です)など、また『ココロ図書館』の三姉妹、『フエゴ・エン・ラ・サングレ』の三姉妹など、くっかかー、萌えの原型なのです。でも宗像三女は、きっと一つだったキャラを無理矢理三つに分けたんでしょうね。だから、伝承によっては、長女と次女が逆になったりしてるんです。
で、この姉妹は、出雲の祖であるスサノオの剣から生まれましたから、国津神ですね。アマテラスが剣を噛んで吹いたというのは、ブロー・ジョブ(フェラチオ)だったのでしょうか?また、スサノオもアマテラスの勾玉のみすまるを噛んで吹いて、そこから天孫降臨の神々が生まれたそうです。もし、みすまるが女性を象徴するのならば、スサノオはアマテラスに対してクンニリングスを行い、潮を吹かせたのでしょう。その勾玉は「瓊(に)」というぐらいで赤かったそうですし、女性で赤い部分と言えば、唇でしょう、でも、オーラルセックスをお互いにやるとすれば、唇はもちろんワギナのほうですね。なので、勾玉は、この写真のようなワギナネックレスなのかもしれませんね。つまり、アマテラスとスサノオの契約は、69だったのです。姉弟でそんなことしたら近親相姦ですが、結婚というものは、兄弟になるようなものです。でなければ、配偶者の兄弟を「義理の兄弟」ということはないでしょう。それにスサノオは、アマテラスの生物学的な弟ではないと思いますし、それはモーゼがファラオの生物学的な兄弟ではなかったのと同じです。よって、厳密には近親相姦ではなかったのです。そうやって、オキツシマヒメはスサノオの精液から生まれます。オキツシマヒメの別名がタギリヒメで、タキリは「霧」という意味ですから、霧も精液の泡に譬えられたんでしょう。アマテラスがスサノオの精液を口に含んで、それを霧状に吹いたんでしょうね。それが沖ノ島に流れ着いて、そこから女神が発生したのが、オキツシマヒメだったんでしょう。アフロディーテーもウラヌスの精液が泡となってキプロス島に流れ着き、そこから生まれました。アフロディーテーの「アフロス」も「泡」という意味ですから、泡の姫、または、泡の女神、そうなると、タキリヒメも霧の姫、または霧の女神、つまり両者とも、精液から発生した神だったのです。まさに『ヴィーナスの誕生』ですね。

そしてオキツシマヒメは大国主と結ばれます。大国主は別名葦原の醜男(あしはらのしこお)です。そう、キモメンなのです。葦原のキモヲタなのです。日本のキモメン第一号なのです。それにしても国津神の出雲系は、キモメンが多いんですね。で、こちらサイトによれば、琵琶湖付近には白髭神社があり、白髭の神がいて、それが猿田彦なのです。猿田彦も出雲系、国津神ですね。だから、鼻がごつくて、キモメンだったのでしょう。手塚治虫の『火の鳥』の猿田のキモさは、永劫回帰のテーマです。で、その妻は、天のウズメですね。そう、あのストリップ嬢なのです。よって、エロティシズムの神なのですよ。そしてその神社の直線上に琵琶湖の沖ノ島があるというのです。そこの祭神が、沖津島姫なのです。葦原のキモヲタと結ばれたのですから。そう、キモメンを包み込んでくれた優しい女性なんです。だから、オキツシマヒメは、キモメンをいたわる女性の代名詞なんです。たぶん、国津神は縄文系で、渡来人の弥生系統とは違う顔をしていたので、それで先住民系はキモイというステレオタイプが生まれ、人種的な美的感覚が、蔓延ったんでしょうね。
実は、アフロディーテーもキモメンと関係があります。ウラヌスは、自分のキモメンの子供たちをキモイという理由でタルタロスという奈落に幽閉しました。そう、現代のキモヲタも、そうですね。社会から排除され、洞窟に捨てられるんです。つまり、ヲタ捨て山の洞窟に幽閉されるんです。それで、ウラヌスの妻のガイアが怒って、クロノスに命じて、ウラヌスを去勢するのです。それで、精液が流れ出し、それが泡となってキプロスにたどり着き、アフロディーテーになったのです。そうなるとオキツシマヒメもアフロディーテーも、同じ類型になるのでしょうか?

***
さて、噂によるとオキツシマヒメは、とても嫉妬深い女神だそうです。だから、福岡の沖ノ島では、女人禁制が敷かれているのという話です。つまり、彼女は、三次元の女をメチャクチャ嫌っているのです。しかし、はたしてそうでしょうか?
オキツシマヒメ(沖津島姫)は沖ノ島姫で、いわゆる現代で言えば、二次元のキャラクターですから、つまり沖ノ島は、もともとはキモヲタの捨て場だった可能性があるのです。そう、女にモテないキモヲタが島流しにされ、沖ノ島で、オキツシマヒメに萌えて、一人エッチしていたのです。社会で使い物にならずお荷物だったキモヲタの亡命先が沖ノ島だったのです。というか、亡命というより、捨てられたんですけどね、廃棄処分として。本土から離れた遠い島に。沖は「岸から遠く離れた」という意味ですからね。それはプラトンの洞窟で女の人の影を見てオナニーするようなものですね。まっ、この場合は洞窟というより離れ小島ですが。孤島です。たぶん始めは、女人禁制を敷いていたというより、だれも女が寄り付かなかったんでしょう。
「沖ノ島?うわっ、キモイ!」
とヲタ捨て山っていうか、ヲタ捨て島の代名詞として「沖ノ島」は有名であり、それで女の子はだれもその島に近づかなかったんです。『蝿の王』の孤島じゃないけれどもセント・ヘレナのような、とにかくキモヲタの巣窟だったんです。女の子がキモヲタに話しかけられたときに、
「近寄んじゃねぇ、キモヲタ!地獄に行け!」
と言う代わりに、
「沖ノ島に行け!」
とドン引きして罵倒してたんでしょうね。だから、スキンシップを拒絶された哀れなキモヲタたちが沖ノ島に集まり、自らの祭神を作り出し、その子に萌えるために妄想に耽ってオナニーしまくったんです。っていうか、そのキモヲタたちの精液によって、祭神が作り出されたのです。だから、沖ノ島姫が嫉妬して女人禁制になったのではなく、はじめから女の子はそこにキモくて近づけなかったので、「女性が近づかない島」だったのです。しかし、時間が経つに連れて、いつの間にか、それがキモイ場所から神聖な場所となり、女人禁制となったのです。そう、「女性が近づいてはいけない島」となってしまったんです。「一人」って書いて「独り」となりますね。そう、独ぼっちの、孤独な男の島、一人エッチ島、独島、孤島なのです。独島(竹島)も隠岐島の一部ですから、そこもオナニー島だったんでしょう。沖ノ島は「オナニー島」だったのです。だから、女性ははじめから近づく気にはなれなかったのです。女の子が入ると、とたんにキモヲタたちは、
「僕を助けに来てくれたんですね!」
と手を合わせて泣きついてきたはずです。だから女人禁制なんて、古代の女の子たちが、キモヲタを迫害しなければ、できなかったんです。だって、現実の女の子に求めても拒絶されたことを、二次元のキャラに求めるわけですから。で、沖ノ島の姫を萌えの対象としていたキモヲタたちが、今では、ちゃんと宗教家の先駆者として認知されたのです。『虹コンと宗教家の絶望的な差異』の記事で、その違いを書きましたが、キモヲタも宗教家になれる、いや、キモヲタこそが宗教家の開祖たりえることを示すのが、この宗像信仰ではないでしょうか?
そう、キモヲタたちに欠落しているのは、スキンシップ、だから、スキンシップの女神として、沖ノ島姫が作り出されたのです。それはキモヲタ・オナニスト(略してキモオナ)の集合的無意識でしょう。沖嫉妬神、それは沖ノ島姫ですが、実は嫉妬神ではないんですね。嫉妬神はヤハウェだけで結構です。沖ノ島姫はキモヲタの女神ですよ。優しさの塊じゃありませんか?だって、スサノオも、
「私の娘はとても優しい子だから、それで私の真心と潔白は証明できたはずです」
とアマテラスに言っているのですから。
「子供がいい子に育ったのは、親がいい人だったからだ」
という理屈ですね。しかし、スサノオがなにか企んでいるという疑いを晴らすのに、オーラルセックスするというのは、いいですね。フランス女性も、
「まず男を見極めるには、最初のデートでセックスしなきゃ」
と言っているそうですし、つまりセックスで、相手のキャラを判断するのです。あぁ、フランスに行きたい…。アマテラスもとてもフランス的だったと言えますね。まっ、とにかく、沖ノ島姫の天使のような優しいキャラが、スサノオの潔白を証明したんですから、それが、嫉妬心に燃えて現実の女を排除するなんてありえますか?女人禁制の理由はそんなところにはないのです。沖ノ島は、キモヲタの自縛霊の巣窟になってるんです。女に拒絶された苦しみをもったまま息絶えたのです。その無念と怨念なのです。きっと心霊写真では、オナニーをしてる自縛霊の姿が写っていることでしょう。だから、そんなところに女が入ると彼らが一斉に襲いかかってくるので、女性の安全の為に女人禁制になってるんです。しかしそれは間違ってます。野郎しか入れないのであれば、その迷える霊たちは永遠に浮かばれないんです。彼らを救うことにはならないんです。彼らが本当に求めていたのは、三次元の女の子だったんですから。拒絶されて虹コン(二次元コンプレックス)になっただけのことです。だから彼らが求めてるのは、女性なんですし。女性が来たら襲うどころか、成仏されますよ、ちゃんと優しさをもって、
「つらかったんだね、でもお姉ちゃんがいるからもう大丈夫
」
と言ってくれたら、それだけで天昇しますよ。女人禁制なんて馬鹿げてます。そんなんではキモヲタの亡霊はいつまでたっても救われません。だから、沖ノ島なんて、どんどん女の子が入っていきゃいいですよ。メイド服やお巫女さんの服なんかでコスプレしていきゃいいんです。そうすれば、かつて女性との皮膚感覚を経験できずに無惨に死んでいったキモヲタたちの怨念が解消され、それが本当の供養になると思います。そうすれば、彼らは、成仏できるのです。
よって、アフロディーテーも沖ノ島姫も、キモヲタの消極的去勢から生まれたんです。キモヲタはセックスしたくてたまらない、しかし、女はみんな彼らを「キモッ!」と拒絶します。スキンシップさえ取ってくれません。だから、金玉があってもじぇんじぇん役に立ってないので、去勢されてるのと同じなんです。キモヲタはヲタ捨て山の洞窟に捨てられて、幽閉されてるんです。現実の女の子に拒絶される、それは去勢です。で、去勢によって、女神が作り出されるのです。それは、まさに萌え系キャラです。だから、洞窟で萌え系キャラを妄想してオナニーしてるんです。それで、象徴的にクロノスが去勢されて、精液から女神が出来上がったのです。そう、卵子に辿り着けない精子がキモヲタのようなもの、つまり使い物にならなかった廃棄物の精子が、島に流れ着いて、二次元に卵子を妄想するようなもの。ウラヌスの精液も泡となってそこから泡の姫が生まれ、スサノオの精液も霧となってそこからタキリヒメが生まれました。精子の目的はつねに卵子にあるわけです、それと同じで、射精の目的は、つねに女性の膣にあるわけです。しかし、一人エッチでは、女性が欠落してるため、精液は廃棄されるだけです。だから、二次元に女神を作り出し、廃棄物にも目的を持たせるのです。つまり、人生に目的を持たせる、いわゆる意義を持たせることこそ、宗教なのです。キモヲタの女神崇拝は、そこから来ています。キモヲタも女神や萌え系キャラを作り出し、それにすがることによって、社会では廃棄物でしかない自分たちに、価値を見いだすのです。そうやって粉々に砕け散った尊厳を、再構築させようとするのです。よって、彼女らは、キモヲタの一人エッチから出来た女神なのです。一人エッチの一人エッチによる一人エッチのための女神。オナニストの神なんです。

だから沖ノ島姫も当然アフロディーテーのようにエロチックだと思うのです。それに、「優しい女の子」とスサノオが評価してますし、それはキモヲタに対して現実の女の子たちがあまりにも冷たかったからです。だから、
「こんな娘がいたらなぁ…」
という願望が、沖ノ島姫に体現されてるんです。まさに、
「こんな娘がいたら、僕はもう・・・!!」
の心境なんです。そう、この世にはいない理想の女の子、それが沖ノ島姫、そしてアフロディーテーもあれだけエロチックということは、キモヲタに対して、現実の女の子がまったくエロチックでなかったためでしょう。キモかったために、だれもエッチなことをしてくれなかったんです。だからこそ、女の子の優しさ、そしてエロさを二次元キャラに求めたのです。
***
だから、沖ノ島姫は、沖嫉妬神ではなく、沖使徒神なんです。で、彼女の心は、沖嫉妬心ではなく、沖使徒心(おきしとしん)なんです。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒を英語でangelと言いますから、沖のエンジェル・ハートなんです。そう、『エンジェル・ハート』で、ハート・トランスプラントを受けた冷酷な女スナイパアーに心境の変化があったように。そう、優しい心。優しさの玉なのです。優しさの魂なんです。優しさのエンジェルであり、神なんです。そうでなきゃ、キモヲタの神になれるはずがありません。そう、そして隠岐使徒神はオキシトシンであり、それは、スキンシップのホルモンなんです。オキシトシンは皮膚感覚が発生するとき、そうスキンシップを取るとき、触れ合うとき、抱き合うとき、そしてセックスのときに分泌されるんです。異性とのスキンシップの渇望が沖ノ島姫、沖使徒神を作ったのですから、オキシトシンなんです。それは女神です。キモヲタにとっての女神なのです。萌え系キャラがそうなのです。そう、そして、そのオキシトシンを分泌させる有効な方法は、タクティールケアですね。gooペットによると、
そう、タクティールとは、英語のtactile(触覚)、つまり皮膚感覚のことであり、タクティールケアというのは、スキンシップ療法なのです。そう、ペットというのも英語でpetであり、「撫でる」という意味があります。ペッティングといいますね。異性に柔らかく撫でられること、私もお尻をペッティングしてもらいたい!エロチジズムもスキンシップが根本ですからね。しかし、私どもキモヲタは皮膚感覚が欠落しているので、オキシトシンも欠落しています。その欠落から、隠岐使徒神という萌えキャラを作り出しました。ギリシャ語の「ヒステリー(子宮)」の語源も、「欠如」という意味だそうです。そして、この記事によれば、阿片で陶酔してるときに活性している神経回路は、恋愛中毒をもたらすといいます。それは、まさに二次元恋愛、いわゆる萌えですね。そう、オキシトシンの欠如のために、阿片に走るのです。オキシトシンの埋め合わせなんです。「宗教は阿片」とマルクスは言いましたが、キモヲタにとって萌えが阿片なのです。だから、萌えはヒステリーであり、キモヲタはヒステリーを起こしてるんです。つまり、異性とのスキンシップの欠如、オキシトシンの欠如から生まれたのが、沖ノ島姫、またはアフロディーテーだったんです。そう、優しさは、まさにオキシトシンからくるものであり、またエロスもオキシトシンと深く関わってます。そのオキシトシンの優しさを体現したのが、沖ノ島姫とアフロディーテーなのです。三次元という現実のオキシトシンの欠乏から、二次元でオキシトシンの女神を生み出したのです。それも、まさにサウダージ(切ない)。
だからこそ、スキンシップの謳歌を求めてるのです。オキシトシンはどこにあるか?それは南米にあります!南米で人生初めて体全体がオキシトシンで満たされたのです。南米ではサウダージを感じたら、異性にペッティングしてもらえる、よって、タクティールケアのクリニックは南米だー!
