ピンクフロイドの「The Dark Side of The Moon」はまさにカミユの『シジフォスの神話』を体現している。不条理の世の中を描いているのだから。シジフォスは巨大な石を担ぎ上げて坂の上まで登ろうとするが、石が坂から落ちてしまうので永遠に坂の下からやり直さなければならない。果てしない同じことの繰り返しである。ゼノンの「亀とアキレスの競争」のパラドックスにも通じている。
このIT革命後の世界ではもっと仕事が楽になり、人々の生活が向上すると思われていた。しかし仕事が楽になるどころか余計きつくなった。勤労時間は増え、仕事の量も増えた。コミュニケーションの革命で時間を節約するどころかもっと余暇を削減されるはめとなったのである。余計忙しくなってしまったのだ。亀には永遠に追いつけないのである。
ピンクフロイドの「Breath」という詩から抜粋すると
Run, rabbit run
Dig the hole, forget the sun
And when at last the work is done
Don't sit down, it's time to dig another one
(ウサギよ、走れ
穴を掘れ、太陽を忘れるんだ
そしてついに仕事を終わらせたら
座ってはいけない、次の穴を掘る時間だ)
シジフォスは果てしなく巨石を担ぎ上げる。ウサギも永遠に穴を掘り続ける。イソップ物語でもウサギは亀に追いつけなかった。そしてパリスの矢によってアキレスは走る能力を奪われ、亀に追いつくための方便さえ失ってしまい、死んでしまうのだ。ネオリベラルキャピタリズムとはそんなシステムなのだろうか。
このIT革命後の世界ではもっと仕事が楽になり、人々の生活が向上すると思われていた。しかし仕事が楽になるどころか余計きつくなった。勤労時間は増え、仕事の量も増えた。コミュニケーションの革命で時間を節約するどころかもっと余暇を削減されるはめとなったのである。余計忙しくなってしまったのだ。亀には永遠に追いつけないのである。
ピンクフロイドの「Breath」という詩から抜粋すると
Run, rabbit run
Dig the hole, forget the sun
And when at last the work is done
Don't sit down, it's time to dig another one
(ウサギよ、走れ
穴を掘れ、太陽を忘れるんだ
そしてついに仕事を終わらせたら
座ってはいけない、次の穴を掘る時間だ)
シジフォスは果てしなく巨石を担ぎ上げる。ウサギも永遠に穴を掘り続ける。イソップ物語でもウサギは亀に追いつけなかった。そしてパリスの矢によってアキレスは走る能力を奪われ、亀に追いつくための方便さえ失ってしまい、死んでしまうのだ。ネオリベラルキャピタリズムとはそんなシステムなのだろうか。
マインド・サーカス、これはどういう意味だろう。「サーカスを気にしなさい」か、「ヌース(知性)のサーカス」だろうか。まあ私の思考はごった返していると言っても良いだろう。
自殺する若者
日本の埼玉県で若者の集団自殺があったと聞いた。なんたることだろう。どうして自殺者がこれ程までにも増えたのだろうか。日本ではここアメリカや欧州、中東のように宗教によって自殺は罪とされることはない。即身仏と言う概念も日本にはあるし、日露戦争の英雄の乃木希典将軍も明治聖帝の崩御にともない殉死した。神道や佛教には欧州のような自殺に対する罪の意識はそこまで無い。自殺は神に対する犯罪ではないのだ。
自殺する若者
日本の埼玉県で若者の集団自殺があったと聞いた。なんたることだろう。どうして自殺者がこれ程までにも増えたのだろうか。日本ではここアメリカや欧州、中東のように宗教によって自殺は罪とされることはない。即身仏と言う概念も日本にはあるし、日露戦争の英雄の乃木希典将軍も明治聖帝の崩御にともない殉死した。神道や佛教には欧州のような自殺に対する罪の意識はそこまで無い。自殺は神に対する犯罪ではないのだ。
ユダヤ・イスラム・キリスト教では人の命を奪えるのは神だけであり、人が人を殺したり自殺したりする権利はない。欧州の国王や皇帝は王権神授説によって人を死刑にする権限を持っていた。だから人を殺すことが出来るのは王だけであった。殺人は王の権威を侵害するものであり大逆であり、王の権威を回復するために殺人犯はもっとも残酷な形で公開処刑された。世界初の世俗国家となったアメリカがいまだに死刑を容認しているとは。世俗国家となった瞬間に死刑が廃止されなかったとは。ヨーロッパ連合では死刑は廃止されたのに。宗教心が最も薄い西欧で死刑が廃止され中東のような宗教心が濃い国で残酷な刑が行われているとは皮肉である。当然自殺は神に背く行為であり、社会に背く行為でもあったが、最近それも変わりつつある。とくにポスト冷戦の時代に入って既存の価値観は消え、自殺に対する価値観も変わろうとしている。
