クリスマスの時期か?ふさけやがって〜。恋人とエッチする大切な日、というのが日本でまかり通っている消費社会の言説というものです。承認された売春、そう、資本主義社会での恋愛は売買されるのですから、援助交際なのです。それで、消費を促します。そんなネオリベラリズム社会は、消費しない恋人がない負け組を排除するのです。それから、はぐれてしまっているキモオタは、どうすればいいのでしょうか?消費社会は、そういう人たちをまったくマーケティングの対象からはずしてしまっているんでしょうね。まあ、いいんですけど、消費社会の欺瞞と詐欺に引っかからないで済むのですから。
そういえば、『スクールデイズ』の殺人事件も、クリスマスの時期でしたね。クリスマスシーズン一色の夜の都会で、凍える寒空の中、雪が肩に積もってしまっていた言葉ちゃんが、壊れてしまって、そこで誠が涙を流して謝罪するという、それによって、言葉ちゃんの眼に光が戻ったんです。しかし、それは、最悪の結果を招くことになりました。西園寺世界の嫉妬です。世界ちゃんは、ヤハーウェーに取り憑かれてしまったのです。誠の家に乗り込んだ時の世界ちゃんの眼は、行っちゃってましたからね。あれは、まさに悪霊に取り憑かれた眼です。だから、私はクリスマスシーズン中は、薬缶でお湯を沸かさないのです。縁起が悪いですからね。あのピーという警報音には、ドキッとしますからね。
それにしても、クリスマスシーズンに『スクールデイズ』を放送していたら良かったと思いますね。もっとインパクトがあったはずです。それに、スクールデイズはヨハネによる福音書の影響をとても受けていますから、あれは、まさにキリスト教的なアニメだったし、クリスマスはキリスト教の創始者の誕生祭でもあるので、このアニメの最終回はクリスマスイヴにやってほしかったですね。エッチは愛があってやるものというヤハウェー主義と、その日を定めた消費主義が結びついたこの日を撃滅して欲しかったです。キモオタにとっては、最悪な日ですから。商店街のイルミネーションで飾られた巨大なクリスマスツリーの下で、カップルが手を取り合って歩いているという、まさにキモオタにとっては耐え難いシムラークラなのです。
しかし、それは日本だけのものではありません。アメリカもそうです。マライア・キャリーが1994年に出したシングルで、「All I want for Christmas is you」というのがありました。1994というと、神尾観鈴ちゃんが解脱した年としても記憶に新しいところですが、その曲が日本にも入ってきます。そして、1994年のオリコンチャートで第二位となりました。いかに日本がアメリカのグローバリズムに冒されてしまったかということを示しています。だって、邦題が「恋人たちのクリスマス」ですよ!ヤハウェー主義そのままじゃないですか!そういえば、マライアというと、安室奈美恵の憧れでもあり、つまり90年代の恋愛資本主義型消費社会の主役であったアムラーの原点はマライアにあるといっていいほどの影響力を与えたアーティストで、それが、ネオリベラルの言説を世界にぶちまける歌を発表したのです。
まあ、正直、私は、当時、この曲が好きでした。いや、でもアムラー系のファッションをしていたコギャルたちにはマライアも好きという子が多くて、高校での私の好きな子もマライアを絶賛していましたから、私もそういう仕組みで、消費社会に洗脳されてしまったんですよ。そして、この曲に影響されたのか、クリスマスが近づくにつれて、告白の件数も増えてくるという奇怪現象が起きてましたね。また、クラスの男子もマライアを好きなヤツが多くて、マライアの写真を材料にオナニーしたという野郎もいたぐらいですからね。まあ、でもあのときのマライアはほんとかわいかったですよ。まさに天使でした。ディヴァ(天の歌姫)でしたよ、ほんと。20代前半でしたし、もうなにもしなくとも素性でかわいいという、
「あんなかわいい人がアメリカにはいるのかぁ!」
と心から憧れましたからね。キモオタとして、厚化粧のアムラーを中心とする女子たちに気持ち悪がられて迫害されていたので、この年にアメリカに行こうっと決めたわけです。でも、アムラーファッションの源流がマライアとジャネットだったなんて、ずっと気付かなかったですから。アムロを輩出した小室ファミリーと、イケメン親衛隊のジャニーズは、撃滅しなければ行けない敵だと思っていましたから。まあ、そんなのが蔓延っている日本にいる必要もないですから、渡米したんですけどね。でも、マライアも本家のネオリベラル社会が輩出したアーティストでしたからね。
そういえば、カーペンターズもはじめは嫌いでしたよ、というかまともに聴いたことがなかったですね。私は、ビートルズとかエルヴィスとかを本場のロックと思っていたので、
「カーペンターズはロックがシュガーコーティングされたものだ」
と、強く非難してました。ロックはワイルドさが命だと思っていましたから。まあ、カーペンターズは、元はUCLAのジャズバンドだったので、たしかに源流はロックではなかったんですけどね。しかし、中学の時の好きな子が、カーペンターズが好きだったので、それでいつの間にか私もカーペンターズに熱中するようになっちゃって、かなりギターで練習しましたからね、それで、いまでも「トップ・オブ・ザ・ワールド」を弾けるんですよ。中学のロック仲間には、私がカーペンターズを好きになったことを隠してましたけどね。
「おまえ、裏切ったなぁ!」
と糾弾されるのは嫌だったんで。彼らは、女の子が好きそうな音楽には、拒絶反応を起こしていましたから。私もアムラーが好きな音楽は徹底して嫌っていましたが、でも、カーペンターズは別ですよ。だって、カーペンターズって、実際にいいじゃないですか?いい曲ばっかですよ。ああ、心から嫌っていたものが大好きになってしまうなんて、恋心というのは本当に恐ろしい。でも、たとえ好きな女の子が好きなものを好きになっても、その子と恋ができなければ、私の心はずだずだに砕け散ってしまい、自殺しそうになってしまいます。
「生きていても仕方ない」
という絶望感に押しつぶされます。報われない恋は、人を破滅に追い込むのです。恋ほど怖いものはない。よって、私の求めているもの、それは恋ではなく、女性との皮膚感覚だ。つまり、セクシュアリティーの解放だ!
でも、マライアの歌詞は、ほんと言葉ちゃんの心境を表してますよ。だって、恋人が来なければ、壊れてしまうんですから。そして、あのスクールデイズは、まさしく恋による悲劇でしした。清教徒倫理が支配する消費社会システムに当てはまらない恋は、人々を破滅へと導いてしまうのです。それが、消費社会のメッセージなのです。つまり、ヤハウェーの脅し文句なのです。そんな消費社会の言説をぶちまけるなんて、その言説に対抗し撃滅し得る詩的アナグラムを見いだすことこそが、私の天命なのです!
だから、私は、クリスマスには、恋愛資本主義とは無縁なアニメの曲を聴きます。まずは最終回の序盤に流された「二人のクリスマス」、そう、正気を取り戻した言葉ちゃんと誠がクリスマスの夜の街を二人で歩いている時にかかっていた曲です。ああ、言葉ちゃんのマフラー姿、ほんとにかわいかったなぁ。あんな子がこの世にいたなら、私は産まれてきたことを後悔しなかっただろうに…。そして大衝撃シーンでの「悲しみの向こうへ」、そしてEDの「Still I Love You」。そう、クリスマスとは、ずばりナザレのイエスの誕生日、イエスは、社会的弱者を救済に来たのですから。イエスは、
「不幸な人は幸いである、天国はその人たちのためにある」
と言ってますので、もしイエスが現代に再臨したならば、
「キモオタは幸いである、二次元はその人たちのためにある」
と言ってくれることを確信してます。もちろん、二次元とは、アニメのことです。
そういえば、『スクールデイズ』の殺人事件も、クリスマスの時期でしたね。クリスマスシーズン一色の夜の都会で、凍える寒空の中、雪が肩に積もってしまっていた言葉ちゃんが、壊れてしまって、そこで誠が涙を流して謝罪するという、それによって、言葉ちゃんの眼に光が戻ったんです。しかし、それは、最悪の結果を招くことになりました。西園寺世界の嫉妬です。世界ちゃんは、ヤハーウェーに取り憑かれてしまったのです。誠の家に乗り込んだ時の世界ちゃんの眼は、行っちゃってましたからね。あれは、まさに悪霊に取り憑かれた眼です。だから、私はクリスマスシーズン中は、薬缶でお湯を沸かさないのです。縁起が悪いですからね。あのピーという警報音には、ドキッとしますからね。
それにしても、クリスマスシーズンに『スクールデイズ』を放送していたら良かったと思いますね。もっとインパクトがあったはずです。それに、スクールデイズはヨハネによる福音書の影響をとても受けていますから、あれは、まさにキリスト教的なアニメだったし、クリスマスはキリスト教の創始者の誕生祭でもあるので、このアニメの最終回はクリスマスイヴにやってほしかったですね。エッチは愛があってやるものというヤハウェー主義と、その日を定めた消費主義が結びついたこの日を撃滅して欲しかったです。キモオタにとっては、最悪な日ですから。商店街のイルミネーションで飾られた巨大なクリスマスツリーの下で、カップルが手を取り合って歩いているという、まさにキモオタにとっては耐え難いシムラークラなのです。
しかし、それは日本だけのものではありません。アメリカもそうです。マライア・キャリーが1994年に出したシングルで、「All I want for Christmas is you」というのがありました。1994というと、神尾観鈴ちゃんが解脱した年としても記憶に新しいところですが、その曲が日本にも入ってきます。そして、1994年のオリコンチャートで第二位となりました。いかに日本がアメリカのグローバリズムに冒されてしまったかということを示しています。だって、邦題が「恋人たちのクリスマス」ですよ!ヤハウェー主義そのままじゃないですか!そういえば、マライアというと、安室奈美恵の憧れでもあり、つまり90年代の恋愛資本主義型消費社会の主役であったアムラーの原点はマライアにあるといっていいほどの影響力を与えたアーティストで、それが、ネオリベラルの言説を世界にぶちまける歌を発表したのです。
まあ、正直、私は、当時、この曲が好きでした。いや、でもアムラー系のファッションをしていたコギャルたちにはマライアも好きという子が多くて、高校での私の好きな子もマライアを絶賛していましたから、私もそういう仕組みで、消費社会に洗脳されてしまったんですよ。そして、この曲に影響されたのか、クリスマスが近づくにつれて、告白の件数も増えてくるという奇怪現象が起きてましたね。また、クラスの男子もマライアを好きなヤツが多くて、マライアの写真を材料にオナニーしたという野郎もいたぐらいですからね。まあ、でもあのときのマライアはほんとかわいかったですよ。まさに天使でした。ディヴァ(天の歌姫)でしたよ、ほんと。20代前半でしたし、もうなにもしなくとも素性でかわいいという、
「あんなかわいい人がアメリカにはいるのかぁ!」
と心から憧れましたからね。キモオタとして、厚化粧のアムラーを中心とする女子たちに気持ち悪がられて迫害されていたので、この年にアメリカに行こうっと決めたわけです。でも、アムラーファッションの源流がマライアとジャネットだったなんて、ずっと気付かなかったですから。アムロを輩出した小室ファミリーと、イケメン親衛隊のジャニーズは、撃滅しなければ行けない敵だと思っていましたから。まあ、そんなのが蔓延っている日本にいる必要もないですから、渡米したんですけどね。でも、マライアも本家のネオリベラル社会が輩出したアーティストでしたからね。
そういえば、カーペンターズもはじめは嫌いでしたよ、というかまともに聴いたことがなかったですね。私は、ビートルズとかエルヴィスとかを本場のロックと思っていたので、
「カーペンターズはロックがシュガーコーティングされたものだ」
と、強く非難してました。ロックはワイルドさが命だと思っていましたから。まあ、カーペンターズは、元はUCLAのジャズバンドだったので、たしかに源流はロックではなかったんですけどね。しかし、中学の時の好きな子が、カーペンターズが好きだったので、それでいつの間にか私もカーペンターズに熱中するようになっちゃって、かなりギターで練習しましたからね、それで、いまでも「トップ・オブ・ザ・ワールド」を弾けるんですよ。中学のロック仲間には、私がカーペンターズを好きになったことを隠してましたけどね。
「おまえ、裏切ったなぁ!」
と糾弾されるのは嫌だったんで。彼らは、女の子が好きそうな音楽には、拒絶反応を起こしていましたから。私もアムラーが好きな音楽は徹底して嫌っていましたが、でも、カーペンターズは別ですよ。だって、カーペンターズって、実際にいいじゃないですか?いい曲ばっかですよ。ああ、心から嫌っていたものが大好きになってしまうなんて、恋心というのは本当に恐ろしい。でも、たとえ好きな女の子が好きなものを好きになっても、その子と恋ができなければ、私の心はずだずだに砕け散ってしまい、自殺しそうになってしまいます。
「生きていても仕方ない」
という絶望感に押しつぶされます。報われない恋は、人を破滅に追い込むのです。恋ほど怖いものはない。よって、私の求めているもの、それは恋ではなく、女性との皮膚感覚だ。つまり、セクシュアリティーの解放だ!
でも、マライアの歌詞は、ほんと言葉ちゃんの心境を表してますよ。だって、恋人が来なければ、壊れてしまうんですから。そして、あのスクールデイズは、まさしく恋による悲劇でしした。清教徒倫理が支配する消費社会システムに当てはまらない恋は、人々を破滅へと導いてしまうのです。それが、消費社会のメッセージなのです。つまり、ヤハウェーの脅し文句なのです。そんな消費社会の言説をぶちまけるなんて、その言説に対抗し撃滅し得る詩的アナグラムを見いだすことこそが、私の天命なのです!
だから、私は、クリスマスには、恋愛資本主義とは無縁なアニメの曲を聴きます。まずは最終回の序盤に流された「二人のクリスマス」、そう、正気を取り戻した言葉ちゃんと誠がクリスマスの夜の街を二人で歩いている時にかかっていた曲です。ああ、言葉ちゃんのマフラー姿、ほんとにかわいかったなぁ。あんな子がこの世にいたなら、私は産まれてきたことを後悔しなかっただろうに…。そして大衝撃シーンでの「悲しみの向こうへ」、そしてEDの「Still I Love You」。そう、クリスマスとは、ずばりナザレのイエスの誕生日、イエスは、社会的弱者を救済に来たのですから。イエスは、
「不幸な人は幸いである、天国はその人たちのためにある」
と言ってますので、もしイエスが現代に再臨したならば、
「キモオタは幸いである、二次元はその人たちのためにある」
と言ってくれることを確信してます。もちろん、二次元とは、アニメのことです。
サンクスギヴィングか。北米先住民が、七面鳥を白人にくれてやったそうだが、それは、まったく馬鹿げています。なにしろ、白人は、そのあと、先住民を虐殺して、征服したのですから。そう、恩を仇で返すようなものでした。そして、アメリカのシンボルは鷲であり、鷲は、七面鳥を殺し、食べるのです。七面鳥は、つまり、先住民のシンボルであり、そのトーテム的なシンボルを抹殺したのです。しかし、今回は、ブッシュ大統領は、その歴史認識のためか、七面鳥に恩赦を与えました。これが、恩赦された七面鳥の写真です。


ああ、キミキスというアニメは、私を「萌え」という薬物中毒にさせてます。カール・マルクス的に言えば、「阿片中毒」ですね。それで、せっかく元同僚が開いてくれたパーティーに数時間も遅れてしまいました。でも、やはり楽器はいいですね、酒と楽器で、まるでキャンプファイヤーのように人が集まって歌を唄っていました。ディオニソスの讃歌とでも言いましょうか。ドイツ語の創造者であるマルチン・ルターでさえ、
「Weib, wein, gesang(女、ワイン、歌)を楽しまないものは馬鹿を見る」
と言っていますから。萌え系アニメ以外の世界で嬉しい気持ちになったのは、久しぶりでした。それから、私は家に帰り、その次の日、日本語の本を読みました。日本女性のキャリアと恋に関する書物です。読書が大嫌いな、ましてや漫画さえも読書と考えてしまうような活字アレルギーの私がどうしてそこまでして本を読もうとしたのか。私は、『君が望む永遠』というアニメを見た時に、日本の大人の社会、いわゆる資本主義社会のミクロ単位での社会事情という経験がないため、ちょっと理解するのに苦しみました。まあ、面白いことは面白かったんですが、そのアニメをより深く理解するために、日本の若いキャリア志向の女性がどんなことを思っているのかを、学びたかったのです。そうすれば、主人公の女性の気持ちを理解できると思いました。だから、本を買って読書してたんですが、その本のなかでのこの一言は、まったく私のルサンチマンを爆発させてしまいました…。
まともなオトナの男性なら、過去に恋愛経験のいくつかは、あって当たり前です。(178ページ)
「Weib, wein, gesang(女、ワイン、歌)を楽しまないものは馬鹿を見る」
と言っていますから。萌え系アニメ以外の世界で嬉しい気持ちになったのは、久しぶりでした。それから、私は家に帰り、その次の日、日本語の本を読みました。日本女性のキャリアと恋に関する書物です。読書が大嫌いな、ましてや漫画さえも読書と考えてしまうような活字アレルギーの私がどうしてそこまでして本を読もうとしたのか。私は、『君が望む永遠』というアニメを見た時に、日本の大人の社会、いわゆる資本主義社会のミクロ単位での社会事情という経験がないため、ちょっと理解するのに苦しみました。まあ、面白いことは面白かったんですが、そのアニメをより深く理解するために、日本の若いキャリア志向の女性がどんなことを思っているのかを、学びたかったのです。そうすれば、主人公の女性の気持ちを理解できると思いました。だから、本を買って読書してたんですが、その本のなかでのこの一言は、まったく私のルサンチマンを爆発させてしまいました…。
まともなオトナの男性なら、過去に恋愛経験のいくつかは、あって当たり前です。(178ページ)
これほどまでに、私を激怒させたものはなかった。もう、あまりもの憤激のために、気が狂いそう。では、「まとも」でない大人の男だと、恋愛経験がないとうことなのだろうか!まったく、恋愛経験がない男はまともではない、つまり男として最低最悪という意味なのだろうか!つまり恋愛経験のない男は相手にするなということか?この差別的発言がオタクたちを苦しめているのだ!こういう差別意識がキモオタたちをコーナーに追い込むのだ。恋愛ができて、はじめて「まともな男」になるとでもいうのか!許せない。この発言は断じて許せない。まるで、ヒットラーの『我が闘争』にも通じるステレオタイプと偏見と差別に満ちた血塗られた世界観に基づいて書かれた書物である。このようなハエが集って蛆を沸かせるようなダイオキシンに満ちたヘドロとゲロとヤニが合わさった馬糞のような忌々しい不快感を起こさせる言説をぶちまけるとは!この発言は、石原の「三国人」発言よりもはるかに卑しいものである。それは、私には、「恋愛ナチ」としか思えないのだ。恋愛至上主義者は恋愛ナチであり、恋愛資本主義の手先である。この発言は、すべてのキモオタに中指を立てるようなものである。もちろん、言論の自由は認めるが、しかし、私は徹底的にこの発言を大批判する!