宗像三女神の長女(次女、または三女という説も)はオキツシマヒメといい、彼女が沖の島(隠岐島)に鎮座しています。まっ、この三姉妹は、まさにケルトのブリジット三姉妹や、ゲルマンのウルド三姉妹(もちろん、私の好きなベルダンディーもその中の一人です)など、また『ココロ図書館』の三姉妹、『フエゴ・エン・ラ・サングレ』の三姉妹など、くっかかー、萌えの原型なのです。でも宗像三女は、きっと一つだったキャラを無理矢理三つに分けたんでしょうね。だから、伝承によっては、長女と次女が逆になったりしてるんです。
で、この姉妹は、出雲の祖であるスサノオの剣から生まれましたから、国津神ですね。アマテラスが剣を噛んで吹いたというのは、ブロー・ジョブ(フェラチオ)だったのでしょうか?また、スサノオもアマテラスの勾玉のみすまるを噛んで吹いて、そこから天孫降臨の神々が生まれたそうです。もし、みすまるが女性を象徴するのならば、スサノオはアマテラスに対してクンニリングスを行い、潮を吹かせたのでしょう。その勾玉は「瓊(に)」というぐらいで赤かったそうですし、女性で赤い部分と言えば、唇でしょう、でも、オーラルセックスをお互いにやるとすれば、唇はもちろんワギナのほうですね。なので、勾玉は、この写真のようなワギナネックレスなのかもしれませんね。つまり、アマテラスとスサノオの契約は、69だったのです。姉弟でそんなことしたら近親相姦ですが、結婚というものは、兄弟になるようなものです。でなければ、配偶者の兄弟を「義理の兄弟」ということはないでしょう。それにスサノオは、アマテラスの生物学的な弟ではないと思いますし、それはモーゼがファラオの生物学的な兄弟ではなかったのと同じです。よって、厳密には近親相姦ではなかったのです。そうやって、オキツシマヒメはスサノオの精液から生まれます。オキツシマヒメの別名がタギリヒメで、タキリは「霧」という意味ですから、霧も精液の泡に譬えられたんでしょう。アマテラスがスサノオの精液を口に含んで、それを霧状に吹いたんでしょうね。それが沖ノ島に流れ着いて、そこから女神が発生したのが、オキツシマヒメだったんでしょう。アフロディーテーもウラヌスの精液が泡となってキプロス島に流れ着き、そこから生まれました。アフロディーテーの「アフロス」も「泡」という意味ですから、泡の姫、または、泡の女神、そうなると、タキリヒメも霧の姫、または霧の女神、つまり両者とも、精液から発生した神だったのです。まさに『ヴィーナスの誕生』ですね。

そしてオキツシマヒメは大国主と結ばれます。大国主は別名葦原の醜男(あしはらのしこお)です。そう、キモメンなのです。葦原のキモヲタなのです。日本のキモメン第一号なのです。それにしても国津神の出雲系は、キモメンが多いんですね。で、こちらサイトによれば、琵琶湖付近には白髭神社があり、白髭の神がいて、それが猿田彦なのです。猿田彦も出雲系、国津神ですね。だから、鼻がごつくて、キモメンだったのでしょう。手塚治虫の『火の鳥』の猿田のキモさは、永劫回帰のテーマです。で、その妻は、天のウズメですね。そう、あのストリップ嬢なのです。よって、エロティシズムの神なのですよ。そしてその神社の直線上に琵琶湖の沖ノ島があるというのです。そこの祭神が、沖津島姫なのです。葦原のキモヲタと結ばれたのですから。そう、キモメンを包み込んでくれた優しい女性なんです。だから、オキツシマヒメは、キモメンをいたわる女性の代名詞なんです。たぶん、国津神は縄文系で、渡来人の弥生系統とは違う顔をしていたので、それで先住民系はキモイというステレオタイプが生まれ、人種的な美的感覚が、蔓延ったんでしょうね。
実は、アフロディーテーもキモメンと関係があります。ウラヌスは、自分のキモメンの子供たちをキモイという理由でタルタロスという奈落に幽閉しました。そう、現代のキモヲタも、そうですね。社会から排除され、洞窟に捨てられるんです。つまり、ヲタ捨て山の洞窟に幽閉されるんです。それで、ウラヌスの妻のガイアが怒って、クロノスに命じて、ウラヌスを去勢するのです。それで、精液が流れ出し、それが泡となってキプロスにたどり着き、アフロディーテーになったのです。そうなるとオキツシマヒメもアフロディーテーも、同じ類型になるのでしょうか?

さて、噂によるとオキツシマヒメは、とても嫉妬深い女神だそうです。だから、福岡の沖ノ島では、女人禁制が敷かれているのという話です。つまり、彼女は、三次元の女をメチャクチャ嫌っているのです。しかし、はたしてそうでしょうか?
オキツシマヒメ(沖津島姫)は沖ノ島姫で、いわゆる現代で言えば、二次元のキャラクターですから、つまり沖ノ島は、もともとはキモヲタの捨て場だった可能性があるのです。そう、女にモテないキモヲタが島流しにされ、沖ノ島で、オキツシマヒメに萌えて、一人エッチしていたのです。社会で使い物にならずお荷物だったキモヲタの亡命先が沖ノ島だったのです。というか、亡命というより、捨てられたんですけどね、廃棄処分として。本土から離れた遠い島に。沖は「岸から遠く離れた」という意味ですからね。それはプラトンの洞窟で女の人の影を見てオナニーするようなものですね。まっ、この場合は洞窟というより離れ小島ですが。孤島です。たぶん始めは、女人禁制を敷いていたというより、だれも女が寄り付かなかったんでしょう。
「沖ノ島?うわっ、キモイ!」
とヲタ捨て山っていうか、ヲタ捨て島の代名詞として「沖ノ島」は有名であり、それで女の子はだれもその島に近づかなかったんです。『蝿の王』の孤島じゃないけれどもセント・ヘレナのような、とにかくキモヲタの巣窟だったんです。女の子がキモヲタに話しかけられたときに、
「近寄んじゃねぇ、キモヲタ!地獄に行け!」
と言う代わりに、
「沖ノ島に行け!」
とドン引きして罵倒してたんでしょうね。だから、スキンシップを拒絶された哀れなキモヲタたちが沖ノ島に集まり、自らの祭神を作り出し、その子に萌えるために妄想に耽ってオナニーしまくったんです。っていうか、そのキモヲタたちの精液によって、祭神が作り出されたのです。だから、沖ノ島姫が嫉妬して女人禁制になったのではなく、はじめから女の子はそこにキモくて近づけなかったので、「女性が近づかない島」だったのです。しかし、時間が経つに連れて、いつの間にか、それがキモイ場所から神聖な場所となり、女人禁制となったのです。そう、「女性が近づいてはいけない島」となってしまったんです。「一人」って書いて「独り」となりますね。そう、独ぼっちの、孤独な男の島、一人エッチ島、独島、孤島なのです。独島(竹島)も隠岐島の一部ですから、そこもオナニー島だったんでしょう。沖ノ島は「オナニー島」だったのです。だから、女性ははじめから近づく気にはなれなかったのです。女の子が入ると、とたんにキモヲタたちは、
「僕を助けに来てくれたんですね!」
と手を合わせて泣きついてきたはずです。だから女人禁制なんて、古代の女の子たちが、キモヲタを迫害しなければ、できなかったんです。だって、現実の女の子に求めても拒絶されたことを、二次元のキャラに求めるわけですから。で、沖ノ島の姫を萌えの対象としていたキモヲタたちが、今では、ちゃんと宗教家の先駆者として認知されたのです。『虹コンと宗教家の絶望的な差異』の記事で、その違いを書きましたが、キモヲタも宗教家になれる、いや、キモヲタこそが宗教家の開祖たりえることを示すのが、この宗像信仰ではないでしょうか?
そう、キモヲタたちに欠落しているのは、スキンシップ、だから、スキンシップの女神として、沖ノ島姫が作り出されたのです。それはキモヲタ・オナニスト(略してキモオナ)の集合的無意識でしょう。沖嫉妬神、それは沖ノ島姫ですが、実は嫉妬神ではないんですね。嫉妬神はヤハウェだけで結構です。沖ノ島姫はキモヲタの女神ですよ。優しさの塊じゃありませんか?だって、スサノオも、
「私の娘はとても優しい子だから、それで私の真心と潔白は証明できたはずです」
とアマテラスに言っているのですから。
「子供がいい子に育ったのは、親がいい人だったからだ」
という理屈ですね。しかし、スサノオがなにか企んでいるという疑いを晴らすのに、オーラルセックスするというのは、いいですね。フランス女性も、
「まず男を見極めるには、最初のデートでセックスしなきゃ」
と言っているそうですし、つまりセックスで、相手のキャラを判断するのです。あぁ、フランスに行きたい…。アマテラスもとてもフランス的だったと言えますね。まっ、とにかく、沖ノ島姫の天使のような優しいキャラが、スサノオの潔白を証明したんですから、それが、嫉妬心に燃えて現実の女を排除するなんてありえますか?女人禁制の理由はそんなところにはないのです。沖ノ島は、キモヲタの自縛霊の巣窟になってるんです。女に拒絶された苦しみをもったまま息絶えたのです。その無念と怨念なのです。きっと心霊写真では、オナニーをしてる自縛霊の姿が写っていることでしょう。だから、そんなところに女が入ると彼らが一斉に襲いかかってくるので、女性の安全の為に女人禁制になってるんです。しかしそれは間違ってます。野郎しか入れないのであれば、その迷える霊たちは永遠に浮かばれないんです。彼らを救うことにはならないんです。彼らが本当に求めていたのは、三次元の女の子だったんですから。拒絶されて虹コン(二次元コンプレックス)になっただけのことです。だから彼らが求めてるのは、女性なんですし。女性が来たら襲うどころか、成仏されますよ、ちゃんと優しさをもって、
「つらかったんだね、でもお姉ちゃんがいるからもう大丈夫
」と言ってくれたら、それだけで天昇しますよ。女人禁制なんて馬鹿げてます。そんなんではキモヲタの亡霊はいつまでたっても救われません。だから、沖ノ島なんて、どんどん女の子が入っていきゃいいですよ。メイド服やお巫女さんの服なんかでコスプレしていきゃいいんです。そうすれば、かつて女性との皮膚感覚を経験できずに無惨に死んでいったキモヲタたちの怨念が解消され、それが本当の供養になると思います。そうすれば、彼らは、成仏できるのです。
よって、アフロディーテーも沖ノ島姫も、キモヲタの消極的去勢から生まれたんです。キモヲタはセックスしたくてたまらない、しかし、女はみんな彼らを「キモッ!」と拒絶します。スキンシップさえ取ってくれません。だから、金玉があってもじぇんじぇん役に立ってないので、去勢されてるのと同じなんです。キモヲタはヲタ捨て山の洞窟に捨てられて、幽閉されてるんです。現実の女の子に拒絶される、それは去勢です。で、去勢によって、女神が作り出されるのです。それは、まさに萌え系キャラです。だから、洞窟で萌え系キャラを妄想してオナニーしてるんです。それで、象徴的にクロノスが去勢されて、精液から女神が出来上がったのです。そう、卵子に辿り着けない精子がキモヲタのようなもの、つまり使い物にならなかった廃棄物の精子が、島に流れ着いて、二次元に卵子を妄想するようなもの。ウラヌスの精液も泡となってそこから泡の姫が生まれ、スサノオの精液も霧となってそこからタキリヒメが生まれました。精子の目的はつねに卵子にあるわけです、それと同じで、射精の目的は、つねに女性の膣にあるわけです。しかし、一人エッチでは、女性が欠落してるため、精液は廃棄されるだけです。だから、二次元に女神を作り出し、廃棄物にも目的を持たせるのです。つまり、人生に目的を持たせる、いわゆる意義を持たせることこそ、宗教なのです。キモヲタの女神崇拝は、そこから来ています。キモヲタも女神や萌え系キャラを作り出し、それにすがることによって、社会では廃棄物でしかない自分たちに、価値を見いだすのです。そうやって粉々に砕け散った尊厳を、再構築させようとするのです。よって、彼女らは、キモヲタの一人エッチから出来た女神なのです。一人エッチの一人エッチによる一人エッチのための女神。オナニストの神なんです。

だから沖ノ島姫も当然アフロディーテーのようにエロチックだと思うのです。それに、「優しい女の子」とスサノオが評価してますし、それはキモヲタに対して現実の女の子たちがあまりにも冷たかったからです。だから、
「こんな娘がいたらなぁ…」
という願望が、沖ノ島姫に体現されてるんです。まさに、
「こんな娘がいたら、僕はもう・・・!!」
の心境なんです。そう、この世にはいない理想の女の子、それが沖ノ島姫、そしてアフロディーテーもあれだけエロチックということは、キモヲタに対して、現実の女の子がまったくエロチックでなかったためでしょう。キモかったために、だれもエッチなことをしてくれなかったんです。だからこそ、女の子の優しさ、そしてエロさを二次元キャラに求めたのです。
だから、沖ノ島姫は、沖嫉妬神ではなく、沖使徒神なんです。で、彼女の心は、沖嫉妬心ではなく、沖使徒心(おきしとしん)なんです。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒を英語でangelと言いますから、沖のエンジェル・ハートなんです。そう、『エンジェル・ハート』で、ハート・トランスプラントを受けた冷酷な女スナイパアーに心境の変化があったように。そう、優しい心。優しさの玉なのです。優しさの魂なんです。優しさのエンジェルであり、神なんです。そうでなきゃ、キモヲタの神になれるはずがありません。そう、そして隠岐使徒神はオキシトシンであり、それは、スキンシップのホルモンなんです。オキシトシンは皮膚感覚が発生するとき、そうスキンシップを取るとき、触れ合うとき、抱き合うとき、そしてセックスのときに分泌されるんです。異性とのスキンシップの渇望が沖ノ島姫、沖使徒神を作ったのですから、オキシトシンなんです。それは女神です。キモヲタにとっての女神なのです。萌え系キャラがそうなのです。そう、そして、そのオキシトシンを分泌させる有効な方法は、タクティールケアですね。gooペットによると、
タクティールケアという療法(セラピー)においても「オキシトシン」が効果を示します。一般的な療法であるアロマセラピーとは香りを嗅ぐことで心の健康を促し、内分泌系を刺激してホルモンの分泌を促進させる療法(セラピー)です。タクティールケアとは、柔らかく撫でるように触れる療法(セラピー)で、皮膚の接触受容体を刺激することにより、知覚神経を介して脳に信号を送り、脳からの「オキシトシン」分泌を促し、この「オキシトシン」は血管内に放出され、リラクゼーション効果や安心と信頼の感情が引き起こされるのです。
そう、タクティールとは、英語のtactile(触覚)、つまり皮膚感覚のことであり、タクティールケアというのは、スキンシップ療法なのです。そう、ペットというのも英語でpetであり、「撫でる」という意味があります。ペッティングといいますね。異性に柔らかく撫でられること、私もお尻をペッティングしてもらいたい!エロチジズムもスキンシップが根本ですからね。しかし、私どもキモヲタは皮膚感覚が欠落しているので、オキシトシンも欠落しています。その欠落から、隠岐使徒神という萌えキャラを作り出しました。ギリシャ語の「ヒステリー(子宮)」の語源も、「欠如」という意味だそうです。そして、この記事によれば、阿片で陶酔してるときに活性している神経回路は、恋愛中毒をもたらすといいます。それは、まさに二次元恋愛、いわゆる萌えですね。そう、オキシトシンの欠如のために、阿片に走るのです。オキシトシンの埋め合わせなんです。「宗教は阿片」とマルクスは言いましたが、キモヲタにとって萌えが阿片なのです。だから、萌えはヒステリーであり、キモヲタはヒステリーを起こしてるんです。つまり、異性とのスキンシップの欠如、オキシトシンの欠如から生まれたのが、沖ノ島姫、またはアフロディーテーだったんです。そう、優しさは、まさにオキシトシンからくるものであり、またエロスもオキシトシンと深く関わってます。そのオキシトシンの優しさを体現したのが、沖ノ島姫とアフロディーテーなのです。三次元という現実のオキシトシンの欠乏から、二次元でオキシトシンの女神を生み出したのです。それも、まさにサウダージ(切ない)。
だからこそ、スキンシップの謳歌を求めてるのです。オキシトシンはどこにあるか?それは南米にあります!南米で人生初めて体全体がオキシトシンで満たされたのです。南米ではサウダージを感じたら、異性にペッティングしてもらえる、よって、タクティールケアのクリニックは南米だー!
pfaelzerweinさんのブログに「芸者の銭洗い弁財天」の記事があり、それでふと考えました。私が、ワープアのままでキモヲタとして苦しんでいるのは、銭洗いをしなかったからではないかと。
銭洗いとは、鎌倉の大仏の近くにある銭洗弁天で、そこでお金を洗うおまじないです。そうすれば、功徳でお金が増えて裕福になるという信仰です。しかし、私も鎌倉の大仏は90年代前半に行ったんですが、そんなことはぜんぜん知りませんでした。「無知が仏」ということわざは嘘だったのです。つまり、私は銭を洗わなかった、つまり自分を禊ぎ清めなかった。穢れたまま渡米してしまったんです。
どういうことかというと、鎌倉の大仏を訪れたとき、大仏様のお尻から体中に入ったのを覚えてます。そうすれば、自分も無量寿(永遠の命)になれると思って。なにしろ、鎌倉の大仏は無量寿仏(阿弥陀如来)ですからね。でも、大仏のお尻から出て来たので、肛門から出てくるもの言えば排泄物、そう排泄物として、穢れてしまったんです。その後、銭洗い弁天に行って清めるのが習わしなんでしょうけど、そんなの知らないから、糞まみれのまま帰宅しちゃったんですよ。つまり禊祓いをしてこなかった。で、弁天様、つまりヴェルダンディと同じ系統のアーリアの女神であるサラスヴァティの怒りに触れて、私が渡米した後も、一番お金が稼げるNAFTAにおいてでも、お金が一向に増えないのは、やはり銭洗いをしてこなかったからでしょうか?大仏とのアナルな結合、その罪を弁天様に清めてもらわなければならなかったんですが、私はそれを怠ってしまいました。アナルな罪、英語で言えば「anal sin」、スペイン語で言えば「el pecado anal」ですね。
まあ、でも日本の仏教芸術は気持ち悪いです。菩薩とかの像も、腰のくびれとかラテン並みにすごいので、たぶんあの体は、日本人女性の体じゃなくて、インドとかペルシャの女性の体をモデルにしてると思うんです。それで菩薩像は、女かと思ったんですが、あれ、全部男だったんですよ。まさにヤオイの「受け」だったんです。ほんと、それを知った時は気持ち悪くて仕方なかったです。思わず口を押さえてトイレに駆け込んでしまいました。道理で、昔の日本って、男色が蔓延してたんですね、とくにお寺社会で。道理で、鎌倉の大仏も「受け」としてお尻に入り口があったんです。しかも阿弥陀仏を本尊とする浄土教には、変成男子説があって、それで、女を不浄としてるので、男色に走ってしまい、ああいうもっと不浄なアナル芸術が蔓延しちゃったんでしょうね。つまり、女性を不浄と見ることで、逆説的に男性がもっと不浄となってしまったんです。不潔ですね。だから、仏教芸術は、腐女子には、たまらないかもしれないです。だから、逆に変成女子説になったら、百合が一気に仏教芸術に花開くのです。変成女子は、なにも私特有の願いではなく、あの『生きがいシリーズ』で有名な飯田さんも、『生きがいの女性論』において「女の子になりたかった」と公言してるんですから。「仲間がいるー!」と思って心強いです。だから、私は彼を腐男子と疑いをかけてるんです。
2002年度のアカデミー賞脚本賞と2003年度のゴールデン・グローブ賞外国映画最優秀賞を獲得したスペイン映画、『Hable con ella』の逆バージョンの罪がまだ私に。この映画では、男が巨大な女性の膣に入るというものです。その映像はこちらで見れます。その女性は大仏の多きさほどあります。それで彼はヴァジャイナルな罪を犯してしまいました。「el pecado vaginal」です。しかし、私は、その逆で、大仏の肛門に入ってしまいました。そのアナルな術中にはまってしまったんです。ただでさえキモヲタとしてアンタッチャブル(不可触賤民)である私が、アナルな穢れのおかげでさらにアンタッチャブルになっちゃったんです。
ああ、女神サラスヴェティに清めてもらっていたら、今頃は!今でも遅くないか?その罪と穢れを禊祓わなければ。じゃ、銭洗弁天を訪れてる芸者さんたちに。でも、私はワープアだから銭すらない。そう、芸者さんたちに払う銭もないということは、洗い清める銭すらないということなのです。ああ、サラスヴェティは私を助けてくれやしない。それが、拝金主義的ネオリベラルの現実なのです。サラスヴェティはネオリベラルの女神だったのです!