***
ポスト冷戦世代
私はポスト冷戦世代だ。第二次大戦後のアプレ・ゲール世代はジェームス・ディーンの「理由なき反抗」に象徴された。私は94年にその映画を見た。まさにその心境と同じだった。そして阪神大震災、地下鉄サリン事件といい、サカキバラ・セイト事件といい、まったく訳の分からない怪事件が連続して続いた。ポスト冷戦は何がなんだか分からない時代だ。アメリカもソ連が消えたことでとても内向的になったし、消費社会による経済の復興に全力が注がれた。しかしそんなアメリカでも93年にブランチ・デヴィディアン事件、そして95年にオクラホマシティーでテロ事件が起こった。テロの犯人は湾岸戦争にも従軍したアメリカ国粋主義者であった。そして97年にはヘブンズゲートの集団自殺があった。
その間にIT革命も起こった。インターネットは全てを変えた。今では20%以上もの十代のアメリカの若者が自分のホームページを持っていると言う。私はちょっと生まれるのが早かった。できるなら、インターネット革命が浸透してから思春期を経験したかった。今の若者の情報力は十年前と比べたら一億倍も違う。アメリカの老人でさえ、「最近の若者は話しが出来るのう」と言ってウキウキしていたのだから。
そんな中で行き場を失った高校生がコロラドのコロンバイン高校で大量射殺するという事件が起きた。ITバブルによる株式は最高潮に達し、アメリカの歴史の中で経済が最も繁栄した時期だったので、アメリカ中がショックを受けた。どうしてそんなことが起きてしまったのか、そう人々は口を揃えて呟いた。そして二十一世紀最初の年にニューヨークで同時多発テロが起きてしまった。世界の消費社会の象徴だったツインタワーが粉々に崩壊したのだ。
***
ポスト冷戦の時代、我々は神話を失った。しかしアメリカの一部ではキリスト教が非常に強い。彼らにとっては神話は根強く残っている。「Saved」というキリスト教系の高校を風刺するコメディー映画があったが、彼女らは神の名において自分の行動全てを正当化する。全ての行動は「これは神の意志」とし、議論する時も常に「神はこう欲してらっしゃる」と必ず後につけるのだ。まるで戦前の大日本帝国だ。すべては「陛下の御心」、だからどんな強情な熊のような凶暴な軍人であっても天皇に謁見するときは色を失ったそうだ。北条政子が公家に対して反旗を翻す時でも「上皇様は側近に惑わされている」と言い訳をしてはじめて部下を出陣させることが出来た。イスラム原理主義者も「アラーの御心」を盾にし、「アラーアクバル」と叫んで人の首を切るのだ。「バンザイ・クリフ(万歳の崖)」もその狂気から生じたものだ。神風特攻隊も「天皇陛下万歳」と叫んで敵艦に激突したのだろう。信じられないことである。だから「原理」は人を硬直させてしまうのだ。
しかし日本の若者の自殺は神や天皇、個人的信条、教義、主義、名誉、家族のためではなく、根拠の無いものだ。ある特定の原理に従って行動するということでもない。理由がないのである。サルトルは人間の存在に根拠がないと言っていたが、まさに現代の若者の自殺者にはそれが当てはまるだろう。「理由なき自殺」と言ってもいいだろう。ポスト冷戦の新しいタイプの自殺ではないだろうか。
***
そんなポスト冷戦時代の混乱の中、私は96年にあの曲に大変感銘を受けたことを覚えている。坂本龍一が作曲した「Mind Circus」という曲である。「ベルリンの壁が町に消えたあの夜」、まさにポスト冷戦の世代に対する詩である。「革命戦士」は自分に似ているというだけで、自分ではない。何がなんだか分からない、はっきりしたものが見えてこない世界、世界が何かさえ分からない、自分さえ見いだせない、そんな世界に生きていることを痛感させられる曲だ。
「セイトの反抗」
サカキバラ・セイトはそのような状態を「透明な自分」と表現した。これはそれまでの言葉の大転回だった。これまで「透明な主体」と言えば、「自分を理性によって完全に把握している」と意味していたが、サカキバラのは「自分さえ見えてこないどこにも存在しない自分」と言うことだ。「Cogito Ergo Sum」の「Sum(本質)」が否定されたというより無化されたのだ。「Sum」は「esse(である)」の一人称単数形である。同じ言葉を使って意味をすり替えたのである。詩的なアナグラム、まさに言語ゲームの産物だ。