それはキモオタたちをキャッチ22に追い込む。恋愛経験がないから、女に相手にされない。また女に相手にされないから永遠に恋愛経験ができない、性体験がないから女に相手にされない、また女に相手にされないから永遠に性体験ができない、そういう悪循環に陥ってしまうのだ!それこそが、キリスト教の「Eternal Damnation(永遠の地獄の苦しみ)」というものだ。
ヒットラーはドイツ人にユダヤ人と結婚してはいけないと説いてきた。さらに、ユダヤ人男とセックスするドイツ人女を、
「売女に成り下がってしまった!」
と糾弾した。彼にとっては、ユダヤ人は「まとも」な人種ではなく、劣等人種であり、ヨーロッパから排除されなければならない存在であった。だから、彼らは断種の対象となってしまったのだ。そう、性機能を除去されてしまったのである。そして、ニュルンベルグ法は、そのもっとも最悪な形で現れ、仕舞には「最終解決」として、絶滅収容所でユダヤ系は虐殺されたのだ。それと同じで、「まとも」でない男は、恋愛はおろかセックスはできないし、性機能がありながら、すでに断種されてしまっているのだ。いわゆる、「象徴」的断種である。
キモオタたちは、そういう言説があるため、どれだけ焦って女の子を積極的に口説いてきたのだろうか。そのたびに、
「キモイ」
と言われて、ストーカー扱いを受けてきた。彼らは、ただ純粋に恋愛をしたかったというだけなのに!彼らを「まとも」にしなかったのは、女の子の拒絶だ。そのイニシエーションさえ通過できないのだ。つまり「まとも」な男になるためには、恋愛をしなければならないのだ。その圧力にキモオタは屈しなければならない。「まとも」な男という評価など、男からだったら、どうだっていい。しかし、女の子からの評価は、死活問題だ。だから彼らは逃避するしかないのである。よって、秋葉は、断種された男たちの捨て場だと揶揄されるのだ。
「まとも」な男はセックスしていなければならないのだ。だから、彼らは、女の子に認められるために、必死になって性体験を果たそうとする、しかしだ、東京では、風俗かなんかで、いわゆる違法売春でセックスを経験したとしても、恋愛でのセックスがなければ、「童貞」と言われて見下されてしまうのである。彼らは、「素人童貞」として、社会から迫害されるのだ。そう、そのセックスは「まとも」ではないとして、正統ではないとして、チェリーなのである。娼婦とのセックスではチェリーをポップ(卒業)することができないのだ。また、娼婦とではなくとも、恋愛外のセックスでも、女の子は認めてくれない。恋愛の成り行きでの性体験こそ、男を「まとも」と認めさせるのである。どんなに仕事ができようが、チェリーだと、「異性」としては、「まとも」でないのである。だから、彼らは、チェリーであることを隠し通さなければならない。まるで隠れキリシタンのように。隠れチェリーとして。恋愛ナチのゲシュタポに捕まらないように、隠れ家で、ひっそりと暮らさなければならない。隠れ家にひきこもって、ネットで萌え系アニメを観ながら。
もし、チェリーであることがバレたら、彼は間違いなく自殺に追い込まれるであろう。それか、自殺までは行かなくとも、立ち直れないほど、ひどく傷ついてしまうだろう。それこそが、恋愛至上主義の陰謀であり、恋愛は結婚に準するセクシュアリティーの制度なのである。つまり、恋愛でのセックスのみが正統なのであり、「まとも」なのであり、それで男性を「まとも」にさせるのである。その他の男性は、異常なのである。もしくは、性的に不能と思われるのである。いわゆる、断種の対象となるのであり、優生学的社会なのである。だから、ニーチェもゴッホも、「素人童貞」であった。つまり、彼らはセックスの経験は娼婦とはあるものの、チェリーのままだったのだ。そして、二人とも発狂して、死んでしまった。発狂の原因は梅毒の可能性が高いと言われている。
なんと哀れな男たち、消極的断種が彼らを襲う。積極的断種は、出家しているものたちであるが、それは別問題だ。彼らはそのカテゴリーに数えられない。事実、シッダールタは出家して、自分の王家を断種に追い込んだが、彼はもちろん、出家前は、妻子がいたし、またインドの雨期は三ヶ月も続くので、夏休みのハーレムで美女たちとやりまくる生活を謳歌していた。「まとも」というより、もう現代でいえば、プリンス・ロレンツォ・ボルゲーゼ、もしくはウィリアム王子のような存在だったのだから。「超まとも」というか、動物の世界ではオスがメスを取り合うのだが、それがまったく逆になっているのだ。アメリカでは、独身女性たちの王子争奪戦のテレビ番組が成り立ってしまうのだから。自然にハーレムが形成されてしまうのだ。事実、シッダールタは出家しても、女性たちのアプローチを受けた。しかも修行中にである。よって、彼は「婦女は聖者を誘惑する」と言い残した。だから、その誘惑に打ち勝てという。しかし、私にアプローチした女の子はいただろうか!私には、婦女の誘惑すらないのである!それは、社会的ステータスを持ったイケメンだけの特権だ!キモメンの私にはなかった!皆無だった。だからこそ、私は仏教を受け入れることが出来ないのだ。なぜなら、仏教の開祖は、「いつでもできるのに、あえてしなかった」ということで尊敬されるからである。「したいのにできなかった」と「できるのにしなかった」というのでは、どちらのほうが苦であるか、一目瞭然だ!
それにしても、どうしてそんな言説が蔓延るようになったのか?それは、ずばり、清教徒倫理を司るキリスト教のせいである。キリスト教がセックスは愛がなければならないと定めたからである。だから、性欲だけのセックスは統制を受けることとなってしまったのだ。故に、結婚でのセックス、または恋愛でのセックスだけが「まとも」なのであり、それ以外のセックスは、制裁を受けることとなってしまったからだ。愛のないセックスはヤハウェーへの反逆なのである。
セックスはずばり「自由」である。しかし、その自由には絶対的条件が課されるのだ。それが、愛である。結婚、または恋愛だ。それは、ぶっちゃけて言えば、国家に対する愛なのだ。事実、愛国心がなければ、「自由」は与えられないのである。愛なくして自由なし、つまり恋愛なくしてセックスなしなのである。愛国心によって、国家のために命を捧げる義務感が生じる。だから、二重国籍は、不倫、または浮気となるのである。よって、1967年まで、アメリカでは、他の国の選挙に投票したり、軍役に就くと、市民権を剥奪された。事実、アメリカに帰化する移民は、
「I absolutely and entirely renounce and abjure all allegiance and fidelity to any foreign prince, potentate, state, or sovereignty, of whom or which I have heretofore been a subject or citizen(抜粋)
私は、絶対に、全体的に、私がこれまで臣民または市民であったすべての外国の君主、権力者、国家、もしくは主権に対する忠義と忠誠を否定し放棄する。」
と宣誓しなければならない。愛する国家は常に一つでなければならないのだ。だから、移民にとって帰化とは、離婚と結婚を同時に行うようなものだ。多重婚は許されないのだ。
聖書でも、「人は同時に二人の主人に使えることはできない」とあるが、主人、または国家は一つでなければならないのだ。それは、一人の配偶者、恋人であり、また神である。一神教なのである。アメリカの結婚制度は、一神教に基づくものなのだ。つまり、国家は実にヤハウェー的なのである。それは、「pledge of allegiance」の「One nation under God」に集約されている。それを、アメリカの小学生は毎日の朝礼で、宣誓させられるのだ。まさにファシズムである。それに、第二次大戦以前までは、それは、星条旗に向かって「ナチ式敬礼」によるものであった。
そう、セックスは国家主義によって統制されているのだ。それは、ロマン主義と関係がある。というか、ロマン主義が、起源となっているのだ。ロマン主義は、戦争と革命と恋愛であったが、彼ら男たちが誰のために闘うかと言えば、恋人か妻であった。それは、過去の騎士道精神に通じる。騎士は、貴婦人のために命を捧げるのだ。その恋愛形態が、国民主義、国家主義、そしてナショナリズムへと発展したのである。そう、愛するもののために闘うこと、それがイコール愛国心であった。教育基本法の改正は、そのイデオロギーを再び復活させるためのものだったのだ。それは、たった一人の女性のためである。つまり、たった一つの国家のためである。クロワチアの女性が戦争にいく男にスカーフをまいたのがネクタイの始まりとなった。だから、スペイン語では、ネクタイは「corbata」となり、フランス語では、「cravate」となった。つまり、ネクタイは国家主義のシンボルなのである。戦争にいく男たちの愛国心の象徴なのである。だから、私はクールビズを信奉するのだ。あれは、国家主義を否定するものなのだから。事実、小泉は独身であり、ネクタイをしてくれる人は、存在しなかった。よって、彼は腐敗した年功序列の日本社会をなんの未練もなく非情となって破壊することができた。彼には愛する女がいなかったので、なにかを守る義務もなく、破壊に専念することができたのだ。だから、彼はシステムの破壊者となり得たのだ。私にもネクタイをする根拠がなく、その根拠となり得るものがだれもいない、だからこそ、私はネクタイをひどく毛嫌いするのである!ネクタイは国家への束縛への象徴、ネオリベラル資本主義社会の企業アメリカ、いわゆるコーポレート・アメリカへの束縛なのだ。だからこそ、ネクタイを解くことこそが、自由の証である。
ネクタイをすることによって、いや、つまり、女を作ることによって、はじめて守る人ができる、つまり、はじめて戦士として認められるのである。そうやって、国民の愛国心が刺激されてきたのだ。だから、恋愛経験のない男は、戦士として認められない、闘うことが出来ない、命を捧げる覚悟をしたことがない、戦士として不適格、という身体調査の判断を下されてしまうのである。つまり、「非国民」なのである。そう、資本主義社会では、それは企業戦士となり、そこで男は戦士として適格かという判断を受けるのだ。それで、結婚している人のほうが有利となるのである。
ネクタイは戦士の証、ナショナリズムの証、いや、ナショナリズムそのものだ。愛する人を守るため、そのスカーフの持ち主を守るために、男は命を捧げるのだ。犠牲精神こそが至高の愛なのだ。それは、キリストの殉教の死と同類である。よって、移民は「fast track citizenship」 を選択するときには、至高の愛を証明する必要がある。それは、国家に対する愛、つまりアメリカ軍に従軍して、市民権を得ることができるのだ。スサノオの神話もそうだ。クシナダヒメは国家である。というか、彼女の父親が国家だったのだが、クシナダヒメを八岐大蛇から守ったこと、それによって、スサノオは市民権を得たのだ。クシナダヒメを娶ることを許された、つまり、市民権を得て、永住権と政治参加する権利を認められたのである。つまり国家を守る義務と自由はセットなのである。恋人ができたのなら、恋人を守る義務が生じるように、愛国心から国家を守る義務が生じる。移民はその方法によって、自由を獲得するのである。そうやって、移民は国家の歯車となるのである。
だから、私はナショナリズムを否定する。ロマンスを否定するのだ。ロマンスは、ずばり愛国心のことであるので、ロマンスを拒否するのだ。国家主義は、セックスを統制するからだ。セックス、いわゆる自由を国家主義から解放するためには、ヤハウェーの言説を砕くことである。恋愛をあえてしない人は、ナショナリズムを否定する人なのである。しかし、私は恋をしようとしたが、ネーションに拒絶された。とても愛していたのに…。大好きだったというのに。私から一切の愛郷心は消え失せてしまい、最終的に日本を捨てることとなった。そして渡米を決行したのである。
しかし、アメリカでは、私はアメリカを心から愛していたが、あるアメリカ人女性にグリーンカードを取ることを断られて、私のナショナリズムは跡形もなく消滅してしまった。片思いは、なにも生み出さない。国家は愛すれば、自由を与えてくれる。つまりこちらが愛すれば、自由を保障してくれる。しかし、それははじめから生まれながら市民という特権を持った人たちだけである。生まれながらに許嫁がいるようなものだ。だが、女はこちらが片思いだと、ただ残酷に「死ね」と拒絶するだけなのである。つまり、自由の保障はないのだ。それは、立場が市民ではなく、移民であればよくわかる。移民はどんなにアメリカを愛しようと、いずれは追放される身だ。だから、愛する人、いわゆるアメリカ人を愛することによって、そしてその最高の証が結婚なので、結婚によって愛国心を証明しなければならないのだ。そう、グリーンカードは愛国心が鍵を握るのである。グリーンカード目当てだけの愛のない結婚をしたら、国家安全保障省はグリーンカードを与えないし、それは結婚詐欺となり、アメリカ国家を欺いたこととなってしまうのだ。国家は、愛という個人的なことまでも干渉し、「永住権」という自由を与えるか判断するのである。そう、それによって、この移民は「まとも」かどうかを判断するのだ。思想の自由はないのである。そう、アメリカ国家は移民にとっては、恋人そのものなのである。配偶者なのだ。女への愛、男への愛、それが国家への愛なのであり、神への愛なのだ。「愛国心なくして自由なし、結婚なくしてセックスなし、恋愛なくしてセックスなし」という方程式が、国家主義の、パトリオティズムの原理なのである。
そう、たった一人の愛する女を通じてヤハウェーに男は従属するのである。それが西洋キリスト教恋愛の言説だった。だが、実存主義哲学の創始者であるキルケゴールは、「永遠に神に近づけない」とした。なぜなら、彼は、婚約を破棄したからである。よって、彼は、レギーネを失い、神に近づく糧を失ってしまったのである。そして愛のない自由では、永遠に国家に届かないのである。そして、それは、サルトルの「他者に近づけない」というのに発展した。事実、彼はボーヴォアールとは結婚しなかった。それで、国家主義の無意味さが、あからさまになったのだ。だから、ポストモダンは、セックスが緩くなるライフスタイルだったのである。自由は愛国心によってもたらされるものではないことを証明してくれたのだ!愛があるから自由があるのではなく、愛がなくても自由はあるのだ。
よって、日本にいるとき、私にまったく国家主義がなかったのもそのせいだ。私は高校のとき、女子に「キモオタ」として迫害された。キモメンでオタクという彼女らにとっては最悪のコンビネーションだったのだろう。だから私は登校拒否となった。国家のシステムを拒否したのである。国家が現実だったのである。そして、国家は女性を通じてあるのである。だから、国家は女性形であることが多いのだ。それは、戦士は男だからである。それを根底から崩すには、女性兵士がもっと登場することである。『機動戦艦ナデシコ』のように。しかし、私はキモオタとして、女子に拒絶された。だから、私は国家に否定されたのだ。私を戦士にしなかった。徴兵検査を不合格になったのだ。そして闘えない男は、男らしくなかった。よって、国家は私を「まとも」にしてくれなかったのだ。だから、私は遂に耐えきれなくなって日本という国家を捨てたのだ。国民主義は実に無意味だったのだのである。
キモオタが断種にならない方法、それは、なにが残っているか。それは、唯一、精子バンクだけであろう。子孫を残してくれる女性がいなければ、また自分の遺伝子と共に子孫を残したいと思う女性がいなければ、消極的断種となる。だから、精子ドナーとして、遺伝子を残すしかないのだ。しかし、その方法では、永遠に他者に辿り着くことが出来ない。しかし、精子バンクも、資本主義経済システムに取り込まれてしまっているのだ。精子は30ドルにしかならないが、卵子だと、三千ドルである。つまり、女性は男性の百倍の価値があるのだ。男が女と同じ価値の報酬を得るには、百回しないといけないが、百回に達する前に、過労死してしまうではないか!そして、履歴書も大きく値段を左右する。人種的にはイケメンのアングロサクソン系、そして、IQが140以上、ハーバード卒業、年収に二十万ドル以上という履歴のある精子や卵子が逼迫を起こすのである。とくに、ハーバードの女子学生のドナーは一万ドル以上も報酬が沸騰すると言う。そこで、もう市場が形成されてしまっているのだ。そのようなバンクが、もっとも優生主義を反映するものとなり、人工授精による生殖が主流となった時、キモオタは滅びてしまうのである。だれも子どもがキモメンになってほしいとは望まないであろう。それこそ、恋愛ナチが夢見る社会となってしまうのだ。そして、妊娠出産するのは女性なので、シングルマザーが主流となれば、女性は男と巡り会えなくとも、金さえあれば、子孫を残すことができるのである。だから、キモオタにとって、精子バンクは遺伝子を約束するどころか、買い手もいないので、いずれ廃棄物として忘却されてしまうのである。つまり、断種の道は避けられないのだ。
『まぶらほ』でも、主人公の遺伝子が有名な魔術師の家系であることが発覚したため、彼は、いきなり女性たちの生殖の対象となってしまったのだ。男性の価値は精子のみになってしまうのだ。彼自身は、生産力がまったくない(このアニメでは、魔法の力が資本主義社会の生産力に取って代わっている)、つまり仕事ができないので、将来の収入が見込めない、イケメンでもないし、背も低くて、体力もない、また男らしさに欠けるのだ。ただ、家系である。生まれによって、女性にモテるようになったのだ。貴族の子孫とか知っただけで、やはり女の子はどうしてもその人の子孫を残したいと思うのだろうか、しかし、要するにそれは、彼が目的ではなく、彼の精子だけでもいい話だったのだ。そう、彼が死のうが、精子だけバンクに冷凍保存してあればいいだけの残酷な話だったのだ。それに、近未来の話なのだし、当然人工授精の技術は発展しているのであり、そこまでセックスにこだわることもないはずであろう。しかし、そこは、女性からすれば、やはり「ついでに」セックスしちゃおうということなのだろう。もちろん表面上は、キモオタの一発逆転の話ではあるが、それは生殖のセックスであって、快楽追求の自由形のセックスではないため、そこに「自由」はないのである。「種の保存」という法則はどうしても優生学的となり、キモオタはそこからはじかれてしまうのである。だから、このアニメは、陰鬱な将来を示唆するものであった。
また資本主義社会では、消費こそが優先される。そこでは消費にまさるものはない。それこそ消費社会なのである。消費者コンフィデンスがすべてを左右するネオリベラル経済なのである。つまり、恋愛と消費はセットなのだ。恋愛中の人と、恋愛していない人との差は、消費において圧倒的になるという。だから、社会は恋愛を奨励し、恋愛できない人を、断種の対象とするのである。恋愛できなければ、消費社会に貢献してないこととなり、消費できない男は、女性からも認められないのだ。事実、低賃金労働者の男の結婚率はもっとも低いし、金欠のためデートすらできない。そして、もっとも不幸で悲惨なことに、セックスができない。それが、資本主義社会である。セックスとデートと恋愛と結婚、これらはすべて資本主義国家の統制下にあるのだ。だから、私は資本主義から離れた学園で、16歳になって恋をしたいのだ。そうすれば、資本主義によって自由を弾圧されることはないのだから。
一番いいのは、セックスを恋愛から解放することである。そのためには、一神教から人々を解放することである。自由を国家主義から解放することである。深入りしない恋、それこそが理想である。萌えは、もちろん深入りはないし、純粋にプラトニックだが、やはり皮膚感覚の欠落という限界がある。それでは、自由を謳歌できない。できるなら、萌えよりも粋である。日本の明治以前の恋は、「粋」であった。現代のような、情熱が冷めても、安定期を期待するような結婚的な恋ではなかった。アメリカでいう「so-called relationship」ではなかったのだ。それは、深入りしない恋であったのだ。短期間の情熱が冷めれば、また男女は別れて新しいエロスに奔走した。ヤハウェーに反逆的な恋だったのである。というか、日本にはヤハウェーが存在しなかったため、真に自由な恋があったのだ。明治以前の日本は、国家主義に冒されていなかったのである。オープンなセクシュアリティーが人々を解放する。蕩尽のエロティシズムが人々を解放するのだ。それこそが、真の自由というものである!自由、万歳!