やっぱり南米に行くしかないでしょうね。すくなくとも、アーリア文化の女神の禍が及ばない場所ですからね。だから、キモヲタである私にも皮膚感覚が生じたのです。だから、私は南米が忘れられない。もはや、私の心は越鳥南枝ですね。ローラもそう歌ってます。
そう、メキシコの子もそう歌ってるんですよ。つまり中米ではなく、南米なのです。中米、特にメキシコはNAFTAというネオリベラル資本主義圏に取り込まれてしまいましたからね。冷たい人間が増えて来たんですよ。だから、南米、図南鵬翼です。
よって、南米に行くしかないですね!
銭洗いとは、鎌倉の大仏の近くにある銭洗弁天で、そこでお金を洗うおまじないです。そうすれば、功徳でお金が増えて裕福になるという信仰です。しかし、私も鎌倉の大仏は90年代前半に行ったんですが、そんなことはぜんぜん知りませんでした。「無知が仏」ということわざは嘘だったのです。つまり、私は銭を洗わなかった、つまり自分を禊ぎ清めなかった。穢れたまま渡米してしまったんです。
どういうことかというと、鎌倉の大仏を訪れたとき、大仏様のお尻から体中に入ったのを覚えてます。そうすれば、自分も無量寿(永遠の命)になれると思って。なにしろ、鎌倉の大仏は無量寿仏(阿弥陀如来)ですからね。でも、大仏のお尻から出て来たので、肛門から出てくるもの言えば排泄物、そう排泄物として、穢れてしまったんです。その後、銭洗い弁天に行って清めるのが習わしなんでしょうけど、そんなの知らないから、糞まみれのまま帰宅しちゃったんですよ。つまり禊祓いをしてこなかった。で、弁天様、つまりヴェルダンディと同じ系統のアーリアの女神であるサラスヴァティの怒りに触れて、私が渡米した後も、一番お金が稼げるNAFTAにおいてでも、お金が一向に増えないのは、やはり銭洗いをしてこなかったからでしょうか?大仏とのアナルな結合、その罪を弁天様に清めてもらわなければならなかったんですが、私はそれを怠ってしまいました。アナルな罪、英語で言えば「anal sin」、スペイン語で言えば「el pecado anal」ですね。
まあ、でも日本の仏教芸術は気持ち悪いです。菩薩とかの像も、腰のくびれとかラテン並みにすごいので、たぶんあの体は、日本人女性の体じゃなくて、インドとかペルシャの女性の体をモデルにしてると思うんです。それで菩薩像は、女かと思ったんですが、あれ、全部男だったんですよ。まさにヤオイの「受け」だったんです。ほんと、それを知った時は気持ち悪くて仕方なかったです。思わず口を押さえてトイレに駆け込んでしまいました。道理で、昔の日本って、男色が蔓延してたんですね、とくにお寺社会で。道理で、鎌倉の大仏も「受け」としてお尻に入り口があったんです。しかも阿弥陀仏を本尊とする浄土教には、変成男子説があって、それで、女を不浄としてるので、男色に走ってしまい、ああいうもっと不浄なアナル芸術が蔓延しちゃったんでしょうね。つまり、女性を不浄と見ることで、逆説的に男性がもっと不浄となってしまったんです。不潔ですね。だから、仏教芸術は、腐女子には、たまらないかもしれないです。だから、逆に変成女子説になったら、百合が一気に仏教芸術に花開くのです。変成女子は、なにも私特有の願いではなく、あの『生きがいシリーズ』で有名な飯田さんも、『生きがいの女性論』において「女の子になりたかった」と公言してるんですから。「仲間がいるー!」と思って心強いです。だから、私は彼を腐男子と疑いをかけてるんです。
2002年度のアカデミー賞脚本賞と2003年度のゴールデン・グローブ賞外国映画最優秀賞を獲得したスペイン映画、『Hable con ella』の逆バージョンの罪がまだ私に。この映画では、男が巨大な女性の膣に入るというものです。その映像はこちらで見れます。その女性は大仏の多きさほどあります。それで彼はヴァジャイナルな罪を犯してしまいました。「el pecado vaginal」です。しかし、私は、その逆で、大仏の肛門に入ってしまいました。そのアナルな術中にはまってしまったんです。ただでさえキモヲタとしてアンタッチャブル(不可触賤民)である私が、アナルな穢れのおかげでさらにアンタッチャブルになっちゃったんです。
ああ、女神サラスヴェティに清めてもらっていたら、今頃は!今でも遅くないか?その罪と穢れを禊祓わなければ。じゃ、銭洗弁天を訪れてる芸者さんたちに。でも、私はワープアだから銭すらない。そう、芸者さんたちに払う銭もないということは、洗い清める銭すらないということなのです。ああ、サラスヴェティは私を助けてくれやしない。それが、拝金主義的ネオリベラルの現実なのです。サラスヴェティはネオリベラルの女神だったのです!
やっぱり南米に行くしかないでしょうね。すくなくとも、アーリア文化の女神の禍が及ばない場所ですからね。だから、キモヲタである私にも皮膚感覚が生じたのです。だから、私は南米が忘れられない。もはや、私の心は越鳥南枝ですね。ローラもそう歌ってます。
Con rumbo siempre hacia el sur
Buscando un poco de luz
De mis sentimientos
常に南に向かう道
私の夢に火をつけるほんの少しの光を探し求めながら
そう、メキシコの子もそう歌ってるんですよ。つまり中米ではなく、南米なのです。中米、特にメキシコはNAFTAというネオリベラル資本主義圏に取り込まれてしまいましたからね。冷たい人間が増えて来たんですよ。だから、南米、図南鵬翼です。
よって、南米に行くしかないですね!
ラテンのテレビ番組で気付いたことは、そう、お尻を映すのです。カメラワークがそうですね。そして、アメリカでは、そんなことはない。あの子のお尻がどうなっているか、確認することが出来ないのです。だから、そこが、もう文化の違いなのでしょうね。だって、アメリカでは、ブーブ・ジョブが盛んな国ですよ。いわゆる豊胸手術ですね。それは、ロサンゼルスのちょっと裕福なところの女子高生は親に強請るといいますからね。あの連邦下院議長のナンシー・ペローシもやっていると言われているんですから。米国人女性は、お尻よりも、胸を強調したいのです。まあ、でもラテンだと胸よりも腰ですね。ブリトニー・スピアーズもすごい腰を回転させるようなダンスをしてましたけどね、それでも彼女のお尻をカメラはあまり映さないですね。どうしても胸の方ですね。だから、私はペルーに行ってから、お尻派になりましたよ、世界観が完全に覆されました、胸からお尻に。だから、もう南米ですね。つまり
北米は胸、南米はお尻文化なのです。
でも、あのダイナマイトのような凄まじい爆発力のあるお尻に触るのは、ほんと至難の業です。だって、女性は、セクシャルな体をしてるのに、セクシャルじゃない、つまりセクシャルなことをするとセクハラになってしまう。まぎれもなくセックスの為の体じゃないですか!?なんで、あんなくびれてるんだろうか、どうして胸があるんだろうか、お尻が素敵なのだろうか?ああ、美しい、芸術だ、それに触れないなんて。どうして、性欲をそそる体をもている張本人が、性欲を持ってないんだろうか?というか、発情してないんだろうか?なんという矛盾!だれがこの責任を取ってくれるのだろうか!
しかし、どうして、精神面で女を男と同じように作らなかったんだろう?だから、私は神の存在を信じることが出来ない。無神論でいるのです。信じたら、神を恨んでしまうからです。
「神よ!どうして、女の性欲を男と同じぐらい強くしなかったんだ!?」
と。それで、最後に「ふざけんじゃねえ、アーメン」と言うのです。だから、絶対に敬虔なクリスチャンになるのは無理ですね。ほんと、女性の性欲さえ強ければ、私は天国を経験したのに。この世はエデンの楽園となるのに!キモオタとなって引きこもりとなって、虹コンになることはなかったんだ!女性の性欲は弱い、弱過ぎる、だからエッチできない。なにしろ、恋人としかエッチしては行けないというのが、間違っている。そんなんでは、楽しくないではないか。できるだけ多くの男とセックスしたいとは思わないのか!なんでだ!なぜだ!そんなバカなことがあるか!だから、売春ができてしまうんだ。それは、神が悪い。女の性欲を弱く作ったが為に、エッチしたいのに出来ない男ができてしまうからだ。私は、できるだけ多くの美女とエッチしたい、そして私の会話した男たちは、みんな、私に大賛成だった。私に同意しない男は一人もいなかった。みんな、
「ほんと、五大陸すべての美女とエッチしてえ!」
と言ってた。恋人がいる男も言ってましたし、結婚している男さえも言ってました。妻がとても美人で、夫婦生活、家庭生活がとてもうまくいっている男でさえ、
「ああ、ほんと、世界中の美女とやりたい、でも結婚してるし、家族があるから、それはもう無理だ」
とあきらめてました。
「でも、チャンスがあれば、やりたい?」
ときくと、
「いや、私は妻を愛してるし、家族を裏切ることは出来ない」
と言うのです。
「でも、やりたいことにはかわりない?」
ときくと、
「ああ、そうだ、やりたい」
としぶしぶ答えたのです。そう、たとえ、妻がどんな美人であっても、やはり美人がほかにもいたら、やりたいと思うのです。それが男です。つまり、男は、道徳心によって、自制しているだけのです。しかし、欲望は嘘をつきません。体は正直なのです。美人が色目で背中をさすってくるだけで、もう男のあそこは熱くなってしまうのですから。だから、道徳心ではなく、体に正直になれと私は言いたいのです。キネシオロジーは嘘をつきません。しかし、男は自分に嘘をつきます。嘘をつかないと生きていけない。シュワルツネッガーもセクハラ疑惑で大変な目に遭いました。彼は逆に正直に生きた人でしたけど、やはりスキャンダルとなってしまいました。しかし、彼はハリウッドスターで知事ですから、敏腕の弁護士を雇って裁判も解決できるけど、普通の男だったらそんな地位も金もないですから刑務所行きです。だから、男は体に正直になったら刑務所に入ってしまうのです、そうならないためにも、自分に嘘をつくしかない、だから男は神経症になるのです。しかし、やはり我慢は体にも精神にも悪いです。とくに皮膚感覚が欠落している日本とアメリカは最悪です。そして、恋人ができなければ、女に相手にされなければ、絶対にエッチできません。モテない男はどうしょうもありません。売春は女性の権利侵害と国連の条約に明白に書いてあるので、売春すらオプションにありません。キモオタは正義感が強いですから。でも、やはりそれでは、精神が参ってしまいます。心を病んだキモオタがたくさん出て来てしまいます。よって、二次元に逃避するしかないのです。
いやぁ、でもその男の妻は、変でしたよ。美人でしたが、私がその男のことをどう思うかを尋ねてみたら、
「彼は実に誠実な人で…」
と答えてました。騙されてましたね。本当に誠実だったら、妻にほかの女とセックスしたいと言うではないか。しかし、それは言ってはいない。ということは、彼女の夫は不誠実ですね、実に。まあ、
「えっ、本当に誠実?あなた以外の女の人とセックスしたいって私と話してたこと言っていた?」
とは、さすがにきけませんでしが、そんなこときいたら、金玉を蹴られてしまいますから。でも、そんなことは妻には話さないだろうと思ってましたから。
私は、いろいろな女の子に訊いて回りました、不特定多数の魅力的な男たちとセックスしたいと思うかと、そしたら、
「そんな不潔なことはできない」
と言うのです。「不潔」とは、なんという考え方でしょうか?それこそ、私にとっては、「純粋」だと思うんですけど。セックスを汚いことと思っているところは、まだ清教徒倫理に洗脳されている証拠ですね。そして、彼女らは、
「まるで売女だ」
とさえ言っていました。それが、間違っています。「売女」は金をもらってセックスする女性です。金をもらわなくて、たくさんの男とセックスしたら、それは売女でしょうか?ちがいますよね、それこそ素晴らしい理想の女性です。女神です。キモオタにとっては、どんなに救済になることか!しかし、その「売女」という意識をなんとかして変えないと駄目ですね。ヤハウェーの洗脳ですから。しかし、ハンサムな男を見たとたんに
「やりたい」
とは思わないのだろうか?情事に耽りたいとは思わないのか?それを質問しました。そしたら、
「もちろんハンサムな男とは話したい、一緒に時間を過ごしたいと思うけど、絶対にセックスしなきゃとは思わないなぁ、もちろんセックスの欲望もあることはあるけど、それが最優先とはならないねぇ」
とまじめに答えてました。しかも、その人は、フェミニストでした。私は、
「なあんでだー!」
と頭を抱えてしまいました。だから、駄目です。性欲の強さがまるで男と違う。男だと見た瞬間に勃起しますが、女は見た瞬間に濡れるということはないんですか。それは、もう、神を恨むしかない。もし、神が女を創造したんだったらね。だって、できるだけ多くの男とセックスする為にあんな官能的な体をしてるんじゃないのか!なんのためにあの体はあるんだろうか?あれだけ不特定多数の男を惹き付ける体を持っておきながら!女も男とセックスを絶対にしたいと思わないのか!女は不特定多数の男とセックスしたいとは思わないのだろうか?