「自分が透明であること、即ち自分はない」ということ、つまり「透明な自分」は無我である。「即自」がない。最初が無いということでもある。天皇の「皇」の「白」はもともと「自」であり、「First(最初)」という意味で、「皇」は「世界最初の王」と意味する。「第一の王」と言う意味でもあり、アウグストス皇帝の称号「Princeps(プリンケプス)」も「第一の人」という意味だった。ギリシャ語では「自」は「αρχη(アルケー)」であり、「万物の根源」を意味する。いわゆる「原理」であり英語の「principle(原理)」も「プリンケプス」から派生している。佛教で言う「自性(じしょう)」である。
サカキバラはこの「First Person(一人称、第一の人、自分)」を否定したのであり、それは起源がないことでもある。起源なき、根源なき、根拠なき、理由なき存在、それが理由なき反抗へと結びつくかどうかはその人次第である。若者の自殺も一人称に対する反抗なのか、「私、ぼく、オレ、あたし」に対する反抗なのか。「自分」というのは相手をさすこともある。その場合「あなた」よりも「あなたの本質」つまり「あなた自身」ということである。つまり「その人自体」であり、カントの「Ding an sich(物自体)」である。「I myself」か「You yourself」など「自身」という周囲にから独立した存在である。その「自体」への反抗かも知れない。原理を持たない人間の犯罪、あるいは破壊行為、エヴァンゲリオンに共通する事象である。だから最近「動機のない犯罪」が増えてきたのだろう。ある大学教授の話しによると授業中にアイスクリームを食べている学生がいたので「どうして授業中に食べてるんだ」と注意したら「食べたいから」と言い返されたと言う。欲望のままに漂流している若者たち...
サカキバラは「essentialist(本質主義者)」ではなく「existentialist(実存主義者)」であろう。英語では「be動詞」は一つだが、フランス語とルーマニア語を抜かして他のロマンス諸語には二つある。スペイン語とポルトガル語の「ser」と「estar」、イタリア語の「essere」と「stare」、ラテン語の「esse」と「stare」、「essence<エッセンス=本質存在>」と「existense<事実存在(実存)>」の差異と関係。厳密に言えばフランス語もかつて「etre」と「ester」に分かれていた。つまりこの「stare」こそが実存哲学の問題である。
「stare」は元々ラテン語で「立つ」という意味であり、「status」が「stare」の名詞形であり「状態」という意味だ。それが英語の「state(国家、州)となった。「stare」はインドヨーロッパ語源の「sta-」から派生し、英語の「exist(存在する)」の語源であるラテン語の「ex(前へ)- sistere(立ち止まる、立ち向かう)」の「sistere」もこの「sta-」から派生しているのだ。つまり決起の哲学である。ドリス・デイの名曲「Whatever will be will be」の「be」はスペイン語で「ser」であり、ラテン語の「esse」が語源であり、英語の「essence(本質)」の語源でもある。つまりこの歌は瞬視する状態ではなく永遠の本質を表現している。だから三人称単数未来形の「sera」になり、「Que Sera Sera」となる。未来も原理に束縛されているのだ。きっと実存哲学者はこの歌を嫌うだろう。
アメリカ帝国の出現
アメリカでも「Perpetual Unionist(永久連邦主義者)」と「State rightist(州権主義者)」に分かれる。この永久連邦主義者は本質主義的な考え方をする。永久なものが根拠であり、流動するもの(状態)の元となる。だから「state(州、状態)」はラテン語の「stare」から来ている。つまり連邦が永遠で、州は永遠ではないのだ。つまり州は本質ではない。それでも州の脱退は認められていた。事実、州権主義者はそう認識していた。どこの州が脱退しようと二つ以上州がありさえすれば連邦は存在した。州が先にあって連邦が出来たのだから。州あってこその連邦。サルトルの「実存は本質に先行する」という言葉は的を得ている。南北戦争の危機でさえ連邦は存続していた。全州が脱退すれば連邦は存続しなかったが、州は連邦なしでも存続できた。しかし州が連邦から脱退するのは南北戦争の後、連邦最高裁が違憲と判断してしまった。本質が実存を支配してしまったのだ。つまり州が州ではなくなってしまった、「state(州)」という名を形骸化させてしまった、州あってこその連邦から連邦あってこその州へ、まさ州の死である。連邦なくして州なし、それこそフェデラリスト(のちの共和党)の陰謀であった。連邦が「永遠」と規定した瞬間にその主義は宗教となったのだ。本質なしに実存はあり得ないと言うシステムを作ってしまったのだ。永遠なものなしに実存が存在することが出来なくなったのだ。