参考文献:
柏木理佳『がんばりすぎずに幸せになる方法』KKベストセラーズ、2007年
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「雄犬も歩けば棒に当たる」ということわざはよく耳にするが、「雌犬も歩けば棒に刺さる」という言葉は聞かないのはなぜだろうか。男はいつも女性を追っかけては、ボーイフレンドや夫の棒に当たってしまう。そう、夫のピーナスが彼女を独占しているのだ。いつも私の前に立ちはばかるピーナス。これは許しがたいことだ。それは、男だけが歩く社会であり、女は歩くことができない社会だからである。そう、清朝中国では纏足という女性の足の成長を強制的に止めて、歩けないようにさせていた風習さえあったのである。だれが最も結婚に適した女性であるかは、纏足によって決まったのである。そう、家の外に逃げることのできない女性。つまり歩けない、自立できない女性である。セクシュアリティーは夫に独占されていたのである。それで女の価値が決まったのだ。そう、結婚とは纏足制度なのである。しかも、当の夫は側室や妾や愛人など、夫のセクシュアリティーの自由はあったのにもかかわらずだ。
しかし、そのようなシステムでは,女性とエクササイズするために歩こうとも、男は棒に当たってしまうのである。一夫一妻制でも、そうだ。そして、女性は歩くことはないので、棒に刺さることはないのだ。だから、女性も歩き出さなければならない。結婚の言説を捨てて、歩き出さなければならないのだ。結婚、もしくは準結婚の恋愛がなければセックスしてはいけないという道徳心、それは長らく宗教が植えつけた洗脳の結果である。とくに、イエス、マホメッドの言説が世界の女性のセクシュアリティを縛ってしまった。イランのイスラム社会で浮気をすれば、石打の刑で殺される。アメリカでは石打とまではいかないが、そのようなふざけた言説をベースにそのような法と道徳を自由の国アメリカの民までもが、厳守しているとは、不条理だ。アメリカはいかに自由であるかということを、セクシュアリティーの謳歌によって、不自由な社会の後進国から差別化しなければならない。結婚というものは男が作ったのだ。ヤハウェーという男が作ったのである。それが世界の結婚の主流である。しかし、同性愛結婚はヤハウェーの結婚ではない。だから、清教徒社会であるアメリカの議会は、同性愛結婚を弾圧しようとするのである。
デニス・クシニッチの演説を大学のホールに見に行ったときは、それこそ私は熱狂した。彼が独身だったということもあり、同じ独身として、セクシュアリティーを謳歌できる自由な身分として、彼を心から応援していた。また、彼は同性愛結婚に賛成であった。しかし、彼はあろうことに『指輪物語』のエルフのような美しいイギリス人女性を独占してしまったのだ。スピリチュアリティーに秀でたクシニッチが結婚してしまうとは。スピリチュアルは人をセクシュアル、またはエロチックにするというが、私もとてもエロチックなので、スピリチュアルなのである。しかし、ヨーロッパはスピリチュアリティーをキリスト教に改宗してから失ってしまった。「快楽は敵」という言説がまかり通り、セックスは弾圧されたのである。よって多くの古代ヨーロッパ文化は19世紀後半になるまで、復活しなかったのである。
ジョーゼフ・スミスは清教徒の言説の中で、多重婚を認めた大胆な預言者であった。しかし、そのために彼は、イエスの敷いた一夫一妻制に洗脳された怒り狂った群衆に殺されてしまったのだ。しかし、スミスの多重婚は不平等であり、男だけが多数の妻を娶るというものであった。だが、彼が生きていれば、女性も多数の夫を得ることができるようになっていたであろう。それこそ男女平等である。そうなれば、私はモルモンとなっていたであろうに。そうすれば、エリザベスもデニスだけでなく私を夫にしてくれる可能性もあったはずである。私も彼女と同じくらいスピリチュアルなのだから。そう、デニスと私を彼女は共有するというすばらしい制度になっていたのである。そうなれば、男女、だれがだれの配偶者かわからなくなり、結婚制度自体がメルトダウンするのである。連邦最高裁判所が2003年にローレンス対テキサス州で、全の州のホモセクシュアル・セックスを合法化する判決を下したのだが、スカリア判事は、それに異議を唱えた。彼の反対の理由は,
「このままだと同性愛結婚も認められ、多重婚まで認められてしまい、結婚そのものまでもが崩壊してしまう。だから、どこでそれを止めればいいのだ」
というものであったという。そう、だから私は同性愛結婚に大賛成なのだ。そうすれば、これまでキリスト教が定めてきた結婚という定義を根底から覆すことになるし、最終的には結婚制度自体が意味をなさないものになり、結婚は崩壊するのである。それこそ、キリスト教の神を除霊することになるのである。結婚メルトダウンへの最初のステップが同性愛結婚の合法化である。そして人々は政府と宗教によるセクシュアリティーの弾圧から解放され、自由を勝ち取ることができるのだ。そう、自由の女神が我々を導くのである。そしてスミスがスゴい所は、19世紀に、すでに結婚制度を破壊するようなことをやり始めた先駆者であったことである。いつの日かアメリカの結婚廃止が実現した日には、スミスはマリッジ・アボリショニズム・パイオニアとして、人々の記憶に刻み込まれるであろう。だから、私はスミスをアメリカン・ヒーローの一人として尊敬しているのだ。
ゲーテの若きウェルテルは結婚の言説によって自殺してしまった。そう、人妻に恋をしてしまい、しかし彼女は結婚に縛り付けられていたので、ウェルテルは死に追い込まれのである。結婚は幸せというのは、幻想だ。結婚は死なのである。青春の死である。結婚は死をもたらすのだ。スピリチュアル・デスが結婚なのである。私も人妻に恋をして死にそうになった。友人すら私を助けることはできなかった。その苦悩は極限までに達し、死のうと思った。だが、私に再び生きることを勇気づけたのも人妻であった。また、私がいいなと思う女性も人妻である。また彼女の一つのバナナが私を救ってくれた。まあ、その話は後でで詳しく述べるとして。というか、私の周りはいつの間にか人妻だらけとなった。そんななかで、どうやって恋をすればいいのだろうか。死にたくない。私を死から守る方法は,結婚制度の崩壊しかないのである。永遠に若く生きたい私に、結婚は脅威なのである。ニーチェもワグナーの妻コジーマに恋をしていた。私もロッテというミュージシャンの妻に恋をしてしまった。そして、私は発狂どころか、自殺しそうになった。すべては結婚が悪い。このような邪悪なシステムを作ったのはイエスだ。とくに一夫一妻制という独占的で排他的な関係を作ってしまったのが、彼の最も重い罪である。そのために、どんだけの青年の命が奪われたことか。キリスト教で異端邪説とされたグノーシス主義は、この世を作った神はデミウルゴスといい、邪神だという。ならば、この世のマトリックスである結婚が邪悪なのは当然理解できるのだ。そう、邪悪としか思えない制度に他ならないのである。こうなれば道はただ一つ、結婚廃止である。小泉は郵政改革が全てを改革すると信じていた。私は、結婚廃止こそが、セクシュアリティーを解放し、人々がよりスピリチュアルになり、この物質主義消費社会から民衆を解放すると信じている。だから結婚を破壊することによって、女性は再び自分の足で歩くことができるのだ。
女性の一歩は見た目は小さなステップだが、人類にとっては偉大なるステップになるのである。それこそ女性解放というものである。
真のウーマン・リブだ!
しかし、そのようなシステムでは,女性とエクササイズするために歩こうとも、男は棒に当たってしまうのである。一夫一妻制でも、そうだ。そして、女性は歩くことはないので、棒に刺さることはないのだ。だから、女性も歩き出さなければならない。結婚の言説を捨てて、歩き出さなければならないのだ。結婚、もしくは準結婚の恋愛がなければセックスしてはいけないという道徳心、それは長らく宗教が植えつけた洗脳の結果である。とくに、イエス、マホメッドの言説が世界の女性のセクシュアリティを縛ってしまった。イランのイスラム社会で浮気をすれば、石打の刑で殺される。アメリカでは石打とまではいかないが、そのようなふざけた言説をベースにそのような法と道徳を自由の国アメリカの民までもが、厳守しているとは、不条理だ。アメリカはいかに自由であるかということを、セクシュアリティーの謳歌によって、不自由な社会の後進国から差別化しなければならない。結婚というものは男が作ったのだ。ヤハウェーという男が作ったのである。それが世界の結婚の主流である。しかし、同性愛結婚はヤハウェーの結婚ではない。だから、清教徒社会であるアメリカの議会は、同性愛結婚を弾圧しようとするのである。
デニス・クシニッチの演説を大学のホールに見に行ったときは、それこそ私は熱狂した。彼が独身だったということもあり、同じ独身として、セクシュアリティーを謳歌できる自由な身分として、彼を心から応援していた。また、彼は同性愛結婚に賛成であった。しかし、彼はあろうことに『指輪物語』のエルフのような美しいイギリス人女性を独占してしまったのだ。スピリチュアリティーに秀でたクシニッチが結婚してしまうとは。スピリチュアルは人をセクシュアル、またはエロチックにするというが、私もとてもエロチックなので、スピリチュアルなのである。しかし、ヨーロッパはスピリチュアリティーをキリスト教に改宗してから失ってしまった。「快楽は敵」という言説がまかり通り、セックスは弾圧されたのである。よって多くの古代ヨーロッパ文化は19世紀後半になるまで、復活しなかったのである。
ジョーゼフ・スミスは清教徒の言説の中で、多重婚を認めた大胆な預言者であった。しかし、そのために彼は、イエスの敷いた一夫一妻制に洗脳された怒り狂った群衆に殺されてしまったのだ。しかし、スミスの多重婚は不平等であり、男だけが多数の妻を娶るというものであった。だが、彼が生きていれば、女性も多数の夫を得ることができるようになっていたであろう。それこそ男女平等である。そうなれば、私はモルモンとなっていたであろうに。そうすれば、エリザベスもデニスだけでなく私を夫にしてくれる可能性もあったはずである。私も彼女と同じくらいスピリチュアルなのだから。そう、デニスと私を彼女は共有するというすばらしい制度になっていたのである。そうなれば、男女、だれがだれの配偶者かわからなくなり、結婚制度自体がメルトダウンするのである。連邦最高裁判所が2003年にローレンス対テキサス州で、全の州のホモセクシュアル・セックスを合法化する判決を下したのだが、スカリア判事は、それに異議を唱えた。彼の反対の理由は,
「このままだと同性愛結婚も認められ、多重婚まで認められてしまい、結婚そのものまでもが崩壊してしまう。だから、どこでそれを止めればいいのだ」
というものであったという。そう、だから私は同性愛結婚に大賛成なのだ。そうすれば、これまでキリスト教が定めてきた結婚という定義を根底から覆すことになるし、最終的には結婚制度自体が意味をなさないものになり、結婚は崩壊するのである。それこそ、キリスト教の神を除霊することになるのである。結婚メルトダウンへの最初のステップが同性愛結婚の合法化である。そして人々は政府と宗教によるセクシュアリティーの弾圧から解放され、自由を勝ち取ることができるのだ。そう、自由の女神が我々を導くのである。そしてスミスがスゴい所は、19世紀に、すでに結婚制度を破壊するようなことをやり始めた先駆者であったことである。いつの日かアメリカの結婚廃止が実現した日には、スミスはマリッジ・アボリショニズム・パイオニアとして、人々の記憶に刻み込まれるであろう。だから、私はスミスをアメリカン・ヒーローの一人として尊敬しているのだ。
ゲーテの若きウェルテルは結婚の言説によって自殺してしまった。そう、人妻に恋をしてしまい、しかし彼女は結婚に縛り付けられていたので、ウェルテルは死に追い込まれのである。結婚は幸せというのは、幻想だ。結婚は死なのである。青春の死である。結婚は死をもたらすのだ。スピリチュアル・デスが結婚なのである。私も人妻に恋をして死にそうになった。友人すら私を助けることはできなかった。その苦悩は極限までに達し、死のうと思った。だが、私に再び生きることを勇気づけたのも人妻であった。また、私がいいなと思う女性も人妻である。また彼女の一つのバナナが私を救ってくれた。まあ、その話は後でで詳しく述べるとして。というか、私の周りはいつの間にか人妻だらけとなった。そんななかで、どうやって恋をすればいいのだろうか。死にたくない。私を死から守る方法は,結婚制度の崩壊しかないのである。永遠に若く生きたい私に、結婚は脅威なのである。ニーチェもワグナーの妻コジーマに恋をしていた。私もロッテというミュージシャンの妻に恋をしてしまった。そして、私は発狂どころか、自殺しそうになった。すべては結婚が悪い。このような邪悪なシステムを作ったのはイエスだ。とくに一夫一妻制という独占的で排他的な関係を作ってしまったのが、彼の最も重い罪である。そのために、どんだけの青年の命が奪われたことか。キリスト教で異端邪説とされたグノーシス主義は、この世を作った神はデミウルゴスといい、邪神だという。ならば、この世のマトリックスである結婚が邪悪なのは当然理解できるのだ。そう、邪悪としか思えない制度に他ならないのである。こうなれば道はただ一つ、結婚廃止である。小泉は郵政改革が全てを改革すると信じていた。私は、結婚廃止こそが、セクシュアリティーを解放し、人々がよりスピリチュアルになり、この物質主義消費社会から民衆を解放すると信じている。だから結婚を破壊することによって、女性は再び自分の足で歩くことができるのだ。
女性の一歩は見た目は小さなステップだが、人類にとっては偉大なるステップになるのである。それこそ女性解放というものである。
真のウーマン・リブだ!
ノルウェーの皇太子はシングルマザーと結婚したという。つまりマザーたる子持ち女性との交際だし、ついに結婚したのである。しかし、それは、とても新鮮なものであった。
たしか世界まる見えでも紹介されていたと思うが、メッテ=マリット皇太子妃は、青春時代、麻薬常習犯とセックスして、妊娠してしまい、人工中絶もせず、私生児を生んでしまったという(まあ先進国を見回しても、とくにフランスでは実に三人に一人の新生児が私生児なので、「私生児」という表現は死につつあるが・・また世界でもっとも有名な私生児はイエスである。)。そんな過去を持つ彼女に対して、国民は歓迎せず、皇太子が婚約を発表した時は、王室の支持率が90%から60%までに低下したそうだ。もっともリベラルな国の一つだと思っていたのだが。しかし、メッテ=マリットが記者会見で過去のことを謝罪すると、国民の王室の支持率は80%までに回復したという。オバマは大麻やドラッグを試したことを公言したが、その事実を正々堂々と認めるという態度が多くの若者の共感を呼んだのである。過去にドラッグをやっていたということで大統領になる資格がなくなるということはなくなったのだ。ノルウェーでもドラッグをやっていたことのある人物が王室に嫁ぐということもできるようになったということだ。そしてもちろん、もっとも大きなことは、シングルマザーという女性であったということだ。
で、彼女と皇太子の間に新しい子どもが二人生まれ、イングリッド王女とスヴェール王子であり、このまま現皇太子が国王に戴冠すれば、イングリッド王女が皇太子となるのは確実である。そしてイングリッド王女が将来的に国王となり、女性君主がノルウェーに誕生することとなるのだ。
だからシングルマザーと結婚した皇太子は、かなり進んでいる。そして国民もそれを受け入れた。さすがは世界一リベラルな国の一つとされるノルウェーだけはある。だが、これで子持ちの女性とセックスするのに抵抗を感じていた私も、ようやく胸を撫で下ろし、マザーファッカーになろうとも、後ろめたい気分にならずに済むのである。長年あったマザーにたいする苦手意識を克服することができるのだ。苦手意識というか罪の意識というか、タブーを犯しているような道徳心が、私を苦しめていたのだ。しかし、私がマザーファッカーになろうと、これからは社会に対して堂々とできるのである。なにせノルウェーの皇太子がマザーファッカーなのだから。実に私にとっては力強いエヴァンゲリオン(福音)であった。
だがイングリッド王女はイギリス王の継承権も持っている。なぜなら、イギリス王室とノルウェー王室は親戚だからである。単純に言えば、イギリス王室の人間がすべて死ねば、ノルウェーの王がイギリス王になる可能性もあるということだ。つまり同君連合になりうるのだ。そして世界 16カ国の君主に同時に君臨することにもなるのだ。しかし、イギリス王室では男子が優先されるので、イングリッド王女は弟よりも継承権が後ということになるのだ。エリザベス女王には男の兄弟がいなかったので、国王になれたが、もし一人でも男が生まれていれば、その男が皇太子になっており、エリザベスは姉であっても国王になっていなかったのだ。だから、イギリス王室というのは男性至上主義的なのである。よって、イギリス王室もトニー・ブレアは改革しなければ行けない。そんなセクシストな王室など、21世紀、しかも先進国であるイギリスにあっていいものなのか。日本の皇室ももちろん性別に関係なく第一子を最優先させるべきなのだが、イギリスも男性優位の順位というふざけた伝統をブッ潰さなければならないのだ。人間平等という観点から、そのような王室は、存在しては行けないのだ。まあ、王室や皇室自体、基本的人権に反しているという観点から、廃止したらいいという主張が、君主を追い出して独立したアメリカには多いと思うが。
しかし、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』のように、ウェッテルは人妻と恋してしまい、それが破局したら自殺してしまった。だから、私はウェルテル病に冒され、「人妻、マザーファッカーになったら死ぬ運命」として悩み苦しんでいた。いつの間にか、私の周りの同年代の女性たちは妻となり母親となってしまったのだから、恋の対象がそういう女性になってしまったということだ。しかし、社会的道徳では、そういう女性たちに恋をしては行けないというのが言説である。とくに清教徒倫理の蔓延っているアメリカでは。それに女性が母親だと知ると、あの奇形な体になった妊婦になったわけであるから、想像するだけで、寒気がする。ブリトニーの妊娠時のヌード写真の女性雑誌の表紙になったときは度肝を抜かれた。あれは、本当に醜いものだった。まさか、あそこまで醜くなるとは、予想外だった。私の憧れの人が、一瞬にして瓦礫の山となってしまった。だから、妊婦の集まりなどを見ると、死屍累々といってもいいだろうか。私が青春時代に憧れていたヒーローが、あんな変形した体になってしまうなんて、とてもショックだった。それにスピルバーグ監督の『ミュンヘン』で妊婦とセックスするシーンがあったが、よくセックスできたものだと、とても不思議であった。なぜなら、妊婦はまるでカフカの『変身』のようなものだからである。それか、80年代のハリウッド映画の『ザ・フライ』であろうか。まあ、80年代の歌手の森高千里はそんな苦悩するハエ男をウザイとしか見ていなかったようだが。しかし、女性は出産すれば、またもとの姿に戻るので、『変身』の虫のように、あのままで死んでしまうことはないのだが。でも、やはり女性は子どもを作るときには変身するので、それに対する恐怖というものはある。いや、「畏れ」といったほうが適当であろうか。だから、私は生理的にも道徳的にも欲情できなかった。しかし、このノルウェー皇太子のマザーとの交際によって、私は光を見た。つまり子持ちの母親たる女性と交際していいのである。私の子持ち女性に対しての生理的嫌悪と道徳的罪悪感はこれで取り除かれることであろう。私はとうとう解放されたのだ。皇太子のシングルマザーとの交際は、どんなに私に希望の光を与えてくれたことか。そして彼が国王に即位すれば、マザーファッカー王となることは間違いなし。King of Mother-fucker. マザーファッカー万歳!