性欲の強さ、日本書紀によれば、イザナミはとても性欲が強かった。なにせ、女性からセックスを誘ったのだから。私は、日本書紀を読んでいて、
「こんなばかなことがあるのかー!!!」
と叫びました。しかし、女性から誘ってセックスしたら、奇形児が生まれてしまいました。まあ、それがヒルコで、恵比寿になるんですけど。で、今度はイザナギから誘ってセックスしたら、ちゃんとした健康児が生まれたそうです。つまり、セックスは男主導でないといけない。つまり、男性至上主義なわけです。そこで、セックスが女性主導から男性主導になったことを表すのです。だから、私は、社会的なマッチョによる抑圧が、女性性を消極的にしてしまったのだと思います。それに、アメリカもいたってマッチョ社会ですから、女性からデートに誘うということは、まあ、今では歓迎されるようにはなってきてますけど、それでもつい最近ですからね。だって、ある男は、すごい美人な人にデートに誘われたと言ってましたけど、結局付き合わなかったそうです。
「あの人はあまりにも積極的だったから、引いてしまったよ」
とその男は答えました。私は、
「お前は、馬鹿か!」
と言いました。女性から誘われるなんて、私がどれだけ夢見て来たことだろうか?それは、アニメの世界でしか見られなかったことじゃないですか!それが、現実の世界にも起こっているんですから、それをボウに振るなんて、まったく理解できません。私だったら、誘って来た瞬間に、エッチを提案しますけどね!美人な人を却下するなんて、まったくその神経が理解できない。アニメでは、もう女の子は積極的で、しかもエッチをけしかけてるというまさに夢がそのまま描かれてるんですから。だから、私が思うには、本当に男女平等な社会になれば、女性の性欲もイザナミのようなレベルまで、回復すると思うのです。それは、先天的なものでなくて、社会的なものなのです。だから、あのようなマッチョな男がいるのです。イザナギのように、
「デートは男から誘うべきだ、それに順応しない女とは付き合えない」
と思ったのでしょうね。そして、2000年間のキリスト教という男性原理の宗教の支配、それも、女性の性欲を弱めた原因ではないでしょうか?だから、女をあばら骨から作ったとされる神ヤハウェーが性欲を弱めたという神話は理解できるのです。
それに、女性の性欲は強いはずです。だって、女性の瞳孔がもっとも反応するのは、赤子の写真と男性のヌードの写真なんですから。キネシオロジーは正直です。体は嘘をつきません。しかし、弱いと洗脳される。強いと「売女」だと思われてしまうのです。また、誘惑する女は、サキュバスだとされ、卑しい女とされてしまう言説があるのです。かつては、魔女として火破りにあいかねない。そこで性欲を押さえ付けられる。いまでこそ、処女であることが誇りであることはなくなりましたが、やはり女性が性的にふしだらなことが卑しいとされることは、キリスト教の「処女」思想の延長というか、名残でしょうね。結婚の時は、かならず「ヴァージン・ビロード」と着るのですから、あれは、ほんとにふざけだ風習です。女性が男性に対して積極的にセックスを話すことは、卑しいとされるからです。だから、女性は嘘を男よりもつかないと行けない。女性の嘘をつく確率は男よりもあるそうです。それは、デートを平気ですっぽかすことでも証明されます。つまり、「男に二言はない」「男の一言金鉄の如し」ということわざが女には適応されてないのが原因です。男がデートをすっぽかすことなど、ほとんどないでから。それを、人の一言金鉄の如しとすればいいのです。そう、まず、「男」という部分を、男女、人にすればいいのです。それこそ、ジャンダーの脱構築です。
それは、男尊女卑的社会的抑圧が女性に嘘をつくように仕向け、正直になれなくなってしまったのです。ほんとはしたいことをしたいとは言えない、ほんとはしたくないことをしたくないとは言えない、嘘によって成り立つように仕向けているのが、男権至上主義なのです。だから、それは、女性が性欲に忠実になれば、解決するのです。体に正直になることで、男性至上主義を打破できるのです。魅力的な男がいれば、ちょっとぐらいお尻を叩くか、自分のお尻を触らせるぐらいのスキンシップがあればいいんですけどね。まあ、ラテンでは、かならず挨拶では抱擁してキスしますから、それは、いいですよね。エロいことがエロくないというか、ごく自然にセクシュアリティーに入れるわけですから。
ああぁぁ、なんで私が萌え系アニメ中毒になったか、それはシンプル、女性との皮膚感覚が完全に欠落しているからです。もう、毎日のようにアニメを見てましたからね、ペルーに行くまでずっとそれは続いてました。アメリカでも、もう皮膚感覚がぜんぜんなくて、死にそうになりました。売春はネバダに行けば合法ときいてました。しかし、私は、売春を撲滅するべきだと思っています。国連の条約にもあるのですから。そのオプションは当然ありませんでした。でも、女性の合意を求めることが出来ない。なにしろ、恋人をまず作らないとセックスできない。しかし、恋人になるのは、どんなに大変か。それは奇跡でしょう。だって、女性が好きになってくれないと行けないのですから。そう、恋愛感情がないと駄目なのです。だから、いくらデートを重ねても、デートの相手として気に入られても、恋人にならなかったらどうしょうもないのです。恋をして貰わないと。アメリカには性的に自由な女性が多いときいたんですけど、そうでもないですね。私のやりたい女性はみんな私の前を通り過ぎていきましたよ。友人、知り合い、同僚、クラスメイト、恋人を持ってる奴らが本当に羨ましかった…。しかも、私の気に入っていた子が友人に奪われた時は、絶交しました。それで、多くの友だちを失いました。恋敵、絶対に許せませんでした。私の気に入ってた子と毎晩セックスしてたのですから、そんな苦しみはこの世になかったです。しかも恋は排他的ですから、もうその子とはイチャつけない、触ることすら出来ない、じつに苦しい、あれほど辛いことはなかった、まさに悲劇的な人生でした、絶望の淵を彷徨ってました、だから、窓から飛び降りようと思ったほどです。でも、私は絶対に死にたくなかった。死んだら、快楽を経験することも出来ない、だから、死ななかったんです。男はほんとに憎い、もっとも卑劣な生物だ。独占するなんて。そんな生物と、たった一匹とセックスするなんて考えられない。たった一人とまるで結婚したカップルのように付き合うなんて。どうして、たった一人なのだろうか?そこがまったく理解不能だ。どうして女性は、多くの男と同時にやろうとしないのだろうか?男は、恋人がいても、セックスしたいと思ってるのだから、それはチャリティー精神に近い。もし、フリーだったなら、だれとでもやれるんだから、やってくれてもいいじゃん。私がもし、多くの女の子からセックスしようと誘われたら、もう大歓迎なのに。もう、神に感謝。神の存在を認め、神を信仰するはずです。っていうか、男神じゃなくて、女神を信仰することになるでしょうね!
あぁぁ、ラテンはでもすごかった。あんな官能ダンスを目の前で一緒に踊ってくれる、あの腰の回転は、うっひぇーっとなるし、しかもそのダイナマイトな腰に手を置けるんですよ!!!完全に私を「ぐわああああぁぁぁあ」とさせました。そして、色目でじっと見てくるし、しかも微笑んで、舌で下唇を舐めるのです。私は、もう、
「ひががぐっぎぎっががぁぁげぐどぎぐちちいえねぅぅええええああぁぁぎききゃぁあああ!!!!!」
とスクリーチしてしまいました。ね、あれは、性欲は男と同じぐらい強いと思いますよ。ラテンの官能ダンス、サルサなんか、やはりプエルトリコとキューバのダンスがミックスした、しかもキューバのソンというダンス音楽がもとになっていて、それは、西アフリカのダホミー王国の部族の民族舞踊がルーツになっているというのです。ああ、サンバも、アンゴラやコンゴのダンスがルーツになっていて、男女が上半身裸で、臍と臍を重ね合わせて踊るのがもともとのスタイルだそうです。ラテンのダンスは、ほんと性欲をそそるような、ダンスですよね。ああ、うがー、ダンスも女の子が誘ってくるなんてね、ビックリですよね。ぐふふふふぁあ。ゲームの『キミキス』よりもインパクトが強かった、まあ、三次元ですから、そりゃ皮膚感覚の刺激は本物ですよ。でも、マッチョ社会のラテンで、女性がそんな積極的だったのは、驚きでしたね。フェミニズムが完成された社会でこそ、女性はとても積極的になると思ってたんですけどね。まぁ、フェミニズム社会ではなくても、そういう女性の積極性は見られた、まぁ、あくまでもロマンスにおいてだけでしょうけれども、それが社会全体に広がれば、フェミニズム社会となるんでしょうね。ラテンの女性は素晴らしい。女神だー。崇拝したい。毎日拝みたい。ああ、でも、若い時は、ラテンでしょうね。年を取ったらセックスの対象になれませんから。だから、私は若いままでいたい。16歳に戻りたい。メキシコのテレノベラで、『Lola... Érase una vez』がありますが、主人公は16歳の女の子ですからね。しかも、ロックバンドをやってる、涼宮ハルヒみたいなもんですよ。だから、すごい憧れま〜す。
北米は胸、南米はお尻文化なのです。
でも、あのダイナマイトのような凄まじい爆発力のあるお尻に触るのは、ほんと至難の業です。だって、女性は、セクシャルな体をしてるのに、セクシャルじゃない、つまりセクシャルなことをするとセクハラになってしまう。まぎれもなくセックスの為の体じゃないですか!?なんで、あんなくびれてるんだろうか、どうして胸があるんだろうか、お尻が素敵なのだろうか?ああ、美しい、芸術だ、それに触れないなんて。どうして、性欲をそそる体をもている張本人が、性欲を持ってないんだろうか?というか、発情してないんだろうか?なんという矛盾!だれがこの責任を取ってくれるのだろうか!
しかし、どうして、精神面で女を男と同じように作らなかったんだろう?だから、私は神の存在を信じることが出来ない。無神論でいるのです。信じたら、神を恨んでしまうからです。
「神よ!どうして、女の性欲を男と同じぐらい強くしなかったんだ!?」
と。それで、最後に「ふざけんじゃねえ、アーメン」と言うのです。だから、絶対に敬虔なクリスチャンになるのは無理ですね。ほんと、女性の性欲さえ強ければ、私は天国を経験したのに。この世はエデンの楽園となるのに!キモオタとなって引きこもりとなって、虹コンになることはなかったんだ!女性の性欲は弱い、弱過ぎる、だからエッチできない。なにしろ、恋人としかエッチしては行けないというのが、間違っている。そんなんでは、楽しくないではないか。できるだけ多くの男とセックスしたいとは思わないのか!なんでだ!なぜだ!そんなバカなことがあるか!だから、売春ができてしまうんだ。それは、神が悪い。女の性欲を弱く作ったが為に、エッチしたいのに出来ない男ができてしまうからだ。私は、できるだけ多くの美女とエッチしたい、そして私の会話した男たちは、みんな、私に大賛成だった。私に同意しない男は一人もいなかった。みんな、
「ほんと、五大陸すべての美女とエッチしてえ!」
と言ってた。恋人がいる男も言ってましたし、結婚している男さえも言ってました。妻がとても美人で、夫婦生活、家庭生活がとてもうまくいっている男でさえ、
「ああ、ほんと、世界中の美女とやりたい、でも結婚してるし、家族があるから、それはもう無理だ」
とあきらめてました。
「でも、チャンスがあれば、やりたい?」
ときくと、
「いや、私は妻を愛してるし、家族を裏切ることは出来ない」
と言うのです。
「でも、やりたいことにはかわりない?」
ときくと、
「ああ、そうだ、やりたい」
としぶしぶ答えたのです。そう、たとえ、妻がどんな美人であっても、やはり美人がほかにもいたら、やりたいと思うのです。それが男です。つまり、男は、道徳心によって、自制しているだけのです。しかし、欲望は嘘をつきません。体は正直なのです。美人が色目で背中をさすってくるだけで、もう男のあそこは熱くなってしまうのですから。だから、道徳心ではなく、体に正直になれと私は言いたいのです。キネシオロジーは嘘をつきません。しかし、男は自分に嘘をつきます。嘘をつかないと生きていけない。シュワルツネッガーもセクハラ疑惑で大変な目に遭いました。彼は逆に正直に生きた人でしたけど、やはりスキャンダルとなってしまいました。しかし、彼はハリウッドスターで知事ですから、敏腕の弁護士を雇って裁判も解決できるけど、普通の男だったらそんな地位も金もないですから刑務所行きです。だから、男は体に正直になったら刑務所に入ってしまうのです、そうならないためにも、自分に嘘をつくしかない、だから男は神経症になるのです。しかし、やはり我慢は体にも精神にも悪いです。とくに皮膚感覚が欠落している日本とアメリカは最悪です。そして、恋人ができなければ、女に相手にされなければ、絶対にエッチできません。モテない男はどうしょうもありません。売春は女性の権利侵害と国連の条約に明白に書いてあるので、売春すらオプションにありません。キモオタは正義感が強いですから。でも、やはりそれでは、精神が参ってしまいます。心を病んだキモオタがたくさん出て来てしまいます。よって、二次元に逃避するしかないのです。
いやぁ、でもその男の妻は、変でしたよ。美人でしたが、私がその男のことをどう思うかを尋ねてみたら、
「彼は実に誠実な人で…」
と答えてました。騙されてましたね。本当に誠実だったら、妻にほかの女とセックスしたいと言うではないか。しかし、それは言ってはいない。ということは、彼女の夫は不誠実ですね、実に。まあ、
「えっ、本当に誠実?あなた以外の女の人とセックスしたいって私と話してたこと言っていた?」
とは、さすがにきけませんでしが、そんなこときいたら、金玉を蹴られてしまいますから。でも、そんなことは妻には話さないだろうと思ってましたから。
私は、いろいろな女の子に訊いて回りました、不特定多数の魅力的な男たちとセックスしたいと思うかと、そしたら、
「そんな不潔なことはできない」
と言うのです。「不潔」とは、なんという考え方でしょうか?それこそ、私にとっては、「純粋」だと思うんですけど。セックスを汚いことと思っているところは、まだ清教徒倫理に洗脳されている証拠ですね。そして、彼女らは、
「まるで売女だ」
とさえ言っていました。それが、間違っています。「売女」は金をもらってセックスする女性です。金をもらわなくて、たくさんの男とセックスしたら、それは売女でしょうか?ちがいますよね、それこそ素晴らしい理想の女性です。女神です。キモオタにとっては、どんなに救済になることか!しかし、その「売女」という意識をなんとかして変えないと駄目ですね。ヤハウェーの洗脳ですから。しかし、ハンサムな男を見たとたんに
「やりたい」
とは思わないのだろうか?情事に耽りたいとは思わないのか?それを質問しました。そしたら、
「もちろんハンサムな男とは話したい、一緒に時間を過ごしたいと思うけど、絶対にセックスしなきゃとは思わないなぁ、もちろんセックスの欲望もあることはあるけど、それが最優先とはならないねぇ」
とまじめに答えてました。しかも、その人は、フェミニストでした。私は、
「なあんでだー!」
と頭を抱えてしまいました。だから、駄目です。性欲の強さがまるで男と違う。男だと見た瞬間に勃起しますが、女は見た瞬間に濡れるということはないんですか。それは、もう、神を恨むしかない。もし、神が女を創造したんだったらね。だって、できるだけ多くの男とセックスする為にあんな官能的な体をしてるんじゃないのか!なんのためにあの体はあるんだろうか?あれだけ不特定多数の男を惹き付ける体を持っておきながら!女も男とセックスを絶対にしたいと思わないのか!女は不特定多数の男とセックスしたいとは思わないのだろうか?
性欲の強さ、日本書紀によれば、イザナミはとても性欲が強かった。なにせ、女性からセックスを誘ったのだから。私は、日本書紀を読んでいて、
「こんなばかなことがあるのかー!!!」
と叫びました。しかし、女性から誘ってセックスしたら、奇形児が生まれてしまいました。まあ、それがヒルコで、恵比寿になるんですけど。で、今度はイザナギから誘ってセックスしたら、ちゃんとした健康児が生まれたそうです。つまり、セックスは男主導でないといけない。つまり、男性至上主義なわけです。そこで、セックスが女性主導から男性主導になったことを表すのです。だから、私は、社会的なマッチョによる抑圧が、女性性を消極的にしてしまったのだと思います。それに、アメリカもいたってマッチョ社会ですから、女性からデートに誘うということは、まあ、今では歓迎されるようにはなってきてますけど、それでもつい最近ですからね。だって、ある男は、すごい美人な人にデートに誘われたと言ってましたけど、結局付き合わなかったそうです。
「あの人はあまりにも積極的だったから、引いてしまったよ」
とその男は答えました。私は、
「お前は、馬鹿か!」
と言いました。女性から誘われるなんて、私がどれだけ夢見て来たことだろうか?それは、アニメの世界でしか見られなかったことじゃないですか!それが、現実の世界にも起こっているんですから、それをボウに振るなんて、まったく理解できません。私だったら、誘って来た瞬間に、エッチを提案しますけどね!美人な人を却下するなんて、まったくその神経が理解できない。アニメでは、もう女の子は積極的で、しかもエッチをけしかけてるというまさに夢がそのまま描かれてるんですから。だから、私が思うには、本当に男女平等な社会になれば、女性の性欲もイザナミのようなレベルまで、回復すると思うのです。それは、先天的なものでなくて、社会的なものなのです。だから、あのようなマッチョな男がいるのです。イザナギのように、
「デートは男から誘うべきだ、それに順応しない女とは付き合えない」
と思ったのでしょうね。そして、2000年間のキリスト教という男性原理の宗教の支配、それも、女性の性欲を弱めた原因ではないでしょうか?だから、女をあばら骨から作ったとされる神ヤハウェーが性欲を弱めたという神話は理解できるのです。
それに、女性の性欲は強いはずです。だって、女性の瞳孔がもっとも反応するのは、赤子の写真と男性のヌードの写真なんですから。キネシオロジーは正直です。体は嘘をつきません。しかし、弱いと洗脳される。強いと「売女」だと思われてしまうのです。また、誘惑する女は、サキュバスだとされ、卑しい女とされてしまう言説があるのです。かつては、魔女として火破りにあいかねない。そこで性欲を押さえ付けられる。いまでこそ、処女であることが誇りであることはなくなりましたが、やはり女性が性的にふしだらなことが卑しいとされることは、キリスト教の「処女」思想の延長というか、名残でしょうね。結婚の時は、かならず「ヴァージン・ビロード」と着るのですから、あれは、ほんとにふざけだ風習です。女性が男性に対して積極的にセックスを話すことは、卑しいとされるからです。だから、女性は嘘を男よりもつかないと行けない。女性の嘘をつく確率は男よりもあるそうです。それは、デートを平気ですっぽかすことでも証明されます。つまり、「男に二言はない」「男の一言金鉄の如し」ということわざが女には適応されてないのが原因です。男がデートをすっぽかすことなど、ほとんどないでから。それを、人の一言金鉄の如しとすればいいのです。そう、まず、「男」という部分を、男女、人にすればいいのです。それこそ、ジャンダーの脱構築です。
それは、男尊女卑的社会的抑圧が女性に嘘をつくように仕向け、正直になれなくなってしまったのです。ほんとはしたいことをしたいとは言えない、ほんとはしたくないことをしたくないとは言えない、嘘によって成り立つように仕向けているのが、男権至上主義なのです。だから、それは、女性が性欲に忠実になれば、解決するのです。体に正直になることで、男性至上主義を打破できるのです。魅力的な男がいれば、ちょっとぐらいお尻を叩くか、自分のお尻を触らせるぐらいのスキンシップがあればいいんですけどね。まあ、ラテンでは、かならず挨拶では抱擁してキスしますから、それは、いいですよね。エロいことがエロくないというか、ごく自然にセクシュアリティーに入れるわけですから。
ああぁぁ、なんで私が萌え系アニメ中毒になったか、それはシンプル、女性との皮膚感覚が完全に欠落しているからです。もう、毎日のようにアニメを見てましたからね、ペルーに行くまでずっとそれは続いてました。アメリカでも、もう皮膚感覚がぜんぜんなくて、死にそうになりました。売春はネバダに行けば合法ときいてました。しかし、私は、売春を撲滅するべきだと思っています。国連の条約にもあるのですから。そのオプションは当然ありませんでした。でも、女性の合意を求めることが出来ない。なにしろ、恋人をまず作らないとセックスできない。しかし、恋人になるのは、どんなに大変か。それは奇跡でしょう。だって、女性が好きになってくれないと行けないのですから。そう、恋愛感情がないと駄目なのです。だから、いくらデートを重ねても、デートの相手として気に入られても、恋人にならなかったらどうしょうもないのです。恋をして貰わないと。アメリカには性的に自由な女性が多いときいたんですけど、そうでもないですね。私のやりたい女性はみんな私の前を通り過ぎていきましたよ。友人、知り合い、同僚、クラスメイト、恋人を持ってる奴らが本当に羨ましかった…。しかも、私の気に入っていた子が友人に奪われた時は、絶交しました。それで、多くの友だちを失いました。恋敵、絶対に許せませんでした。私の気に入ってた子と毎晩セックスしてたのですから、そんな苦しみはこの世になかったです。しかも恋は排他的ですから、もうその子とはイチャつけない、触ることすら出来ない、じつに苦しい、あれほど辛いことはなかった、まさに悲劇的な人生でした、絶望の淵を彷徨ってました、だから、窓から飛び降りようと思ったほどです。でも、私は絶対に死にたくなかった。死んだら、快楽を経験することも出来ない、だから、死ななかったんです。男はほんとに憎い、もっとも卑劣な生物だ。独占するなんて。そんな生物と、たった一匹とセックスするなんて考えられない。たった一人とまるで結婚したカップルのように付き合うなんて。どうして、たった一人なのだろうか?そこがまったく理解不能だ。どうして女性は、多くの男と同時にやろうとしないのだろうか?男は、恋人がいても、セックスしたいと思ってるのだから、それはチャリティー精神に近い。もし、フリーだったなら、だれとでもやれるんだから、やってくれてもいいじゃん。私がもし、多くの女の子からセックスしようと誘われたら、もう大歓迎なのに。もう、神に感謝。神の存在を認め、神を信仰するはずです。っていうか、男神じゃなくて、女神を信仰することになるでしょうね!