まるで同一性を求めたナチスの中央集権化である。ヒットラーも「我が闘争」中でリンカーンの連邦主義に賛辞を贈っている。永遠のドイツ帝国のような、そんな連邦が「永久」の実体と定義されるなんて。まるで連邦自体は永久であるかのように。ヒットラーも「an sich(自体)」という言葉を好んで「我が闘争」の中にちりばめた。「永久」というものはないだろうし、「完全」も何を基準にしているのかが曖昧だ。連邦は憲法というテクストでしかない。そのテクストも織物のように書き換えられて行く。しかし連邦あっての州と書き換えられてしまったことは悲劇である。
それに二つ以上の州があれば連邦を構成するのだから、脱退できないということもない。脱退できなかったらまるで昔のソ連だ。ソ連もバルト三国が独立してもソ連だった。しかし15の共和国全てがソ連から脱退したのでソ連は消滅した。ロシア連邦がソ連の権威を引き継いでいるがたった一国ではソ連になりようがない。永遠と言われた共産主義自体東欧から消滅してしまったのだから。南部の人々も実存を連邦政府にぶつけた。そしてその勇敢さには称賛に値するが、彼らは邪悪なシステムを守るために戦った。サカキバラの哲学も心を打つものがあったが、極悪非道な犯罪に走ってしまった。ソ連の解体を導いた反抗するものたちが真のヒーローであろう。
永遠的で永遠でないもの
永遠なものはあるのだろうか。あるかどうか分からない。だがあって欲しい。永遠がなければ永遠的なものを作ればいいのだ。私の肉体も永遠ではないと言う。だがそれを凌駕したい。不死身になりたい。永遠の命が欲しい。始皇帝もギルガメッシュも永遠の命を得られなかったが、いまでは遺伝子工学が発達してきているので、私は希望を持っている。いずれ人は事故に遭わない限り永遠の命を獲得することが出来るのだ。永遠に若く健康で美しく人は生きるのである。それこそが私の目指すものだ。そして自分を完成させるのだ。
遺伝子哲学と言う宗教によれば人は死ぬからセックスようになったのだと言う。セックスは簡単に言えば遺伝の組み換え作業である。遺伝の組み換えを行うためにセックスするのだ。そして子孫を残して人類は存続するのである。つまり不死身であれば遺伝の組み換えの必要はない、子孫などいらないのだ。人類存続のために遺伝の組み換えを行って人類は進化して行くのだ。だが不死身な人間がいるならば進化することはないのだ。不死身なのだから。男女と別れたのも死ぬからだと言う。染色体が途切れている以上は遺伝子の組み替えのために性別が分かれ、人は死ぬのだ。ところが遺伝学で寿命を延ばすことが出来ると言う。つまり寿命を更新してさえいけば生き続けるのだ。老化が起こるのも細胞が死に始めるからだと言う。回数券が切れてきたからだ。しかしこの回数券を更新することで一生若く健康で永遠に生きられるのである。その技術こそ聖杯の水である。
よって「私」はポスト冷戦時代にありながら自分探しをしている存在である。何が何か分からない、だから分かりたい。よって私は実存主義者ではないのだ。
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新約聖書の原文というのはヘブライ語ではなくギリシャ語で書かれている。ギリシャ語でもアレクサンダー大王が登場した後に普及したコイネー語というギリシャ語の一つである。そしてコイネー語は当時のオリエント世界の共通語でもあった。
だから「キリスト教の概念はギリシャ語による」と言っても差し支えないはずだ。
フロイトの研究した「ヒステリー」という単語はギリシャ語の「υστεραヒステラ(子宮)」から来ている。さらにその動詞は「υστερεωヒュステロー(欲する、遅れる、欠けている)」であり、また「υστερεμαヒュステレマ(貧乏、欠如、欲求)」の語源ともなっている。つまり欠けているからこそ欲しがるのだ。貧乏だから心が貧しいのだ。無いから必要になるのである。無から欲望は生じるのだ。子宮も無の空間だ。子供が宿ることで子宮は無から脱するが、いずれ胎児が成長してくると出産しなければならない。そしてまた子宮は無の状態にならなければ行けない。