たしか世界まる見えでも紹介されていたと思うが、メッテ=マリット皇太子妃は、青春時代、麻薬常習犯とセックスして、妊娠してしまい、人工中絶もせず、私生児を生んでしまったという(まあ先進国を見回しても、とくにフランスでは実に三人に一人の新生児が私生児なので、「私生児」という表現は死につつあるが・・また世界でもっとも有名な私生児はイエスである。)。そんな過去を持つ彼女に対して、国民は歓迎せず、皇太子が婚約を発表した時は、王室の支持率が90%から60%までに低下したそうだ。もっともリベラルな国の一つだと思っていたのだが。しかし、メッテ=マリットが記者会見で過去のことを謝罪すると、国民の王室の支持率は80%までに回復したという。オバマは大麻やドラッグを試したことを公言したが、その事実を正々堂々と認めるという態度が多くの若者の共感を呼んだのである。過去にドラッグをやっていたということで大統領になる資格がなくなるということはなくなったのだ。ノルウェーでもドラッグをやっていたことのある人物が王室に嫁ぐということもできるようになったということだ。そしてもちろん、もっとも大きなことは、シングルマザーという女性であったということだ。
で、彼女と皇太子の間に新しい子どもが二人生まれ、イングリッド王女とスヴェール王子であり、このまま現皇太子が国王に戴冠すれば、イングリッド王女が皇太子となるのは確実である。そしてイングリッド王女が将来的に国王となり、女性君主がノルウェーに誕生することとなるのだ。
だからシングルマザーと結婚した皇太子は、かなり進んでいる。そして国民もそれを受け入れた。さすがは世界一リベラルな国の一つとされるノルウェーだけはある。だが、これで子持ちの女性とセックスするのに抵抗を感じていた私も、ようやく胸を撫で下ろし、マザーファッカーになろうとも、後ろめたい気分にならずに済むのである。長年あったマザーにたいする苦手意識を克服することができるのだ。苦手意識というか罪の意識というか、タブーを犯しているような道徳心が、私を苦しめていたのだ。しかし、私がマザーファッカーになろうと、これからは社会に対して堂々とできるのである。なにせノルウェーの皇太子がマザーファッカーなのだから。実に私にとっては力強いエヴァンゲリオン(福音)であった。
だがイングリッド王女はイギリス王の継承権も持っている。なぜなら、イギリス王室とノルウェー王室は親戚だからである。単純に言えば、イギリス王室の人間がすべて死ねば、ノルウェーの王がイギリス王になる可能性もあるということだ。つまり同君連合になりうるのだ。そして世界 16カ国の君主に同時に君臨することにもなるのだ。しかし、イギリス王室では男子が優先されるので、イングリッド王女は弟よりも継承権が後ということになるのだ。エリザベス女王には男の兄弟がいなかったので、国王になれたが、もし一人でも男が生まれていれば、その男が皇太子になっており、エリザベスは姉であっても国王になっていなかったのだ。だから、イギリス王室というのは男性至上主義的なのである。よって、イギリス王室もトニー・ブレアは改革しなければ行けない。そんなセクシストな王室など、21世紀、しかも先進国であるイギリスにあっていいものなのか。日本の皇室ももちろん性別に関係なく第一子を最優先させるべきなのだが、イギリスも男性優位の順位というふざけた伝統をブッ潰さなければならないのだ。人間平等という観点から、そのような王室は、存在しては行けないのだ。まあ、王室や皇室自体、基本的人権に反しているという観点から、廃止したらいいという主張が、君主を追い出して独立したアメリカには多いと思うが。
しかし、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』のように、ウェッテルは人妻と恋してしまい、それが破局したら自殺してしまった。だから、私はウェルテル病に冒され、「人妻、マザーファッカーになったら死ぬ運命」として悩み苦しんでいた。いつの間にか、私の周りの同年代の女性たちは妻となり母親となってしまったのだから、恋の対象がそういう女性になってしまったということだ。しかし、社会的道徳では、そういう女性たちに恋をしては行けないというのが言説である。とくに清教徒倫理の蔓延っているアメリカでは。それに女性が母親だと知ると、あの奇形な体になった妊婦になったわけであるから、想像するだけで、寒気がする。ブリトニーの妊娠時のヌード写真の女性雑誌の表紙になったときは度肝を抜かれた。あれは、本当に醜いものだった。まさか、あそこまで醜くなるとは、予想外だった。私の憧れの人が、一瞬にして瓦礫の山となってしまった。だから、妊婦の集まりなどを見ると、死屍累々といってもいいだろうか。私が青春時代に憧れていたヒーローが、あんな変形した体になってしまうなんて、とてもショックだった。それにスピルバーグ監督の『ミュンヘン』で妊婦とセックスするシーンがあったが、よくセックスできたものだと、とても不思議であった。なぜなら、妊婦はまるでカフカの『変身』のようなものだからである。それか、80年代のハリウッド映画の『ザ・フライ』であろうか。まあ、80年代の歌手の森高千里はそんな苦悩するハエ男をウザイとしか見ていなかったようだが。しかし、女性は出産すれば、またもとの姿に戻るので、『変身』の虫のように、あのままで死んでしまうことはないのだが。でも、やはり女性は子どもを作るときには変身するので、それに対する恐怖というものはある。いや、「畏れ」といったほうが適当であろうか。だから、私は生理的にも道徳的にも欲情できなかった。しかし、このノルウェー皇太子のマザーとの交際によって、私は光を見た。つまり子持ちの母親たる女性と交際していいのである。私の子持ち女性に対しての生理的嫌悪と道徳的罪悪感はこれで取り除かれることであろう。私はとうとう解放されたのだ。皇太子のシングルマザーとの交際は、どんなに私に希望の光を与えてくれたことか。そして彼が国王に即位すれば、マザーファッカー王となることは間違いなし。King of Mother-fucker. マザーファッカー万歳!
今日は本当に辛い。くっそー、どうして風邪なんか引いてしまったんだろうか。熱もあるし、頭痛、目眩、吐き気、下痢、腹痛、関節痛、しかも脚が宙に浮いているようで、最悪である。しかし会社を休めない。アメリカは労働条件が最悪だ。正社員は風邪ごときで休んだら、それこそ白い目で見られるし、派遣社員や契約社員やパートやバイトというものは病欠しても、給料が出ないし、保険もないし、まったくふざけているとしかいいようがない。シュワちゃん知事が州民健康保険を今年始めに提唱したんだけど、それが実現するのはいつのことやら・・・。私も一日や二日さえ休暇を取れれば、回復しているはずなのだが、出勤しなければ行けないため、回復が長引いてしまう。というか、その間にどんどんどんどん人から人へと風邪がうつり、社内全体が風邪で蔓延し、その中の労働者はすべて風邪にかかってしまったぐらいだ。しかも、ごほごほしたものがエアコンによって空中にまき散らされ、社内は風邪の温床となる。まさにタミフルの実験台には最適な環境だ。
私は帰りの途中、ヒスパニックの店に寄り道して、オレンジジュース100%を買った。風邪にはオレンジジュースが一番いいと聞くからなぁ。でも、一番肝心のタミフルを探したんだけど、見つからなかったね。まあ、アメリカだから、ないのかもしれない。しかし、私のレジの前に並んでいた可愛い19歳くらいの女の子、その黒人の子は、とてもセクシーだったから、もう大変。超スタイルが良くて、くびれが半端じゃないし、しかもお尻が斜め45度に突き出ているんだから。私は、
「うわ、なんていいケツしてんだ!」
と思った瞬間、
「ぎぎぎげほげほげほげほげほ!!!」
と大量に咳き込んでしまった。興奮すると咳き込んでしまうとは、風邪って本当にうっとおしくてしょうがない。まるで孫悟空が興奮すると、三蔵法師の呪文によって頭の輪で締め付けらて制されるように。でも、病気でも興奮するということは、それだけまだ大丈夫ということだ。しかし、彼女の後ろにいた黒人の大男は彼女の父親だろうか、彼はOJシンプソンのように大かくて、たぶん190cmぐらいの巨漢で、ジョージ・フォアマンのような腕をしていたから、そして彼は私をぎらりと睨んできた。まるで、
「オレの娘に手を出したら、ぶっ殺すぞ!」
と言わんばかりのものだった。この時、初めてテレパシーの存在を信じるようになったね。今まで、テレパシーなんて詐欺だと思ってたんだけど。しかしこの男、まるで、暴力を振るうことしか能がないような巨大な野獣にしか見えなかった。だから、私は彼女に声をかけることはできなかった。悔しかった。私ほど可愛い子が好きな人間はこの世にいないだろうに。ふざけやがって。やはり男って邪魔だよなぁ。どいつもこいつも私の邪魔をしやがる。いっそうのこと絶滅すればいいのに。このことが原因で、帰りの車の中で、どうして「父親」というものが存在するのか。その存在意義を考慮していた。そして、ついに結論が出た。
娘に対して過保護になる父親は、ヤハウェーとなんら変わりがない。男権至上主義の神であるヤハウェー、娘は貞潔でなければいけないという、とんでもない言説をもって娘のセクシュアリティーを弾圧するのである。娘のセクシュアリティーを踏みにじる父親たち、その集合的無意識がヤハウェーなのである。だから、イスラムの文化圏のタリバンやイランでは、貞潔を失った娘は、家族の恥として、処刑されるのである。しかも、レイプの被害にあった娘でさえ、保護されなければいけないのに、レイプの被害者なのに、家族に恥をもたらしたとして、父親は自らの娘を処刑させるのだ。そんなふざけた宗教などあるだろうか。ユダヤ教だって、昔は、不倫、浮気した女は石打の刑で、ぶっ殺された。女を石打にする処刑は今でもイスラム社会で根強く残っている。その証拠はこちらのサイトに載っている。新約聖書では、イエスはその不条理な刑を止めに入ったのだが。しかし、イエスの父は紛れもなく極悪非道なヤハウェーである。そんなことを命令するヤハウェーという存在は、神ではなく、卑劣で極悪な悪魔でしかない。キリスト教だって、パウロというクソバカヤロウがレズビアンは罪だとして、糾弾し、パウロのことばに忠実な神父たちは、古代ギリシャのレズビアン文学の文献を捨て去り、おかげで今ではほんの断片しか残っていないのである。すべては父親言説のためだ。その父親たちの集合的無意識言説がヤハウェーを作り出したのだ。だから、我々、男女平等主義者、自由主義者はこのヤハウェーの言説をブッ潰さなければならないのだ。父親はいないほうがいい。結婚という制度が父親という存在を正当化させたが、育てるのは必ずしも父が必要ということはないであろう。
中国雲南省の納西(ナーシー)族は、女だけで家族をつくり、完全な女系女権社会なので、男は外でぶらぶらしているだけであり、「結婚」という概念もなく、また「父親」という概念さえない。親は女、つまり母親だけなのだ。そう、男はただの女のセックスの相手であるくらいか、子作りの種馬ぐらいなものであり、子育ても労働も全部女がやるから、社会ではなんの責任もなく、そこらへんの犬や猫のようにぶらぶらとのんびりと、ただ麻雀して、酒飲んで、女性に呼ばれた時だけ、夜這に行くような放浪な生活を満喫しているのである。そう、男は放し飼いのペットなのである。なんという素晴らしい社会だろうか。
「あたしたちは男たちを養っていかなきゃいけないんだから、今日も一生懸命働くか!」
と気合いを入れていた姿、それにはジーンとしてしまった。決定権は全て女にあるという、そして男は毎日遊んでいればいいという、男にとってこれほど羨ましいことはないだろう。そう、結婚制度を破壊することは男の解放にもつながることなのである。まあ、私は女になりたいので、この社会に入れば、決断決断ばかりとなり、女としての苦労は耐えないだろうし、大変だろうが、エロチシズムにおいて女性上位を望む男ならば、天国のような世界であろう。まあ、私は女楽園に行きたいのは確かだが、厳密に言えばそれは女学園であり、レズビアンの世界である。つまり、完全に女だけの世界だ。そこでは自分も女になるのだから。
男って、文明が発達したのに、どうして絶滅しなかったんだろう。野生時代はとっくに終わったのに。男は野生の名残があるけれども、女は本当に進んでいる。まさに現代人類である。男は野生の名残というより、野生そのものであり、野獣に知能が備わっただけの存在でしかない。しかし、女性は、人間に知能が備わっている存在なのだ。だから男は女に教育をなるべく施さないようにした。知性と理性が全て、たとえ獣であっても。だから、知性を持たない人間より、知性を持っている野獣のほうが優れていると男は思いたかったのである。ソクラテスというゲイの男権至上主義哲学者のせいで、すべては知性で測られてしまう世の中が続いてきたのだ。それは女性を差別するものだったし、女性隷属を正当化してきた。だが、これからは人間性を測らなければならなくなった、なぜなら女性解放によって、女も知性をつけてしまったからだ。そして、それを阻止するヤハウェーが19世紀末に死んでしまったからだろう。だから、男にとって女性が知性をつけるのをとても恐れていたのも理解できるのだ。だから、男女平等社会をなんとか実現しないようにヤハウェーを作って、阻止してきたのだ。なぜなら、女性が知性をつけたら、両方とも知性をつけてしまうので、もはや知性が判断基準にならず、人間性が判断基準となり、野獣である男は人間である女にかなうはずがないからだ。それが、どうして長年、ヤハウェー的社会が女性を教育しなかったかという最大の歴史的疑問の答えである。
それに、男というものは、すぐにムキになってカッとなる。そして暴力沙汰となる。男は知性よりプライドだ。そんなの台湾の議会を見れば、一目瞭然ではないか。男なんて野生の時代からちっとも進歩がない。だから、男は政治に参加しない方がいい。納西族の男のように、すべて女性に任せようではないか。労働も、ビジネスも、子育ても、家事も、教育も、政治も、お祭りも、そうすればセクシュアリティーは実に自由だ。どの男がどの女を所有しているか、どの女がどの男を所有しているか、つまり結婚制度で、所有者以外とセックスしたら不倫という馬鹿げた言説など、この社会にはないのである。セックスしたい人とやればいいだけの話だ。アメリカも日本も、結婚という制度があるから、あのようなふざけた娘を監視するゲシュタポのような父親を生産し、娘の自由を奪ってしまうのである。あの野郎は絶対に監視カメラを自分の娘の部屋に取り付けているはずだ。そして娘がオナニーするところを見て、興奮しているのだ。父親とはそういう存在なのだ、とくにヤハウェーは。そして恋という風邪を引いた娘を治そうとして、父親はタミフルを飲ませるのである。恋を治すのにタミフルは最適だと父親は思うのだ。そしてヤハウェー・ネオコンのカモにされるのだ。しかし、恋という高熱が出たら、無理にタミフルで治そうとするれば、どんなことになるか。だから、そんなものはないほうが娘のために良い。それに、タミフルを買ってくるチャイルド・モレスターは娘から隔離されなければならない。ああいうオヤジがいるから、タミフルが売れてしまうんだ。だから、自由を勝ち取るには、公民権運動もそうだが、人種差別撤廃もそうだが、結婚制度の廃止もそうなのである。結婚制度の廃止なくして、人間解放宣言は有り得ないのである。
よって、年頃の娘をヤハウェーの呪縛から解放するためにも、結婚を廃止せよ!