あぁぁ、ラテンはでもすごかった。あんな官能ダンスを目の前で一緒に踊ってくれる、あの腰の回転は、うっひぇーっとなるし、しかもそのダイナマイトな腰に手を置けるんですよ!!!完全に私を「ぐわああああぁぁぁあ」とさせました。そして、色目でじっと見てくるし、しかも微笑んで、舌で下唇を舐めるのです。私は、もう、
「ひががぐっぎぎっががぁぁげぐどぎぐちちいえねぅぅええええああぁぁぎききゃぁあああ!!!!!」
とスクリーチしてしまいました。ね、あれは、性欲は男と同じぐらい強いと思いますよ。ラテンの官能ダンス、サルサなんか、やはりプエルトリコとキューバのダンスがミックスした、しかもキューバのソンというダンス音楽がもとになっていて、それは、西アフリカのダホミー王国の部族の民族舞踊がルーツになっているというのです。ああ、サンバも、アンゴラやコンゴのダンスがルーツになっていて、男女が上半身裸で、臍と臍を重ね合わせて踊るのがもともとのスタイルだそうです。ラテンのダンスは、ほんと性欲をそそるような、ダンスですよね。ああ、うがー、ダンスも女の子が誘ってくるなんてね、ビックリですよね。ぐふふふふぁあ。ゲームの『キミキス』よりもインパクトが強かった、まあ、三次元ですから、そりゃ皮膚感覚の刺激は本物ですよ。でも、マッチョ社会のラテンで、女性がそんな積極的だったのは、驚きでしたね。フェミニズムが完成された社会でこそ、女性はとても積極的になると思ってたんですけどね。まぁ、フェミニズム社会ではなくても、そういう女性の積極性は見られた、まぁ、あくまでもロマンスにおいてだけでしょうけれども、それが社会全体に広がれば、フェミニズム社会となるんでしょうね。ラテンの女性は素晴らしい。女神だー。崇拝したい。毎日拝みたい。ああ、でも、若い時は、ラテンでしょうね。年を取ったらセックスの対象になれませんから。だから、私は若いままでいたい。16歳に戻りたい。メキシコのテレノベラで、『Lola... Érase una vez』がありますが、主人公は16歳の女の子ですからね。しかも、ロックバンドをやってる、涼宮ハルヒみたいなもんですよ。だから、すごい憧れま〜す。

お釈迦様ことゴータマ・シッダールタは、日本だと4月8日生まれだそうです。まあ、アメリカではクリスマスは大事で、キリスト教徒でない人まで、祝いますから、まさに文化の日です。しかし、日本は長いこと仏教文化でありながら、ブッダの誕生日というのを祝ってないですね。シッダールタの誕生日ときかれて、知ってる人は少ないはずです。私でさえ、日本にずっと住んでたけど、一度も祝ったことがないですね。暴走族が「天上天下唯我独尊」という長欄を着ていたぐらいでしたか。まあ、どちらにしろ、イエスの誕生日もシッダールタの誕生日も、神話ですね。事実からはかけ離れているでしょう。
イエスは、まさに神話です。聖書に書いてあるイエスは神話です。実在はしなかった。原文はヘブライ語ではなくギリシャ語で書かれているのですから、当然、ギリシャ神話が混じっているわけです。日本書紀が中国語で書かれているのと同じです。だから日本には中国神話や仏教神話が混じっている。よって、書き下し文でないと、日本神話が読めないのです。日本神話は、やはり外国語でなく、自国の言葉で記録するべきでしたね。しかし当時の天皇をはじめとする為政者はそれを理解してなかった。だから、聖徳太子の存在もあやうい、それと同じでイエスの実像もほとんどわからない。しかし、イエスが王族や貴族でなく、大衆の中から登場したというのは、本当なのではないかと思います。事実、彼の職業は大工でした。決して法律家、政治家、宗教家、貴族、王族などの社会的地位の高い人物だったわけではないのです。まあ、彼がダビデ王の子孫であったことも嘘でしょう。韓国では、みんな両班の子孫だったと主張するので、それみたいなものですね。そして、イエスは大衆のために、宗教を改革しようとし、政治運動を起こした。しかし、当時は、アメリカ合衆国の根幹とされる権利章典の修正第一条の言論の自由が保証されてなかったので、ローマ帝国に、イスラエルの大衆を煽動した罪で、死刑となってしまいました。イスラエルがローマ帝国の植民地支配を受けている時の指導者、つまり大英帝国支配下のインドのガンジーのような存在だったのではないでしょうか?しかし、帝国総督府の言論統制、その最悪な結果がイエスの処刑でした。そして、拷問されて十字架で磔になった。しかし、アメリカの言論の自由へのこだわりは、やはりイエスのパッションの物語がもとになっているのでしょう。イエスの自由のための死。アメリカ人も自由の為に戦って死んで、この合衆国を築いたのですから。だからイエスは、そういう面でとても政治的でした。
しかし、シッダールタは王太子でした。しかもとてもイケメンで、スポーツ万能だったそうです。まぁ、あれだけの旅をこなしていたんですから、体力はスゴかったのでしょうね。そして小国シャカ王国の次期指導者となる人物でした。だから、帝王学も学んだし、英才教育を受けただろうし、しかも理解力もスゴくて、秀才、頭脳明晰だったそうです。しかも、夏のヴァカンスでは、別荘に行って、そこで毎日女性のエンターテーメントの享楽を楽しんだといいます。ラテンとインドの女性の体は本当にスゴいですからね、あの腰がもうダイナマイトです。しかもインド音楽とラテン音楽はその腰を振りまくるダンスミュージックですからね。サルサなんか、女性が踊ると腰がすごい回転しますからね。それが、スゴいですね。男だとやはりステップを踏んでもあそこまで腰は動きません。ところが女性が同じステップを踏むと、腰が左右に移動して、後ろから見るとおしりがぷりぷり動くのです。しかも、あれはやはりラテンの腰ではないと、あのダイナミックな動きは表現できませんね。いやぁ、エロいんだけど、エロくない、もう自然ですね。あのダンスを毎日見ることが出来る、間近で、しかも自分の為だけ。そして、その子たちと性的享楽に耽っていたのです。官能の世界ですね。まさに特権階級としてありとあらゆる快楽はすべてやり尽くしたわけです。だから、彼は社会的地位がとても高かった、しかし、それは血税によって成り立っていたのです。そして最終的に、彼はそれら快楽の虚しさを発見し、さらに自らの国家の指導者としての義務を放棄し、20代で出家したのです。すべてが嫌になったのでしょうね。でも、当時、出家は退職のような意味合いがありましたから、老人になってからが普通でした。しかし、若くて出家した動機の一つに、伝統に捕われない沙門のブームがあったからだと思います。沙門はヒッピーのような若者の運動だったのでしょう。事実、若い王子時代のシッダールタは北の門の行幸で、沙門に出くわして、強く憧れたという感想を残してますから。
当時のインドの権力者は、宗教階級や貴族よりも、ビジネスリーダー、商業資本家たちのほうを重要視し始めていました。その最骨頂がシッダールタでしょう。彼は、アンバパーリとミーティングをします。アンバパーリはもっとも美しいとされたインド女性で、エンターテーメントのビジネスリーダーでもありました。つまり芸能界のトップで、そしてビジネスもやっている、今で言えば、ミス・ユニバースがダライ・ラマを招待して講演をするようなものです。そして一緒に記者会見を行う。ビジネスリーダーが慈善事業の募金集めのためにチャリティーのリーダーを呼んでパブリシティーをするようなものです。アンバパーリもそのようにシッダールタを招待しました。そしてシッダールタはアンバパーリのオフィスで、講演をしました。シッダールタはダライ・ラマようなことをしていたのです、っていうより、ダライ・ラマがシッダールタのようなことをしていたというのが正確でしょうね、彼は仏教徒ですから、当然、シッダールタをモデルにしてるでしょうし、ダライ・ラマの宗教の創始者がシッダールタなのですから。でも、シッダールタはスケヂュールに忠実で、特権階級の貴族の招待があったからと言って、突然ビジネスリーダーとの会合をキャンセルするということはなかったです。ビジネスリーダーとのミーティングをとても重要視していたのです。またビジネスリーダーでなくても、普通の庶民でも、アポイントメントのスケジュールはきちんと守った、つまり皆平等に接したわけです。そう、皆重要だったのです。
それはインドが古いバラモンの時代が終わり、新しい商業資本の時代に入っていたということです。そして、アンバパーリのような女性のビジネスリーダーも出てきてましたし、そこら辺の貴族よりも大きい土地を持った成功した女性もいたくらいです。ある女性は、ある国の国家財政よりも大きな財産を築いたといいます。つまり階級による財産は崩壊し、一攫千金のチャンスの社会になってきた。つまり競争社会になってきた。社会風潮がバラモンの宗教的権威よりビジネス重視になってきた。それが国力をつける最善策だと気付いてきたのでしょう。だから、国は国富のためには、既存の規制を撤廃してビジネスの出来やすい環境を整えなければならなかった。そして、それにはバラモン階級が邪魔になってきたのです。だから、バラモンを否定するような、つまり既存価値観を覆すような新思想が出やすいような、言論と表現の自由が認められたのでしょう。そして、それぞれの国がビジネス、商業、貿易による結びつきが強くなり、関税同盟などが出来て、そして、時代としてインド統一が一気に高まっていったのではないでしょうか。
それにその時代は、言論の自由がもっとも寛容だったといいますし。また、思想においても、バラモンの既存宗教権威を完全否定する思想がたくさん出てきましたし、その中で乱立する新興思想の熾烈な競争を勝ち抜いて、もっとも普及したのが仏教でした。仏教は、神々に頼ることを否定し、占いの禁止でもそれは明らかですし、修行によって神々をも越えられるとしました。そう、神々に依りどころとするのではなく、自己を依りどころにすることがシッダールタの目標でした。神々に頼らないということは、その神々を祀る儀式を行う専門家集団のバラモンに頼らないことでもあるのです。つまり、完全に伝統的な権威を否定したのです。そして、シッダールタはバラモンの定義をも変えました。そうすることによって、今までのバラモンは、バラモンにあらずということになったのです。バラモンの階級としての特権性を排除したのです。つまり、特権だったものが庶民に広がっていく、アメリカも選挙権は白人の特権でしたが、キング牧師の公民権運動によって、黒人を含めてすべてのアメリカ人の権利となりました。
ヨーロッパで言論の自由が主流になるのは、18世紀ぐらいです、ちょうど啓蒙思想のあとですし、そして神はもともと人間世界に干渉したいという態度、つまり神はキリストの降臨と再臨の間は、まったく干渉することなく奇跡も起こすこともない、よってその間は人は神に頼るのではなくて自分に頼るしかないという考え方は、それぐらいから出てきましたし、著名な人では、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンがそうでした。彼らは、神にまったく頼っていませんでした。彼らはいたって自然神教的だったのです。しかし、インドでは2500年前にすでそうなっていた。しかし、仏教は、キリスト教と違い、救済はイエスによるものではなく、そのような神々さえも頼らず、自分で自己を救済するという個人主義にも近い観念でもあります。つまり他力本願から自力本願となったのです。だから、シッダールタは真理を追究する為に、家族を捨て去りましたし、指導者としての義務、国家までも捨てました。ほんと個人主義を追求した思想家でした。
シッダールタの思想は当時の為政者たちの利益と合致したのです。また、新しい社会のリーダーであるビジネスリーダーたちに支持されたのが、仏教を普及させた最大の理由でしょう。商業発展のためには、シッダールタのような新しい思想と価値観が、好都合だったのです。だから、国王や王子などは、とてもシッダールタに友好的でした。それにシッダールタはインド統一への期待も受けていました。しかし、彼には最後まで政治的野心はありませんでした。しかし、イエスは、まったく正反対でしたし、イエスの言論と表現はイエスの命を犠牲にしました。社会的権威は、彼の主張した神の権威を弾圧しました。それは、ローマ帝国総督府の権威と、ユダヤ支配階級の権威による言論統制でした。イエスの他にもメシア的な独立運動の指導者が死刑になったり、弾圧を受けたこともあったのだろうし、イエスもその一人だったのでしょう。でも、ナザレのイエスが、ギリシャ的神話と結びついて、ローマ帝国のなかで復活したのです。
よって、シッダールタは、歴史的背景からして実在したと思います。古い仏教の文献なんかを読むといたってリアルですし、神話的な要素ももちろんありますが、あるがままに記録されてる部分もあると感じます。旅の途中で怪我したり、旅の途中で食中毒になって下痢になったり、それで寝込んだり。私もペルー旅行で食べ物にあたって、下痢が2週間ぐらい続きましたからね。それは、リアルですよ。シッダールタも生涯旅をした人で、様々なところで講演してまわったそうです。でも、とくに、その商業資本の発展と言論の自由とインド統一の気運が高まった時代に、シッダールタが出てきたというのも、辻褄が合うと思うのです。だから、神話的な物語を省けば、シッダールタの実像はかなり信憑性があるのではないでしょうか?