子宮は虚無であり、ニヒリズムであり、Ex Nihiho(無から)人は生まれるのだ。デモクリトスの言葉を使うと「Εξ Κενουエックス・ケヌー」だろうか。 虚空蔵菩薩の「虚空蔵」、いわゆる梵語での「アカシャ・ガルバ」の「アカシャ」は「虚無」という意味であり、「ガルバ」は「子宮」という意味だ。よって空っぽな子宮、空っぽな器、empty cup、乾杯となるのだ。
だから「キリスト教の概念はギリシャ語による」と言っても差し支えないはずだ。
フロイトの研究した「ヒステリー」という単語はギリシャ語の「υστεραヒステラ(子宮)」から来ている。さらにその動詞は「υστερεωヒュステロー(欲する、遅れる、欠けている)」であり、また「υστερεμαヒュステレマ(貧乏、欠如、欲求)」の語源ともなっている。つまり欠けているからこそ欲しがるのだ。貧乏だから心が貧しいのだ。無いから必要になるのである。無から欲望は生じるのだ。子宮も無の空間だ。子供が宿ることで子宮は無から脱するが、いずれ胎児が成長してくると出産しなければならない。そしてまた子宮は無の状態にならなければ行けない。
子宮は虚無であり、ニヒリズムであり、Ex Nihiho(無から)人は生まれるのだ。デモクリトスの言葉を使うと「Εξ Κενουエックス・ケヌー」だろうか。 虚空蔵菩薩の「虚空蔵」、いわゆる梵語での「アカシャ・ガルバ」の「アカシャ」は「虚無」という意味であり、「ガルバ」は「子宮」という意味だ。よって空っぽな子宮、空っぽな器、empty cup、乾杯となるのだ。
欲望を満たすことは完全になるということだ。しかし欲望はとどまることを知らず巨大化する。無制限な欲望、そして地球上の限られた資源、その対立がこの世を支配している。巨大な無が地球を食い尽くしてしまうブラックホールなのだ。つまり器官なき体ということになるが、それはドクマティズムである。だが欲望は人間を成長させる。いい人になりたいというのも欲望である。だから社会は発展するのである。
無が人を苦しませる。この世で一番必要なものをどんなことをしても絶対に二度と手に入らないと分かった時の絶望が人を打ちのめすのだ。たとえば最愛の人を失った時に人は絶望し、それがヒステリーを引き起こすのだろう。つまり欲望=巨大な無がヒステリーの要因となるのだ。しかしその欲望が人間の本質だと仮定したら、その本質を産み出す子宮こそが欲望の根源となる。人なくして欲望なし、子宮なくして人は生まれず、よって子宮なくして欲望なし。
日本語では子宮は「子供の宮」であり、ギリシャで言う「何かが欠けた場所」ではない。つまり同じ器官を指す言葉であろうともコンセプトは違うのである。日本では無という概念はインドから伝わったものだろう。ギリシャ人と佛教が似たようなコンセプトを持っていたとはとても興味深い。そしてギリシャ語のよって作られたキリスト教も。
とにかく言葉というものは既にある概念を応用してまた新たな言葉を作り出すということだ。新語を作る時の概念の応用の仕方が文化によって異なる。それがギリシャ語と日本語の差異である。
無が人を苦しませる。この世で一番必要なものをどんなことをしても絶対に二度と手に入らないと分かった時の絶望が人を打ちのめすのだ。たとえば最愛の人を失った時に人は絶望し、それがヒステリーを引き起こすのだろう。つまり欲望=巨大な無がヒステリーの要因となるのだ。しかしその欲望が人間の本質だと仮定したら、その本質を産み出す子宮こそが欲望の根源となる。人なくして欲望なし、子宮なくして人は生まれず、よって子宮なくして欲望なし。
日本語では子宮は「子供の宮」であり、ギリシャで言う「何かが欠けた場所」ではない。つまり同じ器官を指す言葉であろうともコンセプトは違うのである。日本では無という概念はインドから伝わったものだろう。ギリシャ人と佛教が似たようなコンセプトを持っていたとはとても興味深い。そしてギリシャ語のよって作られたキリスト教も。
とにかく言葉というものは既にある概念を応用してまた新たな言葉を作り出すということだ。新語を作る時の概念の応用の仕方が文化によって異なる。それがギリシャ語と日本語の差異である。
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