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やったー、とうとう共和党が議席を減らしたぞ。しかも連邦議会の両院でだ。これほど嬉しいことはない。ギングリッチ革命以来10年以上も共和党が連邦議会を支配してきたが、とうとうそれに終止符を打ったのだ。長かった。ネオリベラル資本主義を強引に押し進めてきた共和党は遂に勝利の女神から見放されたのだ。ネオコンのラムスフェルドも辞任したことだし。これでブッシュもレイムダックだ。シュワルツネッガーでさえ民主党の意向にそぐわなければならなかった。そうしなければ彼の再選はあり得なかった。今まで共和党が連邦議席の両院とも支配していたので、シュワルツネッガーは共和党一辺倒で民主党を、
「Girly Party(女々しい政党)」
と嘲笑っていた。しかしシュワルツネッガーも国政を読んだのだろう。共和党が国民の信頼を失うなかで、シュワルツネッガーも民主党と協調路線を取らざるを得なかったのである。
さて、シュワルツネッガーの「女々しい政党」発言、これは何を意味するのか。
「Girly Party(女々しい政党)」
と嘲笑っていた。しかしシュワルツネッガーも国政を読んだのだろう。共和党が国民の信頼を失うなかで、シュワルツネッガーも民主党と協調路線を取らざるを得なかったのである。
さて、シュワルツネッガーの「女々しい政党」発言、これは何を意味するのか。
端的に言ってしまえば共和党は保守政党である。そして民主党は革新政党である。それはアメリカもしくは北米での男のイメージの変わり往きと連動している。だから単純に言えば宗教によって築かれてきた男権主義的な今までのジェンダーの役割を守り、家族を再構築して行こうというのが共和党であり、一方アルターナティヴ・ライフスタイルも容認してもいいのではという立場が民主党である。少なくとも、政治家は別にして支持者にはそういう考え方によって共和党か民主党かと特徴づけられる。さらに押し進めるとライフスタイル多様派はグリーンパーティーや左翼グループなどに分かれる。そして不可知論者や無神論者が多くなる。とにかく彼らは共和党ではない。いわゆるライフスタイルまで政治的になっているのである。個人的な問題がアメリカでは政治的なのだ。そういう意味では小さな政府は滅んだ。
かつてアメリカではジョン・ウェインやチャールズ・ブロンソンといった「男の中の男」を象徴する俳優がアメリカ人の男像であった。クリント・イーストウッドもその代表だ。しかしウーマン・リブやメンズ・リブといった社会改革が70年代からスタートし、30年経った今、すっかり言説が変わってしまい、メインストリームにおいても男性がマスキュリンという固定観念が破壊されてしまった。今やマスキュリンは邪悪とされる時代となった。フェミニズムでは男女平等ではなく、女性至上主義を強く打ち出したいわゆる原理主義が横行するようになった。それはラジカル・フェミニズムと呼ばれている。
「アメリカの小学校では既に男性に生まれたことに罪の意識を感じている男の子が発生しているという。」
と、そう共和党の保守系議員が嘆いていたほどだ。日本の自民党でも「ジェンダー・フリー」に反対する保守系議員が多数存在し、安倍首相もその一人である。だから安倍政権では決して皇室典範が改正されないことは承知している。
シュワルツネッガーもいわゆる昔のタイプの俳優である。筋肉ムキムキで挑んでくる敵を容赦なくぶっ潰す怪力の持ち主、そして自分の自慢の筋肉を露出して女をその圧倒的な肉体の前に屈服させてしまうという男である。「オレは男だ!」と男っぷりを強調する俳優であるシュワルツネッガーやクリント・イーストウッドは共和党系なのである。しかし最近ではマッチョはポロノ映画ぐらいでしか見られなくなった。だからより不自然に見える。今の男は体の線を強調するような服を好んで着るようになった。ある意味、女性型の着こなしとなったのである。そして今では髪の毛以外の毛を嫌う傾向が強い。なんと脇毛を剃ることが男性雑誌で紹介されていたほどだ。「女はもともと男性が嫌い、男性は男性が嫌い、女は女が好き、男性は女が好き」という構造が北米大衆文化で出来上がった。本当の男の美学などは新撰組や盾の会のようなホモセクシャル団体だけに限るようになったと思われる。
アニメにもその影響が見える。ドカベンのような主人公はもはや女にモテない。少女漫画に出てくるような男がプロトタイプになったようだ。それにしても少女漫画に描かれる男性の髪の毛は皆綺麗だ。自然界では、特に鳥の世界ではオスが着飾ってメスを惹き付ける。だが人間界では逆である。しかし、今では男も着飾らなければならない。私だってあのような服装には憧れる。ヴィジュアル系やゴスロリのファッションは退廃的なイメージがあって、華奢だ。そう、華奢な男がモテるようになった。洗顔フォーム、また洗顔パックを男性が使うようになったのだから。この言説が私を束縛する。モールに行けば男性の化粧品まで売られている始末だ。抑圧は上からでなく、もはや四面楚歌、どこを見渡しても抑圧の時代になったのである。
そう、鳥の世界では孔雀を代表されるように、オスが着飾るのだ。しかし人間界では女だけである。西アフリカのファルーニ・ヴォダベ族の男性が化粧することで知られるが、それ以外はほとんど聞いたことがない。まあ、日本でも平安貴族の男子は化粧をしていた。化粧をしていることが金持ちのステータスだった。そして百姓は泥まみれで日焼けしていて、とても化粧などできなかった。しかし、今ではそれが大衆化したようである。まるで現代の若い男性は孔雀化したようである。なんで女性は化粧をするのだろうか、考えただけでも不思議である。なんで男性は化粧をしなかったのか、それも不思議だ。男性が化粧をするのも不思議だが、化粧をしないのも摩訶不思議である。化粧自体が不思議である。
「変成女子説」
そもそもなぜ人間は着飾るのか、その根本の哲学を追究しなければならない。人は美が好きだ。そして欲しい。そして美しくなりたい。そうすれば人に好かれる、愛される。また神の愛さえも受けることができる。人は醜くなりたくない、なぜなら嫌われるからだ。つまり人に好かれたい、愛に飢えているのである。私が美しくなりたいのはやはり社会から認められたいのと、女の称賛を浴びたいというのが正直なところだろう。美への願望はエロスであり、イデアを目指す力であり、キリスト教ではその意志は神への愛であるとされた。つまり我々の神を求める意識が耽美嗜好を生み出しているという。キリスト教は愛の宗教である。だが仏教では美と愛は六道輪廻の首枷でしかない。六道輪廻は不浄であり、釈迦は、この世の美を体現した絶世の美女でさえ「大小便に満ちている」と言って退けた。私は彼に、
「お前も大小便に満ちているだろう、バカヤロウ!」
と正してあげたかったが、彼は既に入滅してしまった。キリスト教は美意識を認めるが、仏教は美意識を否定する。なにしろ原始仏教の僧伽では生産することさえ禁じられていたのだから、芸術などはもってのほかであった。なにしろ頭まで剃り、糞掃衣しか身にまとえなかったのだから。釈迦の偶像崇拝禁止は神が嫉妬するからではなく、愛さえも滅しようとしたからである。
この人間界は不浄、だから厭離穢土、それが仏教の精神だ。つまりこの世は穢れているのである。清めることはできない。神道の禊祓いは無効なのだ。土俵に塩をまこうが土俵は神聖になることはない。土俵に女性が入ってきたら汚されるというが、すでに穢れているのだから全くのナンセンスなのだ。だから浄土思想がある、つまり六道から解脱した世界、それが浄土なのである。シッダールタは女は浄土に行けないとは言っていないが、女性を出家させることを拒んだことがその後の仏教界に大きな遺恨を残した。そして「大小便の器」と女性を表現したことに、シッダールタの不浄観が集約されることとなったのだ。だからシッダールタは極度の潔癖性であったとしか思えないのだ。まるでディカプリオ主演の『Aviator』のハワード・ヒューズである。病理的な潔癖性の宗教が仏教である。きれいになりたいがために「南無阿弥陀仏」と唱えるのである。そう、女性さえも「大小便」なのだから、女性から見たら男など「ヘドロとゲロ」であろう。女性はいわゆる便器である。だとすると男性は飛行機の座席に常備されているゲロ袋である。「ゲロ袋と便器」それが男女の関係である。なにしろ食べ物が口から出ればゲロ、肛門から出ればクソなのだから。そして肛門は口へと結びつき、それらは天空につながるのである。
ユダヤ教も極度の潔癖を示していた。とくにレビ記は潔癖性の18番と言っていい。女性が月経している時は大地が汚れるので隔離しなければ行けないとか、射精したら必ず体を清めなければならないとか、それらは差別の根本になる。日本の穢多非人も不浄観から発生したものだ。それによって身体障害者は神殿に入れなかったという。そして原始仏教の僧伽も性機能障害者は拒否された。しかしキリスト教はそんな潔癖観念を破壊した。イエス自身が不浄とされ迫害された売春婦、身体障害者、そのような社会的弱者を祝福し、ユダヤ司祭を激怒させた。この不浄観の違いがイエスの死刑の原因になったと言ってもよい。しかし釈迦はユダヤ教の潔癖性をさらにひどくさせた不浄観を持ち、人間そのものが不浄という、それによって女性の美への屈服を克服しようとし、釈迦本人はマーラ(悪魔)に打ち勝ったと宣言している。自分の男根を切るより、女性を切ってしまおうというのである。美は執着を生み、執着が愛を生む、そして愛が憎しみとなり、紛争を起こすというのである。だから美さえも敵に回したのだ。美は悪魔からくるものなのである。そして美の本質は不浄という、また六道輪廻一切不浄を釈迦は唱えた。女性=セックス=不浄=世俗=苦しみ。これが彼の中の図式であった。いわゆる不浄観と性欲の克服はセットでなければならなかった。
「自分は汚い」と思っても性欲は克服できない。
「こんなに不潔で醜いオレじゃ、美女なんかとセックスするのは夢の夢だ。」
と思うかもしれないが、美女に対する渇望はある。それなら自分を少なくとも清浄にすればいい。だが、セックス自体が不浄の産物であり、出産はさらに不浄なものを生み出すだけなので、セックスへの欲求を克服するためには美女を不浄とするしかなかったのである。欲望が起きないようにするには美しいものは無常で儚い、そして不浄と自己暗示をかけるのだ。苦しみの原因である欲望を滅することが釈迦の目的だったのだから。それが四念住の「身は不浄」と念ずることである。つまり人間臭いすべてのものを否定し、非人間化することが、仏教である。しかし不浄でも平気な人間はいる。コプロフィリア(嗜糞症)のような人間もいる。またポルノのような下品でアクロバチックなセックスを好む人間には仏教の教義は役に立たない。よって人の潔癖性を増大させようという企画も普遍的ではないのである。
最近、綺麗な女性と話す機会があった。正直言って彼女の美貌の前に慌てふためいた。私はふやける表情を必死になってこらえていた。いや、美女というのは、たった一つの微笑み、それもニヤッとした誘惑するような小悪魔的な微笑みを見せるだけで、男の心というものは四分五裂になってしまう。一顧傾城とはまさにこのことだ。五蘊がすべて分裂してしまったような。脳の奥までが麻痺してしまいそうな電光石火が走るのである。こんなに男の心がもろいものだとは。だから私は釈迦のように、
「ええい、落ち着け!この女は大小便に満ちているだけなんだ。」
と何度も自分に言い聞かせたが、必死の抵抗も空しく、とうとう彼女の魅力の前に屈服してしまった。カールのかかったツヤツヤした美しい髪を手の甲で耳の後ろに跳ね上げる仕草、それがセクシーでセクシーで、ああ、たまらない。私は、
「きー!」
となり、このまま頭から蒸気が上がって成層圏まで突き抜けるかと思った。その後、私は、
「ふんにゃ〜。」
となってしまい、完全に悪魔に敗北を喫してしまった。「女性の美は悪魔的」か、そうシッダールタが表現するのも分からないことはない。だが悪魔は神が作り出したものだ。だから美も神の産物である。というか美の摂取が正しければ、悪魔的ではないのである。しかし仏教では美は不浄の世界の幻覚でしかないのである。八正道の正見ではこの世は一切不浄と見るのが正しいのだが、誤った見方をすると不浄なものが美しく見えるというのである。だから釈迦に言わせれば、どんなに美味しく見える美しい料理でも、実は不浄なのである。
一方、キリスト教は美を食べようとする宗教である。口から入るものは不浄ではなく排泄されるものが不浄であるとした。だから豚肉が解禁になった。そしてクリスチャンはキリストの生け贄の血と人肉を食べるのである。口はキスする器官でもあり、恋愛の最初のコンタクトがキスである。だから口は神聖な愛を摂取する器官でもあり、人々はキスによってキリストの愛を摂取するのである。そして教皇の指輪にキスするのである。また主人は『ローゼンメイデン』の指輪にキスするのである。また、『魔法先生ネギま!?』の仮契約もキスによって結ばれる。だからドイツやウェールズなどのキリスト教文化圏では口は神聖視された。
しかし、仏教は一切は不浄であるから、口から入ろうが排泄されようが、どれも不浄である。つまりどんな食べ物も不浄なのである。それに人の苦しみは全て食べ物から始まるとされている。それが釈迦の縁起説の最も特徴的な一つである。食べることが苦しみの原因となるのである(二種の随観経747)。キリスト教では食べることによってキリストの永遠に乾くことのない生命が約束されるのだが。つまり食べることさえ仏教は疎うのである。生きるために仕方なく食べていただけである。そして大便も食から生じるのであり、人は食ゆえに大小便に満ちているのである。それに口も九つの汚い穴の一つに過ぎず、キスなどとんでもない行為であった。生命力を摂取することは不殺生戒を貫く仏教徒にとってはけしからぬことであり、食物連鎖の苦しみを断つことが主眼であったため、生命力の交換であるセックスも最高禁止事項であった。だから仏陀に接吻したものはいないであろう。人間を捨てること、または超えることが目標であったのだから
つまり美と醜、浄土と穢土、清浄と不浄、しかしこの世は醜、不浄、穢れである。それから脱するには涅槃にしかないである。苦を滅した状態が涅槃である。龍樹はそのような思想は二項対立で空に反すると批判するが、あいつの縁起説などただの戯言だ。釈迦の仏教を殺した聖パウロのような奴だ。釈尊が二項対立で物事を考えていたのは明らかだ。空とは縁起説でなく、煩悩が消滅した汚れのない状態のことである。それは置いといて、真実の美はこの世にはないのである。というか美は認めていなかったのかもしれない。しかし醜は認めていた。プラトンも同じく本当の美はイデア界に存在するとしている。そこには醜、穢は存在しない。すべて清らかな世界が広がっているだけである。しかしプラトンと釈迦の違いは、プラトンは美の探究心によってイデアを求めたが、釈迦は美を敵視することによって涅槃を求めたことである。
矛盾に満ちた不条理な醜い一切皆苦の世界、そこからの解脱である。釈迦は瓔珞の花美しい三人の美女に誘惑されるが、精神統一しているとその美女は腐って醜くなり、消滅してしまった。つまり美女は悟りの境地では腐敗して見えるのである。この世のものが美しく見えると誤った見解に陥ているのだから。だから美女が腐敗して見えるのが正見なのである。つまり涅槃とはこの世の全てが醜く見えてしまう病気に冒されてしまうことなのである。プラトンはこの世の美を偽物とした。そして釈迦は美は偽物どころか悪魔によるものと敵視したのである。
私も美女を見るとウットリするので、悟りを開いていないのだろう。もし女性がすべて醜女に見えるのなら、女と結合したいという渇望による苦しみも生じないだろう。しかし美女が醜女に見えてしまうとは、なんと悲惨だろうか。美しい人とのセックスの快楽に耽っている男もしくは女は、糞尿をむさぼり食う豚にしか見えないのであろう。イスラム教徒とユダヤ教徒が豚を見る目で釈迦は自分の王太子時代の歓楽生活を振り返っていたのであろう。そう、彼は出家する前、豚だったのである。その羞恥心に彼は苦しんだのである。だから彼は人間らしさを取り戻したかったのであろう。人間回復である。しかし、彼は欲望に振り回される人間は豚と同類であると考えていたはずであり、欲望を滅した人間は人間を超えた仏陀になると説いた。
だったら私は仏陀になりたくない。仏陀になると美女が大小便の器、強いて言えば腐敗したゾンビのように見えてしまうのだから。そう、マイケル・ジャクソンの『スリラー』でマイケルの恋人がゾンビに変身するマイケルを見て、「きゃー!」と叫ぶようなものである。ゾンビとどうやってセックスできようか。まあ、悟りを開けば物事の本質が見える洞察力が具わると言われているが、美女の本質が醜く腐敗臭に満ちたゾンビであるならば、それが美女の本質なのであろう。そう、世の中の本質は不浄なのだから、美女も不浄に見えてしまうのである。だから悟りを開いた女性が美男子を見ても、彼女にはゲロ袋のように映ってしまうのである。私は女性にゲロ袋だと思われたくない。まったく三人の美女にナンパされるような容姿を持っていた仏陀に「便器」と思われたら、さぞかしショックだろう。きっと本当のところは釈迦が三人の美女を、
「便器め、あっちに行け!」
と言って、三人はショックを受けて立ち去ったのだろう。その三人の美女の気持ちが手に取るようにわかる。「女三人よれば姦しい」もこのシッダールタの体験がもとになっているのだろう。男が三人よれば文殊の知恵であっただろうに。それにシッダールタは仏陀となっても女性を蔑視していた。その発言が「増一阿含経,第41巻,馬王品」に見られる。