しかしシッダールタの誕生日がこの日であるということは、ないでしょうね。というより、彼の誕生日など、どうでもいいのです。イエスの誕生日も同じことが言えますが、12月25日は、西洋文化では、太陽の日として、古代から受け継がれてきたものですから、欧米では、とても重要な文化の日なのです。
イエスは、まさに神話です。聖書に書いてあるイエスは神話です。実在はしなかった。原文はヘブライ語ではなくギリシャ語で書かれているのですから、当然、ギリシャ神話が混じっているわけです。日本書紀が中国語で書かれているのと同じです。だから日本には中国神話や仏教神話が混じっている。よって、書き下し文でないと、日本神話が読めないのです。日本神話は、やはり外国語でなく、自国の言葉で記録するべきでしたね。しかし当時の天皇をはじめとする為政者はそれを理解してなかった。だから、聖徳太子の存在もあやうい、それと同じでイエスの実像もほとんどわからない。しかし、イエスが王族や貴族でなく、大衆の中から登場したというのは、本当なのではないかと思います。事実、彼の職業は大工でした。決して法律家、政治家、宗教家、貴族、王族などの社会的地位の高い人物だったわけではないのです。まあ、彼がダビデ王の子孫であったことも嘘でしょう。韓国では、みんな両班の子孫だったと主張するので、それみたいなものですね。そして、イエスは大衆のために、宗教を改革しようとし、政治運動を起こした。しかし、当時は、アメリカ合衆国の根幹とされる権利章典の修正第一条の言論の自由が保証されてなかったので、ローマ帝国に、イスラエルの大衆を煽動した罪で、死刑となってしまいました。イスラエルがローマ帝国の植民地支配を受けている時の指導者、つまり大英帝国支配下のインドのガンジーのような存在だったのではないでしょうか?しかし、帝国総督府の言論統制、その最悪な結果がイエスの処刑でした。そして、拷問されて十字架で磔になった。しかし、アメリカの言論の自由へのこだわりは、やはりイエスのパッションの物語がもとになっているのでしょう。イエスの自由のための死。アメリカ人も自由の為に戦って死んで、この合衆国を築いたのですから。だからイエスは、そういう面でとても政治的でした。
しかし、シッダールタは王太子でした。しかもとてもイケメンで、スポーツ万能だったそうです。まぁ、あれだけの旅をこなしていたんですから、体力はスゴかったのでしょうね。そして小国シャカ王国の次期指導者となる人物でした。だから、帝王学も学んだし、英才教育を受けただろうし、しかも理解力もスゴくて、秀才、頭脳明晰だったそうです。しかも、夏のヴァカンスでは、別荘に行って、そこで毎日女性のエンターテーメントの享楽を楽しんだといいます。ラテンとインドの女性の体は本当にスゴいですからね、あの腰がもうダイナマイトです。しかもインド音楽とラテン音楽はその腰を振りまくるダンスミュージックですからね。サルサなんか、女性が踊ると腰がすごい回転しますからね。それが、スゴいですね。男だとやはりステップを踏んでもあそこまで腰は動きません。ところが女性が同じステップを踏むと、腰が左右に移動して、後ろから見るとおしりがぷりぷり動くのです。しかも、あれはやはりラテンの腰ではないと、あのダイナミックな動きは表現できませんね。いやぁ、エロいんだけど、エロくない、もう自然ですね。あのダンスを毎日見ることが出来る、間近で、しかも自分の為だけ。そして、その子たちと性的享楽に耽っていたのです。官能の世界ですね。まさに特権階級としてありとあらゆる快楽はすべてやり尽くしたわけです。だから、彼は社会的地位がとても高かった、しかし、それは血税によって成り立っていたのです。そして最終的に、彼はそれら快楽の虚しさを発見し、さらに自らの国家の指導者としての義務を放棄し、20代で出家したのです。すべてが嫌になったのでしょうね。でも、当時、出家は退職のような意味合いがありましたから、老人になってからが普通でした。しかし、若くて出家した動機の一つに、伝統に捕われない沙門のブームがあったからだと思います。沙門はヒッピーのような若者の運動だったのでしょう。事実、若い王子時代のシッダールタは北の門の行幸で、沙門に出くわして、強く憧れたという感想を残してますから。
当時のインドの権力者は、宗教階級や貴族よりも、ビジネスリーダー、商業資本家たちのほうを重要視し始めていました。その最骨頂がシッダールタでしょう。彼は、アンバパーリとミーティングをします。アンバパーリはもっとも美しいとされたインド女性で、エンターテーメントのビジネスリーダーでもありました。つまり芸能界のトップで、そしてビジネスもやっている、今で言えば、ミス・ユニバースがダライ・ラマを招待して講演をするようなものです。そして一緒に記者会見を行う。ビジネスリーダーが慈善事業の募金集めのためにチャリティーのリーダーを呼んでパブリシティーをするようなものです。アンバパーリもそのようにシッダールタを招待しました。そしてシッダールタはアンバパーリのオフィスで、講演をしました。シッダールタはダライ・ラマようなことをしていたのです、っていうより、ダライ・ラマがシッダールタのようなことをしていたというのが正確でしょうね、彼は仏教徒ですから、当然、シッダールタをモデルにしてるでしょうし、ダライ・ラマの宗教の創始者がシッダールタなのですから。でも、シッダールタはスケヂュールに忠実で、特権階級の貴族の招待があったからと言って、突然ビジネスリーダーとの会合をキャンセルするということはなかったです。ビジネスリーダーとのミーティングをとても重要視していたのです。またビジネスリーダーでなくても、普通の庶民でも、アポイントメントのスケジュールはきちんと守った、つまり皆平等に接したわけです。そう、皆重要だったのです。
それはインドが古いバラモンの時代が終わり、新しい商業資本の時代に入っていたということです。そして、アンバパーリのような女性のビジネスリーダーも出てきてましたし、そこら辺の貴族よりも大きい土地を持った成功した女性もいたくらいです。ある女性は、ある国の国家財政よりも大きな財産を築いたといいます。つまり階級による財産は崩壊し、一攫千金のチャンスの社会になってきた。つまり競争社会になってきた。社会風潮がバラモンの宗教的権威よりビジネス重視になってきた。それが国力をつける最善策だと気付いてきたのでしょう。だから、国は国富のためには、既存の規制を撤廃してビジネスの出来やすい環境を整えなければならなかった。そして、それにはバラモン階級が邪魔になってきたのです。だから、バラモンを否定するような、つまり既存価値観を覆すような新思想が出やすいような、言論と表現の自由が認められたのでしょう。そして、それぞれの国がビジネス、商業、貿易による結びつきが強くなり、関税同盟などが出来て、そして、時代としてインド統一が一気に高まっていったのではないでしょうか。
それにその時代は、言論の自由がもっとも寛容だったといいますし。また、思想においても、バラモンの既存宗教権威を完全否定する思想がたくさん出てきましたし、その中で乱立する新興思想の熾烈な競争を勝ち抜いて、もっとも普及したのが仏教でした。仏教は、神々に頼ることを否定し、占いの禁止でもそれは明らかですし、修行によって神々をも越えられるとしました。そう、神々に依りどころとするのではなく、自己を依りどころにすることがシッダールタの目標でした。神々に頼らないということは、その神々を祀る儀式を行う専門家集団のバラモンに頼らないことでもあるのです。つまり、完全に伝統的な権威を否定したのです。そして、シッダールタはバラモンの定義をも変えました。そうすることによって、今までのバラモンは、バラモンにあらずということになったのです。バラモンの階級としての特権性を排除したのです。つまり、特権だったものが庶民に広がっていく、アメリカも選挙権は白人の特権でしたが、キング牧師の公民権運動によって、黒人を含めてすべてのアメリカ人の権利となりました。
ヨーロッパで言論の自由が主流になるのは、18世紀ぐらいです、ちょうど啓蒙思想のあとですし、そして神はもともと人間世界に干渉したいという態度、つまり神はキリストの降臨と再臨の間は、まったく干渉することなく奇跡も起こすこともない、よってその間は人は神に頼るのではなくて自分に頼るしかないという考え方は、それぐらいから出てきましたし、著名な人では、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンがそうでした。彼らは、神にまったく頼っていませんでした。彼らはいたって自然神教的だったのです。しかし、インドでは2500年前にすでそうなっていた。しかし、仏教は、キリスト教と違い、救済はイエスによるものではなく、そのような神々さえも頼らず、自分で自己を救済するという個人主義にも近い観念でもあります。つまり他力本願から自力本願となったのです。だから、シッダールタは真理を追究する為に、家族を捨て去りましたし、指導者としての義務、国家までも捨てました。ほんと個人主義を追求した思想家でした。
シッダールタの思想は当時の為政者たちの利益と合致したのです。また、新しい社会のリーダーであるビジネスリーダーたちに支持されたのが、仏教を普及させた最大の理由でしょう。商業発展のためには、シッダールタのような新しい思想と価値観が、好都合だったのです。だから、国王や王子などは、とてもシッダールタに友好的でした。それにシッダールタはインド統一への期待も受けていました。しかし、彼には最後まで政治的野心はありませんでした。しかし、イエスは、まったく正反対でしたし、イエスの言論と表現はイエスの命を犠牲にしました。社会的権威は、彼の主張した神の権威を弾圧しました。それは、ローマ帝国総督府の権威と、ユダヤ支配階級の権威による言論統制でした。イエスの他にもメシア的な独立運動の指導者が死刑になったり、弾圧を受けたこともあったのだろうし、イエスもその一人だったのでしょう。でも、ナザレのイエスが、ギリシャ的神話と結びついて、ローマ帝国のなかで復活したのです。
よって、シッダールタは、歴史的背景からして実在したと思います。古い仏教の文献なんかを読むといたってリアルですし、神話的な要素ももちろんありますが、あるがままに記録されてる部分もあると感じます。旅の途中で怪我したり、旅の途中で食中毒になって下痢になったり、それで寝込んだり。私もペルー旅行で食べ物にあたって、下痢が2週間ぐらい続きましたからね。それは、リアルですよ。シッダールタも生涯旅をした人で、様々なところで講演してまわったそうです。でも、とくに、その商業資本の発展と言論の自由とインド統一の気運が高まった時代に、シッダールタが出てきたというのも、辻褄が合うと思うのです。だから、神話的な物語を省けば、シッダールタの実像はかなり信憑性があるのではないでしょうか?
しかしシッダールタの誕生日がこの日であるということは、ないでしょうね。というより、彼の誕生日など、どうでもいいのです。イエスの誕生日も同じことが言えますが、12月25日は、西洋文化では、太陽の日として、古代から受け継がれてきたものですから、欧米では、とても重要な文化の日なのです。
衝撃です。BBCのニュースを読んでいると、イギリスの元首相トニー・ブレアは、エリザベス女王が首長であるイギリス国教会を脱退し、ローマ・カトリシズムに改宗したとありました。これは、すごいことです。いままでの常識を破ったのですから!さすがは、ロックに熱狂しただけのことはあります。伝統的にイギリスの総理大臣は、エリザベス女王に忠誠を誓ったものとして、国教会に入会しているのは当然とされているのですから。ブレアは妻子がカトリックなので、その影響でカトリックに目ざめたそうですが、首相在任中には、国教会員で通し、改宗しませんでした。それは、宗教が政局にならないように配慮したとのことです。カトリック対プロテスタント抗争の北アイルランドの問題もありますし。イギリスももとはカトリックでしたが、ヘンリ−8世が離婚したいために、カトリックを脱退して、国教会を作ったのが、国教会の始まりでした。その後、カトリックとピューリタンの内戦などが起きて、国王が処刑されたり、清教徒がイギリスを支配したり、失脚したり、また清教徒が迫害と抗争から逃れて、新大陸で原始アメリカ社会を築きます。トニー・ブレアは、まさに昔のイギリスの宗教に戻ったのであり、それは、自分の長はエリザベス女王ではなくて、ベネディクト16世教皇となったことを示しています。
ベネディクトは超保守で、あんな教皇が長の宗教だと、絶対に改宗することはないと思うのですが…。とくに女性の権利を侵害するようなことを教会のモットーとしているのですから。人工中絶、避妊、結婚外のセックス、離婚、ホモセクシュアリティー、これらすべてを拒絶しています。しかも、それらに反対することが、教会のアイデンティティーとなっているふしがあります。また、女が聖職者ということは聞いたこともないし、それに教皇は男限定でしょ?天皇制と同じぐらい腐っているんですよ。もはや、21世紀の先進国とは合致しないアナクロな教義です。そして、教皇は、カトリックの近代化を妨げる張本人なのですから。カトリックの権力機構は、先進国におけるセックスの自由を「性の乱れ」としていますが、私は、それは「性の解放への序曲」としています。経済がすべての世の中では、性は解放され切っていません。逆に、抑圧されているのです。性を語ることで、噂することで抑圧となるのです。それを自由と勘違いし、また教会はそれを「みだれ」と訳の分からないことをほざきます。セックスをネオリベラル資本主義から解放することが、真のセクシュアリティーの解放なのです。いわゆるセクシュアリティーの解放が、人類、とくに社会的弱者であるキモオタを救済するのです!
だから、私は、カトリックにはなりません。というか、私は三次元の現実世界では、無神論者であり無宗教であり、魂の存在や輪廻転生もデタラメだと思います。なぜなら、権力の世界観によって描かれたイデオロギーだからです。しかし、二次元のアニメの世界では、私はれっきとした宗教者であり、そして宗派は、カトリックです。なにしろ私の憧れの学園はカトリックスクールですからね。リリアン女学園、私はそこに入学したい。そして、小笠原祥子さまのプチ・スール(妹)になりたい。アニメのカトリックではレズビアニズムが承認されています。つまり、レズビアン・カトリックなのです。体験入学でもいいから、したいなぁ。あそこならば、私は完全に女の子になることが出来るのですから!
もう男はうんざりだ。男は自己顕示欲の塊で、他の男がいると、かならず喧嘩となる。ゲイでないかぎり、心から男を好きになる男はいないのではないでしょうか。結局、男同士では、嫌悪感がつのるばかりで打開策はありません。それに、この男尊女卑社会では、支配している奴らは皆男なので、さらに男嫌いにさせてしまうのです。ほんと、腐った社会に生まれてしまったものです。だから、男が嫌いな私は自分も男なので、自己嫌悪しか持てないんですよ。よって、アニメのなかでカトリックとなり、マリア様に手を合わせる、いわゆる合掌するのです。そして、私はマリア様のロリータの属性にもっとも萌えるのであります。なにせ、性同一性障害者のアリスくん(本名は金太郎)も、祥子さまに、
「アリスって、すてきな名前ね。あなたにピッタリだわ」
と承認されたのですから。それこそ、私は、マリア様の慈愛を体現したと思いました。あのシーンには、感動のあまり、涙を流してしまいました。私まで、
「祥子さまー!」
と叫んで、抱きつきたかったです。慈愛こそが、カトリックの真髄なのです!
だからこそ、私は、アニメの世界でカトリックスクールに通い、マリア様に合掌する女学園の女子高生になるのです。
それこそが、本当の「改宗」というものです!

私も、このコスチュームを着て、リリアンのクリスマスパーティーに参加するぞ!
ベネディクトは超保守で、あんな教皇が長の宗教だと、絶対に改宗することはないと思うのですが…。とくに女性の権利を侵害するようなことを教会のモットーとしているのですから。人工中絶、避妊、結婚外のセックス、離婚、ホモセクシュアリティー、これらすべてを拒絶しています。しかも、それらに反対することが、教会のアイデンティティーとなっているふしがあります。また、女が聖職者ということは聞いたこともないし、それに教皇は男限定でしょ?天皇制と同じぐらい腐っているんですよ。もはや、21世紀の先進国とは合致しないアナクロな教義です。そして、教皇は、カトリックの近代化を妨げる張本人なのですから。カトリックの権力機構は、先進国におけるセックスの自由を「性の乱れ」としていますが、私は、それは「性の解放への序曲」としています。経済がすべての世の中では、性は解放され切っていません。逆に、抑圧されているのです。性を語ることで、噂することで抑圧となるのです。それを自由と勘違いし、また教会はそれを「みだれ」と訳の分からないことをほざきます。セックスをネオリベラル資本主義から解放することが、真のセクシュアリティーの解放なのです。いわゆるセクシュアリティーの解放が、人類、とくに社会的弱者であるキモオタを救済するのです!
だから、私は、カトリックにはなりません。というか、私は三次元の現実世界では、無神論者であり無宗教であり、魂の存在や輪廻転生もデタラメだと思います。なぜなら、権力の世界観によって描かれたイデオロギーだからです。しかし、二次元のアニメの世界では、私はれっきとした宗教者であり、そして宗派は、カトリックです。なにしろ私の憧れの学園はカトリックスクールですからね。リリアン女学園、私はそこに入学したい。そして、小笠原祥子さまのプチ・スール(妹)になりたい。アニメのカトリックではレズビアニズムが承認されています。つまり、レズビアン・カトリックなのです。体験入学でもいいから、したいなぁ。あそこならば、私は完全に女の子になることが出来るのですから!
もう男はうんざりだ。男は自己顕示欲の塊で、他の男がいると、かならず喧嘩となる。ゲイでないかぎり、心から男を好きになる男はいないのではないでしょうか。結局、男同士では、嫌悪感がつのるばかりで打開策はありません。それに、この男尊女卑社会では、支配している奴らは皆男なので、さらに男嫌いにさせてしまうのです。ほんと、腐った社会に生まれてしまったものです。だから、男が嫌いな私は自分も男なので、自己嫌悪しか持てないんですよ。よって、アニメのなかでカトリックとなり、マリア様に手を合わせる、いわゆる合掌するのです。そして、私はマリア様のロリータの属性にもっとも萌えるのであります。なにせ、性同一性障害者のアリスくん(本名は金太郎)も、祥子さまに、
「アリスって、すてきな名前ね。あなたにピッタリだわ」
と承認されたのですから。それこそ、私は、マリア様の慈愛を体現したと思いました。あのシーンには、感動のあまり、涙を流してしまいました。私まで、
「祥子さまー!」
と叫んで、抱きつきたかったです。慈愛こそが、カトリックの真髄なのです!
だからこそ、私は、アニメの世界でカトリックスクールに通い、マリア様に合掌する女学園の女子高生になるのです。
それこそが、本当の「改宗」というものです!

私も、このコスチュームを着て、リリアンのクリスマスパーティーに参加するぞ!
20世紀最悪の独裁者、アドルフ・ヒトラーの予言にによれば、東方に永遠の未成年者集団が現れるとされています。元ナチス幹部が書いた『ニヒリズム革命』という本にヒトラーの語った予言があり、それを抜粋します:
「未来の社会はどんな様相を見せるだろうか。同志諸君、申し上げよう。
まず闘争によって選りぬかれた貴族階級が現われる。新しい中産階級、無知な大衆、新しい奴隷、仕えるものの集団、『永遠の未成年者集団』があろう。そしてこれらすべての上に、さらに新しい貴族がある。特別の指導的人物である。
このように、支配をめぐる闘争によって、国の内外に新しい身分が成立する。しかも東方が巨大な実験の場になる……そこに新しいヨーロッパの社会秩序が生まれるのだ」
詳しくは、こちらのサイトで、記載されています。そして、ヒトラーは、『永遠の未成年集団』について解説します。
「よろしい、では解説してやろうハンス。私が言った未来に現われる『永遠の未成年者集団』というのは、もちろん、死ぬまで大人になりきれない人間たち、ということだ。
そんなことは、厳しい正常な社会ではありえない。だからそうなる背景には、甘やかされた異常な社会が当然ある。その中で、同じように大人になりきれない親に、愛玩動物のように育てられるため、子どもも成人しても真の大人になれないのだ。」
私は、これにはまったく的を得ていないものです。なぜなら、現在の資本主義社会は、さらに厳しく異常な社会になりつつあるからです。レーガンの登場により、アメリカでは、80年代にネオリベラリズムが横行し、そして1989年に福祉重視政策の社会主義は敗北し、イギリスではサッチャーが、そして日本では、小泉純一郎と竹中平蔵が登場し、世界は格差社会へと向かっていきます。そして、人類は、両極端に別れるのです、いわゆる、主人と奴隷、キリスト教の天国と地獄を現世で実現させること、それは、勝ち組と負け組の固定化でもあります。また、ドイツでも、初の女性宰相アンゲラ・メルケルが登場し、ドイツの鉄の女と言われるようなネオリベラル改革を実行しようとしています。そうなれば、ビスマルクに継ぐ鉄血宰相になるかもしれません。そうなれば、福祉も教育も、ネオリベラル方式となり、子どもが通う教育機関もネオリベラル式に順応しなければなりません。
「そんな残酷なネオリベラル社会に出たくない、順応したくない」
というのが、永遠の未成年者を生み出す背景なのです。アダルト・チャイルドは、甘やかされてそうなったのではありません。子どものときの心理的虐待が、成人になることを拒むようなトラウマを引き起こすのです。なぜなら、大人に虐待されたのですから。その例が、マイケル・ジャクソン、そしてクリントン元大統領です。甘やかされて育つのは、ネオリベラル支配階級の勝ち組の子どもです。甘やかすことのできる経済力があるのは、どう見ても、勝ち組ではありませんか?
しかし、ヒトラーは永遠の未成年集団だけではなくて、それに対する階級の登場も予言しています。
「しかしハンス、じつはそれだけじゃない。私が本当に言いたかったのは、そのことではない。
未来社会には、そういう『永遠の未成年者集団』が現われる一方で、『幼いときから大人の思考と感情を持った人間たち』も現われるのだ。信じられないだろうが、彼らは胎児のときからさえ、そのように教育される。5つか6つで一人前の理屈と判断力を備え、13、4歳にもなれば、並の大人を指揮するほどの力を持つようになる。
つまり両極端ということだ。肉体が大人で感情が幼児のようなグループと、肉体はまだ青春期にまでいかないのに、思考と感情が大人を超えるグループ……」
それは、ガンダムでいえば、ニュータイプ、強化人間、またはコーディネーターですね。彼らは皆十代です。『宇宙戦艦ナデシコ』の艦長もまだ10代の女の子ですし、『フルメタルパニック』のテッサ大佐も、潜水艦の艦長です。しかし、彼女らは、戦争の時代に生まれましたから、大人にならざるを得なかったのです。そう、軍人になるしかなかったのです。なにしろ戦争の世界では、究極の大人というのは、国家に奉仕する軍人なのですから。神と国家と異性への奉仕が、人を大人にさせるのです。ホワイトカラーの労働者が、ネクタイをして毎日通勤するのも、戦争の名残なのです。コーポレーションの利益のために、彼らは40時間以上働くのです。なにしろ、ネクタイは、戦争に行く若者に女性が愛を込めて巻いてくれたものなのですから。だから、ヒトラーユーゲンドに編入された子どもたちは、皆ネクタイをしているのです。まさに強化人間を作ろうとしていたのです。あの子どもたちはとても大人びていましたが、それが何をもたらしたか。それが、国家資本主義政策の本質なのです。しかし、それでは、16歳までの児童労働禁止法の意義がなくなってしまいます。16歳までは、資本主義社会に従属してはならないという根本が粉々に破壊されてしまいます。つまり、大人になるということは貨幣経済の資本主義社会に従属すること、そして子どものしての自由が剥奪され、去勢されてしまうことでもあるのです。
しかし、将来は遺伝子工学も発達するでしょうし、精子バンクも盛んになることでしょう。そうなると、もう優生学的な社会に発展し、特別進化した遺伝子をもった超人が、支配階級として奴隷階級を虐げる制度となってしまうでしょう。財産がある人間は優秀な子孫を残そうとし、財産のない人間は、優秀な遺伝子を買うこともできませんし、また生殖の権限すらありません。そして、特に、キモオタは、消極的断種となってしまう運命なのです。ナチスのような国家が関与しなくとも、キモオタは滅びてしまうのです。いわゆる絶滅危惧種というやつです。そう、キモメンは、滅びてしまうのです。たとえ、キモメンが整形してイケメンになっても、精子バンクは精子を受け付けないでしょう。なぜなら、遺伝子レベルでは、キモイままなのですから。その方向に向かいつつある大人社会に出たくないのです。
私は、自分はインディゴチャイルドだと思っていますが、しかし、それは、今の社会的状況によって作り出されたのかもしれません。そう、資本主義という大人社会によって。つまり先天的ではなくて、後天的だったということです。しかし、インディゴは、ネオリベラル社会に順応できないのではないでしょうか。インディゴは去勢を嫌がります。大人にはなりたくないのです。
しかし、大人よりも優れた知能をもった子どもでも、永遠の未成年になる可能性は充分にあります。だから、ヒトラーが言うような子どもが極端に二つに分かれるということはありません。あの音楽の天才モーツァルトも、永遠の未成年だったではありませんか?ニーチェだって、哲学とは、子どものような遊び心でダンスするようなものだと言っていたではありませんか?だから、本来ならば、永遠の未成年者は、賛美されるはずです。
また、ヒトラーは、セクシュアリティーについても、予言しています。
「愛もそうだ。特定の男女にだけ、愛と肉体の快楽が集中する。一方、一生に一度の真の愛も快楽も得られない男女も増える。要するに、土地や金や支配力を得る者は、ますますそれを得、支配される者はますます支配されるだけになる。」
そう、それは、性的ヴァージンが増えてしまうという予言なのです。つまり、金のないものは、セックスができないということです。恋愛の勝ち組と負け組が経済の勝ち組負け組と同じ構造になってしまうのです。そう、小泉改革のもたらした格差社会がさらにキモオタを生み出してしまうのです。自由と青春は、貨幣によって買うものとなってしまったのです。「In God We Trust」と記されている紙幣に支配されてしまっているのです。青春を買うこと、それは買春です。その特権は、勝ち組だけにあります。つまり、社会全体が援助交際となってしまっているのです。それが恋愛資本主義社会そのものです。しかし、それは予言というよりも、現在の日本を表しています。「東方が巨大な実験場となる」とは、まさに日本です。弱肉強食、自然淘汰のネオリベラリズムの実験場となったのです。『永遠の未成年者集団』が出来ると同時に、ヴァージンの比率も高まっていくのです。事実、日本の20代男性のヴァージン率は、先進国で最も高いデータが出ています。だから、萌えが流行るのです。つまり、萌えはカタルシスで、現実逃避でもあるのです。そう、セクシュアリティーの自由を謳歌できない過酷な現実から逃れ、アニメのキャラに救いを求めるのです。
それは、日本が青少年少女をテーマにしたアニメのメッカであることが大いに関係しています。日本のアニメは、かならず成人には達していない学園の女子、または男子が主役です。それは、胡蝶の夢として「永遠の未成年」と「永遠の学園」というヴィジョンを与え続けます。そして、人々は年を取ってしまったことに絶望し、つまり去勢以前の状態に戻りたいと願うのです。そう、このネオリベラル社会という大人社会は、ほとんどの人にとっては絶望でしかないのです。全米の人口のたった5%が国富の半分以上を独占する社会。そして、セクシュアリティーの自由はもっぱら勝ち組に独占されていますので、キモオタは恋愛でも絶望的です。快楽がブルジョワに独占されてしまうのです。つまり、セックスが金と結びついているのです。そして、恋愛とセックスが合致してしまっているのです。セックスは恋愛内に固定してあるために、キモオタは苦しむしかないのです。そして、キモオタが娼婦に手を出せば、ホームレスとなってしまいます。それか、ゴッホやニーチェのように梅毒感染で精神がいかれて死んでしまいます。それなら、インターネットやDVDでアニメで萌えに走った方がいいに決まってます。それで、マルクス的に言えば、萌えは阿片となるのです。そんな社会で、だれが大人になりたいでしょうか?それで、声優ギルドの17歳教も誕生したのでしょう。永遠の17歳は、井上喜久子教祖の最高教義です。それは、まるで『シムーン』の12人の少女たちの世界ですね。17歳でジェンダーが神から決定されるという世界。だから、巫女たちは、17歳以前であろうとします。つまり去勢以前です。つまり、永遠の未成年者集団は、シャーマン的な力が備わっているのです。しかし、
「その集団の登場は東方である」
と予言したヒトラーもなんとも不気味です。よって喜久子教祖は、ヒトラーの予言を実現させてしまったのです。
それは、やはり1989年に、福祉重視政策を掲げる社会主義が敗北したからでしょう。それは、ネオリベラリズムの勝利でした。そして、日本もその10年後ちょっとに小泉がネオリベラリズムを上陸させます。中曽根もそれを国鉄民営化などで実行していましたが、完全に実行し切ったのは、やはり小泉でしょう。彼はアメリカから「官は悪、民営は正義」という図式を持ってきます。そして福祉を司る官も「小さな政府」という名のもとに悪とされてしまいました。それは、まさにアメリカ保守のイデオロギーです。だから、アメリカでは、未だに国民健康保険が出来ないのです。それに反対なのは、アメリカの共産主義化を防ぐためだそうです。つまり、敗北者となったらだれも助けてくれないので、悲惨な生活が待っている。アメリカ人の破産の半分は医療費が払えないのが原因だというではありませんか。しかし、それでも、「国民皆保険という共産化よりは、ましだ」と意地を張るのです。そして、日本もそれをモデルとした社会となってしまいました。つまり、東方である日本が、アングロサクソン型資本主義であるネオリベラル政策の実験場となってしまったのです。そんな冷酷な社会に、だれが出たいと思うでしょうか。だから、大人になることを拒否する子どもが出てくるのも無理がないのです。インディゴが多く出てくるわけです。そう、インディゴは、ネオリベラリズムが主流となった時代から一気に出てきたわけですから。それて、ネオリベラルの本家であるアメリカでも大人になれない人たち、アダルトチルドレンが沢山存在するのです。それは、方やインディゴチルドレンですし、また永遠の未成年ともなるのです。そして、私も、永遠の16歳なのですよー!
それでは、17歳教のテーマ曲として、ビートルズの『I saw her standing there』を貼付します。
「She was just seventeen, you know what I mean」
とポールが歌っています。しかし、私はこう答えます。
「No, I don't know what you mean, since Kikuko is still seventeen!」
「未来の社会はどんな様相を見せるだろうか。同志諸君、申し上げよう。
まず闘争によって選りぬかれた貴族階級が現われる。新しい中産階級、無知な大衆、新しい奴隷、仕えるものの集団、『永遠の未成年者集団』があろう。そしてこれらすべての上に、さらに新しい貴族がある。特別の指導的人物である。
このように、支配をめぐる闘争によって、国の内外に新しい身分が成立する。しかも東方が巨大な実験の場になる……そこに新しいヨーロッパの社会秩序が生まれるのだ」
詳しくは、こちらのサイトで、記載されています。そして、ヒトラーは、『永遠の未成年集団』について解説します。
「よろしい、では解説してやろうハンス。私が言った未来に現われる『永遠の未成年者集団』というのは、もちろん、死ぬまで大人になりきれない人間たち、ということだ。
そんなことは、厳しい正常な社会ではありえない。だからそうなる背景には、甘やかされた異常な社会が当然ある。その中で、同じように大人になりきれない親に、愛玩動物のように育てられるため、子どもも成人しても真の大人になれないのだ。」
私は、これにはまったく的を得ていないものです。なぜなら、現在の資本主義社会は、さらに厳しく異常な社会になりつつあるからです。レーガンの登場により、アメリカでは、80年代にネオリベラリズムが横行し、そして1989年に福祉重視政策の社会主義は敗北し、イギリスではサッチャーが、そして日本では、小泉純一郎と竹中平蔵が登場し、世界は格差社会へと向かっていきます。そして、人類は、両極端に別れるのです、いわゆる、主人と奴隷、キリスト教の天国と地獄を現世で実現させること、それは、勝ち組と負け組の固定化でもあります。また、ドイツでも、初の女性宰相アンゲラ・メルケルが登場し、ドイツの鉄の女と言われるようなネオリベラル改革を実行しようとしています。そうなれば、ビスマルクに継ぐ鉄血宰相になるかもしれません。そうなれば、福祉も教育も、ネオリベラル方式となり、子どもが通う教育機関もネオリベラル式に順応しなければなりません。
「そんな残酷なネオリベラル社会に出たくない、順応したくない」
というのが、永遠の未成年者を生み出す背景なのです。アダルト・チャイルドは、甘やかされてそうなったのではありません。子どものときの心理的虐待が、成人になることを拒むようなトラウマを引き起こすのです。なぜなら、大人に虐待されたのですから。その例が、マイケル・ジャクソン、そしてクリントン元大統領です。甘やかされて育つのは、ネオリベラル支配階級の勝ち組の子どもです。甘やかすことのできる経済力があるのは、どう見ても、勝ち組ではありませんか?
しかし、ヒトラーは永遠の未成年集団だけではなくて、それに対する階級の登場も予言しています。
「しかしハンス、じつはそれだけじゃない。私が本当に言いたかったのは、そのことではない。
未来社会には、そういう『永遠の未成年者集団』が現われる一方で、『幼いときから大人の思考と感情を持った人間たち』も現われるのだ。信じられないだろうが、彼らは胎児のときからさえ、そのように教育される。5つか6つで一人前の理屈と判断力を備え、13、4歳にもなれば、並の大人を指揮するほどの力を持つようになる。
つまり両極端ということだ。肉体が大人で感情が幼児のようなグループと、肉体はまだ青春期にまでいかないのに、思考と感情が大人を超えるグループ……」
それは、ガンダムでいえば、ニュータイプ、強化人間、またはコーディネーターですね。彼らは皆十代です。『宇宙戦艦ナデシコ』の艦長もまだ10代の女の子ですし、『フルメタルパニック』のテッサ大佐も、潜水艦の艦長です。しかし、彼女らは、戦争の時代に生まれましたから、大人にならざるを得なかったのです。そう、軍人になるしかなかったのです。なにしろ戦争の世界では、究極の大人というのは、国家に奉仕する軍人なのですから。神と国家と異性への奉仕が、人を大人にさせるのです。ホワイトカラーの労働者が、ネクタイをして毎日通勤するのも、戦争の名残なのです。コーポレーションの利益のために、彼らは40時間以上働くのです。なにしろ、ネクタイは、戦争に行く若者に女性が愛を込めて巻いてくれたものなのですから。だから、ヒトラーユーゲンドに編入された子どもたちは、皆ネクタイをしているのです。まさに強化人間を作ろうとしていたのです。あの子どもたちはとても大人びていましたが、それが何をもたらしたか。それが、国家資本主義政策の本質なのです。しかし、それでは、16歳までの児童労働禁止法の意義がなくなってしまいます。16歳までは、資本主義社会に従属してはならないという根本が粉々に破壊されてしまいます。つまり、大人になるということは貨幣経済の資本主義社会に従属すること、そして子どものしての自由が剥奪され、去勢されてしまうことでもあるのです。
しかし、将来は遺伝子工学も発達するでしょうし、精子バンクも盛んになることでしょう。そうなると、もう優生学的な社会に発展し、特別進化した遺伝子をもった超人が、支配階級として奴隷階級を虐げる制度となってしまうでしょう。財産がある人間は優秀な子孫を残そうとし、財産のない人間は、優秀な遺伝子を買うこともできませんし、また生殖の権限すらありません。そして、特に、キモオタは、消極的断種となってしまう運命なのです。ナチスのような国家が関与しなくとも、キモオタは滅びてしまうのです。いわゆる絶滅危惧種というやつです。そう、キモメンは、滅びてしまうのです。たとえ、キモメンが整形してイケメンになっても、精子バンクは精子を受け付けないでしょう。なぜなら、遺伝子レベルでは、キモイままなのですから。その方向に向かいつつある大人社会に出たくないのです。
私は、自分はインディゴチャイルドだと思っていますが、しかし、それは、今の社会的状況によって作り出されたのかもしれません。そう、資本主義という大人社会によって。つまり先天的ではなくて、後天的だったということです。しかし、インディゴは、ネオリベラル社会に順応できないのではないでしょうか。インディゴは去勢を嫌がります。大人にはなりたくないのです。
しかし、大人よりも優れた知能をもった子どもでも、永遠の未成年になる可能性は充分にあります。だから、ヒトラーが言うような子どもが極端に二つに分かれるということはありません。あの音楽の天才モーツァルトも、永遠の未成年だったではありませんか?ニーチェだって、哲学とは、子どものような遊び心でダンスするようなものだと言っていたではありませんか?だから、本来ならば、永遠の未成年者は、賛美されるはずです。
また、ヒトラーは、セクシュアリティーについても、予言しています。
「愛もそうだ。特定の男女にだけ、愛と肉体の快楽が集中する。一方、一生に一度の真の愛も快楽も得られない男女も増える。要するに、土地や金や支配力を得る者は、ますますそれを得、支配される者はますます支配されるだけになる。」
そう、それは、性的ヴァージンが増えてしまうという予言なのです。つまり、金のないものは、セックスができないということです。恋愛の勝ち組と負け組が経済の勝ち組負け組と同じ構造になってしまうのです。そう、小泉改革のもたらした格差社会がさらにキモオタを生み出してしまうのです。自由と青春は、貨幣によって買うものとなってしまったのです。「In God We Trust」と記されている紙幣に支配されてしまっているのです。青春を買うこと、それは買春です。その特権は、勝ち組だけにあります。つまり、社会全体が援助交際となってしまっているのです。それが恋愛資本主義社会そのものです。しかし、それは予言というよりも、現在の日本を表しています。「東方が巨大な実験場となる」とは、まさに日本です。弱肉強食、自然淘汰のネオリベラリズムの実験場となったのです。『永遠の未成年者集団』が出来ると同時に、ヴァージンの比率も高まっていくのです。事実、日本の20代男性のヴァージン率は、先進国で最も高いデータが出ています。だから、萌えが流行るのです。つまり、萌えはカタルシスで、現実逃避でもあるのです。そう、セクシュアリティーの自由を謳歌できない過酷な現実から逃れ、アニメのキャラに救いを求めるのです。
それは、日本が青少年少女をテーマにしたアニメのメッカであることが大いに関係しています。日本のアニメは、かならず成人には達していない学園の女子、または男子が主役です。それは、胡蝶の夢として「永遠の未成年」と「永遠の学園」というヴィジョンを与え続けます。そして、人々は年を取ってしまったことに絶望し、つまり去勢以前の状態に戻りたいと願うのです。そう、このネオリベラル社会という大人社会は、ほとんどの人にとっては絶望でしかないのです。全米の人口のたった5%が国富の半分以上を独占する社会。そして、セクシュアリティーの自由はもっぱら勝ち組に独占されていますので、キモオタは恋愛でも絶望的です。快楽がブルジョワに独占されてしまうのです。つまり、セックスが金と結びついているのです。そして、恋愛とセックスが合致してしまっているのです。セックスは恋愛内に固定してあるために、キモオタは苦しむしかないのです。そして、キモオタが娼婦に手を出せば、ホームレスとなってしまいます。それか、ゴッホやニーチェのように梅毒感染で精神がいかれて死んでしまいます。それなら、インターネットやDVDでアニメで萌えに走った方がいいに決まってます。それで、マルクス的に言えば、萌えは阿片となるのです。そんな社会で、だれが大人になりたいでしょうか?それで、声優ギルドの17歳教も誕生したのでしょう。永遠の17歳は、井上喜久子教祖の最高教義です。それは、まるで『シムーン』の12人の少女たちの世界ですね。17歳でジェンダーが神から決定されるという世界。だから、巫女たちは、17歳以前であろうとします。つまり去勢以前です。つまり、永遠の未成年者集団は、シャーマン的な力が備わっているのです。しかし、
「その集団の登場は東方である」
と予言したヒトラーもなんとも不気味です。よって喜久子教祖は、ヒトラーの予言を実現させてしまったのです。
それは、やはり1989年に、福祉重視政策を掲げる社会主義が敗北したからでしょう。それは、ネオリベラリズムの勝利でした。そして、日本もその10年後ちょっとに小泉がネオリベラリズムを上陸させます。中曽根もそれを国鉄民営化などで実行していましたが、完全に実行し切ったのは、やはり小泉でしょう。彼はアメリカから「官は悪、民営は正義」という図式を持ってきます。そして福祉を司る官も「小さな政府」という名のもとに悪とされてしまいました。それは、まさにアメリカ保守のイデオロギーです。だから、アメリカでは、未だに国民健康保険が出来ないのです。それに反対なのは、アメリカの共産主義化を防ぐためだそうです。つまり、敗北者となったらだれも助けてくれないので、悲惨な生活が待っている。アメリカ人の破産の半分は医療費が払えないのが原因だというではありませんか。しかし、それでも、「国民皆保険という共産化よりは、ましだ」と意地を張るのです。そして、日本もそれをモデルとした社会となってしまいました。つまり、東方である日本が、アングロサクソン型資本主義であるネオリベラル政策の実験場となってしまったのです。そんな冷酷な社会に、だれが出たいと思うでしょうか。だから、大人になることを拒否する子どもが出てくるのも無理がないのです。インディゴが多く出てくるわけです。そう、インディゴは、ネオリベラリズムが主流となった時代から一気に出てきたわけですから。それて、ネオリベラルの本家であるアメリカでも大人になれない人たち、アダルトチルドレンが沢山存在するのです。それは、方やインディゴチルドレンですし、また永遠の未成年ともなるのです。そして、私も、永遠の16歳なのですよー!