直訳すれば「女には、九つの悪い法則がある。その九つとは何か。女は、1、臭くて穢れていて不浄で2.悪口を言い、3.道徳がなく、4.嫉妬深く、5.度ケチで、6.大豪遊に甘んじ、7.切れやすく、8.姦しく、9.口が軽い。」となる。この第一の法則が「臭くて穢れていて不浄」である。女性不信がこれでもかというほどこの言葉に集約されている。逆に女の良い法則はどうなっているのだろうか。人間蔑視のはずが、女性という特定の性別にこんな法則を勝手に作り上げるとは、仏陀は大小便であった。しかしなぜシッダールタはそこまで女性にこだわったのか。それは何を隠そう、女性は美しいからである。
美はサムサーラ(輪廻)に人を束縛させる足枷であった。不浄なものに愛着する人間は滅多にいない。だから不浄観が人を解脱させる助けになる。一方、美は人に愛着心を持たせ、無常であるものをできるだけ維持しようと苦しむ。そして愛着を持ったものが滅びるとき、人は悲嘆に暮れるのである。そしてなによりも人が打ちのめされる出来事とは愛する人との死別である。いわゆる十二縁起とは男女の結合、出産、そして死を体系化した理論である。そして、その鎹となるのが人の魅力、もしくは美である。
だからヘトロ男である仏陀が最も恐れた美とは女性美であった。なぜなら女性は出産をし、輪廻の世界を拡大させて行くからである。人口増えれば苦しみも増えるのである。だから美を凌駕することは人類を絶滅させることである。すべての人間が解脱すれば人類は滅びるのだから。人間の美意識は種の保存、遺産の保存を支える、しかし美意識もなくただ世の理に身を任せれば、性欲もなくなるし、子供も作らないので、生物界である一切皆苦の輪廻の世界も縮小し、最後には消えてなくなる。つまり解脱とともに、輪廻そのものを消滅させようと言うのである。本当は僧伽に在家信者などいらないのだが、食事の面で彼らの必要性を認めざるを得なかったのだ。そういう面ではシッダールタはリアリストであった。しかし、彼の本当の計画は消極的ラグナロークであり、仏教は人類絶滅計画を密かに推進する宗教である。また、どの宗教も少なからず人類絶滅計画が潜んでいる。それは神の意志だろうが仏陀の教義だろうが、変わらない。人間への失望と異世界への憧れ、これはポストモダン特有の現象ではない。美女は新世界への旅立ちを象徴する。自由の女神などがそうだ。しかしシッダールタにとってその異世界へ航海を塞き止める鎖が美女だった。だから仏陀は特に女性の美を敵視した。
というのは、彼の美女対策とは、対象と感覚器官が結びつく前に対象物を破壊してしまうものである。だから仏教は去勢宗教ではなく、爆殺宗教である。そして最後は自殺するのである。対象である相手を殺害して自決する、つまり自爆テロのような宗教だ。対象物は不浄、苦、無常、無我、そうして知覚するすべてを無化させるのだ。何しろ仏教は六道輪廻から自分の存在を無化させることが最高教義なのだから。まわり全てをおぞましきもの、仏陀である自分より神聖なものがない、自分だけが神聖で汚されないと言う、ある種の処女のプライドのような教義なのである。貞潔は世俗を見下すところから始まるのである。セックスを断ち切ることが涅槃を実現する聖者であるのだから。「Holier Than Thou Complex(汝より神聖だコンプレックス)」である。皆汚ければ聖者も汚いのだからセックスしようが関係ないと思うのだが。しかし、出家は清浄になりたいという欲求の表れであり、汚くないことが清浄であるのだから不浄のない涅槃は清浄ということになる。それに出家者は清浄行(brahma-cariya)に励む人であり、不浄な人間とは格別扱いされていた。清浄行はのちにマハトマ・ガンディーの不婬の行となった。つまり性欲を抑圧する行であり、それを行う人には性欲は不浄であり、セックス自体不浄だと考える潔癖性の人が多い。もともとそういう人はドロドロした人間関係が嫌いで、さっぱりした距離を保つ人間関係を好む。そして行き過ぎた潔癖性は完全にセックスを避けさせるのである。シッダールタの潔癖が美女の乱れた寝姿を見たとき、頂点に達したように。それが清浄行の正体である。これから清浄になる人々、いわば清浄予備軍が出家団体であり、不浄のもの(セックス)とは一線を画したのだ。
だからその団体の長である釈迦が女性を拒んだのは女性に清浄になる資格を与えなかったということになるのだ。そして清浄になれる人間となれない人間を区別した。性障害のあるものは不適格者として入団を拒否された。清浄を目指すものが不浄なものと関われないのは不思議ではないが、女性も清浄になりたいのに、その許可を渋ったというのも、また許可を出してから男子出家者より格下に扱われているとは、仏陀もただの大小便だったといことだ。女性はもともと不適格者と暗示するようなものである。つまり不浄の中でも差別を起こしてしまったのである。
「女のために千年の法が五百年に縮んてしまった。」
そうした仏陀の言説のなかでは、出家者集団では男が主人公であり、女は単なる亜種でしかない。しかし彼がその発言に反省し、全ての女性に謝罪した痕跡も発見されていない。なにしろ修行完成者である仏陀に誤りはないのだから。
しかし大小便に満ちた器と女性を疎んできたシッダールタも、自分の大小便の器に亀裂が入って、最後には破裂して死んでしまった。怒濤のような下痢が彼を襲い、しかしそれでも仏陀としての自負心からあくまでも冷静さを装った。チュンダの料理の中に入っていた毒キノコを食べたことによって、または貪欲な人間を豚と同類に扱ってきたその豚の肉を食べたことによって、今まで女性を便器呼ばわりしてきた業が自分に跳ね返ってきたのである。だからたとえ仏陀であろうとも入滅する直前まではカルマから逃れられなかったのである。そして最後に彼も悟ったのであろう、
「たとえ仏陀になった私でも大小便に満ちた器には変わりなかったようだな。」
と。そして彼は入滅したのである。禅宗の雲門宗の開祖は「仏陀は乾屎木+厥(かんしけつ)だ」と言った。乾屎木+厥とは乾いた大便のことであるが、私は下痢だと思う。その死に様からして下痢、よりグロテスクにするのなら赤痢といったほうがいいであろう。だから彼も不浄だったのである。つまり仏陀はクソまみれになって死んだのである。下痢が下痢まみれの世界で下痢まみれになって死んだのも当然と言えば当然だが。美と愛を否定した男の結末にもっともらしい。潔癖性の人間にはもっとふさわしい入滅の仕方であった。ハワード・ヒューズの最後のように。つまり清浄になるには肉体の消滅しか道がなかったのである。それが苦しみと穢れに満ちた世界からの真の解脱であった。
大小便であった釈迦は出家生活前に女とやり過ぎた。しかも王国中の美女を集めて雨期の離宮のハーレムで乱痴騒ぎに耽っていた。そして乱交パーティーの後で妓女たちが重ね合って寝ているのを目撃して、不潔感が彼を襲ったのだ。それはそうだ。どんな綺麗な女性でも寝ている時は顔がむくむではないか。それに寝ている時は化粧も落としているはずだし、髪もセットしていないのだから。目脂が出て鼻水とよだれを垂らして歯ぎしりをする、だれだってすることだ。釈迦だって寝ているときはそういう状態であったに決まっている。自分の寝顔を見るのは不可能だからな。その時に美女のイメージが崩れたのかもしれない。しかも国の一二を争う美女だったために、そのギャップの大きさに衝撃を受けたのだろう。そこに人間臭さを感じて、失望したのか。その可能性は極めて高い。なぜならシッダールタは睡眠さえも多く取ってはならないと説いているからだ(迅速経926)。そして大般涅槃経でもシッダールタはこう発言している。
彼にとっては睡眠も人間臭いもの以外の何ものでもなかった。それも美女の寝姿からの強迫観念からであろう。
美女は確かにこの世のモノとは思えない世俗を超越した存在だと感じてしまうことは否定しない。実際、私も美女と対面した時は、人間以上だと思ってしまう。そう、イデアを彼女らを通して感じてしまうのである。そんな美女も一緒に食事をすると、あまり食べない。つまり食べることは人間臭いことだから、男の前では少食になるのである。それも人を超越した美しさというイメージを保とうとするためか。男の夢見る美女を演じようとするためか。だが、そんな人間離れした美女がガアガアと鼾をかいて寝ていたら幻滅するだろう。
「ああ、やっぱり、人間なんだなあ。」
と。そういえば、私の知り合いで美女と付き合っていた人がいたが、
「女とは絶対一緒に住んでは行けない。」
と忠告してきた。私は、
「なんでだよ。」
と訊いた。すると彼は、
「なにせ、彼女が人間だということをまざまざと見せつけられるからなあ。本気で愛して、一生のパートナーと認めた女性じゃないと。その覚悟がなきゃ一緒に住まないほうが身のためだぞ。」
と言ったのだ。美女とセックスできるというだけで、あの男に対してひどい嫉妬心を持ったのに、その上に一緒に住んでいるとは。
「そんな羨ましいことがあってたまるか!」
と心の中で絶叫したが、釈迦の女性歴と照らし合わせてみると、あの男の言っていたことも理解できるかもしれない。ハーレムで釈迦は妓女とやりまくっていた。しかし釈迦は妓女が化粧をしているときしか相手をしていなかったと考えられる。ある意味、妓女はエンターテーメントのプロフェッショナルとして釈迦に使えていたのだ。つまり釈迦は仕事が終わって休息についた妓女のプライバシーを侵害して、寝ている姿を覗いたのである。そのとき、彼に衝撃が走ったのであろう。それにしても重なり合って妓女が寝ていたとは、本当に劣悪な環境だったのだ。しかもその美女を雇っている自分に嫌気がさしたのではなく、女性に嫌気がさしたとなっていることに問題がある。
「お前がすべての元凶ではないか!」
と言ってやりたかった。
男鰥に蛆がわき、女寡に花が咲くという諺がある。その言葉は古代オリエントの文明を引き継いでいるように思える。いわゆる男が不浄で女が清浄、つまり美女こそが女神であり、もしくは天神により近い存在であるため、巫女になったり、古代オリエントの神殿で不浄な男の性欲を満たしていた。男が世俗の政治を担当し、女が神事を担当するという古代エジプトや邪馬台国に通じるものがあった。つまり穢土と浄土の橋渡しは女性神官であった。そしてエロスは神に近づくための意志であった。神への意志、それがエロスであった。つまりシッダールタも男社会の中に育ったにしろ、その古代の記憶を引きずっていたのだろう。まさか美女たる存在が世俗の不浄と重なり合うとは夢にも思っていなかったのであろう。潔癖性の人間とってはちょっとのホコリでも一大事である。ある潔癖性の男は美女の鼻からわずかに毛が出ているのに気付いただけでもショックを受けるという。だから美女の寝相の悪さはひどい潔癖性の持ち主のシッダールタを大いに恐れさせた。美女と不浄が結びついてしまったショック、これが強迫観念になって結果的にセックスを捨てる道を選ばせたのだ。だから彼は「禍なるかな」と恐怖におののき、厭離を生じた。清浄で神聖な女神はエロスと豊穣を男性に約束させる存在であった。しかし、そのイメージが木っ端微塵に砕け散った。求めていた美は不浄であったという美への絶望。夢が壊された。それが彼の厭離穢土の原点となったのだ。
ハワード・ヒューズは母の過保護を受けて育った。彼の母はいつもハワードをきれいにし、それが潔癖性を植え付けた。ハワードは母に清潔感を求めていた。そう、女性が彼をおぞましきばい菌から守ってくれる聖母であった。シッダールタも父親の過保護のもとに育ち、不浄である外界と一切接することなく育ってしまった。そこでハワードもシッダールタもナイーヴにな性格となった。まあ、金持ちの子供はパリス・ヒルトンなどのようにナイーヴになるものが多いが、とくにハワードやシッダールタにはその傾向がひどく顕著であった。だからハワードはホテルの一室で隠遁生活を送り、外界から隔離した。そしてシッダールタも穢土からの本当の隔離を求めて出家した。彼が29歳になるまでは彼の取り巻く現実は美しいものであった。だから美女は外界の世界と対極だったのである。シッダールタはハワードが母に期待したものを妓女に期待していたのだろう。マハー・パジャーパティは養母にすぎず、本当の母ではなかったのだから。
今でこそ皇室は開かれているが、明治時代までは天皇は民衆の中に入ることはなかった。それは庶民はおぞましきものであり、穢れとは交わってはいけなかったからだ。身分の上下関係とはそういうものだ。天地無用なのである。接することは同一性を侵してしまうからだ。シッダールタも王族というクシャトリア階級であり、一般庶民とは決して交わらなかった。だが、彼は意を決して四門出遊する。そして外界の世界に飛び込んで行くのである。そこで彼は庶民の悲惨な生活の実態を目の当たりにし、にショックを受けた。彼は相当悲憤慷慨したに違いない。そしてそれに追い討ちをかけるように、王宮で美女の寝姿を見て、「禍なるかな」とショックを受けてしまった。美しい世界しか知らなかったシッダールタ、そして夏の離宮の妓楽に酔いしれ、その官能の世界の中心に美女が舞っていた。しかし彼は美女のプライバシーを侵してまで、美女の寝相を見て、ショックを受けてしまう。そう、交わっては行けない領域に彼は踏み込んだのである。外の臣民の世界、そして妓女のプライバシー、過保護に育った彼なりの感受性で全身全霊をもって、その価値観は破壊された。だから、その耽美世界の根幹をなす美女が不浄とあっては、世の中全てに幻滅してしまうであろう。つまり不浄から隔離されていた王宮も実は不浄だったと気付いたからだ。そしてその美しい世界で最も頼りにしていた美女も不浄とあっては、ひどい潔癖性の彼には到底耐えられるものではなかった。つまり外も内もすべて不浄で、いたる所が穢土であり、輪廻世界すべてが穢土に思えた。だからその発見は彼を壊してしまった。それが人間世界全てを厭離するきっかけとなった。
食欲、性欲、睡魔、渇愛、これら人間を維持させる生存欲は人を輪廻の世界に束縛させる、そして美女はそのすべての生存欲を象徴化した。そして美女に対する失望感から生存欲に打ち勝つジハードと化した。生存欲こそが人間を呪縛する。だからその呪縛を解くために、シッダールタは降魔成道を達成した。
そういう経験をした羨ましい男が今度は我々にセックスを捨てよというのである。性欲を捨てることこそ超人への道だというのだ。そんなこと死んでもできるか。我々プロレタリアートのほとんどは一生かかっても彼の享受した道楽生活に手が届かないであろう。美女など触ることすら骨が折れるというのに。どんなにがんばっても放蕩者にはなれない。パリス・ヒルトンのように快楽に甘んじる生活に浸ることなどアメリカでは人口の1%にも満たないであろう。勝ち組の勝ち組でなければ。勝ち組の頂点にいたシッダールタにそんなことを言われる筋合いはない。彼の不浄観は自責の念からくるものだ。29年間も籠の中の鳥で外の苦しむ民に目を向けなかったという罪悪感から乞食になったのだ。だが、今度は美女もセックスも不浄と言ってくるあり様だ。快楽を嫌というほど経験した勝ち組の人間、そして快楽を嫌というほど経験できない負け組の人間、どちらも中道からほど遠いが、実際に中道を実行できるのは勝ち組だけである。歓楽は勝ち組の特権であり、中道の精神から勝ち組は財産を慈善事業に寄付したりの慈悲を実行できる。そして全財産を捨てて出家するのも可能だ。それなら出家者も感謝される。だが負け組には捨てるものがない。それに出家者が托鉢に来ても食事を与える余裕さえない。そして負け組の生活自体が過酷な苦行のようなものだ。よって99%の人は中道を実感できない、なぜなら釈迦のように歓楽を経験した人間は大衆にはほとんどと言っていいほどいないからだ。よって大衆に釈迦の中道を応用できないのが現実である。だから仏教はクシャトリアや成功した商人の中でしか根付かず、インドで滅んだのである。
よってシッダールタは死をもって「オレこそ不浄だった」と身を以て示した。それによって人間全てが平等に不浄であることを証明した。だからこそシッダールタは男性も女性もなく脱人間化に徹することを説いた。だが、シッダールタの死から2500年経った今では、女性の方がより男性よりも理想化されている。少なくとも男性の毛深さは穢れのように思われている。私のかつての同僚の女性も、
「ええ、あんた脇毛も剃ってないの?不潔〜。」
と言ってきた。その時、私は本当に驚愕した。男が毛を剃るって髭だけかと思っていたのだが、いつからそうなったのだろうか。私が知る限りではデイヴィッド・ボーウイが女装してからというもの、彼がクロスジェンダーとバイセクシャルのプロトタイプとなった。ボーウイ・ジョージもその後を引き継いだ。そして男性アーチストがメイクするのも当たり前となった。かつてアニメでも女性が男装をするという、『ベルサイユの薔薇』が主流であった。つまり男に生まれたかったという願望を持つ女性が多かったが、いまでは『乙女はお姉さまに恋してる』など、男性が女性になろうとする傾向がとても強い。これもフェミニズムの功績と言えるであろう。今や男がすね毛を剃っているのだから。
かつて変成男子説が『法華経』や『阿弥陀経』で説かれていた。しかし、今の時代、変成女子説がまかり通っている。しかし『維摩経』では女神がシャーリプトラを女性に変身させた。だから変成女子説が認められるのは『維摩経』ぐらいであろう。そういう意味で『維摩経』はジェンダーフリーの経典と言えるだろう。
「だから男子は女子にならないかぎり成仏できないのである。」
それがラディカル・フェミニズムの仏教解釈であろう。それは仏教界においてではなく、すべての消費社会の面において言説となっている。ゴスロリは男性のファッションでもある。今では男性がアリスやロリータを目指す時代となったのだ。私がロサ・キネシスの小笠原祥子さまに憧れるように。しかも祥子さまは男嫌いだ。それが時代を象徴している。私もアン・ブートゥン・プチ・スールになりたい!