それでは、17歳教のテーマ曲として、ビートルズの『I saw her standing there』を貼付します。
「She was just seventeen, you know what I mean」
とポールが歌っています。しかし、私はこう答えます。
「No, I don't know what you mean, since Kikuko is still seventeen!」
17歳教、Seventeenism、セヴンティーニズム、はたして、これは広がるのでしょうか。世界宗教となるのでしょうか。教祖は井上喜久子さん、この方は横須賀出身なのだから、横須賀出身といえば、小泉純一郎がいるではないかー!そう、小泉は教祖と同じ出身地なのである。そう、横須賀が17歳教の聖地、メッカ、総本山なのです!そして教祖は、「Jesus of Nazareth(ナザレのイエス)」と同じく「Kikuko of Yokosuka(横須賀の喜久子)」と呼ばれるでしょう。ということは、小泉をぜひとも17歳教に勧誘するべきでしょう。小泉は、hideの記念館も建てた文化的な人だから、きっと教祖の教えにも理解をしてくれるはずです。それに、この記事でも、「小泉のX-JAPAN」と「井上喜久子17歳と9196日」と並んでいるのですから。それほど社会的影響力が大きいということです。
「17歳教は改革の本丸だ!」
と言ってくれるでしょう!17歳はいいですよ。だって、結婚していない年だし、学園生活の絶頂ですし、「ヴァージン(独身)」と言われても大丈夫な年なんですから。
「17歳教は改革の本丸だ!」
と言ってくれるでしょう!17歳はいいですよ。だって、結婚していない年だし、学園生活の絶頂ですし、「ヴァージン(独身)」と言われても大丈夫な年なんですから。
「ヴァージン」という言葉は、女性に取っては、性的にそうでなくとも、未婚女性というステータスを表す言葉になりうるという特権がある。それは、性的なイメージではなく、「お嫁さんになる」といういわゆる夢のようなものだ。それは、男尊女卑社会が築いた「Mrs」と「Ms」の区別からであろう。セニョーラとセニョリタのようなものである。しかし、男性にとってはそれがない。すべてセニョール、またはミスターなのである。最近では「Spinster(結婚が遅れている女性)」という単語も消え失せてきた。『Sex and the city』によって、それが普通となったからである。つまり年をある程度とっても、セニョリタと呼ばれていいのである。最近では、
「女性が年をいっても結婚してないのは、文化的な意識が高いから」
という認識さえでてきた。つまり、30代の未婚女性は、30代の既婚女性にくらべると、文化的レベルが高いというのだ。それが、ニューヨークや西ヨーロッパの感覚なのである。そして既婚男性も自分の妻よりは、妻と同じ年の未婚女性と会話するほうが楽しく感じるのであり、不倫が成立するのだ。また、西ヨーロッパでは、新生児は婚外子がマジョリティーを占めるようになった。またノルウェーの皇太子妃も、元シングルマザーである。
だが、男はどうだろうか。未婚だろうが、結婚していようが、すべてセニョールだ。その言説から、男は、ヴァージンであることは、まったく期待されないのであり、結婚が遅れると、つまりある程度の年齢に達しても独身だと、
「あの人は、人格的に欠陥がある」
となってしまうのだ。とても、年の行っている未婚女性のように、
「文化的レベルが高い」
とは評価されないのである。なんて不公平な!だから、男性には、残念なが「ヴァージン」が良いというステータスがない。だから、彼らは純白なウェディングドレスを着ることが出来ない。男性では、独身を意味する言葉として「バチェラー」という言葉があるが、「ヴァージン」という言葉は、性的に不能、もしくは、男性として性的にまったく魅力のない軽蔑語、いわゆるあまりにも強烈な卑語となるのだ。その殺傷能力は想像をはるかに超える。しかも、たとえ性体験がある男性であっても、「ヴァージン」と女の子の間で言われているということは、それは、性体験がないほどに彼は醜いということなのだ。それは、もう「キモイ」の領域なのだろう。生理的に受け付けないのだ。だから、そんなことを言われていることをひとたび知ってしまった男性は、間違いなく自殺に追い込まれてだろう。たとえ自殺を免れたとしても、精神病院収容か、セラピストに治療してもらわなくてはならない。しかも、美人にそんなことを言われていると知ったら、もう生きてはいけないだろう。最後の手段、または苦肉の策として、社会から引き蘢るしかない。また、いくら美人を
「オレをヴァージンと呼んだ!」
と言って、セクハラで訴えて、たとえ勝訴したとしても、社会的な報復が彼を破滅させるだろう。男からは、
「美女をセクハラで訴えるなんて理解できねぇ。セクハラで訴えるのは、やりすぎだろう。本来、女に優しくするのが男ってもんだろう」
と味方にされず、または、彼を攻撃する男が出て来るだろうし、また女からは、
「女性をセクハラで訴えるなんて、許せない。男性社会そのものがセクハラだというのに、その犠牲者である女性を攻撃するなんて最低」
とすべての女性を敵にまわすであろう。そして、セクハラで訴えたら、自分がそういう評価を受けているということを、さらに言いふらしてしまうようなものであり、心理的苦痛がさらに増大する。それがインターネットで流れれば、もうおしまいである。それは、集団リンチに発展しかねないのである。そして、今後の就職活動に遺恨を残すことになってしまうのだ。だから、男にとって、女性に「ヴァージン」と言われることは、
「お前は死ね」
と言われるのと同じである。女の一言は、本当に人を殺してしまうのであり、尊い命を奪ってしまうのである。これほど、究極の呪いの言葉はないであろう。どの呪詛よりも破壊力がある。だから、私はその対抗策として、「ヴァージンは未婚のこと」と呟くしかないのだ。眠れる森の美女も、そうやって死なずに眠るだけで済んだのだから。
キモメンとオタクのコンビネーション、いわゆるキモオタは、女性に「ヴァージン」と言われた経験がある人が多いはずだ。それで、学園を変えたり、会社を変えたりした人もいる。また、引き蘢っちゃった人もいるかもしれない。そして、三次元に絶望して、二次元に、アニメワールドに逃避した人が多いのではないか。私はそう思う。私の憂鬱も、キモオタとして避けられてきたこと、女性にまったく相手にされなかったことから来ている。だから、私の憂鬱と萌えとは、二極一対なのだ。憂鬱があったから、「萌え」に目ざめたのである。まあ、その前に、渡米という思い切った行動に移したわけだが…。イヴが生命の木の実を食べることが出来なかったために、楽園から追放されたために、キリストが「萌え」を持参して降臨するようなものである。イヴの憂鬱が萌え待望論を引き出したのである。それは、『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒがイヴだったということか?カール・マルクスが「萌え」を阿片と呼ぼうともかまわない。たとえインテレクチャルがそう言おうとも、「萌え」は人を救うんだ!キリストの種子を「萌え」させることが、キリスト教の真髄なのだから。私も、アニメキャラで、種子を萌えるのだ。『風の谷のナウシカ』の最後でも、あのマスクの横に、芽が芽生えていたではないか。つまり、緑の芽が「萌え」ていたではないか。そう、ナウシカも「萌え」によって終わったのである。また、80年代の劇場映画版のアニメ『北斗の拳』のラストシーンも、不毛な大地に緑の芽が「萌え」た。そう、『北斗の拳』も「萌え」のアニメだったである。パンドラの箱に残った最後の「希望」とは、「萌え」だったのである。
その憂鬱の社会的解決方法は、セニョラとセニョリタの区別を排除するべきである。そして結婚を排除することである。それが、差別の温床となっているのだから。ヤハウェーのセクシュアリティーの統制が、苦しみの根源だ。そして、個人的解決法は、さっき言った通り「萌え」で救われることなのだ。それは、16歳の精神…、まあ、「17歳マイナス1歳」ということにしておけば、隠れシクスティーニストで通せるだろう。セヴンティーニスト(17歳教徒)にポアされないように…。Seventeenistとsixteenistの抗争が早くも予言されてしまったか?とにかく、私は年をとりたくない。若返りたい。16歳になりたい。老化ほど悲しいことはない。老化という悲痛な叫び、それはアニメの萌えを通じて16歳になることでしか、解決されないであろう。
しかし、一番いいことは、みんな17歳になればいいのだ。そうすれば、年がいっていて未婚であることが人格的欠陥であることという評価は絶対にされない。とくに男性に対して。みんな17歳なら、どうしてそんな評価が起きようか。小泉が首相になったとき、彼が独身であることがどんなに希望と勇気を与えてくれただろうか。女性は、
「小泉さんは、バツイチで、子どももいるし」
という評価しか下さなかったのは、彼女らのレベルが低いということだ。私は、彼が独身であることを強調しまくった。
「でも、小泉さんは、独身ですよね!」
と4回も繰り返し、とうとう彼女らは、
「うん、そうだね」
と受け入れた。そう、小泉はヴァージン(独身)だったんだよ!!!年がいっている独身であるという事実を彼女らに認めさせたんだ。それで、独身男性が性的に、また人格的に欠陥があるというステレオタイプを破壊しようとしたのだ。戦後初めてのヴァージン総理なのだから!彼は文化的でもあった、「東洋の美女」と謳われた荒川静香とオペラ鑑賞し、歌舞伎も好きで、X-Japanも好きで、ヨーロッパではイタリアのカンツオーネを歌うし、アメリカのグレースランドではエルビスの歌を踊って歌うし、あのような文化的感性のある指導者はいただろうか!そして、小泉が17歳教徒になれば、それはもう、私たちの萌え萌えを世界に広めることが出来るのです。
小泉は、痛みを伴う改革の理解を求め、
「米100俵の精神」
と国民に訴えましたが、これからは、
「年齢17歳の精神」
というキャッチフレーズを喜久子教のために宣伝して欲しいです。それこそ、プロパガンダに長けた小泉の才能を生かせるというわけです。彼は、もう政治的関心を失ったようですから、インタビューにもマスコミも隠れるように避けているようですし、ちょっと引きこもりがちになっているんですから、これからは、政治ではなくて宗教ですね。もうこれは、喜久子教団に入るしかないでしょう。
「あの小泉元首相も入信した教団!」
となれば、もう17歳教は、それこそ世界宗教となりますね。宗教史に名を残すでしょう。そうすれば、ガンダムオタクの悲願である、ガルマ・ザビ大佐を靖国神社に祀るという夢も叶うでしょう、サラ・ザビアロフも含めて。そうすれば、17歳教は靖国を乗っ取り、神道がすべて17歳教の傘下となります。かつて聖徳太子が、仏教をもって日本の古代信仰を傘下に置いたように。そうなれば、無宗教である日本人も、初詣に行くことが、すでに17歳教の信仰の証であるということを認めざるを得なくなるでしょう。2012年は、たぶん、それが実現する年なのではないでしょうか?
これで、あなたも17歳になれるそうです。ちなみに、こちらが教祖の17歳の証です。
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仏教の最古の経典といわれる『スッタニパータ』によれば、シッダールタは学生に、
と言っている。注目するべきは、「私の言葉」ではなくて、「私の声」である。だからこそ、ブッダの声を聞く弟子たちを、「声聞(しょうもん)」と呼ぶのである。声聞は、英語では、voice-hearerであり、そして、声優は、voice-actorである。声優は、もっとも言語を正しく綺麗に発音できる人々であり、その技能集団を「seiyu」とアメリカでは認識されている。そう、発音に無駄がないのだ。だから、よく声が通るのである。私が思うには、シッダールタは指導者になるものとして生まれてきたので、彼は王家で、みっちりと発声の練習を叩き込まれたと思う。だから、彼の話すマガダ語は、とても綺麗で心地の良いものだったに違いない。
アメリカや、ヨーロッパのアニメオタクは、吹き替えでアニメを見るのではなく、字幕で、オリジナルの日本のvoice-actorsの話す日本語を聞いて、自己の安らぎを得るのである。だから、アニメオタクは、声優の声に萌えるので、声聞なのである。そう、だから、アニメオタクにとっては、声優は仏なのである。アニメキャラの発する声によって萌え、癒されるのだ。
私が初めて尊師に会った時は、衝撃的だった。あれほど正しく、綺麗な日本語を実際に聞いたことはなかったからだ。そう、テレビでしか、聞いたことのない綺麗な日本語を話すので、私は惹かれた。第一印象は、とても強かったのだ。やはり声だろう、人間がもっとも影響されるのは。それが、私の尊師に対する帰依のきっかけであろう。
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年
この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ(1062)
と言っている。注目するべきは、「私の言葉」ではなくて、「私の声」である。だからこそ、ブッダの声を聞く弟子たちを、「声聞(しょうもん)」と呼ぶのである。声聞は、英語では、voice-hearerであり、そして、声優は、voice-actorである。声優は、もっとも言語を正しく綺麗に発音できる人々であり、その技能集団を「seiyu」とアメリカでは認識されている。そう、発音に無駄がないのだ。だから、よく声が通るのである。私が思うには、シッダールタは指導者になるものとして生まれてきたので、彼は王家で、みっちりと発声の練習を叩き込まれたと思う。だから、彼の話すマガダ語は、とても綺麗で心地の良いものだったに違いない。
アメリカや、ヨーロッパのアニメオタクは、吹き替えでアニメを見るのではなく、字幕で、オリジナルの日本のvoice-actorsの話す日本語を聞いて、自己の安らぎを得るのである。だから、アニメオタクは、声優の声に萌えるので、声聞なのである。そう、だから、アニメオタクにとっては、声優は仏なのである。アニメキャラの発する声によって萌え、癒されるのだ。
私が初めて尊師に会った時は、衝撃的だった。あれほど正しく、綺麗な日本語を実際に聞いたことはなかったからだ。そう、テレビでしか、聞いたことのない綺麗な日本語を話すので、私は惹かれた。第一印象は、とても強かったのだ。やはり声だろう、人間がもっとも影響されるのは。それが、私の尊師に対する帰依のきっかけであろう。
参考文献:
中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫、2006年