男性が女性に憧れを持つという、これは本当にポスト・モダンである。というか、ポスト・モダンは911同時多発テロによって終焉したようであるが、それは消費社会の抑圧だけでなく、テロリズムの抑圧も加わったということであろう。しかし、そんな抑圧の中でも変成女子説は助長されていくだろう。亭主関白は崩壊したし、男性は家事を手伝うことが期待される。残るは女性の社会進出が男性のと釣り合いが取れたとき、はたしてどうなるかである。その時、主夫という職業も確立されることであろう。そうなったとき、やみくもなフェミニズムも姿を消すだろうし、真の人間社会が実現されるであろう。そして変成女子説も過去のものとなっているであろう。
民主党が国政選挙で勝利したことは、マスキュリン・ポリティクスが完全に敗退したことを意味する。そして連邦下院議長に米国史上初めて女性が就任することに象徴される。その大役を任されたナンシー・ペロシ民主党議員はシュワルツネッガーが知事を務めるカリフォルニアから選出された。そして世界で最もリベラルなゲイ・キャピタルであるサンフランシスコが彼女の選挙区だ。だから、「女々しい政党」が連邦議会の多数派となった今、女性らしさを求める男性がより自由を謳歌できるようになったということである。変成女子政党が共和党を打ち破った日は歴史的転換となるであろう。
かつてアメリカではジョン・ウェインやチャールズ・ブロンソンといった「男の中の男」を象徴する俳優がアメリカ人の男像であった。クリント・イーストウッドもその代表だ。しかしウーマン・リブやメンズ・リブといった社会改革が70年代からスタートし、30年経った今、すっかり言説が変わってしまい、メインストリームにおいても男性がマスキュリンという固定観念が破壊されてしまった。今やマスキュリンは邪悪とされる時代となった。フェミニズムでは男女平等ではなく、女性至上主義を強く打ち出したいわゆる原理主義が横行するようになった。それはラジカル・フェミニズムと呼ばれている。
「アメリカの小学校では既に男性に生まれたことに罪の意識を感じている男の子が発生しているという。」
と、そう共和党の保守系議員が嘆いていたほどだ。日本の自民党でも「ジェンダー・フリー」に反対する保守系議員が多数存在し、安倍首相もその一人である。だから安倍政権では決して皇室典範が改正されないことは承知している。
シュワルツネッガーもいわゆる昔のタイプの俳優である。筋肉ムキムキで挑んでくる敵を容赦なくぶっ潰す怪力の持ち主、そして自分の自慢の筋肉を露出して女をその圧倒的な肉体の前に屈服させてしまうという男である。「オレは男だ!」と男っぷりを強調する俳優であるシュワルツネッガーやクリント・イーストウッドは共和党系なのである。しかし最近ではマッチョはポロノ映画ぐらいでしか見られなくなった。だからより不自然に見える。今の男は体の線を強調するような服を好んで着るようになった。ある意味、女性型の着こなしとなったのである。そして今では髪の毛以外の毛を嫌う傾向が強い。なんと脇毛を剃ることが男性雑誌で紹介されていたほどだ。「女はもともと男性が嫌い、男性は男性が嫌い、女は女が好き、男性は女が好き」という構造が北米大衆文化で出来上がった。本当の男の美学などは新撰組や盾の会のようなホモセクシャル団体だけに限るようになったと思われる。
アニメにもその影響が見える。ドカベンのような主人公はもはや女にモテない。少女漫画に出てくるような男がプロトタイプになったようだ。それにしても少女漫画に描かれる男性の髪の毛は皆綺麗だ。自然界では、特に鳥の世界ではオスが着飾ってメスを惹き付ける。だが人間界では逆である。しかし、今では男も着飾らなければならない。私だってあのような服装には憧れる。ヴィジュアル系やゴスロリのファッションは退廃的なイメージがあって、華奢だ。そう、華奢な男がモテるようになった。洗顔フォーム、また洗顔パックを男性が使うようになったのだから。この言説が私を束縛する。モールに行けば男性の化粧品まで売られている始末だ。抑圧は上からでなく、もはや四面楚歌、どこを見渡しても抑圧の時代になったのである。
そう、鳥の世界では孔雀を代表されるように、オスが着飾るのだ。しかし人間界では女だけである。西アフリカのファルーニ・ヴォダベ族の男性が化粧することで知られるが、それ以外はほとんど聞いたことがない。まあ、日本でも平安貴族の男子は化粧をしていた。化粧をしていることが金持ちのステータスだった。そして百姓は泥まみれで日焼けしていて、とても化粧などできなかった。しかし、今ではそれが大衆化したようである。まるで現代の若い男性は孔雀化したようである。なんで女性は化粧をするのだろうか、考えただけでも不思議である。なんで男性は化粧をしなかったのか、それも不思議だ。男性が化粧をするのも不思議だが、化粧をしないのも摩訶不思議である。化粧自体が不思議である。
そもそもなぜ人間は着飾るのか、その根本の哲学を追究しなければならない。人は美が好きだ。そして欲しい。そして美しくなりたい。そうすれば人に好かれる、愛される。また神の愛さえも受けることができる。人は醜くなりたくない、なぜなら嫌われるからだ。つまり人に好かれたい、愛に飢えているのである。私が美しくなりたいのはやはり社会から認められたいのと、女の称賛を浴びたいというのが正直なところだろう。美への願望はエロスであり、イデアを目指す力であり、キリスト教ではその意志は神への愛であるとされた。つまり我々の神を求める意識が耽美嗜好を生み出しているという。キリスト教は愛の宗教である。だが仏教では美と愛は六道輪廻の首枷でしかない。六道輪廻は不浄であり、釈迦は、この世の美を体現した絶世の美女でさえ「大小便に満ちている」と言って退けた。私は彼に、
「お前も大小便に満ちているだろう、バカヤロウ!」
と正してあげたかったが、彼は既に入滅してしまった。キリスト教は美意識を認めるが、仏教は美意識を否定する。なにしろ原始仏教の僧伽では生産することさえ禁じられていたのだから、芸術などはもってのほかであった。なにしろ頭まで剃り、糞掃衣しか身にまとえなかったのだから。釈迦の偶像崇拝禁止は神が嫉妬するからではなく、愛さえも滅しようとしたからである。
この人間界は不浄、だから厭離穢土、それが仏教の精神だ。つまりこの世は穢れているのである。清めることはできない。神道の禊祓いは無効なのだ。土俵に塩をまこうが土俵は神聖になることはない。土俵に女性が入ってきたら汚されるというが、すでに穢れているのだから全くのナンセンスなのだ。だから浄土思想がある、つまり六道から解脱した世界、それが浄土なのである。シッダールタは女は浄土に行けないとは言っていないが、女性を出家させることを拒んだことがその後の仏教界に大きな遺恨を残した。そして「大小便の器」と女性を表現したことに、シッダールタの不浄観が集約されることとなったのだ。だからシッダールタは極度の潔癖性であったとしか思えないのだ。まるでディカプリオ主演の『Aviator』のハワード・ヒューズである。病理的な潔癖性の宗教が仏教である。きれいになりたいがために「南無阿弥陀仏」と唱えるのである。そう、女性さえも「大小便」なのだから、女性から見たら男など「ヘドロとゲロ」であろう。女性はいわゆる便器である。だとすると男性は飛行機の座席に常備されているゲロ袋である。「ゲロ袋と便器」それが男女の関係である。なにしろ食べ物が口から出ればゲロ、肛門から出ればクソなのだから。そして肛門は口へと結びつき、それらは天空につながるのである。
ユダヤ教も極度の潔癖を示していた。とくにレビ記は潔癖性の18番と言っていい。女性が月経している時は大地が汚れるので隔離しなければ行けないとか、射精したら必ず体を清めなければならないとか、それらは差別の根本になる。日本の穢多非人も不浄観から発生したものだ。それによって身体障害者は神殿に入れなかったという。そして原始仏教の僧伽も性機能障害者は拒否された。しかしキリスト教はそんな潔癖観念を破壊した。イエス自身が不浄とされ迫害された売春婦、身体障害者、そのような社会的弱者を祝福し、ユダヤ司祭を激怒させた。この不浄観の違いがイエスの死刑の原因になったと言ってもよい。しかし釈迦はユダヤ教の潔癖性をさらにひどくさせた不浄観を持ち、人間そのものが不浄という、それによって女性の美への屈服を克服しようとし、釈迦本人はマーラ(悪魔)に打ち勝ったと宣言している。自分の男根を切るより、女性を切ってしまおうというのである。美は執着を生み、執着が愛を生む、そして愛が憎しみとなり、紛争を起こすというのである。だから美さえも敵に回したのだ。美は悪魔からくるものなのである。そして美の本質は不浄という、また六道輪廻一切不浄を釈迦は唱えた。女性=セックス=不浄=世俗=苦しみ。これが彼の中の図式であった。いわゆる不浄観と性欲の克服はセットでなければならなかった。
「自分は汚い」と思っても性欲は克服できない。
「こんなに不潔で醜いオレじゃ、美女なんかとセックスするのは夢の夢だ。」
と思うかもしれないが、美女に対する渇望はある。それなら自分を少なくとも清浄にすればいい。だが、セックス自体が不浄の産物であり、出産はさらに不浄なものを生み出すだけなので、セックスへの欲求を克服するためには美女を不浄とするしかなかったのである。欲望が起きないようにするには美しいものは無常で儚い、そして不浄と自己暗示をかけるのだ。苦しみの原因である欲望を滅することが釈迦の目的だったのだから。それが四念住の「身は不浄」と念ずることである。つまり人間臭いすべてのものを否定し、非人間化することが、仏教である。しかし不浄でも平気な人間はいる。コプロフィリア(嗜糞症)のような人間もいる。またポルノのような下品でアクロバチックなセックスを好む人間には仏教の教義は役に立たない。よって人の潔癖性を増大させようという企画も普遍的ではないのである。
最近、綺麗な女性と話す機会があった。正直言って彼女の美貌の前に慌てふためいた。私はふやける表情を必死になってこらえていた。いや、美女というのは、たった一つの微笑み、それもニヤッとした誘惑するような小悪魔的な微笑みを見せるだけで、男の心というものは四分五裂になってしまう。一顧傾城とはまさにこのことだ。五蘊がすべて分裂してしまったような。脳の奥までが麻痺してしまいそうな電光石火が走るのである。こんなに男の心がもろいものだとは。だから私は釈迦のように、
「ええい、落ち着け!この女は大小便に満ちているだけなんだ。」
と何度も自分に言い聞かせたが、必死の抵抗も空しく、とうとう彼女の魅力の前に屈服してしまった。カールのかかったツヤツヤした美しい髪を手の甲で耳の後ろに跳ね上げる仕草、それがセクシーでセクシーで、ああ、たまらない。私は、
「きー!」
となり、このまま頭から蒸気が上がって成層圏まで突き抜けるかと思った。その後、私は、
「ふんにゃ〜。」
となってしまい、完全に悪魔に敗北を喫してしまった。「女性の美は悪魔的」か、そうシッダールタが表現するのも分からないことはない。だが悪魔は神が作り出したものだ。だから美も神の産物である。というか美の摂取が正しければ、悪魔的ではないのである。しかし仏教では美は不浄の世界の幻覚でしかないのである。八正道の正見ではこの世は一切不浄と見るのが正しいのだが、誤った見方をすると不浄なものが美しく見えるというのである。だから釈迦に言わせれば、どんなに美味しく見える美しい料理でも、実は不浄なのである。
一方、キリスト教は美を食べようとする宗教である。口から入るものは不浄ではなく排泄されるものが不浄であるとした。だから豚肉が解禁になった。そしてクリスチャンはキリストの生け贄の血と人肉を食べるのである。口はキスする器官でもあり、恋愛の最初のコンタクトがキスである。だから口は神聖な愛を摂取する器官でもあり、人々はキスによってキリストの愛を摂取するのである。そして教皇の指輪にキスするのである。また主人は『ローゼンメイデン』の指輪にキスするのである。また、『魔法先生ネギま!?』の仮契約もキスによって結ばれる。だからドイツやウェールズなどのキリスト教文化圏では口は神聖視された。
しかし、仏教は一切は不浄であるから、口から入ろうが排泄されようが、どれも不浄である。つまりどんな食べ物も不浄なのである。それに人の苦しみは全て食べ物から始まるとされている。それが釈迦の縁起説の最も特徴的な一つである。食べることが苦しみの原因となるのである(二種の随観経747)。キリスト教では食べることによってキリストの永遠に乾くことのない生命が約束されるのだが。つまり食べることさえ仏教は疎うのである。生きるために仕方なく食べていただけである。そして大便も食から生じるのであり、人は食ゆえに大小便に満ちているのである。それに口も九つの汚い穴の一つに過ぎず、キスなどとんでもない行為であった。生命力を摂取することは不殺生戒を貫く仏教徒にとってはけしからぬことであり、食物連鎖の苦しみを断つことが主眼であったため、生命力の交換であるセックスも最高禁止事項であった。だから仏陀に接吻したものはいないであろう。人間を捨てること、または超えることが目標であったのだから
つまり美と醜、浄土と穢土、清浄と不浄、しかしこの世は醜、不浄、穢れである。それから脱するには涅槃にしかないである。苦を滅した状態が涅槃である。龍樹はそのような思想は二項対立で空に反すると批判するが、あいつの縁起説などただの戯言だ。釈迦の仏教を殺した聖パウロのような奴だ。釈尊が二項対立で物事を考えていたのは明らかだ。空とは縁起説でなく、煩悩が消滅した汚れのない状態のことである。それは置いといて、真実の美はこの世にはないのである。というか美は認めていなかったのかもしれない。しかし醜は認めていた。プラトンも同じく本当の美はイデア界に存在するとしている。そこには醜、穢は存在しない。すべて清らかな世界が広がっているだけである。しかしプラトンと釈迦の違いは、プラトンは美の探究心によってイデアを求めたが、釈迦は美を敵視することによって涅槃を求めたことである。
矛盾に満ちた不条理な醜い一切皆苦の世界、そこからの解脱である。釈迦は瓔珞の花美しい三人の美女に誘惑されるが、精神統一しているとその美女は腐って醜くなり、消滅してしまった。つまり美女は悟りの境地では腐敗して見えるのである。この世のものが美しく見えると誤った見解に陥ているのだから。だから美女が腐敗して見えるのが正見なのである。つまり涅槃とはこの世の全てが醜く見えてしまう病気に冒されてしまうことなのである。プラトンはこの世の美を偽物とした。そして釈迦は美は偽物どころか悪魔によるものと敵視したのである。
私も美女を見るとウットリするので、悟りを開いていないのだろう。もし女性がすべて醜女に見えるのなら、女と結合したいという渇望による苦しみも生じないだろう。しかし美女が醜女に見えてしまうとは、なんと悲惨だろうか。美しい人とのセックスの快楽に耽っている男もしくは女は、糞尿をむさぼり食う豚にしか見えないのであろう。イスラム教徒とユダヤ教徒が豚を見る目で釈迦は自分の王太子時代の歓楽生活を振り返っていたのであろう。そう、彼は出家する前、豚だったのである。その羞恥心に彼は苦しんだのである。だから彼は人間らしさを取り戻したかったのであろう。人間回復である。しかし、彼は欲望に振り回される人間は豚と同類であると考えていたはずであり、欲望を滅した人間は人間を超えた仏陀になると説いた。
だったら私は仏陀になりたくない。仏陀になると美女が大小便の器、強いて言えば腐敗したゾンビのように見えてしまうのだから。そう、マイケル・ジャクソンの『スリラー』でマイケルの恋人がゾンビに変身するマイケルを見て、「きゃー!」と叫ぶようなものである。ゾンビとどうやってセックスできようか。まあ、悟りを開けば物事の本質が見える洞察力が具わると言われているが、美女の本質が醜く腐敗臭に満ちたゾンビであるならば、それが美女の本質なのであろう。そう、世の中の本質は不浄なのだから、美女も不浄に見えてしまうのである。だから悟りを開いた女性が美男子を見ても、彼女にはゲロ袋のように映ってしまうのである。私は女性にゲロ袋だと思われたくない。まったく三人の美女にナンパされるような容姿を持っていた仏陀に「便器」と思われたら、さぞかしショックだろう。きっと本当のところは釈迦が三人の美女を、
「便器め、あっちに行け!」
と言って、三人はショックを受けて立ち去ったのだろう。その三人の美女の気持ちが手に取るようにわかる。「女三人よれば姦しい」もこのシッダールタの体験がもとになっているのだろう。男が三人よれば文殊の知恵であっただろうに。それにシッダールタは仏陀となっても女性を蔑視していた。その発言が「増一阿含経,第41巻,馬王品」に見られる。
女人有九惡法。云何為九。一者女人臭穢不淨。二者女人惡口。三者女人無反復。四者女人嫉妒。五者女人慳嫉。六者女人多喜遊行。七者女人多瞋恚。八者女人多妄語。九者女人所言輕舉。
直訳すれば「女には、九つの悪い法則がある。その九つとは何か。女は、1、臭くて穢れていて不浄で2.悪口を言い、3.道徳がなく、4.嫉妬深く、5.度ケチで、6.大豪遊に甘んじ、7.切れやすく、8.姦しく、9.口が軽い。」となる。この第一の法則が「臭くて穢れていて不浄」である。女性不信がこれでもかというほどこの言葉に集約されている。逆に女の良い法則はどうなっているのだろうか。人間蔑視のはずが、女性という特定の性別にこんな法則を勝手に作り上げるとは、仏陀は大小便であった。しかしなぜシッダールタはそこまで女性にこだわったのか。それは何を隠そう、女性は美しいからである。
美はサムサーラ(輪廻)に人を束縛させる足枷であった。不浄なものに愛着する人間は滅多にいない。だから不浄観が人を解脱させる助けになる。一方、美は人に愛着心を持たせ、無常であるものをできるだけ維持しようと苦しむ。そして愛着を持ったものが滅びるとき、人は悲嘆に暮れるのである。そしてなによりも人が打ちのめされる出来事とは愛する人との死別である。いわゆる十二縁起とは男女の結合、出産、そして死を体系化した理論である。そして、その鎹となるのが人の魅力、もしくは美である。
だからヘトロ男である仏陀が最も恐れた美とは女性美であった。なぜなら女性は出産をし、輪廻の世界を拡大させて行くからである。人口増えれば苦しみも増えるのである。だから美を凌駕することは人類を絶滅させることである。すべての人間が解脱すれば人類は滅びるのだから。人間の美意識は種の保存、遺産の保存を支える、しかし美意識もなくただ世の理に身を任せれば、性欲もなくなるし、子供も作らないので、生物界である一切皆苦の輪廻の世界も縮小し、最後には消えてなくなる。つまり解脱とともに、輪廻そのものを消滅させようと言うのである。本当は僧伽に在家信者などいらないのだが、食事の面で彼らの必要性を認めざるを得なかったのだ。そういう面ではシッダールタはリアリストであった。しかし、彼の本当の計画は消極的ラグナロークであり、仏教は人類絶滅計画を密かに推進する宗教である。また、どの宗教も少なからず人類絶滅計画が潜んでいる。それは神の意志だろうが仏陀の教義だろうが、変わらない。人間への失望と異世界への憧れ、これはポストモダン特有の現象ではない。美女は新世界への旅立ちを象徴する。自由の女神などがそうだ。しかしシッダールタにとってその異世界へ航海を塞き止める鎖が美女だった。だから仏陀は特に女性の美を敵視した。
というのは、彼の美女対策とは、対象と感覚器官が結びつく前に対象物を破壊してしまうものである。だから仏教は去勢宗教ではなく、爆殺宗教である。そして最後は自殺するのである。対象である相手を殺害して自決する、つまり自爆テロのような宗教だ。対象物は不浄、苦、無常、無我、そうして知覚するすべてを無化させるのだ。何しろ仏教は六道輪廻から自分の存在を無化させることが最高教義なのだから。まわり全てをおぞましきもの、仏陀である自分より神聖なものがない、自分だけが神聖で汚されないと言う、ある種の処女のプライドのような教義なのである。貞潔は世俗を見下すところから始まるのである。セックスを断ち切ることが涅槃を実現する聖者であるのだから。「Holier Than Thou Complex(汝より神聖だコンプレックス)」である。皆汚ければ聖者も汚いのだからセックスしようが関係ないと思うのだが。しかし、出家は清浄になりたいという欲求の表れであり、汚くないことが清浄であるのだから不浄のない涅槃は清浄ということになる。それに出家者は清浄行(brahma-cariya)に励む人であり、不浄な人間とは格別扱いされていた。清浄行はのちにマハトマ・ガンディーの不婬の行となった。つまり性欲を抑圧する行であり、それを行う人には性欲は不浄であり、セックス自体不浄だと考える潔癖性の人が多い。もともとそういう人はドロドロした人間関係が嫌いで、さっぱりした距離を保つ人間関係を好む。そして行き過ぎた潔癖性は完全にセックスを避けさせるのである。シッダールタの潔癖が美女の乱れた寝姿を見たとき、頂点に達したように。それが清浄行の正体である。これから清浄になる人々、いわば清浄予備軍が出家団体であり、不浄のもの(セックス)とは一線を画したのだ。
だからその団体の長である釈迦が女性を拒んだのは女性に清浄になる資格を与えなかったということになるのだ。そして清浄になれる人間となれない人間を区別した。性障害のあるものは不適格者として入団を拒否された。清浄を目指すものが不浄なものと関われないのは不思議ではないが、女性も清浄になりたいのに、その許可を渋ったというのも、また許可を出してから男子出家者より格下に扱われているとは、仏陀もただの大小便だったといことだ。女性はもともと不適格者と暗示するようなものである。つまり不浄の中でも差別を起こしてしまったのである。
「女のために千年の法が五百年に縮んてしまった。」
そうした仏陀の言説のなかでは、出家者集団では男が主人公であり、女は単なる亜種でしかない。しかし彼がその発言に反省し、全ての女性に謝罪した痕跡も発見されていない。なにしろ修行完成者である仏陀に誤りはないのだから。
しかし大小便に満ちた器と女性を疎んできたシッダールタも、自分の大小便の器に亀裂が入って、最後には破裂して死んでしまった。怒濤のような下痢が彼を襲い、しかしそれでも仏陀としての自負心からあくまでも冷静さを装った。チュンダの料理の中に入っていた毒キノコを食べたことによって、または貪欲な人間を豚と同類に扱ってきたその豚の肉を食べたことによって、今まで女性を便器呼ばわりしてきた業が自分に跳ね返ってきたのである。だからたとえ仏陀であろうとも入滅する直前まではカルマから逃れられなかったのである。そして最後に彼も悟ったのであろう、
「たとえ仏陀になった私でも大小便に満ちた器には変わりなかったようだな。」
と。そして彼は入滅したのである。禅宗の雲門宗の開祖は「仏陀は乾屎木+厥(かんしけつ)だ」と言った。乾屎木+厥とは乾いた大便のことであるが、私は下痢だと思う。その死に様からして下痢、よりグロテスクにするのなら赤痢といったほうがいいであろう。だから彼も不浄だったのである。つまり仏陀はクソまみれになって死んだのである。下痢が下痢まみれの世界で下痢まみれになって死んだのも当然と言えば当然だが。美と愛を否定した男の結末にもっともらしい。潔癖性の人間にはもっとふさわしい入滅の仕方であった。ハワード・ヒューズの最後のように。つまり清浄になるには肉体の消滅しか道がなかったのである。それが苦しみと穢れに満ちた世界からの真の解脱であった。
大小便であった釈迦は出家生活前に女とやり過ぎた。しかも王国中の美女を集めて雨期の離宮のハーレムで乱痴騒ぎに耽っていた。そして乱交パーティーの後で妓女たちが重ね合って寝ているのを目撃して、不潔感が彼を襲ったのだ。それはそうだ。どんな綺麗な女性でも寝ている時は顔がむくむではないか。それに寝ている時は化粧も落としているはずだし、髪もセットしていないのだから。目脂が出て鼻水とよだれを垂らして歯ぎしりをする、だれだってすることだ。釈迦だって寝ているときはそういう状態であったに決まっている。自分の寝顔を見るのは不可能だからな。その時に美女のイメージが崩れたのかもしれない。しかも国の一二を争う美女だったために、そのギャップの大きさに衝撃を受けたのだろう。そこに人間臭さを感じて、失望したのか。その可能性は極めて高い。なぜならシッダールタは睡眠さえも多く取ってはならないと説いているからだ(迅速経926)。そして大般涅槃経でもシッダールタはこう発言している。
また修行者たちよ。未来の世に、修行僧たちが睡眠を喜ばず、睡眠を楽しまず、好んで睡眠に耽らない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、衰亡することは無いであろう。
「中村元訳『ブッダ最後の旅、大パリニッバーナ経』岩波文庫、2004年、20ページ」
彼にとっては睡眠も人間臭いもの以外の何ものでもなかった。それも美女の寝姿からの強迫観念からであろう。
美女は確かにこの世のモノとは思えない世俗を超越した存在だと感じてしまうことは否定しない。実際、私も美女と対面した時は、人間以上だと思ってしまう。そう、イデアを彼女らを通して感じてしまうのである。そんな美女も一緒に食事をすると、あまり食べない。つまり食べることは人間臭いことだから、男の前では少食になるのである。それも人を超越した美しさというイメージを保とうとするためか。男の夢見る美女を演じようとするためか。だが、そんな人間離れした美女がガアガアと鼾をかいて寝ていたら幻滅するだろう。
「ああ、やっぱり、人間なんだなあ。」
と。そういえば、私の知り合いで美女と付き合っていた人がいたが、
「女とは絶対一緒に住んでは行けない。」
と忠告してきた。私は、
「なんでだよ。」
と訊いた。すると彼は、
「なにせ、彼女が人間だということをまざまざと見せつけられるからなあ。本気で愛して、一生のパートナーと認めた女性じゃないと。その覚悟がなきゃ一緒に住まないほうが身のためだぞ。」
と言ったのだ。美女とセックスできるというだけで、あの男に対してひどい嫉妬心を持ったのに、その上に一緒に住んでいるとは。
「そんな羨ましいことがあってたまるか!」
と心の中で絶叫したが、釈迦の女性歴と照らし合わせてみると、あの男の言っていたことも理解できるかもしれない。ハーレムで釈迦は妓女とやりまくっていた。しかし釈迦は妓女が化粧をしているときしか相手をしていなかったと考えられる。ある意味、妓女はエンターテーメントのプロフェッショナルとして釈迦に使えていたのだ。つまり釈迦は仕事が終わって休息についた妓女のプライバシーを侵害して、寝ている姿を覗いたのである。そのとき、彼に衝撃が走ったのであろう。それにしても重なり合って妓女が寝ていたとは、本当に劣悪な環境だったのだ。しかもその美女を雇っている自分に嫌気がさしたのではなく、女性に嫌気がさしたとなっていることに問題がある。
「お前がすべての元凶ではないか!」
と言ってやりたかった。
男鰥に蛆がわき、女寡に花が咲くという諺がある。その言葉は古代オリエントの文明を引き継いでいるように思える。いわゆる男が不浄で女が清浄、つまり美女こそが女神であり、もしくは天神により近い存在であるため、巫女になったり、古代オリエントの神殿で不浄な男の性欲を満たしていた。男が世俗の政治を担当し、女が神事を担当するという古代エジプトや邪馬台国に通じるものがあった。つまり穢土と浄土の橋渡しは女性神官であった。そしてエロスは神に近づくための意志であった。神への意志、それがエロスであった。つまりシッダールタも男社会の中に育ったにしろ、その古代の記憶を引きずっていたのだろう。まさか美女たる存在が世俗の不浄と重なり合うとは夢にも思っていなかったのであろう。潔癖性の人間とってはちょっとのホコリでも一大事である。ある潔癖性の男は美女の鼻からわずかに毛が出ているのに気付いただけでもショックを受けるという。だから美女の寝相の悪さはひどい潔癖性の持ち主のシッダールタを大いに恐れさせた。美女と不浄が結びついてしまったショック、これが強迫観念になって結果的にセックスを捨てる道を選ばせたのだ。だから彼は「禍なるかな」と恐怖におののき、厭離を生じた。清浄で神聖な女神はエロスと豊穣を男性に約束させる存在であった。しかし、そのイメージが木っ端微塵に砕け散った。求めていた美は不浄であったという美への絶望。夢が壊された。それが彼の厭離穢土の原点となったのだ。
ハワード・ヒューズは母の過保護を受けて育った。彼の母はいつもハワードをきれいにし、それが潔癖性を植え付けた。ハワードは母に清潔感を求めていた。そう、女性が彼をおぞましきばい菌から守ってくれる聖母であった。シッダールタも父親の過保護のもとに育ち、不浄である外界と一切接することなく育ってしまった。そこでハワードもシッダールタもナイーヴにな性格となった。まあ、金持ちの子供はパリス・ヒルトンなどのようにナイーヴになるものが多いが、とくにハワードやシッダールタにはその傾向がひどく顕著であった。だからハワードはホテルの一室で隠遁生活を送り、外界から隔離した。そしてシッダールタも穢土からの本当の隔離を求めて出家した。彼が29歳になるまでは彼の取り巻く現実は美しいものであった。だから美女は外界の世界と対極だったのである。シッダールタはハワードが母に期待したものを妓女に期待していたのだろう。マハー・パジャーパティは養母にすぎず、本当の母ではなかったのだから。
今でこそ皇室は開かれているが、明治時代までは天皇は民衆の中に入ることはなかった。それは庶民はおぞましきものであり、穢れとは交わってはいけなかったからだ。身分の上下関係とはそういうものだ。天地無用なのである。接することは同一性を侵してしまうからだ。シッダールタも王族というクシャトリア階級であり、一般庶民とは決して交わらなかった。だが、彼は意を決して四門出遊する。そして外界の世界に飛び込んで行くのである。そこで彼は庶民の悲惨な生活の実態を目の当たりにし、にショックを受けた。彼は相当悲憤慷慨したに違いない。そしてそれに追い討ちをかけるように、王宮で美女の寝姿を見て、「禍なるかな」とショックを受けてしまった。美しい世界しか知らなかったシッダールタ、そして夏の離宮の妓楽に酔いしれ、その官能の世界の中心に美女が舞っていた。しかし彼は美女のプライバシーを侵してまで、美女の寝相を見て、ショックを受けてしまう。そう、交わっては行けない領域に彼は踏み込んだのである。外の臣民の世界、そして妓女のプライバシー、過保護に育った彼なりの感受性で全身全霊をもって、その価値観は破壊された。だから、その耽美世界の根幹をなす美女が不浄とあっては、世の中全てに幻滅してしまうであろう。つまり不浄から隔離されていた王宮も実は不浄だったと気付いたからだ。そしてその美しい世界で最も頼りにしていた美女も不浄とあっては、ひどい潔癖性の彼には到底耐えられるものではなかった。つまり外も内もすべて不浄で、いたる所が穢土であり、輪廻世界すべてが穢土に思えた。だからその発見は彼を壊してしまった。それが人間世界全てを厭離するきっかけとなった。
食欲、性欲、睡魔、渇愛、これら人間を維持させる生存欲は人を輪廻の世界に束縛させる、そして美女はそのすべての生存欲を象徴化した。そして美女に対する失望感から生存欲に打ち勝つジハードと化した。生存欲こそが人間を呪縛する。だからその呪縛を解くために、シッダールタは降魔成道を達成した。
そういう経験をした羨ましい男が今度は我々にセックスを捨てよというのである。性欲を捨てることこそ超人への道だというのだ。そんなこと死んでもできるか。我々プロレタリアートのほとんどは一生かかっても彼の享受した道楽生活に手が届かないであろう。美女など触ることすら骨が折れるというのに。どんなにがんばっても放蕩者にはなれない。パリス・ヒルトンのように快楽に甘んじる生活に浸ることなどアメリカでは人口の1%にも満たないであろう。勝ち組の勝ち組でなければ。勝ち組の頂点にいたシッダールタにそんなことを言われる筋合いはない。彼の不浄観は自責の念からくるものだ。29年間も籠の中の鳥で外の苦しむ民に目を向けなかったという罪悪感から乞食になったのだ。だが、今度は美女もセックスも不浄と言ってくるあり様だ。快楽を嫌というほど経験した勝ち組の人間、そして快楽を嫌というほど経験できない負け組の人間、どちらも中道からほど遠いが、実際に中道を実行できるのは勝ち組だけである。歓楽は勝ち組の特権であり、中道の精神から勝ち組は財産を慈善事業に寄付したりの慈悲を実行できる。そして全財産を捨てて出家するのも可能だ。それなら出家者も感謝される。だが負け組には捨てるものがない。それに出家者が托鉢に来ても食事を与える余裕さえない。そして負け組の生活自体が過酷な苦行のようなものだ。よって99%の人は中道を実感できない、なぜなら釈迦のように歓楽を経験した人間は大衆にはほとんどと言っていいほどいないからだ。よって大衆に釈迦の中道を応用できないのが現実である。だから仏教はクシャトリアや成功した商人の中でしか根付かず、インドで滅んだのである。
よってシッダールタは死をもって「オレこそ不浄だった」と身を以て示した。それによって人間全てが平等に不浄であることを証明した。だからこそシッダールタは男性も女性もなく脱人間化に徹することを説いた。だが、シッダールタの死から2500年経った今では、女性の方がより男性よりも理想化されている。少なくとも男性の毛深さは穢れのように思われている。私のかつての同僚の女性も、
「ええ、あんた脇毛も剃ってないの?不潔〜。」
と言ってきた。その時、私は本当に驚愕した。男が毛を剃るって髭だけかと思っていたのだが、いつからそうなったのだろうか。私が知る限りではデイヴィッド・ボーウイが女装してからというもの、彼がクロスジェンダーとバイセクシャルのプロトタイプとなった。ボーウイ・ジョージもその後を引き継いだ。そして男性アーチストがメイクするのも当たり前となった。かつてアニメでも女性が男装をするという、『ベルサイユの薔薇』が主流であった。つまり男に生まれたかったという願望を持つ女性が多かったが、いまでは『乙女はお姉さまに恋してる』など、男性が女性になろうとする傾向がとても強い。これもフェミニズムの功績と言えるであろう。今や男がすね毛を剃っているのだから。
かつて変成男子説が『法華経』や『阿弥陀経』で説かれていた。しかし、今の時代、変成女子説がまかり通っている。しかし『維摩経』では女神がシャーリプトラを女性に変身させた。だから変成女子説が認められるのは『維摩経』ぐらいであろう。そういう意味で『維摩経』はジェンダーフリーの経典と言えるだろう。
「だから男子は女子にならないかぎり成仏できないのである。」
それがラディカル・フェミニズムの仏教解釈であろう。それは仏教界においてではなく、すべての消費社会の面において言説となっている。ゴスロリは男性のファッションでもある。今では男性がアリスやロリータを目指す時代となったのだ。私がロサ・キネシスの小笠原祥子さまに憧れるように。しかも祥子さまは男嫌いだ。それが時代を象徴している。私もアン・ブートゥン・プチ・スールになりたい!
男性が女性に憧れを持つという、これは本当にポスト・モダンである。というか、ポスト・モダンは911同時多発テロによって終焉したようであるが、それは消費社会の抑圧だけでなく、テロリズムの抑圧も加わったということであろう。しかし、そんな抑圧の中でも変成女子説は助長されていくだろう。亭主関白は崩壊したし、男性は家事を手伝うことが期待される。残るは女性の社会進出が男性のと釣り合いが取れたとき、はたしてどうなるかである。その時、主夫という職業も確立されることであろう。そうなったとき、やみくもなフェミニズムも姿を消すだろうし、真の人間社会が実現されるであろう。そして変成女子説も過去のものとなっているであろう。
民主党が国政選挙で勝利したことは、マスキュリン・ポリティクスが完全に敗退したことを意味する。そして連邦下院議長に米国史上初めて女性が就任することに象徴される。その大役を任されたナンシー・ペロシ民主党議員はシュワルツネッガーが知事を務めるカリフォルニアから選出された。そして世界で最もリベラルなゲイ・キャピタルであるサンフランシスコが彼女の選挙区だ。だから、「女々しい政党」が連邦議会の多数派となった今、女性らしさを求める男性がより自由を謳歌できるようになったということである。変成女子政党が共和党を打ち破った日は歴史的転換となるであろう。
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なぜだ。なぜみんな結婚しているのだろうか。信じられない。私よりも遥かに若い美女が結婚しているのだ。常軌を逸しているとしか思えない。発展途上国の人間の結婚はとにかく早い。そんなに急いでどうするのだろうか。スーパーモデルのような素晴らしい子が二十代前半で結婚してしまっているなんて、この世に神が存在するとはとても思えない。もし神がいるなら世界中の美女は私に恋をするはずだ。そう、マイケル・ジャクソンのように。この日ほど私が無神論に染まったことはない。
長い仕事から帰ってきて、私は「酒だ!酒!」と叫び散らしてビールを飲みまくり、マイケル・ジャクソンとダイアナ・ロスの映画「ザ・ウィッズ」を見ながら酔いつぶれてしまった。
「畜生!みんなオレを馬鹿にしやがってー。いつか見返してやる。」
そう心に誓った。女がいない時は酒と音楽が一番。そうしないととても持たないよ、人生というのは。
「人生は甘き。」
そうマダガスカルのメリナ族も豪語しているではないか。資本主義の奴隷となってもせめて可愛い子ちゃんだけは虐げられる者のはけ口としてプロレタリアートの苦痛を和らげるカタルシス剤となっても良いではないか。人生は男女がふざけ合ってこそ始めて楽しいものとなる。でなきゃ、何の意味があるのか。女性の存在理由が全く分からなくなってしまうではないか。創世記(2章18節)にも書いてあるではないか。
「女性は男がひとりぼっちだといけないから創られた」って。
天の摂理は永遠の美女を授けることで哀れな男を救済すると説いてきた。それはゲーテの文学でも自明の理だ。マイケル・ジャクソンのルーマニア・ツアーにおいても、ピンク色の女天使が天空からマイケルのもとに舞い降りてきて
「畜生!みんなオレを馬鹿にしやがってー。いつか見返してやる。」
そう心に誓った。女がいない時は酒と音楽が一番。そうしないととても持たないよ、人生というのは。
「人生は甘き。」
そうマダガスカルのメリナ族も豪語しているではないか。資本主義の奴隷となってもせめて可愛い子ちゃんだけは虐げられる者のはけ口としてプロレタリアートの苦痛を和らげるカタルシス剤となっても良いではないか。人生は男女がふざけ合ってこそ始めて楽しいものとなる。でなきゃ、何の意味があるのか。女性の存在理由が全く分からなくなってしまうではないか。創世記(2章18節)にも書いてあるではないか。
「女性は男がひとりぼっちだといけないから創られた」って。
天の摂理は永遠の美女を授けることで哀れな男を救済すると説いてきた。それはゲーテの文学でも自明の理だ。マイケル・ジャクソンのルーマニア・ツアーにおいても、ピンク色の女天使が天空からマイケルのもとに舞い降りてきて




